白刃を突きつけられた男は戦慄していた。白刃を突きっ ちゅうどお あいちゅう 幻けている男は武士の形であった。二人ともに一言一句を出「中通りより相中にあがりし年の顔見世に四代目団十郎、 ふじみろくぶ せわば してはいなかった、中蔵の眼の前の事件に登場している二不死身の六部にて世語場へ宿をかり、仲蔵下男にて草刈鎌 ひげ かみそり 人の唇から漏れてくるものは二つの呼吸だけだった、一つを研ぎいる、団十郎髭をそりたいと剃刀をさがす、仲蔵廻 はあきらかに恐怖、一つの方もやはり恐怖だった。 し者なればこの鎌で剃ってやろうという、これにて団十郎 相対していた二人の間に財布の取引きがやがて済んだ。真中にすまいサア剃ってくれと髭をしめす、仲蔵片襷にて 「今夜は黙って帰れよ、あすもいうな、一生いうな、迂濶 うしろに廻り、トヾ団十郎の咽喉へ鎌を引っかける、団十 に口外すると見つけ次第、命をとるそ」 郎閉じおりし眼をひらききっと睨む、その鎌の手をとって しやくじよう という武士態の男の声にも多分に恐怖があきらかにあつ前へ引出し、一寸立廻りあって錫杖の仕込みをぬきポンと あしおと なりもの た。被害者は頭を動かしていた間もなく橋板の上に跫音が 切る、仲蔵見事に返える、ドロンと遠寄せの鳴物を打込み たちゃく 段々と消えていった、中蔵は眼もはなさずに武士態の男の立役出できたりて詰めになるという筋なりしが、かの団十 挙動を見ていた、怖さと興味と寒さとに襲われたこの自殺郎が眼を開きて見物の喝采せる後再び喝采の起るに団十郎 未遂者がハッと思ったときはもう遅い、中蔵は嚏を一つ大怪しみて門弟にその故を問えば、そは仲蔵が鎌を引っかけ きくやってしまった。時に辻強盗の驚愕は極端に慌しかっ ながら不死身にて切れぬ故不思議そうに上から覗きみるそ た。逃げる意識のもとに体を動かしながら中蔵の方を振りの顔がよきにや見物が喝采するなりと答えける」 ( 三世中村 向いた。そこで辻強盗が見たのは帯をしない単衣が風にふ仲蔵手前味噌 ) わりと動く姿であった、しかし死を辿ろうとする男の顔は 中蔵が初代中村仲蔵ーー「忠臣蔵」の定九郎を改めて演 濡れた髪に半ばは隠されていた。 じただけでも有名なーーの前身であったことはもういうま 「あ」 でもあるまい。「手前味噌」の伝うる「鎌髭」の下男役で きやっ と辻強盗はいった。勇を鼓した彼奴は眼を剥いて中蔵を「上から覗きみるその顔がよき」は両国橋の夜盗にヒント 見た、怪訝な表情というものを舞台の上でいくらも見てきを得たものであることまでいうにも及ぶまい た中蔵であったがこんな表情にあったのははじめてだった 大正十五年五月短篇集「弱い奴強い奴』 ( 至玄社刊 ) 所収 ので、中蔵の方こそ却って「あツ」といった。 辻強盗は転げるように逃げて行った。
418 ばかりじゃねえぞ」 而倒と見て、腕ずく、面つき、声、攻め道具をつかう気「強情を張るのはよしなよ。心中でねえといったところ になり、形勢を一変させた嘉兵の権幕を、お松はさほどにで、百人が百人、心中だったと見てるもの仕様があるめ 取った様子もなかった。それとも、嘉兵の権幕に刎ね返さえ」 れ、却って強ッ気の我むしやらが出てきたのだとも、取れ「それが違うんだ。あたしや、これから戒行寺を知ってる ばとれる振返り方、も一ッ進んで、嘉兵に逆寄せの勢いが から行ってみるよ。滝造なんかと一緒に葬いをさせてたま あった。 るもんか、行って墓を壊してやるから」 「、い中心中というが、市さんまでがそういったんじゃなか 「駄目だいそんなことをいったってーーーそら、お代官所の ろうね」 者が来たツ」 「何をいやがる、市之丞が現場へ来て、これや心中に相違「えツ」 ねえ、寝返りを打たれて男の面を泥にしたが、ここで怒る手軽い嘉兵のわなにかかって、逃げ身に思わずなったお のはありきたり、俺は二人の葬いを出してやるといって、 松の手をとり、引っ張って駈け出す嘉兵に引きずられて、 一つの棺へ、滝造の死骸を納め、その手にお前の着換え持お松は急に襲ってきた怖さで足が速くなった。 ほっそく 物みんな抱かせたり、詰込んだり」 お松は、今にも発足して、旅に又出た市之丞を追いかけ てきやく たいのだ。そのためには代官所の手の者は大の敵薬。隠れ はえ ひ上くづか 「気の早えオッチョコチョイがいたら、比翼塚が立つかもなくてはならず逃げなくてはならなかった。 しれねえが、土地にはそんな馬鹿はいねえや。あすにでも かいぎようじ くめぎ 四 行ってみろ、戒行寺の裏の櫟の下に、滝造とお前が埋まっ てらあ。いつまでここにいたってはじまらねえ、お前のこ 四年経ち五年経った。 、ちこう きたしもうさながれやま よそ とは俺が引受けるから」 北下総の流山で生れた公が、成人して浪人姿を扮って 「世話を焼いておくれでない」 歩くのが体にビッタリつき、すこしの破綻も見せすにいる あいたいじに かど 「えらそうなことをいってると、相対死生残りの廉で代官のを、不思議がる者は故郷下総流山の老人達だけ、初対面 所から連れにくるぞ」 では立派な武士の金子市之丞。当の本人も故郷の人は白い 「構わないよ、そんなことをしてきやしなかったんだか 眼で見るばかりか、人間の持ち味まで引きさげて、悪くい
れて仕方がなかった。 兄と妹とは江一尸へ帰るという、ばろ吉は品川へ帰らねば ならぬ体ではない。 「ここまで折角きたのだから遠州へのしてみよう、それか ら先は風次第、どこへどう行くかわからねえのが、俺達の 一生だ、じゃあご免よ、おてるちゃんいい亭主をもって兄 貴に安、いさせなよ、はい左様ならご機嫌よう」 引きとめる袖の手を払い、名残りを惜んで跟いてくるの を追い返すようにしてばろ吉はぐいぐい歩いた。どこへ行 くのだか自分にもわからない旅を更めてまた振り出した。 よこはまたかしまちょう 明治の初年に横浜高島町に鉄道の停車場が出来た、その 工事が盛んな頃、ばろ吉は、御殿山時代よりぐっと年をと った顔をして現れた。 請負人高島嘉右衛門、その下請受人陸間堀の親分は「西 行」の吉をつくづく眺めていった。 てめえ てめえ 「手前も年をとったな、吉だな手前は、御殿山の帳場でヘ ンな芸をみせたなあ。馬鹿野郎め、なんだってあのとき飛 てめえ びっちょをしたんだ、俺の娘のおるいめが手前に惚れてや てめえ がるので手前を養子にしようと思っていたんだ、だのに不 意と行っちまやがった。見ろいおるいの阿魔はおかげで一 わずら と月患った、だけれど、それも今じゃあ昔話だ。おるいは かか 亭主運が悪くってな、くだらねえ奴の嬶になって苦労して やがらあ、ははははよ っ ) 0 陸間堀の親分は泣き笑いをした。 ばろ吉は鼻の髄がツーンとして一緒に泣き笑いをしたか 大正十三年「新小説』六月号
あだな 自身番のおやじはむく犬より、一足先に、なンと思ッたか綽名だ。 向う側の、稲荷横町へまッしぐら。その姿を通り魔と見た のか、 ためし 事のおこりは遊女と客との間にはよくある例の、殺し文 「心得たツ」 ま 恐ろしい声をあげて浪人ものは、一剣を前へピタリとっ句を真にうけていた浪人の中津川宇一郎、浮世の不義理に け、二、三度体を動かしていたが、忽ちからからと笑っ身をせばめ、町道場をそのまますてて遠国へ逃亡の道づれ とよくらや 、豊倉屋の抱えおしかを誘ったが女は相手にならず、態 て、 よく刎ねるはずのところを血の道の起っている際、ポンと 「いや、風か」 ちゅうばら と眼中、おやじなどもうない。抜身をだらりとさげて又手強く刎ねたのが宇一郎を赫とさせ、中ッ腹で帰るとて受 ばんや ふらりふらり。いよいよ藤九郎は万已むを得ず、血だらけ取った腰のものを、抜くが早いか斬りつけてからは乱心、 うちじゅう の浪人ものと勝負の順番に押詰められた気がした。出るも家中のものを追い廻し、おしかの外に即死二人、手負三 人、芸者も女らも男も家をからにして逃げ去り、宇一郎が のは勇気よりも溜息ばかり。 が、幸いにして浪人ものは、何に恐じたか、一声高く叫二度目にとって返した時、大世帯の豊倉は閑として鼠一匹 ひるがえ 喚して身を飜し、元きた方へ走り出すその早さ、通り魔走る音もしない。 はこの男の方だというほどに逸散、藤九郎眼をばちばちと藤九郎は豊倉の門ロで浪人の姿が消えるのを見届けたき させたが、どういう気というでもなく、走って行く浪人もり、その上の手段一向に思いっかばこそ、又してもウーム うな とるのみ。 のの後を追いかけた。 土地の岡ッ引も駈けつけ、眼の色を変えて立騒いでいる 大戸の隙の眼とロとが声々に、 あひるごろ 「あれツ、家鴨殺しを合点が追ツかけはじめたそ、この分ものの、豊倉へ踏込めばどこかに隠れていてエイツと、割 なら大丈夫だ。行こうぜ、見に行こうぜ、こ奴あきっと目りつけられようも知れぬと、恐れを抱いて我こそ進んでと しかし、一旦逃げまどった近所の弥次手 いうものがない、 宀見しかろ、つに」 つくだまち 家鵯とは石置場、ほんとの名は佃町、富岡八幡の真ン向は家の両袖に遠巻となり、川向うの連中は流れを挾んで押 おびただ 一一み、んばし いに川を挾んだ船つき、その小桟橋に裾をからげて客を迎並んだ、その数は夥しい とくあん える、料理つき一ときり金二朱の遊女につけた、その頃の「得庵さんが駈けてきた駈けてきた」 かっ い、ゾ
「おてるさん、お前泣いてるのじゃないかい」 と、いわれておてるは、怺えていた泣き声を取り外し、 堤の芽生えまだのびが足らぬ草の上に泣き伏した。 「なんで泣くのだい、わけを聞こう、どうしたわけで泣い てるのだい」 「おや」 「半さんーー・あたし、今度遠い処へやられますの」 びくりとした半五郎は、水絞りをかけるとて手にとった と泣き喋舌り。 しぶき 布をばったり水に落した、滝飛沫がばっと立ち、流れに写「遠い処、というのは一体どこなのさ」 だんだら った娘の姿は千々に砕け、段々型の波紋に揺れて半五郎の「横浜という処へ、二、三日中にやられます」 「なんだって横浜、はて、横浜とはどこの国にある処なん 見る眼には、ただこれ春たけのびた若草に、紅の花をちり ばめた美しさ。 だろうなあ」 「あたしもよくは知りませんけど、江戸よりずっと先です 「半さん」 って、どっちを見ても海ばかりの、そんな厭な処へやられ 「おてるさん、どうしてここへきた」 娘は晴れ着の袖を白い顔にあてた。逢いたさに家を抜けますの」 きょ - っしゅうけ 「江戸より先とだけでは見当がっかないが、その横浜とか 出してきた、という嬌羞の気ぶりではない、事情は聞か ないが判断はあらかたついた、物はいわねど若い心は形に へは何しに行くのだい」 「何しにつてーーーあたし売られて行くの」 出易かった、疑いもなく娘は泣いているのだ。 甲高くいっておてるはまた泣き伏した。 「どうかしたのかい、え。だしぬけにこんな処までやって 「売られて行く。ほ、本当か、おてるさん。お前に。し きたのは何かわけがあるだろう。ね、おてるさん、わけが 親でも清左衛門は、娘を売らなくてはならないほど、貧之 郎あるなら聞かしておくれ」 みぎわ をしているわけじゃないだろう、だのに、お前を売るなん 綱布を水際へ引きあげて、流れから足を抜いた半五郎は、 関下から堤へ間近く立って、伊勢野村の岡ッ引清左衛門の娘て、本当だとは思われない話だ、そして売られて行くとい おてるの黒い髪が微かに波うっているのを、不安心な眼っ うが、何に売られて行くのだい」 「お女郎に きで瞶めた。 。こつ ) 0 異人のおもちゃ かん しゃ・ヘ
続けられている頃。 に説し みぞれ 「で、あの墓ですが、お松が、いやお松さんが、霙が・ハラ土手の一本道をふところ手で、プラリと歩いている着流 パラ降ってる晩に姿が見えねえので、もしやと気がついてし素足の浪人姿は、靄から出て靄へはいる、金子市之丞だ 戒行寺の無常場へ行ってみるとーーー出刃庖丁で滝造の墓のった。 下を掘ってました。俺が行ってみたときは、もう半腐れの びたりと急に市之丞が立ちどまったのは、土手下の畑に 滝造を、お松さんが引ッ抱えて、泥ばッけになって引ッ張近く、草の露と一緒に寝ている乞食の姿が、地をはなれて り出してました。お松さんはね、墓の下にあった自分の物罩める靄の下に見つかった故だった。 たぐ を、気狂いみてえに引ッ手繰りに行ったのでさ」 市之丞は、袖を露に染めていた。濡れてしまっては厭う 「そんなことをしたのか 気にもならぬと見え、ズカズカと近づいた土手の上。 「心中じゃねえ、滝造の奴は自分で勝手に突ッ殺したん「嘉兵、おいらだ。ちょいとここまで来い」 「だれでえ」 だ。あんな奴に、あたしの物を塵一ツも持たせておけるも 「おいらだよ」 のかと、こうお松さんは青くなっていうのでね、俺もゾッ 「市之丞さんーーーか、まだこんな処にいたんですか」 としちゃって二の句がっげず、ただ見ていました」 「川向うのさる人の処に遊んでいるのだ、きよう発足する 「自分で死んだ。滝造が」 はんきようなり から別れにきた」 「お松さんに訊いたんだがそのわけは半狂也で、返事をし ません。それから滝造の横ッ面をビシビシ殴ってたが、殴ガサガサと嘉兵が、露草と角力をとるようにして、あが ってきた土手の上の道。 るたびに、近くで見ていた俺の顔に、腐った滝造の皮だか 肉だか、ジグジグしたものが引ツかかってね」 「お立ちですか。そりやどうも、じやご機嫌よう」 れいらく 乞食に零落している男でも、その晩のことはよッばどひ「うむ。嘉兵。この間の話のウラを聞きにきたんだが話し てくれるか」 どかったと見え、嘉兵は話をやめて嘔吐しかけた。 「裏 ? 裏にも表にもみんな話をしてしまいましたのに」 「そうじゃねえだろう。お前、その前歯の上下五、六本、 とねがわ ーこ、ひょどうして欠いた」 三日経った朝まだき、靄が包んで見せぬ利根月レ 「こ、こりや喧嘩で」 こりひょこりと白帆が動いて、船頭唄があちこちでうたい もや
をたてるのじゃ、それがせめても亡くなった両親にかけた若蔵はあっ気にとられて眼を円くしたが、さすがに何事 ひときわ わび もいい出さない。検校の妻は日頃よりも一際、強く内にみ 不孝の詫じゃ」 しい足らぬところはあっても、誠心は皆に響いて奔しるなぎる力が声に節々にあらわれるのを、珍しいと耳をすま のを検校は覚った。眼に顔を見ているだけに検校の妻の感した。 わらべ 「僧都のおさなうより不便にしてめしつかはれける童あり 動は殊に強かった。それでもということは若蔵の、せつか くの心を傷つけるように思われて、夫婦は押していえなか名をば有王とぞ申しける、鬼界ヶ島の流人ども、今日は既 つつ ) 0 に都へいると聞えしかば、有王鳥羽までゆき向ひてみけれ 「それでは金は進ぜまい、当世珍しいこなた様の心、玄鹹ども、我が主は見え給はず、いかにと問へばそれはなほ、 罪深しとて一人島に残されぬと聞いて、心憂しなども愚か 感じ入りました、のう若蔵殿、こればかりは許してほしい うづきさっき なりーー唐船のともづなは、卯月五月にとくなれば、夏衣 ことがあるがど、つであろ、つ」 うな たつを遅くや思ひけん、弥生の末に都を立ちて、多くの海 「さ、何か知らぬ、いうてみなされ」 じ 路をしのぎつつ薩摩潟へぞくだりける」 「こなた様の後の床に琵琶が六面ござろう」 はたと撥をとどめて検校は、静かに、掌を伏せて琵琶の 「これが、琵琶というものか、いかにもあるわい」 面をなでさすりていたが、忽ち発止と叩きつけ、力をこめ 「どれなりと気の向いたのをとってくだされ」 て打ち砕いた。 「やすいことじゃ」 一面をとった。検校は手にすると直ぐそれが、最愛の琵「あれ、何をなさる」 しかくびぶ しるししとうおもて 琶であることを知った、標は紫藤、面はしほど、鹿頸、舞妻の声する方に、笑顔をむけて検校は、 ひのき えびおびやくだんてんじゅ げんふくしゅ 「狂いはせぬ、心は確かじゃ、のう若蔵殿、こなた様も驚 絃、覆手はから本、海老尾は白檀、転手は花輪、柱は檜、 ゆいしょ らでん らくたい いてござろう、これなる琵琶は由緒あるもの、尊き御方の 落帯は螺鈿美しい青。 たかね 「さるほどに、鬼界ヶ島の流人ども、二人はめしかへされ御前にも出たる名誉のものじゃ、銘を「高嶺」といいます のじゃ、それを今砕いたのは何事ぞと怪しく思うでござろ て都へ上りぬ、今一人残されて憂かりし島の島守と」 ながもの 琵琶を抱いていた検校は、突如として長物の中では「祇う、わしが心はロよりもじゃ」 いろり ありおう 王」「六代」などとともに愛誦する「有王島下り」を語り砕けた名器をとって、囲炉裡の火にくべた。めらめらと 燃え立っ煙は、雪の夜に感じたあの仏壇を焚いたのと同じ つら
かれこれ十年にもなる今時、かりそめに出会ったのが元 で、交際をされてはたまらないと思うので、顔に憶えはあ りながら、一応わからない振りをしてみた。 「忘れましたか。浜村だよ」 といいながら、あたりへ気を兼ねて、低い声でロ早く、 「ほら、償勤兵のさ、万年一一等卒の」 と説明して、直ぐに空笑いをしてみせた。 「ああ浜村さんでしたか、暫く」 「やあ暫く。どうしたいその後、今は何をやってるね」 浜村はすぐに言葉づかいが粗雑になって、ズケズケと身 許調べ染みた問い方をはじめた。 「私ですか、どうも失敗続きで、不景気で弱ってます」 それとなく、浜村に希望を持たせない口ぶりでいった。 新橋の電車ホームの人混みの中で、 しゃあしゃあ 「失敬だが、君は一聯隊にいたことがありはしませんか」浜村は洒蛙洒蛙として、 おおわだ と先刻からジロジロ見ていた痩せて筋ばかりのような男「不景気は俺だって同じくさ。この間、往来で大和田に会 にんかん が、急に傍へ寄って来て、肩を叩かぬばかりに、 ったぜ。ほら、志願兵で入ってきやがって少尉したポャポ 「そうでしよう、ほら、野砲の、一聯隊で」 ャした奴よ。あいっ今は何とかいう小ッばけな役所へ出て こしべん かとう、一くじろう と念を押すようにいった。 いるそうだ、腰弁さ、なっちゃいねえ。加藤策次郎を憶え 「ええ、いました。どなたでしたつけ」 てるか、ひでえ残飯上等兵の、新馬係で、左肩前にして、 ふなかわせいすけ うらわ ぎよしゃ 隊と船河精助は白ばくれて答えた。一と目見たときからこ風を切って歩いた奴、あいつは浦和の方でガタ馬車の御者 ねずみ 児の男が、野砲第一聯隊で、どぶ鼠の司令といわれ、兵隊仲をしてやがった、なっちゃいねえや」 えいじゅかんごく しようきんへいはまむらさんじ 混間で怖れをなした、衛戍監獄卒業の償勤兵、浜村三次であ京浜線の電車が入ってきたので船河は、 るのは知っていた。兵隊でいる間は仕方がなしに、肌れ物「あなたは、電車じゃないんですか」 に触るように敬遠した償勤兵だが、地方人になって、もう とカマをかけた。早く追ッ払いたかったのだ。浜村はい さわ 混血児兵隊
えけ・もと つけたと見え、褄先に泥をなめさせ、襟許のみだれから胸 転けっ踏まれつ逃げて戻るのがまるで潮先のよう。 そうはつまげ おおごと おろ 「やあ危ねえ、大戸を卸せ、飛び込まれると大事だ、家のあらわに足の浪人もの、惣髪の髷は根がぬけて後へだら り、蒼くなった顔の半分ほどは返り血でべっとり、抜身に 中のものは火の許に気をくばれ、往来のものは逃げ込め、 - 一りち しうまでもな ついた凝血が右の拳にまでついているのは、、 逃げろ」 とみおかはちまんぐう と、声々が稍遠くからする。富岡八幡宮の鳥居前、そこく人殺し、騒ぎの張本人はまさにこれだ、藤九郎はその浪 たび はごった返す人の波、揉み合い押し合い土橋向うへ行くも人のひょろりと歩く度に、日をうけてきらめく刃ととも かつばうひらせい に、眼の玉をぎろりと二、三度光らせ、思わず知らずにウ あり、鳥居をくぐるとて先を争うもあり、割烹平清などは すでに早く戸を卸したらしい、永代寺門前町の家々も戸を あいかわまえまち 「あの野郎か。相川前町に巣をつくっていやがった筑後柳 おろし、仲町も亦大戸をがたびし卸しかける態。 なかつがわういちろう がわ に、、ツこツナ。さあ困った、 川の浪人だ、中津川宇一良と力しオレ 藤九郎は右往左往に逃げてくる人の渦、その真ただ中に 突ッ立って、ビクともせず、騒ぎの根元は確かにそッちとあの野郎はべら棒にやッとうがうめえ、まともに向えば四 の五のなしに藤九郎が半分にされ、この世をおさらばだ、 東を向いて動かばこそ。 まりしてんよこちょう かねこよこちょう 藤九郎の後では近くに金子横町、魔利支天横町、遠くはウーム」 しん じしんばんよこちょう たたみ横町、前では稲荷横町、自身番横町十二軒など、逃森としてしまった仲町の通り、戸を卸しても隙間から目 込むだけの人は逃げ込んで、往来に残ったのは胯へ尾をはと鼻だけ出し、怖いもの見たしの人の家が少くない。 ふる さんで怯えているむく犬と、自身番のおやじが皺を顫わせ「藤九郎が梅本の前に突ッ立ッてるぜ」 「そうか、じゃあ奴があの気狂いを退治るだろう、もし藤 て棒を抱え、切なそうな顔をしているのを除けば、合点の こんにち 九郎が逃げでもすれば今日以後合点の藤九郎とはいわさね 藤九郎ただ一人のみ。 「まだ真ッ昼間の深川を、富岡のお鳥居前をも恐れやがらえ、それこそこっちで合点しねえわい」 いんが そんな話し声も因果と藤九郎の耳へ流れ込む。 郎ず、騒がせやがるのはどこの畜生だ」 藤看板に偽りなく合点がならぬと藤九郎は、気早に一本刀「べら棒め、藤九郎は男だ、逃げるものかい」 しよせん んそり に反をうたせ、相手のけだもの、すわ現われろと待った勇気を我からつけてみたが、所詮それは附焼刃に過ぎな 、浪人ものはと見れば地に足がまるでつかず、宙を踏む が、何事もない。と、鳥居前からはずッと門前町近く、ひ かんし よろりと現われた一漢子、黒紋附の着流し、その裾を踏みように、ふわりふわり、十二軒の曲り角まですでにきた、 いつわ やや また つま、き ちくごゃな
はたもと 桜田門の変があってから、旗下の厄介と称えられる二男 「さあ、よほど小さな物らしい」 こう囁き合ってはいるが、急に近寄って行く気にはなれ三男、何もすることなしのぶらんさんの、雇われのロが開 なかった、で、二人は互いにそれとなく譲り合いたそうでかれた、坂下門事件などが、ますますぶらんさんを狩りあ あった。 つめさせ、その後、世の形勢の険しさにつれて、ぶらんさ 見ている側では、血気な武士が二人現れない前は、たれん多用時代がめぐり来って、いろいろの用途に振り向けら もかれも同様に、怪しいこの光り物と首っ引きの気がしてれ、殊にこの頃は、江戸にはいってきている異人警衛に、 したが、こうして乗り出した武士があってからは、もう自尠からず採用されていた。 二人はぶらんさんという私語を侮辱と聞いて顔と顔とを 分達はただの見物の位置にある気がしてきた、で、当然、 責任をのがれた軽い気もちで、勝手なむだ口が、まず他人見合せた瞬間に、四つの眼は期せずして決心の光を放っ た、思わぬ反動で忽ち勇士になりかけた二人は、つかっか の背後に首を縮めている奴からはじまった。 と近づいて行った。その足許近くになお一道の光をあげて 「さむれえ早く見届けなよ」 みやとがわ いる怪物は、竜の眼ではないかと思われる形をしていた、 「いよう宮戸月」 さまざまに交わされる私語を衝いて、この混っ返しが後様の知れぬ不思議な凸凹をもった真ん丸いこいつは、地面 にびたりと吸いついた一つの生首から、金色の気を吐いて の方から高らかに叫ばれた。 いるのであった。 若武士はむっとした。 宮戸川といったのは、明かに浅草の観世音縁起をとって「ほツ、これは」 なまくびごくもんくび 「あーー見ろ生首、獄門首」 いったものだ、大変古い昔の昔、釣を垂れ網をひく武蔵の ひぐまはまなりたけなり 国宮戸川の漁夫の羆の浜成、竹成兄弟が江戸の浦で観世音鞭をとり直して若武士はめいめい一足後へひいた。すわ の像を引きあげた、それを今ここの地の上で光っている物といえば鞭をあげて叩き伏せる意気組だ。 あては かたず うが に当嵌め、尊像発見であると仮りに見ていった穿ちだつ見物は固唾をのんで控えた。 た、が、見物の多くは黙っていた、僅かに二、三の者がこ ぐうい の寓意を解し、く、くと低く笑い殺した。 その中に、ぶらんさんという私語が、若武士の耳にはい ったので、二人とも怒った。 まぜ むさし さま なまなま 「見ろこれを、この獄門首、なんという生々しさだ」 「うむ、生きているようだ」 でこばこ