忘れ - みる会図書館


検索対象: 長谷川伸全集〈第14巻〉
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1. 長谷川伸全集〈第14巻〉

子、この四ツのうち、どの道を行こうか迷ったのである。 る。話題はとりとめもないことだった、その女が別れに臨 と、見る眼の下に、荒川を渡るつもりだろう、敗走して行み、囁いた言葉は、 く味方が、蟻の列のごとくである。 「忘れずにいてくんなまし、わちきは廓の平泉楼の泉 「尾台の渡しを越えよう」 山 と、道之助が主唱すると、吉三郎がすぐ賛成したので、 その時、二、三人付いていた女のうちに、今声をかけた 他の二人もそれに同意し、いよいよ落人の第一歩を踏み出女もいたように思えた。 し、山内をうしろにしたのがタ方である。雨はまだ盛んに 道之助はその家を見た、門構えで庭が広い、別荘だ。 降っている。 家の中から傘をさして泉山が出てきた。美しいのは天王 落ち行く途中、少年の心を傷ましめるものは、重傷の味寺の時と変りがない、 ; 、 カ衣裳が違っているので、別の人 方である。 かと思い、顔を見定めている道之助を、泉山の方でも眺め 「殺してくれ。情けだ。殺してくれ」 ている、道之助は見定めようとしているのだが、泉山の方 介錯を加えかねている戦友に、体を寄せかけて泣いてい の眼はとろりとしている。 る者を何人もみた。 道之助その日の武装は、紺地に麻の葉の銀糸の刺繍ある 道之助等四人とも、自害するものの介錯を、多きは三鎖帷巾に義経袴、朱の胴をつけ、白木綿の上締め、黒鞘の 人、少きも一人はした。 大小、それだけでさえ凜々しく可憐なのに、鎖鉢巻の下か 一カ月余りの長降りで、道路は沼よりひどい。四人ともら、濡れた髪の毛が白い頬へはつれかかっている。この一 まだ手放さずにいた銃を杖に、辿り辿り行くうち、薄暗い月、紀州の山の村で、白井権八だとはやされた、あの時よ 雨の黄昏だったのに、女の声で、突然、 り今の方が、実戦の後だけに、美しさに凄味さえ加わって 「道之さま道之さま」 かくま 年と、呼ぶものがあった。道之助はぎよッとして振返れ「道之さま、わちきに隠匿われてくんなまし」 ば、その女はうしろを向いて、 「有難いがそうは参りません。あれへ行く三人との約東も 亠不せんざん 冪「泉山さん泉山さん」 あれば」 と、呼んだ。道之助はこの三月、谷中天王寺のほとり しいおいて駈け出した。泉山が何か叫んでいるが、聞き で、美しい女に言葉をかけられ、暫く、話をしたことがあとれなかった。 いた なか

2. 長谷川伸全集〈第14巻〉

弓しいでなく、、い一ツの働きによる、それはこういうわ足りぬ娘の方ではないのか」 「は、。おツかさんの話を、忘れてしまっておりました」 けですよ。一人の娘は始めから終いまで怖い怖いと田 5 い 「忘れたのか、それはなぜだったろう」 他のことは何も考えないで怖がってばかりいたので、心の 「あの男が怖くて怖くてなりませんのでしたから」 中がからッばでした、それに引きかえ、もう一人の娘は最 しかし、最後の 初は怖いのでそッとしましたが、すぐこの怖いと思う心を「いよいよ心の足りぬ方の娘ではないか、 片隅へやってしまい、三人もいる山賊ですから闘っては殺段になって母の話を思い出してよかったなあ。これという されるにきまっていますが、無慈悲な山賊の巣へつれて行のもお前の亡くなった母の力だ、母を忘れるなよ。俺も 又、母を忘れないよ」 かれるより、死んだ方が、恥がないだけいいので、死ぬた 「はい」 めに衣裳をもって行けといったり、薙刀をもって闘おうと いったりしたのが、かえって山賊達をびッくりさせ、それ「今夜はここの名主どのの屋敷へ泊めて貰うが、さてその から先は、何をいっても、へいへいと山賊がいうようにな後をお前はどうする」 「越後の国へ許婚をたずねて参ります」 ったのです、そのうちに麓の村できっと朝になるだろう、 そうすれば山賊はお天道さまをみると弱くなるから、多分「道は遠し、危いな。お前は美しいし、独り旅だからな」 助かるだろう、もしそうでなかったら、衣裳つづらを三人「いえ、もう心の足りない娘ではござりませんから、大丈 とも背負っているのですから、山の道で、その三人とも谷夫でござります」 底へ衝き落すつもりでいたのです。お前は生い先が長いの藤左衛門夫婦がほろりとそのとき泣いた、この夫婦にオ だから、そして女は何ごとにつけても、弱いところが先にとて、かってよき母があったのだろう。 立つから、今の話の二人の娘のうち、どちらの娘である方 桔梗屋が廃業して藤左衛門の元の稼業の銭湯を開業して かししか、自分で考えて良い方をおやりなさいと、こうい 三月目に、おちよが許婚と祝言をしたという手紙が届い って話してくれました」 おしえ 「身をすててこそ浮む瀬もあれか。剣の訓とおなじだ。そた。 昭和十七年「興亜の光』三月号 れでは一ッ聞くが、それほどにその話を身につけているお 前が、あれに転がされて泥の匂いを嗅いでいる牛泣かせ平 兵衛に騙され、ここの家へ連れてこられた、それでは心の

3. 長谷川伸全集〈第14巻〉

「お前さんお前さん」 た水が床とすれすれーーみるみるうちに床の上が水びた みずかさ 「おい何だ、おかよおかよ」 % し。慌てふためく夫婦を追い詰める水嵩まりに居耐れず、 「死ぬ時は一緒に死にたいねえ、放ればなれになって死に 「おかよ、屋根へあがれ、何をするんだ」 「だって膏汗で買った商売道具だもの、水に一つだって持たくないよう」 って行かれたくないから、取ってくるよ」 「何をくそツ、死ぬもんか。俺あ名人になれと生れついて 「いけねえいけねえ、お前もう臨月が近えんだ。おかよ、来た人間だ。こんな大水ぐらいで死ぬもんか。なあおか よ。俺が今までここでして来た仕事は、銭が欲しい欲し 屋根へあがれ」 い、ただその一念で拵えた釣竿だった、いけねえ、そんな 腿まで濡れた二人が、やっとのことで、台所の引窓をこ 根性だからこんな目にあうんだ。釣竿師は銭が欲しくって わし屋根へ這い出て、 しが 「おかよ、しつかり俺に獅咬みついていろよ。吹き飛ばさ竿を拵えるのじゃねえ、いい竿を拵えるために拵えるん だ、それだから銭になるのだ。おかよ喜んでくれよ、俺あ れちゃ駄目だぞ」 まんまん 見る限り満々たる水がかしこに渦巻きここに渦巻く。風眼が少しばかり開いて来たぜ、さあ俺の体に獅咬みついて いろ、なあおかよ、水が土台を引ッ払い、俺達夫婦が乗っ は喚く、屋根板が木の葉のごとく飛んでいる。 「お前さんお前さん、そばにいておくれ、あたしゃ何んだ かったまま、海の方へこの家が流れ出しても俺あ、今思い うかんだ大仕事のことを考えて考えて考え抜いてみる。そ か、い細くってならない」 「気丈にしていてくれ、俺あこの水で商売道具から材料かれが出来ねえようだったら俺という人間は名人どころか、 らみんな茶々無茶にされちゃった。本当いやあ俺あ、泣き生きていても役に立たねえ奴なんだ」 てえところだが、 泣かねえ、何をくそっと思っている。何「お前さんえらい、それでこそあたしの見込んだ亭主だ よ。お前さんお前さん、確りいい考えを出しとくれよ」 をくそ、こんな大水くらいでヘこたれるもんか。見ろよ、 いいとも、おかよ、そこに柿板がとれて穴が出来 この水をーーまるで荒れている海の真ん中へ、夫婦だけ抛「うむ。 り出されたようなもんだ」 た、その穴へ片ッ方の手を突ッ込め、片ッ方の手は、俺の 「あツ、どこかで助けてくれって泣き声が聞えているよ」 帯をしつかり掴んでいろ」 「ああ、女の声だ。助けてやりてえが、これじや手も足も「大丈夫、しつかりつかまってるから、お前さんは自分の へた あぶね 考えごとをしとくれよ」 出ねえ、下手するとこっちも危え」

4. 長谷川伸全集〈第14巻〉

、、、ねぐら 幾日かたった雨の日だった。くノ一は塒に珍しく寝ころた。 んでいた。あれつきり東雲のところへも行かず、といっ て、仕事もせずにぶらぶらしていた。 かお みように黒い顔の女が、歪んだような面つきをして、白 しろ い眼皓い歯に月の光を宿したのが思い出され、仕事をする のが厭わしかった。気がついてわざと心に勇みをつけ、賑 かな稼ぎいい町へ出ても、そこで手頃な獲物に目星はつい ても、渡世の種の指を働かす心にはなれなかった、どんな 黄色い顔の女を見ても、直ぐ眼に浮いてくるのはあの変に 黒い猛り立った女の顔だった。 した しかし、階下の煙草屋の小母さんが、気を利かして貸し てくれた新聞をみているうちに、黒い顔の女のことを漸く 忘れた。そのかわり東雲のところであった独逸人だという 男、金を無くしたあの男、最後の遊びを拒まれて餞別代り のキスを貰って出て行った男、その男の顔を思い出した。 新聞には海岸に漂着した外国人の記事が出ていた。その 人は煙草の技師で、日本金にして三千八百五十三円余を紛 失し、落胆して自殺したのだと。しかし、その金を拾った 人があって警察署の手で保管してあったのだと書き足して あった。 くノ一は新聞を抛り出して、自分の指を眺めた。 「この指が働いてその三千何百円をすったのだったらどう なるんでい , ーーー俺が人を殺したことになる」 巾着切は自分の美しい指を熟視して、ひそかに戦慄し 昭和一一年五月短篇集『舶来巾着切』 ( 春陽堂刊 ) 所収

5. 長谷川伸全集〈第14巻〉

ったが、それを蔽うてあまりあるがごとく、卑しきを卑しと聞かされて涙を流し、「僕は立派な人物となってこの腐 きとせぬ者が世にのさばった。少年達はそれを憤り悲し爛した日本を清明にしたい念願を抱き、勉学中です」とり み、世道人心を一新させるものはわれわれだと、明日の大きむ少年に眼を細くした。勘一郎は問わるるままに寄宿先 臣参議を夢みて語りあい、田舎縞の着物に誇りをもち、田も告げた。 源助はそれまで何かいいそうにしてやめ、又いいかけて 舎弁にヒケ目を感じなかった。 そういうなかで勘一郎は時にふれて、「血写経の詩」をやめ、暫く考えた後に、思いきった顔をして、「勘一郎様 吟じた。戸来の血写経と、いっか生徒の間にそれが知れわはご新造さまにお目におかかりなのですか」と尋ねた。「母 こっ , ) 0 いいえ。源助さん、母様はご健固なのです 様にですか 、近ごろのご様子を知っているのですか」と、頬を紅に 勘一郎の寄宿先は麻布善福寺門前町だった、そこから麹染めた。 町まで、毎日通うその途中、飯倉かわらけ坂で呼びとめる「勘一郎様、わたくしはただお見掛けしただけでございま 男があった。そろそろ夏になろうという、好い晴れた午後すが、確かにご新造さまに違いございません、わたくしは 守こっ , ) 0 ご挨拶の代りに、頭をさげたのですが、ご会釈もなし、お 「盛岡の戸来様のご子息さまですね、おう勘一郎様だ、大連れの女のお方お二人と、御門の中へおはいりになりまし た、柿田源助とお心づきがなかったはずでござります。わ きくおなりなされました」 、、たしておりますのですか たくしは車力をかくのとおり とその男は輓いていた荷車をとめた。 「戸来勘一郎ですが、君はどなたか」 「柿田源助でございます、お見忘れですか、あのころはお聞けばそれは神田向柳原、旧藩主に由縁深い人の隠棲の 屋敷の前だ、という。 小さかったのですから」 「そうーーー母さまはそこにおいでなの」 経「ああ、忘れておりません」 「ただお見掛けしただけでござりますから、そのお屋敷に 写何とやらいう宿場で、太神楽とやらを見せにつれて行っ おいでやら、存じませぬが、今度あちらへ参ったとき、聞 血てくれた、かっての若党だった。 きあわせた上で、お知らせに参上しましよう」 卸した梶棒に勘一郎を腰かけさせた源助は、父勘兵衛が 「それには及ばない」 国事に奔走して、藩の重役から罪せられ、京都で自殺した

6. 長谷川伸全集〈第14巻〉

用か」 でいる人々に気がついて、腰を立てようとしたが立たなか っこ 0 3 「用なんかねえ、おととし通ったときいたから、今年もい るかと聞いたんだ。家は」 「おやあ」 「一一一一口伝けの親方の屋敷なら、あれだ」 二、三度やってやッと起ったが別に起たずとも見えるら 「あの白い壁の屋敷か、嘘つけこの野郎、旅の者だと思っ しいので、又腰を卸した。 て馬鹿にするな、馬方が大名になりはしめえし、あんな屋「もしもし、そこの人、どなた様がお通りですか」 敷に住むか」 さっきと違って、喜三郎のロのきき方がまともに変った ろれつ 「怒っているのか、厭なじいさんだ」 が、呂律がおかしいので、振返ってみた若い男は、何もい 「そうかよ、おおきに悪かったな」 わずに行ってしまった。喜三郎は又うつらうつらとなっ 喜三郎は白壁がかにみえる、田圃の向う二丁余りの屋 敷を望み、忌々しそうに唾をかッと吐 いた、五郎吉の野郎「和尚さま」 め、あの金をとうとう遣やがった、それでなくてあんな屋「はい、わしかな」 敷に納まれるものか、そんならあいつも俺もおんなじ盗人金鋲打った駕籠が一梃うしろから来るのは、小童と従僧 かち だ、ようし俺が三十年前の坊主に頼まれたからといって取と二人だけ供に、あかざの長い杖をついて徒歩でゆく八十 りにゆこう、四の五のいったら啖呵をきってくれる 歳余り、雪の眉毛、紫衣の高僧のものとみえる。 けねえ駄目だ、莫大な金とは持ったことがあるから知って「和尚さまは、三十一年前の辰年八月三日、舞坂までわし 、くらだといわれると返答が出来ねえから、化けの馬に乗ったことがござりましよう」 の皮がはげる、やッばり盗んだ方がいいか、今度は家が大というは頭が禿になった五郎吉だった。 きいから厄介だ、それにしてもこう酔いが、面にまで出た 「三十一年前のわしをご存じかな」 のでは仕方がねえ、一ト休みしてやるかと、道端の青面金「和尚さま、お立派におなりで、おめでとうござります」 剛の苔むした石の前、草の花の上に尻を据えたとき、不運「はいはい な蝶が一羽、尻の下で潰された。 「思い出しましたか、ほれ、忘れ物を」 いつの間にかうとうとして、眼がさめた喜三郎はそこら「忘れ物とは何じゃな」 の道端に、数珠をもった年寄りも混って、何のためか並ん「やれ、いまだに忘れておいでなさるのかね、ほれ、袱紗 学 ) 0

7. 長谷川伸全集〈第14巻〉

碧い瞳がわたしを眺めていた。前いったとおりわたしは武先生の顔がきりッとした、それもわずかの間のことでうつ かりしていたら見落したくらいだ。わたしは底倉謹吾がい 芸の皆伝者だ、天井渡りはもとより繰出す槍なり太刀なり った希望のある人間は腹がヘッていても活漫ですといった が、突く斬るより一瞬前にそれを覚ることが出来るから、 体を避けることが出来る、これなそ武芸の精妙だが、鉄砲のを忘れていなかった、不要な物を売っていると英気が挫 大砲が出てきたのでは神刀流の皆伝者も武芸を知らない者折するといった、それも忘れていなかった、それから出て もおなじ標的になってしまう、そういうことを実地に知っわたしの心の中で絶えずにいるものがあった。わたしは本 当をやはりいった。日本の人のくらしのためになる仕事を てきただけに、わたしに武芸の力が抜けてしまってない。 やりたいのです、お茶場通いよりもッともッと日本のくら わたしは、生れて初めて近々とみる異人さんに謂れのない 恐れを抱いた。恐れを抱くと心の底で意気地なく気もちのしのためになる、といった。先生はお金沢山儲からないで よろしいか、とのぞき込むようにして聞いた。食えればよ 波が乱れ打った。 心配ですか、困るのですか、何が心配です、困る何ですろしいのです、というと、やつぎばやに、沢山食べられる か、わたくし怪しいものでありません、アメリカのお医師か、ただ食べられるか、どちらですか、とにこりにこり笑 って答えを待っ先生にわたしは、ただ食べられるでよろし さん、と愛嬌のある顔をまともに向けていった。わたしは いのです、と云った。 すぐ度胸が据わった、この異人さんから何か得しようなぞ とは考えなかった。国違いのこの人が親切に言葉をかけて先生は手の指を一本立てて碧い瞳をくるりとさせ、ラン プ売りやりませんか、といって、ランプ知りませんね、わ くれるのにい、 し加減なことをいっては日本人の恥になる、 そう思ったので、東京から仕事を探しに来てたくし屋敷へお出でなさいと、もう歩き出した。 正直がいし わたしはセメンズ先生のあとから付いて行った。その途 お茶場通いをやる気になっています、とこう云うと、そう ですか、それでお茶場通いであなたよろしいのですね、と中で何となく初めて会った異人さんが怖くなって、横へ逸 にこして聞いてくれた。いえそれでよいのではありまれて逃げてしまいたい、そういう気がたびたび出たのだ プ せん、他に見付からないからです、というと、どういう仕が、見も知らない者に親切な言葉をかけてくれたのだか ン ラ事がやりたいのですか、日本の世の中のためになろか、おら、それをアダに逃げては恥になると思い返して、やはり 金が儲けたいか、自分が面白い商売か、どれですかあなたあとから付いて行った。 が望むの、といった。どれですかといった時だけセメンズずッと後になってセメンズ先生がその時のことをいい出

8. 長谷川伸全集〈第14巻〉

五稜郭の生残り何のなにがしが帰ってきたと聞くと門左でござる。われら同然の面々で、一番多かったのは古道具 衛門は五里三里をものともせず、勢い込んですぐ尋ねまし屋でな、居屋敷の長屋を店にして、売る品は家に伝わる品 た、その帰りを待つ一家の主従三人は、悄々とした門左品、簟笥、長持、槍薙刀、金の定紋ついたる揃いの膳部、 衛門をみることばかりでした。五稜郭ではだれも溝ロ門太皿、茶碗、床の間の掛物、置物、盆栽までもござった。値 郎、従者民蔵、この二人らしい者を見もせず聞きもしなか段でござるか、安いにも何にも涙がこばれる、金蒔絵紋ぢ ったというのです。 らしの夜具長持が二朱でござる。惣桐の重簟笥がその倍の 或る日、東京から客があった、隣り屋敷の旗下の木田な金一分、それでも売れればだが、さつばり売れぬ、古道具 にがしで、肩肘こそ昔ながらに張っていますが、服装は木屋が沢山過ぎるのですのう。それでは他々の商売はという 綿縞の町人風、それが似合いかねる厳めしい木田の顔は、 と、これも可けぬ。汁粉屋が米一升いくらするか知らぬの 思いなしばかりでなく下品になっています。どちらへと聞でござる、酒屋がつり銭を出すのに銭勘定がどうも判らぬ かれて木田は、 のでござる。金貸しをしたものは借人に踏倒されて、いや ちょうつけ 「尾張名古屋へ帳付のロがあるので、出稼ぎに参る、いやはや。ご多分にもれず、拙者も汁枌屋を八丁堀で始めまし はや、ご同様の次第でな」 てな、店を仕舞ってから勘定すると、どうして、どうして と、淋しげに笑いました。木田は話好きで、何彼といろ多分の儲けに相成っている、これは芽出たいと喜んでいる いろ語りました。そのなかにこういうのがありました。 うちに、元の知行所のものが見舞いに参ったので、儲かる 「お互いに藩庁から論達が出たときは驚きましたのう。亀ぞと申し聞かせたところ、殿様どんな風に儲かりますとい 之助様お世嗣、くだし置かれる御高は駿遠二国で七十万うので、これを見てくれと帳面をみせました、と、その者 石、人は衆し、禄はすくなし、従前の家臣の扶持ができぬが調べていましたが呆れ返って、殿様これはとんだことで によって、二ツのうち一ツをとれ、朝臣となるか、農商にす。汁粉雑煮団子の餅、米の粉、薪、そういう物の代がは 帰するか。是非とも藩地へお供を願うとあらば無禄を覚悟 っていません、こう申します。 ししてし 。まないか、それら で移住せよ 門左衛門殿には無禄移住をなされた、拙者は知行所から持ってきたもの即ちただだから、勘定に入れ は貴殿と違い、農商に帰するという方へ廻ったのでござるてないと申すと、それでは商売になりません、と、その者 が、拙者、農作はとても出来ぬ、したがって出来そうなもが算盤を立て直してみると、儲けどころか損耗でござっ のというと商いです。これをやったが、いやはや、大縮尻 た。この態ゆえ、することなすこと縮尻で、このたびは拙 おお あきな

9. 長谷川伸全集〈第14巻〉

いとしと思う、いに偽りなくば、会う日の又なきこともある 「ほ、フ」 まじ、それ楽しみに死にまする、というて死んだ」 4 「駿府在でだ」 わずろ 弥左衛門は返辞をしなくなった。この男、今は尋常でな 「病うてか」 。さればこそ夜に入って馬を駆けさせ、三ツの提灯を体 「うむーーーそこ許は、それがしがこれより申すこと、聞い につけて来たのだ。 て合点してくれようか知らん」 「ご迷惑ながらそこ許にお願い、それがしを当分ここ許に 「さ、何ごとか、聞かぬと知れぬのう」 「それはそのはずーーーじつは、すみは、墨染のことだ。わお差し置きくだされたい、じつは、それがし駿府在より逃 が妻すみは臨終のとき、わが手をとって、あなたに念が残げて参った」 って、とても死なれぬが、心はそうでも、体が保たぬらし「逃げて、とは」 「さればーー・・妻が世を去ってから、それがしの心のうち、 いゆえ、どうでも死なねばなるまい、という」 あきらめ切れぬ、妻いとしさに、独り残された侘しさ、た 「、つん」 弥左衛門はそういう他なかった。ひたと向けた半九郎のれか慰めの言葉も悔みの悲しみも、それがしの胸を得心さ 眼は、かっての赤鬼と違い、陰気であるのみか険しささえせぬ、ゆえに、通夜にはものいわぬ妻に添い臥して、二つ の腕の冷たさに涙こばれた。野辺になきがらを送り、この もある。 手ずから鍬とって、妻の柩を穴に埋め土をかけたが、さて 「が、妻は死んだ」 独り居の家にいれば妻が名を呼んで答えのない淋しさを知 「気の毒な。あすは寺で法要を営もう」 り、外に出れば人多く行き交うなかに、妻がいると思うて 「さあ、法要ぐらいではなあ」 眼をくばり、心づいて首うなだれる、こはこれ、最愛の女 「何、法要ぐらいではとは」 み、げす 「阿呆をいう男と蔑みがあるか知れぬが、偽りなき話ゅを失うたものでないと知らぬ歎きだーーさて、初七日、一一 え、まず聞いてくれ。妻が臨終のとき、その手を握り、そタ七日、三七日の営みの夜更けて、それがしを呼ぶ女の声 に、たれぞと答えて振向けば、それがしの枕に近く妻が米 れがしとてもそなたの可愛さ、如何なる男の愛情にもけっ とていた」 して劣らぬ、というた、勿論そういう心に偽りはない、 ここまで聞くと弥左衛門は、顔の色をあせさせた、亡き 妻がいったん瞑った眼をわずかにあけ、形骸は亡ぶるとも 心は亡びることなしとやら、幽明の境は異にするとても、妻と語る男を、目のあたりにして、うしろを振向きたい寒

10. 長谷川伸全集〈第14巻〉

跨がって左右へ一本宛脚をぬッと出しているのだ。その時て行ったものだ。このお茶がアメリカなどへ随分と出たも は変な恰好だと思っただけだが、これは出来ないことを出のだ、茶箱には浮世絵が貼ってあってその絵が綺麗で、い 来ることにするというものだ、教わったとおり獅咬みつい ろいろ図柄に工夫があったものだ。肝腎のお茶は売行きが ているだけのヤツにはこれが手本の一ツだ、と気がついた いいので図に乗った日本のものが粗製をやり出し、アメリ のはこれも居着いて十何年もしてからのことだ。 力では悪茶禁止令というのが出た、こっちでも改正法をや 三日泊りの今日が最後の日、あせりが出て海岸通りで通ったり検査をやったが、儲けりや いい、そのためには胡麻 る人に働きロはなかろうかと何人にも尋ねた。探せば仕事化しをやれという、悪いャツのやった悪茶が因で、良いお はあったがわたしのやりたい仕事ではないのだ、それでは茶屋さんまでが傍杖を食い、とうとう廃れてしまった。島 どういう仕事がやりたいのかというと、こういう仕事と判国根性が悪いーーー島国根匪がね。 っていないのだ。海岸通りの通りあわせの人は、お茶場へ わたしの決心はお茶場稼ぎ、そのときそう決まりかけた ゆきなさいその日から銭になる、といってくれた人が七人が飛びつくほどの仕事でもない気がした、だれでも出来 のなかで五人あった、あとの二人は黙って行ってしまつる、年寄りでも女でも出来ると聞いたので、大の男のする ことなら大の男に限った仕事がしたい、そういう気がして お茶場というのはそのずッと後に廃れオカ、 / し 三、、、こと盛鬱陶しくなり、冲に碇泊している外国汽船を眺めている んだった輸出茶の仕事のうちの一ツで、夜明け前から弁当と、莫迦にしたように鵐が頭の上を近く飛んで行った。青 箱さげてお茶場通いも粋なもの、とか又、鳴くな吼えるな い空に白い雲がゆッくり流れている午後でその時の水の色 泥棒じゃねいよアメ三通いのお茶焙じ、とかいった唄がう と空の光をわたしは忘れずにいる。 たわれた。アメ三とはアメリカ三番商館というが本当は百何か心配がありますか、と出しぬけにうしろからいって 七十八番館スミスペーカーお茶屋敷のことで、イギリス一 くれた人があった。鼻にすこしかかる声だが振返ってみ 番商館ジャアデーンマヂソン会社を英一というのとおなじて、それが日本人でないので二度びッくりした。アメリカ だ。お茶焙じは朝早く出かけて西洋時間の朝の五時こリ : 卩力の宣教師医師でセメンズ先生、わたし達はセメンズ先生と あく、釜場について火入れを待ち焙じにかかる、日当は日 しオカデー・ヒ ・シモンズ博士というのが本当で、 払いで天保通宝で払ったものだ。夕方ぞろぞろ人波をつく ハンの製造販売を最初にやった中川嘉兵衛をはじめこのお って帰るのをみると、だれもかれも狐色になってざわめい方の導きを受けたものが多いのだ。セメンズ先生の澄んだ っ ) 0 すた