死ん - みる会図書館


検索対象: 長谷川伸全集〈第14巻〉
146件見つかりました。

1. 長谷川伸全集〈第14巻〉

た、それでも忌避者がない、それだからである。 せた、眼がばちくりしたということは僅かながら心の底の 一人だけその時、異色のある四十余りの男が来て助右衛どこかしらがばちくりを与えているからである。 門橋側の人垣に加わった。その男は忽ち、 決闘開始に迫っている二人の侍は、さきほどから、お納 「だれもとめンのかいな、死ぬがな死ぬがな、どっちか一戸羽織が左へじりッと廻ると、小豆羽織がその反対に右へ 人死ぬがな」 じりッと遠ざかる、そうしていれば些かでも差迫る危険が と悲鳴を放った、じつは悲鳴だがその声は顫えていて低避けられる、それを繰返して今も又、小豆が左へ左へと刻 かったので、近くの数人の耳に聞えただけのものでしかなみ廻りをし、お納戸が右へ右へと刻み廻りをしている、二 っ一 ) 0 人の文金髷が顫えていて音が立つかと思うばかり、鬢のほ 二人の侍は刀にかけた手に変化をすこしも起させていなつれ毛が、頬に浮いている膏汗にねッとりとなっているこ みみたぶ そのかわり顔の色の青ざめの度がひどく、耳朶までが とだろう。頬に引ッついている。 色を失ったように見える。 喜八は左の二の腕を隣りの彼の男にひしと掴まれ、何を 「死ぬがな死ぬがな」 するンだといおうとすると、 と彼の男のロは、絶えず低い悲鳴を挙げ、体をもがいて「死ぬがな死ぬがな、どうにかならンのかいな、ならンの いる、このただ一人の者の右隣りに立っていた男は喜八とかいな」 いって三十歳、江戸をズラかって、といっても兇状持ちで 今度の悲鳴は尾をながく一語ずつに引いて、泣き念仏の はない、不義理な借銭がある苦しさで欠落ちした独り者、哀しさである。 働いていた今までの先が芝居だったので、ここ大坂でも就「ああ、助からン、一人死ぬがな死ぬがな」 職のロを芝居に求め、道頓堀に次ぐ歓楽の街の堀江で、由 という声はまさに、又人がふえて集る二ツの人垣の二百 緒の古い荒木与次兵衛の芝居小屋に雇われ、裏方でも働け余人に向けた批難である。人の親切と楽器とは動物の感情 ば表方でも働く、時に座元に内密で諸士・仕丁・雲助などならむことが出来る、のに、ここでは今、無名の四十男 になって舞台にも出た、花四天多勢にまじってトンボの真の必死の唱えごとが、家鴨に般若心経を聞かせたもおなじ 似ごとぐらい出来る、無駄ロ好きの巫山戯たおッちょこちであるに過ぎなかった。 よいが身についている、と座内で思いこまれている喜、 カ一人喜八が家鴨でなくなった、般若心経がわかった は、立てつづけの肩隣りの男の低い悲鳴に眼をばちくりさのではない。妙なる音楽に聞き惚れた動物にちと近い

2. 長谷川伸全集〈第14巻〉

いとしと思う、いに偽りなくば、会う日の又なきこともある 「ほ、フ」 まじ、それ楽しみに死にまする、というて死んだ」 4 「駿府在でだ」 わずろ 弥左衛門は返辞をしなくなった。この男、今は尋常でな 「病うてか」 。さればこそ夜に入って馬を駆けさせ、三ツの提灯を体 「うむーーーそこ許は、それがしがこれより申すこと、聞い につけて来たのだ。 て合点してくれようか知らん」 「ご迷惑ながらそこ許にお願い、それがしを当分ここ許に 「さ、何ごとか、聞かぬと知れぬのう」 「それはそのはずーーーじつは、すみは、墨染のことだ。わお差し置きくだされたい、じつは、それがし駿府在より逃 が妻すみは臨終のとき、わが手をとって、あなたに念が残げて参った」 って、とても死なれぬが、心はそうでも、体が保たぬらし「逃げて、とは」 「さればーー・・妻が世を去ってから、それがしの心のうち、 いゆえ、どうでも死なねばなるまい、という」 あきらめ切れぬ、妻いとしさに、独り残された侘しさ、た 「、つん」 弥左衛門はそういう他なかった。ひたと向けた半九郎のれか慰めの言葉も悔みの悲しみも、それがしの胸を得心さ 眼は、かっての赤鬼と違い、陰気であるのみか険しささえせぬ、ゆえに、通夜にはものいわぬ妻に添い臥して、二つ の腕の冷たさに涙こばれた。野辺になきがらを送り、この もある。 手ずから鍬とって、妻の柩を穴に埋め土をかけたが、さて 「が、妻は死んだ」 独り居の家にいれば妻が名を呼んで答えのない淋しさを知 「気の毒な。あすは寺で法要を営もう」 り、外に出れば人多く行き交うなかに、妻がいると思うて 「さあ、法要ぐらいではなあ」 眼をくばり、心づいて首うなだれる、こはこれ、最愛の女 「何、法要ぐらいではとは」 み、げす 「阿呆をいう男と蔑みがあるか知れぬが、偽りなき話ゅを失うたものでないと知らぬ歎きだーーさて、初七日、一一 え、まず聞いてくれ。妻が臨終のとき、その手を握り、そタ七日、三七日の営みの夜更けて、それがしを呼ぶ女の声 に、たれぞと答えて振向けば、それがしの枕に近く妻が米 れがしとてもそなたの可愛さ、如何なる男の愛情にもけっ とていた」 して劣らぬ、というた、勿論そういう心に偽りはない、 ここまで聞くと弥左衛門は、顔の色をあせさせた、亡き 妻がいったん瞑った眼をわずかにあけ、形骸は亡ぶるとも 心は亡びることなしとやら、幽明の境は異にするとても、妻と語る男を、目のあたりにして、うしろを振向きたい寒

3. 長谷川伸全集〈第14巻〉

「いえ、ほ、本当です、今、たった今、僕はそこであいまない、だのにその女が現れたのだ、幽霊でなくてなんでし 「じゃあ本当として聞きましよう。ですが、男ですか」 「へええ、するとご存じの幽霊なんですか」 「いいえ、女、女です」 「その女ならー・・、ー死んでるのだ。確かに死んだ、死顔は見 「婆さんですか」 なかったけれど、墓が現にあるのだ、僕はお詣りをしたの 「いえ、若い二十六でした」 この男は気が変だ、幽霊が仮りに実現したとして、年を「落着いてくださいよ、そう逆上してはいけないなあ。す 知っているのは奇抜だ。 ると死んだ者が出た ? じゃあ、やつばり幽霊なのか知ら 「じゃあその幽霊は、自分で年をいったのですか、外にもん、さもなくて死人が姿を見せるなんてないはずだ、だが 何かいったのですか、怨めしいとか、迷っているからお経幽霊なんて、まさか、本当にゃあるまい」 でもあげてくれろとか、何かそんなことをいったのです「真実だから疑えない、あなたは知らないから疑えるのた 、刀」 僕も疑える人になりたいのだが、僕にはなれない」 「ああ、あなたは強い、平気でそんなことをいえるのだ、 かいからいけないのですよ、なに、狸か狐のいたず 次ーい」 ら、いや馬鹿な、狸だって狐だって化けるなんて私は信じ 「もしもし気を落着ける方がよござんすよ、幽霊なんて、 てはいません、つい笑談にいうロが出たのです。どうで まさかねえ」 す、私も一緒に行くから、もう一度そこへ行って見ましょ 「いえ、本当なんです、僕は見ました、疑いもなく女を見う、本当の幽霊ならまた出るでしよう」 ました」 「あなたは病気なんでしよう、夜どうしても睡れないとか 「どうです勇気を出して行きませんか」 一何と ) か」 「不眠症です。けれど、それと幽霊とは別々でしよう、僕「どうかなすった ? 気分でも悪いのですか」 は現在たった今そこで見たのですからね」 「いえ , ー・ー嘘でした」 「散歩にきた女を間違えたのでしよう」 「え、嘘とは、幽霊が出たってことですか」 「いいえ、そんなはずはありません、その女がいるわけは 「ええ嘘です、僕は何も、ええ何も見ません」

4. 長谷川伸全集〈第14巻〉

「旦那、可哀想におかよは、こんな姿になって終いましんと二人でやって来て、孫達が腹をへらして泣いてはいな ひと いか、手枷足枷同然の小さい子だから、他人にくれてしま いはしないかと、雨戸の隙間から覗いてみて、やれ今夜は 「ほう、これがおかよの位牌かーーおかよ、さだめし、つ れない親だと怨んで死んだろう、堪忍してくれ。なあ、お二人の孫が無事にいた、やれ今夜は泣きもせずにいたと、 かよ、わしは、この間、忠ちゃんがきた時、そういっては こそこそ話合って泣いて帰ってばかりいた。おかよ、お前 はわしのような頑固な親をもって、さだめし怨んで死んだ 悪いがあまりひどい身なりで、目つきまでどうやら険しい ことだろう、今になっては何んとも詫びのしようもない、 ので、てつきり因縁をつけに来たと早合点をしたものだか しにわずら ら、お前が死病いをしているというのも嘘だとばっかり思堪忍してくれ、なあ、おかよ」 っていた、ところが、辻岡の家の竹マさんが、お前のお葬「釜七の旦那」 しゃべ 「自分勝手に喋ってばかりいて忠さん、済まなかった」 いの日にここへ来合せ、わしのところへすぐ知らせにき てくれたのだが、どうしたことか腹がたち、とうとう取り 「旦那は、忠吉が小さい子供を、もしゃ棄てるかと心配な すてご すったそうですが、忠吉はそんな男ではございません」 あわなかった。ところがなあ、大島に棄児があったのだ、 、くえ 「悪かった悪かった、重にもあやまる、わしの考え違い 棄てたのは旅の男で、棄てられたのは二つばかりの男の 児、その晩、夜中から雨が降り出して、可哀そうにその子だった」 「忠吉は石にかぶりついても、二人の子供を手放しはいた 供は雨に叩かれて死んでしまった。世の中にはひどい親が あればあるものと人の噂を聞くたびに、わしは自分が叱らしません、そんなことをしたら、おかよがあの世で泣きま れている気がし始めた。すると、棄子の親が前の日に、我すよ」 「いや、一言もない、あやまった」 が子を棄てた場所へきて泣いていたのを見た人があった が、人の話で聞いたあくる朝、その男は身を投げて死んで「判って下さればそれでいいのでございます、ロ幅ったい いた。わしはな、婆さんと二人で、つくづく話しあって後ことをいうようですが、忠吉は死んだ女房の冥福を祈るの に、お寺も坊さんもいらねえ、この俺が、日本で指折りの 悔した。今まで腹ばかり立てて来たが、見たこともない孫 をもしゃ忠さんが苦しまぎれに棄てはしないか、と、そう釣竿師になりさえすれば、それこそ、おかよにこの上なし 思うといても起ってもいられないので、それからというもの追善供養だと肚を据えてかかっております。忠吉はどな のは、昼間は遠慮して、夜になると、ここの家の前へ婆さたのお世話にもならず、拵えあげた駄竿を売り売り、自力

5. 長谷川伸全集〈第14巻〉

みある人々の救護所とし、本所深川の医者は全部、命令は から、今夜中にはお宅へ搬べるでしよう」という答えだ。 れなかったが走せつけて、真裸になって働いた。 そんな馬鹿な俺は生きていると、逸散に家の中へ駈込む 祭はそれがため中止。 と、だれも幽霊と早合点する者なく、やれ助かったか芽出 死亡者は四百四十人といし 、三百十九人といし 、七百一一一たいと、通夜が祝いに早変りした。 十二人といし どれが確かな数にちかいか、明らかにする 熊の奴め、米屋九兵衛の紙入をスリとり、それを懐中に 方法がその時の幕吏になかった。 溺死したので、死体があがって調べになると、紙入の中の 行衛不明は多くて四、五百人、少くば一一、三百人、という。 六通の書付から、「この死人は本郷金助町米屋九兵衛」と 橋板の穴は四十八坪で止まった、一坪に二十人いたとすなった間違いだった。 いた、少くともこれだけは ると、四十八坪では九百六十人 この逸話、古くから落語のタネに採りあげられ、今でも 落ちただろうと、当時の人はこんな計算でもなるほどと思やればやれる落語家がある、という。 ったものだった。 渡辺小左衛門は隠すではないが、進んで話すでもなかっ 本郷金助町の米屋九兵衛は、永代橋の地獄のロに呑またので、当意即妙の人助け、被害をその程度で食いとめた れ、先に落ちた人の肩に尻を搗き、一ツはずんで水の中へ話を知っている者は知っていたが、そのなかに文筆家やお もんどり ひばら 筋斗打ち、水に脾腹を叩かれたかして、息がとまって流れしゃべりの巧者や社交家がいなかったので、大田蜀山人も ていた、それを引抱へて陸へもって行ってくれた人があ「然るに或る士、橋桁にしがみつき刀を振廻し」たるは、 る、鎌倉河岸の河童とあだ名のある庄助で九人救ったうち「即智の働き万人の命なり」とだけで、知らなかった、そ の一人が九兵衛だった。この日庄助と同様の働きをした者の他では「いずくの武士にや」であったり、「既に落んと か夥しいので、死者とほとんど同じ数の人が救助された。 したる一人刀を抜て振上げたれば」だったりで、知るもの 九兵衛は医者の手当で蘇生はしたが、半日ばかり茫然絶えてなき同然だった、とは云え当時、八丁堀に住む与カ ひなた と、日向が日陰になるまで地の上に坐り込み、夕方になっ だという説はあったにはあったが、それだけで終った。 て全く正気となり、金助町へ帰ったのが夜だった。わが家 から出てきた男が葬い屋だったと気がついてうろたえ、 永代橋の責任を持たせられていた深川中島町の家主忠有 とカ 「米屋ではだれか死んだのかえ」と聞くと、「亭主の九兵衛門と平右衛門とは、「手当不行届」という科で、翌年六 衛さんが永代で水死なすって、死骸を引取りに行っている月六日、遠島の判決をくだされ、橋番人喜右衛門も同罪の

6. 長谷川伸全集〈第14巻〉

ふびん が、不便は不便ーー」 「茂左衛門 ! 」 「八郎兵衛、それがしに昔の恨みとは、何 ? 」 「何じゃ」 「あるか子供がおのしに」 「わが家来であったら、勝負するぞよ」 「ある、それが」 「家来 ? 八郎兵衛の ? 」 「その子供の母な、昔の恨みの人じゃ」 「家来でなくても勝負する」 「ほ、つ」 「何で ? 」 「判ったか茂左衛門」 「昔の遺恨じゃ」 「漸くな、はは。ま、八郎兵衛、亡うなったよ」 「昔の遺恨とは」 「雪どのな死んだと聞いた、風の便りというものにのう」 「忘れたか。三人の死顔、見てくる間に思い出しおけ。引 ッ返して、否応なし、勝負する、その心で待っていろ。ど「亡うなった女に、今も恨み消えずにあるというか、おの こだ、斬った場所な」 「お、つ」 「ついそこの松の下じゃ」 「あれか。おう人が倒れている。ーー茂左衛門、勝負する「怪しからぬ男じゃ」 「と、云わば云え。壺形八郎兵衛は一ッ廉の武夫なれば、 、忘れたる振りして逃げ口上構えるな。死後の恥とな 諸国、いずくの大名にも懇望され仕官な途ないくらもあっ る」 た、が、心のうちに大きな穴があいていて何とも世の中面 「思い出せぬ。八郎兵衛に何の恨み買うたかのう」 十間ばかり先の一本松の下へ行った八郎兵衛は、三人の白うない」 死体を見おろした、一目で判ったとみえ、取って返して茂「そのゆえ、亡うなった雪にあるとか」 「調のことよ」 左衛門。 「馬鹿な」 父「あれ、家来じゃ」 の 「何が馬鹿、馬鹿とは雪という女のごときをいうのじゃ」 「ほう、と、八郎兵衛指図の暗討ちか」 菊 み 1 と 舌長な奴じ 「こいつ、気が狂うたか、ロな竪に裂けたか、 お「いや。とどめた、諭した、助太刀ならぬと叱りつけたに 彼奴等、わが眼を掠めてーー云わぬことか、おのし等では 「八郎兵衛な、浅井備前守長政公御滅亡の後も、行く先々 茂左衛門はとてもとあれほどいうたに肯かぬからじゃ、 かど

7. 長谷川伸全集〈第14巻〉

「それから出はじめたんですね」 「知ってますとも」 「出た、姿が見えることもある、音だけのこともある、と 「どうして知っているのです ? 」 にかく、絶えず僕は襲われているのです。この村へきてか 「あんたが自分のロで私に告げた」 「、いえ、僕は、このことはだれにもいわない、医者にさらは、漸く恐怖から遠ざかれた、この分なら大丈夫だと思 った、しかるに、さっき、死んだあの女がこの村まで追い えいわなかったのです。他人にはいえないことなのですか ら、僕一人だけしか知らない秘密なのだ、どうしてそれをかけてきて出ました。あれは僕を呼ぶのでしよう、僕のい ない世界に一人でいることは耐らないのでしよう、そうい 知っているのです ? 」 うあれの心はよく僕にわかるのです、ですから僕は自殺し 「あんたを悩ます幽霊は女なんだ」 て、あれのところへ行きます。さあ、わかったでしよう、 「あツ、本当に君は知ってる ! 」 僕の自殺には立派に事情があるでしよう、さあ返してくだ 「年は二十六の女だ、そうでしよう」 さい短銃を」 「どなたです、あなたは一体だれだ」 「返すまい、返せば死ぬだろう、厭だ」 「・幽霊は今でも出るのですかい」 「ああ、あなたは警察の方 ? 」 「出ます、さっきも出た ! 」 「ええ、さっき出たーーー・何日から出はじめた幽霊なんで「 : 「僕は、恩典に浴したものです、検事さんにも好意ある説 ほうじよ早、い 「今年の七月十四日の夜から」 諭をうけたのだ。幇助罪を構成しているのだが、事情を酌 んで不起訴にするといったあの時だ、いろいろ同情のある 「盆の十四日から ? 」 言葉をかけて貰ったのだ」 「もっともその前から僕は神経衰弱には罹っていました、 けれど、死んだ女の姿を見たのは七月十四日の夜からだ。 しくしくと男は泣き出した。くノ一は悉く持てあまし ポスト 僕の家の前に立っていたのだ、戸を叩く者があるので僕が 、彼奴はいい加減にしてここをはなれたかった、郵便函 出て戸を開けたのだ、外の者はよく睡るが僕だけは事件以へ例の封書を投げ込まないうちは、真実の安心は得られな いのだった。 来、夜が恐ろしくて睡れないのだーー女は黙って立ってい ました、怨めしそうな顔をしていた、その凄愴な顔は、思 しかし、巾着切は救われた、近く女の姿が見えたのを機 会に、病人の態度は急変した。 出しても怖い」

8. 長谷川伸全集〈第14巻〉

下がって自殺を遂げていた。 「おい伊三さん、とんでもねえことになったなあ、どうし 死体の下で たというんだ」 とそのまま、手をつけずにある死体を見あげていう声を その晩、何んのことなく、翌日の朝早く、忠吉が顔を洗聞きつけ、部屋の隅で小さくなっていた伊三郎の父親で盲 っているところへ、 目の徳兵衛が、 「お早うござんす。こちらは竿忠さんでございますか、私 「あ、竿忠さんですか。よく来てやって下さいました」 は東森下の伊三郎さんの隣りの者でございますが、ゆうべ 「おお、気がっかなかった伊三さんのおとッさん、とんだ 伊三郎さんが亡くなりましたんで、帳場へ行きがけにちょ ことで、何んといっていいか言葉もねえ」 っとお知らせに来ました」 「竿忠さん、まだ御検視がおりねえので元のまんまにして 「えツ。伊三郎さんが死んだ、本当ですか」 あります、それよりは一つ、お話をとくといたしたいこと 「ええ」 がありますが」 「だって、ゆうべあっしの家でさんざん話して行ったんで「何んだね、おとっさん」 すが」 「そこらへまあ坐って下さい、竿忠さん、御存知だろうが 「それが当り前の死方じゃあないんです、〈あなた、ぶ元わたしは、大和の国郡山の城主十五万千二百八十八石柳 一やし ら下がってね」 沢さまのお抱え鞘師で山野徳兵衛、これでも烏帽子直垂 「あれ。へええ。こいつは、よッばどどうかしているぜ。 で、刀を差して仕事をしたものだったが、御時勢が変って どうもわざわざすみません、すぐ行ってみます。どうもごお抱えの鞘師どころじゃなくなった。あ、忠さんそこにい 苦労さんでした」 て聞くだけ聞いてください線香が絶えたってかまわねえ。 忠「伊三さんどうしたというんだろうね、一体」 なあに、近所の衆が立ち働きをいくらしていたってかまわ 竿 「何んだかさつばりわからねえが、行ってみてやろう」 ねえ、死んだ不肖の倅のことよりこれから話そうというこ 人 名忠吉が駈けつけて見ると近所に一ばいの人だかり、なるとの方が、ずっと大事だ」 8 ほど使いの人のいったとおり、伊三郎は何を思ったもの「何んだね徳兵衛さん。自分の子の死骸をうしろにして、 か、刺子絆纒を着て手拭をスットコ冠りにして、梁へプラ俺へ話というのは」 さしこばんてん り

9. 長谷川伸全集〈第14巻〉

「そしてお前はまた、わたしの一番上等な物を破壊にし でね」 「それにしても、どっちかの国の者だ」 「国籍だけが日本になっていたら、お前もわたしを日本人「うンにや、そんなことはしねえ」 の女だとするかい」 「ある、わたしと死ぬ約東の男を、一人だけ死なせて、わ たしを邪魔した」 またくノ一は黙り込まねばならなかった。 「返事が出来ま いーーーそれ見ろ、わたしは国のない女だ」 学 / 力」 「あの男はどこの生れだか知らない、南の方で儲けた金を 「ロをだすな。わたしは好きで生れてきやしない、パヾ ノと持って、この国へきて、この国の女に恋して永住するつも ママが勝手にわたしを苦しめに生んだのだ。パ。、 ノの馬鹿、りだった男だ、それがお金みんな無くなった」 「一ん」 ママの馬鹿め」 「死ぬのだというからわたしと一緒に死なぬかといったの 「無法だ、こりや滅茶苦茶だ」 だ、したらあの男は、どうせ死ぬのだ。人が聞いたら名は 「この前の時もそうなんだ、今夜もそうなんだ、死にオし しいくらい、何も望みのな 者は死ぬことがあるから死ぬのだ。余計な真似をするな馬ダブリュー・シーだといっても、 い体だから一緒に死んでもいいといったーーわたしは黒と 鹿」 黄色とでどっちつかずの女だ、白い男と死ねば、二人の死 骸が流れついたら面白いだけでなく、わたしには名誉だ」 「この前の時はママの顔を切ってやった」 「白い人間と死ぬのが名誉か、ちえツ」 「ああー・ーあの時血を流していたのは。そうなのか」 この女が毒づいている母は、瓦斯街燈の青白い灯の下を「馬鹿にはわからない」 こういってからその女は、後も振向かずに大股に歩いて 走って水から引きあげられて仮死していたこの女に、号泣 切したあの若からぬ女だった。それならばあの時の巨大な男去ろうとした。 「死なねえのか、それじゃあ」 着は、黒人だというこの女の父だったろう。 くるりと振向いた女は、白い歯を剥いて、憎さげにいっ 本「今夜はパパを切ろうとした。けど、よして死ににきたの をお前がまた邪魔した」 「お前は馬鹿、わかりません」 くノ一はもう何もいえない、黙っているほかはない。 サランパン

10. 長谷川伸全集〈第14巻〉

「娘の死骸を背負って階下へおりろ」 「自分の頭をカ一ばい叩いて死にます」 「どうしてだ」 「怖いか」 「負けないためです」 「まさか、死ぬはずがございません」 「負けないためといって、自分が死んでは負けたことにな 「たびたび、こういうことをやって、加減をよく知ってお . り . はーレよ、 ナ . し、刀」 りますとでもい、フのか」 「いいえ違います「おかッさんが話してくれたのは、そう 「いえ、そういうわけではございません」 ではございません」 「俺が娘を抱えておりる。お前は目を廻している男をつれ 「母が話したのか、何といって」 ておりろ」 となた様でございます」 「あなた様は、、、 「いえ、こいつはだれかに介抱させます」 「俺か、俺は松本六万石のお殿様へ不忠の馬鹿者で、鬼小 太郎という男だ。鬼の小太郎ではないから間違えるな、姓「そういう奴だうぬは。だから改心したというのを本気に せぬのだ。女房が目を廻せば介抱しなくてはならないが、 を鬼、名を小太郎というのだ」 「それではあなた様は、その藤左衛門とやらいう男の仲間他のものなら急に介抱してやるには及ばぬという料簡か」 「いえ。それではこいつは私がつれて降ります」 ではございませんね」 「それで当り前だ」 「神に誓う、仲間でない。おちょ、俺が確かにお前を救う 小太郎はおちょを小袖でも抱えるようにして梯子を苦も てやる」 という言葉が終って間もなく、おちょの体が、倉の二階なく降りた。 ぐったり凭れ、だらり にぎッしり詰っている荷物の上へ、 と下った右手から鏡が床へ落ちて音を立てた。 「藤左衛門、うぬ今までに娘をだいぶ殴らせたな。さもな くて死ぬか」 「死、死んだのではございますまい」 「死んだ、よく見ろ」 「まさか、死んだのではございませんとも」 もた 祝一一「ロ手紙 正気づいたおちょは今、衣紋をつくろい、帯をしめ直 し、鬢のほっれを撫ぜっけなどしたので、さッきとは打っ て変って、娘々したところが出ていた。顔の色もだいぶよ