房とねが、「加乃をどうして盛岡なんてところへやられまたのが、やがてのうちに、「お暇を願って江戸へ残っていた しよう、団子といえないでダンスなんていうし、飯といえだきたく存じます、その後の儀については、失礼ながら何 とでもご相談に乗ります」となった。「左様には相成りか ないでミシというところへなんて、あちらの言葉ではござ ねます、拙者はもともと南部侍、どなたのお言葉がごぎろ んせんがマンゴ末代ャセながるですよ、あの子が行くとい うとも、勘兵衛の心は金鉄、国許へ妻子を召連れ、罷り下 ってもやりやしません、そうでしよう旦那」と、いっ力な いっかな不承知だった。平左衛門が、ことに江戸自慢の素ります」と、江戸は付け味だった勘兵衛が刎ねつけた。こ てんべん 天遍の男だったので「うちのおかみさんまでが嘘にも、マれが溝となり崖となり、双方の間にまずいものが出来る始 ンゴ末代ャセながるというようになったから驚きやす、孫めとなり、武蔵屋は「だから始めて会ったとき、あなた様 がお国詰のお侍だったら娘をさしあげられませんが、御代 子の末まで辛抱が出来ないというのがマンゴ末代ャセなが るだ、厭でげしよう、今だからいうが、武蔵屋にもこの何代江戸定府のお家筋ですからといったのだ、だれが娘を日 何というもの、田舎ッ臭いものがはいってきていました。本のはずれの国へやるものか」となり、勘兵衛の方は「是 何といっても江戸ですよ、そんな言葉を加乃につかわせる非に妻子を召連れ罷り下る」と頑張り、どちらも譲らぬ言 国へやるなんてこたあ情けのうごあす」と、田舎嫌いをム葉尻から、溝はいよいよ深くなり崖はますます高くなり、 キ出しにした。こうした人々の話合いの末が、加乃を江一尸勘兵衛が苛立って、「しからば加乃を離縁せよと申される か、左様ではござるまい」といったのが燃え立っ火とな に引きとめたいとなり、勘兵衛にその話が持込まれる前 に、加乃の方でも、百三十九里先で、蝦夷ヶ島が近く、安り、「離縁というお言葉を聞こうとは田 5 いませんでした、 えびす 倍の貞任なそという夷の子孫の国へゆく気がせず、住むなそちら様でそう仰有るなら手前の方でも考えます」と腹を ら花の都の江戸、道中記をみただけでも、艱難の憂き旅の立て「よろしゅうございます、お望みなら加乃を引取りま す」と、平左衛門が赤くなっていい出した。 長さが思いやられると、まず途方に暮れていたところへ、 勘兵衛は苦笑いを抑えて、「離縁せよと申さるるかとは、 経親兄弟親類縁者が寄ってたかって、加乃には親切でそのく 云うたが離縁するとは申さぬ」と、何度も繰返したのは、 写せ夫には不人情な、江戸に居て貰いたいという話が持ちこ 血まれた。 離縁といったら驚いて、加乃のお国下りを承知すると思っ 武蔵屋平左衛門は町人、相手は侍、始めから強く出たのた、その失敗を打消すためだ 0 た。武蔵屋の方でも離縁を とるといったら思い直し、江戸に残るというだろうと思 でなく、「江戸に居着いていていただきたい」といい出し
何度となく一ッことをいい張った、そのため、どち らも気がっかぬうち依怙地の峠にのばりつめた。 そういう仲にはさまった加乃は、親につくか、夫につく 南部に帰り着いた勘兵衛は、江戸に生れ江戸に育った身 か、とどちらにと思う心の中で、江戸ッ子のチャキチャキながら、本国に戻り得たことを本懐とし、ほッと安心の息 もた が頭をぐっと擡げ、親へ親へと傾いてゆく、その実は江戸をついたが、勘一郎は母のいない見も知らぬ国にきた侘し という都会への執着だったのだが。 さに、日に日に音い児になった。国侍の児とは言葉の違い 話が出るも引きもならぬところへノシあげたとき勘兵衛が双方に出て、だれとも遊び耽るところまで行きかねた。 は、「勘一郎は戸来の家の跡取り、念にも及ぶまいが、手江戸から供してきた二人の若党、石見鉄造は三ノ戸在の 放さぬとご承知あれ」と怒りにふるえた声で、加乃とその実家へ帰り、柿田源助は別れともなげに江戸へ帰った。新 父と兄にいったのが、事の終りにしてしまった。 しくきた若党は二人とも国者で、勘一郎のいう一一一一口葉を聞き とりかね、勘一郎の方でも二人の言葉には困った。 「母さまはいずこへお出でになりましたか」 加乃の居なくなった南部坂の藩邸から、次々に国をさし「母様はいつお出でになりますか」 て発足する番立ちがーー一番、二番と分けて隔日に、又は と勘一郎は父に尋ねた。始めのときから四たび目まで父 二日おきに江戸を発足するーー終って、残務が片づくまでは、むずかしい顔をして答えなかったが、五たび目に重い の間に、勘一郎は父にたびたび尋ねた。 物を持っているように答えた。 勘兵衛は言葉を濁し、明らかなことはいわなかった、そ「来年の春か知れぬ」 のうち問われ問われてついに、 「お国表に行っておるはず」 正月を迎えるため、十二月八日に竿のさきに燈籠を吊っ と一時のがれをいってしまった。子はその言葉を犇と抱て立てる、事始めという、この日から新しい年を迎える仕 いて忘れず、 度にかかる江戸の慣わしが盛岡ではなかった、だから正月 「いつお国許にまいるのですか」 が過ぎた二月八日になっても、前とおなじく、燈籠を立て と、江戸を発つのを楽しむようになった。 て事納めとする慣いもなかった。勘一郎は異国にいる気が かくて百三十九里の戸来勘兵衛の旅は、母を恋う子にと 「父さま、お国許では正月、松の内と、どなたも申されま って、楽しくも楽しい道中となったのだった。 ひし
「あの木は何でござりますか」 二人の若党のうち石見鉄造の背に負われ、一足ほど後に なっている勘一郎が、くりくりッとした顔を父に向け、ト さい掌に結んだ指から人さし指を、畑の方にのばして、い たいけな声で尋ねた。勘兵衛は問われた畑の木をみると て、勘一郎のわらべ顔を撫ぜるように見て、 「あれは桐の木という、夏に近いころ紫の花が美しく咲 く、大きくなると伐って挽いて、簟笥などにつくり、下駄 にもする、江戸の父の居間に本箱があったであろう、あれ が桐の木、桐の木の中で一番よいのがお国で出来る、南部 桐という、高名である」 といううちにも幼い顔のうちに去りし妻にまみえている 気にさせるものがあった。そればかりか、夏と口にいって いると夏衣をつけた加乃が眼の中を掠めてゆく、紫の花が といえば眼の中の妻が紫の小袖をつけて見え、簟笥とい い、江戸のと いい、父の居間というたびに、江尸麻布南部 坂の藩邸のうちで、十年つづいた夫婦のいとなみの、或る とかんべえ 七ツになった勘一郎をつれた戸来勘兵衛は、ふッと又し時々がちらりちらり浮んだ。。、、 カ一番よいのが南部桐とロ ても、江戸で離縁状をやって来たのでもう妻ではない加乃にしたとき、加乃のすがたがハタと眼のうちから消えた。 の、白い顔が、眼の中に浮んできたので、瞬きをワサとし これから勘一郎を伴うてゆく、南部盛岡と江戸とでは、山 て消すようにすると、勘一郎の若い母がどうかした時よく 河を隔つること百三十九里、隔たりは道のりばかりか、女 やる、ツンと取りすました顔が、眼の中にかえってのこっ房をオカタといい、堪えかねるをャセながるという類の言 葉にも、十月から二月まで降り積む雪の国なので、江戸と は行事も違い、柿は江戸に豊かにあるが盛岡は乏しく、江 戸で不自由な林檎は多い、という風にひらきだらけ、その なかで、変らぬは夫婦親子の情合のはずが、これも又隔た りをもっこと裏と表のちがいと、つくづく知って帰国の勘 兵衛だった。 「あれは地蔵尊でござりましようか」 ) 0 血写経
かぶと 富山の薬だけ、医者は何里か先の甲というところに七十幾むよ」と、繰返し繰返しいって、伝三郎が半造をつれて発 つかだが 一人いる、その医者を伝助が夜明けを待ちかね頼ったのが六日目の朝だった。 みに行き、馬に乗せて連れてきたが、「疲れじやろうな」 野麦峠を越えてきようは藪原泊りか、あすは諏訪という と手軽い見立てだった。薬は伝助が送って行って貰って帰ところでお泊りだろうねえとお蝶は、宿ぬしの夫婦が教え ったが、二日三日では効き目がみえなかった。 てくれるのをタネに、伝助夫婦を相手に、あと五日で江戸 だねえ、もう四日で着くねえと、道中の伝三郎の噂ばかり わずかのうちに面やつれしたお蝶が、伝三郎にたびた び、「あたしをここへ預けておいて、江戸へ発って」と頼を楽しみにした。 んだが、「おれはそんな不人情な男にや生れてこねえ、江病気は悪くはならないが良くはならなかった。伝三郎が 戸へはお前と一緒にゆく」と肯かなかった。お蝶は伝助夫発って七日目、お蝶は江戸の方角を宿ぬしに教わり、あれ ほど白かった手の指が青ざめて、円みがすこしあったのが 婦を呼び、「ねえ、みんなでここにいたのでは、富山の銅又 さんがせつかくくだすった路費を食べてしまうもの、あたちッと骨立ってきたのを胸先で組んで、寝床の上に起き直 し . し、刀、ら、 しはここで野猿の啼く声を聞きながら死んでも、 って拝んだ。「江戸の神さま仏さま、うちの人をお願い申 します」とい、つ心。 うちの親方を江戸へ発たせて、ねえ、頼むから」と、眼に 涙を溜めた。「お為、ご恩返しをやろう。おかみさん、伝伝助はお為と二人で、この頃は寝たり起きたりのお蝶の 助夫婦は親方に殴られても江戸へ必ず発っていただきま眼の届かぬところと、裏山の老樹の陰で、「なあお為、親 す、ご安心なさいまし」と引受けた。 方が置いて行った金は三分とすこしだ、それだけでは、、 伝助夫婦がお蝶の看病に残るから、半造を供に不自由をつまでとも日限りのないここの滞留に不足するのは知れた 辛抱して、江一尸へ発っていただきますと、顔の色を変えてことだ」と、覚悟を定めた眼つきで相談をかけた。お為は の諫めを伝三郎は、「おれに薄情者になれというのか」ぞッとした顔をして、「お前さんまさかここを逃げるので 月と、ただ一言に刎付けたが、お蝶に手を合わされて「どう はあるまいねえ」と、亭主の瞳をぐッと見た。伝助は泣き そ江戸へ出て、一ッ廉の役者になって」と、泣かれると渋笑いみたいな顔をして、「馬鹿いやがれ、ここが逃げられ 満りながらも合点し、それから二日、看病して、「じきに迎るか。おれは稼ごうと思うんだ、百姓仕事は素人で役に立 えにくるからね」と、草鞋を穿いてからも枕許に坐り、発たず、おまけにこれから先は冬だからすることがねえそう ちともない様子だったが、「伝助もお為もあれのことを頼 だ、だから高山へ出稼ぎするのはどうだろう。おれのこと
本松丹羽左京大夫様ご家中、芦田十郎左衛門殿というお方やはりそうです。 を弁えているかいな」 江戸の井筒屋の隠居自斎夫婦に引取られて、財賀の山寺 に別れを告げた芹次郎が、峠を越え河を渡っての旅は七十 「方丈様、斧次郎はそんなこと知らんのです」 いたわ 「そうかそうか知らんか、でものう芹次郎、奥州二本松の七里。遊山かたがた信心の旅をした夫婦に劬られ、物珍し ご家中に、大伯母様がおいでとは弁えているかいな」 い道中の風物やら食べ物やらに芹次郎はたいした満悦で、 夫婦よりは健脚だから世話が焼けない。 「斧次郎はそんなこと弁えておりません」 「そうかそうか。ではのう斧次郎、こなたは坊主になるが奥州二本松十万七百石の丹羽左京大夫長富の江戸上屋敷 は永田馬場にある、いまの永田町で、江戸城の大手門から ええか、武士になるがええか、どちらじゃのう」 約十九丁の距離、そこに定府といって江戸に永く在勤の芦 「斧次郎は坊主より武士が好きです」 田十郎左衛門夫婦に跡取りがない、ないのではない、跡取 「江一尸にいる二本松ご家中、芦田十郎左衛門殿ご夫婦が、 そなたを江戸に呼び迎え、跡取りにしたいと申される、武り夫婦が申合せて芦田家から離縁をとった。急に後継をな くして十郎左衛門夫婦は狼狽気味で、族縁を辿って養子を 士になるのじゃ、行くか、いやか、どうじゃのう」 「江戸へ参ってよろしいなら参りとうござります。坊主に貰わんとしたが、たれ彼いすれもが芦田家をひどく嫌い、 弱ッ気のものは口実を構えて断り、強ッ気のものは「そこ なるのは厭で厭でならぬのです」 方丈が江戸の井筒屋の隠居夫婦と、顔見合せて笑い、大許ご夫婦に託すような子は持たぬ、捨てるが子あればと きな声でいいました。「この小倅はかくのとおり、無遠慮て、何条そこ許等に遣わしましようや重ねて申されな」と、 絶交承知で酷しく刎付けたものさえあります。十郎左衛門 なもの、それだけに行く末が面白うござるのう」と。 昔だからとて人ひとりのこと、それ相当に確かな証拠書は悪い人ではないが、若い時から武骨であるこそ武士らし けれと強いて武骨に振舞ったのが、「芦田の十郎左は武辺 類が揃っている上に、引取りに来た者の人柄をみて、話に 代決定を付けます。或いは昔の方が書類が揃って証拠が嘘での者よ常も心に具足着て」と、その行き過ぎを冷評したの ないと判れば、合法だからよろしいと、責任をすべて書類を知って、喝采を博し同意を得たと間違えてしまい放し、 痕 いよいよ以て武骨振舞いに精出し、いっか身について、謂 涙に背負わせて決定するようなことはしません。引取る先と しんにゆう 引取りにきた者とに重点を置き、証拠書類と人柄とで決定ってみれば掲げた我が看板の手前、年々歳々に定をかけ するのが普通。陀羅尼山財賀寺の住職のこのときの態度がて武骨振舞い、とこうなったのに妻がまた、その頃の女子 わきま
続いて夫婦どちらも江戸人だと、生粋の江戸ッ子だとした と若党の柿田源助が、「行ってご覧なされませい」と、 ものだった。そうした定義をもし容れるなら勘一郎は、そ いう眼つきを勘一郎にしてみせた。 ろそろ生粋の江戸ッ子に、ぐッと近くなっている児だっ 「源助、見せてやってくれ」 た。勘兵衛の妻は五代続いた江戸の大商人の娘だったか 勘兵衛がいうを待ちかね、勘一郎は一礼して座を起っら、かたちと行儀は南部侍の、あつばれ妻とみえたが、白 い皮膚の下には、謂うところの、チャキチャキの江戸ッ子 車に芸の諸道具を積んだ太神楽は五人づれで、黒紋付での血が、おとなしく納り返っていた、と、当のご新造の加 吾妻からげ、首に赤手拭を巻いた太夫を中心に、面白おか乃が知らなかったればこそ、勘一郎をして旅先の茶屋女 に、母を仮託して偲ぶいじらしさをさせるようなことにな しく次々に曲芸をやって見せ、人垣つくる諸方から、投げ つ、 ) 0 銭のハナが雨と注いでいた。 勘一郎には、母に似たところがたった一ツだけの女で前にもちょッといった世の形勢ただならす、三百年近い 泰平にヒビがはいったとみて、南部藩でも藩主の家族の国 も、恋しゅうてならない、今し方の心が消えていた。 許引揚げが行われ、その仕度役の一人に当った勘兵衛が、 小山を出立するとき勘一郎を、鉄造と源助と二人の若党同僚とともども、昼夜をわかたぬ奔走の間に、加乃の血の 中にあるチャキチャキの江戸ッ子が、くすぶりかけたやさ が、太神楽見物を思い切らせるのに骨を折った。 きに、実家の日本橋橘町呉服太物問屋の武蔵屋平左衛門夫 婦と、その親類との間に共通した、謂うところのチャキチ 戸来勘兵衛は南部盛岡藩二十万石の南部家の士で、曾祖ヤキの江戸ッ子なるものの偏狭が出た。「お加乃さんを金 父のときから、四代続いて江戸詰だったので、お国言葉ものべココなんて変梃リンな唄をうたう国へやる気か武蔵屋 つかえば遣え、くだけた宴席では金のべココ ( 牛 ) に手綱コさん」というもあれば、「一年のうち半年は一丈も二丈も つけてとうたいもするが、言葉でも好みでもすツかり江積った雪の下でくらす国だといし 、ますよ武蔵屋さん、そん なところへ加乃ちゃんをやってご覧なさい、女一人わざわ 戸、だれが眼にも江戸が地で、南部鍍金にみえたものの、 正体はそのあべこべで、本来はやはり南部、江戸は付け味ざ死ぬために凍らせにやるようなものですよ」というもあ だった。そうした勘兵衛の生母は江戸のものだった。三代る。そう聞かされるまでもなく平左衛門夫婦は、別して女 ・カ」 学 ) 0
は、「もうお客さんじゃ、俺達は出船まで忙しいからこのがいった。 部屋はカラじゃ、ここで飯食うて客部屋へ行くのじゃな」 門付をして歩き歩きしているうちに、柏崎で女房が風邪 と、船頭がいいながら起っと、脇船頭が若い衆を呼び、 をひいたのがこじれ、半月寝ついた間に、稼ぎはとまる、 「新客さん二人じゃ、 かしぎにいうて飯もって来てやれや銭はかかる、江戸以来、大切にした三味線を売る前の晩 い」と出て行った。 は、亭主が夏の野草の花を捧げ、女房は寝たまま手を合 糸魚川の荷役の間中、船頭部屋にいたお蝶は、金三郎とせ、今までご苦労さま、こん度はもッと仕合せな人のと お為の身の上ばなしをざッと聞いた。男は江戸でちょッと ころへ行っておくれ、済まなかったご免なさいと挨拶し、 した商家を遊び潰した果ての旅渡りの芸人、といっても、 その翌日売ってしまった。その銭で女房の全快までどうや これと纒まった売り物になるほどのものはなく、唄はやら賄ったが、 溜りに溜った屋根代、薪代、鍋釜の損料、そ し、茶番手踊、落し噺講釈、手品の後見も口上もやった、 んなものを値引きをして貰って払い、二十五日いた安宿を 付をしたいに も三味線がなくて出来 近ごろの身すぎは、女房に三味線をひかせ、江戸唄をうた出ることは出たが、門 って目」寸、、、 とうかすると女房にうたわせ、街の四ッ辻、人ず、といって何をする智恵も銭もなく、縁起直しにどっか 家の軒下、縁日祭礼の日などは、草鞋の足で踊ってみせて違った土地へ行く気になったが、この暑さに、日に照らさ 銭にした。女は商家を遊びつぶす役に立った江戸のどこかれ汗を絞り、夜は野宿で食うや食わずでなく、食わず食わ の岡場所で、好いたらしいねえとか、イケ好かねえのうとずの旅では、女房が死んでしまう、となって、ふいと考え かいっていた勤めあがり、とそれとはいわないが話がそう ついたのが、海路をゆく船へもぐることだった。天の与え だった。旅へ出て六年、亭主は三十四歳で女房は二十八か、金三郎が狡いのが利いたのか、柏崎から道のりに損を 歳、花の都を逃げ出した頃の二人は、どちらも色が白く、 してあら浜へ出て、はしけ船へ胡麻化し乗りが出来たばか なり もとぶね 肉のりがもッとよく、服装も持物も気が利いたものだった りか、本船へついてからも、七、八人の客に紛れてあがっ ろう、とお蝶は察して、二人が飯にかぶりつくのを眺めてしまい、その後は荷物の陰へもぐった、というのだっ お蝶はほろりと白い頬に涙をはしらせ、「お二人さん、 お蝶が「どうして船へ乗ったの、船が好き」と聞くと、 しいえ、そう聞くのじゃなかった、 今の身の上が辛いの、 二人の返辞は、とんでもない、船は怖いのだった。「じゃ どうして船旅へ出たの」と聞くと、こういうわけだと二人旅へ出て二人でする苦労が辛く、江戸を飛び出したのを後
せぬ、なぜですか」 眼に涙を湛えた勘一郎の出いに / 。目ド 正月の行事がほとんど皆ちがうのに、心づいた児の尋ねかった。 月ごとに行事のどれも、江戸と違う一年を過して勘一郎 「お国では江戸と違い、元旦より七草までを大正月とい は、もはや、父に「母さまは」といわなくなった。人々が もちあい い、八日から十三日までを餅間という、十四日から二十日寝ている児を起すように、「そこ許の母御はお国へまいる までを小正月というて、江戸のように十日正月、二十日正が厭というて江一尸にござる、最早そこ許の母御とはいわれ って聞かせた。そ 月などというはない。江戸とお国の違いは餅にも雑煮にもぬ、他家の人と相成られている」と、い ふせ ある」 の親切が、勘一郎を病名の知れぬ病いの床に、長いこと臥 らせた。 二月が来て久しく雪に隠されていた地肌が出て、黒い土 に草が芽ぐむのを見て、だれもの顔が笑っているころ、勘国の言葉にも気候にも習俗にも慣れた勘一郎が、八歳の 一郎は父に尋ねた。 春、藩命で京都に上った父が、遺髪だけになって帰ったの 「母さまはまだお着きになりませぬか」 は九歳の秋長けてからだった。父の兄夫婦と妹夫婦から、 「まだまだ」 「そちの父はあつばれな最期をとげた」と聞かされた。父 「道のりが遠いので、お手間がとれるのですか」 を悪くいう者もあった、褒める者もあった。 「うむ、左様か知れぬ」 小さな勘一郎の眼はいつも涙を湛えているかに見えた。 叔父夫婦に引取られ養育をうけているうちに、明治戊辰 桃も桜も一時に咲く雪国の春は勘一郎を喜ばせた。 戦争が盛岡にも及んで、日ごとに城下を出てゆく藩兵の隊 端午の節句の夏がきて、ちまきはあれど柏餅のない盛岡が、暑い日に照りつけられて続いた。叔父も武装して雨っ 経は、侍小路と町方に五月幟が立ったが、城には幟を立てぬづきの或る日、玄関で家族に別れを告げ、門前で鹿毛の馬 写古い仕来たりが残っていた。 に跨り、わが家を振返りもせず行ってしまった。伯父もそ 血 の日、陣営へ行ってしまった。 雪もよいの暗い空の日がつづくころ。 芳しくない戦況が伝わり、やがて盛岡が帰順降伏して、 「母さまは」 見慣れぬ服装の兵を率いて隊長が、幾人も幾人も、城下に
願寺に一団の壮士が泊っていることは幕府側の眼につかずの仕度中、ここに宿泊しております。この寺は千葉家の江 戸菩提寺ですから、はあ」 最初にやってきたものは市中警衛の新徴組という、浪人「して幾日まで当寺に滞留ですか」 をあつめて編成した幕府の急設隊である。 「旅費が、調達できぬうちは、何十日でも滞留しますか 新徴組の半隊長らしいのが、庫裡へきて塾生の一人に向ら、あらかじめ宿泊の日数はわかりません」 「はあなるほど」 「あんた方は一体どういう方ですか」 玄武館騒動の噂は高い。新徴組の半隊長も耳にしている 居合せたのは小森八郎である。 ので、さてはそうかと疑わず、隊士十数名を率いて、こと 「門前に明記してあるのをご覧になりましたか」 なく去った。 江戸人の鼻ッばりの強さで食ってかかった。 新徴組は簡単に得心して去ったが、その後やってきたも 「いや、拝見しなかった」 のは江戸警備の命をうけた大岡兵庫頭 ( 忠恕 ) の手の者で 「大きく書いてありますが、お目にとまりませんでしたある。大岡兵庫頭は武州岩槻二万三千石の大名で、辛辣に おこな か。では、諳記しているから申上げます、北辰一刀流開祖取締りを行っていた。 故千葉周作成政門人真田範之助以下五十名宿、こう書いて ちょうどそのとき、駄馬が一頭、誓願寺の門前へ曳いて かます あります」 こられ、背につけている叺二ツを下しているところであっ 「はほう。玄武館の方々ですか、して、何としてここに宿た。その傍に出てきていた真田範之助が、六人の塾生に 泊なさる」 「あちらへ搬んでくれ」 「へええ、噂が拡まっているのをお聞き及びではありませ と、命じた。そこへッカッカと寄ってきたのが平林某、 んか。北辰一刀流宗家、二代千葉栄次郎先生の歿後、三代大岡兵庫頭の家士で、七、八人の足軽を率いている。 を継がれたのは栄次郎先生のご総領。しかるに血縁のうち「失礼ご免蒙る。拙者は岩槻藩の者です。この叺の中は何 に玄武館乗取りを企てたものが出ましたので、塾頭真田範ですか」 そでじるし ただ 之助先生その他諸先生がご相談の上、江戸の北辰一刀流と と、袖印を示して聞き糺した。野州大平山に浪人が集っ は別に、故大先生の故郷奥州へくだり、流儀の正統直流をた、いや常陸の筑波山だそうだと、噂の飛び交うときだっ のこし、他日改めて江戸へのばることに相成り、奥州下向たので、火薬ではないかと疑ったのである。
174 八郎はやッと目がさめた。八郎を入れて階上組二十三人 の塾生が、一斉に起ちあがって、蒲団を戸棚へ投げこみに カカた。ここでは、一つい、つ時 - にも一口である。もした れかが何かいうと、たれかが「叱ツ」と制して黙らせる。 今は何をいう者なく、制するものもない。 これは神田お玉ケ池の北辰一刀流の道場で、俗に、一町 四方の道場といわれた玄武館、その二階の塾生部屋であ る。だだッ広くして一点の装飾なく、天井板と壁と畳とが ほとんど眼につかぬようなところで、黙って今動いている のは諸国からきて入門している剣道修行の若者ばかりであ る。 塾生の一人である小森八郎は二十四歳、江戸人だった。 夜半会議 呼びさましに来た人は大部屋の一隅に、手燭をささげて 突ッたっている。塾生達は顔をみないでも知っていた。上 かいぼはんべい 暑い江戸の六月も、夜中はさすがにいくらか涼しくな州安中の出身だという玄武館四天王の一員で海保半平だ。 る。 海保は袴をつけ、大小刀を帯している。 「起きろ塾生。階上組の塾生は総体起きろ」 八郎は江戸人の素早さで、蒲団を畳んで戸棚へ投げこむ 暑い暑いで寝つかれずにいた小森八郎は、やッとのことついでに、ちらりと見た。海保はひどく緊張していた。ど でぐッすり寝込んだところを、寝耳に水ならで、寝耳に鋭うも尋常でない。 い声で起され、ばちりと眼をあいたが、半分はまだ眠って灯は海保のささげている手燭だけで、その灯が、窓をあ またた けッ放しの二階へ吹き入る夜風で、瞬きが激しく、明るさ なび と、又、 か風に靡いて時に暗く時に明る、 「一大事につき申渡すことがある、塾生残らず起き出で座海保は無表情だ、眼だけが輝いている。 に就け」 「枕が残っているツ」 玄武館の人々