辰蔵 ( 不安気に手を放す ) 七右 ( 辰蔵の油断を見すまし、ひそかに山中の湯治場へ駈け七右 ( 捉まれていた手首を眺め ) ひどいことをする人だ。 抜けんとする ) こんなに赤くなった。 辰蔵 ( 追い縋って引き戻し ) またか。どうしたって連れて辰蔵わしだって随分殴られた。そんな事より少しも早 く行こう。たとえ二里三里でも遠く、山中をはなれなく 帰る。折角見つけましたが逃げられましたでは、どの面 ては安心できない。 さげてのめのめ江一尸へ帰られよう。 七右帰るときまったら急ぐにも及ぶまい。 七右外聞が悪いと云うことを知らないのか。 せつば こ親類ご辰蔵どんな処で魔がささないものでもない。さあ行こ 辰蔵切逼つまった今は外聞もへちまもない。。 う。 ( 七右衛門の笠を拾って見て、台座がないので棄て、自分 一同に頼まれ、罷り間違ったらの覚悟までして、女房子 の笠を拾って手渡しする ) と水盃をして出てきた辰蔵。亡くなった大旦那へのご恩 報じに、今度のことでは命を投げ出しています。どうで七右 ( 笠の紐を解きつつ山中の方を睨み、台座を大地に叩き つける ) まあ。ゆっくり行こう、急ぐ旅でもない。 も肯き入れてくださらなければ、自慢にはならないが小 ぢから 辰蔵この辺だけは急いで行こう。 力のあるのを幸い、腕すくで連れて帰る。 七右強情な人をよりに選って寄こしたものだ。 ( 本心で七右 ( 不安を感じ、憎悪と憤怒の眼で山中の方を睨み ) 辰蔵 おとな さん。 はないが ) では仕方がない、温順しく江戸へ帰ろう。 辰蔵 ( 答えを避けて、群衆に ) まだこの人達は立っている 辰蔵え。そりや本当か。 のか。気の長い。もう何もありやしない。 ( 追い立てるよ 七右辰蔵さんに逢っては敵わないからね。 うにして ) さあ行こう。 ( 七右衛門の手を執って引張る ) 辰蔵そうしてくれれば何よりだ。 七右辰蔵さん。お前さんには今の私の腹の中がわから 七右だから、その手を放しておくれ。 ないのだ。 辰蔵放しもしましようが。今のように山中の方へ駈け あわれ 辰蔵 ( 撫然として七右衛門を憫む気になる ) 出すのではあるまいか。 群集は鼻白みつつ少し動揺して雑踏する。 七右帰る。きっと帰る。 辰蔵それでは。だが心許ないなあ。 旅商人 ( 群集の中で叫ぶ ) 泥棒ツ、泥棒ツ。 七右大丈夫だから手をお放し。 やまなか
だけで、不義の相手だのお町だのと、どうしてそう血迷 うのだ。 ああ昔が お町だれがお前を生かして置くものか。 恋しいーー安さんへ心ばかりの心中立だ。お前に肌は触七右さあ放せというに。 辰蔵たとえ怪我をさせられても、河内屋の当主に、刃 れないよ。 物三昧させてなるものか。 三之助ああそうか、わかった。今のは安之助だったな。 七右 ( 巌の上のお町の死体を見る ) おやツ。 お町元のご主人を呼び棄てにするのかい しょて 三之助旨いことをいって、初手からわたしを殺すつもり辰蔵 ( ぎよ ' として巌の上を見る ) なれあ 七右あれは、きっとお町だ。 ( 巌へ下りる ) だったのだろう、畜生。安之助とは馴合いだな 辰蔵これこれ。傍へいったら拘り合いになる。 お町さあ、殺してやる。 ( 突いてかかる ) 三之助 ( 逃げ廻り、出刃を奪いとり、お町を刺し、茫然自失す七右 ( 死体に近づき ) ああお町だツ。 辰蔵 ( 巌に下りつつ ) えツ、どれどれ。おお本当にお町 る ) さんらしい。 お町あツ。 ( 倒れ伏し、起ちかかりて倒れ、また起ちかかり 七右 ( 茫然として ) だれかに殺されたらしい。 ( 見つめて 遂に伏す ) 思わず ) 可哀そうに。 旅商人あッ こ、殺されたー 三之助えツ。 ( 驚いて橋の上を仰ぐ、よろめいて巌を踏み外し ) 辰蔵そういう気になってくれたか。河内屋もそれでこ そ大丈夫というものだ。 しまった ! ( 流れに落ちる ) ふびん 七右こうなったのを見ると、不便なような気もする。 しけない、そんな無法はさせない」と辰蔵の辰蔵とてものことに、野辺送りだけはちゃんとしてや るがいい。とも角も早く、お役人に訴えなくてはいけな 声。「今度こそは肯くものか」と七右衛門の声。「待て、こ れツやめろ」「放せ放せ」と揉み合う声が橋袂でする。 げしゅにん 七右そうだ、そうすれば、だれが殺したか、下手人か 旅商人 ( 驚いて逃げて行く ) 七右 ( 辰蔵と揉み合いつつ現わる ) 放せ。放さないと辰蔵わかるかも知れない。 辰蔵お町さんには、何か深い入り訳があるらしいと、 さんだって斬ってしまうそ。 あた ご親類の中でもいう方があったが、矢ッ張りそれが中っ 辰蔵妙な女と男が橋のところにいたという話を聞いた
辰蔵そんな無法なことをいう者があるものか。 が、辰蔵さんも知っている通り、落籍して家へ入れてか 七右無法なことではない、当り前だ。 らは貞女といってあんな貞女はない、だれだって感心し 辰蔵そ、それが無法だ。 ていたものだ。その、貞女と見せかけたのがあいつの狡 七右間男はかさねて置いて四つにする、それがご定法 い奥の手で、すっかり騙しておいて、ただ 一度にわたし だ。わたしもそうしたいのだ。あの女を叩ッ斬らなくて を叩きのめそうという質の悪いやり方だったのだ。 は、居ても起ってもたまらないのだ。 辰蔵外になにか事情があるのではなかろうか。それに 辰蔵間男間男というが、お町さんに隠し男があったと しても多寡が女ひとりのために河内屋を潰しでもしたら いうのは本当か嘘か、疑っているのはわたしばかりでは何とする。 ない。ご親類の中にも随分疑っている方がおありだ。 七右生殺しにされても我慢しろというのか。フン、身 七右馬鹿なことを。あいつが書置にちゃんと書いてい 代があるから恥を掻かされても我慢しなくてはならない るのが何より証拠だ。可愛い男ができていたのを知らずのか。辰蔵さん。私は木の股から生れた人間ではない。 にいたお前は世にも気の毒な男だと、皮肉な文句を並べ 口惜しいのに笑っていろとは無理だ。そんな註文は馬鹿 てあった。 か気狂いに出すがいし 辰蔵書置には成程そうあった。 カ人目の多い河内屋の辰蔵口惜しいからとて刃物三昧をするのは、身軽な男 大世帯で、隠しごとの出来る筈はなし、ツイに外出一つし のすることだ。金持ち喧嘩せずだ。 よそ た事のない者が、他家の男とちかづきになる訳もなし。 七右そんなことはわたしには出来ない。恥を掻いても 七右だから余計口惜しいのだ。吉原にいた女でこそあ金の番をしているなんて。わたしは生きているのだ。損 れ珍しい貞女だと、ご親類一同が褒め者にしていたお町をするから怒りたいのに怒らずにいられる程、器用に生 が不意に姿隠し、残していった手紙を見れば、お前は馬れついては来ていない。 鹿ゆえ心づかなかったろうが、あたしには命まで打込ん辰蔵お町を見つけて斬ってからが何となる。自分の体 だ男が外にある。その男の生れ故郷加賀の国へ行き、末 冫しがくるだけのことではないか。それよりももっと 始終かけて添いとげ、お前の馬鹿さを思しオ 、、どし、笑い話好い女房をとり、見返してやるのが男の意趣返しだ。斬 にして暮すと、存分に人を踏みつけた文句の行列だ。 るの突くのとは気の狭い骨頂だ。何も三千世界にお町ひ ああして元は廓にいて、男の数は知っている女だ とりが女ではない。 なるほど 0 か ずる
蔵 ( 群衆の中から飛び出し ) 泥棒ッ泥棒だツ。 ( 走りて花 いっていながら、まだ思い直してはいないらしい。 道ーー旅商人に追い付かれ縋り付かる ) 分では腕ずくで連れて帰らねばならないかも知れない。 七右衛門、辰蔵その他、驚いて佇み見ている。 七右辰蔵さん。そんなに云うものじゃな、。お前さん まおと・一 旅商人おのれッ返せツ、返せツ。 には、間男をされた男の心というものがわからないのだ ろう。 八蔵その手で人目を胡麻化すか太い奴め。 ( 旅商人を蹴 倒し ) こいつの方が泥棒ですぜ。 ( 逃げながら ) 泥棒。 ( 去る ) 辰蔵それはーーー・ロ惜しいに相違ない。積っても知れる 旅商人その金はご主人様のもの。それを盗られては生き ことだ、だが、もっともだとは田 5 , つものの ていられない。 ( 群集に憫みを乞う ) 皆さん取返してくだ七右男の顔へ泥を塗られたことのない人に、私のこの さい。 ( 群集は半信半疑でいる。絶望して八蔵の方に ) あっ、 裂けるような胸の口惜しさがわかるものか」やれ残念だ ( よろめいて追いかけ ) あっ、そいつを捉まえてください ろう、口惜しいだろう察し入るのと、いくら云われたと 畜生ーー命とりめ。 ( 追って行く ) ころで、心にピンと響くような慰めの言葉が聞かれるも 群衆 ( はっと心づき「泥棒』『捉まえろ』と叫び追って行く ) のか。 辰蔵いかにも、それは道理だ。外のことと違って、ロ 安之助は逃げ行く八蔵を徴笑して見送り、七右衛門、辰蔵惜しいのはわかっているが。 しんだい が泥棒騒ぎを見送っているのに心づき、警戒しながら木蔭七右名も惜しくない、身代も要らない。 この灼けつく に姿を隠す。 ような口惜しさが癒せれば、河内屋が潰れたって構やし 辰蔵ああびつくりした。こっちの騒ぎが落着く間もな辰蔵何ですと。 く泥棒騒ぎ。旅は物騒と相場はきまっているものの、そ七右何だ。そんな顔をするのはご先祖に済むまいとい れにしても油断が出来ない。 うのだろう。先祖が何だ、先祖がいくらえらいとて、今 中 七右 ( 湯治場の方に心を残している ) のこの煮え繰り返る苦しさ切なさ腹立たしさを、どうも 者 してはくれないじゃよ、 の辰蔵さあ行こう。 オしか。あの女に塗っけられた泥 七右 ( 何とか切り抜けたく ) まあ、一服して行こう。 を拭きとってくれやしないではないか。 先祖も何もある ものか。 辰蔵いけない、いけない。ロでは素直に江戸へ帰ると
37 旅の者心中 一同わツ。 ( 群衆の中央が左右に叫びと共に開け、次第に群 衆は偏平なる半円形の一端をつくり見物する ) 群衆の中から旅姿の江戸の薬種問屋河内屋七右衛門 ( 三十 三、四歳 ) 旅姿の分家辰蔵 ( 四十余歳 ) が出る、七右衛門 は笠を冠り、辰蔵は笠を抛り棄て、七右衛門の後から組み 〔序幕〕 つき引き戻す。 七右放せ、放せ。 ( 振り解く、笠がとれて頭に台座が残る ) 辰蔵 ( 今度は腰へ両手をかけて引戻し ) 放さぬ何として この手が放されるものか。 七右ええ放してくれ。 辰蔵はるばる百四十里も追いかけてきて、漸く見つけ 第一場加賀山中湯治場道 たこなたを逃がしてたまるものか。 七右どうしても放さないか。 ( 組付かれながら辰蔵の手を 加賀の国大聖寺から山中温泉へ行く或る路端。前方に余り 殴っ ) これでもか。これでも放してはくれなか。 ( 振り 高からぬ山々が見える。春の恵みが北陸一帯に訪れた頃。 解きて殴っ ) 路端にいろいろの人物が一つの群れをつくっている、その旅商人 ( 掛先の金を集めて通りかかる。人だかりに近づくと懐 全部が背中を向けている、中には爪先立ちして覗いている 中の金に注意を忘る ) 者もある。「何だ、何だ」「護摩の灰をとッつかまえたのだ辰蔵 ( 七右衛門の前へ廻って両手首を押さえ ) きさ、もっと そうだ」「持逃げをした奴を今押えたのだそうだ」「喧嘩だ 殴れ、殴れるだけ殴れ。いくら殴られても、御本家のた 喧嘩だ」「やあーやあ」「若い男と中年の男だ、色恋から喧 めだから辛抱する。さあ殴りなさい。 嘩になったのかな」など、時々はっきり聞える、その他の七右 ( 当惑し ) 放しておくれ。第一大勢人が見ていて、 時は形ばかりで、争いを見ている弥次馬らしく、動揺を示外聞が悪い。 す。 見物してやがる。 ( 七右衛門から手を放し、群衆に ) お前さ ん方は仕事というものを持たないのか。 群衆の間には却って嘲笑する様子が見える。 旅の盗賊旅鴉の安之助 ( 三十二、三歳 ) その兄弟分蜻蛉の 八蔵 ( 三十四、五歳 ) 渡りの料理人と見えそフな旅姿で出 る。人だかりを見つけて囁き合い群衆に混つ見ている。
. をユ / んの外には、女を知らない男に、こうしたことがわかる 第二場同じく湯治場道 ものか。 前よりも山々が近く見える。日が暮れかかている。 辰蔵 ( 威嚇するように ) 帰るといったのは嘘ではあるまい 湯治場へ明日の魚をはこぶ男が立ちどまって提灯に灯を入 こわ れて行く。 七右何でーーー何でそんな恐い顔をする。 辰蔵我儘がひど過ぎる、愚図愚図いわせておいてはキ 安之助が過去を追想しながら、うなだれて歩いてくる。傍 の草むらの茂みが急に動く。安之助はぎよッとする。 七右ああ行きますとも、ああ帰るさ。その代りいっか 蔵 ( 草むらから出る ) 一度、きっとお町のやつも男のやつも殺してやる。 辰蔵 ( 七右衛門を強いて連行しかける ) 安之助ああ驚かせやがる。八じゃねえか。 七右何を乱暴な。 蔵いかにも蜻蛉の八蔵だ。何と驚いたか。 辰蔵大聖寺まではお袋さまも本石町さまも来ておいで安之助たいしても驚かねえが、少しはな。 - 一うばい なさる。たとい腕を捻っても、連れてゆかなくては義理 蔵自慢じゃねえが勾配の早い俺の腕前何と相変ら が立たない。 ずだろうがの。今し方、ごてくさしている奴を、ばんや ふところ 七右痛い。そんなに引張っては腕が抜ける。 り見ている若僧の懐中をはたいてやった。あいつは福井 辰蔵少々は痛くても我慢するのだ。 あたりの手代らしい、掛先の金を集めたものらしく、 七右放しておくれ。行くよ行くよ。 ( 財布を見せ ) 見かけによらねえ十両二朱と一一百だ。兄弟、 ( 引摺られるようにして去る ) 後でワリを出すぜ。 安之助どうで主人の金だろうが、胴巻へでも入れればい 中 安之助 ( 木蔭から出て七右衛門等を見送る ) あいつは矢っ張 い物を、ドジな男さ。 のり河内屋の七右衛リどっこ、。 , 卩オオカ ( 自分の声に驚き、四方を八 蔵嗜みが悪いところが、俺達にと 0 て合せよ。 警戒して見廻す視線が、再び七右衛門の強いて連れ行かるる姿安之助俺あまだ十七、八両持 0 ているからをりやお前み にとどまる。やがて思い直して湯治場さして歩み出す ) んな取っとくがいい。それはそうと八、人通りがねえの よ。
ていたのかも知れない。 ( 橋の方へのばる ) 張り手前、三之助だッたか。 七右一人でここに居るのは厭だ、一緒に行こう。 ( 橋の 三之助へえ、若旦那、わたしあ何もいたし←しません。 方へのばり ) 今、ここに居た男が怪しかったんだ。 安之助助かりてえのか。こんな奴を死ぬ道連れに選ぶと めき 辰蔵惜しいことをした。捉まえてみればよかった。 は、お町の奴も男の眼利きに曇りがきていたんだなあ。 七右衛門、辰蔵が去ると、反対の方からそッと旅商人に案 ええじたばたするねえ。 ( 少し引き摺 0 て行き ~ ここらは水 内させ、安之助が引返して来る。 勢が激しいから、二度と這い上っては来られめえ。ゃい 安之助 ( 旅商人の指さす巌の上を見て、驚きが悲しみとなり、 野郎 ! そらツ。 じッと見ている。やがて胴巻を抜いて金を旅商人に与える ) 三之助 ( 欄干を越えて流れに落さる ) 辰商人 ( 初めは固辞し、叱られて受取り、感謝の涙にくれ、泣安之助十万億土の旅は、お町と別々にしゃあがれ ! あ、 き声を立てる ) 流れて行きやがる。ふむ、手を挙げやがっこな。 ( 反対側 安之助叱ツ。 ( 手真似で「早く行け』という ) の欄干から延びあがって見る ) おお沈んだ。 ( れのどこかに 簾商人 ( 感謝しつつ去る ) 三之助が浮くかと見張る。その視線がお町に移る ) お町 ! 安之助 ( お町の死体を瞶めて落涙する ) 、」こ、、いばかりの回向をしたぜ。 ( 合掌して初め低 俺あお前 く、やがて咽び泣く、突然、はっと起ちあがり、橋袂の向 三之助 ( 巌に這いあがり、お町の死体を見ぬようにして橋の方 へあがる ) うに提灯を見つけーー疾風の如く逃げ去る ) 月が雲に閉じられ暗くなる。闇の中に提灯が幾つか現わ 安之助 ( それと心づき橋板に伏し、欄干の陰に潜む ) る、七右衛門、辰蔵、処の人々など、橋の、巌の近く、 三之助 ( 前後を見廻し、急ぎ逃げ去らんとする ) または橋と厳との間などに動いている。 安之助 ( 飛びかかり、少し格闘して押え付ける ) ゃい野郎、あ れを見ろ。月の明りで昼間のようによく見える巌の上に てめえ 大正十五年二月作 はお町が死んでいるのだぞ。手前、死ぬのが厭になった 中 昭和四年一月改作 心らしいなあ、それじゃあ済むめえ。 の三之助いえ。わたしは、何も、何も知りません。 ( 逃げん とする ) 安之助 ( 声に聞き覚えがあり、腮へ手を入れて仰向かせ ) 矢ッ
旅の者心中二幕三場 〔序幕〕第一場加賀山中湯治場道 第二場同じく湯治場道 こおろぎ 〔大詰〕山中の蟋蟀橋 ー・ー徳川中世以後の春の頃 旅鴉の安之助 ( 旅廻りの賊三十二、三歳 ) お 町 ( 河内屋女房二十四、五歳 ) 蜻蛉の八蔵 ( 旅廻りの賊三十四、五歳 ) 河内屋七右衛門 ( 江戸の薬種問屋三十三、四歳 ) 分家辰蔵 ( 支店主人四十余歳 ) 一一一之助 ( 放火犯二十三、四歳 ) 旅商人 ( 近国の者二十四、五歳 ) 通行人・山中の人々。
45 旅の者心中 月が青いよりも寧ろ白く照っている。遠く湯ざや節の絃歌 安之助 ( 焦燥をいよいよ感じ ) 八や、たっしやでいてくれ。 が時々聞える。 ( 歩きかける ) 八蔵じゃあ今度は本当のお別れだ。思や永らく一緒に 橋の上に旅商人が死場所を求めて現われる。安之助が物蔭 暮してきたつけ。 から見ている。 安之助無事を祈ってるぜ。 旅商人 ( 流れを見下し、投身しかける ) 蔵有難う。お前も気をつけてな。 安之助は湯治場道へ去る。八蔵はその反対の道へ行きか安之助 ( 黙って近づき突き倒す ) け、人の走り来るのを見つけ避けて隠れる。 旅商人あツ。 ( 起ちあがって、他に死場所を求めに、逃げるが 七右 ( 走り来たり、湯治場道に走り去る ) 如く去る ) 蔵 ( 物蔭を出で、大聖寺道へ向う ) 安之助 ( 後から ) おう。待ちな聞きていことがある。待ち 辰蔵 ( 走り来たり、八蔵に近づき人違いに心づき、湯治場道 なよ悪いようにはしねえから。 ( 追いかけて行く ) を急ぐ ) 蔵 ( 去る ) お町 ( 刃物を買いに行かせた三之助を待ちつつ橋の上に現 われ、欄干に倚る ) 安之助 ( 旅商人を見失い、引返してきてお町を見つけ、凝視し てそれと知る ) お町だれ。そこに居るのはだれ。 安之助あたしだ。 お町私 ? どなた。 安之助元は江一尸の者で、久しく旅を歩いてる安之助と 山中の蟋蟀橋 い、つ聿須さ。 こおろマ、 山中の奇勝蟋蟀橋。橋の下は流れ、巨大な巌が突き出て見お町え。安之助 ? もしやそれでは。 安之助四、五年の間に変り果てたのはお互様だ。俺は堅 える。橋際より巌へ目立たねども行き通いの小径がある。 〔大詰〕
140 ここに居るよ。 ( 添い寝をする振りをして ) 坊やはい、 だ、ねんねしなあ。 三蔵 ( 入口の土間に下りそっと外をのそく ) ー・・ー だれも居ね おきぬ坊やはいい子だ。ねんねしなあ。 三蔵坊主は寝たか。 ( 元の処へきて荷づくりにかかる ) 第一場博徒六ッ田の三蔵の家 おきぬああ寝ちゃった。ご覧、子供は罪がないねえ。 三蔵 ( 太郎吉の寝顔をのぞき ) うむ。笑ってやがらあ。 三蔵はもう三、四年もすれば親分から跡目に直らせて貰えおきぬ夢を見てるのだろう。 ( 荷づくりにかかり ) 考える る筈だった男だ。しかし頼む力の親分は召捕りになり、ど と厭になっちまう。 うで遠島は免かれまいと立っ噂に、身内は残らず散って、 三蔵今更どうも仕方がねえさ。 残るは三蔵ただ一人きりである。それでも三蔵は、親分に おきぬ女房子をつれての旅いんか。お前さん。 ( 涙声に けんそ 義理を立て、子分は皆無、身一つで、中ノ川一家を名乗っ なり ) あたし達の行く先々は、嶮岨な路だねえ。 ている。当然の結果、反対派の親分側から、圧迫が加えら三蔵そうだとも、一ト足踏み出しや、渡る世間はみん れ、今夜がその最後であった。 な嶮岨な路で出来てるよ。なあおきぬ、これから先は苦 労ばかりだ、覚悟をちゃんとして置いてくれよ。 秋の夜、行燈の灯の下で三蔵と女房おきぬとが、他人の注おきぬわかってるよ。大丈夫さ、他国でどんな憂き目を 意をひくまいと物音に気を配りつつ、荷づくりを急いでや みても、なあに親子三人揃ってりや、苦労はしのげるだ っている。片脇に一子太郎吉が寝ている。 ろうさ。だけどねえ、癪だねえ。 三蔵 ( 荷づくりの手が誤って瀬戸物を引ツかけ落す。壊れて三蔵叱ツ、裏の方で足音がした。 ( 手許に引きつけてあ 音がする ) る長脇差を提げ、そっと裏口をのぞきに行く ) おきぬど、つ。 おきぬあツ。 ( 荷づくりの手をやめ、怯える ) え ? ( 太郎吉を庇って聞く ) 太郎吉 ( 目をさまし ) おっかあちゃん。 三蔵だれもいねえ。お月様が昼間のように川の水を照 おきぬ しよ。傍へ寄り ) どうしこ、。、 らしていらあ 〔序幕〕