勘一郎 - みる会図書館


検索対象: 長谷川伸全集〈第14巻〉
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1. 長谷川伸全集〈第14巻〉

おきますが、あの当時の情勢ではあれより手段がなかっ廃藩となって弥惣兵衛は金二十五両を、最上家から渡さ た、だからとて責任が取消されていいとはなりません。しれた。勝太郎は金百二十七両二分渡された。弥惣兵衛は三 かしああいうやり方は、それまでこ、、こ しオるところの藩に十石、勝太郎は三十五石、五石のひらきが百二両二分の違 あったことです。だからといって、前いったとおり責任が いとなった。弥惣兵衛は一代随身、勝太郎は明暦といった ないのではない」 年号の徳川四代の家綱のころから、ずッと随身していた家 「坂田さんはそんなことをいって落着いておられますが、系だったから、そういう計算を最上家で出したのである。 人殺しの罪に落ちるのではないでしようか、以前と違って弥惣兵衛は自分の二十五両をまず飲んで酔いに消し、次 妻子のある身ですから、妻子のために心配なのです」 に勝太郎の百二十七両二分をねらい、それだけは徒らな酒 「妻子とは、故志賀惣太の後家と倅のことかーーーあなたはの酔いにかわらせまいと、泣きっ怒りつ、きせが争ったが このごろ、深酒をやり、酔いにまかせてあなたのいう妻子弥惣兵衛は刀をひねくりまわし、「勝太郎を殺して奪いと を苦しめるそうだ、いけませんねーー話を前にもどしま ってやる」と暴れ、三両五両と、何べんとなく取って飽く す。罪に問われたら罪に服するのです、私の利益のために こと知らず酒に狂った。 やったのではないでしよう。私はそうだったが、あなたは その年十月一一十六日の晩、泥のごとく酔った弥惣兵衛 どうですか。私の利益のためにああいうことをやらせてく が、どこで喧嘩をしたのか、髪を乱し、着ている物を泥だ れと、あの時いって来たのでしたか」 らけにし、大声で喚きながら帰ってきて、酒が飲み足りな 「いいえ、決してそんなことはありません」 いと暴れた。そのうちに睡りこけた。 辞して外へ出た弥惣兵衛の顔の色は悪かった。それから翌けて二十七日の朝、ゆうべ、きせと勝太郎とで臥床の は一層ひどい乱酒になって、三十六歳になったきせ、十四中へ寝かせた弥惣兵衛が、けさは咽喉を刺されて冷たくな っていた 歳になった勝太郎は、三日に一度ぐらいずつ、酒に狂った き弥惣兵衛に、刀を抜いて追いまわされた。どういうわけで最上家のあった旧幕前後は、家中に死亡者があると検視 志そんな危い乱暴をやるかと、だれが聞いてみても弥惣兵衛を行った。明治になってからは朝令暮改で、司法も警察も 女は答えなかった。 うまく行かなかった上に、紺田弥惣兵衛の変死を、薄々知 っている人はあっても黙っていたので、酒が過ぎて頓死し 行その年ーー明治四年、きせは親類中から交りを絶たれ、 家財も衣類も弥惣兵衛に酒にされてしまった。 たという、きせのいうとおりに寺でも扱い、野辺の送りが おこな

2. 長谷川伸全集〈第14巻〉

「左様でござりますか」 四 「きせどの、それから何と仰せになりたいのですか」 「その他に申すことはござりませぬ」 きせが寡婦になったのは三十一歳。明治元年と改められ 「いやある。亡夫の怨みをはらしてくれですか」 る前の年の慶応三年は三十二歳、その十二月近くまで、紺 「いえ、左様なことは申しませぬ。もし申したらお引受け田弥惣兵衛からきせへ、何の贈物もなかった。きせはかえ なされますか」 って無気味に思った。勝太郎を可愛がることは、前とすこ 「浮田周右衛門か、拙者でさえあの人物はどうにもならしも変らぬ弥惣兵衛であった。 ぬ、ご当家を船だとすれば、周右衛門は梶だということで 一度こういうことがあった。どこから借りてきたか弥惣 す。梶をこわしては船がめちやめちゃになる」 兵衛が、少女の衣裳を出して勝太郎に着てみろといった。 「お帰りください」 勝太郎が応じなかったので、珍しく眼をむいて叱りつけ、 「ご立腹か、きせ殿ーーはて、この人は顔に似合わぬ難題泣き顔をこらえる少年の機嫌をとりとり、花のような衣裳 を出す」 を引ツかけさせ、自分は酒を丼についで飲み、「よろしい 首を右に振り左に振って思案していた弥惣兵衛が、何か いや見事だ見事だ」と、終いには手を拍って喜んだ。 いいかけてはロをつぐみ、又口をひらきかけては黙った。 むかしむかし、出羽の大藩であった最上家は、最上出羽 突然、刀を鞘に納めた弥惣兵衛が、手荒く徳利を振って守義光によって興隆し、義光が永眠すると次の当主の駿河 守家親は、一つ寝の衾の中で妾に刺された傷のために死 酒を飲んだ。 に、その次の源五郎義俊のときは、部将の間に党派が出来 やや暫くして、 「今晩はこれにて引取ります、あらためて拙者が推参するて激しく争い、丸に二引両の旗の威勢衰え、二十五の城を もった最上家が一万石にやせ細り、その次の駿河守義智の とき、きせ殿は常磐御前、拙者は平の清盛入道です」 そういったくせにいつまでも、もずもずとして坐りこんとき以来、近江の蒲生郡大森で五千石の旗下となった。と いう過去の遠きを振返って、浮田周右衛門は幕府困難のと でいたが、 一番雀の声を聞くと、酔いがさめたごとくすッ と起ちあがり、以前はいって来たところから出て行ったのき佐幕に力をそそぎ、時めぐり来りなば五万石の大名に、 だろう、夜風がさッと吹き込んだ。 最上家をノシあげさせる野心を抱いて、カ薄く人少きを承 知で、大森陣屋五千石挙って公方のため、粉骨砕身させる

3. 長谷川伸全集〈第14巻〉

名並で二百余年つづいて来た最上駿河守義連はじめ、家中う信じた。それにはその節の検視正副だ 0 た二人が、事実 のおもなる人々を説き伏せ、いうところの佐幕派に一家中でない方の事実をわざと漏らしたのが、かなりあずかった ことだったろう。 をまとめあげかけていた。この計画に抗議と排斥とをたた きせも又そういう世間の話声に動かされ、おなじような きつけたものが惣太の死であった。遺書は文体を考えなけ れば論文であったに違いない。それが握りつぶされたので信じ方をした。安政二年の秋、縁を結ばせる人があって、 水口藩二万五千石加藤家の鎌ロ与惣次の娘きせは二十歳、 ある。 志賀惣太が二十四歳で、そのころとしてやや晩い結婚を 遺書握りつぶしのかわりか、まだ九歳の勝太郎という、 惣太夫婦の仲のひとり子に、三十五石の家督を滞りなく継し、足掛け十二年の日々、きせは夫に深く愛された妻だっ がせた。「志賀の跡式を立てていただき、涙のうちにも申たが、家庭以外のことでは、夫から何一つ相談相手にされ さばめでたい」と、親類の人々はほッとしただけで、惣太た妻ではなかった。女子供の知ることならずと、公けのこ 、と、そのとおりやっていた惣太だ が何のゆえに死を遂げたか、その方へ熱情をもってゆく人とは妻に語らぬのがいし 、よ、つこ。 った。「女のいうことを採りあげる夫にするな」と、役目 、カ十 / ー刀 / 日ごとに惣太のことが過去へ過去へと遠ざか 0 てゆくなの上のことを、夫から聞かされたくないと努めて来たきせ かで、惣太の妻きせだけは、夫が世を早めた慶応二年七月でもあった。 だから妻は夫の死を、正しくは知らずにいる。 二十九日が、きのうのことであり、きようのことであるよ うところが一つであれ 刀さす人々も丸腰の人々も、い うに、来る日ごとに思いつづけていた。 遺書が握りつぶされたので、家中の人々も、三ツの郡にば、疑うべくもないとしてきせの怨み心が、日をかさね月 わかれている最上家五千石の領地の人も、惣太が自殺したを加えるにつれ、浮田周右衛門に向っていった。 のは、最上の当主に信用あっき浮田周右衛門と、かねてか きら不和だったのが、さきごろ惣太が愛知郡池之庄村千石余 志の支配につき、上申した意見を周右衛門が排斥し、その結きせに似て勝太郎は美しい少年だった、父に別れたとき 女果、近く惣太が代官役を免ぜられると内定したと聞いて、九歳、今は十歳、美しさは一年ごとに加わ 0 た、それだか 9 私憤をかくのごとくしてはらす者がいたのでは御家の前途らでもないが、先ごろ江戸本所大川端の屋敷から国詰とな って来た禄三十石の紺田弥惣兵衛が、たれの目にもっく可 おばっかなしと、悲しみ怨んであんなことになった、とこ

4. 長谷川伸全集〈第14巻〉

と、呟き終らぬ、間一髪、茂左衛門の足の組み方が急変仁右衛門屋敷では武士として扱った。その日その日が経 し、二の太刀を振ろうとする八郎兵衛へ、 って夏になった。茂左衛門の足の疵はあらまし冶った。八 郎兵衛の顔の疵も大分よくはなったがまだ充分でないと聞 拝み討ちをかけた。刃の下に八郎兵衛真二ツ、と、思い いて茂左衛門は徴笑しただけだった。 の他、危機を巧みに、のけ反って、免かれはしたものの、 或る日、茂左衛門は湯に入れられ、髭を剃れ、髪を結え 顔に縦一文字、左眉の上から顎へかけ負傷した。血が奔といわれ、そのとおりした。いよいよ、死刑と思い独り微 って顔半分みるみる染めた。 入した。 が、茂左衛門は勢い余って、一刀で大地を叩いた。′ ト石湯から出ると新しい衣服が備えてあった。紋服である。 が一ツ、割れて四方に飛んだ、と、同時に、ばきりと刀が茂左衛門はそれを着る間中大きな微笑をした。死刑ではな 折れて体がのめった。 切腹が許されるのだ、これは有難い仕合せだと ーしオカ血で片目が、眩んで 八郎兵衛は隙かさず斬寸ナこ、 ; 、 やがて、丸腰のまま、仁右衛門の家来に導かれて行く いる、見当が外れ、これも太刀を大地に打付けよろよろとと、がらンとした広間に案内された。頭をさげて入って行 よっこ。 ナ . ュ / きながら、それとなく見ると、武士が左右に一列七、八人 あぐら その途端、見物の群集中から、藤堂家の士が、四方八方ずつ居流れ、その上の座に胡坐をかいている人がいた。そ から、飛んで出て、茂左衛門に殺到した。家中の士を斬つの人が茂左衛門をみると、すいと気軽に起ってずかずか近 た曲者、手捕りにするという意気である。どッとばかり取づいてきた。 りノ、刀、刀子 / 広間の中はひやりとするほど涼しい。 茂左衛門は脇差を江州にいるとき売ってない、短刀も同茂左衛門は取敢えず坐った。その人が、 じくない、あるは二ツのわが拳だけ。当るを幸い、殴り倒「わしだわしだ、与右衛門だ」 父し殴り倒し、われを忘れて次々に格闘したが程なく疲れて「は ? 」 の 組敷かれた。右足の疵のために思うように働けなかったの 聞き慣れない声だが、与右衛門というからは、藤堂和泉 おでもある。 守高虎が、前名をいったのではないかと、頭をすこしあげ めしゅうど 茂左衛門は初めて囚人として扱われ、中一日経っと藤堂てみた、と、がツちりした年五十の高虎が、古疵だらけの 仁右衛門の屋敷へ預けられた。 顔をにツことさせ、

5. 長谷川伸全集〈第14巻〉

おおぐちもの 「十太まあ待て。いつになく四角四面だが」 「彼奴、分別のない大口者た、。 、、 ' こ当家なればこそ、千石も 「左様、今晩は、武者坐りして語ることでない」 下され、御目をかけ給わる、他家にてはなかなか左様に参 「何と」 らぬ。はたせるかな彼奴、大縮尻をやって前田家を永窈暇 うすうす 「貴殿にも薄々と存ぜられのとおり、臼井十太夫は村山越となった。加越能三カ国の太守の御袖の陰につくばってい ありか 中にかねて宿意ある者、いっかは目に物見せんと存ずるうては手に終えぬが、浪人となれば討つは易い、と、在所を ち、彼奴、昨年夏のはじめ御当地を退散に及び、行方皆探るところ、近ごろは京都深草にあると相知れた。彼奴め もく 目、相分らす」 案 の運の尽き、いでや、走せつけて一刀両断と存じたに、 十太夫は去年の夏、村山越中が榎の馬場で、主君の愛童の外なことができてのう」 河内左近を、僅かなことから唐竹割りにしたことにすこし 「とは ? 」 も触れすにいる。 「御一家の備中松山の殿が、村山越中めを、九百石にて、 「待った十太。薄々存ぜられというが、源吾、今日まで貴お召抱え遊ばされる」 殿が村山越中に宿意あること、一向存ぜぬ」 備中松山六万五千石は、池田備中守長幸が藩主で、ここ 「存ぜぬにいたせ、宿意あることは隠れもない」 備前岡山三十一万五千石、烏城の城主池田宮内少輔忠雄と 「その隠れもない事情を、とンと知らぬ」 は一家である。 「何でも彼でも、遺恨のある村山越中だわい」 十太夫は老いの面に、悲憤を漲らせ、 老いても、昔忘れぬ強情者の本性を発揮して、十太夫「越中がご当家にて横道者であったこと、ご一家とて、よ とんば ′一ましお は、蜻蛉ほどの大きさの、胡麻塩髷のある頭を左右に大きもご存じないとは思われぬ。しかるに彼奴をお召抱えと く振って頑張っこ。 オこうなると、否が応でも押切るのが癖は、近ごろ心外の第一ーー」 の老人である。 「うむ、道理だ」 夫「宿意があったとして、で ? 」 「察するに、しかるべき方よりのロ入か、家来の推挙か、 + 「村山越中め、いずこに隠れ潜むかと、密々、探索いたせいずれにいたせ越中をご一家たる松山にて家臣とすること としつね 臼しところ、小松中納言利常卿に仕え奉る由」 以ての外ーーー が、それは松山の殿のこと、我等としては遺 その噂なら、源吾左衛門も聞いていた。十太夫は続け恨ある越中を討果す分のこと」 「ふうむ。と、貴殿は浪人を望むのか」 ) 0 きやっ からたけわ ほか うじよう

6. 長谷川伸全集〈第14巻〉

心があった。しかし、筆頭の本多伊織や、曲淵大学が大の事故のために向側から助番というものが出て、欠勤を補 すけばん 賛成者であるところへ、縦談横議に長じた安西伊賀之助充することがある。そんな時の助番はロをきかない。そこ が、もっとも熱心な賛成者で、押切ってこの案を通過させまで反目が露骨になった。 ふでがみ 両側の不和反目が段々と激しくなってくると、筆上の本 ようとしたので、外記はとうとう最後の一言を下した。 「かようなことが行われましては、従来、骨の折るる御用多伊織が第一番に向側の者と会見して、自分は賛成なのだ ふでした は筆下の者のみに押しつけ、事の紊れと相成りましようが筆下の者で、御奥向の御ひいきをかさに、不承知を唱え る奴があるのだといった。伊織がこうした態度に出たのが が、それにても苦しからぬことでござりましよ、つか」 議論の余地のない古番増長の案なのだから、外記にこう知れると、我も我もと古番の者は向側に通じ、新番の者ま で諂いのために「新星順」に賛成した。 いわれると二の句がっげなかった。 あ早、わら 「それ見たことか」と嘲笑ったのは安西伊賀之助だった。 本多伊織が第一番に、外記の説に賛成したのをきっかけ とし、古番一同が ( なるほど、外記のいうところが至極「外記一人の弁巧に阻まれるようでは、筆頭の貫禄もあっ てなきが如しだ。少々気をつけるがいい」 だ ) とい、つよ、つになった。 これから伊賀之助が音頭取りで、外記は両側不和の責任 安西伊賀之助だけは、外記の説にその上の反対はしなか ったが、手の裏返すように賛成はしなかった。沈黙して成者であるとして、誹難謗斥をはじめた。 あまり攻撃が激しいので、外記は組頭大久保六郎右衛門 行きに任せるかの如き態度をとった。 一切のことを告げた。大久保は外記を褒めて ( いささ そこで、向側に対し、せつかくの御相談ながら当組にて は不同意と返答した。向側の面々はこの返答に不平を抱かも落度たるべきことではない ) といった。 次の日、組頭は一同を召集して、「星順」について不和 「筆頭の本多伊織はじめ古番一同、意気地なし揃い故、この由、以ての外なりと叱りつけた。向側でも同様なことが あったので、「新星順」再提唱の機会が永遠に葬られ、古 記れしきのことが行えぬのだ」 外と悪口した。悪口されれば大久保組でも、快く聞いてす参者の狡猾は一溜りもなく潰れた。 しかし、このために外記はかえって敵を多くつくってし 松ます者はない。向側のあら探しをして罵倒する者が出てき た。双方の意志が次第に食い違って、反目するに至ったけまった。安西伊賀之助を中心として外記排斥の声は事毎に あげられた。 れども「新星順」については双方批評を全く避けていた。 へつら

7. 長谷川伸全集〈第14巻〉

の武士にあるまじき男だともいった。泰平の御世に添わぬ 「又か」と同僚が驚くほどに外記は、名指しで召されて騎 生れ損ねだともいった。 射を勤め、その都度に褒賞があった。こういうことも同僚 しかも、外記は他人はどうあろうとも、自分だけが踏んの妬みを招きやすかった。 で行く道を楽しんだ。甚だしく不和を同僚と醸さぬ範囲 で、新参の士を窘めないでいれば、多少安んじた心でいら時に、外記排斥事件がはからずも起った。 はんよう れるのであった。こういう外記の態度は、年と共に長じて御書院番士は御帳掛 ( 押え判形 ) 以下、古番新番を問わ ず「星順」によって勤務していたが、今後は古番の者のみ きた。そしてそれは危期を形づくる結果を招いた。 むすめ 外記は西丸御小姓組の服部庄三郎の女で雪という婦人をが「星順」で非番をつくり、新番の者は休みなしというこ 妻に迎えた。 「千代田城刃傷」という実録体小説、そとに発議した。この発議は大久保六郎右衛門を組頭とす むかいがわ れから出た講談、芝居では、雪ではなく八重、その父も服る、外記の属する五十人組の交代組がしたもので、組は違 ざこうじげんば 部庄三郎でなく座光寺玄蕃となっている。いうまでもなくっても根性は同じ古番の者どもが、得手勝手に極めようと それは仮托の名であるーーーその頃から同僚の先輩安西伊賀した狡い案だった。 之助が、外記に対する行動が快いものでなくなった。一寸大久保組では交代組からのこの発議に一も二もなく賛成 した。新案の制度で行けば一昼夜勤務が明けて、休み側と したことでも伊賀之助の言葉は、外記の心を傷つけ勝ちだ なって一昼夜在宅する、その外に、骨休めの余暇を従来よ りも多くつくることが出来るのだから、古番の者は残らす しかし、伊賀之助は服部庄三郎の女雪に、懸想していた から成らぬ恋の意趣を、外記にもっていたのではなかっ賛成した。 ま、ただ一人の松平外記がこの案に真向から反対した。 た。伊賀之助は外記の全体を虫が好かなかっただけであっ 「古番、新番とは申せ、御奉公は一つなり、古番のみ星順 により、新番は星順より除くとあっては、新番のみを余分 に働かせ、古番は御用を従来より尠くいたすことと相成 外記の弓術は、かなり認められていた。狩の時の御供弓り、釣合が取れかねまする」 という言葉の裏には、横着な古番の考案を弾劾し、さな ではいつも獲物が群を抜いた。大的の騎射を外したことが おこなんどとうどりしゅう くとも窘められる新番の者を、幾分にても助けたいという なかった。で、御小納一尸頭取衆は外記びいきであった。 ・ ) 0

8. 長谷川伸全集〈第14巻〉

ぶるぶると顫えて甚四郎は逃げて行った。はじめてこれて虎の間詰をしている筈の若殿が、上下もなく無刀で、胸 ちんじ で階上の椿事を知った井上政之助は、肩衣袴から脇差までもはだけ裾も踏みしだいて、気絶しているので、忽ち上を 持って行かれたのに心づいて、きりきりと一つ処を舞いな下への大騒ぎとなった。 がら、 政之助の父は御勘定奉行の井上備前守だ。息子のこのだ らしのない臆病に憤激して、鞭を執って殴りつけ、早々元 「池田殿、池田殿」 とあたりを見廻した。池田吉十郎はその時もう組頭大久の番所へ追い返した。しかし、井上備前守は涙を流して 保六郎右衛門の詰所へ駈け込んでいたのだから、その辺に ( 当家も末だ ) と唇を咬んだ。当家も末だが、武士も末世 よ、よ、つこ 0 で、腐り果てているのが悲しかったのだ。 ーを ( し十 / 、カ十 / 「池田殿、肩衣を、袴を、脇差を」 たた 四 ばたばたと自分の腰を平手で敲きながら途方にくれてい る井上政之助の背後へ、階上から降ってきたのは、臀を斬息所で外記が刃傷したと知れると、虎の間の番士たち られた神尾五郎三郎であった。五郎三郎は血の噴いているは縮みあがった。右往左往と立騒ぐうちに、逃げて出る者 ばんつづら 臀も臍も丸出しにして、投げられた蜘蛛のように一時平太もあれば、夜具などを入れてある番葛籠を積み重ね、その 弓った。が、忽ち飛び起きた時、遅れて逃げてきた同僚の後にもぐり込んで神仏を祈っている者もあった。藪庄七郎・ は雪隠に潜伏したら、さすがの外記も心づかず見逃がすだ 足に踏み倒された。 井上政之助は、こういう光景を見ると、前にいる人の腰ろうと、雪隠へ駈けつけてみると既に先手を打って、中か へ、手をかけて引き戻し、その機みで自分が前に出て、一ら戸を押えている者があった。 「武士は相見互いだ、開けてくれ開けてくれ」 目散に逃げだした。 泣き声になって頼み入り、先客と二人狭い処に押し合っ 帯が解けて、尻尾のように地に垂れているのも心づか ず、出来る限りの速さで逃げ出した。逃げるより外に何のた。 念慮もない政之助は、御門御門を突破して自分の屋敷ま堀長右衛門は縁の下へもぐり込み、生温いものを掴んで 仰天し、外記がここにきているかと肝を冷し、逃げて出よ で、根限りになって逃げ帰った。 うとしたが、漸くそれは同僚の荒川三郎兵衛と知れて、二 屋敷の門内へはいると、安心が出て政之助は玄関で打っ 倒れた。この物音に用人以下が飛んで出ると、御番に当っ人っれ立って、、行けるだけ深く、奥へ奥へと、蜘蛛の巣を はず

9. 長谷川伸全集〈第14巻〉

「左様でございますか、お目にかかりたくないと仰有るの門の廂の片隅に佇み、傾けた傘のかげで、ながいこと泣い ていた。 ですかしら」 その翌日も雨だった。勘一郎は向柳原に執事を訪ね、母 「そうではない」 源助が聞合せ知らせてくれるのを待っていられるもの にもう一度取次いで貰うことを頼んだ。この日、一滴の涙 か、勘一郎はもうそわそわしていた。 もみせなかった小柄な少年を見つめた執事の老いた眼から 再び会う日を約束をして、荷車を輓いて去る源助を見送涙がさッと頬に流れた。 った勘一郎は、横に山内へはいって、老樹の下をくぐり、 次の日、訪ねた勘一郎は「気の毒な」と涙ぐむ老人から 広小路に出て左に曲り、向柳原へ急いだ。 「加乃どのはやはりわたくしに子はないはずと申さるる」 と告げた。青ざめた少年は抱えてきた本の薄い包みを忘れ 灯ともし頃が過ぎてから、麻布の寄宿先へ帰った勘一郎て去った、途中でそれと心づき、引返してきたのだろう日 は、復習も予習もうわの空だった。向柳原の隠居屋敷に、 の暮れ方にとりに来た。顔の色がさっきよりも悪かった。 母がいることを確かめ得たばかりか、「あすなりと来てみ その晩の勘一郎は蒲団を引きかぶって泣きに泣いた。 られい」と、執事と名乗った老人がいってくれたのだっ こ 0 夏、タ立があがったあとの陽の輝きが明るいとき、ズプ 翌日は雨、勘一郎は学塾からの帰りに向柳原へ急いだ。 濡れになった勘一郎が、向柳原に執事を訪ね、「母に変り 雨下駄の歯がチビれていて、古袴の裾に泥のハネが夥しか はありませぬか」と聞いた。執事は途方にくれた顔を漸く 笑顔にして、「ご息災ですよ」と孫にいうように告げて声 執事の老人は勘一郎の顔をみると、「あなたでしたか」を呑んだ。「有難うございました」と勘一郎は一礼して立 と暗い顔をした。 去った。 「昨日のことを加乃どのに申したところ、わたしに子はな ときどき執事のところまで、その後も、母の安否を尋ね いはずと申された。深き仔細あってのご返答と推量しま にくる少年のことが、その屋敷の隠居の耳に入り、「会う す、甚だ没義道のごとくなれど、時節がまだ熟さぬと思てやれ」とでもいうたらだが、土蔵の扉をしめて二階に住 お弖取りなされたい」 むような隠居は、そんなことが仕えている人々の間で、話 勘一郎は青ざめた顔になり、一礼して、雨の中へ出て、 の題になっていても、何のことやら判らず聞き流した。

10. 長谷川伸全集〈第14巻〉

蓮不運がまずないものと仰せになったので、天井渡りをおくのは一ト跨ぎの半分、足が二本あるから一ト跨ぎは二足 目にかけます、といった。天井渡りというのは天井を歩く だと決めてかかるようなャツが何につけても世間には多 とい、つことで、歩くとい、つからは足で歩くとだれしも思、つ 、、けっしてそう行くものではないのだ、二足では一ト跨 ものだ、足を天井へ付ければ歩くどころか、頭が下になるぎがキレる。天井歩行は貼り代りという歩行だ、一ト代り のだからストンと落ちる、歩けるわけがないのだ。歩くと は一足より幅が広い、九尺一ト代りを小間代りという、中 いうことの考えをあらためて、歩けたとおなじことになれ代りというのは二間一ト代りだ、一度貼り代ると二間進む ば手をつかっても歩いたことになるのだ、足をつかえば歩のだ、大代りとなると無際限ということになって、当人の いた、手をつかったのでは伝わったで歩いたとならない、 器量と工夫と練達でいくらでも幅広い一ト代りが出来ると わたしのやる天井渡りは足もっかえば手もっかう、足とか されているのだ。人間三慎の一ツは増上慢だ、大代り無限 手とかいう体の端だけつかうのでなく一体をつかう、尋常と教えられているが慎み深しという一カ条が付いているの でないことをやるのだから体をみんな一ツにつかう、そので、一ト代りで一町進むの一里進むのという野心を起さな はずだろうではないかーーそれだったら歩くとも渡るとも しことになっていた。 いえるだろう。 その日わたしがやったのは、長押に足を添わせての小代 それではお目にかける、と、わたしは客殿の長押に片手り中代りで、ひらりひらりと、客殿の東西南北を進むとみ の指二本をかけ、足で畳を踏切って、ひょいと体をあげればあと返りし、あと返りして又進む、というのをまずみ ねこで て、片ッ方の手の平を猫掌にして天井板に貼りつけた、そせた。荒井さんも釜本さんも驚いた以上で呆気にとられて の時はもう足の指が長押に左右ともかかっている、足の先 いた。そこまでで畳の上へ猫戻りという技でひらりと降り が長押にかかり手が天井板にかかっているから、勢い、と たわたしに釜本さんが、虎之助、驚き入った技だがこれは いうよりも当り前のことで、両足を割って背の高さを天井軽業曲芸で武芸のうちとは申されぬといったので、軽業曲 板と長押に貼りあわせている。見ている方からいえば驚き芸が、用いられて武芸になれば武芸で、武芸も、用いられ たぐい だがわたしの方では体を一ツにしてやっていて、手も肩もて武芸にならなければ曲芸軽業とおなじ類と教わりまし 腰も腿も膝も脛も足の平も、天井渡りにみんな力を集めてオ こ、左様に申したからは天井歩行が武芸に用いられるもの いるから出来るのだ。それから歩いてみせた、長押のあるか用いられぬものかは、用いられる人が武芸とし、用いら ところならどちらへでも歩行が出来る、地面を一足ずつ歩れぬ人は軽業曲芸としたまで、これは是非なきことてす、