彦七 - みる会図書館


検索対象: 長谷川伸全集〈第5巻〉
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1. 長谷川伸全集〈第5巻〉

うまつな と、漸く茂七郎が口をきった。 「それはそうじゃな。馬繋ぎはあれがいし」 彦七が馬を乗棄てたので、茂七郎が二頭とも木株に繋彦七は一瞥を茂七郎にくれて、外へ出た。安楽寺の建築 ぎ、遅れて山の下へ来た。彦七は一気に駈けあがりでもしの周囲を、呼ばわり呼ばわり歩し 「源五右衛門、出ろ、石井彦七がこれにおる。源五右衛 たものか、見える処に姿がもうない。 門出ろ」 茂七郎はよいよいと声をわれと掛けながら、頂上までの と。 ばった。と、彦七の声が聞えている。 これへお出し願う。御住持の甥の赤堀 「おらぬ筈はない、 源五右衛門を尋ねてきたものです。拙者は石井彦七です。 赤堀の党 源五右衛門に父を討たれた石井彦七です」 怒鳴っていたのは庫裡のうちらしい。茂七郎はその方へ カ敵の源五右衛 念いだ。果して庫裡の広い土間で、彦七が眼を光らし、声石井宇右衛門が討たれて三年になる、 : 、 門はいまだに見つからない。 とともに、体を振っていた。 なっしょ 納所の僧が、当惑と恐怖と、半分半分で、切りに弁じて雨が降りつづいて三日目の午後、彦七がぶりぶりして云 ろれつ どきよう いる。声は読経で練れているが、舌が縮んだかして呂律がった。 はツきりしない。 不破の室原、犬飼家の小屋のうちでのことである。雨の 音ばかり高い静かな日だった。 彦七はおなじことを繰返し繰返し、叫び、喚き続けた。 三之丞は彦七を扱い慣れている、しかし、又かという気 そのうちに、声が嗄れてきた。 なだ はする。 茂七郎はそれを宥めもどうもしない、彦七がするままに 「気を揉まず、ゆッたりした気でいてくれ」 きせて眺めている。 ふじよ 「わたくしの云うのはそんなことではない。叔父の扶助 納所の僧がこそこそと姿を消した、それッきり、だれも あて で、便々と、的もなく、ここに待っていてそれでいいカ 出てこない。 彦七が喚き疲れて黙った。足許へ鼠が一疋ちょろりと出と、お尋ねするのです」 「われわれに武運がめぐって来ぬ、是非ないことだ、今暫 て、ちょろりと消えた。 くここで待合わす他ない」 「彦七殿。様子は判った、帰ろうか」 べんべん

2. 長谷川伸全集〈第5巻〉

と、遊閑が脇差を抜きかけた右肩へかけて、背中へ、二う遊閑が脇差を抜きにかかった。 剛の太刀をあびせた。浅か 0 たが遊閑の気勢を確実に殺い 三之丞も孫助も庄太夫も、ぞくりとして、 三之丞は声を絞って、 彦七は飛びのいた。遊閑の抜き放った刃は地を叩いた。 「弟、斬れ、斬れ、斬れ」 石でもあったのか、刃毀れがしたような音を立てた。 足拍子を踏まぬばかりに促した。 「、フぬツ」 彦七は突っ立っている。一 、二の太刀を兄が見事に入れ と、三之丞が三の太刀を下し、じッと見つめた。遊閑が たのに、自分はまだ何もしていない、そればかりか、肩に世を去ったのを見届け、ほッほッと息を吐き、 かわ 強か鉄杖を投げつけられ躱しも出来なかった、不甲斐な「彦七、首尾よく行った。刺止刺止」 と、 い、いざとなるとこんなにわしは卑怯だ。 いった。声変りがしている。 三之丞が再び声を絞った。 弟は暗い地面を見つめていた。恥じて赧くなっている顔 「弟、弟、斬れ、斬れ、斬れ」 を夜風が吹いて行く。 孫助がたまりかねて彦七の右手を執り、 「どうした彦七、刺止をささぬか」 とどめ 「彦七様、刺止刺止」 と、又促されて彦七は、咬みしめていたロから、泣き声 庄太夫もそのうしろから、無言で促した。 を漏らした。 遊閑の伏している姿が黒々とみえる。 三之丞はぎよッとして、 燃えた提灯の胴骨が、火から灰に変りつつある。四辺が 「どうした、気分が悪いか」 今まで明るかっただけ、火の消えた暗さが以前に倍した。 そうかも知れない、健康な自分でさえ、胸が妙につかえ 三之丞は刀を振って、 ている。病弱の弟ではさぞかし、と、兄は思った。 うなだ 彦七は垂首れている。 「彦七彦七、怨みをはらせ」 と、急きたてた。 孫助は困ったように、彦七の黒い姿に眼をむけている。 彦七はそれに答えず、遊閑に刺止をしに近づいた。心の庄太夫が見ては悪いように、視線を逸らした。 うちに満されぬものが動いてやまないが。 彦七はますます泣き入っている。三之丞が、 こら 彦七が近づくと、苦痛を怺え、それを待っていたのだろ「何を泣く。馬鹿。ここは敵の屋敷近くだ」 ヾ ) 0 みた あか

3. 長谷川伸全集〈第5巻〉

「養父を討てば源五が、それを聞いて無念に思うこと必定「敵の養父とはいえ、討つには討つだけの然るべき理窟が です。彼奴、それでは隠匿われて安閑としていまいと思い なくては遣れぬではないか」 ます。そうすると兄上、討果せるではありませんか」 「だから兄上は知らぬことにするのです」 「それなら何も、お前が死ぬと決めることはなかろう、遊「弟、お前それをいうなら黙って実行したらよかった。三 かちょう 閑を討てばいいのではないか」 之丞は石井家の家長になったのだ、知って知らぬ振りが出 三之丞は遊閑を斬る気になった、と、彦七が、 来ないではないか。父上はそういうことが大嫌いだったの かたき 「そうは行きません、遊閑は敵ではないのだから」 は、お前も知っているとおりではないか」 そうだ、ない」 「いけないのですか」 「討つべき名分がない さと と、三之丞は斬るべき理由のないのを覚った。彦七が、 「いけぬとは云わぬ、考えさせろというのた」 「そうです、だから、わたくしが死ぬのです」 彦七は夜具の上に屈んで黙ってしま・つた。三之丞は起き 「それは」 て行って、 あさって 「兄上は知らぬことにして、彦七一人が参って討果し、腹「明後日の朝までに、よく思案しておく、今夜は心静かに 切って死にます」 睡ってくれ彦七」 「それはいかん、不承知だ」 兄上もお睡みください」 「兄上はわたくしのこの体が、いつまで保っと思っている 「お前、寝ろ、蒲団をかけてやる」 のです。兄上はわたくしを可愛がって下さる、それは判っ ております、有難く存じています。なれど、兄上のいうよ 「あすの朝はゆッくり寝ていろ、彦七は疲れが出ておりま うにしていては、わたくしが犬死をします」 すと云っておくから。彦七、よく睡てくれ。 この上、 「お前のいうことがよく判った。二、三日考えさせてくれ睡てくれ、兄に善悪とも任せて、何も思うな 彦七」 風邪などひいてくれるな」 「それはいけません、今、やってよいと云って下さい兄彦七は答えなかった、が、やがて、しくしくと泣く声 上」 が、隣りに寝ている三之丞の耳にはいった。 「そうは参らぬ」 「彦七ーー彦七」 「何故です」 兄が呼ぶ低い声を聞くと、弟は泣き声を蒲団の中へ押込

4. 長谷川伸全集〈第5巻〉

ばたばたと我が座敷へ引返した彦七は、畳に食いついて「なんだ」 と、小戻りしてじッと見つめる彦七の眼が、真赤に腫れ 3 泣き入った。 ているのが、青い顔色だけに妖気さえ感じさせる。 「おいおい」 彦七はやがて手を叩き、人を呼んだ。呼び方がすこし調番頭は眼を逸らして黙りこんだ。彦七は、 子外れになっている。宿のものが答えない。狂人だと思「呼びとめて、何用だ」 と、番頭の逸らした眼の方へ、体をもって行って聞い 、相手にしたくないのである。 答えがないので彦七は、手を激しく叩いた。 番頭は再び視線を逸らし、頭だけ下げ、 「おいおい。何故、返辞をしない」 「お気をつけていらッしゃい」 呼ぶのでなく叫んだ。いよいよ答えるものがない。 彦七は手をやめた、呼ぶのもやめた。暫くすると、旅仕「なにい」 度を整え店先へ出た。照明の暗いころのことである、彦七「ご機嫌よろしゅう」 と、態よく追いたてた。彦七が、 の血相が変っているのが、実際以上に気味悪く見せる。 からか 「こら、俺を調戯うのか、用もないのに呼びとめて、おの 「おい、急に発足するぞ」 口に苦いものを咬んでいるようにいう彦七から、視線をれ等、何か俺に日くがあるのか」 「いえ。ご機嫌よろしゅう」 逸らした番頭が、 と、おずおず出てゆけがしにいう番頭に、 「左様でございますか」 と、ほッとした顔をした。店には番頭一人だけ、男たち「馬鹿者、二度とこんな家に泊るか、道中、諸人にこの家 あし や女たちは、土間伝いに台所へ避けたり廊下を挾んだ向うを悪ざまにいってやる」 と、ぶいと出て行った。 の部屋の前で、おずおず、彦七を見ている。 彦七はさッさと草鞋を穿き、黙って出て行きかけた。番それと殆ど毛抜き合わせに、駕籠で乗りつけた女があ る、三十一、二歳の脂肪の多い顔も手足も丸々とした、桜 ロ、刀 色の女である。 「お客さまお客さま」 かごや こんな奴、半旅籠なりと宿銭をとってやれ、と勢いこん世慣れているらしいこの女は、駕丁に銭をはらい、冠っ びんたば ていた手拭をとり、鬢や髱を気にしながら、 で呼びとめたが、

5. 長谷川伸全集〈第5巻〉

そび 棄ておけば彦七が、一人でも駈出しそうなので、三之丞 と、肩を聳やかした。新五兵衛は弟又八郎を制し、 蹴「石井の兄弟。安楽寺へ行くはいいが、無事に戻れると思は弟の二の腕を掴んで放さない。孫助は彦七に引きっき、 うたら違うぞ。今も、おやじ様の処へ探りの者が帰って来駈出したら組みついて引きとめる気である。 ていうには、安楽寺に隠匿われている者は、たれ一人な新五兵衛は彦七をじろりと見たが、別に腹を立てたらし えんお くもないが、弟の又八郎は顔にはツきり、厭悪をみせてい い、が、浪人どもの来客が、時どきあるということだ」 る。 三之丞は落着きをつくり、 三之丞は再び新五兵衛に、 「それが、似ておりますか、彼奴に」 「引返せと申されましたか」 「源五右衛門より年若だったという」 「おやじ様は戻れと申された」 「若い ? 」 と新五兵衛の言葉を引ッ手繰るように又八郎が、 「源五右衛門に弟があるそうな」 「兄弟衆、さ、馬をやる、引返すがよい」 「三人ある」 かたじけな 「それは忝い、借りる」 「それだ、丈の高いのが一人、それより低いのが一人、一 と、彦七が又八郎の馬に近づいた。その顔を見向きもせ 段と低いのが今一人、この三人が、折々、御勝山へのばっ ず又八郎が、 て ~ 打くとい , つ」 「三之丞殿にはこの馬を貸そう」 彦七は躍りあがり、 「いや、兄上は新五兵衛殿の馬を借りるがよい、彦七はこ 「兄上、孫助、時節到来だ、行きましよう。安楽寺の近く ひつじよう きやつら を歩き廻っていたら彼奴等の眼に入ること必定です。敵討の馬を借りる。又八郎殿、おりて下され、早く早く」 見るにみかねて三之丞が、彦七の胸を掴み、 ちがいよいよきようと近づいた。兄上、行きましよう」 従兄弟同士とは云え、余り失礼な、彦七、慎め」 「待て、彦七、新五兵衛殿、又八郎殿、瀬兵衛叔父は、わ「失礼な、 , 「何を慎めというのです兄上」 たくしどもに立帰れと申されましたか」 ンス いう彦七は真青になっている。又、兄に咬みつくよ 「兄上、それはどうでもよいでしよう。わたくし達兄弟の 敵ですから、わたくし達兄弟の思うとおりすればよいのでうに云う気らしい。 茂七郎は自分の頭を叩いて呟いた。 す。参りましよう早く」 「おりや、困ったことを仕出来したわい」 「こら待て彦七、我儘はならぬ、ちと慎め」 つつし

6. 長谷川伸全集〈第5巻〉

「ご立腹はご尤ものようでござりますがそれではいけませなされました。一本の客でははさめぬが二本なれば何でも ぬ。わたくしの生きながらの遺言とは、彦七様のなされ方はさまれると、これも、ここの一念様から教わりました。 をよろしくなかったと申すにござりますから、この先とわたくし申上げまするは、ご兄弟様には、必ず必ず、三之 も、ご立腹のことばかり申上げます」 丞様のお心弱さなく、彦七様の我を立て自儘を好ませらる 「半蔵、怒らずに聞け」 ることなく、お心を一つになされ、ご本望ご成就が願わし 「聞きます。しかし、、、こ しカ ~ 孫助でも、三之丞、彦七の両く存じます」 兄上は、われらとは腹がわり故、義理もあり外聞もござり孫助は泣き泣きいった。 ます」 源蔵は頭を垂れている。半蔵は眼を閉じて二度三度と首 くちぶり 「半蔵様。あなたさまの、そのおロ吻が孫助は気にかかり肯いている。 ます。彦七様のご様子がそれでござりました」 孫助はその翌日、源蔵、半蔵に橋本まで見送られ、とば 「なんだと」 とばと発った。別れ際に孫助は、石井兄弟の手と手を握ら こぶし 「ご立腹は後でのことにお願いいたします」 せ、二ツの若い拳に、はらはらと涙をそそいで、 なだ むッとする半蔵を宥めて、源蔵が、 「お仲お睦まじく、何卒」 「孫助、腹蔵なく云うだけ云ってくれ。半蔵、聞いてから と、だけ云って、後は泣けていえなかった。孫助にも源 にしろ」 蔵兄弟にも、これそ、生別死別だった。 「では、申上げます。彦七様の水死が因果応報という、わ男山八幡宮に詣でて兄弟は、松風に耳を傾けていたが、 たくしの申すことに間違いござりませぬ。彦七様は三之丞半蔵が、 様の仰せに逆らい、事毎に口論を売り、我を立て通そうと「兄上。孫助は有難いことを申してくれました。成程、三 なされました。三之丞様はお優しいお心であり過ぎました之丞、彦七二人の兄上は、急行に善歩なしの戒めを破りま ので、お叱りはなされても、五たび七たびとなりますと、 した。兄上、半蔵は決して彦七兄上のように我を立てなど 彦七様の云い分も立ててやろうとお気の弱さが出てまいり致しませぬ。万一、我を立て、我儘がござりましたら、打 ました。その第一は遊閑討取り、その後も彦七様にお引摺ち叩いてくだされ」 あやま られなされます。これではならぬとお心を強くお持ち直し 「うン。その時は容赦なく打ってやる。半蔵、わしに過ち になりますと、彦七様の方で、一言相談もなく、お立去り があったら諫めてくれ」 うな

7. 長谷川伸全集〈第5巻〉

そう申上げます。あ、彦七様」 を喚んだ。 「なんだ」 3 「なんだなんだ」 「お体はこの頃およろしいのでござりますか」 と、関東者の高い調子もあれば、 「見るとおり、死なずにいるよ」 「チボ ( 掏摸 ) やチボや」 と、いう大坂者もある。伊勢言葉、尾張言葉、若狭訛薄笑いをして去った。 小面の憎い彦七の態度に、孫助はむッとして、睨んだよ り、中国訛り、中に多いのは地元だけに江州言葉である。 うな眼をむけつつ、着物を引ツかけ帯を結んだ、が、急に がやがやと騒がしい。 思い直して、再び彦七を追いかけた。間もなく追いっき、 彦七は人だかりを睨みつけ、金が手に入らぬ余憤で、 「彦七様彦七様、お尋ね申したいことがござります」 「なんだお前達は、俺に用か」 「又来たか。用はない」 と、手酷しくきめつけ、そのまま、行ってしまいそうに 「あなた様のお身の上を、どのくらい三之丞様がお案じな した。孫助は腕に着物も帯も引ツかけたまま、 されておいでか知れません」 「もしもし若旦那様」 「俺は兄のことなど案じたことはないよ」 振返りもせず彦七が、 「そんな憎まれロは仰有るものでござりませぬ。これから 「金のない家来に用はない」 と、ずンずン行く、そのうしろから孫助が追いつくを見何処をさしてお行きなされます」 はか・り一一と 「それが教えられるか、言略は密なるをよしとすとかいう て、人だかりは失望して解散した。若旦那と家来では、到 底、喧嘩になりそうもなしと、断念したらしい 「彦七様、お兄上様は味方でござります」 孫助は旅籠の辻で、彦七に追い縋り、 「敵だ」 「どちらへお出でなされます。室原へお帰りなされませ」 「なんでござりますと。三之丞様が、あの敵」 「俺が好きなようにする。おう、そうそう、三之丞にいっ 「今に、鼻毛を抜かれてあッという、腕くらべ、運くらべ てくれ、どちらが先に本望を達するか。彦七は彼奴を見つ らち け次第、埒をあける。決して兄に遠慮会釈はせぬと云っての、我が敵だ。室原へ帰ったら兄にそういえ、大坂の女の ことは打忘れたとみえますなと。室原に永らく尻を暖めて いたと、忘れずに云え」 ひな ござるが、鄙には稀な女がいるのでござるかと、俺がいっ 「そ、ついうお、いでござりますか。よろしゅうござります、 なま

8. 長谷川伸全集〈第5巻〉

る、と、後の下男が、はツとして、 もう一人の下男はその場に早や腰を抜かし、地にひれ伏 している。 「先生」 と、絶叫したが声は半ばしか出ない。 遊閑は左肩に創を負うと同時に、一声叫んで鉄杖を振っ オ」 た。びゅうびゅうと風が旋く。 が「彦七、どうした」 と、遊閑が前方を屹と見た。そのときは早や、三之丞 彦七が一足飛びに近づいていた。 と、三之丞が遊閑から眼を放さず声をかけた。兄は既に 「石井三之丞」 怨みの一刀を入れた、お前も早く一刀入れよ、というので ある。 「彦七」 こわ 名乗るが早いか、抜いて持っていた刀で斬りつけそうに それを彦七は、そう取らない、弟お前は怖いのか、と責 とっ * 、 した。遊閑は咄嗟に穿物を蹴あげた。片足は三之丞の頬をめられた気である。 かす 「なんの、遅れはとらぬ」 掠めるばかりに飛んだ。 うら 「怨み、おばえたか」 苛立っ心が押えきれず、罵るようにいいざま、逸って踏 と、彦七が斬りつける刀を遊閑は鉄杖で叩いた。彦七のん込み斬りつけた。それをえて遊閑が鉄杖を投げた。夜 刀も届かなかったが遊閑の鉄杖も刀を叩かなかった。二ッ風を旋いて彦七の面上へ、びゅンと飛んだ。 のうなりが暗い中に僅かに起って、夜風が渦巻いた。 孫助が叫んで飛び出した。 あぶな びゅン、遊閑が鉄杖を振った。振らしておいて躍りこん「あツ、危い」 で三之丞が、 庄太夫も声をあげた。 篇「覚えたか」 と、遊閑の肩にあびせた。 鉄杖は彦七の肩を強かに掠め、彦七の体がそのためにぐ 兄その時、提灯をもった下男が逃げた。逃げる途端に蝋燭るツと一つ旋回しかけた。鉄杖はうしろに飛び去り、地に 突き刺さった。 源が倒れ、提灯の胴から火が噴いた。 三之丞は満身に冷汗を一度期に掻き、〃はツ〃と思わず 石「ひやあ」 と、驚いて投棄てたのがばッと燃えあがり三之丞、彦七 と、遊閑を照らした。 「、つぬツ」 したた けや

9. 長谷川伸全集〈第5巻〉

彦七が微笑んだ、顔が、亡き母にそッくりなので、三之三之丞は黙って歩いている。彦七は又いった。 「室原へ着いたら、是非、お便りをなさい」 丞は今も亦思わず見直した。 兄は聞えぬ振りで歩いている、彦七が、 「わたくしの云うのは、丹羽殿、厚東さんでありません」 「わたくしはそう思います。お便りをなさるべきだと」 「弟亀三郎の処へというのか」 三之丞は父の後添いのことを、いつも口にしたがらな「彦七」 「はあ」 今もそうである。 ちのみご 「余計なことを申すな」 「乳呑児の亀三郎が、便りをもらっても、判りませんよ」 「なんですと」 と、彦七が馬鹿になったように笑うので、三之丞が、 「市瀬伊左衛門殿へ便りを差上げていいか悪いか、考えて 「だれの処へ便りしたかというのだ、朋友の処か」 みろ」 と、彦七がげらげらまだ笑いつづけた。 「差上ぐべきですとも」 たかわら いなずけ こして旅に発ったのだ」 「俺は許嫁を破談 「馬鹿だな、何を可笑しくもないのに哄笑いするのだ」 「それは浮世の義理だけでしよう、心では」 「兄上、市瀬伊左衛門殿内へ、お便りをなさいましたかと 「、いが、とは」 聞いているのです」 三之丞が振向けた顔は怒っていた。彦七は案外におもい 「せぬ」 駅 ~ った。 「どうしてですか兄上」 「彦七。お前は町人のようなことをいうのだな」 「便りすべき筈がない」 篇と、三之丞は仏頂面した。市瀬伊左衛門は、亡父と懇意「どうしてです」 だったのみでなく、その娘は三之丞の妻に、遣わそう、頂「破談となった今でも、以前のごとく三之丞が、市瀬の娘 に約束ある如く思うというのか」 兄こうと、約東はあったが破った。 源三之丞の仏頂面は実はテレ隠し、旅の日やけで黒い顔「思っていいのです」 「俺は武士だ」 石を、ばッと、赧くした。市瀬伊左衛門の娘は美しいのだ。 彦七は兄のうしろから歩きつつ、 「武士だとて、物思わずということはない」 「本望を達し、首尾よく帰れた時は時、それまでは、俺 「兄上、便りなさい」

10. 長谷川伸全集〈第5巻〉

「本当か」 出会ったときも、随分、常人と放れたところがあったが、 あっけ 「孫助が偽りをいうとお思いにござりますか」 今ほどに常軌から逸れてはいなかった。孫助は呆気にとら 「なんでもいい。孫助、これから何処へ行く、もう逃げぬれたが、 でもいし」 「彦七様。彼奴の所在を探り出しまして、広島の十三郎 「彼奴は京、大坂、伏見か、江州か美濃か、その他へは参様、亀之助様をお迎え申し、討手などとわたくしは考えた ありか らぬと存じますので、所在を突きとめに参ります」 こともござりませぬ。広島の御親類様のお間で、そういう 「ふン。突きとめられもしまいが、万一、突きとめたらだお話が出たこともないと存じます。わたくしは下郎でござ うって れが討手だ」 りますが、主人の敵が憎くてなりませぬ故、只今ではこれ 「申すまでもござりませぬ、貴方様でござります」 といって用事のないわたくし、彼奴の所在を突きとめてお じようふんべっ 「俺はお前の働きを待って、討取るは厭だ。彦七は飽くまき、貴方さまをお探し申すが上分別と、広島のご親類様方 で一己でやる、お前などの力は借らん」 のお力を拝借仕り、お指図を受けまして、このたび旅立ち ましたのでござります」 しい棄てて行きかける彦七の後から、孫助が、 「彦七様、わたくしの悪い所は、ご堪忍くだされまして、 「蒼蠅いな。なんといっても俺の料簡はきまっている、お あなた わたくしをお供にお召しつれ下されーーー彦七様、貴方どち前などは相手にせぬ。行け行け。俺は俺で、やるだけのこ らへお出でになります」 とをやる」 かど 彦七は眼に稜たてて、 「お待ちくださりまし彦七様。それでは、何処へお便りい 「何処へ行こうとお前の知ったことか」 たせばよろしゅうござりますか、それをお聞かせ願いま 「ではござりますが、彼奴は、京、大坂か、江州、美濃かす」 におるに違いござりませぬ」 「判らぬ奴だな。俺はお前が大嫌いだ」 「それはど判っているなら、すぐに行って所在を突きと「彦七様」 め、広島へ引返して注進しろ、幼少の十三郎、亀之助が敵と、孫助はみかかりそうにいった。じろりと彦七は冷 たく眺め、 討ちしたら、広島のご親類ご一同が、手を打ってお喜びな さるだろ、フ」 「なんだ。俺の方に用はないぞ」 彦七の逸れかたが尋常一様でない。いっそや江州大津で「孫助をお嫌いと仰有いました」