314 旧領地で奉公したのである。槍一筋、馬一頭、具足一領、 それだけもって足掛け五年目で帰った文左衛門の心に、若 「酒井の太郎殿」といえば、間抜けとか愚鈍とかいうほど狭小浜の山川草木のどの一つからも、深く感慨を投げかけ の意味に通用した時代がある、その太郎殿が後の酒井讃岐てこぬはなかった。 守忠勝である、酒井を名乗る徳川時代の政治家の中でも、 文左衛門が京極家を浪人した理由は「小糠三合もったら ろうきようし げばしようぐん うたのかみたたきょ ぞくげん 下馬将軍といわれた酒井雅楽頭忠清は、「威権を弄し驕肆婿に行くな」という俗諺が語る、京極家の悲劇から起っ はんかんふ を事となす」と『藩翰譜』にすら註がある人物だが、同じ た、文左衛門の武士には半点の疵ともならない事柄であ まんじ ~ 、・つい・ル る。 酒井でも讃岐守忠勝、万治三年入道してからは空印といし けんこうざん ぎようけいろく 若狭には建康山空印寺が残っている , 、ーー『仰景録』に近江源氏の佐々木の末である京極右少将忠高は、徳川秀 よ ただ きたかた はこの人の行状が書いてあるそうであるが、それに拠るま忠の四の姫が北の方だ、天下の婿たるは果報に似て実は不 でもなく忠勝が優秀なる人物であったことは、いろいろの幸だった、四の姫は容色の悪い女性で、しかも美男の京極 いえみつ いずのかみ 事績によって知られる、家光将軍はこの忠勝と松平伊豆守忠高が、夫としての選定をこうむったのだから、忠高が大 のぶつな 信綱とを「天下を支配する将軍の左右の手じゃ」といった人物でない限り、とても恵まれた夫婦であるはずはなかっ せんだんふたば かんば ことは有名だ、栴檀は嫩葉より芳しくなかった、「酒井のた、九万二千石だったのが、転封されて二十四万石、それ 太郎殿」、痛快な伝記の持主であるだけに、さぞかしその にまた石見の国の一部で二万石をもらった、物質的には恩 頃の有識者中にも、太郎殿を見そこなった連中がかなりあ恵が深いが、世継の子がなかった、気にはいらぬが是非な あま、、、 ったろう、それはいつの世にもあることだ、当代といえどくなくの天くだりの北の方、それでは世継の子の出生する もご多分に漏れぬ。 機会がなかったかもしれない、で、寛永十四年には京極忠 くさのぶんざえもん うしようしようただたか 草野文左衛門の旧主は、京極右少将忠高であった、若狭高が死んでその後は、子なきは廃すで京極家は絶えた、そ ずも ようぶのしようゆうただかず はりま の小浜で九万二千石の領主、隠岐の国をつけて雲で二十こで忠高の甥の京極刑部少輔高和が、召出されて播磨の てんばう たつの 四万石の、栄華の転封をしたのが寛永十一年のことであ国童野で五万石を賜わった、その実この刑部少輔高和は、 ー′も、つ寺、 めかけ る。京極が出雲へ移った後の若狭の小浜へは、下総から酒忠高が妾に生ませた子であったが、家光将軍への気兼と本 井讃岐守忠勝が入部した、というわけであるから、若狭を妻への気兼から、実子であるのにかかわらず、婿根性で弟 とのものかみたかまさ 十一年に出て、中三年たって十五年に文左衛門は、旧主のの京極主殿頭高政の子にしておいたのが、京極家当主の死 むこ いわみ たま ・一めか きがね ひで
遺子という声よりは秀之進という言葉ばかりがぐわん んだとばかり田 5 っていたが生きていたのか」 うな と巾・つこ。 と響い うら 「昔の恋の怨みを今も忘れぬ伝五左の手並のほどは、一度 「そういう己れは誰だ」 「見忘れたか、それも道理じゃ、田原を脱藩して十八年の食って知っていよう」 さかて 長い月日を過ぎた、見る影もなくなったが、作手伝五左衛体中に波をうたせて、匕首逆手にした伝五左衛門は、ジ リジリと秀心に肉薄をはかり始めた、秀、いは得物を突き出 して何よりも敵を防ぐに急がしい、心許ない腕らしい 「ええ」 「貴公と俺とは前世からの因果同士と見えるわい、田原で遙かに遠い下柏尾の平野にばつりと一つ火が見えた。 あご 貴公を斬って以来、俺は脱走人故、故郷の様子はよくも知歯を剥き出し腮を引きつけて、乗ずべき機会を狙ってい らぬが聞けば貴公もりのも死んだそうだが、今、面のあたる伝五左衛門の眼は、占めている地形の関係で今の一つ火 りで逢ってみればそれは誤りとは知れた、秀之進、十八年を認めた、村から村へ行く農家の人が道を照らす提灯のほ かげとは伝五左衛門思わない。手にかけたりのめ、亡霊と たっても俺の心は昔どおりだ、ここで逢うのも伝五左衛門 なってあらわれたな、よしツ、死人が勝っか、生きた人間 にとっては昔と同じだ、俺の若い時の恋の怨みは息あるう なまくらあいくち ちは決してつきぬわ、さあ俺は鈍刃の匕首じゃ、貴公はそが勝っか、見ろ見ていろ、見ていやがれッと、奥歯をガリ の得物だ、来いツ、かかってこい、今度こそは堅くこの世ッと咬み合せながら呻った。秀之進を殺害する際のあの気 いとま もちだ。りのを刺した際の気もちがこれだ。 から暇をとらせるぞ」 たわごと 「勝ったぞ、俺は勝てるそ」 囈語のように熊五郎はロ早にいい立てた。 おしかぶ 「己れが伝五左か、よいところで逢うた、ここで逢わねば秀、いは脳天から圧被さる濁った声とばかりそれを聞い びんごふくやま 江戸へ参って引返し、備後福山へ行くところであった。福た。 衛山で敵は他人と知れて落胆せずにすむも天道の引合せじ何時の間にか二人の地位は変った、秀心は斜に蒼い顔を しゅうしん 五や、伝五左、私は秀之進の遺子秀心、俗名松永秀太郎じ秋の夜に照らされた。 「南無、神仏、加護をたれ給え、父母の仇、討たせ給え」 手や」 ふる 作 がたがたと顫えつつ敵に対立している、その脇手には真 「おおやつばり松永秀之進であったな」 つまず 逆上した伝五左衛門の耳には、はっきり言葉は入らな後にただよっていた例の一つ火が、風にとられたかいた ななめ
た、やつばりわしは顛倒しているのだ」 「ああ逢いてい おふくろに逢って、ひと言別れが告げ と、弱い気が頭を出しかけると、直ぐ押し冠せて強い気 が出てきた。 身を揉む竈の中、煤が雨と落ちてかかった。 「なにをビクつくことがあるものか、多寡がどう間違って「こうしてここでいつまで泣っ面をしていても厳しい囲み も、この命一つでがつくのじゃないか」 ではどうにもならない。なによりもこの囲みを解かなくち と、考え直すと気が幾分落着いた。 ゃならないが」 外では、歯切れのいい口調で、捲し立てている男の声が 考えがそこまでくると、ひょいと浮んだ計画があった。 する。 「ううむ。それをやればきっとこの囲みが解けるだろう、 「こら隠すな、いっちまわねえか。せい、よく聞けよ、お囲みが解ければおふくろに、顔だけぐらいは見せられるだ かくま てだて 上じや目星がついてるのだ。母親の情で隠匿ったのはお咎ろう。だがーーーやつばりそれより外に手段はない」 めにならねえ、だからいっちまえ、申しあげろ、申しあげ と決心したのは、あすといわず、たった今竈の口から這 ろってのだ。さもねえと、せい、お前まで同罪を免がれね い出して、もう一度人殺しをしてそこら中を沸き返らせ えぞ」 て、そのどさくさ紛れに、生き別れ死に別れを兼ねた別れ 「わしは全く知りません、半コの奴を隠すような未練な真を母親に告げようというのであった。 あんばい 似はしません」 「いい按排にこの竈場の方は固めていない、喜久蔵を殺し とが 「後で隠匿ったのがわかると、厳しいお咎めがあるのだ た脇差も持ち合せているから、これから直ぐに出かけて行 が、それあ知っているだろうのう」 という声が段々遠くなって行った。 殺す相手を選んだのは岡ッ引清左衛門だった、近ごろ伊 「おふくろ、済まない」 草と仲好しとなり、伊勢野一家とは不和というではない 郎竈の中で半五郎は合掌した。 が、どっちかといえば伊草びいき。事の次手に叩っ斬る指 綱「おふくろの声を聞いたので余計逢いたくなった。命をと折り箇条の一つにはなるが、本当の箇条はそれではない、 関られてもいいから、おふくろだけにはひと目逢いてい」 囲みを解かせて母に逢うただそれだけの望みから、ばらす こんじよう 欲も得もなくなった、情の母に今生で、ひと目逢って別 にも及ばない清左衛門を、手にかける気になった、と数え れを告げたい。 てみる肚の中では、それのみが人殺しをする決心の全部で なさけ かぶ
蔵一家のこと、きのう泣いて別れて行ったおてるのこと、暴な態度に怯えて、外雪隠へ行くのを恐れて泣いて仕方が ぞうきん 岡ッ引の清左衛門のこと、江刄新田の主人のこと、取り代ない、で、板敷の上に雑巾をおき、その上へ用を足させた え入れ代り、一つも纒まった考えというてはなく、次からという、その晩の物情はこの挿話だけで多くをいわないで も推察は出米る。 次へと影絵の如く、思い出しては消え去って行った。 そんな中で瓦焼の竈の中につくばっている半五郎は、逃 その中にふと死んだ祖父の伊之平のことを思い出した、 やしゅうじようしゅう 伊之平は仔細あって贋金をつかい、事あらわれて故郷を飛げて行く先を考えなくてはならなかった、野州か上州か - 一うしゅう び出し、宇都宮に長らく潜伏していたが、やはり身の危う甲州か、おやじの交際している親分衆の名と土地とを数え あんま てみたが、近国では不安心が先に立ち、たよって行く気に さに耐えられなくなり、上方へ高飛びするとて、按摩に化 はなれなかった。 けて宇都宮を出た、早くも感づいた捕方が、宇都宮から品 そこひ 川まで、注意に注意して根気よく尾行したが、白内障の真「横浜というところへ行ってみよう」 おてるに聞いた新出来の盛り場横浜が、どんな土地だか 似を巧に仕通したので、とうとうその役人は品川で見切り 知らないが、新出来の盛り場なら、諸国から雑多な人間が をつけて引返したという。 「おれもその真似をして逃げてみようか」 流れ込んでいるだろう、そうであったら人殺し兇状の体を くつきよう 隠す場所には究竟かもしれない、という風に考えるより が、半五郎にはそんな自信がなかった。 も、恋しいおてるが売られて行く横浜の名に、半五郎実は 母は外雪隠へ行くふりをして、竈の口から紙包を投げ込あこがれたのである。 「喜久蔵をばらしたからには、いっこの土地へ帰ってこら んだ、半五郎はそれが金であることを手触りで直ぐ覚っ こうなってみるとおてるが、 れるか知れたものではない、 横浜とやらへ売られて行くのは不幸が却って幸いで、また 逢えるかもしれないなあ」 清左に真剣白刃 一途にきめた横浜へ、さてどうして無事に逃げのびたも おびや のか、と、竈の外の騒がしさに引っきりなしに脅かされな 七つになる妹おたつは、白鉢巻白襷の捕方の笑うことをがら、繰り返してみる思案は縺れがちだった。 うめぼれ 忘れたような顔と、土足でどかどか家の中を通り抜ける乱「人を殺しても気が潁倒しないと思ったがそれは自惚だっ たくみ そとせっちん さと
夜のなやみじゃ、幸いにきようは逢った、亡弥左衛門殿の父の伊勢守正吉も駿河在番中に家臣に害された。が、それ 手引き、いたわしいそちの兄の弥左衛門が、冥土から導いは今ここで語っている明暦元年の翌年七月のことである。 へいきち てくれたのであろう、ともあれひとまず参れ、かの人はの木の葉が地に落ちはじめた十月、新参の小者兵吉が急に しあわ 駆落したのを源左衛門はちょっと怒っていた、兵吉は器用 う、江戸にいる、仕合せにも無事でじゃ」 イ、かやき な男で月代をうまく剃った、で、新参ながら近づけて二度 五 ほど月代を剃らせたが、その二度目のとき兵吉は、武士は なげう めいれき 腰の物に大金を抛っというがこなた様のも大金のかかった 承応四年、四月からは明暦元年と称えた。 するがごばん いなばいせのかみまさよし 稲葉伊勢守正吉は、駿河御番を勤めていたので、江戸邸物でしようといった、源左衛門は笑った。 やしき には余り人がいなかった、その人尠い邸にいる武蔵源左衛「いやわしのは金ずくではない、皮肉は勿論骨までもすば ふかの りと斬った覚えの物じゃ、今は昔となったが島原御陣のと 門、今は深野という絶家を興して深野源左衛門といってい た、五十一歳、百石どり、家中では老巧者に勘定される源き、仔細あって人を斬った、されば黄金何枚積んでも代え いちもっ 左衛門は、十八年前、島原御陣中に、一旦の意地から、仲られぬ逸物よ」 こういうと兵吉はひどく感服した顔をしていたが、それ 好しだった柘植弥左衛門を討ち果したことを忘れてはいな かった、が、それは人を斬った経験として忘れなかったのから二日目に駆落した。 であった、源左衛門は朋友ではあるが討ちとるだけの理窟奉公の小者が駆落することは、格別珍しいことでもない が、許されぬことではあった、無断逃げ去りは見つけ次第 があって討ちとったのに、隠している必要がすこしもなか った、主君の伊勢守正吉にも老臣の面々へも、語れといわ糺命するのが慣い、路で出合って斬り棄てた話もあり、逃 ためし れればいつでも勝負の起りから終りまで口外していた、そげ込んだ先の邸へむつかしく掛け合いを開いた例もある、 うしていても十八年間にただの一度も狙われたこともな源左衛門も兵吉を見つけたら、先方の態度一つで斬ってや るつもりでいた。が、ふと、思いがけずも兵吉の顔が、た し、狙われているという意識をもったこともなかった。 たんごのかみまさかっ かすがのつばね れやらに似ていることに気づいた。 主君の伊勢守正吉は春日局の子稲葉丹後守正勝の腹違い の弟で今は五千石、この伊勢守の子がずっと後の貞享元年「あーー柘植弥左衛門じゃ」 ほったちくぜんのかみまさとし 八月、殿中で堀田筑前守正俊を刺した当時の若年寄稲葉今まで気がっかなか 0 たのは、我ながら愚か千万だ 0 みのかみまさやす た、どこと取りたてて似ているのではないが、似通ってい 見守正保である、子の石見守はそんな事件で落命したが、
部屋はルームと神風楼の皆が呼んでいた、そのルームは ◇ 万事が洋風につくられていました、浮世絵の額が掲げられ ししゅうびようぶ はな子のメレーは夏だけに稍、紅の色の尠い代りに緑青ているのも、輸出向の刺繍屏風があるのも、手拭染を応用 かなきん 色が細くはいっている着物を着て、浅黄縮緬の帯を胸のとした金巾のカーテンも、わざとつるしてある岐阜提灯も、 ころからさげています、髪は前髪を剪って縮らせ、髪は黒遠来の外国人には異国情調が豊かだと喜ばれたのだそう 玉つきの網をかけてあります、西洋白粉を濃くつけ、頬をです。 あいの 肉色以上に染めた化粧ぶりは、今頃漸く首都の女が真似て「ねえ、あなたはもしや日本人じゃない、でなければ混血 いるあの化粧なのです、眼の下へ絵の具をさすことも、愛児 ? 」 さっき 嬌ばくろを頬に貼ることも、はな子ばかりではなくそこの先刻までは窓に倚って、捕縛された深間の外国人のこと おも ムスメは皆やっていました。一体に今はやっている洋風がを偲って、泣いていたメレーのはな子が、あでやかに笑顔 らしやめん 日本化した風俗、あれはずっと昔、すでに洋妾や神風楼なを向けて聞いたのです。 どの商女が、やりはじめたものと大同小異です。 清吉は急に英語の返事が出なかった、その代り日本語が はな子は白粉で美しい胸のところに、ちらっと飾りのっするりと口を辷り出しました。 いたシミをのぞかせていました。 シミとは清冴衣のこ 「日本人なんですーーけれど姉さん、日本人じゃいけませ とパアパアともいうあれですーーーなにしろそのときは夏んかしら」 で、日は強し、青海の波の一つ一つに光が映えて、沖の帆「姉さん ? 」 がくつきりと白く見える頃です。清吉も汗をにじませてい くるりと嬉しそうにはな子は眼を動かしました。 たが、はな子も首筋に汗の玉を浮かせていました。 「やつばりそうだったのね、日本人ね、どうも異人臭いと ボーイももうくる用はない、はな子は客と二人ぎりにな ころもあるけれど、争えないわねえ。永くあちらへ行って いたの、え、メリケン、それとも欧羅巴」 女ったので帯を解いた、着物をするりと脱ぐとほっと息をし のました、白い絹で仕立てさせたシミが涼しそうに、窓から「騙されて上海でおろされたんです、あそこに三年いまし うご 吹き入る潮風におくれ毛とともに揺いています。 た、それだけです」 異 清吉は魂を失ったように、女を飽くことなげに見つめて「それにしても随分ョウロッピアンだわ。どうして日本な いました。 んぞへ帰ってきたの」 やや
「鹿太郎殿でもよい、どうぞわしを殺して行ってくだされ ぬか」 影沼のほとり、白い地上にただ一つ、黒く見ゆるものは 「いやいや、わしはこのまま出て行く」 鹿太郎である。風八町と呼ばるるここは、折柄の粉雪を掩 「罪をつくった治助を、死なしてくだされ。わしは生きて 、た。鹿太郎はその雪の中に、愁然として佇んでいる。死 みのも いて、あの人の姿を眼に浮べるのが辛いのでござる」 んだような沼の水面に、雪は夢かと思うばかり、次から次 「鹿太郎もこなたと同じことじゃ。わしの眼にも覚女の俤へと皆消え入った。 が浮んでならぬ。覚女があの世へ行ったとは、真のことと 「心あらば、われには見せよ、ありし日の、へだてありと ずく 思い難い。何処にかあの人は、帰ってこぬ内記を、待ち焦も、影沼の水」 れているように思えてならぬ」 鹿太郎は沼を覗いた。眼に入るものは消え入る雪がある 「わしの眼に浮ぶあの人の姿は、泣きくずれている姿じのみだ。 しあわせ や、鹿太郎殿はわしよりまだまだ幸福じゃ。あの人の笑う「亡き人の、ここにくるまの、なしとても、廻りぞ逢わ た顔も眼に浮ぶでござろう。わしにはそれがない、わしにん、一つ蓮に」 あるのは嘆く姿じゃ。泣き叫ぶ姿じゃ、内記様と悲しげに わしは浜尾内記でない、内記でもないものを、覚殿 呼ぶ声が耳についている、糸のように長くいつまでもいつま、、 。カくまで恋しと思うてくだされた が、覚女が慕う までも咽んで泣く声ばかりが耳に残っている」 たのは内記で、鹿太郎ではない。その鹿太郎は、しかし、 「治助、こなたはこなたの思うとおりにするがよい。わし内記であった月日もあった。 は別れる、もう廻り逢うときもあるまい。覚女をふびんと 「わしには深い霧に閉じられたようなときがあった。何事 おばろげ 思うたら、念仏を唱えてやってくれ、わしも、何処かの空もわからず頭の痛みを朧気に知っているのみで、幾日たっ の下で供養を時々に怠らぬつもりじゃ。 : 、 カそれもいつまたかを知らずにいた。その間にも覚女が、わしに寄せてく でのことか」 れた濃やかな情はさすがにこの胸に通うていた。 「こなた様も死ぬのではござらぬか」 夜、ひそかに雅楽頭の家の前に、茫然と立っていた記憶 「それはわからぬーー治助、そなたよりもわしの方が、覚が、今の鹿太郎にもあった。 殿には罪が深かったのじゃ さらば別れじゃ」 「今思えば、過ぎたあの夜の天狗送りは、保土原左近の郎 戸をはたと閉じて鹿太郎の姿は消えた。 党どもが、陣呆者をたばかった小策であった。わしはあの かよ
しようおう げなところがあった。 た。翌年は承応元年、その十一月、江戸へはいって久しく つくばおろし 敵武蔵源左衛門を探していた兄弟は、もはや少年ではなか そのときはそれきりになったが筑波颪が寒く吹きまくる った。兄弥左衛門は二十九歳、弟兵左衛門は二十五歳、年頃、故主の江戸屋敷へ勤番出府の者が、岸和田からの手紙 数は足かけ十四年たって、故主の岡部美濃守宣勝は摂州高を持ってきた、兄弟の居所がわからぬため、三月余りその せんしゅうきしわだ 槻五万石から、泉州岸和田六万石に移って既に十三年になままとなっていたのを、弟の兵左衛門が行き逢い、書状は る、助勢のために十四年前、高槻を発足した年上の従兄弟漸く兄弥左衛門の手にはいった。 の一人は病歿し、一人は道中不具の災いを身にうけ、療養「おお、叔父上からの書状だ、いや違うそ、筆蹟がちと違 のために帰国してその後死亡した。 っているらしいのう」 「兄上、岸和田と申す処は、どのような処でしよう」 兄の弥左衛門は、封を切らぬうちから、懐かしそうに宛 ろうたく 江戸に敵はいると信じ、足溜りに借りた谷中の狭い陋宅書きを見ていたが、眉に皺を寄せて封を切った、十四年の に、雨の宵を侘しく兄弟は語り合っていた。 昔、発足当時の兄は十六歳故、叔父の筆法を覚えてもいる 弟の兵左衛門は、はっきりと和泉の海近い土地を知らな だろう、が、十二歳だった弟の兵左衛門は、能筆のどこが かった、故主の領地で親類縁者のいる土地故、そこは故郷どう叔父と違っているかを知らなかった、筆蹟どころか弟 おもかげ といってよいような気がするが、一夜の枕もしたことのな は、叔父も伯父も、親類縁者の俤という俤は、霧に閉じ い泉州岸和田、未見の土地であればこそ却って懐かしみもられ、霞に隔てられている気がするのだ。 別様に湧き起っていた。 兄は封を押し切って書状を読んでいるうちに、顔の色を 「わしも知らぬ、どのような処であろうやら」 みるみる悪くした。 兄の顔には悲しげな色があった。 「なんとなされた兄上」 「兄上、顔の色が悪い、どうぞなされたか」 弥左衛門は顔をそむけて、手紙を弟に渡した、兵左衛門 「いや何、別にどうもない」 は手紙を受取りながら、ちらと見た兄の頬に光るものがあ 「どうもないと申されるが、この間うちからなんとなく勝ったのを識った、涙、おお兄は泣いているのだな。 れぬ態、病気ではありませぬか」 書状には二つの不吉が報知されていた、一つは叔父の死 「いやなに、なにこれしきに」 去、また一つは叔父の娘で、この手紙の筆者の妹にあたる と弥左衛門はいっているが、この頃、起居歩行にも苦し婦人が、二十歳で病死したというのである、兄はそれで泣 すぐ
なく持って行って、次の布へ手をかける。 封じの喧嘩状だ、それ斬り込みだ、高飛びだと、明けても 暮れても、殺伐な家の中に愛想をつかした半五郎は、きょ「半五郎さん、あっしはまたまいりましたぜ、伊勢野から うもこうやって川底が透いて見える流れに両脛をいれ、晒わざわざここまで、お前はんの不機嫌を承知で、重ねてや ってきたというものは、音五郎親分の安否にかかったこと し仕事に手を動かしていると楽しかった。 八方に飛び散る余沫の水玉が、一つ一つに日をうけて珠でご座んすからねえ、子分のあっしが黙って見ちゃいられ と光って美しい、それに見惚れる風流心はないが、まだ浅ませんや」 どて 「またおやじのことをいいにきたのだろうが、なあ作さ いといっても春は春、低い堤に芽生えの草がほの見えた ん、わしは堅気な晒屋の見習職人なんですよ。切っても切 り、柳に桃に、枝の蕾はふつくりと丸みが加わったのを、 さすが見落してはいなかった。 れない親子の縁は深いには違いないが、親分とか貸元とか かいもく ほたるむし いわれる、ばくち打ちのことは皆目わしにはわかりませ 「可愛い男は極楽とんば、わたしゃ焦れる螢虫ホイホイ、 こおろせみくつわむし ばった蟋蟀蝉轡虫がちゃがちゃいうのは、部屋の常ホイホん、どういうことを聞かせてもらったところで、年季奉公 中のわしじや仕方がありません」 聞き覚えのはやり唄を、他愛なく鼻の先でうたいなが「渡世人になれと、あっしは勧めにきたのじやご座んせ しいにきたのは、お前はんのおとっさん、伊 ら、たった一人で晒しを励む半五郎の頭の上を、き、きとん、あっしの、 小禽が啼いて飛んで行った。やがて晒しを終えて水絞り勢野の音五郎親分の男がすたるからでご座んすぜ」 を、ざっとかける布からは、元の流れへ還る水が、短い滝「さあ、男がすたるといったところで、わしにはその、男 がすたるということがわからない どうせまた繩張りの をつくって、ざ、ざと波紋をひろげ伸び打って行く。 ことだろう、繩張り繩張りと大仰にいうが、田畑と違って 半五郎はふと気がついた、絞り水が描く波紋に砕けて、 どて だんだら 、、じゃありませんか」 段々型に砕けた人の影。ひょいと何気なく軽い怪しみで堤ばくちの繩張り、どうな 0 てもし みふた しやが 「そういってしまえば実も蓋もねえ、公方様から貰った知 郎を見た、そこには川崎の作がにやりと笑って蹲踞んでい 綱た。 行所ではなし、金で買った地所でもなし、二束三文にいえ 関作がやってきたのはきようで二度目、嫌っているばくちばいえる繩張りだが、半五郎さん、この繩張りには男の息 打ちの道へ、こいつめは半五郎を引戻そうとこの間した男がかかっているのでご座んすぜ」 「だから息をかけた男が、他人に取られるのなら是非がな た。半五郎は黙っていた。自分の仕事の上に視線を、すげ しぶき
てあげるのが人の道じゃと亡くなった母親様はよう旅の人 しんせつ に深切であった」 ちょんまげあたま おおす こういって、妹を旅の女の処へやった兄は、立派なやり名古屋に丁髷頭が漸くなくなった頃のこと、大須の安 かいごろ 方をしているのだという気がした。後で妹があの女に話す芝居の大部屋に、小屋附の年よった飼殺し役者があった、 かもしれない、わしの兄はこういっていたとーー俺はこんそれが市川一蔵の成れの果であった。仕出しで舞台へ出る のぞ おばっか な時をつけこんで、女の肌を覗きたがる卑しい、いはもたな ときもあったが、足許がトボトボと、見る眼にも覚東なか い立派な若い百姓なのだ、あの女の人はきっとそれがわか った、芸名は聞き漏らしたが一蔵とは名乗っていなかっ すいざん ってくれるだろう。 た。「弁慶一」といわれた昔の舞台名は、衰残の今の体に 事実、鯉之丞はおさいの兄の志に、生れ出て女でなかつは惜しくてつけておかれないと、よほど前に変えてしまっ みまが たのを残念に思うときがやがてきた、女と見紛われても実たのである。 に男であったのをどうすることも出来ない鯉之丞は、志の 「じッさ、お座敷がかかとるぞ」 せつ 切なるはわかっても、またその志に動かされても、男が女と頭取が不思議そうな顔をして教えてくれた。老いさら ものずき に生れ代わる術はなかった、とともに、おさいの恋を知らばった人間を、どこの好奇が呼ぶのだろう。 ぬでもなかった。 「お客はおみやあの一座にいたことのある人だッけな。行 おさいは兄がまだ鯉之丞を、女と信じているときに知っつてみい、わかるに、銭が向うで待っとるに、早う行って ていた、女ではないのだこの人は男だということを。 みさッせい」 飯田藩士の中にも智者がいた、その智者は金箱を抱え そういわれると老役者は、さすがに胸が躍った、懐しさ みだ て、天狗党の代表と会見していた、路費に窮していた天狗も悲しさも、一つになって胸をかき紊した。 党は、買収に応じて山裾を迂廻して飯田を避けてやった、 打出しまで待つまでもなかった、老役者の体をあてにし 堀の家中はホッと息をついた丁度その頃、時又の農家ではている芝居ではなかった。木戸二銭五厘の安芝居の下廻り 道 わずみきど の三人三様の悩みにかきくれていた。 は、こそこそと臭い着物をひっかけて鼠木戸ーーといって ろ寒さはめつきり加わった、雪が降るのももうやがてだ。 も古く壊れた出口から出た、春の宵であった。 料理屋の玄関へ、おもはゆ気にはいってきた老役者をみ なり ると、飛んで出て挨拶した男があった。立派な服装をし ◇