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検索対象: 長谷川伸全集〈第14巻〉
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1. 長谷川伸全集〈第14巻〉

願寺に一団の壮士が泊っていることは幕府側の眼につかずの仕度中、ここに宿泊しております。この寺は千葉家の江 戸菩提寺ですから、はあ」 最初にやってきたものは市中警衛の新徴組という、浪人「して幾日まで当寺に滞留ですか」 をあつめて編成した幕府の急設隊である。 「旅費が、調達できぬうちは、何十日でも滞留しますか 新徴組の半隊長らしいのが、庫裡へきて塾生の一人に向ら、あらかじめ宿泊の日数はわかりません」 「はあなるほど」 「あんた方は一体どういう方ですか」 玄武館騒動の噂は高い。新徴組の半隊長も耳にしている 居合せたのは小森八郎である。 ので、さてはそうかと疑わず、隊士十数名を率いて、こと 「門前に明記してあるのをご覧になりましたか」 なく去った。 江戸人の鼻ッばりの強さで食ってかかった。 新徴組は簡単に得心して去ったが、その後やってきたも 「いや、拝見しなかった」 のは江戸警備の命をうけた大岡兵庫頭 ( 忠恕 ) の手の者で 「大きく書いてありますが、お目にとまりませんでしたある。大岡兵庫頭は武州岩槻二万三千石の大名で、辛辣に おこな か。では、諳記しているから申上げます、北辰一刀流開祖取締りを行っていた。 故千葉周作成政門人真田範之助以下五十名宿、こう書いて ちょうどそのとき、駄馬が一頭、誓願寺の門前へ曳いて かます あります」 こられ、背につけている叺二ツを下しているところであっ 「はほう。玄武館の方々ですか、して、何としてここに宿た。その傍に出てきていた真田範之助が、六人の塾生に 泊なさる」 「あちらへ搬んでくれ」 「へええ、噂が拡まっているのをお聞き及びではありませ と、命じた。そこへッカッカと寄ってきたのが平林某、 んか。北辰一刀流宗家、二代千葉栄次郎先生の歿後、三代大岡兵庫頭の家士で、七、八人の足軽を率いている。 を継がれたのは栄次郎先生のご総領。しかるに血縁のうち「失礼ご免蒙る。拙者は岩槻藩の者です。この叺の中は何 に玄武館乗取りを企てたものが出ましたので、塾頭真田範ですか」 そでじるし ただ 之助先生その他諸先生がご相談の上、江戸の北辰一刀流と と、袖印を示して聞き糺した。野州大平山に浪人が集っ は別に、故大先生の故郷奥州へくだり、流儀の正統直流をた、いや常陸の筑波山だそうだと、噂の飛び交うときだっ のこし、他日改めて江戸へのばることに相成り、奥州下向たので、火薬ではないかと疑ったのである。

2. 長谷川伸全集〈第14巻〉

撃突戦しているなかに、山口茂左衛門が血に塗れて闘って「判らぬか」 「血に染まった顔じゃ、判らぬ。声も嗄れている、判ら 藤堂勢は潮のごとく衆く、破竹の勢い鋭く、長曾我部のぬ」 でんぐん ~ 「そこ許の顔の刀疵のつけ主じゃ」 殿軍約百人は、討たれ討たれて今は三十余人、そのなかに 茂左衛門がいる。紅白の指物は半ばから切れてなく、草鞋「おおツ、山口茂左衛門か」 「戦でない、私の試合、今こそ」 は裂けて足首に一つ絡んでいる。 どてした 「おう、望むところじゃ」 茂左衛門はいっか、味方と放れ、堤下の畑のなかにあっ 二人は刀が鋸のごとくなるまで闘った。 藤堂の武者三人、畑で、水混ぜもせぬ茂左衛門、八郎丘、 「えいツ」 衛の闘いに心づき、堤より一気に駈け下った。 嗄れた声を絞って追ってきた敵を二人まで斬り伏せ、ほ 時すでに遅く、二人は組んだまま戦死していた。八郎兵 ッと息つく顔に風が当った。汗が冷たい。 衛は上、茂左衛門は下、双方とも急所を互いに鎧どおしで 堤を敵が、追撃の馬を飛ばせ飛ばせて行く。 茫然と眺めていた茂左衛門の眼に、大坂城にいる娘の顔貫いていた。 五月八日、大坂落城。 が浮んだ、と、耳許で、亡き父の囁きが聞える。 茂左衛門が娘の菊は、城中にあった京極参議高次の後室 ( 茂左衛門よ、腹掻ッ切れやい ) あッそうだ ! 茂左衛門は畑に坐り、自殺にかかろうと常高院に供して、落城のとき遁れて出て後に医師の妻とな った。この菊女が落城当時の模様を語った筆記が、今も伝 と、堤から毬のごとく馳せくだる者がある、馬を乗り放わっている「お菊物語』である。 菊女の夫は備前池田家 ( 後の因州鳥取藩 ) の藩医だったと したとみえ、一頭の栗毛が道でうろうろしている。 し、つ 父「藤堂の壺形八郎兵衛。勝負せい勝負せい」 の 昭和十三年十月「富士』臨時増刊 と、呼ばわりつつ畑へ躍りこんできた。茂左衛門はすッ 菊 おくと突ッ起ち、 ノ良兵衛だ。はは。奇妙 ! 」 3 「何じゃツ、・ 「それがしを知ったるか。何者 ? 」 おお まみ

3. 長谷川伸全集〈第14巻〉

162 のれども五人、それがしに較べ迥かに劣ったるに、かに はツきり、茂左衛門の眼に映った。透し眺めて何をか求め さかごと 優る衣服大小を身につけている、世の逆さ事な一ッこれにている。 もある。えいツ」 「そこな馬上の者、それがしを探しているのでないか」 文句を口にしているかと思えば、早、一刀のもとに一人と、田川の水の雫に、体を光らせながら道路へぬッと出 を斃し、次なる二人を、 た。襤褸に包んで刀を抱いている。 「まッ 「おう、そこ許な山口の茂左衛門じゃな」 と、刀を返し、楽々と、斬って棄てた。 するりと馬の向う側に下りた。下馬の隙を討たれまい要 それを見て残る二人は、たたツと後へさがり、脇眼もふ意である。 まわし らず茂左衛門を見つめながら、なおも、後へ後へさがって茂左衛門は犢鼻褌に大刀を横たえ、襤褸を草に投げて、 「たれじゃ 行く。この二人、きツかけさえ与えれば逃げて行くにきま はうッ珍しや、壺形八郎兵衛か」 っている。茂左衛門はもとよりそれと知って、 「うン、八郎兵衛じゃ。おぬし、何している ? 」 「えいツ」 「何年振りじゃ、久しいのう、今な、いずくじゃ、よい主 カラ声を立てて大刀を振りかむった、はたせるかな、踵取っているか」 をくるりと返し二人とも、雲を霞と逃げるわ逃げるわ。 「茂左衛門、おぬし、裸で何している ? 」 と、遠く馬の駈足が聞えた、が、茂左衛門はそれに注意「これか、今し方、盗賊三人、そこの先で斬って棄てーー」 をはらわず、田川の水を探し、体に浴びた返り血を洗っ と、壺形八郎兵衛は胸に波を一ッ起させ、じッと睨み据 えている。茂左衛門は、 「返り血な浴びた、勇士の血は吸うてあやかりもすれ、盗 むさ 宿怨の武士 賊の返り血は穢うてな、洗い浄めたれどまだ穢い」 「斬ったとは、武士か」 駈足の音がいよいよ近づいた、馬上の者はたれやら知れ「いや、盗賊じゃ」 「そこに待っておれ茂左衛門。見てくる」 ない、鞭の代りに振っている笹がさやさや鳴っている。 なみあし 「盗賊な見てくるとか ? ほう、、い当りなあるとみえる」 馬は常足にかわり、馬上の者の姿が、淡い月光のもとに こ 0 はや きびす むそ

4. 長谷川伸全集〈第14巻〉

夫、必死の覚悟だ」 十太夫達は、天地を覆っている砂煙のなかから、二代相 「ほう、判った。すると」 恩の君が城、烏城がほんのり、風の吹き切れた間だけ見え 源吾左衛門は、思い当ることがあって悲痛な顔をした。 たので、 十太夫は前歯一本ない口を開けて、 「九郎次郎、お城がみえるぞ」 「さすが、源吾、判ったと見える」 「は 「うむ、判った」 九郎次郎は十太夫の遅い子で、二十三歳、若いだけに、 まっげ 「、つはツはツ↓よ 淡々とみえる烏城をみると、感傷の涙が睫毛を濡らした。 と、十太夫は腹を揺って笑った。 ; 、・、 カ源吾左衛門は笑え 岡山から備中松山へは十里である、寛永時代のものは、 なかった。十太夫の長男九郎次郎も笑わなかった。笑わぬ十里の道を遠いと思っていなかったが、寒い烈風に苦しめ どころか、二人とも、固くなった顔を、朗かに笑う十太夫られた十太夫主従の旅は、案外に時間がかかり、着いたの からそむけた。 は酉の下刻だった。十里に十三時間かかったのである。 十太夫は老人である、対手は勇猛を一世にうたわれた村十太夫は町家に宿をとり、衣服を更め、備中守長幸の家 山越中である、尋常の勝負では勝算が十太夫にない、そこ老水野善左衛門を訪れた。十太夫は関ヶ原の戦い、大坂冬 で、引組んで、我も死に彼も殺す、勝負無し相討ち、と、夏両度の陣にも従軍し、大坂城改築のときは数十人のカで 十太夫の決心が、あまりにも明らかなのである。 動かぬ大きな石を、ただ一人で、工夫によって自在に動か し、徳川家から特に恩賞をくだされたことなどもある有名 な武士なので、水野は、早速礼を厚くして会った。と、十 生別死別の酒 太夫は、 「御家にて、村山越中お召抱えと承ります、実否如何か、 しか 夫臼井十太夫、九郎次郎父子と、家来加藤右衛門七、槍持確と承知いたしたくござる」 + 権平の四人が、備前岡山を発った寛永八年十一月二十七日 と、捻じこんでおいて宿へ引取った、と、予期していた 日は、早朝から烈風が、乾ききっている土を吹き撒くので、 とおり水野から、 三尺距れると茫とみえ、六尺距れたのでは、まるで見えな「夜中ながら、登城めされ」 と、 かった、したがって、往来の困難ひととおりでなかった。 いって来た。十太夫はにツこと笑い、それ、来た ゆす

5. 長谷川伸全集〈第14巻〉

あんどん 「お化け屋のお職さんは、横ッ面がこれなのよ、フフフ」 「薄ばんやりとさ、ここの家の行燈みたいにさ」 と、おやをは下唇をそらして笑った。 「気の故かと思ってたが、やはりここの家は燈火がくらい のだったか」 「えらい傷だなあ」 まんどう 女の半顔を台なしに、眉から眼から頬へかけ、大きく一一一「何分、お職さんでこの態だもの、万燈をつけてお目には = かけられない 日月に残っている、刃物の痕に、新助はぞッと寒気がし と、おやをはするりと、着ている物を足許へ辷らして、 「怖い ? 怖かったら帰っても怒りやしないよ、ここへ来むき玉子のような肌をむき出しに見せた。腰から下に纒っ る客は宵のうちに来て、素遊びで座敷だけで帰るのが多いている薄い水色が引立って、疵はあっても、女の魅力は際・ しばくちはつねや のさ。芝ロの初音屋の駕籠を横付けにしたら、きまってそ立ってきた。 しかし、おやをの玉の肌は、刃物の痕が縦横にあって、 、つい , つ」各さ」 日本橋以南の男は品川通いをするというが、それは歩行兇状持ですら、はツとしてはじめは眼を逸らした。 「ねえ、このくらいにされると、五体揃った生れつきでも、 三宿三十二軒、北品川二十二軒、南品川四十軒の、大中小 かたわなみ 三旅籠の飯盛客、女の数が千五百人もいる品川三宿はおろ不具並だとさ、フフフだ」 か、どこにも類のない xx を大揃えした、お化け伊多屋の女は器用に着物を引ツかけて、指のない手で盃をとっ 客筋は、日本橋以南と限られず、もっと広い江戸一帯からた。 」っ , 0 「寒いわ、さすがに」 「どうしたんだ、一体、それは ? 」 「見せるから、さあ」 出した左の手の指が中指から左右へ三本、掌から少し上「紋切型の訊き方だね。振った男に怨まれて、今夜のよう きやしゃ な雨の晩に、こんなにされた。ねえ、こっちは一ツの体 で無くなっていた。白い華細な手だけに、二本しかない指 で、二人の男のモノになれるかい 、どっちか一人は棄てな の掌は、新助に息をつかせなかった。 「まだよ、見せてしま、フ 。いけない処をさらけ出した方がきゃならない。その一人が刃物三昧でこの始末、身の上話「 しよかい こっちの気が楽だから」 は、初会といえばいつでもさせられるので、ロ慣れただけ たま とおやをは帯を解きにかかった。 に当人には面白くないから訊かないでくれない ? 稀に一 不くのか」 「も、つしい。左の眼ま、リ 人ぐらいはそんな客も、思出草とやらになるからねえ、 7 ) 0

6. 長谷川伸全集〈第14巻〉

よく立廻らねばならないのを、年功者だけに心得ていた。 「ちょっと拝借 ! 」 ひらばんし 今までものをいっていた本多伊織の首が、ぶらんと前へ 吉十郎はちょうど目の前にいた平番士の一人、井上政之 下がったのを見て、逸早く逃げた伊丹甚四郎よりも、もう助の体から手荒く肩衣袴を奪いにかかった。 「これはいかがいたしたのでござります、池田殿」 一倍素早い逃足を持った男があった。それは池田吉十郎と いって五十歳を一つ二つ越した番士であった。 押し倒して追い剥ぐように、着用している肩衣袴を奪い ( どうも外記の態度が異様だ。何かなければ、、 ししカ ) と、取る先輩に、井上政之助は笑いながら訊いた。大方、池田 はじめから危惧を抱いていたのは多くくぐった鳥居数のお吉十郎が道化てしていることだと思い、強って争うような ことなく上下を奪うに任せた。 、げだった。しかし、迂濶に、そんなことを口外しては、 かえって大事を惹き起すかも知れないので、自分一己の胸吉十郎は脇差まで奪って、おのが腰にした。 にのみ秘して、すわという時には身の保安をはかろうとし 「いかなる趣向でござりますな」 て汕断しなかった。であるから外記が伊織の斜めうしろに 政之助がまだ笑って、面白そうに再び訊いた時、二階か すッと起ちあがった時には、 ( さては ! ) と思い、腰を既にら伊丹甚四郎が転げ落ちた。 立てていた。外記の手に白刃が閃いた時、伊織が髷を真向「おツー これは伊丹殿どうなされた」 ふみはず に見せ俯向いたらしい形をしたのを、ちらと見た時、大体粗忽にも踏外したなと思って顔を見ると、甚四郎は死人・ の光景を知ってしまった。そのときすぐ無言で、何気なのような色をして、眼をつりあげながらロを開けていた。 あえ 、人に気どられぬうちに、すッと起って階段を下ったの咽喉の奥でごうごうと呼吸が喘いでいる。 であった。吉十郎はすぐに番所に行ったが、まだ休息所で「本多どのが殺害された ! 」 は騒がずにいた。騒いだのであろうが、声を発し得る者は甚四郎の言葉は舌が縺れていて不明瞭だった。 記一人もなかったのだから、伊丹甚四郎が階段を転げ落ちる聞き直しているうちに、階段の上が急に騒がしくなった。 外までの間は、ほンの僅の間ながら、いつもの通り閑々とし「何事でございます、どなたか急病でも」 甚四郎はかぶりを振りつつ、這うような恰好をして起き 松ていたのであった。 池田吉十郎は命の無事なのを自祝している。何という幸あがった。 運たと躍りあがりたかった。なれ共こんな場合には、体裁「外記が刃傷だ、今やっている ! 」 かみしも

7. 長谷川伸全集〈第14巻〉

くノ一は、その川を渡し舟で過った向うの村に、この頃仕事は仕事として、どれ散歩してくるかなと、くノ一は 出来た大きな家、それは密会にも療養にもっかわれる旅館ぶらりと外出した。 ももばたけ だ、そこの客になった。 村の大通りの諸所に桃畠があった、時が過ぎているので 「草深いところなんですから、ほんとにしようがございま青葉が、そろそろと衰微の色沢をしている。大通りの末に せんですよ」 古い伽藍のあるのを見て、引返してきた巾着切は、路をで 女中はそんなことをいっていた。 たらめに横にとり、ずんずん歩いて行くうちに、田 5 いがけ かわら 「埃臭い町内にいて、たまにこんなところへくると寿命が なく磧に出た、そこは渡し場よりずっと上手で、前には、 のびる気がするよ。ほう、どっかで三味線の音がする、さ形のいい山があり、その下に二、三軒瓦屋根が見えた、し てはここにも芸者がいると見えるね」 かし、もうタ暮れだ、秋の落ち日はあしが早い、西の空を 「はあ、でも四人しかおりません。場所と違いましてこの染めた赤い色が、ところどころは紫に変りかけていた。 辺へくるものは、それあ何と申しても違いますから、そう磧に人はたった一つの姿だった、対岸の山に面して、砂 ひと みじろ えりくび しい妓もおりませんけどホホホホ」 間に生えた草を敷いて、身動ぎもしないその男は、襟首に それから程なくがやがやと、そこの旅館の前が賑かになひどく窶れが見えていた。そういえば肩も胴も細々として さえす った、聞いていると、線香花火のような女の囀りだ、見る までもなく、くノ一が予期した通り、例の蕩児が、きよう「病人だなあ」 もくノ一に懐中の金を抜かれようとてやってきたのに違い くノ一は繁華な街頭で、大金を懐中にしていると知って やっ よ、つこ。 いても、こんな窶れた男の物だったら、指一本動かさない 巾着切は、起っていった、蕩児が花のような女の群に囲男だった。 まれて、鷹揚に肩をふって歩く後姿を見た、きようも流行「おやーー見覚えのある男だが」 あっ すか よそお の枠を聚めて、五分も隙さないという服装の蕩児は、気の横顔だけではよくわからない、くノ一は散歩の態を扮っ 利いた顔と体の恰好をもった男なのだ。 て、その男の前を通りながら、正面から顔を見た。男はく くノ一は、座敷の隅の机に向って、用意してきた奉書のノ一を全く忘れているらしかった。 紙を展べた、やがて何か書いて小さく畳んだ。 「静かなところでございますね」 と、くノ一はその男に話しかけこ。 やっ いろつや ふところ

8. 長谷川伸全集〈第14巻〉

くノ一は明日の愉快に酔った。 ろっく人があると思うと、その姿を見たくなった。 「おお、ここは」 跫音の主は池の畔をめぐって、向いている方角はくノ一 夕方から風が変って、宵からすっと涼しくなったので、 のいるところらしい、夏の夜らしくない黒地を着ている姿 よふ ひとしお くノ一は汗を忘れていた。夜更けになって涼しさは一入加を、青白い街燈がちらりと照らした。やがて跫音は本下闇 わり、むしろ冷やかなくらいだった。 の上り坂、細い径へかかってしばらくすると、くノ一の前 、跫音は、木下の闇に吸い込ま 「夏の公園も宵と違って今頃になると、涼みがてらの浮気へ出るはずだった、 者の姿もねえ、ちょうどいい按排にうるさくねえ。これじれた姿と一緒に、はたとやんでしまった。 やまるでここの山を買い切ったようなものだ」 心待ちしていたくノ一は、消えた跫音を怪しんだ。黒っ 眼の下は池、ばさという音が今したのは、鯉が躍ったのばかった男の姿は、待てど目の前に現れなかった。しカ いたち か、それとも鼬が水に落ちたのか。くノ一は静かな夜更けし、そうそう待つほどの興味をつなぐことではなかった。 を楽しんだ。 「どれ、またあすの晩くるとしよう」 池の向うにある道一筋は、地面を隠すほど茂った青葉の石をはなれようとしたくノ一の前へ、真黒い一塊りの物 いしつぶて 立木に包まれ、街燈の光までが夜更けにふさわしく青白がケシ飛んできた、それは、礫のように飛んできた男だ ふるえごえ ゆかた ちょうど、水に沈んだ世の中のように、白地の浴衣をつた、「あッあツ」と顫声をしながら、俄かに立ちどまっ 着て通ったら染まりはしないかと思うほど。 まきたばこ 「どうなすったんです、何か出ましたか ? 」 くノ一は石に腰を下ろして、吸い残りの巻莨を棄てた。 鬱蒼とした巨木の下に棄て置かれた石膚は冷たかった。 黒地を着た男は、かちかちと歯を鳴らして、暫く答えを しずにいた。やがて、 五重の塔が墨染の姿で、砂子の星空の下に立っている。 ねぐら 「怖い物にあいました、幽霊なんです」 二本目の巻莨を棄てたくノ一は、どれ塒へ帰ろうかと、 と、巾着切に縋りつきそうに、その人は怯えていた。 幽夜更けの味を残り惜しく思った時に、人の跫音を聞きつけ 行た。 へ 人の跫音、夜史けだろうが何だろうがここは公園地、ま 旅 して夏のことだ、すこしも怪しむことではなかった、が、 そぞろ こんな夜更けに、やはり俺と同じような気もちで、坐にう 「幽並 ? まさか」 くノ一は一蹴して軽く笑った。

9. 長谷川伸全集〈第14巻〉

源次は妹の美しさ清々しさに嬉しく涙を湛え、掌のうち の宝珠を奪われてゆく心地もして哀しき涙も湛えた。その 十年間つづく源次の死仕度 日から十日も二十日も源次は遣る瀬のない寂しさに、骨細 る 1 刄がしきりにしこ。 荒神丸は二十八歳、黒々と髭が生え、顔のどこかしこが 文治は五カ年で終り建久と年号が改まって六年経った。 梶原の屋敷に幽囚の身となった渡辺の源次は、すでに足か悉く大人び、童形は最早似合わなくなったが、相変らず元 け十カ年を経たが、由比ケ浜へ曳き出されて首斬られる日のままの姿で、笑う奴は笑えと、都大路の華かな真只中で さえ、いささか怯げるところなく手を振って歩いた。 がいまだ来ず、忘れられたるがごとくそのままだった。日 ごと日ごと、朝とタと二度、髭剃ることは三千三百余日す建久八年二月二日。渡辺の源次がいつになく荒声高く、 「会おう、源太殿に会いたい」 こしも変らず、二度目の砥石が薙刀のように磨ぎ減った。 ひるごろ と、午刻から宵までほとんど絶え間なく呼わりくらし 妺のたまきは十六歳、鎌倉の女性を圧する美しさなが ら、兄につながる遠慮から街に出たことは一度もなかった 。源太景季がそれと知ったのは夜に入ってからだった。 ので、それを知っているものは、源次兄妹に心入れ浅から梅の香が暗い庭から匂ってくる源次番の押籠め部屋を訪れ た景季が、 ぬ源太景季とその召使いぐらいのものだった。 つがう その翌年の建久七年の秋。 「番、何を腹のヘッた鴉のように騒ぐ」 「おう源太殿か、待ちかねた」 梶原源太の媒酌で、源太景季の妹たまきとして、景季の 親友で姿うつくしく心猛き天野民部丞雅景が妻とした、そ「騒々しい、静かにせぬか。渡辺の番ともあるものがそう れは源次番の望むところでもあった。 騒いでは、羅生門鬼退治の先祖の君が、地下で苦笑いなさ るぞ」 美しとも美しい輿入りのその日のたまきが、 番「兄君、永々のご養育あり難く存じまする。天野が妻とな 「一刻を争うことだ。落着いてはいられぬ。源太殿、お志 源りましてたまきは、女一代、見事に過しまする」 はあり難いが迷惑だ」 と、別れを告げた。何どき由比ケ浜の砂に血を吸わせる「何のことだ」 「天野民部丞と源太殿が、それがしの首をつなぐとて、頼 昭か命定めなき兄なので、別れはただの嫁入り別れでなく、 朝に歎願し奉ると聞いた」 永劫の別れかも知れなかった。

10. 長谷川伸全集〈第14巻〉

に移って三泊し、同じ生魂の曼陀羅院に移り、二十九日に 「君の馬前において・一死重因 5 に酬ゅ、だ」 と、 大坂城京橋ロの役宅に移り、同所の警衛にあた 0 た。 いって硬ばっ顔に笑みを浮べた。 春田道之助は会津の南摩綱紀の塾に行ける日を、村雨吉藩主信古と重役達はこいうと、登城したきりで、京橋ロ 三郎とともに待ちくらしていた、 ; 、 カ世の中の形勢はだれの役宅にいる家臣には ) 従軍か、大坂守備か、まるで見当 がっかずにいる。 にも学問をさせないほど、急迫していた。 慶応三年が終って、明治戊辰といわれる慶応四年の元旦翌くる四日になると、鳥羽と伏見から、戦敗の負傷者が がきた。大坂の元旦は快晴で、風がそよそよ吹く程度で、続々引揚げてきた。 気候も温和だったが、城内も市中も穏かな形勢ではなかっ 六日になって幕軍の連〉連敗が判った。戦わずに引返し てきた幕軍の将卒が尠か一ず大坂に現れ、市中に混乱をつ 三日は晴天だったが風が強く、寒さもひどかった。春田のらせた。 道之助はこの夜、伏見の方で、火炎が天を焦がしているの 京橋ロの役宅で、その日、藩主松平信古は、血走った眼・ を見付け、 をして重臣を集め、藩としての態度を決すべき会議を開い 「村雨君、あれを見給え。地図でみると、あれは京都の近 た。この会議を率いたものは吉田藩の穂積清軒という洋学 くにある伏見の方角なんだがねえ」 者で、絶対の開国佐幕論者だった。この人の主張に圧倒さ 「あツ、あの音を聞いたかい春田君、大砲隊が進発するのれ、たれも幕府にむかい戈をさかしまにして撃っという討 じゃないか」 幕論を押切るものがなかった。 かなえ 見るみる大坂城の内外が、鼎の沸くがごとくになった。 この状況は二少年にも判ったので、十六歳を一期に討死 その夜明けごろに、市中に砲声が起り、土佐堀の薩州蔵屋の覚悟をきめ、春田道之助は行李を開き、死出の晴着をと 敷に火災が起り、大坂市中が今にも戦乱の巷になるかのより出した。道之助兄弟の母は、こういう事態になりもしょ うに風説が乱れ飛んだ。 うかと察し、討死の衣裳をそッくり拵え、大坂へ持参させ 少年ながらここまで来たのでは戦場に出ることを、おのたのである。 ずと覚悟せずにいなかった。 春田兄弟の母は、春田家が、名誉と富とを得ていた最中 「学間はおやめだ。村雨君、戦争だ」 に嫁入ってきた人で、旗下井上家の出で、才色兼備の上、 と、道之助がいうと吉三郎も潔 並々ならぬ賢女であった。 いくまた 、み、ょ