と越後は軈て凜然としていった。 の山は武力で最上方に落され、里見一家はその時に全く亡 「いやじゃ」 びる、そこじゃ、私は里見の断絶を悲しんだ。兄内蔵介に も私の意中は打明けたが兄は肯かぬ、主とともに城もろと火を吹くように叫んだ。 もに灰となる、それが武士の道じゃとのみ云い張って聞か 事は意想外すぎた。 ぬ」 おんねん 「いやじゃ、今生の怨念、今を限りじゃ」 「そこで叔父上は生きたかったのじゃな、敵に膝を屈し、 ばらばらと勘四郎は走り去った。 内通し、裏切りして、上の山城を貰うたのじゃな」 伊達家の里見はこの権之允を祖とする、紀州家の里見は 「そのとおりじゃ、私の家も残したい、兄の家も残した 勘四郎が祖である。 い、それがその時の私の望みじゃ」 大正十二年三月二十日「サンデー毎日』小説と講談号 「大がたり、いうないうな、兄の家は亡ばされた、俺はそ なりさわでら ふところ の時二歳、母の懐中に守られて成沢寺へ辛くも逃れたぞ」 ごんのすけ 「それでよかったのじゃー権之允そちの父のいるところ へ、これから祖父様がつれて行くぞ、おとなしゅうしてお れよ」 たんぜ人 うなず 権之允は端然として首肯いた、流石に一城の主たりし人 の教育の功がここにあらわれていた。 「その子は民部の子か」 「そちの刃にかからぬのは我が一族の中でただ二人、私と この民部の子じゃ、七歳になる」 勘四郎は佇んでいた、はらはらと落涙した。越後は権之 允のために最期を飾るべく髪の毛をなでつけ始めた。勘四 郎の眼はそこへ食いついて動かなくなった。涙がにじみ出 してきた。 「さ、勘四郎、孫の前途を見届けたい、まず、早く討て」 さすが りんぜん
し出したが、軽く出端を押えっ 慎九郎は赧くなって、い、 寛永十八年三月二十一日、堀主水一類は旧主加藤明成に けられた。 きよくけい 引き渡され、間もなく将軍は口ずから、主水等を極刑に行 「わかったわかった、それでこそ汝も当家の士じゃ」 、、、ぜめ えと明成に命じた。主水兄弟三人は、うつつ責の末に斬殺 こうやさん 宮内は高野山へ、探偵として入り込む内命をうけて喜んされ、妻子も極刑に処ぜられた。 きしゅう で出立した。紀州の霊場には、鎌倉を去った堀主水が、身 宮内はその頃になって、会津若松の小屋に帰ってきた、 の危険を感じて登山しているのであった。 主水は高野を下山して、紀州家をたよって身を寄せた、色こそ黒くなったが、優姿は足かけ三年の今でも、元と変 加藤家と高野山の争いもそうであったが、紀州家を対手とるところが更になかった。 おんみつ せいさん して、争いを起そうと決心した加藤家は、凄惨な覚悟を据隠密をやって相模から紀州へ、紀州から江一尸へ出て暫く 休息し、やがて又相模へ主水の妻子の隠れ家を嗅ぎ出しに えた。 ちゅう 「四十万石を差しあげても、極悪の不臣堀主水の一類を誅行った。その永らくの間に、宮内は時々故郷の空を望ん で、非力者の腕前が、君家の役に大分立っているのを自慢 さねばならぬ」 父の嘉明の小兵に似ず、六尺豊かな加藤式部少輔明成した。今度会津へ帰ってからも、そうした気もちを、胸一 あしず は、足摺りして焦慮った。主がこの気もちだから、血気な杯にもっていたが、慎九郎の噂を聞くと、今までの元気が はや 一度に耗った如く思った。 士は逸りきって、何かというと殺気立った。 たがいまたはちろう そのうちに紀州を出た主水は、江戸に現れて旧主明成の慎九郎は主水の弟、多賀井又八郎の妻子を捉えに行き、 ・一う 討罪条、一「十一個条をあげて公儀に告訴した、明成の評判は大分武勇を示したというのだ。そればかりか、慎九郎とき ぬ余りよくなかったが、主の居城に発砲し、往来の橋を焼いとは、互いに父となり母となっていた。子供は今年一一歳 やき、関所を押して通ったという廉が、徳川家では許しておだという。 せかれない事件だった。君臣の別を紊ることは、加藤家の問 くろ ◇ 討題ではなく、公儀自身に影響する問題であるとともに、黒 しよいん 書院に居流れた人々の、立場は、加藤明成と皆同じであっ牛ケ墓のほとりの桜が咲いた。隠密の苦心を認める者よ まさ り、慎九郎の腕前の方が、知合いの間柄では優るとされ た。誰一人として主水と同じ立場に立って考える人はなか あか こひょう かど みだ おみ っこ 0 うしばか やさすがた
調理も末等の調理も口次第、若蔵の舌慣れぬ味を迎合しな更めて再生の恩を若蔵に謝し、金の包をさし出した。若蔵 つ、 ) 0 はそれを横目でじろりと見たが、ロを忽ちとがらせた。 ・カュ / 若蔵は検校の歓待を喜ばぬではなかったが、妻をはじめ「貰うまい、盲殿、俺はあの雪の晩に話したはずじゃ、俺 召使いが常について廻るうるささに、ただ一夜の客となっは俺の自力で故郷の田畑を買い戻して、家の跡式をたてる のじゃと、今でも俺はそう思うているのじゃ、こなたから ただけで閉ロした。 あくるとし 翌日は別れを告げようとしたのを、検校は懸命になって金貰うなら、あの翌年にくるわい、俺は他人の合力で家の 跡式たてたくないのじゃ、見てくれ、というても盲殿には 押しとどめ、滞留をすすめた。 見えぬ、お連れ合い見てくだされ、あれから三年、足かけ 「名勝も多い、見てござれ」 人をつけて出してくれたので若蔵はホッとした。それも四年、諸国で働いた俺は、むだづかいは一切せぬ、肌へつ 僅かの間のこと、叮嚀にせよといわれてきた案内人は、ロけて大切にもっている貯えがこれだけある。俺はまだ三十 数多く世話をやいてくれすぎた。勝手なところを勝手に歩じゃ、後五年は働くつもりじゃ、体は強し、酒はのまず、 女狂いもせず、ばくちは知らず、一心不乱にさして行く途 くのになれてきた若蔵は、それにもくさくさとした。 検校の家のものが根かぎりの優待が、いよいよ以て若蔵は家の再興じゃ、こなた夫婦が日々の馳走、有難いとは思 えいよう うが俺には大毒じゃ、ここの家に長くいて栄耀の味が舌に を弱らせてしまった。 しみ込んでみなされ、八年でとげる望みは十五年もかかろ 「ああ、こうと知ったらくるではなかった」 後悔したがもっともそれは遅い。歓待を地獄の責苦のよう、いや二十年、三十年、ことによったら栄耀に倒れて遂 いちじる げずに終ろうも知れぬ、よい着る物くだされたのを、有難 うに思った若蔵の、元気は著しく減ってきた。 それは検校の妻の眼に早くうつった。検校も又とく心づがらぬも実はそのためじゃ、肌ざわりのよい、よい着る いた。こちらの好意が却って若蔵の迷惑となるのを気の毒物、慣れればよいにきまっている、それが俺には敵じゃ、 検と思ったが、再生の恩人に報ゆる方法があまりに薄いのをよい食べ物も敵じゃ、働きもせずのらりくらりと振袖に がど , っしょ , っ 日を永くくらすのも大敵じゃ、決してこなた夫婦の俺にし てくれる心づくしを、悪く思うのではないが、俺からいえ も「金子をお贈りなされてはどうでござります」 つらにく かたき ば仇同然じゃ、この金も若蔵の片意地もの、面憎いとも思 「まずそれより外にないな」 明日はどうしても若蔵は出立するという夜、検校夫婦はわれようが、退いてくだされ、俺はこの腕で働いた銭で家 つつみ
110 はない、殊に宮内は非力者だーー夫婦は顔を見合せて、久 の家を買って宮内は住んだ、なんと思ったか越後街道に札 をたてて、「当所に加藤家浪人弓削田宮内住居」と記して振りに笑った。 「ちと仔細あって、宮内殿に我々夫婦がきたということは おいた。 加賀の女は宮内に未練があった、人をよこして金や品物知らせたくない。それに訪れるとしても帰途でござるか を届けた、宮内も会津神指に居を定めてから、二度小松へら、沙汰なしに願いたい」 「あ、、駅っておりましよ、つ」 旅をした。 かえ 却って念を押されたために、宮内 とその人はいっこ、、、、 しようほう 寛永二十一年十二月六日正保と年号が改められたその翌にそのことを知らせた。 年、会津の春は日ごとに色めいてきた三月十五日の昼、越 宮内は蒼白い顔を、ひきつらせて笑った、知らせてくれ 後街道に現れたのは、生島慎九郎とその妻きいの両人であ いとま った。主家が衰えて永の暇となった夫婦は、仕官の途を求た男には、惜しげもなく品物をくれてやった。その後で老 未たに僕を呼んでそわそわといいつけた。 め歩いたが、武士の失業者が夥しいその頃だけに、 しろ 衣食の資を掴めず、夫婦の服装にも顔の色にも、苦労の垢「予て買ってあった柴を、この家のめぐりへ第び出してく や皺が多かった。 れ、わしも手伝うから」 「わし一人でやります、あすまでかかれば、一本残らず搬 夫婦は「当所に加藤家浪人弓削田宮内住居」の札を見つ さら けて驚喜した、雨風に曝されて、札は心許なく古びていたび出せますから」 「いやそう悠々とはしておられぬのじゃ、ちと思い立った が、夫婦は意気込んで、ところの者に尋ねた。 「あい、その人なら、直ぐ近くじゃ、こなた知合いか、そことがあるのでな」 「はあ、それにしても、柴を持出して、どうするのでござ れなら案内してあげましように」 りますのう」 「いやいやそれには及びませぬ、してその人は家内多勢か 「今にわかる、面白いことなのじゃ」 たくわ 「宮内さんたた一人さ、外に爺さんが一人いるだけです主従二人は、精を出して買い貯えた夥しい柴を、家の四 方へ積んだ。 しゅうと 舅の仇、父の仇は一人住居だ、まず討ちとるのに困難「これでよい、思いの外に早く片づいた、それからのう、 かね
間じゃ、どこで倒れて他人の世話になろうも知れぬ、肓殿「拝むのはよしてくれ、ただ喜んでくれるだけでもう結構 にする世話も、いっかは俺が他人からしてもらうことじじゃ、それはそうと盲殿、その襟のところに何やら光るも や、よ亠よ十十 6 のがあるそ」 「え、ここにかな」 又しても、悲しげな笑い声だ。 「いや、その下のところ、おおそれじゃ」 「の、つ、ここにあるのは何でござる」 「おお、これは」 「それか、肓殿を暖める焚火の種じゃ」 「金じゃ、久しゅう見ぬが一分ではないか」 「割木でなし、柴でなし」 「それでは友六の奴めが、財布を盗むを、盗ませまいと争 「仏 . ~ じゃ」 うた時、不思議に落ちて残ったのじゃ」 「おお、何で仏壇をこなた様は焚きなさる」 ほか 「やれやれよかったのう盲殿、一分あれば安心するがよ 「他に焚くものがないからじゃ、ここの家は人に明日はと うまひき い、明日は俺と二人で出立しよう、途中で京へ帰りの馬曳 られるのじゃ、俺はそれまで待っていない。今夜の中に逃 げるつもりでいたのじゃ、一旦はここの家に名残りを惜を見つけて雇ってやる、ともかくも明日は朝早く出立しょ み、涙をおとして外へ出たのじゃが、途中でそれ盲殿をみう、盲殿が馬の背にのるまでは俺が一緒についていて進ぜ ひとで つけ、又戻ってきたのじゃ、明日は他人手にわたる家、板るわ」 「とてものことにわしとともに京へござれ、どうでござ 一枚引きがして焚いても心がすまぬ、さればとて焚くも こればかりはと思うて売りもせず、夜逃げするる、四条のわしが家は狭うもない、いろいろと礼もいいた のはない、 にも背に負うて出た仏壇じゃが、困っている人のためになし」 「いや、俺は俺で考えがあるのじゃ、 いっかはここへ戻っ ら仏罰もあたりもすまい。焚いて盲殿のたそくになれば、 て田畑を買いもどし、家の跡式たてねばならぬ」 俺も重いものを背負うて夜逃げせずともよい、それでの、 こわ * 、つき 壊して先刻から焚いているのじゃ、お位牌だけは何処の果「再生の恩人殿への報恩にわしが、金子は都合しましょ へ行っても肌近く置くつもり、こればかりは手放さぬ、そう、多分ではなくとも必ず進ぜる、是非ともに京へござ とくの昔に売ってしもうれ、そうなされ」 の他に香華をたむける器もない、 「まあ断わりましようわい、俺は俺の腕一本で金を叩き出 たわい」 してみとうござるわい、ははははは、ああ盲殿、その仏壇 「言葉ではつくし切れぬ恩じゃ、有難い」
もりです。私には先生以外に文学の先生にしたいと思う人は いませんから、末席でいいから置いておいて下さい」 と、のどをつまらせて言った。この勉強会では動物文学を やる人はいませんが、そっちの勉強は世界の文豪から学びま 秋山安三郎 すから : ・・ : と生意気なことも言った。先生は笑って 「では、君の気のすむように : 長谷川伸ほどの「有名人」も、有名になるまでは世間は冷 と言われた。 その後、私はさる有名な雑誌の編集者から、長谷川門下だたいものでした。横浜での新聞記者から東京の都新聞 ( 現在の というといかにも古くさい、義理人情の世界ばかりを書く作東京新聞 ) へ入り、何か個性のあるものを書きたい、書きた 家群のように見られている、その中に居ることは損だから、深いと念願していましたが、社内にも著名記者が四、五人いる 入りしないうちに脱会したがいい、 と言われたこともあった。上に、お得意の「小説」は、みな社外の有名小説家が書いて るので、容易には手を出す余地も無いような年、月が続き しかし、もちろん私の心は動揺しなかった。長谷川先生のい 高潔な人格に触れていられることを何より誇りに思 0 ていたました。それが遂に、手を出す機会が到来したのは有名小説 からで、むしろそうした見方しか出来ない編集者をあわれん家がその時まで連載していた同紙の小説が、その小説家の急 だものだった。先生が亡くなる二日ほど前に、先生は私に病で連載を休まなければならなくなった時でした。編集長か 「生きるということも、死ぬということも、つきつめれば同ら呼ばれて、「だから、四、五日間、何か代って書いて呉れ じことなんだよ。生きているということは、価値を生みだしよ」と頼まれたのが「長谷川伸」が世に出る発足点だった、 と聞いています。尤も、その時の筆名は「長谷川伸」ではな 続けているということなんだよ」 、横浜の新聞で使っていた「山野芋作」でした。どの時分 と言われたが、これが、私が先生から頂戴した最後の教訓 から、いつの小説から「長谷川伸」を使い出したのか、私は であった。 ( とがわゆきお・作家 ) 覚えて居りません。 「山野芋作」君のころ
くらぞう れて村へ帰った者の中に、倉蔵という農夫があった。 ななえむら 中佐谷は今では茨城県新治郡七会村に編入されている、 うしゅうせんばく 本堂家の祖が羽州仙北から封を移されていたとき、ひとま ず居た処がこの中佐谷である。志筑村に本堂が八千五百石 の城みたいな形を、まあまあ具備した陣屋を設けたのはそ の後のことである、志筑の本堂家と中佐谷との関係は、そ んなところがあったので正月八日に、悪口祝儀を吉例とし ていたものなのである、その中佐谷の倉蔵は、不幸なこと には女房くらが美人であった。 かげ 女房が美しいのを喜ぶ男もある、が、美しくないお庇で 安心していられる男もある、どっちが幸福だかは神様だっ ていえないかもしれない、美しくて安心が出来れば、これ しめなわ なかさやむら 正月八日に、中佐谷村の者が大きな注連繩を持って殿様ほど生き甲斐のある亭主というものは沢山あるものでな 、倉蔵はその不幸なる組に属する男の一人で、美しい女 のところへやってくる、殿様の方ではこれを待ち受けてい て、一同を台所へ通し酒を馳走する、酔が廻ってくると村房を持ったことをこの頃になって頻りと後悔していた、し ろくすけ の者は、まず第一番に、殿様の悪口をたたく、それから家かしもう遅い、倉蔵は美しい女房くらに、六助という子を 老以下へ順々に悪口を向ける、それが芽出たいとあって殿生ませてしまっていたのだ、夫婦二人だけならばどうにで みくだりはん 様は、さんざんに悪口をいってくれた者に褒美の銭をくれも、新規蒔直しをするために、三行半のやりとりが出来ま しよう ほんどうけ ひたちくここいまりごおりしずく いものでもない、子供が一人でもあるとそうはいかない、 る、これが常陸の風親淪郡志筑八千五百石の本堂家で、正 二年以来代々やってきたところの「わらい祝儀」という子煩悩にひかれる方の男なり女なりが、まあまあ子供に免 つな きちれい 打奇妙な吉例である、悪口をいって褒美の金を貰うのも変だじてと、不幸を喞ちながらずるずると縁を繋いでいる、倉 母が、悪口をいわれて芽出たがるのも妙だ、変でも妙でも吉蔵は女房くらに比べて、この頃片言を頻りにいって日にま 例だとあれば、決して悪いこととは思っていない本堂家し可愛さが増してくる六助に愛情が深かった、だから倉蔵 まおとこ で、今年も「わらい祝儀」の悪口をたたいて、芽出たがらは女房が間男をしているのを知りながら、憎むよりも改心 母を打っ敵討 かこ
「知っている」 人、さして狭くもない家にいるのである、そして爺は内記 苦々しげな顔をしていたが、やがて唾をのんで、直ぐ他が尋ねもしないのにこういった。 、をくみ、 のことをいった。 「戦があるそうでござりますので、家の者は遠方へ皆やっ 「明日あたり、仙道勢がもう繰り出してくるそーーー須賀川てしまいましたじゃ」 が立騒ぐのは、明日かな明後日かな」 その夜内記は疲労のあまり、前後も知らずに睡ってしま った、眼をさましたとき、爺はいなかった、家の中の何処 〔江持の塩田〕とは今の福島県石川郡小塩江村にあり塩田右近大を捜しても、鼠の外に生き物とてはいなかった。やがて帰 夫の出城その頃ありし処。〔小倉の遠藤〕同村、遠藤内蔵頭。 ってくるであろう、そう思っていた内記の推量は外れて、 〔小山田の内山〕左野川東村、内山右馬允。〔和田の須田〕岩瀬郡爺は遂に二度と姿を見せない。幸いに食べ物はあったの 浜田村、須田美濃守。〔箭田野〕同郡鉾衝村、箭 ( 矢 ) 田野伊豆で、内記は飢えはしなかった。 守。〔狸森の矢部〕石川郡大森田村、矢部上野守。〔保土原〕岩瀬「はて不思議じゃな」 郡稲田村、保土原左近行藤は後に江南斎という、伊達政宗に随 居心悪く内記は田 5 っている。それでも爺が帰ってくるか って後、朝鮮の役に従事し、大坂夏の陣に功を樹てたる人。 と、心待ちにしているうちに、日は暮れてきた。さすが に、内記は須賀川が気になった、城のことを思うのではな 父の志摩などを思うのでもない、恋しい覚女のいる須 浜尾内記は左近に赦されて外へ出た。左近がどう思い違賀川、それだけに曳かるる心なのである。 えて放したか、それは内記にもわからなかった。 暮れて行く十月の日は、深い侘しさである。内記はばっ 「仕損じてこのまま、須賀川へは帰られぬ」 ねんとして佇み、半里ほど東の須賀川を、望み見ていたの 内記にも意気張はあった。格別の知合いもない内記は、 であったが、はっとした、こは何たることそ、須賀川の空 彼の爺の家にでも頼んで隠してもらい、機を見て再び左近は、異様に赤く照らされていた。 を襲うことにきめた。もうこうなれば左近の首級を掴む「おお、赤い、あれは何事じゃ、もしや戦いが始ったので か、内記自身の首級をとられるか、その中の一つに運を決はないか」 する外はない、 という切迫した気になっていた。 血相変えて内記は、太刀をとりに家の中へ急いで引返 彼の農家の爺は快く内記の乞いを容れた。爺はただ一し、再び門口に現れたとき、顔の色は蒼く、臉のほとりに
遠藤雅楽頭の家では、覚女がいなくなっていた。それの 「俺はまた、この家の奴が気どって見張っているかと思うどれをも内記は知らない、知っていても愚かな男にとって は、格別それがどうということもない。彼はふらふらと迷 て、ちとばかり胆を冷したわ、はははよ 通り過ぎて行く家中の武士、それを見向きもせず内記はい歩いているうちに、とうとう危難にぶつかった。 佇んでいる。やがて又、黙然として三人づれの武士が同じ「待て、何者だ」 内記の行くてにぬっと立ち塞がった男がある、一人では 方角からきた、これも闇に佇む内記を見つけて、はっとし ない、三人或いは五、六人かも知れなかった。 て三人ともに棒立ちになった、内記はそれにも気がっかな つつ ) 0 ってみろ」 「何故黙っている、何者だ、い 、刀ノ 茫然として内記は立っている。 通り過ぎてからその三人はいった。 「うぬ、怪しい奴。いずれも油断はなりませぬぞ」 「ふふふふ彼奴、たわけになっても女は恋しいと見ゆる がやがやと騒がしくなった。 こが 「何者だと問うに、おのれは唖か」 「雅楽の娘に焦れているのじゃな、はははよ 笑い声はさすがに内記の耳についた、うそうそと四辺を腕さしのべて胸を掴んだ。ぐいと締めつけて前後に揺り ながら又罵るのは何者か、手荒く力のある奴である。 見廻したが、闇は人影をもう呑んでいた。又二人、そっと じよう 跫音を忍ばせて同じ方角へ通り抜けた。今度は内記がそれ「情ごわい奴だ、吐かせ、今頃、何用あって通る、何者じ を早く見つけた。しかし、怪しむほど、心の働きがまだ取やというに何故おのれは答えぬ」 返されていなかった。内記は佇むこと多時、冷たくなった「俺は誰なのだ」 「なに、不思議なことをいう奴だ、問うているのはこの方 体をして、ふらりと歩き出した。 語 物その晩はいろいろのことがあった。伊達に内通する叛逆じゃ、おのれがおのれに何を問うのだ」 - 一うなんさい 「俺はわからぬ、悲しいことには俺には、俺がわからぬの わ者の誓詞血判が、保土原江南斎の家で執り行われたのも、 ぞその晩だ。 廻内記の父浜尾志摩守の家では、敵に内応の疑いある者を相手はんだ手をゆるめて横を向いた。 2 指摘して今のうちに討ってとろうと、評議が大分進行して「奇怪な奴、何でござるこ奴はーーーうむ、たわけでござる か、それは是非もない」 いたのもそのときだ。 たたす きも と ふさ
後に、取返しのつかぬこととなって、二十六万石ほどの身ときにこれでは治世に慣れた若い者はたまらない、逃げを みようせき 代が五分の一足らずで辛くも名跡が保存されることになっ打つはずである。 た、このとばっちりを受けたのが多くの家士だ。草野文左その中に文左衛門の夜着を見た者もあり、見すに話だけ くら 衛門も「天下の婿殿」の、悲劇のあおりを喰って浪人した聞いて眉をひそめた者もあった。 ばっかくおおだてもの その頃幕閣の大立物として、江戸で手腕をふるっていた 老武者であったのである。 文左衛門は小浜の家士になってから、一年たっても二年酒井讃岐守忠勝は、あるとき、国もとにいる文左衛門の夜 たっても、寝るときの夜着をつくらなかった、有合せの着着の話を聞くと、見る見る顔に懐旧の情が浮んだ、やがて 物を引きかけ、それで央く眠っていた、このことを聞いてこういった。 しわいや 「はははは文左めそんな物をつくりおったか、戦国の昔を 家士の間では「文左は吝嗇家」という評も出ぬではなかっ かたそでよ 知らぬ者にはわかるまいが、それは片袖夜着と申すものじ た、しかし、主の酒井忠勝はにつこと笑い ごんげんさま や、権現様も、それを常々お用い遊ばされたものじゃ」 「文左めの戦国行状か」 はばもの といった、それから年月がたって、丁度五年目あたり片袖夜着とは、四幅物でつくり、片方だけに袖がある異 に、ようやくさすがの文左衛門も夜着を新調した。 様なものだ、なんのことはない「柏餅」と称する、一枚蒲 物ずきな連中が是非それを実見したい、こう思ったが、団のつかい方をそのままにこしらえたものにほとんど似て よ ぶへん いいことには、武辺の話になると若い者が、文左衛門の余いる。 暇をねらって詰めかける、従って新調の夜着拝見も、そん な機会を利用すれば、容易に見られないものでもない、し ぐ かし、正面から「お夜着を拝見」ともいえない、その機会ヒ ; 」風力寒く骨にこたうる冬、やがて雪がくるらしい空工 をまっているが、夜着が必要な秋の末から春のはじめへか 合の朝である。 状けては、例年の如く武辺の話を聞きにくる若い者が、めつ草野文左衛門は城から下ってきて、我が家の門がもう見 行 きりと減るならいであった、というのは、若狭の小浜は寒える処まできた、そこここにある木立の葉がみな落ちて、 国 たけす 戦い国だ、そこへも 0 てきて文左衛門の家の中は、味は嚇簀冬枯れの景色に身にしみる冷たさを見せているが、文左衛 の子、その上へ藁をしいてある、畳というものは三尺角が 門の体には寒も冷もとんと感じない態だ、しかも薄着のこ 五枚あるだけだ、これを主客ともにしくわけなのだ、寒い の老人は、城中勤仕の弁当に、食べ残りの焼き米入りの袋 しゅう