でございます」 四 「やはり、この世に永らえておりますか」 茶を啜って味を楽しんでいた虚斎隠居が、魚見崎の彼方「江戸にな、泥蔵ならば」 の空に湧く雨雲を眺めて、 「拙者はお前さまが、横土泥蔵とばかり思いこみました、 「是庵殿ご夫婦は、この空合いでは、通り雨におあいです違いましたか。江戸にか、左様で」 の、つ」 「小僧の話がまだ残っておりました。あの小僧め、日本左 与右衛門は膝に手を置き肘を張って黙っている。 , 卩には私がなるというので、日本左衛門になると如何な 「さて三代目日本左衛門のお話の前方に、念を押しておくることをいたすべきものかと尋ねましたところ、義賊をい たわむ ことがございます。お前さまは会津様の隠密方で、仙台御たしますという答えでござりました。義賊とは戯れにこ 領分に永らくはいっていて、このたびお役満足につき、保そ、そんな者があって良いでござりましようか。義賊と強 養のお暇とでもいうのでございましよう。あたりましたの って申したくば欺くという義の欺賊でござりましようか な、矢島伊助、風の神与茂七、今五右衛門の金十郎、庄兵 「申されるとおり、この度お役を相遂げました」 衛の日本左衛門、これらが、われらは天下の金銀を平分せ 今度は、はツきり武士になって答えた。 んとする一派にして、むかし戦国の覇業に近しと、いった 「お前さまはその昔、会津表で、横土泥蔵を召捕りに行かそうでございます。非理窟をつけて己を欺くでござりま れたなかの一人か、その弟さんか」 す。戦国の世に覇業というは、海内平安が狙いでなく、わ 「あの時、同役中一番の年少者でした」 しが出世わしが繩張り切りひろげでござります。気の毒は 「やはり左様でございましたか、と、横土泥蔵を只今でも人々の食い物つくる者と人々の家道具つくるもの、人々に 目 代お捕えになりますか、四十年目の捕物でござりますな」 売り次ぐ者でござります、これら農工商は武者草鞋に踏み 与右衛門は笑って答えずにいる。 つぶされ戦争馬に蹴ちらされます。日本左衛門とその一味 左「それでは与右衛門殿、話の続きでございます。三代目のは、非義非道の財を掠めるというロの下から、夜討ちをか なぞら 日日本左衛門に擬えてしかるべき者が日本に三人おります。 けて財を奪うとき、人を殺し、人を傷つけます。殺された 5 その一人はすでにお判りでしよう、私、この虚斎。今一人のは人の親か、人の子か、女房子があるか、養うべき幼き はお前さまご存じないから申すに及ばぬ。残る一人は横土弟妹があるか、それ考えたこともない遣り方で、盗みはす すす
達家の領民で江刺郡岩屋堂村の与右衛門といってやはり湯師にいたす、関白、書を賜いて之を賞す、とあるという 治客だが、お百姓にしては眼がきらりと時に光るのが妙だお答えをいただきました。そこでこのお話は、拵えごとで ないと得心がゆきます。さて私が中継ぎの話はおあとがま し、奥川訛りでいつも話すのが、今のように訛りのあとか だ少々ございます。浜島庄兵衛がご処刑になって後、加賀 たもない発音に、一変してしまう人である。 風が和かいので磯打っ波が、ゆッたりと一、二丁先で打に現れた矢島伊助という妖盗のことは前に申しました。伊 返している宵のことである。 助のあとで、出羽で捕えられてご処刑で死んだ者に、日本 かぜかみ 「或る人の話でございます、もっとも私に話したお人が出風の神水戸与茂七というのがございます。同類が三人やは かみやま 羽の上の山の湯治場で、何年とか前、泊り客の一人であつり捕えられてこれもご処刑。その後暫くしてから大坂で、 た南部とやら津軽とやらの人から聞いた、その話を、私にお町奉行所の与カ衆に友達づきあいの出来る金貸で家作持 いたしたのでございますから、このお話は私が中継ぎといで、金利と家賃とだけでも豊かにくらしていられる男がお ったわけになります」 召捕りになりました。これが今五右衛門の金十郎、これを 「ははは、そうすかア」 約めて石川の金十郎といって白浪仲間では名前が遠近にひ 一躍して与右衛門という人が、仙台領のお百姓らしい顔びいていた大泥棒の張本人でございます。この金十郎のこ つき、何の奇もないおやじに戻った。 とを後代になると、越中の生れの山伏で十九カ年の間に、 と、気がついたらしくもない虚斎隠居は、出来のいい銀常々もって歩く鉄の棒で打殺した人の数二百七人、逃げる 煙管で一服くゆらしながら話を前に続けた。 に急で数をかぞえなかった死人はどのくらいか判らぬと話 「天正の昔と浜島庄兵衛の捕えられた延享四年では、百五が大きくなっているそうでございます。金十郎は山伏では 十何年か前と後でございますよ、二人の日本左衛門というございません、前身が説教坊主で、生れは摂州淀川べりで 代のが、何かこう面白がらせに、後から拵えた話の気もします。日本左衛門は京都のお町奉行所へ自首する前は、大坂 におりましてこの金十郎に相談し、商人になって隠れ終そ 門して、幸い藤堂様のお儒者で別懇に願っているお方がござ 左いますので、そのお方に伺ってみましたところ、高山公、 うとした、このことは名高い方々がお著わしになったご本 にございます。金十郎が今五右衛門とうたわれた者だとい 日と申上げる藤堂和泉守高虎公ご一生の伝を、先年、ご藩の いっしゅうろく 学者方がおっくりになった、その本は「聿修録』と申すそうことは、そのころ世上で噂が高かったのに、名高い方々 うで、それに日本左衛門と称する者あり、公、捕えて之をの耳は在外に短いとみえ、ご本の中に書いておりません、
とめがき かえって名もない人で筆まめな方の留書にございます。そ盗賊が、そのとおりやっていたとしましたところで、その れとても金十郎が日本左衛門の一味徒党だとは気がついて下ッ端の者どもはそうでございません、上でいったことが しいます おりません、どうも実相というものは隠れがちでございま下へ行くほど狂いが出ます。親の心子知らずと、 す。今五右衛門の金十郎が捕えられると、世間はあんな人が、親泥棒の心を子泥棒は知りませぬから、迷惑するのは むじっ が悪事をしたとは嘘だ寃だといいましたが、本人の金十郎私ども一同で、親泥棒はのはほンといい気になって、ただ そらうそぶ はさっさとご牢内の格子に布を引きさげ、自分で縊れて片の泥棒と泥棒が違うと空嘯いている間に、われわれ一同の 付いてしまいました。この石川の金十郎にいたせ、日本左迷惑は積りつもりますのでございます。お話が逸れまし 衛門こと浜島庄兵衛にいたせ、出羽でご処刑の日本風の神た、中継ぎのお話がまだございます。出羽上の山の湯治客 だったお人は、私知合いに会津の大盗森文之進のお話をい 与茂七にしろ、非義非道で積みあげた不徳の家から盗み、 貧困窮苦の人々を賑わすと、こう申しております。出来てたし、次に」 いつの間にか、ここの二階座敷から屋根越しに前にみえ も出来ないでも、そんな風な望みを抱いた泥棒が、その後 に出ておりますのは、天正の昔の日本左衛門のことはいざる海が、月に照っている。その先々は煙るがごとく遠い、 心なしか彼方に灯が瞬いている気がする。初島でもあるだ 知らず、延享から宝暦へかけての、日本左衛門一派とおな じ盗賊の筋でございます、と、こうまあこのお話はなるのろうか。 でございます。さてそこで、高名なお方のご本にはそれで「これも会津のもので、後に江戸で大盗賊となった、日本 ございますから、前申した日本左衛門の一味一類の残り左衛門を名乗る三人目の、この者の本名はと申しますと」 百姓与右衛門が眉毛をぐッと開いて、ロ許に綻びが出か を、根こそぎ絶ったそのうちの一ッ一ツが、風の神与茂七 かったのを噛んだのでもあろうか、元の相好に戻ったのが やら金十郎やらでございます、一派一類は多かったから、 その他にもあったでございましようが日本六十余州大小名目にもとまらぬ僅かのうちのことだった。 と、到るところの諸代官方が、永年の間、力を協せて残党談者は夜更けの冷えに心づいて、襟掻きあわせながら、 窓からみえる屋根越しの海を眺めていった。 狩りをやりとげた、そのことは、どなたもお書き残しがご ざいません。私は、盗賊に知合いがございませんから不案「更けましたな与右衛門殿、無益の話にご退屈でございま 内でございますが、中継ぎをいたしましたお話に出て参るしたろう、又あすのことといたしましようか」 ような盗みはすれど非道はしないと自分免許でいっている むやく
泥蔵が婢に化け、捕り役の固めを二線とも、抜け出たとい 「ほうほう、是庵殿ご夫婦がみえたか、それはそれは」 うところでは、笑い声を出しそうにまでなった。 と隠居が喜んで浮き腰になった。 と、さすがに虚斎隠居がそれには気がついた。いやその 与右衛門は客来ならば遠慮申す、又のちほどと国訛りの 前々から、聴き上手ということはあっても、それとこれと言葉で挨拶して座を起った。 は様子が違うと、些かずつの不審が積り出したところへ、 「宮川是庵殿というて、私が年来久しい仲好しの友でござ ます。よ、ま、、 今いった与右衛門の笑わんとして声を呑み、素知らぬ態と それではのちほどにでも又」 なったのを見付け、この男怪しいと気がついた。怪しいと 虚斎が盲の客を迎えに行く、そのうしろ姿を廊下で、見 思えば仙台弁で万事やっている間に、思いもかけず一聯の送っている与右衛門の眼に、みような光がちらりと出て消 江一尸弁が出るのさえ、不思議な素性をもっ男、百姓与右衛えた。 門どころか、一杯食わせる手をつかっていると、警戒する 気にさせた。したがって中継ぎ話の後半を口に出さず、打 切りにした。 翌日の朝長けて、目の前の海の色が、高くなった日の光 「とまあ、私は知合いの者から聞きました。世の中は昔もできのうに変る美しさ、沖の漁船の帆もきようは白くみえ 今も変ったことが絶えませぬから、高名な方々がお書きにる。 なるタネは、石川や浜の真砂はつくるとも世に盗人のタネ虚斎が先にあとから与右衛門が、湯あがりの赤い体で、 はっきまじで、本当に石川の金十郎や浜島庄兵衛の筋をひ隠居の座敷へはいって来た。 く者があると同様、尽きますまいでございます」 「客人は網代へさ行かれたでがすッペか」 といいつつ与右衛門の様子はと、そッと見ると何の奇も と与右衛門が粗ぎりの煙草を、古煙管につめた。 あら 代なく、まこと仰有るとおりという顔つきで、臭みの強い粗「別懇なお人が二、三人いるので、今夜はあちらへ泊る 門ぎりの煙草を、安物の古煙管につめ一服している。 か、こちらへ来て泊るか、その時のことじゃというて行か 左 はてな、この様子では与右衛門というこの男、やはり話れたのでございます。それはそうと与右衛門殿、きのうは 日の聴き上手だったのか、と隠居が思い直した時、湯治宿のあれから一度もご一緒になりませんでした。茶を淹れます 1 ここの女中が来て、この辺の訛り一言葉で、箱根から廻ってかな、良い茶をいただきましたのでございます」 来たといって、お盲さん夫婦が来たと告げた。 「あの客人、お幾つでがすッペ」
そんな者どもから、海内第一の盗賊の張本人はと聞いたと 「お前さまはもともと、この虚斎という隠居名の者に正体 ころ、江戸のかくかくのところに、これこれの人がいる、 がある、日本橋通り二丁目紙問屋なにがしの隠居、それは まずこの人が当今第一と、幾人ものロが合っていたので、 それではと浅草の盗賊の張本人を尋ね、遠国からおりいっ嘘とみてかかったお人でございましよう」 「ご隠居がそうだと仰有るのですかね」 てのことで来たというと、何の用だというから、ここでは 「お前さまは江戸が長い、ことによったら累代江戸詰の、 話せないお座敷へお通しなさいというと、みような人じゃ とい 0 て、悪い顔もせず、結構な座敷へ通し、これいたずどこかの御藩のお人でございましよう」 らしてはいけない、わしの袂の数珠を返せといきなりいわ「これは恐れ入ったことで、ご隠居のお調べ受けるとは」 びつくり 「会津だ、お前さまは。執念深いそよ、横土泥蔵を探して れ、従兄は喫驚して、これは海内第一の盗賊だ、今までに 盗むを見顕わしたものがないのに、この人だけは即座に観いるのでございましよう」 「お判りか」 破ったと恐れ入り、只今よりお弟子にお取立てをと願った 「昨年のあの小僧ッ子は、お前さまが放して寄越した間諜 のです」 ここまで与右衛門が話すと、虚斎隠居が欠け歯をみせてでございますね、あれは稀代な小倅でございます。あの小 笑 0 た。そういうとき眼がやはりやさしいのを、ちらりち僧、わたくしは日本左衛門になる生れつきの者と、臆面も らりと与右衛門は、見るような見ないような眼を向けて見なくいいました、あれはお前さまがロ真似させたのでござ いますか。何にいたせ、お前さまも日本左衛門のことはご たものである。 存じない、と思うて、長々と講釈をお聞かせしたのでござ 「与右衛門殿、そのお話の終りを承りましようではござい ませぬか。お話の筋だと、お前さまの従兄という方は浅草いますーーー与右衛門と名乗るお人。初代、二代の日本左衛 門に続いて、いわば三代目日本左衛門のことが聞きたいの のその者の家に居着き、盗賊の秘術は教えて貰えず、使い 走りをさせられてばかりいた、とこうなるのでございましでごさいましよう、お聞かせしましようか」 「一承・い , 寺ーよ、つ」 よう。従兄さんはお幾つでございます」 「今のは昔話で、只今では従兄は、わたくしに三ッ上です与右衛門の眼に隈が出来たのではないか、そんな相好に から」 海は右半分が暗く、左半分が明るい。 「いや、昨年が十七歳ぐらいでございましよう」 よっ , ) 。
「その前に申しておきますが、妖盗矢島伊助がいった仲間 掟の話のなかに、日本左衛門とはわれら仲間の総名で、一 湯からあがって来た隠居虚斎は、屋根越しにみえる海人の者だけの異名でないというのがございます、ゆうべち ・ : けさは曇天に色を濁され、初島が海靄に遮られているよっとそのことは申しました。伊助が申すのでございます と知ってか見もやらず、茶を淹れましようと座についた。 と、日本左衛門の仲間にはいる者は、壮年英気のもの、人 ゅうべの与右衛門は白毛混りの無精髭があった。けさはをあやめし者、親達の勘当うけし者、盗賊して逃げたる 剃られて頬の皺がかえってくッきり見えている。 者、これらをその一派にひき入れるときは初めにすこしの 「髭を剃るに鏡がいらぬとは、与右衛門殿はご器用でござ役目をいいつけ、わずかのことを不調法いたしたりと捌き いますねえ、それも鏡にうっして見届けて剃っているかのかけて、死罪を申付け、刃引きの刀にて首筋を叩くと、切 ように、さッさッとやる、あれは出来ぬことでございまられもせぬに死んだと思いこんで死に亡せるものあり、気 ひと す。私どもは他に剃ってもらうか、鏡をみてやらないと出抜けして夢うつつの者あり、これらは仲間から追出し、あ 来ませぬ、不器用です。二番茶ですがもう一杯どうでござまり阿呆な者も追出し、十人に一人は弄り給うなと動顛せ いますーー風呂の中でうかがって驚きました、会津の大盗ざるがあり、これを一派のなかに引き入れる、されば仲間 森文之進のことを、与右衛門殿がご存じとはでございまの者は悉く一たびは死せる者なりというのがございます。 す。やはりそのお話はどなたかの留書にございましたもの俗に度胸試しというのでございましようが、泥棒ながら何 か度胸試し以上のものがございますように取れるのは、買 与右衛門がいうところでは釈迦堂村津田弥右衛門の『明被りでございましようか。それともう一ツ、この一派に総 和雑記』の写しでみたという。明和というと徳川十代の将大将が一人、その下に四人の頭がいて、浜島庄兵衛も伊助 代軍家治の、「何から何まで諸人明和く ( 迷惑 ) 」と悪口されも、四人のうちの一人だということでございます。それか 門た時代で、約三十年の昔のことである。 ら又、四人の頭のうちにスレ事 ( 内紛 ) 起ったるときは、三 ほかほか 左ゅうべお話になりかかった森文之進の次の話、後に江戸人に憎まれし一人が、日本左衛門を名乗って自訴し、他々 日で大盗となった会津生れ三代目日本左衛門、「その本名はのものの罪を引きかぶる、そのかわり残る三人は改革を施 の」続きが承りたいと、国訛りのある与右衛門のいい方して仲間を続けるというのがございます。これでございま とどこお に、虚斎隠居は何の滞るものもなく、話を続けた。 すと、私どもが高名な方々のご本で鵜呑みにいたしている
7 日本左衛門三代目 なるほど、燈台下くらきところにいた泥蔵には、道路が東 西南北にひらけたことになりましようがな、泥蔵、ついに のがれ出ました」 与右衛門が思わずらしい掌を拍って、 「なるほど、女を泥蔵と断じ、それ一図となったところに 愚かさが」ざった」 「そう、そこに思い返しがないからのう。さて、横土泥 蔵、先年、大患にかかり、只今では両眼の明を失う、体は すこや 健かでござります。お判りでござりましよう、泥蔵は只 今、宮川是庵、往年の豆腐買いの女が、ご覧になったきの うの盲人の妻。あれあの雨雲が去って、日が照っているで しよう網代で、今ごろはさだめし夫婦さし向い、盗みせぬ 身の気の安さ、昼飯の箸をとっておりますでございましょ 与右衛門実は赤木六兵衛、この湯治場へ来て以来の人の しい笑顔に、じわじわと、とうとうなった。 昭和二十二年「オール読物』三月号
158 物を持ってこい」 安右衛門は案内されるまま客間へ通った。家の中に物音 こうばこ 机の上には香筥と香炉とが置いてある、表に「親類中へ」 一ツない。安右衛門が袴の膝に手を置くと徴かな音を袴が と書いた遺書もある。 たてる、その音ですら大きく聞えた。 「ま 座敷のうちに靄がはいってきた。匂いが生ぬるく臭かっ 家来は「迎えにこい」という詞でほッとした。死体を迎た。 え取れという意味にはとりたくなかったのである。 桑原八太夫は早くも「さてこそ」と覚った。居合せた次 安右衛門は家来と駕籠とが去ってゆくのを佇んで見てい 男八之丞が「代って対談します」といったが肯かなかっ た。寒い朝の六ッ半頃、今の午前七時ごろである。 た。客間の隣室に大刀を置き、脇差ばかり帯して安右衛門 靄のおりている朝だったので家来も駕籠も、すぐ薄れての前にきて坐った。堅い挨拶が短く交わされ、双方の眼が みえなくなった。 見つめ合った、と、安右衛門が、 安右衛門は衣紋を繕い袴のひだを正し、リ、 卩カらはいって「そこ許ご子息、拙者倅」 と、 玄関にたった。 いった。廊下に人影がさした、その人影を越えて、 「ご免」 あるかなきかの靄が客間へ流れこんだ。 おう 「応」 八太夫は「それで ? 」という見つめ方をした。安右衛門 小者が取次に出てきた。奥で八太夫の声がしている。き は素ッ気なく、しかし、明瞭に、 よう、非番であることを安右衛門は知っていた。取次の小 「ともによしなき若気のいたりにて御場所を憚らず喧嘩に 者は安右衛門の顔をみるとそわそわした。 及び、双方切腹仰せつけられーー是非なき仕合せにござ 安右衛門は深い皺を深めるような硬い顔で、 る。お互いに年老いて頼みすくなき身と罷りなり申した。 「三沢安右衛門、と取次たのむ。桑原八太夫殿に御目にか 今日は拙者倅、一周忌と相成り、今更のように思い出し かり・義」ー」 とだ 小者は顔をびくびくさせて引込んだ、間もなく、家の中 いいさして詞が中絶えた、やがて又、 が急に静かになった。小者が引返してきて、 「それにつき、拙者倅こと風聞に、逃げ剣術と悪口を受 「お通り願います」 け、心外」 「応」 安右衛門の顔の皺が詞とともにぶるぶる顫えた。
「も , っ臥 ~ れ」 たが、やがて江戸へ出なくてはならないので、有馬涼及の 八之丞は、しかし、安太夫が好感を今も持たれているのすすめで、九月、今度は山代でなく山中の湯へ赴いた。 は、人物や事柄ではなく、世に絶えてあるまいとまで思わ十月になった。陰鬱な空が押しかぶさるような日が二、 せるはどの美しさからだと知らずにいる。 三日つづいた。 三沢安右衛門はゆうべが泊り番、きようは明け番、、 もなら城から荻生まで歩いて帰るのだが、 人の噂 「気分が勝れぬから、あすの朝は、駕籠を寄越せ」 そう家来に命じてあったので、けさ暗いうちに家来が駕 「中条流は逃げ剣術」が陰口から一躍して流行語になり、籠を用意して迎いにきていた。安右衛門は六本の皺の深い 町方などでは酒の席で、 顔を硬くして下城した。いつもとそれは何の変りもない。 ( あれえ、熊さんは、どうしたろう ) 荻生が近くなるまで駕籠の中の安右衛門は何もいわなか ( 熊か、あいつ中条流さ ) った。家来が 「逃けた」から「逃げる」に使われた果てが、「逃げたく 「ご気分はいかが様にござります」 思、つ」とい、フことにも、「逃げてしまえ」とい、フことにも 「心配は要らぬ」 使われた。 駕籠が荻生へはいると安右衛門が、 三沢安右衛門はこれを耳にすること再々だった。或ると「桑原八太夫へ参る」 きロの軽い武士が、安右衛門がいないと思い うろた 「拙者、明日は中条流と仕る」 半ば狼狽えて家来が問い返すと、 と、 いってから安右衛門がいたのに気がっき赤面した、 「桑原八太夫方へ参る」 嘩というよ、つなことがちょいちょいあった。 と、安右衛門は野太い声で更めて命令した、駕籠は程な のそういうとき安右衛門は冷たく知らぬふりをいつもしく桑原八太夫の前へついた、家来の顔が真ッ青になって 射た。 そのうちに月日が経った。 八太夫方の前で駕籠から出た安右衛門は、 藩主の前田飛騨守利明は、昨年以来、ずッと大聖寺にい 「半刻ほど後に迎えにこい、その節、居間の机の上にある 、学」 0 すぐ
日本左衛門とは、およそ違ったものとなるのでございま以て見下げはてたる腰抜け者、女ゆえに身を破る痴者とい す。伊助のいうところが本当なら、日本風の神本名水戸与われ、一人の成らぬ恋を憫れむものもないところから、物 茂七は、浜島庄兵衛の次に首領の総名を、第二番に名乗っの欲しさは二の次にして、家中の士の家で大切がる刀槍を て刑に就いたということになります。さてそれでは森文之盗んで立木の枝につり下げ、調度の諸品を盗んで畑の肥料 進でございます。これは四カ年にわたり会津ご家中五百三の上に並べなどして、意趣返しといたずらとを半々にし 十五人が隠密 ( 探偵 ) に他国へ出て、ついに捕えたものでごた。これが家中のみか城下と近郷の評判となったので、犯 ざいますが、与右衛門殿がご存じ、それから二十年ばかり 人はいまだ何者とも知れないが、憎しみ深くなればなるほ 天明の末ごろ、徳川様十一代 ( 家斉 ) のご時世のとき、会津ど、泥蔵のいたずら混りの意趣返しが甚だしい。やがて犯 様ご家中に横土泥蔵というものがございました。これが後人は横土泥蔵と、探索して知った公事所は、多勢の者をし 後、江戸で大盗となったのでございます。この男いまだ捕て横土の家を二段巻きに包囲し、同心の頭役が「横土泥蔵 えられず、病死などいたさずにいれば只今は老齢だそうでご不審これ有り、公事所に同道あれ」と申渡したところ、 すきばら 1 」さいます」 泥蔵は畏まって、「委細承知仕る、只今、空腹ゆえ、湯漬 こう話す間、与右衛門は鼻の奥で声を出し、合槌をうつ一膳食べて参りたし、暫時のうちご猶予」と、神妙に振舞 のが、話の聴者としてはうまい方である。 って許しをうけ、食事に立って行ったまま出てこぬので、 横土泥蔵というは二百石の士の家の三男。会津は士風き同心頭は家人に命じ、家の内のこらず探したがどこにも潜 びしく、若い男と女の恋を、士風の枠にはめて抑えるこんでいない、同心頭はいよいよ慌て、侍小路の一劃を仕切 と、藩の成立った昔とくらべ泥蔵の頃は、行き過ぎのひどって詮議したがやはり姿がない。かくて泥蔵の姿が会津か いものになった。そういう藩での恋はみじめなもの、泥蔵ら消え失せた。横土家を二段に包囲した同心達がいうとこ は秀抜な若者だったが、町家の娘を恋したことが不都合とろを合せると、包囲の二段とも美貌の婢が豆腐買いに通っ あって、同輩からは勿論、先輩老輩から人でないようにい こ、通っては行ったが戻って来たのをだれも知らない、そ われ、その風向きの荒さに相手の娘は越後の方へ嫁入りをの他に出たものはない、それでは泥蔵がその女に化けて通 承知し、泥蔵に別れも告げず、逃げるようにして行かされったに相違ないと、後々は決定した。 てしまった。 これが虚斎が上の山湯治客の中継ぎ話の前半である。 それから後、、 泥蔵は放蕩者となり、人々からはいよいよ与右衛門はその話を興あり気に聞いていた。ことに横土 しれもの