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検索対象: 長谷川伸全集〈第13巻〉
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1. 長谷川伸全集〈第13巻〉

をたてるのじゃ、それがせめても亡くなった両親にかけた若蔵はあっ気にとられて眼を円くしたが、さすがに何事 ひときわ わび もいい出さない。検校の妻は日頃よりも一際、強く内にみ 不孝の詫じゃ」 しい足らぬところはあっても、誠心は皆に響いて奔しるなぎる力が声に節々にあらわれるのを、珍しいと耳をすま のを検校は覚った。眼に顔を見ているだけに検校の妻の感した。 わらべ 「僧都のおさなうより不便にしてめしつかはれける童あり 動は殊に強かった。それでもということは若蔵の、せつか くの心を傷つけるように思われて、夫婦は押していえなか名をば有王とぞ申しける、鬼界ヶ島の流人ども、今日は既 つつ ) 0 に都へいると聞えしかば、有王鳥羽までゆき向ひてみけれ 「それでは金は進ぜまい、当世珍しいこなた様の心、玄鹹ども、我が主は見え給はず、いかにと問へばそれはなほ、 罪深しとて一人島に残されぬと聞いて、心憂しなども愚か 感じ入りました、のう若蔵殿、こればかりは許してほしい うづきさっき なりーー唐船のともづなは、卯月五月にとくなれば、夏衣 ことがあるがど、つであろ、つ」 うな たつを遅くや思ひけん、弥生の末に都を立ちて、多くの海 「さ、何か知らぬ、いうてみなされ」 じ 路をしのぎつつ薩摩潟へぞくだりける」 「こなた様の後の床に琵琶が六面ござろう」 はたと撥をとどめて検校は、静かに、掌を伏せて琵琶の 「これが、琵琶というものか、いかにもあるわい」 面をなでさすりていたが、忽ち発止と叩きつけ、力をこめ 「どれなりと気の向いたのをとってくだされ」 て打ち砕いた。 「やすいことじゃ」 一面をとった。検校は手にすると直ぐそれが、最愛の琵「あれ、何をなさる」 しかくびぶ しるししとうおもて 琶であることを知った、標は紫藤、面はしほど、鹿頸、舞妻の声する方に、笑顔をむけて検校は、 ひのき えびおびやくだんてんじゅ げんふくしゅ 「狂いはせぬ、心は確かじゃ、のう若蔵殿、こなた様も驚 絃、覆手はから本、海老尾は白檀、転手は花輪、柱は檜、 ゆいしょ らでん らくたい いてござろう、これなる琵琶は由緒あるもの、尊き御方の 落帯は螺鈿美しい青。 たかね 「さるほどに、鬼界ヶ島の流人ども、二人はめしかへされ御前にも出たる名誉のものじゃ、銘を「高嶺」といいます のじゃ、それを今砕いたのは何事ぞと怪しく思うでござろ て都へ上りぬ、今一人残されて憂かりし島の島守と」 ながもの 琵琶を抱いていた検校は、突如として長物の中では「祇う、わしが心はロよりもじゃ」 いろり ありおう 王」「六代」などとともに愛誦する「有王島下り」を語り砕けた名器をとって、囲炉裡の火にくべた。めらめらと 燃え立っ煙は、雪の夜に感じたあの仏壇を焚いたのと同じ つら

2. 長谷川伸全集〈第13巻〉

あとずさ わめ 鍋三郎は後退りして喚いた。 「鍋三おぬしは損をしようとて斬付けたのではあるまい」 「なに、鍋三、年少ものとはいえ、あまりにいい過ぎると 4 「そんな勘定はせぬ」 俄然、鍋三郎は、伊八郎のとった利腕を自分のものに抜怒るぞ」 「恥を知れ。ここへ何の目的あってきたか知っているぞ。 きとろ , フとした。 さればこそ駈付けてきたのだ」 「又馬鹿が、何をするツ」 「何をぬかす」 「なんで斬らぬ、斬ったらいい」 「兄上の嫁様を盗みにきたのだ」 「おぬしを斬るとこの伊八、大きな損をする」 「馬鹿ツ」 「臆しているんだ」 「いやあそうでない。伊八は臆していない、好んで大きな伊八郎は驚き慌てて顔色を変じた。 「それ見ろ、その面がばッと赤くなった、それを羞恥の赤 損を求めたくないから、おぬしを斬る術を知っていて斬ら さというそうだそ」 ぬのだ」 めきみ あらた 右手の抜刀をかすかに振って鍋三郎は、左の指一本を、 「では、手を放せ、更めて勝負を」 「馬鹿をいうな。わけのわからん奴だ。おぬしはこの伊八伊八郎の顔にむけて突き出した。 を斬らねばならんことがあるのか、年少のおぬしにそんな伊八郎は、刀に手をかけた。 「ーーー鍋三、だれがそんな馬鹿なこといっておぬしを唆か わけはない」 「いや、あるとも」 静かな態度にとり変えて伊八郎はいった、が、眼に殺気 「ある ? なんとして」 こんにち がうずまいている。 「今日ここへ何をするとて来た、いってみろ」 「だれもいわぬ」 「格別のことはない、今日は非番につき脛ならしの遠歩き のすけ 「兄の幾之助がいったか」 だ。幸いの日和ゆえなあ」 苦い顔を紛らせて伊八郎は力を抜いた。自由をやッと得「兄上はまだおさがりになっておらぬ」 みた た鍋三郎の手首と二の腕とには、伊八郎がつけたカの痕が「幾之助の朋友、三田がいったか」 「そんなことを訊かんでもいい 。わしだけが知っているの 痛々しく赤くなっていた。 「不都合者、そのいいわけは何事だ」 すね そその

3. 長谷川伸全集〈第13巻〉

472 たぶさに取って烏帽子を枕に置き、帳台のはたに臥し 約東のごとくだ。 もりとお て今や今やと待っところに、盛遠、夜半ばかりに忍び 幾之助は、もはや、十中七、八は伊八郎の寝首を掻き得 たごとくに田 5 った。 やかにねらひ寄り、濡れたる髪をさぐり合せて、ただ むざん 一刀に首を斬り、袖に包みて家に帰りーー・あな無慙 家の中は暗かった。 や、この女房が夫の命に代りけるこそと思ひて、首を そッと、心して這いあがった幾之助は、目ざす座敷へ辿 取出してみれば女房の首なり、一目見るより倒れ伏 りつくまでは、返り討の白刃がどこからか飛んでくるもの し、こゑも惜まず叫びけり、三年の恋も夢なれや、一 と覚悟して、薄氷を踏み、険峻を攀ずる心地であった。 夜のむつびも何ならず、身の置きどころもなかりけ ようやくにして、伊八郎の伏したる座敷の次の間に迪り ついた。 あんじゅ もんがくほっしん せいすいき 幾之助の口から、思わず知らず、ほッと肩でする第一の「盛衰記』十九の巻「文覚発心」の件りを、暗誦していた 幾之助ではなかったが、袈裟の物語は、以前から知ってい 安心の太い息が出た。 耳に体中の力を全部傾け、探り聴きの眼を闇の中でねむる。 慌しく動かす手の指先まで、プルプルと顫えている幾 やがて、聞きすまし終えた幾之助は、第二の安心の小さ之助は、息を殺して、仰ぎ伏したる人の顔に触れてみた。 「おツ、お為どのか」 い息をついた。 答えはなくて、外の雫の落つる音か、睡らでいるお杉の 手を間仕切の襖にかけた。内も、外と同じ闇だった。 そッと這って目ざす寝床に近づくまでに、幾之助は、か漏らした呼吸か、かすかなる音がした。 なり長い時をかけた。 幾之助はハタハタと這い廻って伊八郎を探した、一人の おう。 臥したその他は、闇ばかりが濃い寝間であった。 「伊八はーーー伊八は今夜おらぬのか」 手に触れたのは洗い髪だった。 なんだ ? こ、これは。 戦慄を帯びた幾之助の声は、絶望の刻印打たれたごと 幾之助の胸はドキリと音が立ったかのごとく騒ぎ出しく、細々と末はあるかなきに消えて長らく黙っていた。 お杉は、仰ぎ伏したままだった。 雨がやんだのであろうか、滴々の声が間遠くなった。 夫をば帳台の奥にかき臥せて、わが身は髪を濡らし、 あわただ

4. 長谷川伸全集〈第13巻〉

郵便について可児は深く惧れた、何かの事情で遅達され 可児は頻りに泣いていた。 て、きようにも妻の遺書が届くのではあるまいかと思っ た、しかし、遺書がたとえ届いてきて、可児が信じている はじめて妻の死を知ったとき、可児が思ったのは「畜生とおり、彼等の間に絡まる事情があって、それを臆面なく やりやがったな」だった、三週間前に追い出した学生と、書いてあったとしても、自分だけが読んで殻は灰にしてし 那珂子が同じ場所で同じ死方をしたな、あいつらは最後のまえばいい、 そうすれば一切は暗に没すると思った。 さら 「そうなんだきっと」と可児は思いたかった、那珂子は夫 どん詰りに行って、夫に辱を晒させる手段をとった、二 きゅうそ 十七の女と二十二の男の窮鼠は、心中という公開の方法以外の男に、夫同様のことを許したために自責して死んで で、夫猫を見事に噛んだ、「畜生やりやが 0 たな」こう思行 0 た、夫はその事実を悪して亡妻の名誉を護「てや 0 う底には、怺えられない怒りがあったのだが、それはただ た、新聞記事にもあったように、死の理由としてどこまで まとま かか 怒りと怒りの葛藤で、考えにのばるほど纒っているものでも、「強度のヒステリーに罹り」を唱えていればこの両全 よ . かっこ。 が保たれるのだ、そうすれば可児は「病気の妻に自殺をさ 自殺したのは那珂子ひとりであることを知ったとき、夫れた夫」ですむ、「姦通して心中した女の夫」ではなくて は意外に感じた。救いあげられたような気にもなった。姦いられる。 通の事実は飽くまで否認しなくてはならない、と思う気も そのときから可児は郵便のくるのを待った、配達時間を ちが、可児をはっとさせもしてくれた。 覚えてしまった頃になっても、夫が待っている遺書はこな 、刀ュ / 可児は死体も見た、遺留品も渡された、危ぶみきってい た遺書は、一通もなかった。いよいよ助かった気になっ 可児は従来よりも多く、遊蕩の時間をとるようになっ た、女達は新聞記事で「妻に死なれた夫」であることを知 中が、それだけで可児は安心していなかった、こっそりと っていた、ヒステリー については漠然として、しかもよく こうこか 妻が自殺した岬の頂に行った、探偵のように考古家のよう知っている女達は、可児に同情を寄せながら、自分達にも 一一に、頻りに諸所を見て廻った。どこにも妻の遺書は残されないことではないかもしれないといっていた、可児はそれ ていなかった。どこにも若い不義の相手の死体はなかっ に心を惹かれもしなかった、むしろ心中を話題としていろ た。これで安心の度は稍高くなった。 いろに語られることが聞きたかった、、い中に興味を勿論も つう かん ゅうとう まも

5. 長谷川伸全集〈第13巻〉

「おてるさん、お前泣いてるのじゃないかい」 と、いわれておてるは、怺えていた泣き声を取り外し、 堤の芽生えまだのびが足らぬ草の上に泣き伏した。 「なんで泣くのだい、わけを聞こう、どうしたわけで泣い てるのだい」 「おや」 「半さんーー・あたし、今度遠い処へやられますの」 びくりとした半五郎は、水絞りをかけるとて手にとった と泣き喋舌り。 しぶき 布をばったり水に落した、滝飛沫がばっと立ち、流れに写「遠い処、というのは一体どこなのさ」 だんだら った娘の姿は千々に砕け、段々型の波紋に揺れて半五郎の「横浜という処へ、二、三日中にやられます」 「なんだって横浜、はて、横浜とはどこの国にある処なん 見る眼には、ただこれ春たけのびた若草に、紅の花をちり ばめた美しさ。 だろうなあ」 「あたしもよくは知りませんけど、江戸よりずっと先です 「半さん」 って、どっちを見ても海ばかりの、そんな厭な処へやられ 「おてるさん、どうしてここへきた」 娘は晴れ着の袖を白い顔にあてた。逢いたさに家を抜けますの」 きょ - っしゅうけ 「江戸より先とだけでは見当がっかないが、その横浜とか 出してきた、という嬌羞の気ぶりではない、事情は聞か ないが判断はあらかたついた、物はいわねど若い心は形に へは何しに行くのだい」 「何しにつてーーーあたし売られて行くの」 出易かった、疑いもなく娘は泣いているのだ。 甲高くいっておてるはまた泣き伏した。 「どうかしたのかい、え。だしぬけにこんな処までやって 「売られて行く。ほ、本当か、おてるさん。お前に。し きたのは何かわけがあるだろう。ね、おてるさん、わけが 親でも清左衛門は、娘を売らなくてはならないほど、貧之 郎あるなら聞かしておくれ」 みぎわ をしているわけじゃないだろう、だのに、お前を売るなん 綱布を水際へ引きあげて、流れから足を抜いた半五郎は、 関下から堤へ間近く立って、伊勢野村の岡ッ引清左衛門の娘て、本当だとは思われない話だ、そして売られて行くとい おてるの黒い髪が微かに波うっているのを、不安心な眼っ うが、何に売られて行くのだい」 「お女郎に きで瞶めた。 。こつ ) 0 異人のおもちゃ かん しゃ・ヘ

6. 長谷川伸全集〈第13巻〉

ふりようけん 歩き、喧嘩買おうと触れぬばかりの不量見、もっとも理の 悪い方にはめッたにつかず、強い奴の味方にはなおさら頼 まれてもならぬところに、人にいやがられぬ特長があると いえばあるようなもの。 その藤九郎、あらい気象をむきだした顔に、めすらしく しお えみ も優らしい笑を浮べ、眼を細くしたのは鉢の梅だ、女は女 房の外に脇目もふらぬ野郎、たとえ仲町のさがみやの小仲 が、七十二匁持出して尾花屋から呼び出しをかけようと かぶり も、うンにやと頭をふる藤九郎が、花の色香にはさすがに 参ったか、鼻の音をくンくンとさせながら、片裾をかかげ 加減に 「こてえられぬえ匂いをさせやがるなあ」 とび いなりよこちょう 人も我もそれが本名でもあるかのように心得て、おう合鼻の先の地の上に影を落して鳶が一羽、稲荷横町に荷を あめや とうくろう てん 点とよべば、なンだと答える藤九郎が、まだ島へ配流の身おろした飴屋の笛を相方にでもしているように、ひらひら かんとうおうう とならぬ頃のこと、天保六年二月ーー・その翌年は関東奥羽と、のん気に黒く舞って行く。 あぶ だいききん 「わあツ、わあツ、逃げろ、逃げろ、それ危ねえ」と藪か が大饑饉、翌々年の二月には大坂で大塩の乱が起りなどし いえなり 徳川十一代家斉の治世、まず天下は泰平、吹きわたら棒に突然、何処をめあてか、いやもう大騒ぎ。 「なンだなンだ」 る春風に鉢の梅もほころびをみせたのを、自慢で出したの ふかがわなかちょうちややうめもと が深川仲町の茶屋梅本、そこへひょッこりと足をとめたの藤九郎はあたりを駈けて行くものに問いかけたものの、 あみぶねおやかたかぶ が合点藤九郎、本職は網船の親方株、だがそれは女房に任駈けて行く連中はまだ何事やら一向に知らぬ、知らねばこ ぐろこまげた ゅ・つ - せ放し、当人は結城そッきに一本刀、やわた黒の駒下駄をそ駈けて行く、しかし、騒ぎは遠くない、それだけは確 かいわい ふところで っツかけ、懐中手をして深川界限、仲町は勿論のこと、大実、藤九郎は落着きはらって騒ぎの声々のする方を、じッ ときわちょう こしんちゃぐらしたしんいしばふるいしば かわじりおおしんち 河尻の大新地、小新地、櫓下、新石場、古石場、常盤町、と見つめているのはさすがに物慣れた態、そのうちに今ま むこうどばし・ヘんてん まついちょう 松井町、おたび、向土橋、弁天とあらゆる色町をへめぐりで駈けて行った人々算を乱し色を変え、あわてふためき、 がてん藤九郎 おお おはなや こなか

7. 長谷川伸全集〈第13巻〉

をあいていつまでも見送っていた、もうよほどその人は遠かりで大きくなってきたのである。 くなったがそれでも吉にはよくわかった、と、その人が後「人間なんてわけのわからねえものだ。俺だってあのと を振り向いて手招ぎをした、吉はそれをみると急に自分のき、手招ぎさえされなければチャンと双親の手許に育 0 て 家へ駈け出した。 いたのだ、 手招ぎをされただけで、 : カらりと一生が変 「鍋島の小父さんがいたよ」 ってしまうのだからな」 その 門ロでこう怒鳴っておいて吉はとって返した、 しつも思い出すとおりをきようも吉は思い出した。 、 - いよう 後、吉は二十五歳になってから渡り歩きの「西行」の身と 「やい、気をつけろ」 けんのみ なって品川外れの生れた土地へやってきた、そこに蕎麦屋どしんと突当った旅人がいきなり吉に剣呑を食わせた、 はもうなかった、父も母も死んで吉はひとりばっちになつむなきな野郎だ。 ていたのを知らなかったのだ。 「手前こそ気をつけろ、間抜めツ」 吉はロを尖らして罵り返した % ◇ 「なにをいやがる、あき盲め」 とんちき ばろ吉は小雨の降る日の午さがりにふいと思い出して生「けだもの、頓癡気、ざまをみろ」 れた土地が懐かしくなった、一つ品川でありながら吉は、 旅人の合羽の背中に吉は悪罵を浴せた、旅人は二、三度 あくたい 滅多に海晏寺門前へ足踏みしたことがなかったのである。振り返って悪対をついた。 いたずら 十歳のとき、大名行列の中で典医が串戯にした手招ぎに 「やい頓馬、喧嘩なら戻ってこ い。弱虫腰抜め、どち、唐 えんしゅう 惑わされ、遠州で追いつくまでに吉は夢のように苦労をか変木め、おたんちん」 さねた。鍋島公の典医はだしぬけな吉をみつけて顔色を変振返って旅人も悪対をついていたが声は吉の耳へ届かな えてあっといった、そのときの顔をばろ吉は老い年とってかった、恐ろしく足の早い奴でみる間に遠くなって行っ からもきのうみた物のように、極くはっきりと思い浮べらた。 れるといっていた。 「ざまあねえや」 九州で典医が頓死してから、吉は飛脚屋 , ーーだろうとい 最後の悪対をついた吉は一足踏み出すとなにやら踏みつ うーーに託されて江戸送りとなったその途中、九州をはな けた、財布オ れないうちに置いてきばりを食って以来、吉は他人の中ば 「あの野郎のだ。ざまあみろ」 、、つ ) 0 くら

8. 長谷川伸全集〈第13巻〉

「そんなことはねえだろう、愚図愚図いわずに貸せ、な 「よに、なんと申す、銭はねえ、ちえッ あ 、、、だろ , つ、思しきりよく出してしまえよ」 と、相手はヘばりつくように庄右衛門に添ってくる。 「そうか、まあいいや、当人がねえといえばこれほど確か 「どうか御常談は仰せになりませんように、へい」 なことはねえ、確かに銭は持たねえな、よしでは、借りま 「貸さねえのか」 、その代りきさまの着ている物を貸せ」 ジロリと浪人の眼が光った、顔つきをみたところでは、 「こ、これはいけません」 そんな無法を本気でいい出す人とは見えないけれども、今 ジロリとみた眼つきは穏やかでなかった、兇悪が颯とこの「何故、いけねえ、なんでならぬのだ。こら伊勢参り、武 - 一とわ 士たるものが物を頼んで、拒られたそのままでは一分が立 浪人者の顔中に浮いてきた、庄右衛門はゾッとした。 たねえ、それが武士の意地なのだぞ。さあ貸せ、ねえ物ね だりはしねえのだ、ある物ねだりだ、それともきさまは着 「俺はこの近村の者だ、何も見ず知らずのきさまに、こん物を身につけてねえとでもいうのか」 むたい 「そ、それはご無体です、私は遠国の者、ここで着物を差 なことをいいたくはないが、差し迫って金が入用なのだ、 だからきさま貸せというのだ、報謝宿を渡って歩けば、伊しあげれば裸です」 「苦しゅうない、裸結構、誰が咎めるものか」 勢参りは出来るぞ、銭なんかきさまにや一文だって入用は 「いいえ、何と仰せになっても、着物は差しあげられませ ねえはずではないか」 みつ 頬をふくらませて息を吐く様子で知れた、今まで産右衛ん、私はあなた様に道中裸にまでなってお貢ぎする訳合が ないと存じますよ」 門は気がっかなかったが、この浪人は酔払っているのだ、 たち ここまで押し詰ってくると庄右衛門は決して弱くない、 この人は赤く出ないで青く酔う性なのだ、悪い酒なのだ。 ぜにかね 「只今も申しますとおり、銭金といっては持っておりませ今までは怖れていたが、もう怖れはしない、子供のときか さてつ おのずか ん、持っておりませんものを貸せっと仰せになりましてら故郷に産出する沙鐵を扱って、体は十分に自らなる鍛 れ た・も匚 錬を遂げ、二の腕にも肩にもカ瘤なら拳はどのやつが出来 敵こういううちにも庄右衛門は、この厄介者から逃け出すている男だ、武術は知らないでも、こう見たところがひょ つもりを忘れず、少しずつ、はなれて行くことを心懸けてろりとしたこの浪人者には負けもしまい、それに山育ちだ から足は強い、突きとばしておいて逃げ出しても、まさか さっ とが

9. 長谷川伸全集〈第13巻〉

418 ばかりじゃねえぞ」 而倒と見て、腕ずく、面つき、声、攻め道具をつかう気「強情を張るのはよしなよ。心中でねえといったところ になり、形勢を一変させた嘉兵の権幕を、お松はさほどにで、百人が百人、心中だったと見てるもの仕様があるめ 取った様子もなかった。それとも、嘉兵の権幕に刎ね返さえ」 れ、却って強ッ気の我むしやらが出てきたのだとも、取れ「それが違うんだ。あたしや、これから戒行寺を知ってる ばとれる振返り方、も一ッ進んで、嘉兵に逆寄せの勢いが から行ってみるよ。滝造なんかと一緒に葬いをさせてたま あった。 るもんか、行って墓を壊してやるから」 「、い中心中というが、市さんまでがそういったんじゃなか 「駄目だいそんなことをいったってーーーそら、お代官所の ろうね」 者が来たツ」 「何をいやがる、市之丞が現場へ来て、これや心中に相違「えツ」 ねえ、寝返りを打たれて男の面を泥にしたが、ここで怒る手軽い嘉兵のわなにかかって、逃げ身に思わずなったお のはありきたり、俺は二人の葬いを出してやるといって、 松の手をとり、引っ張って駈け出す嘉兵に引きずられて、 一つの棺へ、滝造の死骸を納め、その手にお前の着換え持お松は急に襲ってきた怖さで足が速くなった。 ほっそく 物みんな抱かせたり、詰込んだり」 お松は、今にも発足して、旅に又出た市之丞を追いかけ てきやく たいのだ。そのためには代官所の手の者は大の敵薬。隠れ はえ ひ上くづか 「気の早えオッチョコチョイがいたら、比翼塚が立つかもなくてはならず逃げなくてはならなかった。 しれねえが、土地にはそんな馬鹿はいねえや。あすにでも かいぎようじ くめぎ 四 行ってみろ、戒行寺の裏の櫟の下に、滝造とお前が埋まっ てらあ。いつまでここにいたってはじまらねえ、お前のこ 四年経ち五年経った。 、ちこう きたしもうさながれやま よそ とは俺が引受けるから」 北下総の流山で生れた公が、成人して浪人姿を扮って 「世話を焼いておくれでない」 歩くのが体にビッタリつき、すこしの破綻も見せすにいる あいたいじに かど 「えらそうなことをいってると、相対死生残りの廉で代官のを、不思議がる者は故郷下総流山の老人達だけ、初対面 所から連れにくるぞ」 では立派な武士の金子市之丞。当の本人も故郷の人は白い 「構わないよ、そんなことをしてきやしなかったんだか 眼で見るばかりか、人間の持ち味まで引きさげて、悪くい

10. 長谷川伸全集〈第13巻〉

かたびらばし 橋、桜沢橋、帷子橋、その丁度中に位する桜沢橋は松本領て、塩尻へ入って又尋ねた、そこでも知らないと人は皆い つ、 ) 0 名古屋領の境だ、木曾はこの橋から西にはじまる。 さいじようだいもんおおみや 奥州釘子を発足した庄右衛門は、白河で供の者を撒いて庄右衛門は屈しなかった、西条、大門、大宮と村々を尋 ききようがはら ただ一人、奥州街道を江戸にとった、後で聞けば供の者はねあぐみて、桔梗原を横ぎったとき、崇高な峰つづきに白 しゅう 、、、、あいずかいどう 主に別れて仰天し、て 0 きり会津街道へ行 0 たものと思雪淡く美しい、日本屈指の山脈を仰いだ、しかし、敵を討 あか 、会津城下の二里手前の赤蜘まで、頻りに急いだが追い たれに行く男に山の美しさは何も与えない、江戸でみた美 しゅうしよう つけず、それでは奥州街道かしらと、又引っ返し周章ししい姿の、道行く娘をみたときと、同じ心、同じ感じだ。 もとやま て道中を急いでいた、そんな風だったから結局主人の庄右洗馬で失望し上野でも落胆し、本山でも得るところのな ひでしお , 卩冫。泊い付けなかった。 かった庄右衛門は、日出塩ではじめて、探し物を探し当て 江戸に着いた庄右衛門は、この世の見納めだと思うか ら、繁昌に眼を驚かしながら、見物に幾日かを滞在して、 「それなら事によると桜沢の弥兵衛殿のことではないか、 木曾街道を信州追分まで行き、そこから左に道をとらず、もし弥兵衛殿のことなら、この先の桜沢村というのに、倅 えいたいえこう やごろう 右にとって善光寺へ参詣し、永代回向の寄進の金を納め、 の弥五郎という人がいるから行って尋ねてみなさるがよ 引っ返して追分宿、今度は木曾街道を順にとって、二十三 年前とは少しずつ変った宿々に、自分の老いたのをなるほ 庄右衛門は又新しい失望を感じた、今度は探し当てて運 どと合点した。やがて庄右衛門は帰経の原に立った。 がいよいよ尽きたという、悲しみに似た我をあわれむ心で 「二十三カ年前に殺された人がありはしませぬか、は、、 ある。 にえかわ この帰経の原の近くでです」 庄右衛門が贄川と洗馬の間にある桜沢村へ入ったのは、 誰に聞いても知らないという。庄右衛門はとばとばと長三月中旬の夕暮である。故郷の釘子では漸く梅が咲き揃っ 井坂を越して柿沢へ入った。 た頃だ。 「この村に二十三年前殺された人はありませぬか、妙なこ桜沢の農弥五郎の家では、大勢の人声が賑わしく、何か せぎよう とをお尋ねしますが、その方の息子さんなり娘さんに、ち施行でもしている態で、門口に立「た庄右衛門にも線香が 匂ってきている。 と用があるもので、遠国からきたのでござりますが」 ここでも誰も知らないという。庄右衛門は塩尻峠を越し 「ご免くだされませ」