「養父を討てば源五が、それを聞いて無念に思うこと必定「敵の養父とはいえ、討つには討つだけの然るべき理窟が です。彼奴、それでは隠匿われて安閑としていまいと思い なくては遣れぬではないか」 ます。そうすると兄上、討果せるではありませんか」 「だから兄上は知らぬことにするのです」 「それなら何も、お前が死ぬと決めることはなかろう、遊「弟、お前それをいうなら黙って実行したらよかった。三 かちょう 閑を討てばいいのではないか」 之丞は石井家の家長になったのだ、知って知らぬ振りが出 三之丞は遊閑を斬る気になった、と、彦七が、 来ないではないか。父上はそういうことが大嫌いだったの かたき 「そうは行きません、遊閑は敵ではないのだから」 は、お前も知っているとおりではないか」 そうだ、ない」 「いけないのですか」 「討つべき名分がない さと と、三之丞は斬るべき理由のないのを覚った。彦七が、 「いけぬとは云わぬ、考えさせろというのた」 「そうです、だから、わたくしが死ぬのです」 彦七は夜具の上に屈んで黙ってしま・つた。三之丞は起き 「それは」 て行って、 あさって 「兄上は知らぬことにして、彦七一人が参って討果し、腹「明後日の朝までに、よく思案しておく、今夜は心静かに 切って死にます」 睡ってくれ彦七」 「それはいかん、不承知だ」 兄上もお睡みください」 「兄上はわたくしのこの体が、いつまで保っと思っている 「お前、寝ろ、蒲団をかけてやる」 のです。兄上はわたくしを可愛がって下さる、それは判っ ております、有難く存じています。なれど、兄上のいうよ 「あすの朝はゆッくり寝ていろ、彦七は疲れが出ておりま うにしていては、わたくしが犬死をします」 すと云っておくから。彦七、よく睡てくれ。 この上、 「お前のいうことがよく判った。二、三日考えさせてくれ睡てくれ、兄に善悪とも任せて、何も思うな 彦七」 風邪などひいてくれるな」 「それはいけません、今、やってよいと云って下さい兄彦七は答えなかった、が、やがて、しくしくと泣く声 上」 が、隣りに寝ている三之丞の耳にはいった。 「そうは参らぬ」 「彦七ーー彦七」 「何故です」 兄が呼ぶ低い声を聞くと、弟は泣き声を蒲団の中へ押込
「彦七、高岡の伯父上が何んだというのだ」 んだ。 あいむ - 一 翌朝早く、島木金兵衛の実弟で、高岡家の養子となって「あの人は赤堀遊閑と相婿ではありませんか」 いる高岡三郎兵衛が城から下がってすぐ兄弟を訪れてき高岡三郎兵衛の妻は、遊閑の亡き妻の姉だった、が、今 は亡き人である。 彦七は凄愴な顔を兄に突きつけ、 きのうと違ってけさは晴れわたっている。 三郎兵衛は丈高く、色のやや青い、愛想のない四十余「あの人は兄上、朝と先刻と二度ともあの態度です。あの 無情冷酷さは、赤堀に好意を寄せるものの態度です」 り。親切が内にあっても外に出ない人だった。 しつか ものわら 「あの方はああいう性質なのだろう」 「兄弟、確りせい、返り討ちなどになっては物嗤いだ」 ぶッきら棒にいったのが、聞き方によると、反感が持て「兄上は何ごとも善意にばかり取る」 「お前はその逆だ」 そうだった。 「では、高岡の伯父が赤堀遊閑に好意を寄せている者でな その午後にも高岡三郎兵衛はやって来た。朝来たときと いと、どうして判るのです」 同じく、言葉短く、一点の甘味もなくその上、云い方が円 「彦七、そう苛立つな」 滑でない。 「苛立ってはおりません、決して彦七は狂ってなどおりま 彦七は三郎兵衛が帰るのを待って、すぐ兄に、 せん」 「高岡の伯父様にご用心なさい兄上」 「それならよい」 「どうして」 あぶな 「兄上この地にいては危いと思います」 「あの人は源五の味方です」 「まあよい」 篇と、眼を光らせた。 「よいことはありません」 「彦七、滅多なことをいうな」 「彦七、騒ぐな地下の母上が叱るぞ」 兄「あの人は兄上」 弟は黙って兄を見つめた。 源「いうなーー彦七、母様のお墓へ参ろう」 夕日がそのころ、西の空を赤く染めた。タ鴉が何を呼び 石朝の霜が解けずにいる墓の前で、石井兄弟は、西へ廻っ あわただ 交うか、近い木の枝で、慌しく啼き立てていた。 た日の弱い光に照らされている。 「彦七、帰ろう」 庄太夫と孫助は左右の見張りに立った。三之丞が、
彦七はロが乾いたので黙った。黙っていると、暗い陰気 「兄上の方から突ツかかるではありませんか」 「いけないな。こういう話の仕方はいけない。彦七、もツな顔になる。 やわら 三之丞も黙った。矢張り暗い陰が出た。 と不いでくれ」 「兄上こそ和いで下さい。あなたのその顔は、わたくしを孫助は先ほどから、三之丞、彦七を見つめていたが、二 叱っている顔です。何故お前は遊閑を討てと、あんなに勧人が争いで、われ知らず高くなる声に、はらはらしていた めたのだ、お前が勧めなければ源五如き奴の建札文句にヒ ケ目を感ずることはなかったのだと、先程から兄上は、わ「お二方様」 と、注意するともなく、出発を促すともなく、声を掛け たくしを絶えず叱っていた」 ひが 「何を僻むのだ、俺はお前を叱ってなどいない」 兄はすッと起った。 「叱っている、寧ろ怨んでいるくらいだ」 弟も起った、が、 体が懈いらし、。 「もう止めろ、他の話をしたい、俺は」 ひし 二人はめいめい別に、遊閑を討った趣旨と手段に、取返 「兄上は建札の文句に、挫がれている、そうでないと云う しのつかない濁りを感じている。 のですか」 ばんばさめ 兄弟の憂鬱は、番場醒ケ井あたりからまず去り初め、今 「お前は兄を、そうだとしたいのか」 せきがわ 「そんなことはありません。だから云うのです。遊閑に罪須へかかり、関川を越える頃には彦七の血色が旧に戻り、 きやっ むろはら があります。堅く、あります、彼奴には」 「兄上、室原が近くなりました」 かしやく と、微笑む、温和な弟になった。 「俺は、そのために、いに、苛責などないのだそ」 もつけ 「それは結構です。兄上、遊閑は源五と同腹だったので「うむ。旅には勿怪の好い日だ」 三之丞も晴れ晴れした顔をしている。 す。それだから彼奴は、浪人を抱え、厳重に身を護ったの ではありませんか、おのが心に疚しくないなら、なんで、 「兄上は大坂へお便りなされましたか」 「丹羽殿か」 夜の外出を拒み、厳しく要慎するのですか」 丹羽孫之進には弟十三郎が預けられてある。近日十三郎 「そうだ、お前のいうとおりだ」 と、三之丞は早く和解したくて言葉に力をこめた、が、 は広島の叔母に引取られる筈、今ごろは既に大坂を発った うつろ かも知れない。 その力は心の底には届かず、どこかに消えて洞だった。 やま 、 ) 0 いみ、″ だる かげ
だとかいう類のものが多い。本望成就の瑞祥かと思い、何 「兄上、ご不自由のためではありませぬか」 か吉報でもあるかと参ったのだが、そうか、お前、亀山へ 「どうやら食っているから心配するな」 行けるのか」 「とにかく、わたくし所持の銭を、差上げましよう」 「今度こそは、無理を押しても仕遂げましよう。さもない 「お前、困難しはせぬか」 「わたくしは、寝る処も食べるものも、ご主人様がくださと彼奴も五十に近い年ですから、そうそう壮健でもおりま すまい」 れております」 「うン、今度こそはだ。それについて弟、わしは宿で泊り 「そうだったな。では、貰うそ」 あわせの虚無僧に聞いたのだが、敵討ちは江戸御町奉行へ 「兄上」 ひめ あらかじ 予めお届けいたしておかぬと、負け目があるそうだ」 「なんだ、そんな顔して」 「でも三之丞兄のときは、そういうことをしなかったので 「ご空腹なのでしよう」 「いや、心配するな」 源蔵は人足になった。車の後押しに使ってもらい、道路「うン、あの頃はあれでよかったらしいが、今はそうでな のつくろいに使 0 てもらい、火事の焼け跡を探して灰掻き 兄弟は白い息を吐きつつ、手を摺りながら、立話をつづ に雇われたり、辛くも、その日を送っている。 北風がやや強く吹く午後、日にやけ、痩せて眼ばかり光けている。その日はひどく寒い。 「兄上、わたくしは兄上が、お可哀そうでなりません」 る源蔵が、つづれの薄着で、寒そうに、桜田の板倉家の前 をうろうろした。 「何故だ」 篇半蔵がそれと知って出てくると、源蔵の顔が活々と、光「江戸へ出てから、御難渋がひどうござります」 「どうもこれ、致し方がない」 るが如くなった。 「ご辛抱ください兄上」 兄半蔵も顔に活気がれている。 「うン、辛抱するとも。なあ弟。わしは今、実のところ、 源「兄上。来年五月か六月には、わたくし、亀山へ行けそう 辛い。しかしな、先々に成すべきことがあって忍ぶ辛抱だ 石です」 さか から、それを考えると、意気旺んになる。とは、云うもの g 「そうか。弟、妙ではないか、この頃、わしの耳へたびた のみしらみ びはいる言葉は、めでたいとか、しめたとか、或は大丈夫の、時には、夜更けに、蚤虱にさされながら、心が迷って
「狼狽えたのですか兄上」 巻、白襷が物々しく、見えっ薄れっしている。 叱りつけて進もうとする半蔵の胸に、手を当てて源蔵 半蔵はわッと歓声をあげ、 「兄上、一騎です一騎です、たった一騎です」 「違う、違う、違う」 一騎ならば兄弟二人で、競いかかって討ってとるに何の と、叫んだ。 雑作があるものかと、半蔵は、早や、邀え討っ気で駈向わ ちかま んとした。 馬は躍って兄弟の近間にある、立っ砂煙りが鼻を撲っ 源蔵も眉をひらいて、 馬上の武士は血走っている眼をきらりと、道端の兄弟に 「たった一騎か」 向けたが、 と、声が綻びたように笑い、弟のうしろから駈向った。 「はいお、フウ」 砂煙りを立てて、近づく馬乗の士の目鼻が、わかるほど と、声をかけた。馬は風を旋いて兄弟の傍らを過ぎて行 に近くなると、半蔵が、 きやっ 「兄上、彼奴の顔をご覧なさい」 と、振返った。躍りあがり躍りあがる馬のすがたが、蹄半蔵はびッくりして、 の音とともに、飛びつく如く近い 源蔵は眼を剥いた。見れば馬上の士の顔色が、余りに青呆れて見送る眼に、逞しく動く馬の尻と、突きあげた尻 尾とが、新しく立っ砂煙りに薄れて遠退き遠退きしてい る。 半蔵は人馬が近づいて十二、三間となると、 篇「わたくし、馬を斬ります、兄上は人を」 「兄上何でしよう、今のは」 後 と、低く叫んで刀に手をかけて突き進んだ。 「さあ、何処かの御家中だろう」 「よほどの大事とみえますが」 兄「待て弟」 「馬上の人も馬も、満身、汗淋漓だったが」 源「何をいうのですか」 石半蔵は袂を捉えられたが、振向きもせず振切った、その源蔵は亀山の方を見た。朝の涼しいうち一里二里でも と、旅を急ぐ人ばかりが街道の上に見えるだけ、討手らし 前へ源蔵が飛んで出て、 、杉亦よよ、。 「待て待て」 つ、 ) 0 こ 0
「そうしたら、さそ源五の悪運がいよいよ盛んになるでし 「あります」 よう。兄上は何をボンヤリしている。敵は、この辺に最早「何が」 おりません」 「云いますまい」 「おる」 「云え」 「いません。いるというなら、たれが何処で、源五の姿を「聞きたいのですか、では申します。兄上は、一度、大坂 見かけましたか」 へ帰りたいでしよう」 「それはだれもない。見かけたら逃がさぬ。見かけはせぬ「馬鹿。本望を遂げぬうちは、帰りたくても帰れぬ、何を が、そのくせ、どこか近くにいて、われわれをひそかに狙馬鹿な」 っている、としか思えぬ。それだからここで機の熟するを 「だから、余計、募るのです」 待っているのではないか」 「何が、募る」 おうち 「おらぬ者を待っと、機が熟しますか」 「市瀬市左衛門殿御内の、或る人のことです」 「おらぬという証拠はあるまい」 「馬鹿なことを又いう」 「おるという証拠を持っていますか、ないでしよう。何故「肌身に何をつけておるのですか、兄上。弟のわたくしに だか知っていますか、教えてあげましようか、それは確か隠して、何を大切に、肌身放さず」 におらぬからだ」 それは彦七が、いっか見てしまった三之丞の、隠し持っ 「弟、そう苛立たずに」 ている守袋のことだ。 「兄上と一緒にいたのでは、生涯、源五に出会えません。 守袋は市瀬の娘のつくったものである。 「彦七お前は、三、四日前、垂井へ出たな」 帽わたくしは一己でやります」 「 .. はにツ 「話を逸らすのですか。ええ、出ました、どうかしたので 兄さすがに三之丞が憤激した。彦七は拳までふるわせ、一すか」 源抹の冷笑さえ浮かべ、 「一人で出てはいけないぐらいは、知っているだろう」 石「わたくしが別になれば、兄上は気兼がなくなるでしょ 「一人ではありません。茂七、又八郎と三人です」 1 、つ」 「それはお前が一人で、垂井で、酒を飲んでいると聞き、 あやま 「何の気兼だ。兄弟の間で、気兼があるか」 又八郎、茂七が、過ちあっては取返しがっかずと、行って
に、それとなく養生させたいと思ったからだ、三之丞のい 暫くして弟を見た、前のとおり彦七は夜具の上に坐って うことが判るか彦七。お前を敵討ちからハミ出さそうとす ありか 雨がやんだのか音が聞えなくなっている。 るのではない、敵の行衛を探り、在所を突きとめるまでは 兄かする、敵討ちは必ずお前を呼んで、二人揃ってする、 「彦七」 こう云っているのではないか。然るにお前は、腹切れとい たわごと うのかとか、自殺を命ずるも同じだとか、狂人の囈言のよ 「言葉が荒かったようだ。兄は怒ってはいない」 うなことを云う。お前には兄の心のうちが全でわからない のか」 「お前、大坂へ帰らないか」 「兄上が判っていないのです。わたくしは死ぬのを怖れた 「大坂の何処へです」 り悔んだりしておりません、大死するのが怖いのです」 「丹羽 ( 孫之進 ) さんへ」 「なんだと。もう一度わかるように話せ」 「わたくしは途が一つしかありません兄上。その一ツの途 「それが厭なら広島へ帰れ、庄太夫を供につけてやる」 いくらか 「何をいうんです。そんなことをいうのは、わたくしに自とは、兄上の手伝いに幾何でもなって死ぬことです」 「死ぬとは、どう死ぬというのだ」 殺しろと命ずるも同じです」 「判らぬことをいう奴だ。その病弱で、艱難の多い敵討ち「わたくしはやがて病死するでしよう、病死が怖いので す。兄上わたくしに遣らせて下さい、源五の養父を討果す の旅がつづけられると思うか」 ことを兄上。そうすれば彼奴無念に思って出てくるに違い 「それだから腹切れですか」 うろた 篇「狼狽えるな馬鹿。お前の自殺を喜ぶ三之丞だと思うか」ありません」 「赤堀遊閑を討つのか」 「それでは彦七に敵討ちをやめて帰れと何故いうのです」 あたり と、三之丞は四辺を見廻していった。 兄「お前が可哀そうだからだ。その病弱でこういう荒々しい ここは石井兄弟の伯父の家ではあるが、赤堀遊閑にも縁 源ことは無理だった。出立以来、今日までお前が艱苦によく 石耐えてきたのはよく判っている、しかし、兄はお前が苦痛故が深いから、遊閑を討っとなると恐らく大反対するので こら を怺えて一歩も遅れまいとして跟いてくる、その無理を押はなかろうか。 彦七は兄の手を犇と握り体を摺寄せて、 す様子が見ておられぬ。大垣へ立寄ったのも実は、お前 まごのしん ひし きやっ
れ、やみやみ死ぬか」 今、はいったばかりで、四辺が暗い。半蔵が、 「と、申されると」 れ「兄上。どこで死にましようか」 「他に、兄弟両人、往く途があった」 「 , っン」 「亀山を立去るのですか、それは兄上、不同意です」 「刺違えるのでしよう」 ぶつか 「いいや、そうでない。討入りだ」 「弟。死んで悪鬼になれ、必ず、仏果など得るな、仏法も 狗鼠もあるか。水之助の眼前でやろう。血を地下深く沁み「えツ」 こませ、だれ彼れなしに祟ってやる。彼奴が息を引取った「死にかかりでも、息があるうちは我が仇敵だ。踏込んで ら、すぐさまだ。しかし、早まるな、早まっては末代まで首打落し、仇討ちする。酷いというものは云え。彼奴が、 われわれ兄弟四人に与えた酷さに較べ、どちらが酷い」 の恥だ、この上、死恥まで掻いてたまるか」 しい、ご思案です、遣りましよ、つ」 「兄上、わたくしは辞世を作りたいと思います」 あまた 「彼奴の枕許には人数多がいるだろう、傍杖くって死傷が 「作れ。俺は作らぬ。遺書も要らぬ。だれに辞世を示す、 だれに遺書を見せる。俺が今、願っていることは、どうす出来ることなしと云えぬが、是非に及ばぬ」 れば世にも稀な、むごたらしい自殺が出来るか、そのやり「兄上。無二無三に斬り捲くりましよう」 方を思いっきたいだけだ。死んで俺は、悪霊となってくれ「妨げとなるものは老幼婦女子たりとも、この期に臨んで 見境つけるな」 る、必ず、なってみせてくれる」 雲から漸く出た月も痩せ細っている。兄弟の姿も又痩せ「承知しました」 俄かに元気が喚び起された如く、兄弟は、赤堀水之助の 細ってみえる。 源蔵と半蔵は、とばとばと再び歩いた。侍街の夜更け屋敷へ急いだ。源蔵が、 「本意を遂げたらその場を去らず刺違えて死ぬのだそ」 は、通行するものが一人もない。 赤堀水之助の屋敷の外に、駕籠が一梃ある、医師中西四 なんとしたか源蔵が、急に、 庵が来ているのだ。駕籠担ぎは門のうちで、手足を炭火で 暖めてでもいるのだろう、人の影は一つもない。 いった。半蔵が驚いて、 源蔵は弟の手を突然に握り、 「どうなされました兄上」 「間違った間違った。自害の思案はよくない。なんのおの「弟、用意はいいか」 さむらいまち
「兄上、御待遠でござりました」 「うむ、わしと心づかずに行った。弟、今夜やるか」 「さ、早速、仕度しろ、わしは仕度をしてしまった」 「いえ」 「まだ間があると思います。仕度を整えましよう」 「いえとは」 「先日、兄上が急にわたくしのいうとおりなさると申され源蔵のもっている包の中は、着込みと、垢のついていな い単衣である。 たのが、気にかかりまして」 「刀はこれにあるそ」 「そんなことは、いに留めるな」 「はあ。兄上、わたくしが悪うござりました」 仕度の終った半蔵は、脱いだ仕着や脇差を、包に拵えて 「悪いことはない」 「いえ、わたくしは、いっぞや京都で孫助が、兄上とわたそこへ置い くしの手と手とを握らせ、涙をそそいで云うたことがあり兄弟二人とも、それ以来、一言もいわず、緊張して人を ます。あれを忘れていたのでござります。亡き両人の兄上待った。 ふしゅび 待たれているのは赤堀水之助である。明日は故平井才右 の不首尾は、兄弟の不和にあったというあれです」 衛門の初七日だが、出仕の日なので水之助は法営に列なれ 「気がついてくれたか、それは嬉しい」 え・一う 「主人が歿くなりますと、成程、兄上の仰有 0 たとおりでない。で、今夜、繰上げ回向にくる筈である。それをここ ほうべん ございます。方便の主人とはいえ、とても、あの愁傷を目に待伏せ兄弟二人、名乗りかけて、二十四カ年目の復讐を つやとむら にみて、通夜葬いに、仇討ちする気になれませぬ。それで遂げる、そういう晩だったのである。 やや時が経ったが、 水之助は通らなかった。 は主人の冥福の障りになる気がいたします」 のべおく 篇「そうか・ーー弟。野辺送りが済んだら、是ッ非、やろう源蔵は粘り強い、黙って、飽くことなく、道路の一方に つもいうようだが二十四カ年になる注目している、が、半蔵は焦慮った。 ぞ。父上横死以来、い 弟 「いかが致したのだろう。確かに参る筈だのに」 兄からなあ」 源 「気を揉むな、来るものならば来る」 石平井才右衛門の野辺送りがすんで七月はじめ、秋風の吹「はあ、確かにくる筈です」 く夜、源蔵が江ケ室外れの東丸近くに、包を小脇に立木の水之助が今夜 " 繰上げ回向に参上。と自分で、手紙をか いて中間に持たせてきた、それを、半蔵は見ていたのだか 幹に隠れ、弟半蔵を待っている。やがて、半蔵がきた。 ひとえ しきせ
「兄上、二人だけです、彼奴はいません」 「そうしてくれ。彦七、あれへ行こう、庄太夫も来い。篤 2 「後からくるのかも知れぬ」 と相談の上、思案も新たにせずばなるまい」 「成程、屹とそうでしよう」 「と、兄上、運を天に任せ、討入るのですか」 が、遊閑はこない。 「それを篤と相談したい」 庄太夫は程なく、面目なげに兄弟の前にきて立った。三 それから間もなく、さっきと別な提灯を持った者が赤堀・ 之丞が、 屋敷の方で立ち停まった。 「ご苦労だった。先方の返辞はどうだった」 三之丞は低声で、 「残念でござります」 「庄太夫。彼の屋敷にいる浪人は幾人だか、判らぬか」 「残念というと、彼は不在か」 「三人は確かにおります」 「いえ。居るに違いございませぬが、夜の療治はお断り申「三人か。五人と聞いたがー・・ー少くば三人、多くば五人と すといいまして」 思えば誤るまい」 「執拗く頼んでみたか」 「兄上、塀を乗越え、忍び込んで討入りましよう」 「必死になって頼みました。人の一命、助ける心がないの 「その他に手段がないが、彦七困った」 でございますかと、いろいろに申しましたが、なんといわ「なんでござります」 れても断ると申します」 「あらましの見当はついているが、屋敷の内の間取り、部 彦七が兄に顔を寄せ、 屋の様子、それを充分に調べてない。 こりや、用意が不足 「彼奴、覚ったのではないでしようか」 「庄太夫、そういう様子はないか」 「それを申していては事が行えません。無二無三にやりま 「覚ったのかも知れませぬ。屋敷の内に、怪しげな浪人がしよう。わたくしどもに正当があり、彼等に不当があるの めいじよか 1 一 両三人、うろうろ歩いておりました」 ですから、神明の冥助加護があると思います」 「ふうむ、覚ったとすると、逆に彼から寄せてくるかも知「そうかな。兄はそうは思わぬ。人事をつくしたから加護一 れぬ」 がある。そ、つ思うな」 孫助が進み出で、 「兄上」 「わたくしが見張りを仕ります」 「なんだ」 きっ つかまっ