とだ、今の今まで、夢、現に思いつづけていたのが、こ置いて貰おう。 ( 黙って三吉に杯をさす ) んな阿魔か。 ( 泣きたい気もちになってきた ) 三吉へい これは。 ( 杯を受ける ) ええ、よろしゅうご ざいますとも。 お米お前さんは一本気だから、一旦いい人と思いこん だら、飽くまでいい人だとしているけれど・ーー人間は何お米 ( 浮かぬ様子で黙っていたが、いつものこととして怪しみ もせずにいる三吉の手から杯を取り、丑松の前に突き出す ) お かの拍子で気が変り、悪くなるものとは思えないんでし 客さん、お酌してくださいまし。 丑松 ( お米の堕落が余りにも、怺えきれず、横を向いて悲しん三吉ふあア、これは珍しいや、これは。 ( 額を思わず叩 いた ) 丑松 ( 厭な顔をちょっとしたが、三吉がいるので ) おい。 ( 酒・ をついでやる ) 廊下に足音がして三吉が台の物と酒とを持ってくる。 三吉ご免ください。へえ、ご免ください。 これは熊さお米 ( 上目で丑松を瞶め、杯を口へもって行く、ひとロ飲むと んと八さんとから、ホンのおロ汚しでございますと、こ 噎せ返る。実は泣けてきたのを紛らしたのだ ) 有難う。 ( 杯を うなんでございます。親方。 ( 台の物を指さして ) この方丑松に返す。死別の杯の心算だ ) 丑松 ( とは知らず、厭な顔をして、杯を受取ったが、直ぐ下に はとも角も、酒だけは吟味してきました。 置いた ) 丑松そりや済まねえ、熊さん、八さんによろしくとい ってくんねえ。お、雨がまだ降ってるかえ。 ( 出て行きたお米 ( じッとそれを悲しげに眺めている ) くもあり、お米に心が惹かれてもいた ) 三吉お酌、おっと、おかみさんがいたのにホイ失敗っ - 三吉ちッと小降りになりました。風も少し凪ぎたよう です。ごゅッくり。おや、おきよさんお召替えがまだだお米 ( 徳利をもっ ) ったのか。 ( 丑松に ) 何でしたらあちらに致しましよう丑松 ( 仕方なくお米の酌で一杯飲む ) 松 か。その方が落着いていいか知れませんといったところお米三どん、ちょっと頼みます。 の しゆくば 暗で、宿場だから親方なそのご存じの処のように、ば「と三吉へえい、心得ました。お早く。 お米 ( 顔をそむけ ) はあ。 ( 廊下へ出ても、名残り惜しさに は致しませんがね。 丑松を瞶めている ) 丑松なあに、ここが俺あ却っていい。邪魔になるまで でいる )
貫助松の奴はさっきから、どう見直しても俺にやうち の親分の娘のおこまちゃんとしか思えねえなんて云って やがるのさ。 そうだよ、俺にや二代目さんの姐御というより は、キビキビ悪態をついて、俺なんか、人間臭えとも思 わなかった娘時分のおこまちゃんだとしか思えねえや 第一場岡の今吉家 おこまそう云ってくれるのも、昔馴染の有難さだねえ。 松 前より八カ年後のこと。春浅き頃。 おこまちゃん、怒っちゃいけませんぜ。おいらそ 武州坂戸の宿の二代目、岡の今吉の家では・、ーー一方は生垣 う思うね、野郎は五年や七年で、そうそう変りもしねえ に木戸がありその外は裏通りの細い道。一方は柵があって : 、女は変りますね。 その奥は空地ーー日当りのいい縁側に、大渡りの大吉が腰大吉ゃい松。又なんか詰まらねえことをいうのじゃね をかけ、善寺の松八、繰り穴の貫助、のぞきの久次が立っ えか ていた。四人とも旅拵え、近くの者ではなかった。 おこま何をいっても、松ならいいやね。 二代目岡の今吉の女房おこまが応対に出ていた。 松八俺はね、このおこまちゃんが十四の時から知って 左右から絹紬を織る梭の音が聞えている。 るんだ、早えもんだもう九年にならあ。娘時分のころの 大吉ちッとも知らねえもんですから、見舞状も出さね綺麗なこと、今と違ってお供して歩く俺の肩身がひろい えで済みませんでした、だが癒くなって、ご安心です の何のってねえや。 おこまおやおや、今は汚なくなったってことなんだね。 ね。お芽出てえ。 おこまおかげ様できようは髭をあたる、そこまでどうや貫助そうら縮尻りやがった。 大吉親分がお見えだ。 らこぎつけたので、やッと少し安心さ。 病後の髭をあたった元の入間の今吉、亡兄の跡をついで今 松 おこまちゃん、少し窶れましたぜ。 は二代目岡の今吉が出てきた。 大吉 こうれ、一一代目さんの姐御を、まだ親分とこの娘 今吉あ、みんな、挨拶は抜きだ、いい ってことよ。病 の気でいやがらあ。 〔大詰〕 松
うとして、足音に驚いて見る。向うから八王子同心組の約十名が 昌なところですねえ 来るを見て、元へ引返す ) 通行人どちらへお行きなさるね。 清太と亀一は人家にへばり付く、同心組の先行隊四人ほど和四郎わたし、わたしは所沢の方からまいりました。 が、和四郎の挙動不審を認め駈け来る。 和四郎が通行人に付いて坂戸の方角へ去ったすぐ後で、家 同心一こらツーーー ~ 付てツ、こらツ。 の中から清太が衝き出され、止める亀一の手を振り払って 今吉が飛び出して来る。 同心ニ待て待てツ。 和四郎 ( 懸命に逃げ去る ) 今吉ええッ口惜しい。 ( 二人を投げ付け泣き出す ) 何で 同心組 ( 叫びながら追って行く ) え、何でえ、手前達は二人も揃ってやがって、兄貴をこ 清太と亀一と、やッと気がっき、家の中へ声をかけ、答え んなことにするって奴があるか。ええツ、うぬ等を引ッ がないので、はいる。同心組の後隊六人はどが駈け来る。 裂いて入間川へ打棄っちまってやりてえ。 同心甲 ( 先に駈け来り、見廻している ) 清太どうも、何とも申訳がありません。 同心乙 ( その他の者は少し遅れて駈け来る ) 何事ですか。 亀一済みません今さん。なあ清太、どうしよう。 同心甲曲者が眼についたらしい、とも角も、参ろう。急清太当分、草鞋を穿こう、他に法がねえ。 亀一俺も、さっきからそう思っていた。 同心組はツ。 ( 先行隊の後を追って駈け去る ) 今吉泣いてるところじゃねえ。その和四郎って奴はど 三蔵の弟、入間の今吉が、血相変えて駈け来る。 っちへ逃げた。こっちか、あっちか。どっちだ、畜生早 くぬかせ。 今吉とッとッと。うむ、ここらだ。おい、おい。何 だ、こりや、どこの家も空ッばだ。おいおい。だれも居清太あっちです。 すたずた ねえのか。おいツ。何だ何だ、昼日中ここの家は戸を閉今吉ようし。さあ、寸断寸断にしてくれなきや腹の虫 ( 戸の て切ってやがる。 ( がらりと開けて覘き ) おいッ が納まらねえ。 ( 損いて倒れる ) 内の声を聞きて ) げツ。本、本当か。 ( 飛び込む ) 亀一あッあぶねえ。 和四郎、どこかで顔を洗い、菅笠を買って冠り、通行人の 今吉くそツ。 ( 飛び起き ) ゃい、うぬ等二人とも、兄貴 あとに付いて来り、やがて話しかけ、道づれとなる。 の葬いのときにや坊主になれ。さあ、野郎。 ( 尻を端折り、 和四郎へええ、川越へ、そうでしたか。川越はいつも繁干し物繩を拾って襷にかける )
2 れて・ハタンパタンいう。二階に客があると見え、女の声が おしか二、三日するとケロリとした顔で又やってくるん きま する。 だ。お極りなんだ、構うもんか。 三吉 ( 戸を閉め、手足に吹きつけた雨を手拭で拭いながら ) こ女の声三どんー・・ー三どウん。 かげ んなに降っちゃ又水騒ぎだね。お庇で今夜は又淋しかろ三吉 ( 奥の方で ) へえ工。 表ロの戸は時を置いて・ハタンパタンいっている。 、つとい , フものだ。 女郎お北。お美乃が客の話でもしているらしく、笑い興じ おしかどれ、あたしや今のうちに、ちょいと寝と , : つか ながら二階から降りてくる。 しら。 ( 生欠伸をする ) おくのそんなことをいって、見世を張るに間がないよ。 お北 ( 出てきた三吉に、銭を渡し ) 三どん、八さんがこれ しんこ おしか ( プウッとふくれて ) おきよさんみたいな新妓とは違あげるとさ。 いますよ。 ( 背のびをして部屋へ行く ) お美乃そのうち半分はうちの熊さんが出したんだから おくの ( おしかのうしろ姿を見送って三吉に ) 小生意気なこと ね。お礼ならうちの人にもいって頂戴な。 こぞうちょう お ばかりいやがる、この頃の妓は増長するばツかりだ。 北こいつめ、相変らず亭主の見栄を大事にするね。 三吉客の我儘より、自分の我儘の方が強いのだから恐お美乃だってさ、惚れてるんだもの仕方がない。 ホホホ。 れいらあ。なあおばさん、玉としてあんなのよりはおきお お美乃ホホホ。 よさんの方がずッといいね。 おくの良いにも何にも板橋中に二人とない妓だが、商売三吉 ( 行ってしまった二人を見送って二階へあがりかけ、表の 戸のパタン・ハタンに気がついて、土間に下りて戸を閉めるとて、 の方はさッばりだね。 ふと見たのは表で雨宿りしている男の姿で、直ぐ商売気を出し 三吉陰気すぎるからなあ。 た ) いかがさあ、もしもし、 おくのあれでホンの些し・ハラ掻きな味があったら、売れ しかがさあ。ご多分のご散 財はかけません。 ッ子になるんだが、惜しいもんさ。 みたて 三吉女がいいからお見立は利くが、ウラがてンで返ら 軒下で雨宿りしていた旅姿の丑松がはいってきた。びッし ねえ、全く惜しいものだ。 より雨に濡れている。 二人はおきよという新妓の噂をしながら奥へはいって行っ た。さっき三吉が閉めた戸が疎略だったと見え、風に煽ら丑松ひでえ雨だね。 ( 濡れた笠、合羽をとり三吉に渡し、 たま あじ
虚無僧が西より来りて足をとどめ、東よりの尺八の音を聞虚無僧 ( 尺八の応答ありしかば、再び尺八を吹く ) 。虚無僧行き合いの作法の音なり。 こた 虚無僧 ( 尺八を吹きて作法に応えつつ、東へ去り行く ) 第二場薬の小判 ( 富士見の老松 ) 主水 ( 佐吉と話しつつ往来へ出ず ) どうもこの辺らしい。 父がお供した法師が、馬方に叱られたというのは。 樹齢六百年以上という松一株ありて、偉観あたりを圧し、 佐吉なあ野辺地、。 こ尊父のそのお話は、三十年前の、 富士山かなたに見ゅ。街道より数丁はいりしところ。 八月二十四日のことではないか。 主水さあ、父にもそれがわからなくなっている、その 松のうしろの方に一梃の駕籠あり、京都より関東へ下向の 頃の日記が見当らなくなっていてなあ。 老いたる高僧の乗用なり。随行と出迎えの僧数多 ( 少くと 佐吉古い昔となると、そうだろうな。が、野辺地、も も二十人 ) が、駕籠のあたりに散在し、うしろ向きなる しわかったら知らせてくれ。先程も申したが、亡くなっ は、景観を睇望しおれるなればなり。駕夫数名は退きて憩 た養父が、袋井在の橋の袂で、旅行く法師から、蘇生の み、今そこには見えず、浜松より出迎えの足軽数人も、退 妙薬を頂戴したのは、三十年前の八月二十四日なのだ。 きて憩みおり、そこには見えず。 同一人ならば、その法師は、わが家の恩人だ、何とでも 熊吉 ( 六十五歳 ) 孫を背負いて西より来る。馬方を今もや して知りたい。 りおれど、倅達の代となりしかば休むこと折々あり、きょ 主水うンよし、わかったら必ず知らせる。では名残り うも休みたるなり。 は尽きぬが、別れる。 熊吉 ( 高僧とその侍僧と、浜松の侍とが、かなたにて眺望し 佐吉又会う日まで健かでおれ。 おるを、振返り振返り ) この児の可愛さキリがない、篠原・ 主水貴公もな。 松原並び松。 ( 松陰の駕籠の美々しさに、頭を下げて通り ) 並 両佐吉 ( 主水が供の者をつれて西へ去りゆくを見送る ) び松。松葉の数よりまだ可愛い 十 九 東よりの虚無僧来りて、立ちどまり、今来た方へ向く 五郎兵衛 ( 五十八歳 ) 浜松よりの帰りにて、土産の小饅頭 虚無僧 ( 尺八を吹く ) 包を手にさげおれり。 佐吉 ( 主水の姿が見えずなりしかば、中間を供に東へ行く ) 五郎兵熊さんや、どこを見て歩いているのだよ。 すこや かごかき きた
たった一人の女二幕八場 〔序幕〕第一場扇町屋の宿第二場二本木屋の内 第三場二本木屋の外第四場二本木屋の内 〔大詰〕第一場岡の今吉家第二場空地 第三場今吉の家第四場坂戸の道 六ッ又の和四郎入間の今吉女房おこま 岡の三蔵二本木屋半兵衛女房おみか 娘おえん片柳与五郎女房おりき 新家茂左衛門保南伊九郎女中おしか 石阪の目吉鏡の清太赤筋の亀一 大渡り大吉善寺松八繰り穴貫助 のぞき久次使者文吉 宿役人・先ぶれ・千人同心・駕丁・そのほか。
身の破滅になるかも知れずと引返す ) お米。 ( 思わず呼んで、自 分の声にはっとなり、逃亡者の臆病さで、警戒の眼をくばり、 衣物を着換え、帯を締める ) 四郎兵衛の畜生、俺の女房を 。 ( 本所の方をぐっと、殺気立った眼で睨んだ ) 第三場元の見世 前に同じ杉屋の見世。 二階から祐次が駈け降りてくる。あとから熊吉、八五郎が つづく。 八五郎 ( 階段の上から ) 祐ちゃん、こっちの奥だってぜ。 祐次こっちか。よし来たツ。 祐次を先頭に、熊吉、八五郎、いずれもお米を銀杏から卸 す手伝いをする心算で、奥へ飛んで行く。医者が供をつれ て一方の奥から出てきた。 おくのが案内についている。 おくの先生さま、とても駄目だろうと思いますけど。 医者飛んだことだったのう。 これも奥へはいった。 お美乃が慌てて奥から出て、一方の奥へ行った。お米を搬 んでくるという先触れだ。 医者を案内しておくのが引返してきて、お美乃のはいった 方の奥へ行く に担がれて、 次を混えた男 戸にのせられたお米の、風雨に晒された屍体が奥から出て 雨戸からダラリと扱帯が半ば垂れていた。お米と仲良しだ った女郎お澄が号泣しながら付いてくる、女達などがそれ に続いている。死体を搬ぶ列が通ってしまった。二階から 丑松が、以前の着物に着換えて降りてきた、もッと前から そッと見送っていたのだ。 丑松 ( 死体の搬ばれた方へ向って黙蒋した、やがて涙を押え、 そッと土間へ下り、表の出入口の戸を開けた。外から風雨が、 激しく吹き込む、顔をそむけて風雨を避け、眼についた米俵 祐次が冠ってきたーーをすッばり冠って外へ出た ) 戸がパタン・ハタンと時々風に煽られる。 死体を搬んで出た奥から妓夫三吉が、何食わぬ顔で出て来 三吉 ( 二階へ目を注ぎ四方を見て、奥へ向って手招ぎする ) 目明し由蔵、袖松がそッと出て来た。 ひきっ 由蔵 ( 三吉の囁きを聞いて ) うむ、そうか。二階の引付け 三吉へえ。親分衆あッしのことは、大丈夫でしよう ね。ヒキを食わせねえでくださいよ、本当に。 由蔵心得てらあな。 由蔵、袖松は、そッと二階へ行く 三吉は、そわそわしている。戸が・ハタンという。 三吉おや。 ( 丑松の脚絆等を検める、在る、小首を傾けて、
、つ A 」、つ ッそりや大変だ。 ( 慌てて階下へ行ってしまう ) た。売った時には今いった高飛びしている亭主だかイロ たかが、のツ退きならねえ金がいるという拵えごとをし丑松おい何だ何だ。ちょッ行っちまやがった。 ( 障子の おいらんした て厭といえば男を召捕らせると脅かす、ふたとこ攻めで 外を覗いて ) 花魁、階下の騒ぎは何事だね。あれ、返事 く・刀し 苦海へ落した。ちょいと非道な奴でさあね。 もしねえで行ってしまやがった。 したじ 丑松 ( 聞いているうちに、今までとは違った感情で、お米と四三吉 ( 取って返して来る ) 親方、親方、親方は、下地から 郎兵衛とを見なくてはならなくなってきた ) そうか。 ( 返事は おきよさんを知ってるんでしよう。そんならあのね。あ 上の空 ) のね。 三吉こんな話をあッしが知ってる訳はねえが、おきょ丑松あの女あどうかしたか。 さんと気が合って、仲よくしているお澄という女郎に打三吉見、見てきました。裏の銀杏の大木の上へあがっ 明けたのが、お部屋の耳へはいりましてね、それであッ て、高え枝に扱帯をかけ、首をくくッて死んじゃったん 0 しが知っている。そんな訳の女だから、親方、一晩きり 丑松げツ。 の女だが、可愛がってやっておくんなさいまし。 丑松で、その太え兄貴とは。 三吉風が又べラ棒に強くなってきたし雨は強し、目の 三吉名は知ってるが、そいつは堪忍してください、あ 前に見えていて卸すことが出来ねえんで、が、もし、元 - 一しよう しやべり んまりお喋舌になるからねえ。 から知ってる女なら後生のためだから、卸したら線香で 丑松そうか、じゃ聞くめえ。あの女の亭主とかイロと もあげてやるといいと思ってね。親方はあの女の亭主だ ったんでしよう。 、刀し、つ田は。 三吉え。 ( 初めて疑いを丑松に持っ ) それはあの女が、ロ丑松なあにーーー他人だ。 三吉 ( 丑松の言葉を信ぜず、的切りそうと観破している ) そ 松を固くしてるから、だれも知っちゃあおりません。 あいかた 丑 チョンチョンとタ食の柝が階下で鳴る、その柝が急にゃん うですか。じゃ直ぐに代りの敵娼をよこしますから。ど の で、人の騒ぐ声が聞えた。二階の廊下を走る音、階段を下 うも余計なことを申しあげて相済みません。へい。相済 暗 りる慌しい音がする。 みません。 ( ジロリと一瞥して行ってしまった ) 丑松 ( 耐りかねて階下へ行こうとする、いや、いや、それでは 丑松何オ ヾ ) 0 ふて きた 力し、
与五郎おえんだと、ああ、二本木屋のか。あんな女のこ となど、あれぎり夢にもみない。おりき、さあ、怖いこ とはない、おいで。なあに、大丈夫だ。 女房を扶けて去る。 和四郎あの男は矢ッ張りおえんにとって、一人女に一人 男じゃなかったんだ。おうツ。 ( 心づいて駈け出し、立ち停 まり ) 今吉さん、遅くともこの秋には屹とくる、その 時、 ( 首を叩いて ) 渡すぜ。 ( 飛ぶが如くに去る ) 目吉等、菰を保南にかける。今吉夫婦は和四郎を見送る。 梭の音のんびりと聞える。 昭和八年九月作
三吉親方は板前さんですか、やそれでは、こんな台の 廊下の遠くからお美乃の声。 物はお目にかけられた物じやございません。 お美乃おばさんーーおばさん。 丑松そういったものでもねえさ。雨はまだ降ってるかおくのはあい。 ね。 階下では妓夫三吉の声。 三吉息をつきっき土砂降りで、あんなにひどい音がし三吉おばさん、おばさあん。 せわ ておりますよ。 おくのはあい。忙しないね。 ( 丑松に ) ちょいとご免なさ 。 ( お米に ) おきよさん一寸頼みます。お召換えはあと おくのが、愛想笑いをしてはいってきたのを機に、三吉は でいいやね、親方は粋なお方だから。ねえ親方、ホホ。 引下って行った。 ( 廊下へ出て ) 何だい三どん。え、え。 ( 階下で何かいうこと を聞きとっている ) おくの親方、お嫁さんをお引合せ申しますよ、ホホホ。 きりよう 丑松 ( お米をじっと見ている ) うちの娘はいい容色ですからね、オッホッホ。 ( 顧みて ) おきよさん。 お米 ( 俯向けた顔から泪が膝に落ちてくるのを、そッと指で消 障子の蔭から女郎おきょになっているお米が入ってきた。 丑松 ( お米だと知った ) あツ、お米。 お米のおきょの方では、初会の客にはいつもそうである如お米 ( 瓦破と伏して泣きかける ) く、恥かしい底に悲しさが強く潜んでいる。丑松の方ではおくの ( とは知らず、廊下から覗き身にな 0 て ) 済みません かりそめ ただ苟且の足溜りだけに、 却って機嫌よく迎えた、もとよ ねえ親方。おきよさん、陽気にするんですよ。親方はい り最愛の女房が、こんな処で肌を売っていようとは夢想だ い方なんだからよく取るんですよ。ホホホ。 にしていなかった。 お米 ( 泣き伏しかけたが、おくのに見られまじと体を起し、袖 、ずま 口を咬んで泣き声を怺えている ) 丑松おう、お輿人れか、どれ居座いでも直すかな。 お米 ( 忘れられぬ夫丑松の声にはツとなり、そッと見あげた眼丑松 ( おくのが階下へ行った足音を聞き澄し、廊下の障子をび に映った最愛の男の顔に、悲しさ忍びがたく、がツくり頭をた たりと閉め ) お米じゃーーーあ , ーーねえか。 れた ) お米わツ。 ( 怺えに怺えた泣き声をあげて伏した ) けげん 丑松 ( 怪訝そうにお米を眺める ) 丑松 ( 驚きに心も声も顫え ) こ、このザマはどうしたこ しお