「その前に申しておきますが、妖盗矢島伊助がいった仲間 掟の話のなかに、日本左衛門とはわれら仲間の総名で、一 湯からあがって来た隠居虚斎は、屋根越しにみえる海人の者だけの異名でないというのがございます、ゆうべち ・ : けさは曇天に色を濁され、初島が海靄に遮られているよっとそのことは申しました。伊助が申すのでございます と知ってか見もやらず、茶を淹れましようと座についた。 と、日本左衛門の仲間にはいる者は、壮年英気のもの、人 ゅうべの与右衛門は白毛混りの無精髭があった。けさはをあやめし者、親達の勘当うけし者、盗賊して逃げたる 剃られて頬の皺がかえってくッきり見えている。 者、これらをその一派にひき入れるときは初めにすこしの 「髭を剃るに鏡がいらぬとは、与右衛門殿はご器用でござ役目をいいつけ、わずかのことを不調法いたしたりと捌き いますねえ、それも鏡にうっして見届けて剃っているかのかけて、死罪を申付け、刃引きの刀にて首筋を叩くと、切 ように、さッさッとやる、あれは出来ぬことでございまられもせぬに死んだと思いこんで死に亡せるものあり、気 ひと す。私どもは他に剃ってもらうか、鏡をみてやらないと出抜けして夢うつつの者あり、これらは仲間から追出し、あ 来ませぬ、不器用です。二番茶ですがもう一杯どうでござまり阿呆な者も追出し、十人に一人は弄り給うなと動顛せ いますーー風呂の中でうかがって驚きました、会津の大盗ざるがあり、これを一派のなかに引き入れる、されば仲間 森文之進のことを、与右衛門殿がご存じとはでございまの者は悉く一たびは死せる者なりというのがございます。 す。やはりそのお話はどなたかの留書にございましたもの俗に度胸試しというのでございましようが、泥棒ながら何 か度胸試し以上のものがございますように取れるのは、買 与右衛門がいうところでは釈迦堂村津田弥右衛門の『明被りでございましようか。それともう一ツ、この一派に総 和雑記』の写しでみたという。明和というと徳川十代の将大将が一人、その下に四人の頭がいて、浜島庄兵衛も伊助 代軍家治の、「何から何まで諸人明和く ( 迷惑 ) 」と悪口されも、四人のうちの一人だということでございます。それか 門た時代で、約三十年の昔のことである。 ら又、四人の頭のうちにスレ事 ( 内紛 ) 起ったるときは、三 ほかほか 左ゅうべお話になりかかった森文之進の次の話、後に江戸人に憎まれし一人が、日本左衛門を名乗って自訴し、他々 日で大盗となった会津生れ三代目日本左衛門、「その本名はのものの罪を引きかぶる、そのかわり残る三人は改革を施 の」続きが承りたいと、国訛りのある与右衛門のいい方して仲間を続けるというのがございます。これでございま とどこお に、虚斎隠居は何の滞るものもなく、話を続けた。 すと、私どもが高名な方々のご本で鵜呑みにいたしている
とめがき かえって名もない人で筆まめな方の留書にございます。そ盗賊が、そのとおりやっていたとしましたところで、その れとても金十郎が日本左衛門の一味徒党だとは気がついて下ッ端の者どもはそうでございません、上でいったことが しいます おりません、どうも実相というものは隠れがちでございま下へ行くほど狂いが出ます。親の心子知らずと、 す。今五右衛門の金十郎が捕えられると、世間はあんな人が、親泥棒の心を子泥棒は知りませぬから、迷惑するのは むじっ が悪事をしたとは嘘だ寃だといいましたが、本人の金十郎私ども一同で、親泥棒はのはほンといい気になって、ただ そらうそぶ はさっさとご牢内の格子に布を引きさげ、自分で縊れて片の泥棒と泥棒が違うと空嘯いている間に、われわれ一同の 付いてしまいました。この石川の金十郎にいたせ、日本左迷惑は積りつもりますのでございます。お話が逸れまし 衛門こと浜島庄兵衛にいたせ、出羽でご処刑の日本風の神た、中継ぎのお話がまだございます。出羽上の山の湯治客 だったお人は、私知合いに会津の大盗森文之進のお話をい 与茂七にしろ、非義非道で積みあげた不徳の家から盗み、 貧困窮苦の人々を賑わすと、こう申しております。出来てたし、次に」 いつの間にか、ここの二階座敷から屋根越しに前にみえ も出来ないでも、そんな風な望みを抱いた泥棒が、その後 に出ておりますのは、天正の昔の日本左衛門のことはいざる海が、月に照っている。その先々は煙るがごとく遠い、 心なしか彼方に灯が瞬いている気がする。初島でもあるだ 知らず、延享から宝暦へかけての、日本左衛門一派とおな じ盗賊の筋でございます、と、こうまあこのお話はなるのろうか。 でございます。さてそこで、高名なお方のご本にはそれで「これも会津のもので、後に江戸で大盗賊となった、日本 ございますから、前申した日本左衛門の一味一類の残り左衛門を名乗る三人目の、この者の本名はと申しますと」 百姓与右衛門が眉毛をぐッと開いて、ロ許に綻びが出か を、根こそぎ絶ったそのうちの一ッ一ツが、風の神与茂七 かったのを噛んだのでもあろうか、元の相好に戻ったのが やら金十郎やらでございます、一派一類は多かったから、 その他にもあったでございましようが日本六十余州大小名目にもとまらぬ僅かのうちのことだった。 と、到るところの諸代官方が、永年の間、力を協せて残党談者は夜更けの冷えに心づいて、襟掻きあわせながら、 窓からみえる屋根越しの海を眺めていった。 狩りをやりとげた、そのことは、どなたもお書き残しがご ざいません。私は、盗賊に知合いがございませんから不案「更けましたな与右衛門殿、無益の話にご退屈でございま 内でございますが、中継ぎをいたしましたお話に出て参るしたろう、又あすのことといたしましようか」 ような盗みはすれど非道はしないと自分免許でいっている むやく
おちゅうど 伊勢に出る途中、落人仲間の五人にかわって、一宿の礼心 いじゃねえか、今度のことは何だ彼だといったところで、 、農家の夫婦に与えてしまった。 つまり、残念だからなんだ」 門太郎はこのことを父にも母にもいわず、ただ、妻にだ と、門太郎は妻に涙をみせた。 け具さに語った。 門太郎は父にも母にも別れを告げず、ふいと居なくなっ 「簪を失ったときおらあそう思った。てッきり、こいつはて、上野へ駈けこんだ。妻のたかにも別れらしい別れは告 1 三ロ 、死ときまったと、けれど助かって、まことに、しがねげなかった。門左衛門夫婦はそれと知って、民蔵という老 こしれ え、落人さ。伊賀路で、泊めてもらった上に握り飯まで拵僕に、旨をふくめて迎えにやった。その民蔵までが、上野 えさせたんで、礼に遣わす銭はあったんだが、先々が長え にとどまって、帰ってこなかった。 ことだし、路用が心がかりなんで、おらあ緋縮緬をぬ 世間は大局より局部が好きでした。王政復古の大業をわ で、礼の心だといって与れちゃったその時は、なんともな かろうとするよりも、公方さまへ御恩報じの脱兵に人気が かったが、そのあとで妙に淋しくなってきやがってなあ。 立ち、官軍は弱虫さ、脱兵さんは何といっても武芸が出来 何たか、こう、お前と生別れでもした気がしてよ」 るから比べものになるものかねと、本気で信ずるものがは と、三日、屋敷にいる間に二度まで、しみじみ、繰返しとんどでした。大砲小銃がものをいう時節に、そんな物は ました。門太郎にとって恋女房のたかだったし、たかにと嫌いだとばかり、刀や槍の一騎討を夢想して、戦えば勝て って恋婿の門太郎だったのでした。 るものと、独り決めにしている弱点を、事の相違はあれ 門太郎の大坂詰になったのは慶応元年の秋で、婚礼からど、その実正味のところはおなじく、古くから伝わって、 満一年になるやならず、恋女房は十九歳、恋婿は二十二歳そのときの江戸人にもありました。だから、坊やはいい児 でした、帰ってきたときの門太郎は二十五歳、たかは二十だねンねしなと唄う児守ッ子でさえ、何てまあ意気地のな 二歳、二人とも長けていました。 い脱走一ッ出来ないでさあ、と、悪口いう流行が、世間を 海鼠溝ロの屋敷を門太郎が懐かしんだのは三日三晩だ縦に流れ横に貫いていました。門左衛門はロでは慶喜公御 け、四日目には上野の彰義隊へはいった。その前の晩のこ趣意に背き奉る奴といっているが、心の中ではほッどし と。門左衛門にそれを喜ばぬ色がある、慶喜公の御訓戒にて、これで溝ロ家御代々に対し、合わせる顔があるとひそ 反すというのである。 かに思っていました。 ひる 「おやじはああいうけれど、おいらにしてみりや、口惜し 上野の戦争は五月十五日の未明にはじまり、正午までに つぶ
も、藩学の陽明学から出て老子莊子を学び、それから一転心構えを堅くとった人だった。 幻して、芭蕉の俳諧に傾倒した、この方が、三六にとって興物慾に淡く、名誉をも好まなかった。勤務は精励で、忠 味があり、値打を発見していた。 烈の心掛け抜群だった。そういうことのためだろう、生涯 三六は俳号を梅里と撰んだ。どういう典拠からかわからに、加恩加増をうけること実に二十六回、そんな藩士は長 ないし、俳号の上に何々斎とかいう風なものがあったのだ岡牧野家に例がないとまでいわれた。 ろう。明治六年までは、『梅里句集』『梅里俳諧文集』とい 或るとき、藩主が三六を召して、 ったような肉筆本があったのだが、故郷における岡村家最「その方の勤め向きよろしきとは申しながら、たびたびの 後の人であったお松・ーー滝七の妹が退転するとき紛失し褒賞、その方のごときは当家にとって古今稀有である。そ て、それなり鳧になった。或いはとうの昔、漉き返しの紙の有様さながら鯉の滝のばり同然である。ついては、その つづらふすま に再生してしまったか、葛籠襖などの下張りにされてしま方の名前の三六は軽々しく好ましからぬゆえ、今日、名を ったか、それとも特志家が保存しているという奇蹟みたい とらすによって改めよ」 なことになっているか、紛失してから六十九年、一向にわ「はツ。まことに有難き思召し、生々代々の御高恩にござ からぬままになっている。芝の増上寺には梅里の句の額がります」 あがっていて、そのころ江戸詰だった藩士の自慢話の一ッ 「只今、考えたのだが、その方の出世は鯉の滝のばり同然 になっていたというが、今その額は、これも又、いっぞやなるによって、滝の一字をとり只今の名の三六の六を一ッ の炎上で灰になったのだろう無くなっている。長岡の悠久進めて七とする。すなわちその方を滝七という」 山の額面に句がたった一ツだけ今も残っている。 「有難く存じ奉ります」 岡村三六の梅里の俳名は、長岡を中心にして北越の各地その日から岡村三六が岡村滝七となって、牧野家あらん に聞え、江戸その他から来た文人墨客で、長岡に足を入れ限り世襲の拝領名前となった。これが初代の滝七だ。 たものは、必ず梅里を訪れた。 初代滝七は八十四歳の長命で死んで、家督を嗣いだ長男 梅里は一面に俳人だったが、 一面に武士である矜恃と義の信吾が、二代目滝七となった。 なげう 務とをたなかった。武士にして俳人で、けっして武士を 二代目の滝七は藩の学校崇思館で、小林虎三郎、鵜殿団 俳人の方へ巻き込もうとしなかった。むしろ武士の方へ俳次郎などに師事した。小林虎三郎は佐久間象山の高弟で、 人を加えてこそ、真に俳境にひたったといえる、そういう吉田虎二郎 ( 松陰 ) と二人並べて、象山門下の両虎といっ ためし
田道灌の末孫で、水戸の頼房が幼いころ、一時、母と仰い がある。水戸家にも面目がある。両方の面目が立って和解 そばめ だのが、家康が晩年、信頼しきった側女のお梶の局といっする、そういう余地が双方にない。 て、伯母である。春日の局が駿府に行って、竹千代 ( 家光「ご返辞を承らずも、よろしゅうござる。水戸家、明日の の童名 ) 世嗣たるべきを家康に訴えた。その志に感じ、家ご出仕をそこ許、おとどめ下さらぬか、天下の御為にござ 康を説いて、目的を遂げさせたものが、お梶の局である。 お梶の局がいなかったら、とうてい、春日の局のみのカで「何と仰せある」 は、家光を将軍につかせることは覚束なかった。 と備中守が聞き直した。″出仕をとどめよみという、そ 太田備中守は伯母の関係で、水戸家とは特別な間柄でもれはなにゆえかと反問したのである。伊豆守はわざとそれ をはすし、 あり、一族の太田新蔵は水一尸家で重臣の一人となってい る。それやこれや、所縁が濃いので、伊豆守が喚んだので 「明日の一働きは、天下に人衆しといえども、そこ許の他 ある。 ござらぬ。申すまでもござるまいが、そこ許ご先祖道灌公 「そこ許は、この頃たびたび水戸家へまいられておられま以来代々の永らく、この江戸、又は江一尸近くは如何でござ ったろう。諸豪、兵を用いて合戦に日を送り、百姓町人は とたん 「左様にござります」 塗炭の苦に悩みしとは、。 こ存じのとおりにござる。その後 ひとえ 備中守は老人である。伊豆守が、 四海穏かに只今のごとく相成りましたるは、偏に権現様 ( 家康 ) 御威徳でござります。近年、不心得のもの少々あっ 「水戸家は、まだ当分、ご出仕はないでござろうか」 わざ いって備中守の眼をひたと見つめた。備中守の眼て、よろしからざる所為ござりましたが、我が日本は神 に、みるみる困惑が出た、それを見のがす伊豆守ではな国にござればそれらの不心得も未然に事露現し、それぞれ 片付きましたるは、ご同慶のいたりにござる。さりなが 平「水戸家には、明日、ご出仕でござるか」 ら、天下三名家の一たる水戸家にて、些かのことより悶着 吉再び、備中守の眼に困惑が出た。 かのごとく、世上に取り沙汰いたす昨今のこと耳にしオ 鷹まことに、中納言頼房は、明朝登城して、大老、老中し、心あるものは深く憂い悲しみおります。世には分別不 に、真向からぶつかる決意をしていた。ぶつかれば和解に足の者すこしありて、騒動を勇壮と間違え、なにかと、益 はならない、十中の九の九まで決裂である。幕府にも面目なきことを水戸家へ申出で炭火に汕をそそぎ、吹き立てて
で、死霊のたたりを怖がり出し、弥吉の修業をいい立てに約東したな、違いますなんて云わせねえ」 姿を隠したものと俺は見ている。だから当人がいった通「へえー・。・面印ございません」 り、江戸だかどこだか知れるものか。さればこそ持物一帯「面目ねえとも、それでも男か薄情野郎め。一一世と約束し たより を抵当に、一杯に金を借りたんだ。いわば借りたのでなく た女に手前はどッこから一度の手紙をした、云ってみろ たわ し」 売ったのだ。見返り証文をとったのは、立ち際の体裁だと 俺は見ている」 「済みません」 「そう云われると、いよいよそうだ」 「済まねえと口先だけで済ませられるか、可哀そうに手前 親を殺した御家甚の手引き同然のことをした惣兵衛に みてえな男でも、一生一度の男だと思って、お金はの、二 額太郎の憎みは強く向 0 ているが、それにつけても、ふと十八にもな「て今だに娘でいるんだぞ。ゃい、今の世に、 ころにある儀八の髪の毛、こうな 0 ては、だれに渡そう者女は十六、七といやあ、もう嫁入りだ、「一十歳の声を聞け もなかった。 ば子持ちだ、それが二十八にもなって、娘で年増になっ ええいツ、親が親ゆえ、子の儀八にも憎みが廻 0 て行くて、手前を待 0 ている、やい兄貴の俺が見ていられるか のは仕方がねえ。髪の毛など棄てちまえッ とは思った し」 が、薄月夜に青く白けた儀八の顔が眼に浮んできて、額太「全く済みません」 郎はふところへやった手で一ッ掴みにしたばかりの紙包み「手前は、殺されちま「たから親がいとしいのだろう。そ しわ からはなした指で、すぐ皺を伸ばした。 うでねえと云うなら、十年の間、ただの一度も親も弟も見 わらじ 「額 ! どうでも手前、もう一ペん長く草鞋を穿く気か」 にこねえ、そんな奴に親いとしいがあって耐るかい。俺は と、荒くなった弁吉の声で、額太郎の思案を結ぶ夢が破きのう手前の面をみた時、家へ引き摺ってきて十年以来の られた。 捌きをつけたかったのだが、この親不孝の薄情者には、わ 太「やいそれで済むか ! 性根を据えてこいと云ったのはこ ざと何も知らせずに村へ帰らせ、びッくり悲しがらせて思 のこのことだ。十年前の十日ン夜に、手前、お金に何とい「い知らせてや 0 たら、少しは馬鹿に気がついて、お金にむ 六た、その返答からまず聞こう」 ごい仕打ちをしたのは悪かったと、後悔するかと思いの外 ひと 「へい」 に、うぬの薄情不義理は棚にあげて、他人の所為に怨みを 「へいだと。そんな返答を聞きたかねえ。手前あれと夫婦持 0 て、敵討ち敵討ちとそればツかり云 0 てやがる。手前 しわざ
な役柄の桜田出役、神田出役を伊勢屋の小僧すら棒振りが「御番入りがあるのに何で弁当の菜を持ってきたのだ、い 通るとかげ口をいうようになっては末だ。しかも両御番二らぬことを」 十組の数多い武士の中で、時弊に眼をつけて微力を嘆くも安西がいうのは、新たに番士に加えられた者がある、そ のが、たった一人の松平外記であるに至っては末世の末世の者が古番の者には菜を用意して献ずるのだから、菜はい らぬというのである。 桜田見廻り役、神田見廻り役、いずれも六尺棒をつき立外記はちらと不快な色を浮べた。が、ただ ) 微笑して、善 てさせ、風紀取締りの大任を背負って立っ気概が昔ばなし悪の批評を下したくて、胸をついて出たがる言葉を、抑え となった今では、六尺棒のあとから行く御番の士は、よたつけた。 よたの中気病みでなければ、腹を凹ましてそっと歩く虚弱 者だ、ひどいのになると番士は屋敷で遊んでいて、家来が ひらばんし 身替りになって歩く、勿論、そんな怠け者を取締るため 松下外記は御供押えという身分だから、平番士よりも一 はたもと はんぎよう に、大名一手持ちの辻番、旗下連合で置く組合辻番、この階級上だった。御供押えの上役には押え判形という階級が 1 一ちょうがか・ 双方に姓名を記した木札を巡視の都度置いて行く仕組みにあって、これは御帳掛と呼んでいた。 かえだま はなっているが、家来が替玉で名札を持って行くから、勤 怠の取締りには一向ならなかった。 新たに番士に編入されたものが、しかに辛いものかは実 松平外記は、こんなことが市中一般に知れわたっている験者の筆記が残っていて明白である。厳格なので辛いので くる のに、上長は心づかぬふりをして厳格な刷新をしようとも はなく、女々しい陰険と貪慾に窘しめられたのである。 この分で行くならば、御家人と総称する徳川直参番入りと呼ぶ新参の番士は、手をかえ品をかえ、古番の の武士は、あまり遠からぬ世に心の髄まで腐れ、時代の変士の機嫌をとらねばならなかった。精神的にも物質的に 化がもし起ったら、何の役にも立たぬものになると思われも、不合理を是非ないこととしておく外はないから、或る てならなかった。 者は婚約を破棄させられ、或る者は借財に一生苦しんだ。 もっとも激しいのは飲食のことであった。諸入費お構いな 或る日、いつもの如く菜を入れた弁当を持ってきた松平しで江戸の善美をつくさせようとする古番の者のご機嫌を たか 外記を、同僚の安西伊賀之助が軽く嘲り笑った。 とるのだから、弁当のお菜ぐらい多寡の知れた費用だと思
黙っていろツ、土性骨を叩き直すのだ、小二才の今ツからつあるでなし、往来も途絶えて闇の向うに打ちよせる波の そんな真似をするようじゃあ、大人になったら何になるの音許りが妙に淋しく聞えてくる、「チョッ、云い値で乗り だ、大方やじり切りか盗人だろう、叔父さんはなあ、このやあよかったに、・ ケ工もねえ銭惜みをしたものさ」と胸の やぞう 年まで、やじり切りや盗人はしねえ」とまた折檻。壁隣りところに弥蔵をつくり、得意の芝節を中音にやって行く横 合からぬッと出た黒い人間「待て、待て」「へェ」「気の毒 に住む講釈師石川一山、日向を机にうけて写本をみていた ふきだし がブッと失笑、その後芳蔵に「おぬしは此の間折檻してい だがの、聞いてくれ」という言葉の調子だけでも知れるそ み、むらい たがあの子はどうした」と訊いた、「あああれかえ先生、れは武士、「なにもこのようなことをして身過ぎ世過ぎを ため 江戸へ置いちゃ為にならねえから、国へ帰えしたよ」「そするのではない、近頃の世のなりゆきで尾羽うち枯らして うかい、ヘンなことを訊くようだが芳さん、あの時おぬし是非もなくすることだ、世が世になれば倍にして返してつ は今にやじり切りや盗人になるだろうッてなことをいってかわす、持合せの金を貸してくれ」と姿は誾でよく見えぬ つばおと いたね」「あいさ、それがどうしたね」「じゃあ今のおぬし がチャリンと音を聞かせる鍔音、いやだといえば斬りとり の稼業は何だね」「先生ふざけちゃいけねえ、俺あ、こうをすると文句にいわずに音で利かせる辻強盗、悪浪人が出 見えても職人だよ、盗人と俺の稼ぎとを一つにしちゃいけやがったなと芳蔵は胸をドッキリ。「黙っているのは不承 知か」いやがらせにまた聞かせる鍔音、「旦那いくらもね ねえ、先生、巾着切は職だぜ、知らねえのかなあ」 んです」「なにー これが真剣なのである。 品川へ繰り込んで早帰りをする粋な男、 いくらもねえとはいわさぬそ」「是非がねえ、みんな出し ます、旦那、すつば抜きだけは」「素直にすれば何もいた さぬ、身共とて無益の殺生はきらいだ」芳は観念してお納 鮫洲の仲間の参会があってから帰り途にグレ込んだ品川 宿小屋というのへあがりはあがったが、惚れたという女戸羅紗の二つ折、二十三両二分と銭四百、それだけを出す ではなし多寡が通り一遍の遊ひ 。、、、日減に・ハツをつくつ手から引取った武士「神妙のいたりだ、礼をいうそ、行 おうへい け」と横柄な指図、が、芳蔵はジッとしている、「コレな てハイさようならと出て駕籠屋にあたってみると「参りま よふ しよう参りましよう」と掛声ているくせに夜更けのせいかんで歩まねえのだ」「旦那、足が」「どういたした」「ふら 高いことをいう「べら棒め」と捨台詞をのこしてかかったっくのでさ」グスリと武士は忍び笑いを一つして「それあ 上しず のが八ッ山下、海ッばたの掛茶屋も葭簀をまいて人ッ子一気の毒千万、性をつけてやる」一足よって背中へ廻ってド
姿、乞食じゃがなというと喜八は眼を白黒し、 ち、ここ堀江の、しかも荒木与次兵衛芝居で『タ霧名残の 「その女こそ江戸で俺が手にかけた奴の妹、俺を狙って遙正月』を書卸し、坂田藤十郎さんの伊左衛門、霧波千寿さ 遙やって来たにきまった、ようし今から行って返り討ちにんのタ霧で、大坂中の人気を吸い寄せ、藤十郎・千寿の芝 してくれる、得物はねえか得物はねえか」 居が日本随一ツウことになったはそれが始り、それもこれ と、尻引ツからげ飛び出して行った。 も近松門左衛門さんの筆のカ、その門左衛門さんが以前は 小半時すると、喜八が濡れ手拭をさげて、ゆで章魚みた坊さんツウことだ、と堀江芝居の語り伝えをいって聞かせ いに赤くなって帰って来た。どうしたどうしたと小一はじ め幾人かが面白がって尋ねると、喜八は深刻そうな顔つき だが、喜八は袈裟ごろもを脱いで抛り出し、祇園香煎み 容態をして、 す屋針若狭小鯛が九ッ狐が三疋尾が七ッと、くらい酔っ 「探したがわからねえから、風呂へはいって唄を三ッうたて、女相手に踊り狂っている坊主作者とばかり思えて得心 って、女湯の面々からご祝儀を貰ってきた」 出来ず、 「なあおい甚じい、 このごろ市中ではやるお染が何とかで こういう風な喜八が、初日はいつだか見当がまだ付かな久松がどうとかだという子供の毬唄は新出来で、作者は豊 ふざけ い冬の或る日、小屋の中ががらンとしている舞台の上で、竹座の坊主めと俺は睨んだ。イケ巫山戯たズグ入め、唄が 掃除番を捉まえていい出した。 拵えたかったら和讃か念仏踊りの文句でも拵えてやがれ、 「甚じい、俺は知らなかったが、豊竹座のこん度の演し物俺は曾我の時致と花川戸の助六が口をきいても、豊竹座の は坊主が筆をとったのだとね。てヘッへのへだ。坊主が書坊主作者は気に食わねえ」 くのは戒名だと思ったら浄瑠璃を書くのか、呆れた坊主ッ と、陰ロとはいえポンポン毒舌をふるった。 一ゅ、フ くりが現れやがったものだ、どこのズグ入だ、大坂か河内 豊竹座は市の側の芝居といって、昨年竣工して八月に操「 か京か奈良か」 り芝居で開けて今年ーー明和四年八月までつづけたが振わ と大の不機嫌。甚左衛門じいさんが、どこの坊さんか知なかった。十月になると豊竹此太夫が出てやや振ったが、 らんが、坊さんだからツウて浄瑠璃書かんもンでもないとまだまだたいしたことはなかったので、次興行でこそと座 前置きして、エヘン名人の近松門左衛門さんは八、九十年元の豊竹此太夫が喜八のいう坊主作者に筆を執ってもらっ 前のこと、新町扇屋のタ霧が亡くなって三十五日経たぬう たのが十二月十五日初日にしての興行の企画。
入費がかかり、藩がどう迷惑しても他国から稼ぎにきて、 の御用が町内町内に下がって、あっちでもこっちでも飼大 そのままここ一年半ばかり居着いた研師のわたしには関係を可哀そうがり、野良大をつかまえて身代りに立てる、そ がないことだ。その虎を殺す気になったのはその他のことれが出来ないものは、わが飼い犬に好きな物を拵えて食わ からで、俺が始末をつけねえでだれがやるのだ、という気して、せめてそれを心やりに虎に食われに出してやる。金 が . 起ったとい、つのはこ、つい、つことからだ。 公という八百屋さんの犬なぞは、八百屋さん夫婦が頭を撫 虎は生きている大を毎日食うのだ、死肉だと嫌 0 て見向ぜて因果を含めて出してや 0 たが、いよいよ虎の係の者に きもしないが、生肉だと喜んで食べる、その餌食が大きな金公を渡すとき、八百屋さんはうまい具合に金公に逃げて 犬二匹と中大が四匹、一日分の犬の数が六匹なのだ、こい ゆけるようにしてやった、それまで首にかけてきた曳き綱 つを月三十日としてみると百八十匹になる、一年に積るとを外したのが金公に判るようにした、それだけでは心許な 二千百六十匹のグマ公や八公が食われるのだ。将軍家御預いので金公の尻をそッと突ッついて、逃げろと合図をして けの虎といったところで、明治の世に出来た動物園がそのや「たのだが、金公は振返って、八百屋さんの顔をみあげ 頃あれば、そこへもって行けば、、 しろいろためにもなるのて尾を振っただけ、逃げようとしないばかりか、餌差大の むだ た、ただ預か「て生かしておくのでは冗だ、一番いいのは溜りがあるのはそこから見えないが、命の短い多くの犬が 絵師とか彫師とかおもちゃ屋とか織物職人とかの名人上手様子をさと 0 てギャンギャン吠えているのが遠くでする、 に見せて、渡世上の学問にしろといって、その後で何とでその方へ金公がとッとッと行きながら振返って八百屋さん も始末をつけたらいい、こう思うと、じッとしていたのでに尾を振った。 まないた は、日に日に八公クマ公が六匹ずつ、虎の腹の中へ消えて 爼へのった鯉というやツだ。又、挽物師の家の犬が御 ゆくのが我慢がならず、下手グソながら一心でその趣意を用犬ときまったと判った晩、縁あ「て家の犬になったお前 書いて、御家老月番の方のお屋敷へ投げ文というのをやつを、むざむざ虎に食わせたくないから、今から他領へ逃げ た。一匹の役に立たない虎のため十日で六十匹の生きものて行けよ、虎御用の餌差犬はここの領分内だけのことだか が死ぬ、それもあるにはあるが我慢がならないとわたしが ら、逃げて天命を全うしてくれと、ご馳走を食わせて出し いうのは、わたしの泊っている宿屋の窓の向うに大工さんてやったところが、その犬は二度振返って駈けていった、 夫婦が住んでいた、八ツになる男の児がいて犬と一緒に嬉その後、七日か十日かに夜中になると、山の中からか何か しそうに遊んでいた。虎が江戸から着く前々から餌食の犬しらないがふッと帰って来て雨一尸を外から肢で引ッ掻きグ