大津 - みる会図書館


検索対象: 長谷川伸全集〈第5巻〉
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1. 長谷川伸全集〈第5巻〉

「上人、それでは百日ばかりの間、お目ざわり仕る。申すて、そこの責任者にな 0 ている池内治郎兵衛が血のちかい までもなく我々が求めているのは、尼子長兵衛を殺害した親族なので、権左衛門はこの地に草鞋をぬいだ。酒井は上 二人の男のみです」 野の国厩橋 ( 前橋 ) の城主で、ズ・ハ抜けた政治力をもっ老中 尼子側は川舟を雇って水陸の双方から長源寺を遠巻きに なので、かくまわれるとしたら安全地帯みたいである、そ れもあり又、ここは二十数年前に " 小浜の殿〃の先代が、 夜があけて二十一日の朝になると、二宮権左衛門と小梶大津城に籠って、石田三成側の包囲攻撃をうけて落城し 太三郎とは、きのうの夕暮れ前に、長源寺下の南川を川舟て、深く惜しまれた因縁があり、権左衛門の亡父もそのと で、南をさして行ったと噂がながれた。今度も重役と町奉き籠城の侍大将であったので、古い知人がいくらもいて、 行がやらせたことだが、流言でなくてこれは事実で、二人第三の故郷ぐらいに居心地がよかった。 は尼子側が川舟を雇うにいたらぬうちに、つまり山田屋敷権左衛門は大津で槍の先生になり、表向きは変名をつか に駈けこみをやってから、時間がたいしてたたぬうちに、 ったが、心安いものには本名を隠しておく気がないので、 脱出してしまったのである。 いっとはなし、本名が変名とおなじくらい土地のものに知 ながたず 藩はやがて権左衛門と太三郎を〃永尋ね〃にした。藩はられていた。 たりようたこく その両人が、小浜九万二千石の勢力の及ばない他領他国へ丹後の田辺にいる小梶太三郎は、故郷の有難さで、土地 かたき いったのを知っているのである。 のものすべてが味方なので、敵もつものの常なる、用心な 権左衛門は前にいった如く、藩主の姪の夫であるから、 ど自分ではしないでも、地元のものがやってくれる。 重役も町奉行も手ごころを加えた。手ごころにも、節度あ年月がたってゆくうちに、太三郎は故郷で妻をむかえ、 えこへんば る手ごころもあれば、依偏頗の手ごころもある。 権左衛門も大津へこっそり妻を呼んだ。二人の敵もちの身 何ごともなく年月がたった。 四 尼子四郎兵衛といって、備前の国岡山の城主池田相模ノ 小梶太三郎は丹後の国田辺が生れ故郷なので、二宮権左守 ( 侍従兼・雄 ) の侍がいた。二百石で足軽頭である。二 衛門とは近江の国大津でわかれ、権左衛門は大津にのこっ百石ではない四百石だ、イヤ五百石だともいう。姓が尼子 なのだから小浜の尼子蔵人、殺された尼子長兵衛と同様 うたのかみただよ 大津にはそのころ酒井家 ( 雅楽頭忠世 ) の蔵屋敷があっ に、いずれも山陰道の名家である尼子の系統である。 、 ) 0 こも

2. 長谷川伸全集〈第5巻〉

こととなった。病身の彦七の体はその後、余り悪くならず してーーと、源五右衛門がいない、今そこにいたのにいな くなっているのに気がついた。 広島には丹羽三太夫夫婦がいる。三太夫の妻は宇右衛門 「源五右衛門殿」 の妹だから、三之丞、彦七には叔母である。従兄弟の石井 と、呼んでみたが風の声ばかりが聞えている。 九太夫、弥五兵衛兄弟もいれば、おなじく従兄弟の田中伝 右衛門もいる。 室原御勝山 石井兄弟主従は、延宝二年の春を広島で迎え、二月近く なって、再び敵探しの旅にのばった。兄弟の旅費は、親族 か醵金して贈った。 石井三之丞、彦七が赤堀源五右衛門に与えた公開状は、 びぜんおかやま 板に書かれて、京都五条の橋東詰に建てられたのが最初源五右衛門の従兄弟が、備前岡山の池田家に仕え、今西 で、伏見の京橋、大坂の京橋にも建てられ、次いで、大津半助といっている。或は源五右衛門がそこに隠匿われてい るかも知れないので、上方のばりの途中、岡山城下へはい 八丁にも建てられた。 大津八丁は、東海道、東山道、北陸道の、京都上りの要り、侍街に屋敷のある今西方を偵察してみた、が音信不通 しゆく 地であるのみならず討果された赤堀遊閑を、宿のもの大抵同様になって ) 年月がかなり経っていると判った。兄弟主 が知っている。それだけに事件の内容を人に知らせ、曲直従は京都に赴き、源五右衛門の伯父なる伊藤検校方を、も を明らかにしたかった。その一方、源五右衛門の眼に触れう一度、念を入れて探ってみた。そこにも源五右衛門は立 うじいえないき るのは、此処が第一ではないかと思えたので、大津八丁旅廻っていなかった。江州坂本の日枝神社の社人で氏家内記 も源五右衛門の伯父である。先に一度、そこも探ったが居 篇籠の辻には早々に建てた。 これらのことは石井家の親族知己が引受け、石井主従四なかった。しかし、今は来ているかも知れずと、孫助、庄 てづる 兄人は、建札に集る人々に混り、何がな手蔓もがなと探るに太夫が参詣人となり、旅の物売りとなり、手を尽、してみた 源熱心だったが、京都、伏見、大坂、引返して大津、どこでがなんの形跡すらない。 坂本を去って京都に戻った三之丞は、 石もその効がなかった。 かいも・、 延宝元年の極月の終り近く、石井主従は、皆目、手掛か「彦七、でない八木重助。美濃へ行こう。どうも美濃にあ 、つま潜っていると思う」 りのない源五右衛門の行方に当惑し、ひとまず広島へ下るしを ごくげつ はんすけ

3. 長谷川伸全集〈第5巻〉

等裁判所に於いて審理す、どなった。 糸は屋根瓦の破片をひろって硯をつくり、木炭の粉を水高田義甫のことは、糸の事件から生じた波濤である。そ ちりがみ にといて墨とし、紙を撚って筆にし、ひそかに歌を塵紙にれにしても明治戊辰とその前に、全国の諸所にあった勤 書いていたのを、監守に見つけられ、詠草を没収された。 王・佐幕の暗殺事件が、殺人罪に問われ、十年刑となった 歌は「子を思ふ心の闇にふみ迷ひ道をたがヘし身こそ恥かのは、まことに稀れなることである。或はこれ一つだけか し」、「世の中に憂きもつらきもある中にわが身にまさる憂も知れない。 ( 村上六郎等の高野山一件も処罰されてはいるがこ の場合とは筋合いが全くちがう ) きはあらじな」である。 この二首の歌は後に、裁判所長の手にわたった。 明治八年の四月に近くなっても、糸の審理はおわらな 糸は大津の監獄内の女監で、許しを得て、ほかの女囚た ちに心の故郷をつくって与えた、廃物をつかって作った人 形、残飯でつくった碁石そのほか、獄外に買ってくれる人 がある実用手芸品のいろいろ、それから文字の読み書き、 しそく 明治八年 ( 一八七五年 ) 四月、東京の高田義甫は、近日の実用文章の綴り方、四則の算数、等々、目的と形式とは世 うちに滋賀県から逮捕にくる、ということを知った。宮田の中のそれとは違うが、実質では疑うべくもない女子教育 忠左衛門殺害の犯人として、処分されるのである。 の監獄内の学校である。糸は女囚たちに敬愛された。 そむ 高田は東京の花に背いて故郷の近江八幡に帰り、訣別の 小宴をひらいて、大津にいって自首した。その日すぐ、揚高田義甫は小川町の監獄の近くに、柴屋町という遊廓が 子町にある徳川時代の牢屋がそのまま、大津監獄となってあって、絃歌が聞えてきて囚徒の心を掻きむしる、と知る いる、その中の未決監に入れられた。 とすぐ、『監獄移転論』をつくり、司獄の手を経て県の長 明治九年七月、高田義市は他人のことは全く口に出さ官に提出を乞うた。 ず、一言の反論もせず、懲役十年の判決をうけ、直ちに下高田は許可を得、獄内に、事実上の学校をつくり、読み 獄し、大津小川町の既決囚のみの監獄に移された。 書きを教え、実用算数を習わせ、人間の践むべき道を説い その翌月 ( 明治九年八月 ) 東京上等裁判所で、糸は情状をた。強盗もペテン師も無頼漢も親泣かせも、高田のおとな 酌量し罪二等を減じ、懲役三年、という判決をうけた。 しい生徒にみンななった。もっとも腕ずくになって、高田 ふるさと

4. 長谷川伸全集〈第5巻〉

ら、父上のご無念は遂にはらせないで終ります」 くれるな、何事も兄弟二人、熟談の上でやろうではない 力」 「それは取越し苦労だ。敵の病死を懸念するなら、只今だ とてじッとしてはおられないではないか。今、直ちに源五 めぐりあ 「彦七、叱るわけではない、聞くだけだ。何故、だれにもに邂逅わねば万事休すと考えるのと同じだ」 告げず突然に発ったのだ」 「そうです、それだから彦七は無断で発ったのです」 「大津を目ざしてな」 「返り討ちになりたくないからです」 「だれに」 「そうです。わたくしが遊閑を討果します」 「さあ」 「高岡の伯父が手引きしそうです」 「彦七、落着け。どうしてそんな妄想をかくのだ。お前ら「兄上、わたくしでは返り討ちになると思われるのです しくないではないか」 力」 「わたくしが卑怯者だというのですか」 「いや、そうではない」 「そうは云わない。高岡の伯父様は武士だ、そんなことを と、云いはしたが、どうであろうか。衰弱している彦七 なさる筈がない」 は、きのうよりきよう、血相も悪く、眼の光も濁って 「わたくしは油断がならぬと思っています。わたくしが突る、恐らくは仕損じて討たれるだろう。 然に発ったので、兄上もお発ちになりました、これで兄弟「とにかく、大津へ行こう」 二人とも、返り討ちになる惧れが、最早なくなりましたか と、三之丞がいい出すと彦七はにツことはじめて笑い ら安心です」 「参りましようーーしかし兄上、遊閑はわたくしが討つの 篇「兄はそう思わない」 です、よろしいのですね」 「、つン」 「その油断がいけません。わたくしども二人が返り討ちに 弟 兄なると、源五を討つものがありません」 弟を賺かす心算で仮に同意した。 源「ある。いつも云っているではないか、十三郎、亀之助の石井兄弟主従四人は、それから垂井へ出て、柏原へ向 石二人がいる」 い、中仙道を順路、大津に向った。その道すがら三之丞 「あれ達は六歳と三歳ではありませんか。十年経ったとては、彦七の健康が思ったより悪いので気を揉んだ。 十六歳に十三歳、その十年の間に源五がもしも病死した とも、心づかず彦七は快濶に振舞った、が、すこしばか

5. 長谷川伸全集〈第5巻〉

きなので、大森などの病死者のことなどは、気にかけもし胸を突いた、そのためである、というのである、が、その 致命の疵の有無を証明するものは何もない、死体は埋葬し 与惣左衛門の死は、衆目のみるところ、頓死、というこて満一年を越えている、検視したところでそのころの能力 とになり、理葬がすんだ。頓死とは脳溢血とか心臓麻痺とではわかる訳がない。 かのことだとい、つ。 そうなると密告と自白が一致するか、しょ / し、刀 / ・刀 この呑ンだくれの武芸者あがりの無職の男には親類縁者拷問を用いつつの糺問は、密告に口を合せた自白をさせが がない。糸が喪主になった。 ちである。糸の場合、そのどっちであったか、わからな 明治五年 ( 一八七二年 ) 十一月二十六日、 八日市警察署が 先ごろ設けられ、大森はその管轄なので、大津裁判所から県庁所在地の大津に送られた糸は、揚子町にある囚獄所 らゆうとうぞく たかあき 中等属宇津木孚明が出しぬけに出張してきて、布施糸の逮に入れられた。未決の女囚としての収監である。 捕を命令した。 まつだ 八日市警察署へ着くまでの糸は、後の世でいう容疑者扱近江十二郡がすべて滋賀県に統一され、県令として松田 みちゅき をうけた。警察署にはいってからは、・ カラリと変って罪道之が赴任していた。松田は糸の断罪に疑いをもっていた 人扱いで、宇津木中等属の糺問は峻烈を極め、それのみのであろうか、未決のままにしておいた。糸の詳しい自白 か、大津から連れてきたものが、元はどこかで検索逮捕をはある。与惣左衛門には殺されそうな条件が揃っている、 やっていた者らしく、物なれたやり方で糸を小ッびどく拷 だが松田道之は断罪を許さない。 問にかけた。その日のうちに自白させる予定とみえて、遮女監にいる糸は体がよくなると、女囚たちに、手芸と文 二無二、責め問いして、その日の夜半に、半死半生になっ 字の読み方と書き方とを教えたいと、願い出て許された。 つま 相た糸が、あるかなきかの声で、殺しました、というのを聞糸はいきなり読み書きを学ばせず、摘み人形、袋物などか ちくとロ供書をつくり、手をとって既に書いてある名の下ら、花かんざし、紙細工などを教えながら、読み方も書き に、爪印を捺させた。 方も、必要が生じるのを待って教えた。 日糸は朝になっても、このまま死んでゆくのではないか、 松田県令が断罪させなかったのは明治六年一杯つづい うめ と思うくらい、き苦しんでいた。 この逮捕は密告に拠った。与惣左衛門の死は糸が短刀で 明治七年一月、糸は東京市ヶ谷の女監に移され、東京上 とんし

6. 長谷川伸全集〈第5巻〉

274 ふびん 「そうか京都になーーー待てよ。ふうむ、そうか、瀬兵衛っ だな。辛苦さぞかし、不便なーーー」 らつら考うるに、敵には、数人味方がある。決して源五有 三之丞は面目なげに、 「諸所を尋ねましたが、遠国へでも逃げ去りましたもの衛門一人で逃げ隠れしているのでない、というは、垂井 ゆきかえり 大垣は二里半、往復で五里、一手で二カ所は、よも建てら か、皆目、手掛かりがござりませぬ」 「いやいや、決して遠国へ逃げておらぬから安心せい。それまい。してみると、数人、彼に付添っているに相違な れそれ、今月はじめごろ、垂井の玉泉寺前に、赤堀源五右し、大津八丁の建札も、垂井大垣の建札も殆ど同日、多分 は、京都五条の建札も日はおなじであろうな、さすれば味 衛門名義で、建文があった。写しとらせて、これにある」 方すくなからず。それはそれとして彼等が、垂井、大垣一一 彦七が顔をさッと赤くし、 里半の処にわざと二カ所に建札したのは何んの意か、それ 「垂井の宿にも建てましたか」 を解かぬといけぬ。三之丞、これを何んとみる」 「わたくしどもは大津八丁で見ました」 かたず と、三之丞が落着いて、しかし、固唾をごくりと呑んで「わたくしどもを美濃へ引き寄せるためではござりますま し力」 いった。瀬兵衛が、 「大津八丁にも建ったか、ふうむ。こちらではな、垂井宿「彦七は何んとみたか」 と大垣御城下ご高札場脇と、二カ所に建てられたーー兄弟「兄三之丞とおなじに考えます」 しまききん・ヘえ よく聞けよ。御城下の分は、島木金兵衛に見せる心算に違「そうだ。彼等は、おぬし達を引き寄せ、返り討ちの目算 いない、島木がおぬし達の力になっていること、こりや、 敵の連中どもよく知っていてのことに違いなし、又、垂井瀬兵衛のこの推定は的中していた。 瀬兵衛は熱中して、 宿に建てたるは、わしへ見せるためだ。この大飼瀬兵衛が 「敵は美濃にいる。よし、美濃におらずとも、すぐさま、 おぬし達の力になること、云わずと知れているによって、 間にあう土地に隠れているに違いない。三之丞、彦七、こ 彼等のやったことは、これ島木金兵衛、犬飼瀬兵衛の両 つる こ暫くは剣の刃渡りだぞ」 人、この建札の文を見て、三之丞、彦七に知らせてやれ、 瀬兵衛の説では、赤堀源五右衛門は恐らく親族中の血気 と、こういう遣り方なのだ」 ひきやく 「は。道中、飛脚の話では、京都五条にも、おなじ建札がのものを数人集め、石井兄弟を討取る手筈を、整えている だろう。彼等の隠れ場所は判らないが、大垣ではない、大 建ったそうです」 んた、、

7. 長谷川伸全集〈第5巻〉

「なんじゃなんじゃ。力があったら踏ンばってみい。それ強力で技のある与左衛門に投げ出され、源五右衛門は踏 踏ンばれよ。それもうちょッと踏ンばらぬかい」 み耐えようとしたが及ばなかった。へたへたと倒れたとこ ずるずると引摺って土間へひきおろし、 冫日きのめさ ろを、寄ってたかって、十四、五人のものこ、卩 「こっちへ来るのじゃ」 れた。 と、裏へ引いた つらめ はまちょうなか 「腰の物を寄越せ。尋常に立会ってやるから俺に腰の物を九十三丁ある大津の町数を、東西に貫いている浜町、中 まちきようまち 渡せ、丸腰で立会わすということがあるか」 町、京町、三ツの大きな道路を、南へむかって縦貫してい おうイ一か おおたにおいわけ 「なにをほざくのじゃい、黙っておれい」 る一筋の道路がある。逢坂を踰えて大谷追分、京へ通じる 「源五右衛門ともある者が、素手ではいかぬ、俺に腰の物八丁通りといい、大津八丁札の辻のある処で、旅籠屋が軒 を渡せ、それでは卑怯だ卑法だ」 並にある。 ゼきでら 「よう吼える奴じゃ」 その八丁通りをのばると西に長安寺がある。昔は関寺の 裏手へ出ると、夜目にも白く霜が広い空地一杯に光って内で大きかったが、関寺が滅して長安寺も小さくなった。 おもや 、 ) 0 その脇に、塀をひきめぐらして敷地広く、母屋の外に瓦屋 いっか、伝え聞いてこの街の男が十四、五人、先廻りし 根の幾棟と蔵まである立派な構えが、赤堀遊閑の屋敷であ る。 て原に来ていた。 源五右衛門、それらに眼をきらきら光らせ、 大坂に行っている養子源五右衛門が、人を殺して逃亡し 「石井はどこにおる、俺に得物をもたせぬとは卑法だぞ。 て以来、屋敷のうちに五匹の番大が放たれ、門は宵のうち 石井、石井」 に閉じ、白昼ならでは往診を、病気といって断っている。 しやが 源五右衛門の声は嗄れかかっている。 と、もう一ツ、浪人風の食客が、多いときは六人、尠い 黒い影としか見えぬ男達の一人一人が、与左衛門にはよときでも三人は、絶えずぶらぶらしていた。 く見分けがつく。 それは、石井一門に備えたのであるが、存外、大津のも のはそれと知らずにいる。 「おい、お前等、聞いたか。こいっ性の悪い奴じゃ、お前 等に殴らせてやるで、思う存分叩け。そら抛り出すぞ、え十月一杯、なんのことなく過ぎた。十一月も何事なく過 えかええか」 ぎたので、備えが薄くなり浪人の寄食も、一時よりずッと - 一ら わざ

8. 長谷川伸全集〈第5巻〉

されていた。 丹後から太三郎が出てくると、権左衛門が早速つれて六 五月朔日の、夕暮れには一刻半ぢかくあろうというと みどう 条の遊女町へ馬でゆき、ここが生き菩薩に参籠の御堂だき、旅姿で若狭組のものが十三人、日の岡峠の上と下とに と、遊女屋へひき入れた。 散在していた。 太三郎はこの日の参籠から引きつづき、腰を抜かさぬば十三人ともここへくる前に、四郎兵衛から聞いていた。 かりの客になった。 きのうの日の暮れ前に、六条の女のところへ来た権左衛門 権左衛門のことは申すまでもない。 と太三郎とは、いつものように、その夜から翌日の朝の日 が高くなるまで女と遊び杲け、昼のうちに又も酔って寝 て、そのあとで遊女屋を出てすこしのあいだ歩き、三本柳 つじうま 四月末日の午後、尼子四郎兵衛は若狭組の若侍二人と、 のところで、いつもの如く辻馬を雇って大津へかえろうと あわ 浪人側の二人と、五人っれ立って、日の照りつける下を粟するに違いない。がしかし、きようの三本柳の辻馬は、二 外ぐち 田口から日の岡峠にかかり、汗まみれになってのばり、四頭の馬に二人の馬子がいるだけ、そのほかに馬子がいて もろはみようじんほこら の宮河原の諸羽明神の祠にもうで、その近くの松の下陰でも、権左衛門と太三郎の姿を見たらどこかへ行ってしまう 一ト休みすると見せかけて、あす決行する敵討ちの打ちあように、銭をやって仕組んであるのみか、大津戻りの二人 わせをはじめた。 の客をのせるだろう馬の馬子にも、銭が多分にわたされて この人たちは一刻 ( 二時間 ) ばかりの後に、粟田口の方へ いて、権左衛門の馬と太三郎の馬との間をうンと引きはな 立去った。 すようになっている、又、藩の医生に助手と人夫と三人 やどうま やがて二宮権左衛門と小梶太三郎とが、大津から宿馬にが、必要の薬と水と布などを用意して、峠の上にある民家 相またがり、馴染みの馬子がうたう唄を聞きながら、六条通のうちに待っている等をである。 異 ちいの途中、通りかかったが、若狭のものたちの姿はなく、 峠の下は若狭組の侍一人と浪人二人、それに従者が二 やまが - 一 四郎兵衛だけが、がふところという、山囲みにな 0 てい人、併せて五人の予定のもち場で、ここでは権左衛門の馬 本 るところをひとり歩いていた。蹴上げロとその先のところをワザとやり過し、遅れてくる筈の太三郎をオッ包んで馬 にも、若狭のものと浪人とが歩いていた。宿馬の客二人とから斬っておとし、仕止めたら峠の上へ駈けつける手筈に も気がっかない。 なっている。権左衛門は若狭組の侍二人と浪人と従者と八 ま 1 一

9. 長谷川伸全集〈第5巻〉

やみやみ りの坂路にも苦しんで、背中に波を大きく打たせた。 「とばけるな。さあ、合図するなら合図しろ。俺が、暗々 その手に乗るか」 と、歯を咬むばかり詰寄った。女は扱い慣れている酒乱 大津八丁 でなくてこれは発狂人と漸く心づき、 「酒、どうどすえ」 付け狙わるる身の赤堀源五右衛門が、酒にくらい酔って と、戦く手で杯をとり機嫌をとる、その手を源五右衛門 眼をつりあげている、酒乱というだけではなく、その陰ははツたと叩き、畳に落ちた杯を、膝頭で押し潰し、 に、暗殺した石井宇右衛門が、付き纒っている気がするの「俺がだれだ、何者だか、うぬ知っているといったな。や である。 い、逃げるな」 あぶな 「俺の顔に見憶えがあるのか」 女はこの狂人危しと、逃げんと起っその裾へ、手をかけ 絡んだものの云い方で詰寄った。相手は江州大津桜の馬た源五右衛門、身顫いして、躪り寄り、 場の一夜妻である。 「やい、逃げるな、逃げられるものなら逃げてみろ」 女は厚化粧の美しい顔をきよとンとさせ、 「逃げまへん逃げまへん」 たちすく 「なんどす」 泣き声で立竦む女の顔を、下から覗いて、歯を鳴らし、 「俺を見知っているかと訊いているのだ、俺を、この俺「逃げたかろうが逃がさぬからそう思え。だれが来て を」 る、三之丞か彦七か」 「はあ」 「知らしまへん」 うなず かんし 知っていると首肯くと、髪に飾った簪のびらびらが灯「知らぬ、図太い女め。白状せずばこうして白状させてや まぶ に映った。源五右衛門には妙にそれが眩しい もろて 「ちえツ」 裾もろとも、脛をんでみ倒し、肩に諸手をかけて、 源五右衛門は小皿をとって柱に打付け、砕けて飛ぶ破岸 「だれに頼まれたか、 吐かせ吐かせ」 の雨を浴びながら、 源五右衛門の罵る声が上ずッている。女は恐ろしさに、 身悶えして、 「うぬ、合図をするのか、注進するのか」 こわ 「怖。なんどす、合図や注進やいやはって」 「助けて助けて」 おのの

10. 長谷川伸全集〈第5巻〉

森立が急に穏やかな口をきいた。 「女か」 馬場とは大津にある遊女街の略称と、赤堀屋敷〈やとわ「いやいや、男じゃ」 れた翌日から、この痩浪人は知っていた。 「田刀とは」 「馬場の者か、ふうン、何の用か知らぬがなんと多勢でや と、森立が反問した。 って来たものだ。何だ用は。おい、 相木、相木。こいつら 「あの車に乗っている人じゃ」 は遊女街からきたそうな。馬場と聞いては出てこずにはお「車の上だと。ほほう、相木先生、あれご覧なされ、荷車 られまいが」 の上に手足がみえる」 相木がそれに答えたらし、 しか、門の裏で聞いている梶三「手足ばかりじゃない、首も胴も付いているのじゃ、死ん 平には聞きとれなかった。 でいるのじゃない、生きておいでじゃ」 相木は塀の曲り角にでもおるらしい 森立と相木は、気の利いた浪人ではないから、多分、顔 あらた 森立が口調を更めて、 見合わせていることだろう。門の裏で聞き入っている梶三 「おい、お前達は馬場の何という家からきた」 平にも、これは一体どういうことか推測がっきかねた。 - 一うじよう 「花の井から来ました。折入ってのお話じゃ」 例の町人が切り口上になって、 相木が出てきたらしく、鼻詰りの声がする。 「旦那方、先生に取次いで頂きます。車の上のあの人を、 「折入って何の話だ。先生にまさか、好い女が披露しまし こちら様で引取りなさるか。引取らぬと仰有るなら、代官 たと云いにきたのでもあるまい」 所へ持って参ります。どちらなりと、先生のお好きのよ 「そんなことはいいにこぬ。少々、面倒な掛合いじゃ」 う。ご返辞は短いほど結構じゃ」 「掛合いだと」 相木と森立が、又、暫く黙っていたが、森立が、 「なんだ掛合いとは」 「車の上の者はそもそも何者だ」 と、森立、相木が詰寄って見せたらしい 「あの人か、あの人はここの屋敷の若旦那じゃ」 「掛合いというのは、引取りなさるか、引取りなさらぬ「えツ」 か、その返辞を、先生から承りたいのじゃ」 といったのは森立の声。相木がひどく慌てて、 「何を引取るのだ」 「姓名は何という」 と、相木が訊く下から森立が、 「名は知らぬが顔はよう知っている。この一年近く大津で