514 作品の中でも、ほかにはない。だが、旅芸人や、芝居船を題材にした作品はある。 「首切れ弥次郎」は、戯曲の「新版伊太八縞」に登場してくる越後浪人関根弥次郎が、主人公になっ ている。小説の「伊太八縞」は、昭和六年『報知新聞』に連載した長篇で、すぐに自分の手で劇化、 先代市川猿之助、先代市川左団次、先代市川寿美蔵 ( のちの寿海 ) 、先代市川松蔦などで上演された。 ただし、この戯曲も長篇小説も、本全集には収録されない。 新聞の連載小説に書く以前に、「首切れ弥次郎」は発表されている。著者は、同じ題材を二度扱う ことが多かった。資料が増えるにつれて、短篇を長篇に書き直す、という例がその一つであった。 大正末年から昭和初年にかけて、雑誌「大衆文芸』の同人であった著者は、ト / 酒井不木、平山芦 江、甲賀三郎、江戸川乱歩、国枝史郎などの故人のほか、現在の新鷹会会長土師清一一たちと共に、耽 奇社という集りを作っていた。そのころの著者は、探偵物、あるいは犯罪物もさかんに手がけた。題 名だけ見れば股旅物と思われそうな「親分病」、そして「二本松心中」はそれに属する作品だが、初 期の短篇の中から風変りなものを、と思って選んだ。 「混血児兵隊」は、あるいは著者の見聞した実話が素材になっているかも知れない。「異人屋の女」 も現代物の範疇に入れるべき作品だろうが、これには著者の若いころの郷愁が感じられる。「関東綱 五郎」の初めの部分は、後年の戯曲「長脇差念仏」の母胎になった、と言ってよいであろう。 この短篇集 ( — ) には、戦前の作品ばかりを収めたが、やはり晩年の作風とは、ずいぶん違ってい る。しかし、著者の作品が読者によろこばれ、流行作家として長いあいだ名声を保ってきたのが、な ぜなのか、よくわかる。 ここでは、史伝物、股旅物、世話物という風な分類の仕方は避けたが、そのほうが長谷川伸の幅広 い作風を読者に納得してもらえる、と思うからであった。 きしゃ たん
次の間に隠れていたらしい谷塚の為が、我を忘れて飛び のほどがわかって」 ゅんで 「何をいっているのだい、そんないいわけは聞きたくな出す胸へ左手で拾った短銃の、扱い方を知らぬ半五郎は、 。さあその刃物であたしを突くなら突いてご覧、親も子力任せに叩きつけて、見当もつけず大屋台の伊勢楼の中 を、足任せに逃げ走った。 も殺したら本望だろう」 「ば、馬鹿なことを、そんなことが出来るものか」 なるしまりゅうほくえっ 次郎長の世話になった山本鉄眉が、成島柳北の閲を乞う 半五郎は慌てて匕首を握った腕を後へ廻した。 そにん て明治十七年に著作出版した「東海遊侠伝』の中に、関東 「外へ出れば、為の訴人で捕方の衆が網を張っているよ、 綱五郎を武州の生れ、江戸で妓を狙撃し、次郎長の許に走 もうお前は逃げられない」 「詳しくいえばわかるのだが、おれが喜久蔵をばらした筋って子分となった、とあるのはこのことを多分さしたもの しい廻だろう。 路は、上辺からじやわかりつこねえーーーちえッ旨く、 して、心の中を明すことが出来ねえとは、ロって奴は不器 半五郎は辛うじて逃れて、清水港へ行き次郎長の子分に 用なものだ」 こうじんやま なってからは、関東綱五郎で押し通した。例の荒神山の喧 「親の敵だがあたしは女、このピスドンを放しはしないか おもで にきち ら、さっさと外へ出てお繩をお受け、それが厭なら皆さん嘩では、吉良の仁吉外二名とともに重傷四人の一人で、腰 へご迷惑だけれど、お客の忘れたこの飛道具を役に立てるに右から左へ貫通銃創を受けた、この創は彼が病死するま で祟った。 殺気のれたきさらぎの顔を、まともに見ていた半五郎 明治十年、三十二歳になった半五郎の関東綱五郎は、体 は、危機の迫ったのを間もなく直覚した。 も弱ったしまた一つには、故郷が恋しくなって清水を発 「あ、危ねツ」 てんまちょう 郎身をすててかかった半五郎の腕にきさらぎの細い腕は捻足した、その途中、品川の船賭場でご用になり、伝馬町の 綱じられた、時にズドンと煙とともに一道の火が閃いて、き牢へ百日入れられたとき、戸籍を拵えてもらい平民大咲半 くえき 関さらぎは唇を咬んで退け反った、顔の血の気は、一度に消五郎ということになった。判決は佃で苦役が八十日、それ を勤めて故郷へ帰った後、清水へはもう出て行かなかった えた。 ので、晩年の次郎長の感化はうけることなくして世を早く 「野郎やったなツ」 ピストル
ちょう は禄三百二十石、勤役は大小姓であった。浪人後、波瀾重 じよう 畳の中をくぐって今はもう五十に近くなっているが、身の う 丈は五尺八寸、色が白くて熟れ桃のように頬が赤い、二重 臉で眼の球が茶色だ、いつでも胸をぐッと反らして、棒な りになって曲らぬ右足を、ピョンピョンと突き出して歩み くろかたびら を運ぶ、それに着衣は四季ともに、黒羽二重か黒帷子で紋 ひとえくろちりめん の石持ちが頗る大きい。羽織を着れば限って単の黒縮緬、 あわせばおり 冬になっても綿入れ物はもとより、袷羽織だとて着たこと かみゆ もとどりうちひも がない。髪の結い方だけは尋常だが、髻の打紐は丈夫な 麻に限られていた。 これだけでも異様に見える弥次郎、その上にまた異る あだな は、渾名のよって来るところが、首にあった。 だれともなく、いつの頃からか、市井で、こんなことを弥次郎は猪首だった。 うた 謳うものがあった。 「大きな声を出すなってことさ」 くびき やじろう 向うから来る首切れ弥次郎 往来で、男同士が啀みあっていた、と、どちらか先に弥 避けて通せよ首切れ弥次郎 次郎を見付けたものが、右の如く相手に警告する。 さわ ないない 触るな触るな首切れ弥次郎 「口論いさかいをしてるのに、内々でものをいう奴がある うた この唄はどんな節で謳うのか判らない。なんといっても か。さあ承知しねえ」 ももみ、くら 事が古い、世は元禄の桃桜一時に花が咲いたような、今か弥次郎来ると、知らざればこそ、相手はいい気になって おおいしよしお ら二百五十年の昔、大石良雄が、まだ昼行燈でいただろう言葉尻をピンと上げる。 頃だ。 「向うを見な、首切れ弥次郎が来らあ、口論していては互 いに損だろう」 ふだい 首切れ弥次郎は慶安三年の出生、越後家譜代で、二十八 「えツ。なるはど、首切れが来た、こいつはいけねえ」 おぐりみまさか かっこう 歳の時、小栗美作とその一党に睨まれ、藩を追われるまで たいてい、喧嘩はたれがしていたんだという恰好をと 首切れ弥次郎 しせい きた
して、弥次郎が、声も立てずじッとしているので、さては 太郎兵衛殺しの犯人が判ってみると、居ても起ってもい られなくなったのは、清安の兄市郎兵衛だ。 急所をうまくやったと思い、ホッと息をつくのを弥次郎は 「弟の奴め、うまいことをやった。あいつが一人で親亡き鼻の真上に聞いていた。 後の孝道を背負って立ち、兄の拙者は馬鹿の手本と評判さ 曲者は刀を抜いた、念のためもう一太刀、どこか急所を れる、こんな馬鹿なことがあるものか」 刺す心算らしい はっし でも、金のあるうちは金が幾分か馬鹿を悧巧めかして見と弥次郎、片手で疵口を押え、片手で刀のみねを発止と かが せたが、湯水のように遣い棄て、残り少くなると世間は馬打つ、同時に右足を屈めて膝で曲者の股を突きあげた。 「あわわツ」 鹿扱い、腰抜け扱い、段々露骨に見せ始めた。 もんどりう 「拙者だとて千二百石取りの武士の子、今までの行跡だけ といって筋斗打つように一方に倒れた曲者が、気が狂っ で、人間の値打ちをきめられて耐るか。拙者には拙者ですたごとく逃げる背後から、「うむ」といって弥次郎、片手 ほんあみ ることがある。今に見ていろ、あッといわせてやるから」で抜いた枕許の大刀、長谷部則長作、本阿弥の折紙で金三 が、その、あッといわせることがなかなか出来ない。 十五枚という名刀だ。 みけん 曲者は思わす知らず、あと振り向いた、その眉間から鼻 ゅうがお 天和二年の夏も晩くなって、垣のタ貌の花の数が、目にまでを割りつけられ、苦し紛れに横に払った一刀が、弥次 見えて減ってきた頃。やっとこさで安藤市郎兵衛は、新調郎が右の膝がしらを斬った。 物音を聞いて、長屋中は忽ち惣出だ。提灯持ちゃら、獲 の黒装東を着けて出掛けた。その晩はやがて戻ってきた。 次の晩も出かけて戻ってきた。その次の晩も同様に物持ちゃら、 「弥次郎さん、どうしたい」 「斬られた」 次戸を漏る秋の夜風に、弥次郎の眼がさめたときと、咽喉「えッ斬られた、で、で、相手は」 れを刺されたときと、ほとんど同時だった。弥次郎は黙って「そこに斬り倒されている」 首いた。死んだのではない、死んだふりをして、じっとして 九 曲者は、はじめ弥次郎の上に踏み跨がり、咽喉へ一刀刺次郎兵衛店の一件は名主五人組から公儀へ届出た。 たま また そうで はな
日は、弟子の方でご免を蒙るから休みがちだった。 一生女犯せず、これは女の機嫌とるが面倒臭いと自分で いっていた。浪人に子はいらぬと考えたからだともいい、 越後騒動の渦巻の中で活躍した逆意方の何某の娘と恋仲だ つらめ 伊予松山に御預けの旧主光長に、赦免の日は永久にこなったが、当然それは破綻に終り、その女への義を立て貫 き、一生女を自ら禁じたのだともいう。 いという、その筋の話が耳に入った弥次郎。 それは本当だったかも知れぬ、弥次郎が六十三、四歳の 一年経ち、二年経ち、三年と経った。弥次郎が少しずつ 変ってきた。第ひきひき猪首を据えて江戸に怖い物なしと頃まで、夏と冬とには必す、江一尸名物を越後のさる尼寺へ つらだましい いう面魂をして、一点の変り花として往来に咲き始め送っていた。それも正徳三、四年以来はやめたというか ら、昔の恋人はその頃に寿を終ったのかも知れない。 どういう縁故でか、堺町木挽町の役者に太刀打ちの指南 大小名の行列といえども道を譲らぬ彼だ。一生誓いの三 カ条に日く、往来に於て我に上越す者と見たれば道を避けをした、というからその頃、芝居の立廻りが変化を見せは ちょっと しなかったかしらと、一寸、空想される。 る事を致さず。その実行だ。 「弥次郎さん、大名衆には道を譲るがいし」 と家主次郎兵衛が毎度いったが、彼はいつも笑ってのみ越後家が改易になってから十八年目に、前の三位中将光 長は甥長矩を当主に立て、作州津山で十万石、家再興の日 いて答えない。 み、きレ J も 弥次郎は死にどころを探しているのだった。大名の先供が漸くめぐってきた。 しお がもし突き退けたら、それを機に花々しく斬り死にと、死元禄十一年のことである。 その頃弥次郎の年は五十に間がなくなっていた。市井の に場所をそんなところに求めたのである。 次しかし、弥次郎は、老人婦女子には、跛をひきひき道を名物浪人に成りきって、迎えを辞して生涯を独身の浪人で 終った。寿は七十三歳、その時は享保七年九月、昔ながら れ譲った。 首家の中には水手桶一揃い、釜一揃い、その他にあるものの芝金杉三丁目三河屋次郎兵衛店の六畳一間きりの家で、 ポッコリと逝ってしまった。 は箸ぐらいのもの。 門人も多く出来たが、道場は近所の原だ。随って雨雪の と認められ、結局弥次郎は斬り得ということになった。 ながのり によばん しせい
つもり 「なあ弥次郎さん、お前さんは月並の浪人と違う心算でい 「宮物師だが怠け者でいけぬから、長屋を追い出そうと たが、見撕 0 て、わしあ腹が立つよ」 て、わしが行ったんだ、するとあいつめ、仰有るとおりわ 「何を怒っているのだ、まあ飯を食ってからにしろ」 たしは怠け者で、店子になっている値打ちがねえか知れま 「飯なぞは何時でも食えるから、わしのいうことを聞くがせんが、大家さんの店子がみんな正直で稼ぎ人ばかりでも ありますまいと、乙なことをぬかすのだ」 「そうも行かぬ、俺の飯は日に三度ではない」 「浪人関根弥次郎が怠け者でないのかと、逆捻じを食った 弥次郎は一升五合ぐらいの飯を一度に食べる、その代りのか」 二日でも三日でもあとは食わずに済ませられる。飯のお菜「そんなことなら何でもないが、角太郎がいうには、わた は漬け物だけ、もっとも飯の中に小魚を焚き込んで、蒸すしはただ怠け者だが、弥次郎という浪人は人殺しの強盗だ あじめし 前に引ッ掻き廻しておくから、或る時は鰺飯、或る時は秋という」 んまめしふなめし 刀魚飯、鮒飯、はぜ飯、稀には大根めし、菜ッ葉めしもあ「俺がか。ほう」 る。 「笑っているところではあるまい、弥次郎さん」 「なあ弥次郎さん。越後浪人の安藤太郎兵衛という人を殺「真実ならば驚くところか、それともワザと笑って打消す したのはお前さんだという人があるのだ。そこで俺は怒っところか、或いは又、怪しからぬ奴と追ッ取り刀で立ちあ ているのだ」 がり、角太郎とやらの首を取ると威張るところか、家主、 ゆきすみ 「太郎兵衛。いや、あの人は同じ兄弟でも雪と炭、兄の治どれが一番いいな」 右衛門と較べ物にならぬ善人だ」 「お前さん、オヒャラかすね」 「その善人を何故お前さん殺したのだ」 「もう少々飯を食べるよ」 「俺は殺さぬよ」 「するとお前さん、身に憶えがないのかね」 「でも、弥次郎が殺したという人がある」 「云い訳なぞするものか、思うとおり勝手に思え」 「だれが、そんなことをいった」 「やッばりわしの弥次郎さんだった」 「この長屋の二ッ棟向うの隅に住んでいる角太郎がそうい 「家主、帰るのか。あとで行くから湯を呑ませてくれ、俺 った」 の家は水ばかりだ」 「角太郎とは何をする奴だ」 「お湯かえ。あとで持たしてよこす。俺はこれから角太郎 ほんと
ったのである。 出して歩いてくる。その横から故意に衝き当った勇み肌の 事件の名残りは彼が、享保七年、七十三歳で物故するま一人。 かたなきず で、頸に物凄く残っていた、いうまでもなくそれは刀疵。 「おやツ」 かわ 躱されたと思ったら、うぬの体はいつの間にやら宙で一 あだな もんどりう 首切れとは渾名、まこと、姓は関根、名が弥次郎。 っ筋斗打っていた。後で考えてみると、おやッといった時 弥次郎、浪人以来、長寿を終えるまで、立て通した三カはもう離陸していたのだ。やがてドスンとばかり、猫に劣 条というものがある。 った無器用な着陸。 、フえ - 一 第一、往来に於て我に上越す者と見たれば道を避ける 「 , っ , フむ」 事を致さず。 と眼を廻した。 あわせひとえばおり 第二、寒中に袷、単羽織の外は綿の入る物を着用致さ もう一人は、友達が宙返りをしたのを見て、早腰を抜か ず。 し、小砂利の上へ坐ってしまった。 第三、武士の常にて珍しからねど二君に仕える事を致「お前達は人間だったのか、俺は横丁から飛び出した野良 さず。 猫かと田 5 った。猫なら猫鍋にして食ってしまうところだ 以上三カ条、終身の誓いを破らず、七十越えても守りつが、人間では、いかにお前達のような粗末なる出来の者で みよナが づけた。 も食う訳には行かぬから棄てて行く、命冥加な野郎共め」 右足前へで、弥次郎、塵手一つ払うでもなく行ってしま 「おい、あすこに来る変な田舎侍な」 しろもの 「跛で猪首ときてやがる、ご念の入った代物だ」 後見送って勇み肌両人、青くなって顔を見合せ、地獄か 「あいつを一ツ大道へ四ン這いにして見ようじゃない、 ら浮世へ這い戻ったようにホッとした。 あだばな 町の仇花だったかも知れない勇み肌の若い者が、弥次郎 これは首切れ弥次郎と謳われない少し前の逸話の一つ。 を侮ってこんな相談をしたことがある。これも深い訳もな類話は幾つでもあるが、こんなのは一つでよい いくせに、ちょいと見が気に入らぬとてする血気に任せる首切れ弥次郎と謳われてから後のこと。 いたずら 悪戯だ そんなこととは知らぬ弥次郎、右足を棒なりに前へ突き薩州家の国足軽が三人、弥次郎に不快を抱いていた。機 びつこ あなど はや′一し
の処へ行ってくる」 闇の中から喘む息が高々と、何者とも知れぬ人の所在を 「行っても無駄だ、もう居るものか」 明らかにしている。 「そんなことはねえ、今し方まで居たんだ」 「だれだ一体。名乗れ」 次郎兵衛家主が角太郎の住居へ行ってみると、果して宮「覚悟いたしてござる。武右衛門の従兄弟、安藤清安でご 物師の怠け者は逃亡していなかった。 ざる」 「すると、もしや、安藤太郎兵衛の二男ではないか」 「左様」 よび 十月の夜冷えのする晩、家主次郎兵衛方へ集った店子清安、もう悪びれていない。 きんこせじひやくだん に、「近古世事百談」と名をつけて、閑に任せて開く一種「ははあ、さては太郎兵衛殺しは弥次郎と、評判が高いと の茶話会、それが済んだあとで次郎兵衛相手に話し込んで見える」 から、漸く家へ帰った弥次郎、表の戸を開けるとじッと立「いや、父の仇は兄市郎兵衛が討つでしよう。手前は従兄 ち停まって、やがて、 弟武右衛門の追善に、仇討ちを思い立って付け狙えど機会 のびのび 連れ出しに来たのか。そうは行かぬ」 なく、今日まで延々と相成ったのでござる」 動いた物もない、音もしない、無燈の闇の家の中を睨ん「つまらぬ仇討ちはやめにしろ」 で弥次郎、無気味に重たく響く声でいった。 「いや、やめませぬ」 「おーーそうか。角太郎の仲間がやって来たのではないの「武右衛門は御家の悪人、さればこそ弥次郎の天誅の刃に かか か。すると、ははあ、安藤治右衛門の親類共か、或いは武罹り、同類の姦物共の懲しめになったのだ」 右衛門の朋友共か」 「事の仔細は何とあれ、一一十に余る安藤一門の内から、一 パタバタと立ち騒ぎかける音を聞きつけて弥次郎が叱り人の奮い立つ者がないとあっては、武士の外聞、この上も 次つけた。 なく恥かしゅ、フござる」 ねずみ ながそで れ「こら人間鼠、騒ぐな、隣り近所は稼ぎ人で今が睡入りば 「それで長袖の貴殿が、一族の総名代で今夜忍び込んだの 首な、ドタバタしてはお気の毒さまだ。安藤の親類でも武右か」 衛門の朋友でも、命は取らぬから安心しろ。もっとも俺の「尋常にては到底及ばぬ故、忍び込んで寝入るを待ち」 方でも命はやらぬからその心算でいろ」 「ほほう、寝首を狙ったか、そりや汚ないそ」 はず こら ありか
る。 子木をチョンチョン、チョンと、刻み打ちをする、いや痛 いしばとけ では、首切れ弥次郎、世に流布されて誤られて一つの型いの何の、石仏でも欠けそうな痛さだ。 とむら たけつね あかざや が出来た中山安兵衛武庸、喧嘩安兵衛、赤鞘安兵衛、葬い だから、近来始ったことではなし、芝金杉三丁目、家主 ひうちばこ 安兵衛のあの類型かというとそうではない。喧嘩の仲裁を次郎兵衛店に二十余年もいて、燧箱みたいなその家と古き はんにやとう して酒に有りつく、葬式に参会して般若湯にありつく、そを競う弥次郎だ、永年のこととて他人の方がよく心得てい んなことは絶対にしない。もし、途上、喧嘩があると不自て、弥次郎の異風な姿、奇態の足の運びが途上に見えれ すま 由な右の足を前へ前へピョンピョンと先に運びながら、近ば、今の今まで食いっきそうに口論していた同士が、澄し づいてもものを言わずぐッと左右の手で喧嘩同士の肩を掴込んでおとなしく無言になって顔見合せるか、一歩進んで む。まれると痛いの何の。 殊更に、さも親善らしく見せかける必要上、無理に笑って 「喧嘩両成敗」 空呆けるか、その時次第、人間次第、智恵と成行きで形は ひょうしぎ そういって喧嘩同士の体を、拍子木を打つように、ガチ違っても、弥次郎の人拍子木にはなりたくない気はだれも 同じだ。 ンと無雑作に打ち付け、 「勝負は見えたか」 しかし、それほど、有名でも聞き知らぬ者がある。江戸 と訊く。勝負が見えるも見えないもない、強力に掴まれは広い。 て良い加減肩が痛いところに持って来て、人拍子木を打つ「首切れ弥次郎だと、首切れ弥次郎といえば首がないのだ のだから、或る時などは喧嘩同士五分五分に、青くなってろう、首のない人間が生きているものか」 鼻血を出した。 と笑ってしまうのもあれば、 「へえ、もう致しません」 「そいっと一度、一世一代の喧嘩をしてみようか」 かげべんけいすくな と、いえば許して行ってしまう、「今後喧嘩は相成らぬ なぞという、陰弁慶が尠くない。のみならず、全く首切 次ぞ」そんな念は押さない。 れ弥次郎を知らぬ者だとてある。人間の数が多いと一様で れもし又、 首「打ち棄てて置いてください、やるところまでやります。 弥次郎の首は、生れつきではない。越後家騒動が落着し た天和元年の前の年、延宝八年の秋からの猪首だ。無論、 さあこの野郎」 とか何とか威勢よく成ろうものなら、無言のまま、人拍事件があって、それで右も左も顧みられぬ不自由な首にな そらとば だな
「それがしは薩摩守殿お屋敷近くに住居の浪人にて関根弥見えぬが姿恰好、まさに小栗美作の股肱の一人で、前の用 次郎と申す。無念に思わば何時にても参られよ」 人安藤治右衛門と、その倅の武右衛門によく似ていた。 勿論、その後、何年経ってもその薩州人の仕返しはなか時に延宝七年十月下旬、旅人はたいてい、泊りについた 夕方、西日の名残り空にほのかな頃であった。 これが、首切れと謳われてから後の、数多い逸話の中の「安藤氏ー安藤氏」 一つである。 と、うしろから呼びかける越後訛りの声に治右衛門父子 それはそれとして、首切れの由来、それを語ろう。そのはぎよっとしたが、そこは武士、振向いて声の主を一暼し 頃は弥次郎、まだ年若だった。 た治右衛門は、忽ち不快と恐怖とをごッちゃにした顔を倅 に向けた。 「武右。ありや乱暴者の弥次じゃ」 ただなお 越前の忠直の子を光長という、その光長を当主とする越「なるほど、風俗が変って浪人姿ゆえ、一時は見違えまし おため 後高田二十六万石の延宝天和の騒動は、最初には御為方がたが、弥次郎でございますな」 大敗し、最後には五代将軍綱吉の御前裁断で、逆意方の大 父子両人、敵方の弥次郎が声をかけたからには、尋常で おぎたしゅめ 敗北で落着した。しかし、御為方の荻田主馬の一派と、逆は事が済むまいと、あらかじめ覚悟はつけたが、覚悟と度 おぐりみまさか さからす 意方の小栗美作の一派と、いずれが鷺か鴉か、ここで、そ胸とは一ツものの如くで実は別の物、されば安藤父子、先 んなことは扱わない。 手を打って弥次郎をここで討とうとは、毛頭、まだ考えて し / し 我が関根弥次郎は御為方にあっても、異数の壮烈漢だっ た。三百石で安泰に勤役していたとしても奔放な弥次郎、 「黙っていられるのは、安藤治右衛門に相違ないからか、 話の種にはなっていただろうが、小栗一派に睨まれて浪々それとも」 の身となったので、却って人物の面白さが発揮されたとも と、弥次郎、じりじりと近くなった。 いえる。 いつまで黙ってもいられないので、そこは親だけに治右 衛卩が、よんどころなく答えた。 たいかん 「おや、大姦安藤治右衛門父子だ」 「拙者も目下、浪々の身でござる」 なかせんどう とっぴ 中仙道熊ヶ谷宿で眼についた旅の武士両人、笠深く顔は答えとしては突飛だ。 じゅく