春田 - みる会図書館


検索対象: 長谷川伸全集〈第14巻〉
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1. 長谷川伸全集〈第14巻〉

に移って三泊し、同じ生魂の曼陀羅院に移り、二十九日に 「君の馬前において・一死重因 5 に酬ゅ、だ」 と、 大坂城京橋ロの役宅に移り、同所の警衛にあた 0 た。 いって硬ばっ顔に笑みを浮べた。 春田道之助は会津の南摩綱紀の塾に行ける日を、村雨吉藩主信古と重役達はこいうと、登城したきりで、京橋ロ 三郎とともに待ちくらしていた、 ; 、 カ世の中の形勢はだれの役宅にいる家臣には ) 従軍か、大坂守備か、まるで見当 がっかずにいる。 にも学問をさせないほど、急迫していた。 慶応三年が終って、明治戊辰といわれる慶応四年の元旦翌くる四日になると、鳥羽と伏見から、戦敗の負傷者が がきた。大坂の元旦は快晴で、風がそよそよ吹く程度で、続々引揚げてきた。 気候も温和だったが、城内も市中も穏かな形勢ではなかっ 六日になって幕軍の連〉連敗が判った。戦わずに引返し てきた幕軍の将卒が尠か一ず大坂に現れ、市中に混乱をつ 三日は晴天だったが風が強く、寒さもひどかった。春田のらせた。 道之助はこの夜、伏見の方で、火炎が天を焦がしているの 京橋ロの役宅で、その日、藩主松平信古は、血走った眼・ を見付け、 をして重臣を集め、藩としての態度を決すべき会議を開い 「村雨君、あれを見給え。地図でみると、あれは京都の近 た。この会議を率いたものは吉田藩の穂積清軒という洋学 くにある伏見の方角なんだがねえ」 者で、絶対の開国佐幕論者だった。この人の主張に圧倒さ 「あツ、あの音を聞いたかい春田君、大砲隊が進発するのれ、たれも幕府にむかい戈をさかしまにして撃っという討 じゃないか」 幕論を押切るものがなかった。 かなえ 見るみる大坂城の内外が、鼎の沸くがごとくになった。 この状況は二少年にも判ったので、十六歳を一期に討死 その夜明けごろに、市中に砲声が起り、土佐堀の薩州蔵屋の覚悟をきめ、春田道之助は行李を開き、死出の晴着をと 敷に火災が起り、大坂市中が今にも戦乱の巷になるかのより出した。道之助兄弟の母は、こういう事態になりもしょ うに風説が乱れ飛んだ。 うかと察し、討死の衣裳をそッくり拵え、大坂へ持参させ 少年ながらここまで来たのでは戦場に出ることを、おのたのである。 ずと覚悟せずにいなかった。 春田兄弟の母は、春田家が、名誉と富とを得ていた最中 「学間はおやめだ。村雨君、戦争だ」 に嫁入ってきた人で、旗下井上家の出で、才色兼備の上、 と、道之助がいうと吉三郎も潔 並々ならぬ賢女であった。 いくまた 、み、ょ

2. 長谷川伸全集〈第14巻〉

囲を、家臣が七巻八巻に囲んだ。これぞ、主従諸共、千尋と子浦とが相対して一ツの湊を抱いた形のところへするす の底へ死に行かんず隊形である。 ると入った。 春田道之助はこの時、武士の覚悟の清さの真をみた。た翔鶴丸の全員は万死に一生を得た喜びで上陸し、旅宿を またま用事があって大船室を出たとき、ふと覗いてみた武それそれとって休養し、艦長以下は、付近又は下田から、 士以下の者の船室、そこでは泣きっ喚きっして、坐って い船体修理の材料をあつめ、五日間かかって航海に耐える手 る者とてはない。身分の差とともに覚悟の差が甚だしく出当を竣し終えた。 ている。 遭難は翔鶴丸だけでなく、この辺一帯の沿岸の漁船の難 道之助の顔をみると、道之助の兄で、このたびの人数の破行衛不明夥しく、泣く声が充満しているように道之助は 田 5 った。 うちの春田孫兵衛の従僕二人が、取縋って、 「お国表に年寄った親一人と女房子がおります。私がこの と、吉三郎が或る旅宿の主人に聞いたといって、こうい 大海で死んだら、だれが養ってくれましようや。ああ、死う話をした。 にたくない、助けてくれ」 「わが翔鶴丸をこの辺のものは、再三再四、見たそうだ えび 二人は同じようなことを繰返し、顔を海老の背中のようよ。遠く海上に去ったかと思うと、又陸地に近づいてく にして泣き放した。 る、漂流のありさまは、木の葉が波に浮んでいるのと同じ 道之助は大きに当惑したが、 だったそうだ。それが急にこの湊を目がけ、みるみる入っ 「こういう時は神仏に祈れ、心だに通えば、必ずお利益がてきたので、人間業ではないと、子浦妻浦、双方の浦人 下されるそ」 が、われを忘れて見に出たのだとさ」 と、ふと、思いついたことをいった。 翔鶴丸は十二月十八日、妻浦子浦の湊を出発し、 ( 十八日 やがて、この部屋では「南無妙法蓮華経」を唱え、後に出発、再び吹戻され、二十日出発という説もあり ) 、伊勢沖で故 まとや 年は木を叩き鉢を叩き、一同、危険が忘れたさに、題目を狂障が起り、志州的矢湾に投錨し、ここで一昼夜かかって故 気のごとく唱えた。 障を修繕し、十二月二十日出発、二十一日の夜、大坂天保 暮夜明け頃、雨だけはやんだが風はまだ凄じく吹いてい 山に着港し、暗夜ではあったが信古を擁して一百余名、す 9 る。しかるに、潮流に引きこまれ、その上、風に追われぐさま、上陸したのが夜の十二時半。それから徒歩で安治 いくたま て、偶然か、奇蹟か、翔鶴丸は伊豆の国賀茂郡の内、妻浦 日ロに行き、中井という旅舎に就き、翌日は生魂の桃李庵

3. 長谷川伸全集〈第14巻〉

けば、百人ぐらいの兵を出させ得ると見込んでいるのであ春田道之助、村雨吉三郎の二少年は、この時、谷中の藩 る。 邸こ レいた。二人とも十七歳になっている。道之助の母は長 穂積清軒は同じ谷中屋敷にいる児島閑聰といって、佐藤男孫兵衛とともに、やはり谷中屋敷にいた。吉三郎の父村 一斎の門人で、藤田東湖に私淑していた人と相談し、谷中雨吉五郎もいる。 屋敷に居合せた藩士の家族から犠牲となるべきものを募っ 吉三郎がその日の夕方、道之助に、 ・刀 た。岩上九兵衛その他主なる藩士も相談冫 こ加わった、 「春田君、君はどうする ? 」 責任は児島、穂積の二人が引受けた。 「彰義隊にはいるよ、次男坊だもの」 この時、児島閑聰は在邸の藩士にむかい、声涙ともに下「そうか、では、決心した」 る演舌をした。 「君も ~ 打くか」 「武士は義に死すを生き甲斐という、今日只今、諸氏に望「うン春田君、討死するときは一緒にしよう」 むものは義に死することなり。藩主は勤王の大義を唱え、 二少年と同じ決心のものが、全部で二十四名、穂積清 征東の軍に二隊の兵を出したり。一は大総督府付にして、軒、児島閑摠に申出でた。 すなわち深井静馬以下五十五人、一は先鋒隊付にして、すそれそれ、父母兄弟と水杯をして、形式を脱藩にとり、 なわち遊佐十郎左衛門以下四十二人なり。しかるに東叡山東叡山の彰義隊の本部へ到着したのが、五月十三日か十四 屯集の彰義隊に兵を貸さんとすることは何事ぞ、順逆を誤日、上野総攻撃開始の前で、山内は戦闘準備中だった。そ あやま り、首尾を過てり。さはさりながら、諸氏よ、慶長元和以のためかして二十四名の姓名と、加入の来歴等いっさい 来、徳川家十五代約三百年を顧みよ、徳川家亡ぶるのとき ・、、彰義隊の文献に漏れている。と又一ツには、この事実 一片の謝礼なくして義の存するところありとなすか。世にを吉田藩で隠蔽し終せたるためでもある。 は大義あり中義あり小義あり、藩主は日本の大名なれば大 年義に赴けり、われらは家来なれば藩主に忠ならんとす、す 東台戦争 知なわち中義なり。諸氏の二、三男のうち若干名の生命を犠 幕牲にせんとするは中義のための他ならずーー」 かたわらにあった穂積清軒は、両手を顔に押当てて泣い 春田、村雨の二少年は、同藩の石川瀬平次その他と二十 た。座中に涕泣が一斉に起った。 四名一隊となり、五月十五日、総攻撃をうける日の前夜、

4. 長谷川伸全集〈第14巻〉

はるたよしため 探偵作家の甲賀三郎は春田能為が本名である。旧姓は井三郎もまた家の現当主ではあれど、先先先代、先々代 崎、井崎家は江州水口藩加藤家の家老で、明治維新のとのことをまだ調査を得ずにいる。道之助の執筆した「春田 き、水口藩を代表し、討幕軍に一隊を率いて参加したる井直哉筆記』にも「先祖及び先々代のことはロ碑のみにて」 崎興山が祖父にあたる。それでは春田家はというと、三州といっている。まことに靴をへだてて痒きを掻くきらいが 吉田七万石松平家 ( 大河内 ) に十数代仕えてきた家で、白河ある所以はそのためだ。 楽翁に抜擢され、老中になった名君、松平伊豆守信明の教討死の用意にとて、道之助が取出したのは、麻の葉を金 くさりかたびら 育係であった人が、この一篇に登場している孫兵衛、道之糸で刺繍した鎖帷子である。これに袴をつけ、剣術の胴を 助兄弟 ( 他に二人の女があった ) の祖父であった。この人はなっけ、大刀を帯し槍をもつ、これが、母の考えた、弟息子 かなか傑出していたとみえ、盛名江戸に喧伝され、交際のの死出の衣裳である。道之助は前髪のある少年で、色が白 頬が桃色で、唇が赤い。この衣裳は似合うという以上 広大、人を驚かすばかりで、当時の学者文人画家から俳優 力士芸者まで知らずということがなかった。その息子が家に似合うにきまっている。 督相続をして後、父の富みたるを快しとしなかったのか、 債権の証文全部を返却したり焼きすてたりしたばかりでな 白井権八 く、多少、極端に奔って時勢を論じたので、和田与一右衛 門その他の老臣から睨まれ、六、七百石どりの家禄を剥が れ、百石ほどを与えるにとどめ、江戸から国許へ追い返さ幕府と運命をともにすべく、藩の方針はきまったが、前 いったごとく正月六日、その晩、大坂城中にあった徳川慶 れた。こうして、失意のうちに病んで三十七歳で死んだあ 、妻女は六人扶持の「お情け」だけで、四人の子を養育喜は、ひそかに天保山に走り、幕府の軍艦開陽丸に搭乗・ し、江戸に去ろうとし、すでに大坂城を脱したという情報 年こう書いてきて、甚だもの足らずと思うことは、春田家が、極秘のうちに、信古の許に届いた。藩の方針がここで くつがえ がらりと覆り、その夜のうちに、二、三の侍臣をつれて 代々の系図が不明のことである。江戸に天神の火事という 幕のがあって、家代々の家宝と聚集品と家伝の文献いっさい信古もまた、伊勢路をさして大坂を脱走した。 1 を灰に帰せしめた。家督名を孫兵衛といったぐらいしか判翌七日の早朝、藩の佐幕論者穂積清軒は、出陣の準備を らないので、正確に名を挙げて語ることが出来ない。甲賀して、来てみると、藩主は昨夜のうちに大坂を去っていな

5. 長谷川伸全集〈第14巻〉

北海の勇士を救おうと思うとる。よって、今日以後は、浪と、道之助の座敷の前に、多勢の足音がとまり、 士何の某と名乗るがよろしい、 もし怪しむものあらば、 「春田道之助、御用だ、神妙にしろ」 安藤に聞けというがよろしい。そこにいる二人はことに年と、江戸弁の巻舌で二、三人が怒鳴った。泉山が白い手 を男にかけて、 少じゃ、春田道之助に村雨吉三郎じゃね」 青天白日の身となったのではないが、それに似た身とな「道之さま、落着きなんし」 ったので、いずれも喜び勇んでその日は帰った。 注意されたので道之助は落着き払い、 「何か知らないが、ちょッと待て。こういう場所柄とて、 醜態を見られたくない」 吉原の捕縛 「よにツ 泉山がそのとき、道之助に着物を換えさせ、帯を結びな がら、 春田道之助は、同志と密かに会談する場所が、新吉原に 撰まれたので、坊主頭の医生の姿で、村雨吉三郎その他「平泉の泉山の部屋でありんす。逃げる途もなし、逃げる と、平泉楼へあがった。平泉楼は上野を落ちるとき、声を人でもなし、逃がす泉山でもありません」 うち かけられた泉山のいる楼である。 「早くしろ。まだか。泉山、開けるぞ」 たがそで 泉山は金瓶楼の今紫、尾張彦太の誰袖と三幅対といわれ「今、開けたら、そちらの恥でありんしよう」 た名妓で、この三人とも、徳川びいき、殊に上野くずれの「早くしろ早くしろ」 「ま - ま午 6 者には、あらゆる便宜をあたえて吝まなかった。 泉山はその宵、道之助の登楼を知り、自分から進んで敵「何を笑うツ、開けろ」 娼になった。 座敷へ踏込んだのは取締隊の配下で、江戸時代には、町 年その後、同志との会合で平泉楼に遊ぶこともあったが、奉行に付いていた同心と岡ッ引数名である。 会合を名に、泉山の情けに惹かれて、来り遊ぶことがたび泉山は華麗な夜の物の上に、道之助を坐らせ、それに寄 幕たびあった。 添って煙草をすわせていた。 或る晩、村雨吉三郎と例によ 0 て平泉楼に遊び、比翼の「御用の筋あ 0 て引 , 立てるから神妙にしろ」 「不審があるならここで申し開きをしましよう」 夢にはいろうとすると、どたばた、どこかで騒ぎ出した。 かた それがし

6. 長谷川伸全集〈第14巻〉

せたのは、吉原の意地を台なしにしたと、尾彦、金瓶、稲安藤さんは馬で駈付けてね、吉田、いかんよ、あの二人は 本、角海老の遊女が、攻撃のロをきわめ、泉山さんはさす放免しろと叱られましたよ。あッしは叱られても、たいし たことはねえが、深尾さんはひどく怒鳴られたそうでさ」 力に見上げたもの、あれでこそ吉原の花だと、評判になっ 道之助、吉三郎が雪寃の祝いをしたとき、平泉楼はもと 道之助は吉三郎とつれ立ち、安藤太郎を訪ねて謝意を表より、名ある楼から夥しい祝い物が届き、金瓶の今紫、尾 しの 彦の誰袖からも祝い物が届いた、それらを凌いで豪華な祝 した。安藤は豪快に笑って、 い物が泉山から届いた 「遠慮が過ぎた、はじめから安藤の名を出せばよいのに、 その他にもう一ツ、奇抜な祝い物がその日、安藤太郎か あツはツは。二人とも若いから吉原ではモテるじやろう ら届いた。それは道之助、吉三郎を盗賊と間違えた岡ッ引 ね、あツはツよ 二人ともその後間もなく、八丁堀に吉田某を訪ねた、豊三人が、手土産を持ってやってきて、 めんにく 「どうも、面目しだいもねえことで」 かなくらしらしく、屋敷も立派だった。吉田はおおいに喜 ペコペコと頭を下げたことである。 んで酒肴を出し、 「さて、ご両人、打明けていいますが、あの一件のそもそ もは、村雨さん、お前さん、吉原の妓に女物の着物をやン春田道之助の後身は春田直哉といって、明治大正の実業 なすったろう、あれがいけなかったんですぜ。へええ、兄家で、八十余歳で物故した。なお、三州吉田松平家の士が さんの奥さんの着物だったンですかあれは。それをお前さ彰義隊参加の事実を明らかにしたるは、おそらく、これが ん、自分じゃ媚けていて着られねえてンで、くれちゃった最初であろう。 ンでしよう。岡ッ引がそれを聞きこんで、こいつは、今、 昭和十七年五月司浜田弥兵衛』 ( 天佑書房刊 ) 所収 さむらい 市中を荒し廻っている、武士強盗に違えねえと思って、深 年尾大隊長に上申すると、深尾さんはこんなことは不慣れの ししようにしろと仰有ったから、ああいうこと 方だから、、、 幕になったンですよ。あッしゃね白洲で春田さんの顔をひと 目見ていけねえ、これは違ったと思った。すると、安藤さ んのことをいい出したので、早速、伺いの使いを出すと、 にや

7. 長谷川伸全集〈第14巻〉

しん 一座は水を打ったように森となった。 この時までに、激浪に浚われて世を去った水夫が数人あ 声諸共に切断した。帆は風のために躍りあがり躍りあが った。浪に叩かれ打付けられ、重傷を負ったものも数人あり、狂瀾怒濤のうちに飛び入った。 旧しい一 ) とに、 この青年士官の姓名を知る由もない。翔 この遭難中、一ツ、壮快な出来事が起った。翔鶴丸は我鶴丸の遭難すら、知っているものが今はたして幾人いるか が安政五年 ( 西暦一八五八年 ) 、米国紐育で造船され、文である。 久三年 ( 西暦一八六三年 ) 、横浜で外国人の手から幕府が買この壮烈果敢な青年士官のことは、少年春田道之助七十 受けたもので、軍艦といっても木造で、航海は帆の力をか年の生涯中、忘るることの出来ない、英雄行為だった。 なり利用しなくてはならなかった。ところが、尋常のとき春田道之助は、「後に聞く、この若年士官は艦長となり、 の利器が、猛烈な、時他を食ってみると、逆に帆が風を孕 ( 註・幕府海軍のである ) 、明治政府に仕えるに及び、将官とな んで船を引ッくり返しそうである。そこで帆を、截り放たれり」といっている。将官になった旧幕府の海軍出身とい なくてはならないので、艦長は励声叱呼して、再々、命令えば、新井有貫中将か三浦功中将である。それとも将官と を下した。命に応じて勇敢な水夫が、マストに取付いてすは風聞の誤りで、名船長であったというなら、当時の運用 こしばかり登ると、梯子を吹き落され甲板へ墜落した。艦方の士官で、福井金之助、後に明治の名船長、郵船会社の いらだ 長はおおいに苛立ち、激しく命令を下すと、又一人、勇敢福井光利であるのだが にマストに取付いたが、やや、登ったかと思うと、風に吹 落された。帆綱はとッくに断れて用をなさなくなっている 討死晴着 ので、どうしても、人のカで切って落さないではならぬの である。 水夫のなかから、次から次と勇敢なものが出て、マスト 暴風雨はついに二昼夜を通じて荒れ狂った。その間、松 にかかってみたが、 悉く失敗した。時に、一人の青年士官平信古は、端然として坐りつづけ、家臣一同も又同様であ ましら が猿のごとくマストを攀り、大きく傾斜する甲板から遙かった。春田、村雨の二少年もやはりそうである。 に高い檣頭で、一刀を抜き放ったのが、風雨を一瞬の間圧「本船沈没の危険に瀕せり」と、一士官が、覚悟を促しに 倒した、と、見る間に八重十文字に絡んでいる帆綱を、 来てからは、藩主信古の席を大船室の中央に進め、その周 ニューヨーク

8. 長谷川伸全集〈第14巻〉

あのタ焼の空をみても、暴風雨がくるなぞとは思えない と、村雨吉三郎がいいかけたとき、翔鶴丸の運用方福井 ね」 金之助といって、向井将監の船手組同心から出て、築地の 「そうだねえ、しかし、吉三郎君、外国人の教師について海軍所で航海術を修得した青年士官が通りかかり、 海軍伝習をうけた人がいうのだから、臆測や浮説とは違う 「もうじき大きな時化がやってくるから、今のうちに、部 んだ。もし、不幸にして暴風雨が襲ってきたら、その時こ屋へ行って眠っちまいなさい」 そ、われわれ少年にとって、最もいい鍛錬の機会ではない と、注意して通った。 力」 二少年はいわれた通り、船室へかえり、寝床にはいった 「なるほど、相変らず君はうまいことをいう」 が海は相変らず穏かである。 つんざ と、話合っている二少年の耳を裂く砲声が一発さッと間もなく、甲板を馳せめぐる足音が慌しくなり、号令の 奔る火とともに、轟然、海の底まで顫わせた。海上の鮫声が激しく聞え始めた。と、いくらも経たぬうち、動揺が や鱶が驚きあわてて、異様な魚紋を描いた。 大きくなってきた。 「吉三郎君、愉快だねえ」 村雨は眼を丸くして、 「ううン、砲声をこんなに近く聞いたのは生れて初めてだ「春田君。果然、暴風雨が襲ってきたらしいよ」 よ。あッ愉快だツ」 「うン。胆力を練るには勿怪の幸いだよ」 航海中の大砲発射は、暴風雨を食いとめる迷信である。 と、春田は雄々しく、つこ、。、、 しオカ二少年とも、どうなる 晩飯が終ってから、二少年は、又甲板に出た。伊豆の山ことかと心の底にある不安は、船体の動揺よりずッと大き 山から遙か遠くを航行中である。 「吉三郎君」 船室にいても強雨が襲っていることは判った、暴風の唸 と、春田道之助が低声で呼んだ。 り声もよく聞える。船は天井へ抛りあげられたように高 「え ? 」 海の底へのめって行くように低くなる、その間々に、 よこぶ 「君は気がっかないかい。艦長殿をはじめ、みんなの顔色横触れがして、船全体が悲鳴をあげていた。 がただならぬのに」 二少年は船室で傾斜の都度に転げ、動揺の都度に這い起 「気がついているよ。暴風雨が襲ってくるのだろう。それき、又、転がされ這い起きた。 でみんなが と、提灯をさげて藩士が一人、真ッ蒼な顔を、二少年の もつけ

9. 長谷川伸全集〈第14巻〉

と、その屋敷の前に、村の老若男女が総出で集り、声高った。鞍を置いた牛に乗せられた二少年を、村の人が総出 ~ 日かいっている。 で見送った。平太が得意になって二頭の牛のそばに付いて 道之助は落人の弱身で、はツとして刀にかけそうにする歩いた。宿舎の主人と長男とは、三里ばかり送ってきて別 手を、吉三郎が押え、 れを告げた。『春田直哉筆記』にこのことを書いてある。 とんこう 「君を見たがっているのだよ、村の人がさ」 「敦厚の風俗、愛すべし、惜哉、地名と共に家名をも忘却 せり、惜哉惜哉」と。 「出て行って何かいってやらないか、喜ぶよ」 やがて紀州路から伊勢路へはいった春田、村雨は、安濃 「そんなことがあるものか」 津鹹の藤堂家へ、領内通行の道を、わざと届出でた。藤堂 「あるのだよ。おい平太、今の話してやれ」 家は快く通行を快諾したので、武器に布を巻いて遠慮の心 「へいーーー春田の若旦那様、全くのお話でございます。村をあらわし、山田に到り、外宮前の旅館に投宿し、ほッと の人がああやって集っているのは、若旦那様のお姿が拝見息をついた。落人となって十七日目である。 したいからでございます」 翌日、船で尾張の大野に渡り、その翌日又も舟で大野を 「ど、つして」 発ち、午後、故郷吉田鹹下の船町に着き、城下の大杉楼と 「はあーー江戸絵で見たことがある、白井権八だと、こう いうのに投宿した。 申しております」 道之助は頬を赤くした。寛永の昔、幡随院長兵衛に庇護 彰義隊人り された因州鳥取生れの権八をいっているというより、江戸 ひょくれんり の近くに比翼連理二ツの塚をのこした、江戸みやげ役者絵 の美少年、小紫の情人権八をいっているのである。 上野東叡山に屯集している旧幕府の諸隊に諸藩有志の隊 年道之助は吉三郎にすすめられ、宿舎の主人と長男に乞わを代表してその名を彰義隊という。が、純忠隊、臥童隊、 知れ、恥かしがりながら外へ出た。村の老若男女はわッとば歩兵隊、砲兵隊、遊撃隊、旭隊、下総関宿の万字隊、播州 幕かり歓呼した。その晩は座敷をのぞきにくる、村の女が入明石の松石隊、上州高崎の高勝隊、若州小浜の浩気隊、越 れ代り立ち代りする。たいした人気である。 後高田の神木隊、常州結城の水心隊などが付属していた。 翌朝、出立のとき、特に拵えてくれた草鞋を三人とも貰慶応四年四月降りつづく雨の或る日のこと、

10. 長谷川伸全集〈第14巻〉

岩上九兵衛 閑日月を楽しみ長寿を保った。この人と交際のある深川木 五月十七日 場の豪商山田屋卯兵衛は、妻お照を、五月十八日、草鞋穿 こういう届出を総督府へ出した。それと同時に、当時、きで、若い者を二人っれさせ、谷中屋敷へ戦さ見舞いにや 谷中屋敷にいた者全部が藩の命令で、船に乗せられ帰国さ せられ、帰国後、穂積清軒、児島閑聰は揚屋入りを命ぜら 「お照さん、どうだ、浪人を二人ばかり山田屋で抱えてく れた。これは藩の手段で、関係者を素早く国へ持って行っれまいか」 てしまい、厳重に取調べを行っているとみせるために、児と、村雨吉五郎がいい出した。 「上野の浪人さんでございましようね」 島、穂積を揚屋へ入れたのである。この両人とも死ぬま で、彰義隊関係のことを口外しなかった。そうして又、藩「まあ、そんなものだ」 「それなればお引受けいたしますとも」 でも、総督府が嫌疑をもっともかけた長谷川新蔵等六人の 取調書も、彰義隊に無関係ということにして、ついに揉消 話は簡単だ。春田道之助と村雨吉三郎の二人は、その日 しに成功した。それがために、春田、村雨、石川その他一一の午後、小荷物を背負い、木場の若い者二人は夜具包みを 十四少年の戦闘が、七十余年の今日にいたるまで、何人に背負い、お照が先頭で永代橋にかかった。通行改めが厳重 も知られていないのである。 だが、お照は軽央明瞭に、 それはさて、総督府の掛けた嫌疑は強く、谷中屋敷を武「木場三丁目の材木渡世山田屋卯兵衛の女房てるでござい 力で捜索すると知れたので、道之助は吉三郎とともに、涼ます。火事見舞いに参った帰りで、この四人は手前どもの 松院という御隠居屋敷に一晩だけ隠れて事なきを得た。こ奉公人、持っている物は焼残りの品を預かってくれと申さ れが十七日である。 れたので家へ持って参ります」 番士はお照の顔を熟視していたが、胆力のある女だけ 冫いくら視られても平然としていた。 安藤太郎 「よろしい、通れ」 山田屋の別荘が深川八幡の境内にある。その方へ道之助 村雨吉三郎の父は名を吉五郎といい、剣士でもあり文学吉三郎はつれて行かれ、夜中に、三丁目の本宅へ伴われ、 にも明るく、当時、お目付筆頭であった。後に痴翁と号し卯兵衛に会った。 おこな