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検索対象: 長谷川伸全集〈第14巻〉
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1. 長谷川伸全集〈第14巻〉

腰の煙草入を無雑作に渡した。 ・ : なあお鈴、戸田の御隠居のうしろ姿を見ていると、腰 「あいよ」 に大小がさしてあるようにみえるぜ。おや誰だい、そこに 受けとると女房は裏から質屋へ、三味線を気にしながらっッ立っているのは」 小走りに急いで行く。蘭蝶が終りになったので、台所の方「こん晩は」 ばっかり気にしていた忠吉は慌てて、 「おお伊三さんじゃねえか、何んだって柳の本の下なんぞ 「ああいいなあ新内は。新内屋さん、もう一つ聞かせてく に立っているのだ、こっちへ来ねえ。あれえ厭だぜ伊三さ んねえ」 ん、何をばんやり立っているんだ、夏の宵なり、柳の下な 「へい、何にいたしましよう」 り、それじゃまるで幽霊みてえだ」 「そうだな、なるたけ長えのをやってくんな」 「へえ、じつはその、幽霊のことで相談に来たんです」 短いのでは質屋へやった女房が間に合わないのだ。その 「えツ。おどかしつこなしにしよう。幽霊はいけねえ、あ うち女房がかえって来てうしろからそッと金を渡すと、忠れは陰気でいけねえ、俺あ好かねえね。こっちへ来ねえ伊 吉は紙にひねってそれを、 三さん、おやお前、顔の色がひどく悪いぜ」 かげ 「ご苦労さん、お庇で今夜はい、気持だった、少しばかり 「忠さん、聞いてくんねえ、俺がこの間借りた家ね、あの たが取ってくれ」 家には何か日くがあるらしいんだ」 「どうも有難、フございます」 「厭だぜ、かついじゃ」 新内屋は流しの三味線を弾きながらだんだん遠くなって「本当なんだ、引越して三日目の晩、俺が蒲団の中にもぐ 行く。それに忠吉はうっとり聞き惚れている。女房はあき っていると、ヘンに薄ら寒いので、見るとお前、蒲団の裾 びつくり れた顔をしながら忠吉を見ている。今まで黙っていた旗下の方に知らねえ女が一人坐っているんだ。俺は吃驚した の戸田の隠居が、溜息を一ッついて、 ぜ。どなたと声をかけると、すうッと消えちゃった。あッ 忠「忠さん、今夜は江戸時代さながらというところを見せて幽霊だと気がついたので、急に怖くなって蒲団の中へもぐ 竿 貰った、こんな気持になったのは全く久しぶりだ。どれ、 り込んでしまった。暫くしてからそッと覗いてみると、又 人 名帰って、寝床の中で、ありし昔の夢でも見るとしよう。御いるじゃあねえか」 免」 「何をいってるんだい伊三さん、お前が、そんなものを怖 「御隠居さん、気をつけてお帰んなさい、へえさようなら。 がることはなかろうに、彫物の伊三郎といわれるお前じゃ

2. 長谷川伸全集〈第14巻〉

髪の毛は延び放題、目は落ちくばみ、血色は悪く、病人雨戸をがらり開ければ、真青に照らしている月の下に か狂人かと思われるような忠吉が、何か見つめて考え込ん蹲っている人影がある。 でいる。ふと脇を見ると一つの仲次郎が、キャッキャッ笑「どなたです。もし、もし」 いながら這い廻っている、三つの仁三郎の方は誰かにもた 凍てた大地に坐って両手を合せたその人が、 れているかの様子。われに返って四辺を見廻した忠吉が、 「忠さん、何んにもいわぬ、このとおりだ」 「妙だなあ」 「おう釜七の旦那」 と呟、 「堪忍してくれ、悪かった、このとおりだ、あやまる、あ した。こういうことがたびたびあるので、仁三郎に 聞いてみると廻らぬ舌で、かあちゃんが毎晩きて、一緒にやまる」 遊んでくれるというーーさては、おかよが俺の工夫が成就「どうなすったんです、まあお立ちなさい、地べたに坐っ きたね するようと、子供達だけに姿をみせ、俺を助けにきてくれてちゃいけません、汚え家だがまあお入りなさい」 るのかと嬉しさ有難さにわッと泣きたい口を噛みしめた。 「忠さん、私みたいな非道な者を、お前さん、敷居を跨げ そそ といいなさるか」 霰がタ方はらはらと灑いだその晩も、相変らず枯らした 肯を手にして、睨み据えているうちにいっか我を忘れた。 「へえ ? なんといってもそこに寝ている小さい奴には、 気かついてみると小さい頭を並べている二人の子供はいつおじいさんですからねえ」 「おう。ご免なさい。おう、これが、わしの、孫達か、お になくおとなしく寝入っている。石油ランプのあかりが飴 色だ。忠吉は家のなかを何度も見廻し、 う、よく寝ている、可愛い顔をして、スャスャ寝ている。 「子供がおとなしいので、今夜はおかよも安心したのかこ これ孫よ、このおじいさんは頑固一徹で、お前達のような ねえようだ」 可愛らしい孫に、駄菓子一つ、煎餅一つ、きようが日まで 又元の考えに入ろうとしたとき、表の雨戸がゴトンと鳴買ってやらずにきた。おじいさんが悪かった堪忍しておく 忠った、思わず忠吉が、 れ、忠ちゃんや、あらためてあやまる、今までは悪かっ 竿 「おかよか」 た、堪忍しておくれ、このとおりだ」 人 えもう過ぎた 名起ちあがる途端に外で、わあっとたれやら人の泣く声 「まあまあ旦那、お手をお上げください、い に、忠吉は吃驚して、 ことです、何とも思っちゃあいません」 「誰だい」 「それじゃあ堪忍してくれるか、有難い有難い」 うずくま

3. 長谷川伸全集〈第14巻〉

% その後、アーレンスが釣音の店へやって来て、 初恋 「あなたの息子、私の子にくれませんか、アメリカつれて 行き、教育して立派な人にします、私に下さい」 釣音は日本の江戸人の名残りを多分にもっている、ふふ大勢いる辻岡の職人のなかで、仕事となると忠吉だけ群 ンといった顔をして、 を抜いている。朝は誰よりも遅く仕事にかかり、夕方は誰 「アーレンスの旦那、家の忠吉はね、日本人の子ですからよりも先に仕事を切り上げる、それでいてだれも忠吉の仕 ね、異人さんのところへ行ったってとてもお歯に合いませ事を追い越せるものがない、腕がいいとこれだけのヒラキ がある。 んよ、真っ平お断りだ」 たな 釣音にも米国人のとる態度が優越感に充ち満ちているの 出来上がった釣竿をお店へ送るとき、他のものの拵えた へちま うわづ が不快だったので、懇望も糸瓜もなく頑と突ッ射ねた。 釣竿は下積みで、忠吉の作品を上積みにする、月給は三 ところが、妙なことから釣音はつますきはじめ、とうと円、他に上積料といって一円、あわせて一カ月四円の収入 う店を畳んで、本所の北割下水に引込み、忠吉は瓦焼きのがある、そのうちから一円ずつ月々父に仕送った。 かざりや 手伝い、仕出し屋の出前持ち、錺屋の小僧から新聞配達忠吉が十八になった時、辻岡の隣りに旧家で通称釜七と と、さんざん苦労しているうちに、釣音が持ち直したが、 いう金持がある、そこの娘で大島小町といわれたおかよ 忠吉は家は弟に譲って叔父さんにあたる花川戸に住む釣治 が、忠吉の小若衆振りと、仕事が群を抜いていて、いうこ これが後に明治三名人といわれた釣竿師、そこへ同居とすることがテキパキしているところが好きになり、想え ままごと して独り者同士の叔父と甥が、年のひらきも少いせいもあば想うで、いっとなく人目を隠れて飯事はどの恋愛が始っ って、兄弟以上の仲よしで、お互いに腕を磨き合ったが、 たいした貧乏つづき。 それが土地の若い者の眼につくと、 忠吉が大島の辻岡という釣竿屋をたよって、食うためで 「こんな馬鹿な話があるかい、そうだろう、いい若い者が もあり、他流試合でもあり、仕事を始めたのが十七の時。黙っていられるかい」 「そうだとも、何んだあんな奴、どこが好くって釜七のお 嬢さんが惚れたんだろう、外にいい男がねえわけじゃな

4. 長谷川伸全集〈第14巻〉

暫く経っと、一人の老人が介錯の仕度にかかり、平三郎 これも又伊豆守の勝目だった。伊豆守が又々いった。 「当分、ご出仕これなきが、よろしくござりましようかとは切腹の仕度にかかり、もう一人の老人がそれを手伝っ 存じます。そのゆえは、伊豆ごときがお使いにまいり、そた。 れにて先ごろよりの一条、埒明きたりとあっては恐れ多介錯の老人は平三郎の叔父で、幕府の鷹師で、当代の吉 し。このまま、ご出仕これなく、吉田の身の上、何分、定田流宗家吉田多左衛門だった。切腹の仕事を手伝っている まり、真野の除籍仕り、その上にてご出仕これありますれのは、名古屋から出てきていた尾張家の鷹師で、宗家多左 いったろう 衛門弟の吉田五太郎といって、平三郎の父である。 ば、水一尸様のご威光、損わざるかと存じまする」 またしても頼房は″敗けた〃と思うとともに、幕府の重吉田平三郎の切腹は見事だった。父も叔父も、平三郎の 生前には微笑していたが、自殺が終了となったとき、とも 職が、事を処置して行く手腕に、安心が持てて来た。 に一雫ずつの涙を老いた頬に、矢のごとく走らせた。 中納言は肚のなかで、微笑の感じをしきりに持った。 真野の家の断絶は、翌二十一日、行われた。 世上の噂は、引きつづいて、水戸中納言が、極力、家来「これによって、天下無事になりぬ。天晴れ健気なる吉田 かな」と文献には書いてある。 を庇っているので、無事な解決は付かぬかも知れない、 と、臆説が好きなものだけが、見てきたような話を振り撒 昭和十四年九月一日『週刊朝日』新秋特別号 いているうちに、その年の師走がきた。 本郷湯島切通坂の上に、天沢寺というのがある。その門 前の街を天沢寺門前町といった。春日の局の本願で、開基 になってから二十年目がその年でーー承応元年十一一月二十 郎日である。 平去る十月二十六日以来、姿を晦していた吉田平三郎が、 吉小雨がやんだ午過ぎに、二人の老人とともに、境内へはい 鷹り、本堂の前で暫く拝んでいたが、墓地へ行き、吉田多左 衛門家元という鷹師で、古今稀な名人の墓の前で、三人と も手向けをした。 そこな

5. 長谷川伸全集〈第14巻〉

っ 「すみませんでした」 台所の外、遠方で、幸助が捕手の張った網に引っかか 幸助は顔をそむけて金包みを、そッと手にとったその途たか、「ご用」の声がかまびすしく起った。嘉吉もお作も すく 端に、表の戸を慌しく叩く者があった。 その騒ぎに竦み、亀太郎を中に顔見合せた。 亀太郎を引きよせ、宥めていた夫婦も、飛びあがるばか 「なあに、おとっちゃん今の。今のあれなあに、おっかち おどろ り駭いたが、それにもまして駭いたのは幸助だ。夫婦が表やん」 の音に気をとられている間に、亀太郎に未練綿々の眼をむ と亀太郎が、ご用騒ぎを不審がる。それに夫婦は答える むせ けこま、又叩く戸の音に、思いきって台所の外へ姿を消し言葉がなく、音涙に咽んだ。 外では今の声のぬしの女が悲鳴をあげた。そればかりで 外の声は女だった。 なく、男ふたりの叱る声が聞えた。 「もしすみませんがちょいとお開けなすってくださいま霰が又音高く聞えた。 せ、すみませんがどうぞ」 「ど、どなたです」 夜明けの炭屋の裏では、地の上に媚かしい女の持物が くるわ 嘉吉は要慎深く起ちあがった。 二、三落ちていて、廓を抜けてきた錦山が、追っ人の熊〕 「後生でございます、早くお開けくださいませ」 蔵、鷹吉に追廻され取押えられかけていた。 「お作。女の人だ」 それを裏の家の亭主と、その前の家の八さんとが、表の 「何なのでしようかしら」 戸と窓とから、顔を出して見ているうしろに、ふたりのか おずおずのぞ お作は台所を怖々と覘いた。すでに幸助の姿がないのみさんも顔を突き出していた。 で、はツとしたが、表の人に危惧を持って、亀太郎から手熊蔵は錦山の白い腕をねじあげている、鷹吉は落ちてい を放さなかった。 る物を拾いあつめていた。 おいらん 「おっかちゃん、今の借金とりの小父さん、いけない奴だ「花魁。これさ花魁、そうジタ・ハタしてはいけませんぜ、 ったねえ」 おとなしくするものだ」 あざわら 「あ、ああ、そうだよ」 痛み苦しむ錦を嘲笑って熊蔵は、底意地の悪い口のき 外では女の焦慮った声が又した。嘉吉は土間へ、屹となき方だ。 っておりて行った。 「あッあツ、痛、腕が折れる、痛いツ」 こ 0 きっ なまめ きんざん

6. 長谷川伸全集〈第14巻〉

円蔵が先頭で、捕手は三人とも出て行き、開け放された 源兵衛が八畳から出てきた。 てんじよううらゆか 「あとは天井裏と床の下だけだ、そのほか変なところはね表の雨戸の外を、駈けて行く他の捕手の提灯が、飛ぶよう に通って行った。 え」 「じゃ、二人で天井を突っついてみろ、ここは俺が見張っ嘉吉は土間へおり、雨戸を閉めた。 「今夜はなんという厭な晩なんでしよう」 てるから、そこの座敷からやってみろ」 とお作は抱いている亀太郎を揺りながら、屈託して息を と円蔵が差出す土間にあった天秤棒を源兵衛が受取り、 しんばりばう 朝松は台所から心張棒を外して八畳へはいって行った。天ついた。 「ああ。霰だ。お作、霰が降っている」 井板を下から突いて、音によって鑑定しようというのだ。 「おう嘉吉、もしも、隠匿ってでもあると、手前達夫婦「霰が降っていますかーーあの晩も、霰が降っていました 、よばこぞう は、ただでは済まねえ、人殺しの大盗つ人、稲葉小僧の幸ねえ」 助の巻添えを食うんだぞ、後になってからじゃ間にあわね「四年前のおとといの晩か」 「ええ」 え、そうならそうと、今のうちに云っちまえ」 しんみせ 「いえ、手前どもに限って、そんな悪党の方を隠匿うなそ「あの時分、家は新店で、もっと陽気だった、あの二月前 に赤ン坊には死なれたけれどーー・あれから四年の間、汗み とい、つことはざいません」 ずくに稼いでこんな始末になるとは、よくよくの不運だ。 「そんならそれでいい。 おう朝、源、どうだ」 朝松が八畳から、塵のはいった片眼をこすりながら顔を坊主はどうした。睡たか」 「たった今まで、獅噛みついていましたが、今の人達が出 出した。 て行ってくれたので、安心したのでしよう、こんなによく 「どうも、いねえようだ」 「じゃあ、畳をめくって床の下をみろ、おつ。朝、源、ふ睡てしまいました」 よび・一 「うむ、よく睡ているなあ」 声たりとも来い、呼笛が聞えた」 の どしンと家のどこかで物音がした。 あまり遠くないところで、呼笛がたった今聞えたのを、 根 「あれ」 屋円蔵は聞きはずさなかった。 お作が驚くのを嘉吉が、ぎよッとしながら制して、今、 源兵衛と朝松とは天秤棒も箒も、八畳に投げ棄てて土間 音のした台所の方を見詰めた。亀太郎が夢に怯えたのか急 へむかった。 ごみ あられ

7. 長谷川伸全集〈第14巻〉

ひつけ ひあぶ 「その疵をつけた男がやッばりおれ同様か」 「おい、放火は火焙り、軽くても遠島だ」 「そうなのよ。そしてあたしのおとッさんもね」 「なあにさ、灰だよ、焼け死ぬよ、生きていつまで居たと 「本当か、拵えたような話だが」 ころで、だれが女房にしてがある ? 女は男に倚つかかっ 「旅の烏のくせに何をいうのさ。こっちはこの横ッ面で勤ていたいからねえ。あたしだけか、そりやここにいる女が めの身だよ、おまけに年は二十七、気の利いた女は二、三みんなそうじゃないか」 人子持ちの年をして、この顔この体で、お化け伊多屋のお「男ひでりはなかろうにな」 職だ。末はどうなるんだか積っても知れたものだーー・兇状「おや兄さんもそういう組かねえ、女ってね、男を一人自 持なら達引よ、といっても銭はないが、なんなら命をやっ分のものにしておきたいものさ、ここじや女は男のおもち てもいいのよ、どう ? 要らない ? 」 やじゃないか、倦きたら男は棄てちまう、手を放れたら忘 「貰っても持って行けるものじゃなし、辞退しとこう」 れられる片輪者の女じゃないか」 「それもよかろうよ、あたしの方でも棄てる命を役に立て おやをは立膝を組んで、癖になっているのだろう、横身 る目算があるんだから。兄さん頼まれておくれでない ? 」 になっていた。新助の眼には乂しても、殺した女が怨じて 「何を ? 」 しるように田 5 えた。 えんしゅうみつけ きねそう ふかがわ 「遠州見付の者で甲子蔵、今年三十の男に会ったら、深川 生れのおやをが、品川で焼け死んだと話してくれない ? 啀む親子 厭だったら黙っていても怨みやしない」 「焼け死ぬ ? おいお前・ーーそうか、火を放ける気か」 かたわむすめ 「こんな家があるから、不具娘の親が慾を張るのさ。それ新助は大引け過ぎからよッばど経って、醜い半顔を下に さわ は親子の間のことでよいとしても、癪に障るのはこの家の片寝をしているおやをを寝こかし、そっと廊下へ出て行っ 屋 旦那さ」 多 伊「叱ツ、よさねえか、声が高えぜ」 雨はやんで風がつのり、板戸が鳴り、扉が煽られ、屋体 すた お 「あいよ , ーー廃れものに目をつけて、この渡世で当てた身がギイギイ泣いているかに、ときどき揺らいで地震のよう 、、こっこ 0 上が日増しに肥るのが、こっちは無性に細に障る。一体だ しんだい れの体で肥える身代だ ! 」 そッと忍んで行った先は中梯子の下から廻って、中庭を っ ) 0

8. 長谷川伸全集〈第14巻〉

「おやあ、白い野良犬だ、お稲荷様は大がお嫌い、棒はねやワンとはいわなンだ、それに犬なら打たれてキャンとい 3 えか、おッとあったあった」 うはずを、お狐様だけあって何とも仰有らず死なれたと証 と、大道具用の手ごろの木の棒を手にとり奈落へはいる言したので、喜八は咽喉の奥をゴグリといわせて黙った、 と白い物が逃げ廻った。右往左往に追い廻し、ばかりとくそれ見たことかと、集った人達が、えらいことになったわ れた一撃で犬は死んだ。 ゃいと騒ぎ立てた。 「これでお稲荷様がご安心だ。甚じい、あとはよろしく頼注進する者あって座元が知り、喜八は呼びつけられて煙 むよ」 管を頭へ飛ばされ、縁起商売の飯食うている者に似合わぬ てへへツのへと笑って客席の掃除に引返して行った。 と叱られ、かたわらにいた手代にはもッと酷く叱られた、 犬だったらこのことが人の命に拘わりもなかっただろう これが不縁起のタネとなったら座元さんに何として詫び 悲劇とこそっいになった。 る、お稲荷さんを殺すとは人殺しよりまだ悪いと、狐をと 掃除番の甚じいが夜を幸い、犬の屍を水葬礼と出掛けるうとう人以上にして散々に叱りつけた。 矢先、これ犬かいなと不審を抱いたのが人の注意を急に惹 き、犬なものかお稲荷さんだ、しかも貫禄の高い白狐だか 仕出し人生 らどこその家の守護神か知れンわとなった。荒木芝居にも 稲荷は祀ってあるが、お狐様のお姿をみたものがないと知 っているのでこの方に拘わりあいはないが、もしひょッと備前の宇喜多宰相秀家の夫人で、加賀の前田利家の女が このお稲荷さんが、豊竹座の守護神やったらどんなことに俗にいう狐憑になって、医薬も、祈蒋も、さらに験がな なるのかと、声をひそめて溜息まじりでそッと云う者もあ 。と聞いて豊臣秀吉が、さだめし肚ではヘらへらと嗤っ ただろうが大真面目で、稲荷にむかって筆役に書かせた公 そこへ喜八が「何だ何だ」とやって来てお稲荷さんを殺開状を叩きつけさせ、備前宰相の夫人に狐が憑いて悩ます したそやと聞かされ、さッと顔の色を変えたが、 その責任は稲荷にある、今度は許してやるから狐をそうそ 「なあにそれは大さ、その証拠にぶち殺したときワンとい う去らせよ、しからずば日本国中の狐を狩りとり悉く殺す った」 もの也とやった。相手が人間でないだけに京の吉田家とい つかさ と、唇をびりひりとさせて頑張ったが、甚じいがいやい って、神主の司職で稲荷の社などの免状を出す人間を伝達 きつねつき

9. 長谷川伸全集〈第14巻〉

せたのは、吉原の意地を台なしにしたと、尾彦、金瓶、稲安藤さんは馬で駈付けてね、吉田、いかんよ、あの二人は 本、角海老の遊女が、攻撃のロをきわめ、泉山さんはさす放免しろと叱られましたよ。あッしは叱られても、たいし たことはねえが、深尾さんはひどく怒鳴られたそうでさ」 力に見上げたもの、あれでこそ吉原の花だと、評判になっ 道之助、吉三郎が雪寃の祝いをしたとき、平泉楼はもと 道之助は吉三郎とつれ立ち、安藤太郎を訪ねて謝意を表より、名ある楼から夥しい祝い物が届き、金瓶の今紫、尾 しの 彦の誰袖からも祝い物が届いた、それらを凌いで豪華な祝 した。安藤は豪快に笑って、 い物が泉山から届いた 「遠慮が過ぎた、はじめから安藤の名を出せばよいのに、 その他にもう一ツ、奇抜な祝い物がその日、安藤太郎か あツはツは。二人とも若いから吉原ではモテるじやろう ら届いた。それは道之助、吉三郎を盗賊と間違えた岡ッ引 ね、あツはツよ 二人ともその後間もなく、八丁堀に吉田某を訪ねた、豊三人が、手土産を持ってやってきて、 めんにく 「どうも、面目しだいもねえことで」 かなくらしらしく、屋敷も立派だった。吉田はおおいに喜 ペコペコと頭を下げたことである。 んで酒肴を出し、 「さて、ご両人、打明けていいますが、あの一件のそもそ もは、村雨さん、お前さん、吉原の妓に女物の着物をやン春田道之助の後身は春田直哉といって、明治大正の実業 なすったろう、あれがいけなかったんですぜ。へええ、兄家で、八十余歳で物故した。なお、三州吉田松平家の士が さんの奥さんの着物だったンですかあれは。それをお前さ彰義隊参加の事実を明らかにしたるは、おそらく、これが ん、自分じゃ媚けていて着られねえてンで、くれちゃった最初であろう。 ンでしよう。岡ッ引がそれを聞きこんで、こいつは、今、 昭和十七年五月司浜田弥兵衛』 ( 天佑書房刊 ) 所収 さむらい 市中を荒し廻っている、武士強盗に違えねえと思って、深 年尾大隊長に上申すると、深尾さんはこんなことは不慣れの ししようにしろと仰有ったから、ああいうこと 方だから、、、 幕になったンですよ。あッしゃね白洲で春田さんの顔をひと 目見ていけねえ、これは違ったと思った。すると、安藤さ んのことをいい出したので、早速、伺いの使いを出すと、 にや

10. 長谷川伸全集〈第14巻〉

子、この四ツのうち、どの道を行こうか迷ったのである。 る。話題はとりとめもないことだった、その女が別れに臨 と、見る眼の下に、荒川を渡るつもりだろう、敗走して行み、囁いた言葉は、 く味方が、蟻の列のごとくである。 「忘れずにいてくんなまし、わちきは廓の平泉楼の泉 「尾台の渡しを越えよう」 山 と、道之助が主唱すると、吉三郎がすぐ賛成したので、 その時、二、三人付いていた女のうちに、今声をかけた 他の二人もそれに同意し、いよいよ落人の第一歩を踏み出女もいたように思えた。 し、山内をうしろにしたのがタ方である。雨はまだ盛んに 道之助はその家を見た、門構えで庭が広い、別荘だ。 降っている。 家の中から傘をさして泉山が出てきた。美しいのは天王 落ち行く途中、少年の心を傷ましめるものは、重傷の味寺の時と変りがない、 ; 、 カ衣裳が違っているので、別の人 方である。 かと思い、顔を見定めている道之助を、泉山の方でも眺め 「殺してくれ。情けだ。殺してくれ」 ている、道之助は見定めようとしているのだが、泉山の方 介錯を加えかねている戦友に、体を寄せかけて泣いてい の眼はとろりとしている。 る者を何人もみた。 道之助その日の武装は、紺地に麻の葉の銀糸の刺繍ある 道之助等四人とも、自害するものの介錯を、多きは三鎖帷巾に義経袴、朱の胴をつけ、白木綿の上締め、黒鞘の 人、少きも一人はした。 大小、それだけでさえ凜々しく可憐なのに、鎖鉢巻の下か 一カ月余りの長降りで、道路は沼よりひどい。四人ともら、濡れた髪の毛が白い頬へはつれかかっている。この一 まだ手放さずにいた銃を杖に、辿り辿り行くうち、薄暗い月、紀州の山の村で、白井権八だとはやされた、あの時よ 雨の黄昏だったのに、女の声で、突然、 り今の方が、実戦の後だけに、美しさに凄味さえ加わって 「道之さま道之さま」 かくま 年と、呼ぶものがあった。道之助はぎよッとして振返れ「道之さま、わちきに隠匿われてくんなまし」 ば、その女はうしろを向いて、 「有難いがそうは参りません。あれへ行く三人との約東も 亠不せんざん 冪「泉山さん泉山さん」 あれば」 と、呼んだ。道之助はこの三月、谷中天王寺のほとり しいおいて駈け出した。泉山が何か叫んでいるが、聞き で、美しい女に言葉をかけられ、暫く、話をしたことがあとれなかった。 いた なか