門左衛門 - みる会図書館


検索対象: 長谷川伸全集〈第14巻〉
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1. 長谷川伸全集〈第14巻〉

いのであった。上野から二、三度、使いにきた民蔵の消息 松の調べの、尾上より、真如の月は、西の空、水は がない、それを、夫が生きている第一の証拠だと無理にも東に。 思いこんだ。夫は民蔵をつれて、この二月帰ってきたとき しかし、たかの唇は紫色に変っていました。船に強いの いではありませんでした。 にいった〃残念〃を、会津まで延ばして行って戦って る、そう思って、そう思いたいが今では、確かにそうだと なっているのでした。 たかはそうだったが、恥も外聞もなくなって、死人のよ 〃お泊りさん〃と土地の者から呼ばれる。無禄移住のく ゆすり うな顔で、四斗樽に、よろばいよろばい、 辿りゆく女の姿らしの酸鼻さから、気力の足りないものは盗み請に堕 があります。たかはそのたびに眼を伏せました、耳を掩うち、飛び抜けて気の強いものは一家揃って餓死を遂げまし た。門左衛門一家は浅端村という処で農家の物置小屋を借 ことも忘れなかったが、浅間しい音が、頭の芯に響いてく りうけ、改造主任は甚兵衛、助手は門左衛門夫婦とたか、 る気がしました。 けたたま 浦賀を越えたころでもあろうか、人混みの向うに、消魂主従四人の手づくりで、どうやらこうやら、差しかけ三尺 しい声が起って、 の物置代用の場所も出来ました。甚兵衛は日雇取りに出 る、門左衛門夫婦は茶袋貼り、たかは針仕事刺繍洗濯、出 「一れツ、これツ」 と、叱る声と、張り裂けるような女の声がしました。 来ることなら何でもやり、活きる力を互いに鼓吹し合って います。 「旦那様、脇差を脇差を。自害いたします」 会津若松が開城になったと聞いて、舅も姑もたかも、門 「これツ、これツ」 門左衛門は耳を掩いたそうな顔をしたが、嫁に気がつく太郎は蝦夷へ行って五稜郭に籠って戦っている、と、きめ と、両手を膝に置いてかすかながら、頭を下げた。脇差をた。その五稜郭が開城になった、降伏人は人牢を申付けら のください自害するという嫁と、わが家の嫁を比べて、誇っれ、やがて、赦免になったと聞いて、門左衛門夫婦に生色 が出てきました。門太郎は今度帰ってきて何というだろ ていいような、安心なような、気がしたのでした。 そうな う、又、残念というか、そうであるまい、と、いい 明たかは姑を膝の上に抱いて、ちょうど、耳許にロがし ている、先ほどからつづけているとみえ、琴唄が中音に聞のを門左衛門の眼を半分閉じて思い耽る顔に見ることが出 えています。 来ました、しかし、門太郎は帰ってきませんでした。 っ

2. 長谷川伸全集〈第14巻〉

に、くずれるごとく坐りました。泣き伏すことだろうと木又いいました。 「門太郎はやはり、 の、フ」 田は、見るに耐えず脇見をしたその眼に映ったのは、放、い おなじことを繰返しています。一家三人は、本田を除け した老夫婦が身動きもぜず坐って、二人、別々の世界にい るごとくなる姿でした、木田は慌てて老夫婦から眼を板壁者にしたごとく、線香を次から次へ、しかし、手間取りつ つあげています。物置屋敷がみるみるタ雲の中にいるよう に向けました、板壁には少年時代に門太郎が書いたらしい になりました。 〃天地玄黄〃と「千字文」冒頭の四文字が、無心の筆法で 書かれたのが貼ってありました。 ばうッと家の中が明るくなった、たかが仏前に燈明をあ げたのです。細く煙が立って淡く鼻が噎せてきた、たかが下谷の旧御成道の旅宿加賀屋から出た、老夫婦と三十四、 五歳の女があります。老人は門左衛門で老いいなび、瞼が 線香をあげたのです。 木田はうしろ襟へ手をやりました、辞して去るべき機会垂れさがっているので眼が小さくみえる、黒本綿の紋付に を失った気がして、さりとて、ここにこのうえいることも嘉平次袴、足許が悪いせいか、深ゴムの靴をはき、あかざ の等身の杖をついています。妻みをは、飛脚船に乗りこん 辛いと思うのでした。 だあの頃からみると、一段と、小さく縮んでいます。二人 たかが仏壇の前でわッと泣きかけました、木田はいよい よ困って下を向いた、そうするより他に遣り方がない気がとも、しかし年のわりに健かです。三十四、五の女はたか てづかね でした、手東の髪に何の飾りもなく、着ているものも手織 して、と、たかの泣声が急に消えた。はツとして見ると、 泣声を抑えるために袂でも咬んでいるのでしよう、たかがの布を鼠がかった色に染めた紋服で、帯は黒繻子。明治元 なよなよ ひれ伏していて、平たくなったうしろからの姿が波をひど年ごろのように、深窓の佳人のもつ、顔の白さ、姿の嫋々 が跡形なく消えて今は、色の白い生れつきに健康がさせる く打っています。 の 血のめぐりが、活々とした女人にしている。遠くこの三人 門左衛門は老妻と、扶けあって、仏壇の前へ歩いてい を見たものは、田舎士族のおのばりさんとのみ見たでしょ にた。荒れた畳に立っ音が、夜中に聞く足音のように高い う、近くなるとたかの美しさに眼を見張ったでしよう。も 叮「たかーー門太郎はやはり」 っとも、美しいという標準が些か違う。 と、門左衛門が八百石の旗下でなかったように、昔から 上野の森はそのころ、春の花どきといいながら桜どころ の浅端村の老人のように、くたくたと云った。門左衛門は

3. 長谷川伸全集〈第14巻〉

228 取りに不都合が多いと承る。品川沖より駿州清水までは僅 門左衛門は艀船が河岸をはなれ、近くは芝の台地、遠く かのうちにというわけには参りません。溝口氏、お早く参は上野の台地が、ゆらゆらと揺れてみえて遠ざかるのを、 られい、とかく、早いが勝ちです」 じッと見詰めていましたが、 ひし 犇めく人声に遮られがちだったが、おおよそは門左衛門 「はてーー敗け戦さとは、悲しいものなあ」 の耳・には、つこ。 口を衝いて出た、たれにというでもないこの詠歎は、だ 「ご心添え千万」 れにも共通です、乗りこむとき浅間しい限りを見せた人々 礼をいって西本願寺へ引返した三人は、やはり黙りあっ 、、、、襟を正した静けさになりました、と、舳の方でひいッ ています。 と泣き入る女の声が起りました、未練なと叱るものもな 溝ロ家の荷物はわずかながら、それでも、無給を承知でく、かえってそれが端緒になり、艀船からこばれそうに多 御供仕るという甚兵衛だけでは手に余った。門左衛門夫婦い人々のすべてが涕泣しました。 もたかも持てるだけは持った、五十一歳の甚兵衛は背に高船夫は櫓を押しながら潮ばかり見ている、乗っている人 蒔絵のある家宝同然の長持を負い、歯をぎりぎりいわせてをみて眼が痛いのでしよう。 歩いた、額に膏汗がブツリと浮いています。 ◇ 艀船に乗るとき先を争う人々に揉みたてられ、門左衛門 は苦い顔をした。甚兵衛は黙っていませんでした。 門跡橋の河岸からゴールデン・エージまで、二里ぐらい 「このサマは何のこった。これが公方様の御家来のするこある。艀船が十五はいでその間を往復するのでした、朝の とか。祭礼のときの渡し船に、町家のものだとて、こうは九時前に一番船が出て、夕方の五時に終い船が出ました、 他人を踏倒してわれ一にと振舞いはせぬ。敗けたとなると何百回の往復だったことか。 こうも皆様方が成り下るものか」 無禄移住者が発ち終った後の西本願寺と、その近くの町 眼を血走らせて甚兵衛が怒鳴ったので、さすが、一時、家では、悪いものを一日中つづけて見せられた思いが深 静粛になりましたが、後から来たもの達が、泥を捏ねるよ く、その晩の話は、この悲劇の寄り集りから少しも出なか うに押出たがったのが始りで、忽ち又元通りの混乱になり ったという。西本願寺の、僧侶達は行ってしまった旧旗下 ました。甚兵衛が又も眼を瞋らして罵りましたが、われがの名札紙が、廊下をはさんだ座敷座敷に貼ってある、それ ひし ちの得手勝手の混乱に歯が立ちません。 を引ッペがしながら無常感を犇と受けたという。町家で

4. 長谷川伸全集〈第14巻〉

は大勢がきッばり定まり、勝敗を知らずにまだ戦っていた 三人は期せずして右を見ました、明石町の出鼻が潮に脚 ものも、午後三時ごろまでには落人となった。雨のひどい をひたされている、海の中の佃島がすぐそこにあり、その よせば その一日を夏の悪夢と忘れ得ぬ溝ロ家では、門太郎の安否向うに寄場がある、それから深川、ずうッと末々に砂村大 を気づかい、戦死か、生捕りか、自刃か、それとも他の人島がほのかに見える。左をみるとすぐ鼻の先に芸州藩の浜 人とおなじように奥羽をさして落ちたかと、探せるだけ探手屋敷が藍の中に突き出ています。それから高輪から品川 し、手をつくしたが皆目知れませんでした。 鮫洲、羽田近くまで、見慣れたというではないが、常に持 っていたもののように久しく思ってきたこの風景とも、き ◇ ようを限りの別れである、一言を発する力もなく、悄々と 海辺に出た溝ロ門左衛門夫婦と嫁のたかは、互いに一言して眺めるだけです。 も口にしません。真青な沖に台場がみえる、その台場より やがて三人は、潮の香を背にうけて南小田原一丁目に引 冲に、黒塗りの蒸汽船が碇泊している、それがゴールデ返し、門跡橋のある河岸へきました。そこには今し方と違 はたもと ン・エージというアメリカの飛脚船で、門左衛門一家とおって多くの旗下御家人の当主やら家族やらが何百人とな なじ、〃無禄移住〃の人々、二千六百余人を乗せてゆくのく、 逃げてきたように金蒔絵の家具を抱え、風呂敷包を肩 はあれだろうと見詰めました。西本願寺にれている人々 にかけ、犇めき合っていました。河岸には台場沖へ通う艀・ の間で、こういう時によくある早耳早喋りが、ロロ月沖から船が何ばいもついていて、船夫が突ッけんどんに何か怒鳴 っています。 駿州清水港まで、アメリカ船の賃貸し料は三千両だといっ た、又、その飛脚船は長さが七、八十間もあり、幅が十「門左衛門殿でしたか、あなたも御移住ですか、さすがで 二、三間あるから広いともいった。 ござります、拙者もやはり」 台場沖の黒い船はゴールデン・エージだけでなく、他に 後はい、 し兼ねて老眼を潤ませている人がありました、幼 のもまだあったのですから、門左衛門一家三人が、あの飛脚い時からの友達で、営中勤仕の御役代りで離れたかと思う 船だと思ったのが、はたしてそうだったか、判ったものでと、又一ツになったりして、若い顔が古さびた今まで、懇 町はない、船といえば菱垣船か檜廻り船、小さいのでは五大意であった幾人かのうちの一人でした。その人は人目をぬ たぐい 力、伝馬、立派なと思うものでは御座船の類、それしか知すむように門左衛門の耳に口を寄せ、 めくら らない、海と船について甚だしい肓の時代でした。 「本船へ参るには早いがよろしい、遅れるにつれて、場所 しゃべ

5. 長谷川伸全集〈第14巻〉

者が出稼ぎという始末でござる。いやはや、我とわが、笑目次第ござらぬ。武士を廃めて汁枌屋、それも失敗して以 来、人間が下等に相成ってこの始末、平に、平に」 う他ござらん身に落ちました」 木田は陽気な性質なので、話し振りは明るく、まるで他「とは、何ごとでしようか」 と′一と 「ご子息門太郎殿のことです。天晴れのご最期、拙者な 人事のようですが、話の題材は暗い。門左衛門は調子のい 1 一 1 ロ 、話し振りに釣りこまれて、時どき、貰い笑いはしたものど、死んでから顔が合わせられませぬ」 「えツ。倅門太郎の生死のほど、ご存じか」 の、笑い切らぬうちに苦笑いになりがちでした。 「ご存じなかったのでござるか」 木田はやがて人が違うように、つくづくといいました。 と、木田は云わでものことをと後悔の色が、しまッたと 「拙者、倅には世界万国に通用する職をおばえこむように いう表情になって出ました。 と、くれぐれ申し聞かせました。人生、手に職のないもの ほど、どうにも成らぬものはござらぬ、下世話に申す、潰「一向に。して、してそれは、あいや、ちょっとお待ちく い。たか、たかは勝手許か。急い しの利く人間、これが処生の第一でござる、潰しの利かぬださい。家内、これへこ は穀潰しでござるわい、拙者など、穀潰しの方に育ってまでこい。門太郎の最期、本田氏がご存じという」 門左衛門の妻の顔色も変っていましたが、狭い台所から いってきた」 体を斜めにして出てきたたかの顔の色は、生きている人と 「ご子息には、只今、何をご勉強かな」 思えない青さでした。 「あれは拙者と違い、時勢を察し、蒸汽船へ乗ることに相 木田は門左衛門一家三人の、早くも潤んでいる六ツの眼 成りました」 に見詰められ、暫しロ籠っていましたが、漸く、唾をごく 「ほはう、蒸汽船へな」 「船頭の真似でござる。郵便蒸汽船会社というへ、使用願りと呑みこみ話し出しました。 「これは驚きましたな、ご存じないとは。拙者はご存じの を差出せしところ、幸い、ご採用くだされましてな」 こととばかり思っていたのでござる。じつは、拙者も又聞 の「郵便蒸汽船会社、なるほど」 きでござるが、ご家来の民蔵が、五月十七日、上野の戦争 ロ「東京丸というへ最早乗りこみ、立働いているはず」 初代の東京丸はゴールデン・エージ、あの飛脚船の後身があってから翌々日、黒門の内側に横たわっていた門太郎 でした。 殿の死骸を背負い、谷中天王寺へ参り、住職に頼み、埋葬 「いや、これはまことに以て、申し遅れて何ともはや、面した、かように聞きました」

6. 長谷川伸全集〈第14巻〉

よ、梅干のように顔がしなびた老夫婦が、孫とおばしき頑でやる」 うずくま 怒り狂うものを多勢が押えつけたとみえ、あとは男泣き 是ない児を二人っれて、往来の端に蹲踞っていたのや、一 が聞えるのみです。 人ばつねんと青ざめた顔を空にむけ、絶えず眼を瞬いてい 門左衛門は頭をたれて黙っていたが、やがて、 た中年の男の怯えた顔や、と、めいめいの見たものに同じ じん 「あの仁の立腹、無理ならぬ、如何に国情の違いあればと のはなかった。人がそれほど多く、それだけに目まぐるし て、この船の水夫どもが、われ等に対する無礼は、目にあ 、雑多な様子があったのでした。 溝ロ門左衛門夫婦とたかと従者の甚兵衛とは、薄ぐらいまる」 と、唇を咬みました。 三等船客室へ、鰯網から鰯を追い出すようにして入れられ ゴールデン・エージの船員は無禄移住者からいえば冷酷 た、人々は皆言葉を失ったように陰性でした。 無情を極めました。無賃輸送を受ける者という感情が彼等 ペンキの匂い、汕と鉄の食いあった匂い、塵埃の匂い にまずあったのでしよう。半野蛮国の人間どもということ 人いきれが罩った匂い、そうしてきようは波がちょッと立 も又あったでしよう、が、それよりも彼等が持ちあわせて った、女の多くは青白い顔をして眼を据えた。げえいツ。 しりぞ る残酷性が、時勢の波に退けられて行く人々の上に加え どこやらで苦しげにもどしている、かと思う間に又、げえい られただけのことで、彼等は特にそうしたのではない、 いソとやっている。通風も採光も悪く出来ている船艙は、 僅かのうちに、今までの匂いの他にもう一ツ、反吐の悪臭が、常にそうであるのでした。門左衛門もその妻も嫁も甚 でむッとなりました。 兵衛も、その他の旗下御家人の主従も、そういうことは一 かせ 門左衛門は嫁が姑を抱えて、カになろうと努めているの向に知りません、これも敗北した者が負う枷の一ッとあき を見て涙もろくなっていましたが、向うの方でする叫び声らめました。 たれやらが甲板のたよりを伝えました。それに拠ると、 を聞き、そっちへ耳を向けた。 の「俺はあの無礼な黒ン坊を斬って割腹する。なぜ、とめ野州の会津廻米街道で、戦って敗れ、帰降した旧幕軍の草 風隊の隊士百余人が、甲板の幕張りの中に坐っていて、そ る、放せ」 の囲りを旧幕臣の若年の者ばかりが二百人くらいで警固し 叮「仕方がないではないか、今日となっては」 「何をいうか、貴殿は腹がたたぬのか。この飛脚船の者どている、そんな話は、しかし、船艙の無禄移住者の十分の もめ、われわれを虫けら同然に扱いおる。放せ、俺は死ん一にも伝わらず立消えました、そんなことを聞いて何かし

7. 長谷川伸全集〈第14巻〉

でない、戦火の名残りを語るもので、亭々たる大木が半ば太郎の墓標が見つかることはありませんでした。 感応寺とその付近とは、彰義隊の陣地となり、激戦のあ から裂けているのが何本もみられます。黒い木の門のそこ かしこに弾丸が食い入 0 たままでいます。広小路は旧観をつたところなので、兵火の跡がまざまざと残「ている。幕 ちょんまげ すこし更めていますが、それでも、丁髷大小麻上下、若党政のころのものは僅かに、本坊と五重の塔だけで、諸堂、 へいせん 中間、旦那番頭手代丁稚、辻駕籠、あんばつ、三枚駕籠、僧坊、庫裡、鐘楼、悉く兵燹にかか 0 てその跡が、風雨十 二年、いまだ焦土のところすらあります。 駄馬の往来ひきも切らなかった、以前の俤だけは残ってい おとな た。ただ、道路の登場者がすツかり変っているだけで、忍仮建ちの本堂につづいた庫裡で、たか達は静かに訪いま した。寺男が取次に出て、やがて請ぜられたのは名ばかり 日に架っている三枚橋ですら、まだそのままでした。 ゃなか 舅と姑とたかとは、谷中の方へ歩いています、通る道筋の客殿で、板壁の掘立小屋染みている、その代り、日が明 の何も彼も門左衛門夫婦を、回顧させ感慨に耽らせるばかるくさし入る座敷でした。 「わしが住僧でござる、駿河からみえられたとやら、遠 りですが、門左衛門の視力が衰えているのと、老妻がすッ かり諦めつくしているのとで、一々立ちどまって、涙を流方、よくこそ」 痩せて丈の高い老僧は、墨染のころもがよく似合ってい したり、返らぬ繰り言をするようなことはない。 そのころ、人力車がもうありました、士族とみえる顔つて、たれやらの絵にある法師そっくりでした。 門左衛門がたかに促されて、溝ロ門太郎の両親と妻であ きの車夫が、空車を挽いて行くのに、摺れ違うこともあ りました。三人は心をそれに動かすこともありません。たると、たどたどしい話し振りながら、慇懃に述べ、当年の かたじけな 芳志まことに忝しと、礼をいいました。 か達三人はーーゴールデン。エージへ乗りこむころは、門 老僧は溝ロ門太郎と聞いても、何の思いもないように、 左衛門達三人はというべきでありました。今は違ってい た、ちょッと見かけただけでも、明らかに、たか達三人は淡々と聞いていましたが、 「それはそれは。ご墓参におのばりでござったか、なるは というべきになっています。 、達ま谷中へくると、脇眼もふらず、本坊へ急ぎつつど」 いたわ と、言葉すくなに上京を劬った、たかはそれを見てい も、通りがかりの墓どころの一々に熱、いに眼をむけまし て、この老僧に門太郎のことの記憶がないのではないか た。しかし、三万余坪の長耀山感応寺境内の一々の墓が、 と、心許ない気がした。 眼の前を行きて去り又行きて去るのではないから、溝ロ門

8. 長谷川伸全集〈第14巻〉

おちゅうど 伊勢に出る途中、落人仲間の五人にかわって、一宿の礼心 いじゃねえか、今度のことは何だ彼だといったところで、 、農家の夫婦に与えてしまった。 つまり、残念だからなんだ」 門太郎はこのことを父にも母にもいわず、ただ、妻にだ と、門太郎は妻に涙をみせた。 け具さに語った。 門太郎は父にも母にも別れを告げず、ふいと居なくなっ 「簪を失ったときおらあそう思った。てッきり、こいつはて、上野へ駈けこんだ。妻のたかにも別れらしい別れは告 1 三ロ 、死ときまったと、けれど助かって、まことに、しがねげなかった。門左衛門夫婦はそれと知って、民蔵という老 こしれ え、落人さ。伊賀路で、泊めてもらった上に握り飯まで拵僕に、旨をふくめて迎えにやった。その民蔵までが、上野 えさせたんで、礼に遣わす銭はあったんだが、先々が長え にとどまって、帰ってこなかった。 ことだし、路用が心がかりなんで、おらあ緋縮緬をぬ 世間は大局より局部が好きでした。王政復古の大業をわ で、礼の心だといって与れちゃったその時は、なんともな かろうとするよりも、公方さまへ御恩報じの脱兵に人気が かったが、そのあとで妙に淋しくなってきやがってなあ。 立ち、官軍は弱虫さ、脱兵さんは何といっても武芸が出来 何たか、こう、お前と生別れでもした気がしてよ」 るから比べものになるものかねと、本気で信ずるものがは と、三日、屋敷にいる間に二度まで、しみじみ、繰返しとんどでした。大砲小銃がものをいう時節に、そんな物は ました。門太郎にとって恋女房のたかだったし、たかにと嫌いだとばかり、刀や槍の一騎討を夢想して、戦えば勝て って恋婿の門太郎だったのでした。 るものと、独り決めにしている弱点を、事の相違はあれ 門太郎の大坂詰になったのは慶応元年の秋で、婚礼からど、その実正味のところはおなじく、古くから伝わって、 満一年になるやならず、恋女房は十九歳、恋婿は二十二歳そのときの江戸人にもありました。だから、坊やはいい児 でした、帰ってきたときの門太郎は二十五歳、たかは二十だねンねしなと唄う児守ッ子でさえ、何てまあ意気地のな 二歳、二人とも長けていました。 い脱走一ッ出来ないでさあ、と、悪口いう流行が、世間を 海鼠溝ロの屋敷を門太郎が懐かしんだのは三日三晩だ縦に流れ横に貫いていました。門左衛門はロでは慶喜公御 け、四日目には上野の彰義隊へはいった。その前の晩のこ趣意に背き奉る奴といっているが、心の中ではほッどし と。門左衛門にそれを喜ばぬ色がある、慶喜公の御訓戒にて、これで溝ロ家御代々に対し、合わせる顔があるとひそ 反すというのである。 かに思っていました。 ひる 「おやじはああいうけれど、おいらにしてみりや、口惜し 上野の戦争は五月十五日の未明にはじまり、正午までに つぶ

9. 長谷川伸全集〈第14巻〉

木田はご尤も千万と深く首肯いたあとで、白けた容子で 「左様か」 と、いった門左衛門は小額にちいさな汗を浮べていましたか 「ご存じだとばかり思っておりましたので、いやはや、申 す。妻は俯向いて膝がしらに涙の痕をつくっている。たか は太い眼を見張ったきり、瞬くのを忘れたかのよう、木田訳のない不詮索にて、恐れ入ってござる。詳しくは、存じ ませぬ、が、何分にも世間を憚って葬ったというのでござ の顔を見詰めていましたが、 しるし 「失礼ながら、お話の出どころ、承らせていただけましよるから、標というても、心ばかり、ではないかと存する」 つまり、木田は天王寺の住職の話を、又聞きしたという 、つ・カ」 慄えた声ではあるが、確かめることをたかは忘れませ以上に何も知っていません、が、たかは木田からすこしで も、何かしらの片鱗でも聞き出したがって、重ねて尋ねま ん。木田はつづけて首肯いて、 「千万ご尤も、お話しいたします。谷中天王寺の住職が、 ノ丁堀の檀家へみえたとき、出た話を、その檀家から拙「詣でるものがごぎりましようか、ご存じにはござりませ ぬか。参る者がありますればそれは必ず、民蔵に違いござ 者、じかに聞きました」 りませぬのですが」 「有難う存じます」 たかは藁をもむ溺れたもののごとくなっています。木 たかが質問を打切った。門左衛門夫婦はあらぬ方に眼を 向けて、なお、確かめ問うこともあろうに黙りこんでいま田はいよいよ鼻白んで、 「申訳ござらぬが、その他のことは、一向に」 たたカが、それではという風に、木田に、又、 「民蔵は如何いたしておりましようか、お話に出ませぬで「左様でござりましたか、いろいろ無躾にお尋ねいたしま して、失礼いたしました」 1 」ギ」りましよ、つか」 「いや何」 「さあ、それは、聞き漏らしました」 なるはど、これは尋ねたいことだろうと、木田は何度も「有難う存じます」 首肯きました。たかは持っていた物を浚われたように、眼「いや何」 をじッとさせていたが、 たかはすッと激しく立ちあがったが歩きもせで佇んでい 「それでは、夫の理葬の場所は、只今、どうなっておりまます、暫くして歩き出したが一足毎に頭が下へだんだん深 くなり、物置屋敷に似合わず、これのみ立派な仏壇の前 しようかお聞き及びござりませぬか」 ぶしつけ

10. 長谷川伸全集〈第14巻〉

去り、明治七年五月十五日にも、七回忌の回向を頼み布施ての墓参りをしました。 門左衛門夫婦はそこを立去りかねています。民蔵だろう 物を置いて行 0 た。このときの使いは、どんな人だ 0 たか と思う奇特人が、建ててくれた墓石を撫ぜて石の冷たさを 言憶がない。 「来年は十三回忌にあたりますが、はたして今度はどのよ覚えても、土台石の脇にちょろりとのびている赤ままの草 ひと の一茎にも、大坂から痩せて帰って三日三晩いたときの門 うなお仁が使いにみえるか、それとも、さわりがあって、 最早、見えられぬか。何か、その奇特人にお心当りがござ太郎より、幼い時、少年の時、妻をめとる前後の門太郎が 矢継早に、繰返して、思い出されるのです。 るか」 たかにも感慨が起っています。両親よりはもッと深い感 艮の珠をくるくると動かせ、興味あるものを と、住職は目 慨です。夫となり妻となったものの間には、二人だけしか 見ているように、徴笑しました。 門左衛門夫婦にも、たかにも心当りがあった。忠僕民蔵知らず、二人だけしかわからぬことが、幾つもある。たか の他にそんな奇特をしてくれる者があるはずがない。親族は、しかし、追憶の中から墓の前で不思議を見付けた、そ れは焚き残りの線香と赤い袋の残りでもない、樒の葉のみ もすくなからずあるが、我が身、我が家のことに追われ、 そこまで手を届かせるだけの心ある者が、旧幕瓦壊の後でずみずしているのでもない、それらは無名の奇特人、多分 は民蔵、その芳志だと信じたが、一ッそうでないものらし もあり、一人もあろうとは思えなかったのです。 いのがありました、いっ残したものか、訪う人のないはず ◇ の墓前の土に、女下駄らしい痕があることです、前歯一枚 溝ロ門太郎の墓は小松石を土台に、縦長の自然石を利用の痕、踵の方の痕、東京の女が好むものだろうとたかは思 ました。 し、文字はだれの手蹟かわからぬが、彫り深く、出来は良い 。五重の塔から北に半丁ばかり、低い木立に囲まれた何その翌日、たかはひとりで墓参した。その翌日も又ひと いかめ りで墓参した。老夫婦は旅の疲れで、出歩くのが楽でない とやらいう儒者の厳しい墓のうしろに、ひょろりと一株、 痩せた黒松がある。その下に、建てられて足掛け十一年にらしいので、旅宿に残したのでした。 三日目は四月十四日、花ぐもりと思った空合いが晴れず なります。 に雨になりそうでした。たかはその日も、天王寺の墓地、 住職のもとを辞したたか達は、寺男が街へ出ていないの で、道を教わり三人だけで、尋ねあてて、十年目で、初めひょろりと痩せた黒松の下で、亡き夫の墓前に坐り、いっ