あンぐり開いたので客は又々わッわッといった。くそッと橋までくる間に、客の話のきれぎれが、どうやら仲蔵の定 思ったとき、チョボの「猪より先へいっさんに飛ぶが」九郎を褒めているらしい、おやッと思い聞き耳を立て、聞 で、勘平が財布の紐を切ると仲蔵は猿返りという″の〃のけば聞くほど確かにそうだ。それでは悪褒めと思った見物 形で返って見せ、チョボの「ごとくに」で、幕になるまでのあのどッという声はふき出したのではなかったか、だっ たら大坂へ逃げるにも及ばねえかしら、と佇んでいるうち 客はどッどッと打返し打返した。 、芝居の客はあとからあとから続き、耳にはいるは定九 湯殿で体を洗い部屋へ帰ったが、行きあうもの佇む者は いくらもいたが、一人として口をきくものがないのは、見郎の評判のよさ。 そのうちに人通りが絶えた。 物ばかりか楽屋のものまで、俺には口一ッきかねえのだ、 あの評判では満更でもねえらしい、それなら何も帆をか 仲蔵もこれまでで役者は終りかと思うと、こんな時こそ血 つづきのない身が悲しいと、居耐らなくなって芝居小屋をける ( 尻に ) には及ばねえ、涙をこばして別れをつげたおき しに面目ねえが、家へかえろうとこッそりと引返した。 飛び出した。 おきし、凝っては思案に能わずと、きようつくづくわか住吉町のわが家の前に提灯をもった人が近づき、格子を った、苦心はしたがやり損い、客という客は俺のするいちあけたのをうしろから見定めると、師匠伝九郎の使いだっ 勝手へ いちにふき出して受付けねえ、こっちはそのかわり思いったので、それなら安心とはいろうとすると女房が、 いたことは残らずやったから心残りはねえ、日が暮れたら廻れと合図した。心得たと勝手口からそッとはいり、家に よそお 俺は逃げて大坂へゆく、あっちから迎えを必ず寄越すからいたように扮って出で、今お参りにいって帰ったばかり それまで我慢して待っていてくれ、苦労を又させる、堪忍さ、旦那のお迎いならすぐに一緒にゆきますよ、おきし羽 してくれと女房にいうと、おきしは涙ぐみながらも、芸の織を出せ、と芝居をした。 師匠の家では待ちに待っていた様子、ことに師匠夫婦 ことで江戸を売るのは他のことで駈落ちするのではなし、 肩はたとえすばめて江戸を出ても心まですばめないで道中は、仲蔵がその眼でみるまで夢にも知らなかった喜び方 してくださいと、旅仕度を急ぎ、心ばかりの別れの盃を交で、きようの大手柄は昼のうちから聞いていたが、じつに ひとふり わし、小風呂敷包が一ツに道中差が一口、笠を片手に草履市中の評判一方でない、弟子の手柄は師匠の面目、出かし たぞ出かしたぞと伝九郎は眼にうっすり涙を浮べ、これは を穿いた仲蔵が裏から出て、葭町へかかり親仁橋を渡り、 中村座打出しの客の帰りの人の波にまじり、四日市の江戸ご身分あるお方からのいただき物、お前に譲ると脇差を
が乗るもんか、しい加減なこといって銭貰いに来たのだろ ましよ、つが、じつはおかよか」 う、日本橋の何とかという奴は、親が死んだと嘘をついて 「おかよが何んだ、あんな娘は親でもなければ子でもな のた こうでん い。野倒れ死にをしようとしまいとこっちの知ったことじ香奠を騙りとったとさ、十日ばかりの前のことだ、お前 ゃない。さあさあ行っとくれ、そのザマは何んだい。食うも、大方、その手だろう」 「そう取られたんじゃあ、いくらいっても本当にしねえだ や食わずのその日稼ぎの安職人、自業自得だーーー何んだい その目は、怨むとでもいうのか、怨むのはこっちの方だ。 ろう。おやかましゅうございました。それでは旦那、さよ 、つなら」 お前、ここへ厭がらせにやって来たんじゃあるまいね」 「すみません、けっしてそんな」 粘って粘って粘り抜き、相手に合点させるということは おとな 「そんなら温しく帰ったらいいだろう」 忠吉に出来ない、かえってむかッ腹をたてて、本所菊川町 「帰ります、帰りますが、どうか一言だけ聞いてくださの家へ帰って来たのが夜だった。 し」 「お隣りのおかみさん、只今。どうもすみませんでした」 「聞きませんよ、厭だよ、お前のいうことなんぞ聞くもん「お帰んなさい」 か。おいおい、家へ変な奴が文句をいいに来た、みんな出「留さんはまだですかい」 ておくれ」 「夜業があるんでまだなんですよ。お宅の子供衆は二人と もよく寝ているから、もう少し預かっときますよ」 「旦那旦那、そりゃああんまりだ、人を呼ぶなら呼ぶがい ゆすり し弓請かたりに来たのじゃねえ、知らせなけりゃならね「毎度相済みません」 えことがあってやって来たのだ。なんば俺が憎くっても、 重たい気持で家へはいった忠吉が、 そうまでしなくても いいだろう、帰りますよ、ああ帰ると 「おかよ、どうだ具合は」 も、いろといったっているもんけえ、もしかして、おかよ 「お帰んなさい。あっちはどうでした」 「、い配しなくてもいいよ」 忠が死んでも知らせねえからその気でいてくれ」 竿 「おとっさん、達者でしたか」 「何んだと、おかよが死ぬほど病ってでもいるのか」 人 名「聞きてえのかね。可哀そうにおかよは病っています、貧「うむ、ひどく達者だった、ちいッと、達者過ぎるくらい 達者さ」 乏だもんだから医者にもかけられねえで」 「おやおや、そろそろ奥の手を出すのか。そんな手にだれ「おっかさんは」
212 「岡村、おい岡村」 「そうか。本陣へいったらよろしく云ってくれ、味方のも 。し」 のにのう。われわれは確りやりますから、あんた方もどう ぞ確りやってくださいとのう、 . し . し、刀」 「ここだ、お前のうしろだ」 「心得た」 。し」 本陣は千手村をもッと南へいった摂田屋村に設けられて きりッとした色の浅黒い眼の鋭い武士が、黒い軍服に錦 あった。どンどン歩いてゆく滝左衛門は、今の人々に伝言の陣羽織を着て、白縮緬の帯を締め、黒鞘の大刀を横た すれば滝七に届くとは、夢にも知らなかった。滝七は本陣え、微笑してうしろに立っていた。髪は切り下げだった。 に到着すると間もなく、草生津村へ帰る伝令があって、三「隊長殿ですか。わたくしは岡村滝七です。昨夜遅く着き 人の大人の戦士とともに、それに付いて大砲隊長波多野伝ました。寝てよろしいと仰有った方がありましたから、寝 三郎の許へ、ふた刻ほど後に、父が通ってきたのと同じ道てしまいました」 はにか を、おなじように松明を振り照らして通った。 と羞恥んで頬を赧く染めていった。 「うン、うン、うン。それで良いのだ。俺は波多野伝三郎 だ。岡村は幾ツだね」 父の眼 「十三歳でござります」 何もいわずに見つめている波多野の眼が、ゆうべ父が時 夜遅く草生津村の陣地へ着いた十三歳の岡村滝七は、そどきおなじ眼をして見つめたのを思い出させた。 の晩は、大人の戦士の親切な間にはさまり、着のみ着のま 「そうか十三歳だったか。岡村」 ま寝た。気疲れがあるので存外早く睡りつき、軽い鼾をた てている夜明け方、人々の騒ぐ声に夢をやぶられた。 「顔を洗って、それから飯を食え。飯がすんで暫くしたら もう少し寝かしておいてやれよ」 「可哀そうに、 俺のいるところへこい」 という声がした。父の声でもなし、母でもない、聞き慣「はい しも・ヘ れた僕の声でもないので、だれかしらと眼をあくと、草生「お前、気がついているのだろうね、あの音に」 津の陣地へ、ゆうべ来たのだと気がついた。滝七は小さい 。し街えております。大砲の音でございましように 軅をむくむくと起きあがった。 「そう大砲だ。あの音が怖くないかね」 しつか
は、「もうお客さんじゃ、俺達は出船まで忙しいからこのがいった。 部屋はカラじゃ、ここで飯食うて客部屋へ行くのじゃな」 門付をして歩き歩きしているうちに、柏崎で女房が風邪 と、船頭がいいながら起っと、脇船頭が若い衆を呼び、 をひいたのがこじれ、半月寝ついた間に、稼ぎはとまる、 「新客さん二人じゃ、 かしぎにいうて飯もって来てやれや銭はかかる、江戸以来、大切にした三味線を売る前の晩 い」と出て行った。 は、亭主が夏の野草の花を捧げ、女房は寝たまま手を合 糸魚川の荷役の間中、船頭部屋にいたお蝶は、金三郎とせ、今までご苦労さま、こん度はもッと仕合せな人のと お為の身の上ばなしをざッと聞いた。男は江戸でちょッと ころへ行っておくれ、済まなかったご免なさいと挨拶し、 した商家を遊び潰した果ての旅渡りの芸人、といっても、 その翌日売ってしまった。その銭で女房の全快までどうや これと纒まった売り物になるほどのものはなく、唄はやら賄ったが、 溜りに溜った屋根代、薪代、鍋釜の損料、そ し、茶番手踊、落し噺講釈、手品の後見も口上もやった、 んなものを値引きをして貰って払い、二十五日いた安宿を 付をしたいに も三味線がなくて出来 近ごろの身すぎは、女房に三味線をひかせ、江戸唄をうた出ることは出たが、門 って目」寸、、、 とうかすると女房にうたわせ、街の四ッ辻、人ず、といって何をする智恵も銭もなく、縁起直しにどっか 家の軒下、縁日祭礼の日などは、草鞋の足で踊ってみせて違った土地へ行く気になったが、この暑さに、日に照らさ 銭にした。女は商家を遊びつぶす役に立った江戸のどこかれ汗を絞り、夜は野宿で食うや食わずでなく、食わず食わ の岡場所で、好いたらしいねえとか、イケ好かねえのうとずの旅では、女房が死んでしまう、となって、ふいと考え かいっていた勤めあがり、とそれとはいわないが話がそう ついたのが、海路をゆく船へもぐることだった。天の与え だった。旅へ出て六年、亭主は三十四歳で女房は二十八か、金三郎が狡いのが利いたのか、柏崎から道のりに損を 歳、花の都を逃げ出した頃の二人は、どちらも色が白く、 してあら浜へ出て、はしけ船へ胡麻化し乗りが出来たばか なり もとぶね 肉のりがもッとよく、服装も持物も気が利いたものだった りか、本船へついてからも、七、八人の客に紛れてあがっ ろう、とお蝶は察して、二人が飯にかぶりつくのを眺めてしまい、その後は荷物の陰へもぐった、というのだっ お蝶はほろりと白い頬に涙をはしらせ、「お二人さん、 お蝶が「どうして船へ乗ったの、船が好き」と聞くと、 しいえ、そう聞くのじゃなかった、 今の身の上が辛いの、 二人の返辞は、とんでもない、船は怖いのだった。「じゃ どうして船旅へ出たの」と聞くと、こういうわけだと二人旅へ出て二人でする苦労が辛く、江戸を飛び出したのを後
なり 服装をした女がちょいちょい遊びにきた、噂ではそれが婆が今し方見たあの女の物だった。 さんの娘でこの頃いい旦那をめつけた洋妾だそうだ。くノ やがて女は団扇をとって坐った、顔の道具がいかにもば 一は洋妾と聞いてまだ姿を見たことのないその女が嫌いだらりとした、活気と明瞭さをくつきりさせた二十二、三の 女だった。 むか くノ一は自分の趣味が、こんな女に対って行くのをはじ 日盛りは、さすがに雑沓する例の長い一本筋の町も、人めて気がついた。 まれ しよきあた かか の姿がごく稀だった、暑気中りに罹ったような淋しい町に それから以来、彼奴の裏の婆さんの家に、洋妾娘の笑い ギラギラ焦げつくような強い日の光、くノ一はそれが嫌い声のするのを待つようになった。 だったから日中は塒で寝そべっていた、片陰が出来ると彼 奴はきまって銭湯へ行った。 白人掏摸が死んだことを知ったのは、その洋妾娘の口か らだった。 或る日くノ一は銭湯の帰りに、烈しい色調の洋傘を見「あの男はメリケンですわ。本名は知りませんけど・ハプと た、洋傘のかしいでいるその下からは女の姿が半分見えて いっていました。船の床屋さんでしよう、そんなことをだ いた、その姿はくノ一のまだ知らなかった色彩からなったれかに聞いていましたーーーあの男はここの港で下船する 日本のきものだった、彼奴は一足ずつに小返りをする女の時、友達がみんなしてとめたのです、お前きっと不幸にな うすもの 裾に、白い羅が奇妙なひだを漣のように見せるのに心惹るから海をすてるなと、ですけどあの男は肯かないで下船 かれた。 しました、女があったからでしよう、ですから・ハプは幸福 彼奴はそれから間もなく、自分の塒からふと見た裏二でこそあれ、けっして不幸になりはしないと思っていたの 階、この間引越してきた婆さんの家に噂の娘の声らしいのでしようね。友達よりは女の方が好きだったでしようし、 を聞いた、見るともなく眼がそっちへ行った、時に、くノ女は自分に親切だと信じていたのでしよう。・ハプは町に 一はまた見慣れない物をみた、それは、後で知ったところ家を借りて女と一緒にいたのです、二月ほどたった頃から によるとシミと通称されている白い羅だった、シミは女の ・ハプはお金がだんだん少くなって行くので心細くなって、 つやつや むきだ 艶々した肩と腕と胸とを露出しにさせて、乳房のところか吝ン坊になったそうです、よく女と喧嘩をしたそうです、 ら裾へ、その雪白な地質を垂れていた、シミの裾はくノ一 ・ハプは女に金が少くなってきたことを打明けるのが怖かっ ラシャめん パラソル うちわ
背広服を着て皺だらけのズボンをはいているその男は、歩を前へのしてきいた。 「まださ、まだ逢やしないのさ」 きっきで判断がついた、海で永らく生活していたものに違 くノ一は平易に答えながら眼の焦点をあらためなかっ いなかった、古い型の黒い高帽子が頭の上に不釣合にのつ * 、と た、こうされて覚れない同類というものはあるものではな ていた。 、すが金は異人夫婦とそれを狙っている ? マドロスと 幾百幾千の人が、夜のこの町を悦んで歩いている声と音 を直ぐ見出した。 とは一つにあつまり、無意味な響きになって沸き返ってい た、それは人の臭さに充満した雑沓には、いかにも似合わ「そうそう、この間の物、あれは譲って頂きますよ」 とすが金はだしぬけに交渉を開いた。この間の物とは勿 しい騒がしさだった。 そのうちでくノ一は自分を起点として、三つのものが論このマドロス風の白人掏摸を指しているのだった。 山手の紳士夫婦それから舶来巾着切その次は日本巾着「すみませんけど一つそう願います、いずれお礼にはあが 切くノ一ーー一線を歩いているのを、遠くから近くへ、つりますけど、じゃあさようなら」 いにおのれへと興味深く眺めた。彼奴の眼に外のものはも返事も待たずに素早いすが金は、人混みを利用して紳士 夫婦よりも先へ出ようとするらしかった。 う映らなかった。 「いけないよ、あれは譲れないよ」 さあ ! 白か黄か、運の目を盛りつけたさいころは投げ くノ一の交渉否定を半ば聞きながらすが金は重ねていっ られようとしている、彼奴は興奮して来た、勝負 ! と大 きな声でいってみたかった。 「でしようけど、あれだけは是非、とにかく明日伺いま 「今晩は」 なれなれ 片脇から馴々しく声をかけた奴があった、くノ一はじっす」 勝手にしやがれとくノ一は田 5 った。お先っ走りのすが金 と前方を見てからそ奴の方を漸く振向いた。 むぎわら の麦稈帽子がもう見えなかった。 「やあ、君か」 くノ一の目は再び前方に向った、歩みは止めなかった。 ◇ 「どうです、この間の話の人にお逢いでしたか。まだ ? 、、、ねぐら くノ一の塒は、賑かなあの町から二つ目の通り煙草屋の え、まだですか」 と、ひょっこり現れてきたすが金が、ついてきながら項二階の六畳だった、ひとり者ではあり身綺麗に気の利いた ) 0
かみ おやじゅく 三年三月品川の相模屋で上を張り通した親宿の遊女には惜 しがられた女、小股の切れあがったあの女、世帯もちは良 かあないぜと陰口をされたが、さて痩世帯をはってみると しよう 噂と正とは大違い、巾着切の女房にはあッたらものだと長 屋中で評判、女がよくて如才なく、親切で気丈「芳さんも あの商売とは思えない美しいところのある人なンだと、夫 婦ともに、惜しがられながら他人のものをものしてくらす おおや 巾着切が、家主さまにまで気うけがいい、 というのだから 余ッばどへン。 かた 両親が亡くなった甥の三吉を引きとって横山町へ堅気の 奉公、芳蔵とお杉とさしで食べるタ飯の膳に向う前での話 にも「なあお杉、あの三の奴だけは白い人間にしてえよ、 江戸でいう巾着切、上方ではチボ、その筋ではモサと符俺あこンな職人になってしま 0 たが、せめてあ奴あ角帯を 牒でよぶ、いずれにしても練磨の技、小手先の器用さ、勿しめさせておきてえのさ」「はんとだねえ、あの子は利発 わざ 論間抜けでは出来ない業、といって利口がすることでは勿だからねえ」「それを俺あ気にしているのさ、手前のこと 論ない、近頃西洋の物語にルバンなどという人物、江戸のをいうじゃねえが、俺あ餓鬼の時分にやッばり利発さ、ど 巾着切のような器用さで、読者を煙にまくと聞いているうやらあ奴が俺に似ているので心配でならねえ」といって つじうら が、万が一にも自慢していいものならばルバンなどは付焼 いたのが辻占、主人から帰されてきた三吉は使いに出て棒 しばぶしよしぞう 刃、ここにお話する芝節の芳蔵のごときは古今に稀な早業先はきる、銭箱へチャリンと投げ込む銭を手のうちで二、 しり 切の達人、それでいて男ツ振りが江戸前で気質がさらりとし三枚チョロリと胡麻化す始末、いちいちに尻がわれて世話 巾 ている、綽名の芝節とはひとしきり流行った、喧嘩調子とした人が渋面つくり「困りました、よく意見をしてやりな どどいっ 名いういなツこい都々逸の唄いツ振り、その名人というのださるがいい」と置いて行くが否や芳蔵は「奴ふざけやが 0 てあら から鬼に金棒蓮ッ葉な女の子が血道をあげそうな人間であてこの碌でなしめ」と引っとらえてポカリポカリ「手荒な る、しかし芳蔵にはれのお安くない女房お杉がある、 ことをおしでない」と縋るお杉を振りとばし「ええ手前は 名人巾着切 わざ まれ つき やっこ
くノ一はその翌日から方針をあらため、廓の外へ網を張 が、よそながらにしろ、行って見て、どんな人柄の女だっ たかをきわめる気はすこしもなかった。けれどもその町のりはじめた、この間の様子ではあの異人客は、東雲のメレ 名、女の名は覚えておく用もないのに忘れなかった。それ ーによほど惚れているーーーと思、フとくノ一は腹が立ってき がなぜだかは気がっかない、 といって恋でもないのは明白た、たとえ千万里の遠くからきた異国の男でも、客である した、が、それ限りは、れてこそ通うはずなのはわかっていながら、や だ。なるほどくノ一は素肌で女をぐっと抱、 だから、あいつの は水の中のこと、どう間違ってもそれだけで、色も恋も起っぱりくノ一は面白くない気がした ろうはずはない。 持っている金を、捲きあげることは、痛快な気もちで出来 しかしくノ一は、東雲が与えた暗示によって、仕事をする仕事であった。 が、その獲物にぶつかった。しびれを切らせたくノ一 る気にはなっていなかった、ではあるが、あの現金をしこ おろか は、やがて自分の愚さを嗤うことに気がついた。この間の たま持っているという異人客に、興味を感じないわけでは ない、仕事をしない気になったのは、ただほんの感情が東晩ともかくも東雲の客になった体だから、頭からおはき物 雲の言葉に快くなかった、それだけの理由しかなかった。 を食うはずがない、だから客であがって様子を聞いてみよ う、一つには年上ながら可愛がるとよりも、何となく懐し 一体、くノ一が好んで撰む巾着切の獲物は、屈託のない 顔の持ちぬしか、賭場帰りか投機師めいた男か、でなけれさがさきにたっ東雲にも逢えるし、と、両天秤にかけて行 トリイハウスの白ペンキ塗りの棟の高 く気が萌した、で、 ば競馬帰りか芸者づれの大尽、客か、そんな種類の人にたい てい限られていた、その筆法からいえば現金をしこたま持い家の前へ立った。が、女には客があった、さてはあいっ っているあの異人なら、自在に働いてくれる白い指先を向来ているなと思った、しかしそれは違っていた。くノ一が けても、まんざら悪いとは思われなかった。 廓の中をひとめぐりしてきた時、東雲が送り出した客は、 かんぶきずなんきん よく支那街で見かける海岸通りの弁房の疵南京だった。顔 くノ一はそんな気がしてきたので、今夜、異人街へはい 切り込んだのだ。しかし、運がない、目ざしている異人に出に深く二条の疵痕がある五十近い肥満したその男は、金ば しゆくしゃ なれのいいのでは有名な支那人であった。 巾会わなかった。狭いようでも、広い世界を縮写したような 本 元居留地へ、ぶらりときて直ぐ見出すようなことは、よほ 「あれからどうして ? 」 ど珍しい偶然でない限りあるはずがない。 東雲の態度が先頃とはがらりと変ってきている、かりそ なっか
用か」 でいる人々に気がついて、腰を立てようとしたが立たなか っこ 0 3 「用なんかねえ、おととし通ったときいたから、今年もい るかと聞いたんだ。家は」 「おやあ」 「一一一一口伝けの親方の屋敷なら、あれだ」 二、三度やってやッと起ったが別に起たずとも見えるら 「あの白い壁の屋敷か、嘘つけこの野郎、旅の者だと思っ しいので、又腰を卸した。 て馬鹿にするな、馬方が大名になりはしめえし、あんな屋「もしもし、そこの人、どなた様がお通りですか」 敷に住むか」 さっきと違って、喜三郎のロのきき方がまともに変った ろれつ 「怒っているのか、厭なじいさんだ」 が、呂律がおかしいので、振返ってみた若い男は、何もい 「そうかよ、おおきに悪かったな」 わずに行ってしまった。喜三郎は又うつらうつらとなっ 喜三郎は白壁がかにみえる、田圃の向う二丁余りの屋 敷を望み、忌々しそうに唾をかッと吐 いた、五郎吉の野郎「和尚さま」 め、あの金をとうとう遣やがった、それでなくてあんな屋「はい、わしかな」 敷に納まれるものか、そんならあいつも俺もおんなじ盗人金鋲打った駕籠が一梃うしろから来るのは、小童と従僧 かち だ、ようし俺が三十年前の坊主に頼まれたからといって取と二人だけ供に、あかざの長い杖をついて徒歩でゆく八十 りにゆこう、四の五のいったら啖呵をきってくれる 歳余り、雪の眉毛、紫衣の高僧のものとみえる。 けねえ駄目だ、莫大な金とは持ったことがあるから知って「和尚さまは、三十一年前の辰年八月三日、舞坂までわし 、くらだといわれると返答が出来ねえから、化けの馬に乗ったことがござりましよう」 の皮がはげる、やッばり盗んだ方がいいか、今度は家が大というは頭が禿になった五郎吉だった。 きいから厄介だ、それにしてもこう酔いが、面にまで出た 「三十一年前のわしをご存じかな」 のでは仕方がねえ、一ト休みしてやるかと、道端の青面金「和尚さま、お立派におなりで、おめでとうござります」 剛の苔むした石の前、草の花の上に尻を据えたとき、不運「はいはい な蝶が一羽、尻の下で潰された。 「思い出しましたか、ほれ、忘れ物を」 いつの間にかうとうとして、眼がさめた喜三郎はそこら「忘れ物とは何じゃな」 の道端に、数珠をもった年寄りも混って、何のためか並ん「やれ、いまだに忘れておいでなさるのかね、ほれ、袱紗 学 ) 0
してはならないぞ、なかでも生意気野郎とは口一つきいて 俺のことを馬鹿だなんていやがった。陰ではどんなことい 0 ているか分るもんか」 もいけないーーー何んだと、生意気野郎とは誰だと。他にあ 「そんなこというはずはありませんわ、忠ちゃんはお父ッるか、辻岡の職人の中で大生意気の大馬鹿野郎は忠吉だ」 さんのことを褒めればって、悪口をいうわけないわ」 釜七から手の裏を返すように憎まれた忠吉は、おかよと 「この不孝者め。親の味方をしないで、馬鹿野郎の忠公のの仲もさかれ、一度、こッそり相談をと、お互いに思って いるもののそれも出来ず、このごろ忠吉は気抜けがしたよ 味方をするのか」 う、寝つかれない晩がすッと続い それを聞きつけておかよの母が飛んできて、 今夜もまた床の中で寝返りをあっちこっちと打っている 「まあまあ何んですね、奥でさんざんあたしに当りちらし うちに、外で鳴く虫の音カノ ; ・、ツタリ止み、トントン、遠慮 て、まだ文句がいいたりないんですか、おかよに当ったり して、おかよ、あっちへ行っといでーーーお仲、何をポンヤ深く戸を叩く音に起上がって窓傍へいった忠吉が、 「おかよちゃんか」 。、つ父ッさんの怒っているのを見ていたっ リ立っているのまノ そんな気がしてならないので、そッと声をかけると案の て仕様がない、早くあっちへおいで」 「何んだと、お父ッさんの怒っているのを見ていたって仕ごとく、 「忠ちゃんーー」 様がないとは、何んのことだ」 「泣いちゃいけねえ、こっちだって泣きてえのはおなじこ 「まあ、貴方、そう怒らないで、わけをおきかせなさい とだ。今そこへ行くから待っていなよ」 外へ出てみると着替えでも入れてあるらしい風呂敷包み 「これが怒らずにいられる奴は、本当の馬鹿野郎だ」 これこれだと話は飛び飛びながら、事柄がわずかなのでを一つ抱えて、夜中の星がきらめく下に、しょんばりおか すぐ判る、それを判らすにいるのは立腹に酔って判断がどよが立っていた。 「おかよちゃん、風呂敷包みを持ってどこへ行くんだい」 こかへ引ッこんだせいだ。 「おいおい、裏の通用口を釘づけにしてしまいな。何だ おかよはわッと泣きかけて袂を咬んで怺えている。若い と、どうしてですかだと。お前が俺にそんなことを聞いて忠吉は当惑してそれを眺めていた。駈落ちなそということ どうするんだ、奉公人は、主人の、 しいつけどおりしていれは十九歳の忠吉、まだ知らなかった。 ばいいんだ。それから、家の者は隣りの釣竿屋へ足ぶみを