ませぬ、もし、左様な心あってのことでござりましたら、ず、然るに、兄同様、ご加護を以てお助けにあずかりまし 天罰をお与えくだされませ。亀山城下を生きて出たいとは た。兄同様、生きてある限り、一カ年に一度のお礼参りは 思いませぬと、申上げたのだ」 代参を以てなりと、必ず仕ります」 しんぶ 「それでは、わたくしに下すった、武運の御神符とは伊勢拝礼を終ると、兄弟ははじめて明るい顔になって笑っ 大神宮様の」 「そうだ。こちらを向け」 その日、伊賀の空は、輝かしくも青かった。 冫し」 それより先、板倉家の伊東規矩平は、足軽の武装検査で 夏草の茂る上に兄弟は跪ずいた。蝶、蜻蛉が、頭の上を手間どらせたのみか、じりじりする荒滝三五左衛門を、抑 舞い飛んでいる。 える如く抑えぬ如く、城下を過ぎって京ロ門へかかった 源蔵はひれ伏して、 が、又手間どらせた。 「わたくしども兄弟、久しき間の大望を今日達し、願い成「江戸口か京口か、それを確かめてからにせい」 就仕りましたる段、有難く存じ奉ります、のみならず、そ が、それはすぐ判った。何分にも石井兄弟の顔の色とい の場にても存命、道路の間も存命、只今に及んで尚も存命 、歩き方といい、見た者が後から思い合わせればすぐ判 仕りおりますは、御加護を給うに非ずしてはなきことにごることとて、その男達ならここを通りましたという者が幾 ざります。別してわたくし儀は、十五歳にて広島を出でて人もあった。三五左衛門は大声に、 以来、今日に及ぶまで、生きて亀山を出ずることはなしと「遠くは行くまい、急げ急げ」 存じ、かねがね覚悟を据えおりましたところ、かく存命の と、真先に立ち駈出した。規矩平は心のうちで、 ひと 篇こと、偏えにお助けによることにござります。わたくしど ( それがしなら、馬で追いかけるが、三五左衛門は徒歩で も両人、無事立退き、何方へまいりましても、一カ年に一追いつく気か、ははは ) 兄度、必す代参を以てなりと、一生涯、お礼申上げ奉りま規矩平は人知れず瞑目して、皇大神宮のまします方に祈 源す」 石と、拝礼しているうちに源蔵は、切りに落涙した。半蔵 ( 兄弟の者、無事、立退かさせ給え ) と。 も泣きながら、 この追人の一隊を見て、赤堀討たれの一件が忽ち城下に 「わたくしは伊勢の国にありながら、一度のお参りも仕ら知れわたった。 っ ) 0
てんい 「只今からその方は刀さす身になった」 孫助の衰弱はなかなか去らなかった。浅野家の典医の診 察をうけ、投薬してもらったが、やはり捗々しくない。 「孫右衛門とも致すべきところ、源左衛門としたは、心あ「人参をつづけて永く服用いたさば、よろしからんと存じ ってだーーー孫助、その方のことは、定めし亀山の赤堀水之ます」 助が既に心づいているかも相知れぬ。たとえ、心づかずと と、典医がいったと聞いて、丹羽三太夫の妻は、髪道具 も、この地には赤堀の一類がご奉公罷りあるにつき、それを売払い、高価な人参を買い、孫助に与える決心をして、 らの耳にその方このたび帰りしこと知れては、源蔵、半蔵夫にその許しを乞うた。 の不利となる。よって、孫の字を避け、源蔵の源をとつ「孫助の病気は、亡き兄宇右衛門横死のことより起りまし かんなん て、源左衛門とつけた」 こ。十数年の艱難が、あの体にいたしましたことゆえ、宇 「有難いことにござります」 右衛門の妹たるわたくしの身を詰めてなり、以前の体にい 「申すまでもないが、広島には敵の間者がおって、油断な たしてやりたく存じます」 らずと思いくれよ」 九太夫は徴笑して、 「心得ております」 「尤も千万、家来は主に尽し、主は家来をよく顧みてや 石井一門は孫助の土屋源左衛門に、手のつくせるだけ尽る、まことにいことだ。早速そうなさい」 した。 ; 、 ; カ衰カ甚だしく、わずかのことでひどく疲労し「有難く存じます」 「念のため、聞くが、孫助の体では一、二カ月の人参服用 げん 或る日、石井弥五兵衛が、 では験なしと聞いたが。その用意がありますか」 篇「孫助。お前、知っているだろうな、源蔵、半蔵が本望遂「ござります」 「どう、あるな」 ぐるは、早くとも一、二年、遅くば三、四年はかかろう。 弟 兄それまで必ず生きておらねば相成らぬ身だということを「ご覧を願います。この品々をすぐさま売払います。次に 源な。でないと、源蔵、半蔵が力を失うぞ、われら一門のも はこの品々、次にはこれを売払います。これにて三カ年は 石のも落胆するぞ。よいか、心を張れよ、病に負けるなよ。人参を服用させられましようかと存じます」 ここ四、五年は、死ぬにも、死ねぬ身と思えよ」 娘のころからの物を残らず保存してあった、その品々で ある。 しかし、孫助の病状は捗々しくない。
で、半蔵は何気なく兄を振返った。源蔵は人知れす合図し 「兄は専ら妨げする者を斬る、そちは兄を顧みるな、奥へている、 " 構わず入りこめ , というらしい 半蔵は入りこむ決心をして、 踏込め。両人一緒に本意を遂げたいなぞと決して思うな」 「有難う存じます。いえ、わたくし一人で参上いたしま 「兄上こそ奥へ、わたくしが妨げる者を引受けます」 「つまらぬ遠慮だ。兄弟の順も狗鼠もあるか。両人のどちす」 うら 「遠慮するな、お台所に今夜は一人もおらぬ。ご来客が多 らかが、彼奴に一太刀怨めばそれでよい」 勢なので人手が足らぬ、恰度幸い、ちと手伝って行け」 「あッ兄上、人が」 見舞い客が沢山いては、討入っても結果が悪かろう。 「 , っン」 「門人だけでも十人から詰めているからな」 水之助の屋敷から出てきた二人がある、武士だ。 よそお 源蔵は素早く、通行人を扮った。半蔵は少し遅れた。半と、いうを聞いて半蔵は、容易ならぬことを覚「た。怯 蔵と源蔵が連れ立「てきたものやら、別々やら、今出てき気づきなどはしない、却 0 て勇気が内にむくむくと起 0 たばかりの者には判らなかったらしく、その一人が、 「おう、伴ではないか。感心感心、赤堀先生のご容態を気源蔵は弟が門内へはいるのを見送り、往来の前後を見廻 したが人通りはない。どこの犬か、尻尾を股に挾んで、逃 づかって来たか」 げて廻った。 と、 いった。水之助の槍の門人で家中の斎藤某である、 月は雲の裡にさっきからいる。 もう一人も同じ門人で溝田某という。 源蔵は耳をすました。討入るのが早過ぎても弟に不利、 半蔵は心のうちを覚られまいとして、 遅過ぎては尚更不利、早からず遅からずと心のうちで測っ 。しこ容態はいかがにござりましよう」 後 「よろしくないそ、折角、参ったのだ、ご新造にお目にかているが、様子が判らないので、運を天に任せる他ない。 、 , ー、じッと待っことが僅かのうちに辛 兄かれ。よし、一緒に行ってやる。溝田氏、ちょっとお待合暫くじッとしてしオカ くなった。ええままよ、斬って入れと、門へ近寄ろうとす せください」 石「拙者もご一緒に参りましよう。伴、その方は実に感心ると、俄かに耳についた人の足音と荒い息づかい。 「はツ 思わず声を出した源蔵の振返った眼に映ったのは、妙な 厭といえない、云えば何故かと怪しまれるに違いない、 学 ) 0 おじ
れたとき、小屋に潜って出てこなかった小倉伝兵衛の肉親 ねえ」と、手の裏ならぬ、ロの裏を返しただろう。 南町奉行松前伊豆守嘉広の許へ、北町奉行から予報がきである。痩身ではあるが矍鑠たる忠右衛門は、白く長い眉 毛の下から眼を光らせ、 ていたとみえ、役人が待っていた。 松前伊豆守は兄弟を呼んで会い、前後の模様を一々尋「やあツ」 ね、保田越前守と同様に、身の落着く先の有無をたずね、 と、絶叫して駈寄った。源蔵が、 親切な言葉をかけた。 「忠右衛門」 「差当り身の落着くところなしとは気の毒なり。落着く処「おうおう、あなたでござりましたか」 なきに於ては、まず此方へまいるがよし、如何ようとも相半蔵も体を摺り寄せ、 成るべきぞ」と。 「忠右衛門忠右衛門」 とき しばてんとくじ ここで一刻はど過し、外へ出ると兄弟は、芝天徳寺近く 「おうおう、あなたでござりましたか」 に住む知人を訪ね、青山宿の松平安芸守下屋敷に安芸守の源蔵がにツこと笑い びんごのかみよしなが 嫡子備後守吉長がおり、従兄弟の石井清太夫がそこにい 「忠右衛門。喜んでくれ。今月九日の朝、伊勢亀山で、 かたき る、と判ったので、青山へ向った。 敵、赤堀水之助を、兄弟揃って討留めた」 芸州藩の門は、出入りが殊に厳重であると知っているの 「ええツ。そ、それなればお二人様、大手を振ってござり で、兄弟は門番人に、 ませ。早速、ご案内いたします。ほうほう、左様でござり 「御家中石井清太夫家来に小倉忠右衛門という者ござるますか。それはそれは、旦那様にもさぞかし、お喜びでご 筈、われら両人は所縁の者でござる、会いたく存じて参りざりましよう」 「忠右衛門、聞きたいことがある」 門番人はじろじろ兄弟を見ていたが、 と、源蔵が真剣な顔をした。 あらた 「石井清太夫殿家来小倉忠右衛門でござるな。その辺に、 「更まって、何でござります」 「広島の叔母上は、ご存命であろうな、七歳より十四歳ま 暫く控えてござれ」 で、御教訓。 「御手数を相かけます」 ーこあずかり、その後、永年の辛苦の間にも一心 兄弟は夕日を浴び路端に、待ちうけた。やがて、老いた変ぜず、伊勢大神宮の御加護をいただき、本意を達したる 小倉忠右衛門が出てきた。忠右衛門は石井宇右衛門が討た は、全く、叔母上の御鍛錬による。石井源蔵にとり、第一
の儀は、只今、何とも考えござなくござります」 源蔵が面をあげ、 「私ども両人、まず御公儀を大切に存じ奉り、一たん、京源蔵は水之助弟両人の決心の有無を確かめねばならな い、で、身の落着は、全く念頭にない。 都へ引揚げましたれども、一夜泊りしのみにて直ぐ出立、 おんちょう 昨夜は板橋に一宿仕り、今朝、参上仕り、先年御帳願い置「行くところなくとも、この後、如何ようにも出来るべ きましたる故、憚りながら本意を達しましたる段お届け申し。段々、残るところなく、首尾一段のことなり、まず役 上げ奉り、且つは御礼申上げたく参上仕りました。何方へ所へ参りおれ」 とも、いまだ、参るべき心当てもこれなく。当御屋敷罷り白洲を出ると役人衆の詰所へ連れて行かれた。そこで 出でますれば松前伊豆守様へ参上、これ亦滞りなく相済みは、役人衆が兄弟を取りかこみ、口々に、敵討ちの状況を ますれば、その上にて、何方へなりと参る心にござりま八方から競って尋ねた。 それに答えているうちに、友常左次馬が来て、更めて、 ありてい 敵討ちの模様、勝負の有態、亀山に両人奉公中のこと、そ 「京都よりの道中は、いずれを通りしか」 つまび 「は。京都より近江へ出で、東海道筋を通り、名古屋へ参の時の主人の姓名など、詳らかに尋ねた。 しるべ り、風雨のため、知辺の方に三晩泊り、名古屋より木曾路役人は耳を澄まして八方で聞き入っている。 を経て板橋へ」 左次馬は兄弟の語るを、傍らから筆記させていたが、終 ると、 「と、その方達は、敵討ちの後、再び亀山を通ったのか、 かんどうえら 「越前守様、ご覧なされます」 それとも亀山辺は間道を撰みて通りしか」 と、筆記を持って出て行った。 「亀山を通行いたしました」 きっ やがて左次馬が引返して来て、兄弟に、 越前守の顔が屹となり、やがて、ロ許を綻ばせた。諸役 「越前守様仰せに、江戸にて参るべき処なしとは存ぜられ 人の顔には驚歎が出た。越前守は、 「伊豆守殿へ参り、その以後、何方へか定めし参るであろず、とお尋ねでござる」 うが、その心当りはないのか。古主青山下野守殿へ参ると源蔵がそれに答えて、 し . りび - と 「町方にも、知人ござります。武士にもござりますが、か は思いおらぬか」 ぎよい 「御意の如く、古主にござりますれば、青山下野守様へかる時まいっては、先方の心づかいあること故、遠慮仕り は、一通り御届け申上ぐべく存じまかりあります。落着きます」 - 一しゅ
相成候。それより以来心掛け罷在り候え共赤堀源五右衛「は ? 」 門有り所知れ申さず候。此頃御当地へ往来仕候由承り候些かぎよっとした。夏目八兵衛が、時どき、屋敷の外へ くる兄源蔵を見知り、遠廻しに探索のロを切ったのではな に付、今明年の内に尋ね出し、本意を遂げ度く存じ奉り いか、もしそうだとすると、この人は赤堀水之助の手先 候、恐れながら御帳面に留置なされ下され候わば、有難 だ、と、思う、いが眼に出た。 く存じ奉る可く候。以上 とらどし 八兵衛はそうとは心づかず、 石井源蔵 元禄十一寅年十一月十六日 「何を目を丸くいたすか、実直な僕が一人欲しいのだが 石井半蔵 源蔵は奉行所にさえ、敵の在所を隠した。 元禄十三年の元旦を、源蔵は人夫姿で江戸の場末のいぶ「あ、夏目様がでござりますか」 しもべ せき宿で迎え、半蔵は桜田の板倉邸内で迎えた。兄は三カ半蔵は安心した。そう云えば八兵衛の僕の九助が、二 人主人一人中間はたまらねえ、やれ九助それ九助と、水の 日を飢えて送り、弟は平常より多忙に送った。 源蔵は三十三歳になった。半蔵は三十歳である。兄は広む暇さえ滅多にねえ、今度の出代りには、何をなんといわ 島を出て足掛け十九カ年、弟でさえ足掛け十三カ年になれたとて、必ず暇をとる , といっていたが、さてはその代 る。ふたりとも、屈強な壮漢になってはいるが、頬骨が出りだなと気がつくと、同時に、兄源蔵が板倉家中へ入りこ む、これぞ天の与えと、ちらりとながら、緊張して、 て眼がくばんでいる。 「ごギ、ります」 節分が過ぎ、三月はじめのこと。 八兵衛は喜んで、 半蔵がきようもまめまめしく、主家の古葛籠の手入れを 「お前のような男だぞ、骨惜み者はいかん」 していると、うしろに人影がさして、 「十 6 、 0 、 、し当りが′」ざります」 「おい、よく働くの」 つづみうちなつめはち・べえ と、 「一人主人に一人下郎は、お前達の間では厭がると聞いた いった人がある、鼓打の夏目八兵衛である。 が、その男も、厭というのではないか」 「は。これは夏目様でござりましたか。ご通路の邪魔をい 「いえ、そんなことはござりません。是非とも伊勢の国へ たし、相済みません」 参りたいと申しておりましたから」 「邪魔にはならんよ、時にどうした、お前みたいな男が、 と、 ってからはツとした。夢にも口にしてはならぬ、 もう一人おらぬか」 つき ふるつづら しもべ
それは二ッとも成功した。 間違えた。 が、石井宇右衛門は源五右衛門の人物を、安心して推挙しかし、源五右衛門は怒らせては損だと知っている、 できないと見て、勉強を命じ、大津の遊閑からの仕送りので、 みつ 他に、折々金を貢ぎ、指導もし、意見も加えた。 「失礼申しました。わたくしは、思ったことをすぐ口に出 或る日、石井宇右衛門が、 していけませぬ」 おれ と、 「その方、近ごろ、槍術の師をしているそうな、相違ない しし。したが、肚の底に、この老人は、乃公の武 芸に怯んだと思っていることに変りはない。 と、むッとした様子で、源五右衛門に聞いた。 宇右衛門の顔が向き直り、鋭く一瞥をくれた。 「は、やっております。槍術だけは人におくれを取りませ「源五」 ぬから」 なまびようほう 「それはいかぬ、早速、やめろ」 「明日から生兵法の教師をやめろ、でなくば、当家へ出入 りをやめろ、どちらとも即答しろ」 「その方の技倆で、人に師たることはよくない」 源五右衛門はぎよっとしたが、 「わたくしの槍術だけは確かでござります」 「そのお話は済んだのではございませぬか」 「判らん男だ。その方のような未熟なものが教えてはなら 「どちらとも即答を聞こう」 んというのだ。何を笑っている」 「何故いけないのでございます、技倆が未熟だからでしょ 「わたくしの手の内をご存じもないのに」 うか。それならば、未熟でない技をお目にかけたらよいの 「存じている」 で′」さりましよ、つ」 「ご存じございません。なんならお試み下さいますか」 「師たるものは、技とか、形とか、外に現れるだけのもの 兄「小癪な」 を教えればそれでよいのではない、第一の大切は心だ。料 いったが後を宇右衛門はいわなかった。この男はい簡の据わらぬ奴が他人に教授しては人を誤る」 石よいよ見放さぬといけまいと思ったからである。 「しかし、槍だけは、わたくし、相応に優れております」 源五右衛門は思わず、「なんならお試み下さいますか」 と、源五右衛門は確信をもっていった。宇右衛門は頬に ひる と云ってしまった一言に、老体の宇右衛門が怯んだのだと皺を深くつくり、苦りながら横を向いて、
なんたる油断だ。兄三之丞を殺させたのは大飼親子だ」 さては、姫路の宿での旅人の世間話、あれは本当だった「彦七様、そう申されては相済みますまいと存じます。清 雲様にはご存じの十文字槍をおッ取って、敵とお闘いなさ かと、彦七は急に眼を涙で光らせ、 れました」 「孫助、兄上が、返り討ちとは、本当か」 まこと 「逃げたの間違いだろう」 「真事にござります」 「いえ、あの老体でお闘いなされまして、真向に傷を負わ 「室原の犬飼の屋敷でと聞いた、そうか」 れてござります」 「左様にござります」 はかばか 孫助は泣いてしまって、答えが捗々しくない。彦七は腹「ふン」 と、彦七は横を向いた。 を立て、 「大飼清雲はじめ、幾人も、屈強のものがいながら、大切「茂七様は右手を斬られ、左手で刀を抜き、勇ましくお闘 な兄上を、敵の刃にかからせるとはなんたる不都合だ。俺いなされてござります」 に合わせる顔があるまい。新五兵衛などは日頃、智者振っ「では、源五を仕止めたのか」 ていたのになんのザマだ、又八郎はじめその他の者もなん「いえ、敵は数カ所に傷を負い、逃げ去りました」 たるザマだ。常日ごろカみ返っていた茂七はどうした、敵「それ見ろ、闘った闘ったと申しても、源五に逃げられる の姿を見たら逸散に逃げたろう。どいつもこいつも云い甲ように勇ましく闘ったとみえる。新五兵衛、又八郎などは どうした。これも逃げたろう、聞かずと判っている」 斐のない者ばかり、それでも郷士で候といえるか」 「彦七様。そのお考え方はお間違いでござります。その時 彦七は罵り捲くった。孫助が、 あし 篇「彦七様。そう仰有るものではござりませぬ。その晩、彼の様子をとくとお聞きもなさらず、犬飼の方々様をそう悪 劇っ 奴めはご存じの風呂小屋の藪に、早くから潜んでいたらしざまには申されぬものでござります」 「悪ざまには申さぬ、理の当然をいっているのだ。敵持ち 兄ゅうござります。身には鎖帷子を着込み、小手脛当までし 源て、油断を待っとはご存じなく、ご不運にも三之丞様にを預っていながら、おめおめ敵に討たせてだれが感服する ものか、馬鹿なことをいえ。そういえば孫助、おのれもそ 石は、風呂にはいって出たところを」 の晩、逃げ廻ったのだろう」 9 「斬られたのか。なんたることだ。兄上が悪いのでない、 「わたくしは広島より室原へ引返す途中にござりました」 犬飼の者が至らぬからだ。兄上は敵持ちと判っているのに きや
一、赤堀水之助儀、我々親並に兄の敵たるによって討ち捨 ′一こう て、本意を遂げ候也。即ち江戸表に於て御公儀へ訴え奉 「せつける者の有無は兄が見張っている。落ちついて出 り、何方にてなりとも本望を遂げ候様にと、御免を蒙り せよ、裂きでもしては、いかにも狼狽えた如くで面目ない 斯くの如くに御座候。 そ」 一、右の望み御座候故、当分主人へ深く包み、数年渡り並 の ( 註渡り中間並ということ ) 賤しき奉公人に身をやっ 半蔵は帯のくけ糸を切り、中から書面を出した。 ねんご し、今日の奉公随分大切に勤め候故か、懇ろに召使い申 足軽の一人が、勇を鼓して、三、四間に近づいてきて、 かたじけな され候段、忝き次第に存じ候、毛頭、主人方に存ぜら 「その方ども、これ、その方ども」 そうろうあいだ れ候儀にてこれ無く候間、後日、主人たるものの落度 「はツ おばしめし に思召候こと、御免蒙り度く存じ奉り候 と、源蔵が答えた。足軽が、 「その方ども、なんとして赤堀殿を殺害たか、仔細を申一、我々父は石井宇右衛門と申し、青山因幡守大坂御城代 ところ 相勤められ候時分、私ども親も大坂に相勤め居り申候処、 せ、仔細を」 この水之助その時分は赤堀源五右衛門と申し候、源五右 源蔵は三方に眼を配りつつ、答えた。 かたき 衛門親を遊閑と申候て、大津に浪人にて居り申候、この 「この者はわれわれ兄弟の父と兄の敵でござる」 遊閑に私ども親と由緒これ有り候故、源五を頼み越し申 「確かにそうか」 候に付、即ちかくまい置き、いろいろ武芸を励ませ、こ 「左様」 の者進退のことを苦労致し居り申し候処、その時分源五 と、源蔵は多くをいわぬ。何処からか家中の士が飛び出 してくるに違いないだろうから、邀えて闘い、所詮は斬死右衛門方々へ槍の師を致しまわり申し候に付、父宇右衛 門申候は、その方槍の師を致し候事心許なく候間、今少 と、一寸先のことが定まっている。半蔵が、 し稽古致し候わば、尤もの由申聞け候えば、源五右衛門 「兄上、書付を死体の袴に挾みました」 却って立腹し左様に心許なく思召し候わば、試合仕り見 水之助の袴の紐に一通の書置が白い。 申し候段、是非なく試合仕り、源五右衛門は素槍の竹 石井兄弟が水之助の死体に残したのは、次の文面のもの 刀、父宇右衛門は木刀にて、何の手もなく源五右衛門の である。 槍に付入り、少しも働かせず、打伏せ申し候が、意見中 覚 むか いずかた
石井三之丞は広島へ供して足掛け五年目の元和九年九彦太夫は石井宇右衛門正春と改めた。浪人したその年の うちのことである。 月、病んで死亡した、年六十一である。その子の宇右衛門 が大坂で横死したときの年が矢張り六十一歳だった。 戸田左門氏鉄の島原追討軍は総人員三千余、寛永十四年 さて、三之丞正友には三人の男子、三人の女子があっ十二月、大垣を発し、翌十五年正月島原着五月大垣へ凱旋 たなかでんえもんまさよし た。長男は母方の姓をおかして田中伝右衛門正吉といし した。その陣中には九十何歳の家老戸田治部右衛門を始 たづきりゅうかじゅっ 浅野家で二百石を食み、次男が父の病死後、家督を嗣いでめ、田付流火術の田付左右太夫などという、異彩あるもの むねのぶ 石井三之丞宗信とし 、い、父は千石だったが、五百石を給せが加わっていた。石井宇右衛門が、これに加わっていたか られた。浅野家では、親の家督は家老以上はそのままで、否かは不明である。 家老以下は半減の掟であった。 このとき大垣城留守居の城代戸田四郎左衛門以下、連名 こおりぶようあしがるがしらたかおかもざえもん ひこだゅうむねかっ 三男は幼名を長吉と、 、麦こ石井彦太夫宗勝と改め、 のうちに、郡奉行足軽頭高岡茂左衛門という名がある、こ うんしゅうまっえ かたき き上うごくわかさのかみたかつぐ 若いときに雲州松江の城主京極若狭守高次に召され、二百の人は石井兄弟にもその敵にも所縁がある。 五十石を給わって仕えた。これが後の石井宇右衛門であ 〔註記〕戸田左門氏鉄は左門一西の子で、父は早く ながしのがっせんとびのすざん る。 から家康に近仕し、長篠合戦の鳶巣山の戦功をはじ あまた 寛永十四年六月、京極高次が卒したので、石井彦太夫は め、大小数多の殊勲を樹て、六十二歳江州膳所で卒し 暇をとって江戸に出た、二十五歳だった。 た。その家督を嫡男氏鉄が嗣いだ。島原の乱は氏鉄が あまくさ またが めいれき 彦太夫が江戸で浪人ぐらしをしているうちに、天草の乱 六十一歳から六十二歳に跨ってのことである。明暦元 が起った。諸家で、良い武士を欲しがった。彦太夫もその 年二月、七十九歳の長寿を保って、大垣で卒した。世 つのり 募に応じて、待遇を聞きあわせてみると、大抵のところ、 に戸田左門覚書』が伝わっていて有名である。氏鉄 みな悪かった。彦太夫は袂をはらって去り、何処にも奉公 の二十四歳のとき執筆した、関ヶ原合戦前後の模様を しなかった。 言したものである。 と、播州尼ヶ崎五千石から、美濃大垣十五万石に栄転し とださもんうじかわ しまきじよけん ていた戸田左門氏鉄が、良き武士を求めていた。石井彦太石井宇右衛門は、おなじ家中の先輩で、島本如犬という 夫は戸田家で〃二百五十石給わらば奉公せん〃と申込み、 ものの長女を娶って妻とした。島木如大の前身は大坂浪人 するすると話が進んで抱えられた。 で、大坂夏の陣に、豊臣方としてさんざん闘った勇士で、 いとま めと