右衛門 - みる会図書館


検索対象: 長谷川伸全集〈第13巻〉
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1. 長谷川伸全集〈第13巻〉

ち抜けそうに屋鳴りがする。 「お前はだれの子、わしの子でないというのじゃな」 東右衛門はその態を睨めつけた、が、自分から攻勢に出「浦守多左衛門の一子永之介に紛れない」 る気色はなかった、じっと座を起たないのが、却って不気「何故、どうしてそれを知っている」 味だ。 「天にロなし、人を以ていわせた」 「かくなっては、もう是非がないツ」 「多左衛門の親族の者がいったのじゃな」 と、全身にのた打たせて、悽愴さの一入加わった永之介「だれと姓名は指さぬ、が、わしは聞いた、確かに聞い の顔は、毒々しく黄退った。 「ま、待てツ」 「で、紛れもなく浦守多左衛門の子じゃ、とお前は思う と、岸破と音させて飛びあがった東右衛門が、必死の声か、この東右衛門の子だとは、一度も思ったことがないと みみず を絞って制止した、なんとその咽喉には蚯蚓のように筋が い , フのか」 太いことぞ。 母が口を挾もうとする、と、東右衛門が睨めつけて制し 「母も斬る気じゃなツ、、、 しカんいかん、ならぬぞ」 た、母はわッと泣き伏した。 大喝一番、東右衛門は飛びかかって襟を掴み、ぐっと引 「思わぬではない が、悲しいことにそれにいたして き寄せて捻じ伏せた。 は、わしの齢が違う、実父としては子たるわしの齢が四年 「むツ、無念な」 多い」 はわかえ と、跳返そうとするを事ともせず、押えつけて東右衛門 「それ故、浦守の子で、わしは実父でないというのか、一 は、喘む呼吸を怺えながら、恐ろしく打って変った静かさ応はもっともじゃ、 か、しかし」 でしカオ と、、いかけた唇をむずと噤んだ東右衛門は、やがて押 あだ 「永之介、お前はわしを讐といった、それは浦守多左衛門えていた手足からカを抜いた。永之介は撥ね起きた、が、 討 せきしゅ 仇の讐ということか」 自作の刀は母の手で隠されている、赤手ではどうすること ののし 斗膝下に敷かれた永之介は、首をふって詈った。 もできなかった。 不「いうまでもないことだ」 東右衛門は自分の大刀をとって差し出した。 「どうしてお前は多左衛門の讐を討たねばならぬのう」 「永之介これをやろう」 「子として父の遺恨をついだのだ」 あっ気にとられて永之介を掻き退けて母が、 ひとしお つぐ

2. 長谷川伸全集〈第13巻〉

倒れた。起きあがるのは彼の男の方がひと足早かった。酒ていた。小作の人達は、三郎左衛門を殺して、今、三郎助 戸はそれと知って身を起しながら、抜刀して相手を下からに死後の侮辱を加えられている死者を、知らぬ者はなかっ 刺したーー・そうしなければ、酒戸も三郎左衛門と同じ運命たのであった。 十年たっている今でも、死者の顔には幼いときの俤がち を免れなかった。 彼の男は、なかば抜いた刀を握ったまま、のけそって地やんとあった。彼はこの土地にいて父を殺された孤児だっ たのである。 に倒れて唸った。 むつつ 「ああーーーあのとき六歳だったから、今年は十六になった 夜はやがてほのばのと明けそめた。城一尸屋敷の庭の篝火はずだ」 ひそひそと百姓衆はこう私語して、まだ三郎助のさいな は、あらかたもう消された。板木も鐘も太鼓も鳴りをひそ みを受けている死者を、憫れむ眼でそっとみる者が次第に めた。 三郎左衛門を殺した曲者は、屋敷内の足跡でみれば二人多くなった。 らしいか 一人は遂に逃げてしまった。一人だけは酒戸今 市が、褒美の金にありつく種になって殺された。 ひこえもん しだん やまがそこう 晩春の朝風が、快く吹きわたってくる広庭へ、人殺し者山鹿素行の「士談」にはとどろきの彦右衛門とあるが、 なかそねせいえもん しようさいけんもんひしよう 「松斎見聞秘抄」には、中曾根清右衛門とある。「士談」 の屍がはこばれた。憎さげに人々は、土色にしなびかけた ひしよう 死者の顔を睨みつけて罵りをのばらせぬ唇とてはなかつの彦右衛門は盗賊、「秘抄」の清右衛門は剣士だ、ここで は「秘抄」の方に随っておく。 た。中にも三郎助は、泥だらけの足で、さめぬ眠りについ 武芸の修業と就職の発見のために、中曾根清右衛門は、 た男の顔を、散々に蹴った。 「盗人、おのれのような奴は、もっと苦しみをさせてやり東八カ国をほとんど歩いて、下妻に入る予定だったが、誤 こ奴、って木一尸へ入ってしまった。それは城戸三郎左衛門が、暗 たかった。ひと思いに死んだのが俺は口惜しい 殺されてから、二十日目、豪農の屋敷では、亡父の名を襲 この人非人め、獣め」 さぶろう早、えもん みなめか さぶろうすけ 三郎助が怒りに蒼くなって、死者の顔を泥だらけにしてった三郎助改め三郎左衛門が施主で、盛んな三七日の営み いる間に、そこに集っている小作農の人達は、ロを耳へよをしている宵であった。 せたり、人の蔭になったりして、驚いた顔を互いに見合せ「この辺の地の理はすこしも弁えておらぬから、かく夜に わきま しもづま

3. 長谷川伸全集〈第13巻〉

ふところたいまっ 二人は静かに三郎左衛門の寝所に這入った。懐中松明の な立派な家の、何処で一体寝なさるのか」 作男はちょいと得意を感じて、誇り気な口調で期屋に教光で、三郎左衛門が、女に添い臥しさせて眠っているのが よくわかった。 えてやった。 ぎよし 中曾根清右衛門は、懐中松明を牛坊に渡し、自分は片膝 「ご主人様はあすこで御寝なされるのだ」 えり 鶏屋は大仰に口をあいて、驚きあきれたような顔をしついて、深く眠っている三郎左衛門の襟をとった、軽く声 ぜいたく た、作男は歩きながら、長者の当主の日常が、どんな贅沢をかけて締めあげた。手足をちょっと動かしただけで、ぐ たりとなった三郎左衛門の体を、軽々と清右衛門は抱きあ ぐらしだかを、我が自慢として語り聞かせた。 げたとき、女が急に眼をあいた。 「声を立てると殺すぞ」 よわ 夜半の風に庭の桜はちらりと、花の雪で地を彩ってき牛坊は白刃を女の鼻の前へ突き出した。女は夜の物の上 た。雨雲のちぎれが、星を折々隠して流れて行く、長者屋に伏した。その頭の上で清右衛門がいった。 敷は森閑としていた。 「おい、この男の刀があすこにある、あれを持って行くが ふとん しよくあたり しし、それからその女に蒲団を被せておけーー驚いたであ 番大は先ほど、食中をして二頭とも斃れた、夜廻り番 とき 人は今し方廻ったばかりとて、突く棒の音は構内の何処かろうが、こなたに危害を加えるものではない。今一刻ほど 声をたてずにいてくれ、もし声をたてると、我々は座敷の らも起っていなかった。 「牛坊、こっちだこっちだ、拙者は後に控えているから、外にいるのだから、這入ってきてこなたを斬るかもしれ 余事には一切心を配るな、いいかな、酒戸今市は今夜仕損ぬ、だから声を立てるな、静かに夜の明けるのを待て、わ っこよ じても、追って討っときもあろうから、念を残すなよ、い 二人は絶気している三郎左衛門を連れ、庭へ出た。築土 いな、わかったな」 「は、、、い得ました」 塀を抜けて、長者屋敷の横路へ間もなく出た。 この二人は忍び入る最初に、逃げ道をつくっておいた、 四年前の星の夜、牛坊が首を吊ろうとした場所に、三人 ついじぺい の男が起っていた。音松の塚の傍にいるのは清右衛門だ。 木立の蔭の築土塀に、這えば楽に出られる穴を穿っておい たのである。 その前し。 」こよ牛坊がいる。牛坊に活を入れられて正気づきは うち

4. 長谷川伸全集〈第13巻〉

「伝内は今朝未明に歿しました、永らく病いの末、起ち居斎老もいささか拍子抜けの気色で、やがてそっと囁いた。 2 もならぬ哀れな姿で」 「左内は今朝未明に死んだのじゃとよ、なんでも七ッ時頃 話を聞くとさすがの同斎老にも好奇心が湧いてきた、熱ということじゃ、それからのう、身内に擦過傷はさて措 心に丈右衛門の語るのを聞きながら歩いていたが、 き、爪でかいたほどの傷もないーーー夢は中らなかったの 「むむなるほど、これは珍説じゃのう もし、左内がそう」 かすりきず の時刻に病床でたとえ擦過傷でも負っていたら、夢は実 しよう 十 正、古今にないことじゃが、さて、どうあろうかのう」 おがわまち 同斎は丈右衛門を伴って大垣へ着いた。 本間丈右衛門は江戸へ帰ってから、前のとおりに小川町 ひろこうじくしぶちきょちゅうけん 「あ、香がにおってきた。それ、丈右衛門殿わかったかの広小路の櫛淵虚冲軒の道場に時折り通った、虚冲軒は父弥 う、この先に柳の古木が一株あるであろう、かしこが右左兵衛から神道天真流の剣法を学び、外に他流を幾つか研究 ロの家じゃ、風はかしこの方からくる、まさしく右左ロ方して、神道一心流を開いた人で身の丈五尺八寸、丈右衛門 から漏れてくる香じゃよ、左内は死んだわいはてな の六尺二寸には四寸低かったが、膂力は丈右衛門より強か どうあったであろうか」 った、虚冲軒は三人力、丈右衛門は二人力といわれてい 或いは病弱伝内の一心が凝って、形は伴わないでも魂た。 だけは、父の怨みを報ずるために、左内の許にやってきた 櫛淵虚冲軒、通称は弥兵衛、名は宣根、江戸の人、一橋家の扶 かも知れない。 持を受く、」 ~ 文政二年歿、年七十二、墓は小石川の祥雲寺にあ り、本間丈右衛門、山崎弥四郎、山内相馬、高橋武左衛門はそ 同斎老も丈右衛門も、一足ずつに香が次第に近く燻じて の高弟なり、虚冲軒の碑は不忍池畔弁天堂境内にあり。 いるのを嗅いだ。 「そうじゃったよ丈右衛門殿、とうとう左内は死んだ、そ丈右衛門は元来が一刀流で身を起てた男であったが、虚 れこの態じゃ、もはや疑うことはない」 冲軒と試合して敗れたので即座に門人となって尚研究を怠 まことに右左ロ左内の家は、しめやかな中にも混雑してらなかった。であるから江一尸へ帰れば丈右衛門はちょいち ・ようほうきや′、 いた、弔訪客の姿さえあった。 よい師の許へやってくる、で、またしても物見高い江一尸人 は六尺二寸の美丈夫が長剣を横えた姿を、振り返り或いは しかし、丈右衛門がひそかに期待したことは外れた、同佇み、老若男女が頻りに見物した。 ・一んまく あた

5. 長谷川伸全集〈第13巻〉

娶らざれば子なし、甥平山金十郎等蝦夷屯田兵を策し維新の事 あり遂に頓挫す。 「丈右衛門の男振りで二百石は安い」 即ち、丈右衛門は古今に絶した男振りであったのだ、作 まつだいらみかわのかみ 州津山の松平三河守の藩で禄は二百石、それが安いとい う、人が子童先生だから、常談にいったとしても、丈右衛 ヾ、 ) 0 門の男振りを想像するに十分オ 丈右衛門の身の丈は、前にもいったとおりの六尺二寸、 それでいて色は雪の如く白く、唇は花よりも赤かった、白 よこた せき びじようふ 皙長大の美丈夫が長剣を横えた姿は、なるほど往来の人の 目を奪うものがあったに違いない。しかし、この壮麗な押 出しをもった人は、いつでも粗服をつけていた、粗服を圧 ほんまじようえもん 本間丈右衛門が路を歩いていると、人が皆振り返って見倒する押出しのよさがなくてなんの美丈夫であろう、丈右 た、丈右衛門は身の丈が六尺二寸あった。それでは人が見衛門は粗服を纒って却ってその粗服が立派に見えるほど、 もするだろう、が、丈右衛門は六尺二寸という、特に大男凜とした容貌であり態度であった。剣道は一刀流から出て ひ しんどういっしんりゅう くしぶちゃへえきょちゅうけん おうらいざっとう であるためにのみ、往来雑沓の裏で人の注意を惹くのでは神道一心流の開祖、櫛淵弥兵衛虚冲軒門下の第一人で、柔 しんとうりゅうごくい ほか なかった、外にそうあるべき魅力が備わってあった、丈右術は真当流の極意をさとっていた、男がよくて身の丈が六 衛門を振り返って見る人は、老若男女ともに、その魅力に尺二寸あって武術に優れている、鬼に金棒、これでは往来 支配されたのであった、ではその魅力とはどんなことか。 で人が見返りもするだろう、が、丈右衛門、見られても一 きよしん しりゅうひらやまこうぞう 向得意にもならず不満にも思わず、気取らず傲らず、虚心 それは子竜平山行蔵が批評をしているので明白だ。 たんかい 坦懐、見たい奴はいくらでも見ろ、見られたり見たりする えんさっ 平山行蔵、名は潜、字は子童、礼楽刑政より農桑水利まで悉く ものが人間だという気持、時に蓮葉な女が艶殺するような 研む、兵法は殊に深く究め、剣、槍、拳、弓、砲の奥儀に通 じ、長沼流の兵学は独歩の識見あり、露国我が北を侵す、行蔵媚びた目づかいをしても、丈右衛門の眼中はいつでも涼し 上書して北門警備を叫ぶ、終生粉黛を近けす、文政十一年歿、 敵打邯鄲枕 たけ はすは おご

6. 長谷川伸全集〈第13巻〉

「追放の身となったとは、風のたよりで承わった、少々ば「逃げはせぬが、火急の用事がある身じゃ、閑散なる者と かり良い気味だ」 立話して、時を消す訳には参らぬ」 弥次郎の応答もズケズケとしたものだ。 「待て、ん」 さすがは若いだけに倅の武右衛門は、弥次郎の嘲罵が疳「黙れ、乱心者」 べき くら 癖に烈しく触れた。 瞬くうちに昏さが深くなった宿の大通りを、弥次郎は追 「なに、近ごろ良い気味とは。うぬ」 って行く、治右衛門父子は逃げて行く。 と、詰め寄りそうな権幕を見せたが、それは擬勢という やがて、とつぶり暮れた。 奴、抜き合せたのでは腕の相違が甚だしいと知っているの で武右衛門は、権幕以下に気はとうに挫けているのだ。 おお 「おおさ、これが良い気味でなくていようか。越後高田二 どこでどう旨く逃げ終せたのか、自分でも判らないが安 十六万石、四十石の小身からツィ先頃までは二千五百石の藤治右衛門は首尾よく怖るべき弥次郎の追跡から免がれ 大身に経のばり、権勢を振っていたが、このほどのお捌きて、ホッと安心した。 にて追放と相成ったので、さぞ二千五百石が恋しゅうござ これが、小姓から膳番となり、それから鰻のばり ろう、泣き喚いたことであろ , フ。アッハ、、、、 に立身して、用人にまで経のばった立志伝中の人物と、他 たわごと 「何をいうかと思えば、乱心者の囈語、聞いている、隣はな人に思われていた安藤治右衛門であ 0 た。 。武右、参ろう」 「はて、拙者は首尾よく逃げ終せたが、武右は何といたし え - 一さば 「いや待て治右衛門。片手落ちの依怙捌きで、わずかに治たか」 右衛門を槍玉にあげ、大姦小栗美作なぞには指も触れぬと さすがに子を思う親の情、しきりに倅のことを案じてい は奇ッ怪至極と弥次郎の腹の虫が暴れてならぬ。只今、遇たが、我が子のために冒険する、そんな気力のない治右衛 次うたは天の与え。おのれ等のために主家を遠ざけられた多門だ。 れくの忠臣に成り代り、天誅を加えるから左様思え」 「武右は人並すぐれて才略ある生れつき、弥次郎ずれに捉 首「なに、天誅 ? 言語道断の奴め。おのれ等に御家の政治まって憂き目を見るような愚鈍者ではないはずだ」 たか 向き、まった奥向き諸般のことが判るか、控えておれ」 親馬鹿ちゃんりんを発揮して、多寡を括った。 せいあん 「といって逃げるか治右衛門」 「では、拙者一人で館林の清安のところへ参るといたそ かん

7. 長谷川伸全集〈第13巻〉

かたびらばし 橋、桜沢橋、帷子橋、その丁度中に位する桜沢橋は松本領て、塩尻へ入って又尋ねた、そこでも知らないと人は皆い つ、 ) 0 名古屋領の境だ、木曾はこの橋から西にはじまる。 さいじようだいもんおおみや 奥州釘子を発足した庄右衛門は、白河で供の者を撒いて庄右衛門は屈しなかった、西条、大門、大宮と村々を尋 ききようがはら ただ一人、奥州街道を江戸にとった、後で聞けば供の者はねあぐみて、桔梗原を横ぎったとき、崇高な峰つづきに白 しゅう 、、、、あいずかいどう 主に別れて仰天し、て 0 きり会津街道へ行 0 たものと思雪淡く美しい、日本屈指の山脈を仰いだ、しかし、敵を討 あか 、会津城下の二里手前の赤蜘まで、頻りに急いだが追い たれに行く男に山の美しさは何も与えない、江戸でみた美 しゅうしよう つけず、それでは奥州街道かしらと、又引っ返し周章ししい姿の、道行く娘をみたときと、同じ心、同じ感じだ。 もとやま て道中を急いでいた、そんな風だったから結局主人の庄右洗馬で失望し上野でも落胆し、本山でも得るところのな ひでしお , 卩冫。泊い付けなかった。 かった庄右衛門は、日出塩ではじめて、探し物を探し当て 江戸に着いた庄右衛門は、この世の見納めだと思うか ら、繁昌に眼を驚かしながら、見物に幾日かを滞在して、 「それなら事によると桜沢の弥兵衛殿のことではないか、 木曾街道を信州追分まで行き、そこから左に道をとらず、もし弥兵衛殿のことなら、この先の桜沢村というのに、倅 えいたいえこう やごろう 右にとって善光寺へ参詣し、永代回向の寄進の金を納め、 の弥五郎という人がいるから行って尋ねてみなさるがよ 引っ返して追分宿、今度は木曾街道を順にとって、二十三 年前とは少しずつ変った宿々に、自分の老いたのをなるほ 庄右衛門は又新しい失望を感じた、今度は探し当てて運 どと合点した。やがて庄右衛門は帰経の原に立った。 がいよいよ尽きたという、悲しみに似た我をあわれむ心で 「二十三カ年前に殺された人がありはしませぬか、は、、 ある。 にえかわ この帰経の原の近くでです」 庄右衛門が贄川と洗馬の間にある桜沢村へ入ったのは、 誰に聞いても知らないという。庄右衛門はとばとばと長三月中旬の夕暮である。故郷の釘子では漸く梅が咲き揃っ 井坂を越して柿沢へ入った。 た頃だ。 「この村に二十三年前殺された人はありませぬか、妙なこ桜沢の農弥五郎の家では、大勢の人声が賑わしく、何か せぎよう とをお尋ねしますが、その方の息子さんなり娘さんに、ち施行でもしている態で、門口に立「た庄右衛門にも線香が 匂ってきている。 と用があるもので、遠国からきたのでござりますが」 ここでも誰も知らないという。庄右衛門は塩尻峠を越し 「ご免くだされませ」

8. 長谷川伸全集〈第13巻〉

おもて ず、よって卑怯であれ何であれ、騙してでも討ち取らねば兄は面を伏せて消え入るような声で答えた。尋ねるまで なりませぬ、そういうことはいたしたくござらぬ。なれどもなく兄は女の処へ通うので多忙な人だから、行っていた 安藤の一族中から、たれ一人として、起っ者がなければよ先もたいていわかっていた。 しわざ んどころなくわたくしが この非力で臆病なわたくし「何者の所業か、お心当りは」 が、医師の道の他には刀の抜きよう一つ知らぬ私が」 「それが無い、残念千万だが」 医者は双頬を涙でびッしより濡らしていた。 「伯父上は何と仰せられています」 「治右衛門伯父は二、三度見えたが、この頃の伯父上はソ 五 ワソワと落着きがなく、話はいつでも小栗殿の悪口ばか 旅から帰った医者の安藤清安は、留守中に伯父の安藤治 右衛門が立去っていたので、一時ではあったが、重ぐるし 「いえ、父上の死状について、伯父上は、何とご鑑定なさ い気持が安心に変った。語らねばならない武右衛門の悲惨れていましたか」 ふびん な死状を、いわずに済むのが有難かったのだ。 「そのことについては、何も申されぬ、ただ不便な事じゃ しかし、伯父の置手紙と一緒にあった江戸からの飛札とばかり、繰返されたばかりだ」 が、清安を仰天させた。清安の父、治右衛門の弟、安藤太「その他の親類の者は」 郎兵衛が暗殺されたというのだ。 「来ても、内々で、焼香をしてすぐ立ち帰って行く人ばか 「伯父上はそれで江戸へ参られたのか、この置き手紙には りだから、これといって話はまだ何方ともしていない」 よそ 江戸へとのみ書いてあるが」 「すると、安藤一門の者は、父上の横死を余所に見ている 身びいきというものは免がれ難い、清安も伯父を高く買のですか」 っていた。 「そういう訳でもあるまいが、御家の騒動で伯父上が、昨 次 年追放のお身となったために、何のかかわりあいもない父 いとま れ江戸へ駈付けた安藤清安は、兄市郎兵衛から、亡父太郎上までが永のお暇をくだされて、江戸御用人、三河守様 首兵衛の死状を聞いて、極度に昻奮した。 ( 越後家の嗣子綱国 ) 御傅役で忠勤無二と評をとった千二百 「その夜、兄上お留守だったのでしたか」 石頂戴の身が、侘しい町家住居になったのを訪れることは 「うむ。居なかった」 外聞にかかわると思うているのか、一門の者は悉く近来と どなた

9. 長谷川伸全集〈第13巻〉

の処へ行ってくる」 闇の中から喘む息が高々と、何者とも知れぬ人の所在を 「行っても無駄だ、もう居るものか」 明らかにしている。 「そんなことはねえ、今し方まで居たんだ」 「だれだ一体。名乗れ」 次郎兵衛家主が角太郎の住居へ行ってみると、果して宮「覚悟いたしてござる。武右衛門の従兄弟、安藤清安でご 物師の怠け者は逃亡していなかった。 ざる」 「すると、もしや、安藤太郎兵衛の二男ではないか」 「左様」 よび 十月の夜冷えのする晩、家主次郎兵衛方へ集った店子清安、もう悪びれていない。 きんこせじひやくだん に、「近古世事百談」と名をつけて、閑に任せて開く一種「ははあ、さては太郎兵衛殺しは弥次郎と、評判が高いと の茶話会、それが済んだあとで次郎兵衛相手に話し込んで見える」 から、漸く家へ帰った弥次郎、表の戸を開けるとじッと立「いや、父の仇は兄市郎兵衛が討つでしよう。手前は従兄 ち停まって、やがて、 弟武右衛門の追善に、仇討ちを思い立って付け狙えど機会 のびのび 連れ出しに来たのか。そうは行かぬ」 なく、今日まで延々と相成ったのでござる」 動いた物もない、音もしない、無燈の闇の家の中を睨ん「つまらぬ仇討ちはやめにしろ」 で弥次郎、無気味に重たく響く声でいった。 「いや、やめませぬ」 「おーーそうか。角太郎の仲間がやって来たのではないの「武右衛門は御家の悪人、さればこそ弥次郎の天誅の刃に かか か。すると、ははあ、安藤治右衛門の親類共か、或いは武罹り、同類の姦物共の懲しめになったのだ」 右衛門の朋友共か」 「事の仔細は何とあれ、一一十に余る安藤一門の内から、一 パタバタと立ち騒ぎかける音を聞きつけて弥次郎が叱り人の奮い立つ者がないとあっては、武士の外聞、この上も 次つけた。 なく恥かしゅ、フござる」 ねずみ ながそで れ「こら人間鼠、騒ぐな、隣り近所は稼ぎ人で今が睡入りば 「それで長袖の貴殿が、一族の総名代で今夜忍び込んだの 首な、ドタバタしてはお気の毒さまだ。安藤の親類でも武右か」 衛門の朋友でも、命は取らぬから安心しろ。もっとも俺の「尋常にては到底及ばぬ故、忍び込んで寝入るを待ち」 方でも命はやらぬからその心算でいろ」 「ほほう、寝首を狙ったか、そりや汚ないそ」 はず こら ありか

10. 長谷川伸全集〈第13巻〉

う、望みを達するまで拙者とともに諸国を歩け、二、三年お前様、親の仇報じ孝養仕る可くと申されるに依り年来 もいたせば彼等は心を許すに違いないからそのとき三郎左つきしたがい、手前にも主の仇首尾よくはらし、他事なく 第一うけん 衛門を斃せ、その後見は拙者がきっとしてやる」 お供仕り引きとり候処に諸所よりたいまっ提灯出し、声々 「はい、きっとでございますね、あなた様」 によばわり追いかけ、驚きて遂にへだたり申候、定めし落ち くわ 「拙者は貧乏だが食せものの武士ではない、遠州掛川の浪のび一命つつがなくと存じ候に、空しく留められて、如此 やたて しあわせ みとどけ 人中曾根清右衛門という者だ、それからと、拙者矢立も紙の仕合、手前その場にて見届も仕らず、不義の至り恥かし も持っているが、お前文字が書けるか」 く、今夜この処にて腹を切り相果て申す可く存じ候えど、 せんなきこと 「笠間の坊様に教えてもらいましたから、少しは書けまよくよく思案いたせば、今腹切りても詮無事に候間その儀 およばず おつつけ つかまつるべきなり に不及候、追付かたきを取り孝養に可仕也、御心安く このむねせいごんつかまつりそうろう 「それは丁度いい、ではな、文句は拙者がいうから書け御座遊ばされ度く候、お前様三七日に此旨誓言仕候 よ、どうだ星明りで書けるだろう、拙くても意味さえ通ず 牛坊 ればいいのだーーそれ筆を渡すそ」 もろひぎ 清右衛門は草に腰をおろしたまま立てた諸膝を抱いて、 こうした貼り札を、夜が明けてから人々は見つけて騒ぎ 文句をちょいと案じていたが、気がついて尋ねた。 出した。それではあの晩、三郎左衛門を殺しにきたのは、 「お前の名は何というのだっけな」 酒戸今市に刺されて死んだ音松の外に、牛坊も一緒だった 「牛坊」 のかと、三郎助改め三郎左衛門までが、意外なことに思っ 「なに、牛坊、そんな名はあるまい、牛吉とか牛太郎とか いうのだろう」 先代の三郎左衛門を殺したのは、百姓音吉を討たれた怨 「でも、わしは子供のときから、誰だって牛坊といって呼みからだったが、今度復讐をすると墓前に、誓いの貼り札 んでいました」 をした牛坊が、目的とするのは今度の三郎左衛門よりも、 と 地にひれ伏して牛坊は紙をのして筆を執った。 むしろ酒一尸今市だろうと人々は思った。今市も勿論そう信 いつの間にか、長者屋敷の鉦がやんでいた。 じて、不安を感じながらも表面は大言を吐いて、勇気と放 たん 胆とを見せびらかした。 五 その年が暮れて正月になった。大晦日から続いた元日 ったな かくのごとき