お松 - みる会図書館


検索対象: 長谷川伸全集〈第13巻〉
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1. 長谷川伸全集〈第13巻〉

うのは厭だ、なんていうかと思ったよ」 たことだ、水に流してもらいてえね」 四「おれはあんなことをいつまで根にもつものか」 ありがて 「そいつは有難え。そこで半さん、お前に逢いてえという朝帰りの客の姿が、たいてい大門から出切った刻限に、 出世楼の表二階、派手づくりの座敷に、半五郎は坐ってい 人があるのだ、どうだ逢いなさるかい」 ) 0 、 谷塚の為は送り込んで、どこへ行ったか二度と出てこ 「というのは、だれだね」 めえ なかった。そればかりか不思議なことには、見世の者が一 「女さ、お前の知っている人だよ」 人も半五郎の前へ出てこなかった。ポンポンと手を叩いて 「えーー・じゃあ、もしや」 「たいてい見当はついたろうね。おてるさんさ、あの人はもやはり出てくる者はなかった。 うち っとめ 「あもしもし、そこを通りなさるのはお家の衆じゃねえか この土地で勤をしているのさ、お前さん知ってるかね」 ね」 「どこでなんと名乗っているか、おれは知らねえ」 げんじな しゆっせろうむらさき 廊下を通る男の姿を見かけて、半五郎は声をかけた、男 「出世楼で紫というのが源氏名さ、新妓だが評判でね、 しよく すみ 住の井っていうお職にはおよばねえが、それでもどうしは寝不足な眼をして、半五郎を眺めながら、辞儀と一緒に 敷居際に膝をついた。 て、はやる妓だよ」 あが 「あっしは案内されて登った客だが」 「そうか、出世楼というのはどこの家だ」 めえ 「お客さま、へええ左様でしたか、どなたの」 「家を聞いてお前、逢ってみる気か」 「どなたじゃねえ、ここの家に紫という花魁がいるだろ と、為はちと意外な顔をした。 「逢おう、おれも覚悟はしているのだ、身のためでも不為う、名指しでその女に逢いにきたのさ」 「紫さんですか、はてな。手前どもにそんな花魁はおりま でも、逢わずにいられる仲じゃねえ」 「なるほどそれもそうだろうね、じゃあ案内しよう、だせんでして。へええ。実はあなた様を連れてきた人が、ど うか座敷を見せてもらいたいとおいいなさる、手前どもで が、まさかお座敷通りは利かねえよ、どうでも客にならざ は岩槻さん富士見さんのように、お宝を頂いて座敷をお見 あいけねえのだが」 「旅銀の支度は体へつけてある、客になって逢おうじゃねせすることになっておりませんので、お断り申したとこ ろ、田舎の人だから是非見せてやってくれとおいいなさる えか。それから先は先のことだ」 「トントンと話はついた。おれは事によったらお前が、逢ので、では折角のこと、ご覧になるならどうぞ、その代り しんこ ふため

2. 長谷川伸全集〈第13巻〉

やがて、東の空を金色に染めつけて、夜は最後の薄紙を ぎとった。 お松は、朝の輝きを娘姿に一杯受けて眼を閉じた。 やがて、 「むらさき、行こ、つ」 おう 「応。みんな、出かけようぜ」 笑い興じていた手下の者が、おもいおもいに立ちあがっ た。だれもかれも人に見られて怪まれぬ姿して、それぞれ 古布島屋敷の盗み金を荷の中に持っていた。 くだ お松は手下の者が下って行くのを心づかず、最後の一人 になって峠に立っていた。 「お , つい」 むらさきが、坂の中途の曲り角からお松を呼んだ。 お松はそのとき、朝靄にかくれて見えない山の村に別れ を告げていた。 「太郎さん、お前あたしを忘れちゃいな、あたしもお前を 忘れるつもりさ」 下り路にかかってからお松は、ふいと立ちどまって後を 向いた。 「お前まさか、あたしが本当にお墓の下へ帰ったと思って 死にはすまいねえ。あたしはー泥棒の頭、鬼神のお松、 だもの駄目ーーご機嫌よう」 昭和七年『大衆雑誌』七月号

3. 長谷川伸全集〈第13巻〉

「でござりますが、あの女は、お袋が、お袋の墓場につれ「どうかしたんですか、お前さん」 なっ お松のロのきき方が懐ッこい。 て来て置いてくれたのでござりますから」 「何をぬかす。ではお前と今から一緒に行って、わしが女「あい」 「どうしたんです」 に会って話をしよう」 ひたと向き直られた太郎助は、慌て返ってもじもじし 「え」 「女がわしの処へくるといったとて、お前に苦情はないは 「困ったことになった ずだ」 蚊のなくような細い声を、お松はにツこりして聞いた。 し」 「古布島とかいう家で何かいわれて来たんでしよう。そん 「さ、 ~ 打こ , フ」 な女は追い出してしまえとかなんとか」 「さ、行こうというのに何故腰をあげぬのだ。おや、お「いや、それもそうだが、わしはお前さんに」 「又お前さんだなんて、お前というの」 前、泣き面しているな」 「よい、お前」 太郎助は横を向きもせず、あからさまに手の甲で両眼の 「あい」 涙を拭っていた。 「困った」 「何が困ったんです」 食わずの女 「お袋のところへ今から帰ってはくれまいか」 崖が近いので、明りとりの役にも立つが窓は、枠に風景黙っているお松の顔が可笑しそうに動いて、色がすこし 赤くなった。太郎助はそれに気がっかず、 を入れたように美しく、谿の秋を見せていた。 ひじ そこにお松が、肘をついて、木々に隠れて音ばかりの谿「長者がいうには、嬶にもらったに違いないという」 「ホホ、嬶に違いないでしよ、つ」 の流れに、見るともっかぬ眼をむけていた。 「え」 太郎助は、お松の白い横顔を見た眼を伏せてさっきから 太郎助の顔が早柿のように赤くなった。 黙っていた。

4. 長谷川伸全集〈第13巻〉

手ッ首に手をかけて引ッ張った。 「おやじ、お客さんを一人っれてきた」 「どこへ行くだよお松さん」 薄ッ暗い細長い土間の、かび臭い中に立って、嘉兵は、 又一つ障子を開けた。そこは十二、三畳敷もある広い座敷「市さんのことをよく聞きたいんだ」 ほだび 「元いた宿屋へ行くつもりか、とんでもねえ。あんな処へ だ。囲炉裡で焚いている榾火が照らす座敷の中は、五、六 行ってみろ、お前直ぐに御用繩にかかっちまうぜ」 十年も経った家の黒さを見せていた。 「お、嘉兵どんか。客を世話してくれたのか、それはそれ「どうなったっていいよ」 ありがて 「よかねえ。考えてみな、心中して男だけ死んでお前は助 は有難え」 かなひばし かったんだろう。それがそう判ればいいさ、判らねえうち と六十越した老爺が、鉄火箸をもったまま腰をあげた。 「今夜は客が一人もねえから、どこでも見て好きな部屋をはお前が」 「心中だって、だれが心中なんだい」 とるがし 。馬か牛か、お客さんの連れ衆はどっちだね」 「え、心中じゃねえといい張ってみる気なのか。そりや駄 「おやじ、俺が今時、そんなものを引ッ張って歩くかい あのなーー馬さ、馬も馬も俺がな、今夜から鞍を置いて御目だ」 きりよ、フ めうま 「お前の知ったことか」 そうという縹緻よしの牡馬さ。おやじ、万事のみこめ、い むやみ いだろうな」 「駄目だよ、無暗なところへ行ったら、自分の首へ繩をつ 「そりやお前」 けに行くも同じだぜ。悪いことはいわねえ、俺と今の家へ きな、ね、万事それからだ。第一、市之丞のいる処なん 「何をいってやがんでえ」 か、探したって急に知れるもんか」 牛馬宿のおやじのロはこれで封鎖がついた。 「お松さん、こっちへはいって来な。あれ、何をしてるん「嘉兵さん、お前、すこしや知ってるんだろうねえ、市さ んはあたしが居なくなってから何といっていたい、あたし だなあ」 丞開け放しになっていた入口から、外を覗いた嘉兵は、暗のことをさ」 「こうなるだろうと知っていたといってた。そのこともよ 市い道をとばとばと、宿の灯を慕うように歩いて行くお松の く詳しく話すよ、だから今の家へ」 金うしろ姿を見つけた。 でたらめ 「なんでえ、この阿魔」 「出鱈目をいうない」 と、ロの中でつぶやいて、忽ちにして追いつくと直ぐ、 「何でもいいから来い。心中の仕損じが罪になるのは江戸

5. 長谷川伸全集〈第13巻〉

の、お松の肌の白さであり、お松の腕のなめらかさであ嘉兵じゃないか」 しか 「へえ」 り、お松の蹙める顔の魅力であり、髪のこわれた美しさ、 央く悩む呟きだった。 頭をたれて消え入りたそうな乞食は、五年以前は嫌われ ひといめあだな 「フン、われながらおいらもだらしのない、そんなことをながら、人に知られ、人大と綽名までつけられた男だ。 今考えるなんて、ヘンだ」 「ひどい姿になったなあ」 気を変えて、このまんま、お松は生きているそうだ、た 「へえ、そんなに見ねえでいてやってください、恥かしい だそれだけで沢山、根掘り葉掘りがいるものかと、渡し場んだ」 をさして歩いた 「そのサマで土地にいて、恥かしいがよくいえた。いや、 川の水色は澄んでいた。青い空の下を渡り鳥が列をつく叱言をいうのはもう遅いや、手を出せ、銭をやろう」 って飛んで行く。 「へえ、お有難うございます」 土手にのばって渡し場へ向う、市之丞の旅姿を、見あげ 「そらよーー嘉兵、お前知ってるだろう、お松を」 て起ちあがった乞食が一人、今まで寝転んでいた草の上を「えツ」 跛ひきつつ、逃げるとしか見えない急ぎ方で、ばろを纒っ 「おや、驚いたな、そのびッくりの仕方が少々変だ。手 た背中を向け、気になると見えて二度振り返って又急い前」 「いええー・ー・隠さずに申しちまいます、実は」 だ。急いでも跛の足、追いつく気ではないが市之丞、直ぐ 乞食とすれすれの近さになった。 歯の欠けたロで語るだけに、聞きとり難い節は多いが、 「ああいけねえ、見つかっちゃった」 どうやら間違い尠くわかりはした。 「実はーー・あの直ぐの冬でした、見違えるほど窶れてお松 泣くような乞食の顔に、ばんやり憶えのあった市之丞。 「おやーーーおいらを知ってるのか」 さんが帰ってきて、市之丞さんはどうしたと尋ねまし 丞江戸で喧嘩から人を斬り、逃げ出してまだ間のない市之た」 市丞、乞食に化けて追ってきた奴かと、すこし、眼が光って宿外れの牛馬宿へ連れこんだ、などと嘉兵はいわなかっ 金きた。 た。が、戒行寺に葬られた滝造が、市之丞の好意でお松の くやし 「へえ、面目ねえから見ねえでください」 着物その他を抱かせてやったと聞いて口惜がったことや、 「だれだーーー歯が欠けて人相が変ったらしいが、もしや、市之丞の後を追いたがっていたことはかなりこまかく真実

6. 長谷川伸全集〈第13巻〉

が半さん、どうしてこんな処へきなすったね。まあこっち 半五郎は、困った顔をするより外はなかった。 なり 場所柄の気の荒さで、はじめから好かれない服装かたちへおいでなさい、こんな処じゃ話は出来ねえ、いい処があ りますよ」 の半五郎、まだ都の水に染みていないのが何割かの損で、 こいつは伊草の喜久蔵の子分で谷塚の為、外の者ならと 意地っ張りがはやる廓の女に、見事に弾ねられた間の悪さ を、伊勢野で育った半五郎は、勝手を知らないためでおともかく、この男に見つかったのでは、正体を現わすより外 かん 十な、かっ 4 に 0 なしかった。取りなしてくれる者もないのを、格別剃にも さえず、やがて寝かされて床の中に、夜の明けるまで枕は「そうか、じゃあどこへでも行こうよ」 くだ ただ一つ、下らなく夜は明けた。 「こうこう半さん、変にとっちゃ困るよ、あっしは今はあ 振られて帰るつまらなさでなく、探し当てたが赤の他人の方は足を洗っているのだ、堅気なんだからね」 カ今更、逃げ隠れもされ であった落胆で、朝の気の爽やかな廓を抜けて、十五軒町為が好意を持つはずはない、ま、 並を歩いて行く後から、ばかりばかりと聞き慣れない音が なかった。ここまで逃げてきたが、半五郎の寿命もまずこ した。人殺しで牢破りのお尋ね者、人相書が諸国へ廻ってれまでか、と、ひそかに覚悟を据えた。 いるはずの半五郎は、思わず気込んで振り返ると音の主は 二人連れの紅毛人だった。 わなに落ち込む まあ、よかったと、歩き出す脇手、富士見楼の路地か ら、小走りに出てきた男が、半五郎の顔を覗き込んで頭を さげた。 「ここなら大丈夫だれにも話を聞かれることはねえから、 「こんちは」 半さん安心して腹蔵なくいいなさるがいし」 よしだがわ 「えーーへえ、こんちは」 吉田川に沿った沼地の端で、愛想笑いをしながら谷塚の 郎うさんな奴と見てとって、顔をそむけて行き過ぎる、そ為は手を摺った。 綱の後からついてきたその男。 「おれには何もいうことがねえ。お前の方にや定めしいう 関「半さん、半コさん、あっしだ、あっしだ」 ことがあるだろう」 「えーーおう、お前は」 「いけねえなあ。いっか千住在でおれが、つまらねえご託 「ひどく老けさせたねえ、手際がいいので一杯食うよ、だをついたので、お前は怒っているのだろうが、あれは過ぎ ため

7. 長谷川伸全集〈第13巻〉

に身動きをしている。地に落ちている角平の影は、さなが「俺達がこれほどいっても藤島さんお前さんは黙ってるの おさやく か。そりや俺達は吹けば飛ぶ身軽い者、お前さんは長役の ら躍る鬼とも見えた。 さむらい 平九郎は蒼白い顔を真向に、じっと眼を据えて沈黙して侍、一一本差しのお前さんが俺達より上の身分とは知れ切 ってる。その上の身分の者がなんで未練に命を惜しがるの いみ、ぎよ 「角平。俺にもいわせてくれろ。藤島さん、久内だって男だ。なんで義理のために潔く一命を棄てようとはしねえ 一匹です、義理を弁えておりますよ。だのにあなたはどうのだ」 おもて と角平は言葉も荒く、ひたと面を平九郎に差しつけて罵 顔をのぞき込んで、久内、恰も面罵するようにいい出しった。 が、平九郎は、ぶるツと身を顫わせて、悩ましげに呼吸 「久内、俺にもいわせろ。藤島さん。あなたは殿様が鬼十をしたのみ、一言の返答もしない。 ばりちょうろう 十助は怺えかねて再び詰め寄った。 兵衛に、毎度むごく扱われ、罵詈嘲弄されるのを知ってい いたわ 「命が惜しいのか藤島さん。俺が殿様のように家来を劬り ましょ , つね」 いつくし 慈む人が三千世界に二人とあるものか。俺は知らねえが と、捲し立てる十助を押し退けるようにして三平が、 ひと 「一体全体、こんなことになったのも、だれのためだか藤よく他人がいうぜ、士はおのれを識るもののために死す。 一一合半とお定まりの俺達だって、笹喜三郎様御ンためな 島さん、あなた知ってますかよ」 力平九郎は両眼に涙を湛えら、この命いつでも奉らあ」 と身顫いして詰め寄った : : その涙は月の光をうけ、凄愴に白く輝いている・ー血「この久内だってその覚悟だ」 おのの の気を失った唇を咬み、戦く拳を握りしめ、苦しげに沈黙「おい藤島さん。これほど俺達にいわれても、鬼十兵衛を 討取る気にはなれませんかよ。腕に覚えはちっともねえ している。 主「え、これほどいってもわからねえか。おい藤島さん。こが、男は気象だ。数にゃならずとも三平は、とうから命を 投げ出している。お前さんが十兵衛をやッつけに行くとな 三の角平はお前さんに命を捨てろといってるのだ」 つなんどき 笹 いやといえば掴みかかる、荒々しい気勢を示して詰め寄れば、何日何時でもお供します、もとより命はねえと覚悟 る角平を、平九郎はじろりと眺め、微かにロ許をびり 0 との上だよ」 四人四つの口から、鉄壁砕きの激しい勧告も、何故か平 させた。 こ 0 わきま あたか たてまっ

8. 長谷川伸全集〈第13巻〉

がわからねえ奴はありませんよ。したが、姐御も損な生れたのさねえ」 つきだ」 幽霊だと思い込んでれば、、かな男にしろ、変 「そ、つかしら」 な気は起さねえから、姐御のことだ、からかったんでしょ 「いつもいうことだが、姐御は一生涯、これという男にめうね」 ぐりあわずに終るだろう」 「あんまりうぶな男たから、おいらは始終を幽霊の女で押 「そんなこともねえさ、ホホホ」 通しちゃったよ」 ていさい 「もっとも、気に入った男が見つかるようだったら姐御の お松のような女でも、こんなときには体裁をつくる気に 一代記がおしまいになるときでさ」 なると見える。 「ホホホ」 「幽霊にこんな人があってたまるものか。姐御、正直者も 「姐御、そんなにお構いなしに笑っちゃいけますまい」 ししが、すこしそれじゃ頼りねえね」 「構うもんか。この村の人は、おいらを墓の下からきた女「ほ . んとだねえ」 だと思い込んでいるのだからねえ」 グスレを笑いたいのをお松は我慢した。 「いくらなんでも、昼間見たらわかりそうなものだ」 「どうです , つういい頃じゃねえんですか」 「ところが昼間はおいらが外へ出ないのさ」 むらさきの一一 = 号をお松は、杉木立の外へ出て星空を仰ぎ 「窺きにぐらいはくるでしようが」 みた、山の村の夜の第は渡り鳥が見えそうに綺麗だった。 そう 「くる人もくる人も、あたまから左様だときめてかかって「行こうか」 窺くのだもの、何をしてたって、まともの女とは思わない 「応」 らしいよ」 むらさき丹次郎を先頭に、′松を真ん中に挾んで手下一 うたぐ 「それにしても太郎助とかいう男は、疑りもしないのかな同、無言で向う先は古布島長土レ屋敷だった。 妻あ」 その長者屋敷では太郎助が亠られていた。 霊「あのとおりの人だもの、疑うなんて気はないのさ。丁「われが何といってもいかぬ。の女を逃がしたに違いな 幽度、あの男に出会ったところが、死んだ母親のお墓の傍だい。わしの処へ寄越すのが 、に、どこそへ逃がしたの し、おいらも、お墓の下の母親に頼まれてお前さんの様子だ」 でたらめ を見にきたんだと、出鱈目をいったのが、ひどいこと利い 「急に消えてなくなったの、、わしは知りません、おお のぞ わき

9. 長谷川伸全集〈第13巻〉

290 「あい、本名はたけといいます、源氏名はきさらぎ」 「そうか違ったか。なるほどそういえば、声に違ったとこ おいらん 嘲笑う遊女の顔 ろがある、こいつあとんだ慌て者だった。ー、 カ花魁、野暮 をいって気の毒だがおれの尋ねるおてるという女が、お前 にそのまま瓜二つなんだ。他人の空似といってもこれほど 「おてるさん、変った姿におなりだね」 みようだいべや 伊勢楼の名代部屋で、客になった半五郎は、故郷伊勢野似通ったのはありやしねえ」 村にいたときとは、打って変った美しさ、これが同じ女の考えてみればこの女が、当のおてるでないことは、自分 しあわせ のために幸福だったかもしれなかった。もしおてるだった おてるかと自分の眼を疑いながら、ときめく胸を抑えてい っ学 ) 0 ら、おやじの清左衛門を手にかけた半五郎を、そのままそ っとしておきはしないかもしれない、命を賭けてもと堅い 「ホホホホ地から知ってでもいるように、このお客さんは 約東はしたものの、それは無事だった元のことだ、今は親 口上手なホホホホ」 「えーーーそれじゃお前はおれを知らねえとでもいうのかの敵であってみれば、子として黙っていないかもしれな さきがけ かたき い、が、親の敵は敵、恋仲は恋仲、生涯の花の魁、若い え、そ、そんなことはあるめえ、おれは武州埼玉の伊勢野 おまっ 男松の魂を捧げてやった女の外に、半五郎の想い出す女は 村の半五郎だよ」 なかった。今眼の前の美しい遊女は、おてるだといえば、 「ここも武州でござんすぞホホホホ」 「なるほど、元と違って歯が抜けて、頬の肉がげつそり落それで合点の出来る顔立ちだが、捧げた身も心もの受取り ちたから、年の割には老けて見える、それでお前は知らね主の女でないのが淋しかった。 えというのだろう」 杯を下に置いて考え沈んだ半五郎を、じっと見ていたき うちかけ さらぎは、皮肉な笑いを口許に浮べ、すいと起って裲襠の 「それあ座興でなく、真実でござんすかい」 「なんの、座興でいうものか、お前に逢って詫をしたいこ裾をさっと捌いた。 ともあり、それでわざわざやって来たのだ、だのに知らね夢からさめた心地の半五郎が、慌てて見あげる眼を、き さらぎの冷たい嘲りの眼がじっと見た。 え振りはひどかろう」 「よそさんで遊んだがようござんす」 「それならばお気の毒、お人が違ってでござんしよう」 静かに行ってしまった後の白けた座敷に、つぎほのない 「なに、人が違う、お前おてるさんじゃねえのか」

10. 長谷川伸全集〈第13巻〉

「木下の何とかいう男との喧嘩といったな、おいらの耳へと手前がいったろう」 入った話はそうじゃない、女に寝てるところを枕でヒッ叩 かれた」 「脅してかかる滝造と、取ッ組み合っているうちに、滝造 「違います。そりや大違い」 はわれと我が刃物で傷を負い、お松は川へノメずり込んだ 「そうか。足が一本短くなった。それも木下の男との喧嘩 それはおいらも知っているんだ」 のためといったな。俺の耳が聞いた話では、それも女が出「俺がお松に手を出したなんてそりや嘘だ、本当にしてく 刃庖丁を叩きつけ、筋を断ったのでびつこになったと れちゃ困ります」 おい、布施でも取手でも木下でもみんなそういってるそ」 「歯を欠いたのはお松だもの、跛にしたのもお松だもの。 てめえ 「違ってらあ、そんなことをいう奴は、何も知らねえ市之お松は無理を利かせた手前に礼をしたんだもの、枕と、出 丞さんを焚きつけて、俺を困らせようとする所業だよ」 刃庖丁でな」 てめえ 「手前、お松を口説いたな」 「いけねえなあ。だれがそんな馬鹿なことを吹ッ込んだか 「えーーー違う、違う、飛んでもねえ」 知らねえけれど、困るなあ」 てめえ しゆくばじよろう 「じや手前は、お松の体に触らねえか」 「お松の元は宿場女郎、堅気で通してきた女じゃねえか しいじゃねえか 「そ、そりや何だけど、話が違う。それには話の筋道があら、一人やそこら男の数が殖えたとて、 てめえ るのでさ、それは」 と、手前いったとな」 てめえ 「お松に手前そういったそうだ。どうせ滝造のいうことを「な、なにをいうだあ、そ、そりゃあまり」 きいた体じゃねえかと」 「宿外れの牛馬宿、あすこのおやじがおいらに話したんだ 「それはいった。お松が話したんだ。滝という奴は、お松ぜ」 に惚れていて、市之丞さんが居なくなればお松はいうこと しばたた 丞を肯くものと思ってたんだそうだ。だが、市之丞さんを殺 ハチパチと眼を瞬いて嘉兵は、土手下へ丸くなって逃 市したあとで、お松がいうことを肯かねえとなんにもならねげ出しかけた。その上から市之丞が、斜めに躍り込んで、 おど 金えと思って、滝の奴がお松を脅かして連れ出したんだ。そ一刀に斬った。 「むあ」 れで」 「一晩中かかったからには、い うことを肯いたに相違ねえ のけ反ってゴロゴロと畑へ嘉兵は落ちた。市之丞も抜刀 きおろし しわざ めきみ