江戸 - みる会図書館


検索対象: 長谷川伸全集〈第14巻〉
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1. 長谷川伸全集〈第14巻〉

323 ランプ虎 わたくしはこれも武芸といたしておりますもので、それも お目にかけます、と今度は長押と長押がへの字形になって 首の唄 いるところにいて、天井の方から畳の上に起っているのに 向っての、片手づかいの刀法を二、三みせました。 明治三年の春だ、わたしは江戸とロ評でいったものだ こんなことがあったので荒井さん、釜本さん、その他の 方にもわたしを観る眼がちがって来た。わたしは地面の歩が、東京へ、わずか二分の金をもって庄内を後に六十里越 行も学んでいるので、たとえば菅笠を胸なり腹なりにあてをして村山地方へ出た。虎殺しは帳消しになっているから てこれを落さないように歩く、こんなことは手解きだ。歩罪人ではないかわり敗残の卒だ。村山には旧庄内藩の支藩 くのは三ツのときから歩いている、いまさら、歩くことをがあったが帰順降伏したあとで、羽振りが利くどころの騒 ( ーこ十日ばかりいたその辺が山も河もお とやかくいうには及ばないとする人がある、それはそれでぎではなかった、引冫 なじだがきのうの夢だった。焼野ヶ原の新庄を通って峠へ ご勝手だが、歩くということは日ねもす入用のことだか かかったところで、後になり先になり十五、六歳の男の独 ら、勝手放題の歩き方でない方がいいのだ。 こんな風なことからはからずも、明治戊辰戦争に出たわり旅の者がいた、そんなのが珍しいのではなかった、江戸 ヘイヤ東京へ戻るという、女の二人旅三人旅、十二、三か たしが初陣のあとで次のような書付を貰った、そのころの 感状の文句が今では面白いだろうからその文句を聞かせるら、七、八ツの子供ばかりの旅、いろいろなのがあった。 鶯が鳴いている好い日和で、自分の影が足許にあるのが見 とする。 えた暖い日だった。 庄内農兵隊の内 どこから来たのだ、とわたしが聞くと少年は頬をすこし 荒井三左衛門手附属 あか 折井虎之助 赧らめて、越後です、といった。額に汗の縞があった。越 後のどこだ、と聞き返すと少年の眼がすこし険しくなって 刀一腰 右ノ者事、親共ハ四国ノ由、当時当国へ罷越、為当来て、黙って顔をみていた。わたしは庄内から来た、わた 藩、可致尺、カノ心懸貞実 = 相聞得、依之、分捕之内ヲしのような軽い身分のものはおかまいなしで、赦されて圧 以テ貸遣シ候条、此先キ成功ノ節ハ差遣ス可ク、尚御内で働いていたのだが、かような時節には庄内のようにみ じめになったところにいてはかえって邪魔なので東京へ出 褒美可給候事。

2. 長谷川伸全集〈第14巻〉

でございます」 四 「やはり、この世に永らえておりますか」 茶を啜って味を楽しんでいた虚斎隠居が、魚見崎の彼方「江戸にな、泥蔵ならば」 の空に湧く雨雲を眺めて、 「拙者はお前さまが、横土泥蔵とばかり思いこみました、 「是庵殿ご夫婦は、この空合いでは、通り雨におあいです違いましたか。江戸にか、左様で」 の、つ」 「小僧の話がまだ残っておりました。あの小僧め、日本左 与右衛門は膝に手を置き肘を張って黙っている。 , 卩には私がなるというので、日本左衛門になると如何な 「さて三代目日本左衛門のお話の前方に、念を押しておくることをいたすべきものかと尋ねましたところ、義賊をい たわむ ことがございます。お前さまは会津様の隠密方で、仙台御たしますという答えでござりました。義賊とは戯れにこ 領分に永らくはいっていて、このたびお役満足につき、保そ、そんな者があって良いでござりましようか。義賊と強 養のお暇とでもいうのでございましよう。あたりましたの って申したくば欺くという義の欺賊でござりましようか な、矢島伊助、風の神与茂七、今五右衛門の金十郎、庄兵 「申されるとおり、この度お役を相遂げました」 衛の日本左衛門、これらが、われらは天下の金銀を平分せ 今度は、はツきり武士になって答えた。 んとする一派にして、むかし戦国の覇業に近しと、いった 「お前さまはその昔、会津表で、横土泥蔵を召捕りに行かそうでございます。非理窟をつけて己を欺くでござりま れたなかの一人か、その弟さんか」 す。戦国の世に覇業というは、海内平安が狙いでなく、わ 「あの時、同役中一番の年少者でした」 しが出世わしが繩張り切りひろげでござります。気の毒は 「やはり左様でございましたか、と、横土泥蔵を只今でも人々の食い物つくる者と人々の家道具つくるもの、人々に 目 代お捕えになりますか、四十年目の捕物でござりますな」 売り次ぐ者でござります、これら農工商は武者草鞋に踏み 与右衛門は笑って答えずにいる。 つぶされ戦争馬に蹴ちらされます。日本左衛門とその一味 左「それでは与右衛門殿、話の続きでございます。三代目のは、非義非道の財を掠めるというロの下から、夜討ちをか なぞら 日日本左衛門に擬えてしかるべき者が日本に三人おります。 けて財を奪うとき、人を殺し、人を傷つけます。殺された 5 その一人はすでにお判りでしよう、私、この虚斎。今一人のは人の親か、人の子か、女房子があるか、養うべき幼き はお前さまご存じないから申すに及ばぬ。残る一人は横土弟妹があるか、それ考えたこともない遣り方で、盗みはす すす

3. 長谷川伸全集〈第14巻〉

五カ月余り経って、世はさまざまに急激な変化をみせてい る最中でした。 溝ロ門左衛門は八百石の旧幕臣で、本郷菊坂田町の″海 鼠溝ロ〃といわれた屋敷で生れ、何代もの当主とおなじ く、世を去るはこの屋敷でと、考えもしなかったが、そラ 決まっていた、それがけさ、暗いうちに、古く家に伝わる 名香の〃雙月〃を、書院の床の間で焚き、世を去るのでな 、屋敷から立去る、せめてもの心やりに、武士の作法を おこな 光る涙のうちに行った。〃菊坂の海鼠溝ロ〃といわれたほ どあって、黒塗りの門の出来もいしカ 、両袖と、塀がわり なまこしつくい の左右の長屋とが、板瓦に白い海鼠漆喰、江戸職人の巧み な技術が、通りがかりのだれの目にもついたのは、何代と ~ 溝ロ門左衛門六十歳、妻みを五十五歳、嫁たか二十二も知れぬ以前からだといわれる。 歳、この三人が連れだって、門跡橋をわたり、左に曲って その屋敷を棄てて出て、時間にしてまだ三時間とは経っ 南小田原町一丁目の往来へ出ました。二百二十日が去ってていません。住み古り、生き馴染み、家代々の歴史を門左 久しくなる日の、まだ朝のうちだったので、日の光がいく衛門夫婦よりもはるかに知っている屋敷が、この後どうな らかかッとしていて、片陰が往来に鮓かです。そのついでるか、考えても考えつけないことでした。空き屋敷を買う のごとくに、この舅と姑と嫁の三人から、地の上へ斜めに人どころか、借りる人さえなし、風雨に叩かれて立ち腐 影法師が落されました。その影は痩せが目立っ三人の姿れ、海鼠溝ロの名とともども朽ちて行くのが、眼にみえる を、薄い墨色の侘しいものに写しました。 ようでした。 明治元年の十月近くの一日で、江戸が東京と改められて 舅と姑とは、ふた足違いぐらし 、こ、もの云わず、重たげ から五カ月余り、徳川家の継嗣に田安家出身の亀之助が就な足をはこんでいる。嫁は長い睫を下に向け、姑のうしろ いて駿遠二カ国で七十万石を賜うとなってからも五カ月余に引き添って歩いている。とばとばとしたこの三人の姿 り、ことにこの三人に関係の深い上野の戦争があってからは、真ッ昼間だけに、かえって、慘憺たるものを感じさせ 明治十二年の雨

4. 長谷川伸全集〈第14巻〉

198 させたそのあとを受け、六代家宣、七代家継、ともに、狩りと叩きのめした、その意趣返しだということにはならな 猟に関係なしだった。 い。が、昨年から紀伊大納言は大老、老中のテに引ツかか 八代吉宗が復活後の放鷹の遊びは、慶応二年の廃止までり拘禁ならぬ拘禁をされ、しかも、その原因は、由井、丸 ずッとつづいた。とはいえ、豪壮な放鷹が好きでない、又橋の乱にかかわりあるもののごとくなっている、紀州家の は屁ッびり腰で馬に乗せてもらっている将軍は、当然放鷹士で、悲憤せぬものはないが、幕府側の手の打ち方に隙が をやらなかった。 ないので、どうする方法もない、ただただ、ひそかに口惜 それはさておき、吉田平三郎である。真野庄九郎を手にし涙にくれているばかりである。 かけた後で、どこかで自殺する気であったらしいが、死遅そうすると、紀伊大納言が竹箆返しらしいものを、すで れたかして姿を晦した。 に食ったとすれば、次の番は水戸中納言でなくてはなるま と、その一方では老中のうちに、このことを執りあげ、 問題にする気のものがある。それがだれだか表面には現れ その水一尸中納言頼房は、幕府が紀伊大納言を山井一件に ないが、水戸家へ厳重な掛合いがあるはずだと、江戸城中結びつけたとして、心のうちで憤っている。いっかは、時 の内議が、水戸家へ、その日のうちにそッと通知されてい来らば老職どもにひと泡吹かせてくれんと待っているとこ た。そういうことは、かねがね、水戸家で目をかけているろへ、幕臣は直参、水戸の家士は陪臣、いかなる理由があ くせごと 茶坊主が如才なく働くのである。 っても、尊卑を忘れた曲事、厳重に処分するといきまいて 江戸城内秘密通信ともいうべきものを受取った水戸家いる、老中の密議が、次々に水戸家へ、例の秘密通信で知 は、〃よしそれなら来い〃と構えていると、はたして、老れてきたので、頼房は前後をつくづく考え合せ、がツしり さしいだ ーしでやとばかり 中から公式に、〃吉田平三郎を差出さる可し〃といってき肚を据え、老中どもと、畳の上の一戦こ、、 た。その言葉に背くことの出来ないように、 着手した。 〃将軍、聞しめし、陪臣の身として、直参を討っこと、憎水戸中納言は、表向きは内々の謹慎という形をとり、一 きことなり、と、上意あり〃 面で、老中に挑戦した。 と、幕臣の威厳を立てる、将軍の意志を明らかに示して「打棄ておけ」 かかった。こうした老中側の腰の強い出方が、足掛け三年というのである。黙殺による挑戦である。 前に、紀伊大納言、水戸中納言の連合で老中の威勢をびし そのうち日が経つが、水戸家から何の音沙汰もないの きこ しつべい

5. 長谷川伸全集〈第14巻〉

あった。 日、訴人があって由井正雪、丸橋忠弥の乱が未然に発覚 さればこそ紀伊大納言の鋭い舌鋒が、加賀守を槍玉にあし、丸橋はその日のうちに、お茶の水の自宅で捕縛され、 げたのである。 由井正雪は同月二十六日駿府の宿屋を包囲されて自殺し 大納言はまだいうべきことがあった。 かたじけの 「加賀守さしたることなきに拘らず、病中お成りを辱う 由井正雪一件は丸橋の磔その他の処分だけでは済ま したるは、おのおのの相役なれば、お執りなしよろしきゅず、飛沫が紀伊大納言頼宣に及んだ。頼宣が由井一味の首 えなるべし。尾州はわれらの兄ながら、平生、横着ものに領ではないかというのである。 て、おのおのヘ軽薄せざるゆえ、かかる時お執りなし悪し 江戸城中で、尾張中納言光友、水戸中納言頼房、井伊掃 きと見えたり。よくよくこのこと、お考えあるべし。尾州部頭直孝、酒井讃岐守忠勝、松平伊豆守信綱、阿部豊後守 かくべっ はわれわれと違い特殊の士なり、異国より我が朝の大将軍忠秋など列座で、頼宣の査問がひらかれたが、証拠とすべ というは大樹 ( 将軍 ) なるべし。副将軍というはそもそも きものなく、事なく済んだ。というのは表面、その裏で たがことぞ、これ、尾張大納言義直卿なりしなり。副将軍は、三代将軍家光が世を去り、家綱が四代将軍に就いた かきん 病気につき将軍家お見舞いありたりとて、後代の瑕瑾には が、幼年なので、家光の遺命だというロ実を設け、幼将軍 ならぬことなり」 輔佐という名の下に、頼宣の紀州帰国をそれとなく禁止し ずばりずばりといい切った。 た。禁止は慶安四年の秋から約十年の間、ずッと続いた。 伊豆守信綱は肚のなかで、 " さてこれを申し開くとする紀伊大納言が江戸に軟禁の状態に置かれたことは、水戸中 と、どういうたものか〃と考えたが、名案がない。阿部豊納一言を奮激させた。 : 、 カ幼君輔佐の大任という美しい名が 後守も松平和泉守も理窟の上だけでも、何か繕っていう言あるのでどうすることも出来ずにいる。 葉はないかと考えたが、やはりない。 と、その翌年ーーー承応元年十月二十六日の夜、水戸中納 やむを得す、老中三人が、赤面するだけで、一言の挨拶言をして幕府の重職と、正面衝突させるに足る事件が起っ っ ) 0 を返すことも出来なかった。 率直にいってしまえば、まことに見てはいられない図と それは或る人殺し一件だった。 いうものである。 一」、フい、つ一」とか つ ) 羽立 たいじゅ こ 0 はりつけ

6. 長谷川伸全集〈第14巻〉

「そりや大変だ」 が出て行った、そのあとは八郎独りである。ふとみると、 すでに裏口を押破り、幕兵が口々に何か叫びながら突入水がはいっている丼と、握り飯が置いてある。扶けられ している様子だ。表ロでも叫び声が入り乱れ、戸の破れるたのだ。隠匿われたのだと気がつくと、涙がほろほろ出 音が火災のようだ。 「一偲ウ丞、ど、つしよ、つ」 薄暗い納屋のうちで夜になるのを待ち、そッと立ちでた 八郎は思わずいった。振返った徳之丞が怖い眼をして睨八郎は、喜び勇んで歩き出した。間もなく星のある夜空を みつけ、 仰いで、的もなく歩くのが怖くなった。 「臆 ~ 炳」 足は自ずと江戸へむかった。 一喝して刀を抜き部屋から飛んで出て行った。八郎は独江戸へ戻った八郎は麹町三丁目の親の家へ、さすがに行 りになると襟許がそッと寒くなった。 きかね、通い番頭の家が四丁目裏にあるので、そこを、 「いけないそ、ここにいたのでは殺されるにきまってい夜、そッと訪れた。 る」 親は我が家へ隠匿いかね、深川の親類に預けた。八郎は ぶるツと一ッ顫えて八郎は刀を抜き、廊下へ眼をつぶつ 今までの玄武館風を商家の風俗に更め、日のあるうちの外 て飛んで出た。 出を避けていた。もともと商家の子だけに、やってみれば 闘いは裏口でまず始り、すこし遅れて表口が激しい斬合取りなしが紛れもない商人風なので、われながら安心し 、 ) よっこ 0 て、昼も、夜も、追い追い外出を繁々するようになった。 八郎は夢中で刀を振った。振って振って振り捲り、腕が 秋になって夜な夜な渡り鳥の声を聞くころの或る夜、 あげも下げもできなくなり、息もつけない苦しさを覚え、 郎は妙に睡れなかった。 どことも知れすばッたり倒れただけは知っている 夜が明けると、外を人がばたばた駈けて行くのが引きも うるイ、 どのくらい時が経ったか八郎は知らない。蒼蠅くどこか 切らない、何があったのかと軽い気で外へ出た。 いやいや でいっているので、厭々、眼をさますと、日の光が眩しく 八郎は人の行く方角へ弥次馬になって行った。その途中 眼を射た。そこは農家の納屋の奥で、日の光は糸のようにで水戸の天狗党が殺されている、それを人が見に駈けてゆ すきも 細く隙漏ってきているだけだ。 くのだとったので、急に怖気づいて引返した。 : 、 八 5 が眼をさますと、そばに今までいたらしい農家の男しきれないものがあって、とうとう、現場まで行った。そ 学 ) 0 かくま どんぶり

7. 長谷川伸全集〈第14巻〉

かみ おやじゅく 三年三月品川の相模屋で上を張り通した親宿の遊女には惜 しがられた女、小股の切れあがったあの女、世帯もちは良 かあないぜと陰口をされたが、さて痩世帯をはってみると しよう 噂と正とは大違い、巾着切の女房にはあッたらものだと長 屋中で評判、女がよくて如才なく、親切で気丈「芳さんも あの商売とは思えない美しいところのある人なンだと、夫 婦ともに、惜しがられながら他人のものをものしてくらす おおや 巾着切が、家主さまにまで気うけがいい、 というのだから 余ッばどへン。 かた 両親が亡くなった甥の三吉を引きとって横山町へ堅気の 奉公、芳蔵とお杉とさしで食べるタ飯の膳に向う前での話 にも「なあお杉、あの三の奴だけは白い人間にしてえよ、 江戸でいう巾着切、上方ではチボ、その筋ではモサと符俺あこンな職人になってしま 0 たが、せめてあ奴あ角帯を 牒でよぶ、いずれにしても練磨の技、小手先の器用さ、勿しめさせておきてえのさ」「はんとだねえ、あの子は利発 わざ 論間抜けでは出来ない業、といって利口がすることでは勿だからねえ」「それを俺あ気にしているのさ、手前のこと 論ない、近頃西洋の物語にルバンなどという人物、江戸のをいうじゃねえが、俺あ餓鬼の時分にやッばり利発さ、ど 巾着切のような器用さで、読者を煙にまくと聞いているうやらあ奴が俺に似ているので心配でならねえ」といって つじうら が、万が一にも自慢していいものならばルバンなどは付焼 いたのが辻占、主人から帰されてきた三吉は使いに出て棒 しばぶしよしぞう 刃、ここにお話する芝節の芳蔵のごときは古今に稀な早業先はきる、銭箱へチャリンと投げ込む銭を手のうちで二、 しり 切の達人、それでいて男ツ振りが江戸前で気質がさらりとし三枚チョロリと胡麻化す始末、いちいちに尻がわれて世話 巾 ている、綽名の芝節とはひとしきり流行った、喧嘩調子とした人が渋面つくり「困りました、よく意見をしてやりな どどいっ 名いういなツこい都々逸の唄いツ振り、その名人というのださるがいい」と置いて行くが否や芳蔵は「奴ふざけやが 0 てあら から鬼に金棒蓮ッ葉な女の子が血道をあげそうな人間であてこの碌でなしめ」と引っとらえてポカリポカリ「手荒な る、しかし芳蔵にはれのお安くない女房お杉がある、 ことをおしでない」と縋るお杉を振りとばし「ええ手前は 名人巾着切 わざ まれ つき やっこ

8. 長谷川伸全集〈第14巻〉

明日とは八月十九日のこと。江戸中の人気を深川へこの遙かかなたの橋の東詰に、催し物が近づくのか、大きな 日、吸い寄せる企画が、うま過ぎるはど成り立ったらし日傘の太閤茶が、日をうけて火のごとく見えた。 宣伝がよく効いて、江戸中の人がみんな繰り出したよう な群集オ ) 祭見左隣りは中年の商人、右隣りは職人風、と小左衛門が思 渡辺小左衛門はその日が非番、八幡参詣かたがた , ったのはその時だけで、ふと気がつくと左は年増女、右は 物と、永代橋にかかったのが昼の八ッ ( 午前十時 ) ごろだっ 商家の小旦那風といつのまにか変っていた、今の商人と職 この日、神輿の渡御は一が八幡宮、二が大神宮、三が春人はと、前を見ればそれらしきはない、後を振返ろうには ひしひし 人垣根が犇々となっていて、肩をゆする自由さえない。揉 日の宮の順で、けさも早く人出のわりにすくないうちに 東から西へ、船で渡る恒例通りのはずのところ、祭事に手まれ揉まれる人々は、それぞれの縦の線で、離散はあるが 1 一うしゅう 違いがあって遅くなり、それでも五ッ半 ( 午前九時 ) ごろ水合集なく、左は老人、右は女と逸早くもう違った、と気が まさ 上渡御が終り、雨後の常で、水かさ増り、底の流れが強かついたあとは、左は医生風、右は武家の奉公人とすでに はや ろう大川の上で、しばしの間やすらいの神輿船を、小左衛早、やつぎばやの目まぐるしさに、変っていた。 というなかで穏かな人の話声さまざまが、小左衛門の耳 っ 門は群集の人の肩越しに見た。引き汐どきというに、い あぶく ) 十 6 、つこ 0 もより水際高く、濁った流れに泡沫の玉が川一面に立ちっ 消えつ、荒涼の感すら抱かせるなかに、神輿船は三隻、花「あたくしはお祭を見物してから、浄心寺のお開帳へおま いりしますよ」 車のついた吹流しをへさきに立て、楽人の奏楽が聞え、そ ふなおさ 「お宗旨は違うけれど、お供しやしよう」 のまわりには八梃艪の曳き船が九隻、舟長を入れて一隻に 九人ずつ、柿色の筒袖、紺の腹がけ、むきみ絞りの手甲脚そう云えば先月十五日から、身延山七面明神の出開帳 が、深川の浄心寺にある、人出のうちにその参拝者もいる ロ絆でいた。 の ことだろう。 小左衛門は真黒々に、人で埋まった橋の上を、人の胸に 獄 と 地押され、人の肩に揉まれ、汗と髪の汕のいきれに噎せ返る ばかり、体中をべとっく汗に濡れ上らせながら、歩くとも「気をつけろ、橋が落ちるそ」 どこやらで云う声がした。 なく押され、動くともなく推しやられた。 、 ) 0 、ら ) 0

9. 長谷川伸全集〈第14巻〉

「へえ、熊ですか旦那、お袋が中気で寝ているという、で極内だが六歌仙の催しだ、大伴の黒主、文屋の康秀、在原 4 ′」ざいましょ , フ」 の業平、僧正遍昭、この四人にもそれぞれ趣向があるが、 「うン、あの野郎が目についたなら捕れ」 小野の小町になるのが、三年前から金に飽かして探して、 「へえ」 やッと探し当てた日本一の美い女だ、それだけでも呼び物 「今の慌ててあと返りした奴があいつだ」 だが、喜撰法師とお迎え坊主が十二人、これが大変だ、み 「へえ、あれが熊だったのですか」 んな若い女で器量よしだ、この十三人が気を揃えて髪の毛 「 , っン」 を剃って、本物の青坊主になって出るのだから大層なご馳 手先の仲間で、人後に落ちない鍾馗ですらが、星はあれ走だ、それはいいが若い女だ、祭のあとをどうする、とな ども明るからず、人家はあれど内から漏れる灯は届かず、ると、話が出来ているから面白い、その町内で十三人の女 のその時、手にした提灯をかざして見はしたものの、逃げの子の頭の毛が生え揃うまで、客分として養うというのだ て来て又逃げ戻った男が、白地滝縞の単衣を着て、黒ッばぜ」と、特ダネの披露に駈け廻る者もあった。「十三人の そこな い角帯をしめ、草履を穿いていて、髷は刷毛先がばらりと娘坊主か、そいつを見損ったら一期の不覚だ」と、好奇の 散っていた、とは知ったが、熊とは鑑定が出来なかった。 心を沸き立てられた者、若い男のみに限らなかった。 その晩、追って行った手先二人が見付けたのは、懐中物深川祭の宣伝は届きすぎるぐらい届いた。 をとられ、往来をうろうろしていた松屋町の荒物小間物紙 その深川祭は文化四年八月十五日のところ雨で延びた。 等の商人だった。 十六日が又雨、十七日も降り、十八日も昼のうちは雨だっ 月が変って八月にはいると、深川祭の噂が到るところでたが、日暮近くなって晴れ渡り、永代橋の上から富士山が 汕濃く立った。「踊りッ子が衣裳を一日のうちに十二たび薄墨色にくッきり見え、江戸中がタ映えて金色に染まっ 更えるとよ」と、どこから出た話だか伝わった。「と聞い て、何とかいう町内では、何をくそッというので、当日に と、タ映えの江戸市中を、祭番付売りが、 なって踊りッ子の衣裳を二十四たび着更えさせ、あッと云「明日の深川八幡御祭礼、番付」 わせるというので、ごく内々に越後屋に註文したと、越後 とおよそ三、四十人も出ただろうか、街から街へ、「明 屋お抱えの仕立屋がそういった」とまことしやかに触れ廻日の深川八幡御祭礼」と声々が、到らぬ隈なきほどに宣伝 る名がある、かと思うと、「今年一の呼び物は町内の名は 学 ) 0

10. 長谷川伸全集〈第14巻〉

女房たった。二人とも越前船のときと違い、血色がすツか統、枕についても眠りならず、明け方近くなって、とろと り良くなっていた、彼の流れ渡りの金三郎が伝助、したがろとした者もあり、ゆうべからの愚痴をまだいい続けてい って思いついた三味線なしの新エ夫の門付、独り喧嘩やヨるもあり、溜息ばかり吐くもあった。 イヨイの花見などという物真似はやらずに仕舞った。伝助朝になると銅又がゆうべより形相をもッと悪くしてやっ はそうだが、おなじ喜んでも女房お為の方は、もう一ッ喜て来た。芝居の者一同を寄せ、「えらいことじゃ、只今お びがあった。伝三郎がお蝶を想うこと、実のあること、こ掛りお役人様から、芝居興行差止めのお申渡しと一緒に、 とによったらお蝶より上と、つくづく見てとっての安心か 役者達は即刻、当所を引払わせろと、お沙汰が出た」と、 溜息をつきっきいった。 次狂言の惣ざらいを舞台で、次々にやって『千本桜』 公儀の沙汰とまで行かず、その藩だけの沙汰でも、ご無 連館となり、伝三郎が忠信の狐の狂いで使う仕掛物をあら理ごもっともと従わねばならない時代だけに、芝居が差止 ためていると、芝居の金主はじめ五、六人が、真青になつめとなっては、草鞋を穿かねばとは知っているが、出立に て駈けこんで来た。あまりいつもと違う形相なので、土間は仕度がいるから、あさって出立に歎願してくれと役者一 や桟敷にいた座頭の扇舎はじめ、何かは知らぬが驚いて起統から銅又に頼むと、「そんなことをしてもムダだから、 ちあがると、金主の銅又が声をふるわせ、「江戸表で御改わしが呑みこんでいる」と、当り外れの酷い興行商売人だ 革が仰せ出されたと、御本家からたった今お知らせがあっけに太ッばらだ。では、まず朝飯を食べようと箸をとる あらた た、芝居などはやっておられぬ、あすの朝はお差止めの御と、芝居小屋の者が飛び込んで来て、「お検めじゃ、お検 沙汰が出ると、お重役方からご内意があった」と、手先をめじゃ、早く隠れてくれ隠れてくれ」と知らせ廻った。 ぶるぶるさせていった。江戸表とはいうまでもなく徳川幕伝三郎の宿でもおなじ知らせに、空き部屋の押入やら物 府のこと、御本家とは加賀金沢藩前田家のこと、富山はそ置の中へやら隠れた。伝助ははばかりにはいっていたの 月の分家で十万石前田出雲守利保の城下だった。 で、これは隠れるにも及ばずそのままでいた。 ぎよッとした一同が舞台ざらいを取止め、今夜はとにか お検めなるものは、違反者を無理やりつくって、点数稼 満く寝たがしし 、と、不安心ながら楽屋泊りは楽屋、宿のあるぎをする底意地悪いやり方でなく、怖がらせて一刻も早 ものは宿に帰った。 、芝居者を出立させるというやり方だったので、ずうッ 伝三郎夫婦といわず伝助夫婦といわず、扇舎をはじめ一と一応のところ見渡し、「芝居者の出立後らしいな」とい