る声でいい終ると、数名の同志が殆ど同時に刀を抜いた、 「取り急ぎお耳に入れます、他聞を憚ることなれば、その 喜太郎等の中のたれカカ中 : 、、冨と厚みのある宮田忠左衛門おつもりでお聞きください、幸いに、たれも居らぬ様子 を引きずり落し、落馬して横に転げまいともがく宮田にた故、申しますが」 れかが斬りつけ、又、たれかが斬りつけ、別のたれかが止 糸は仰々しい与惣左衛門に巻きこまれないで、いつもと 殺を刺した。 変らぬ態度をとっている。 馬は宮田が引きずり落されたとき、暴走した。八日市の 「聞いてお驚きあるな。昨夜、八日市から帰る彼を、斬っ 飼主のところに戻ったとき、鞍がなくなっていた、どこて棄てました、やがて間もなく知れわたりましようが、拙 かで振り落してきたのだろう。 者が、ということはお漏らしくださるな」 与惣左衛門は裸馬が、雪道のかなたに立っているのを見糸は目がちょっと眩んだらしいが、すぐ気をとり直し たに違いないが、そこらの農家の馬が放れたのだろうと思た。 ったらしい。宮田とその馬とを結びつけ、さては、と思う 「どなたを、お手におかけですか」 ようなところが、時として、この男には欠ける。 「宮忠です」 五、六丁ゆくと、雪の上がさんざんに荒されていた。よ「何と仰せですか」 く見るとそこに、人の死体がある。多分、そのとき与惣左「宮田忠左衛門です」 衛門は、雪を掻きのけて横顔をのぞき、宮田忠左衛門であ「宮田さまを、あなたが」 あぶら ることを知ったのだろう。雪に突ッこんだ脂肪ぎった宮田「そうです糸どの、拙者は故人のお望みを、代って達して の顔が、剥いた目を据えて、ロを大きくあいていたというあげたのでござる、武士ですからな。イヤ、失礼します」 から、それを与惣左衛門も見た筈である。 与惣左衛門はこれで、糸を手に入れる道をひらいた。お 翌日の朝、いつもよりずっと早く与惣左衛門は、井戸端れがあれは殺したのだ、といくらいっても、違う殺したの に布施の糸が水汲みにくるのを待ちうけた。最合中間は午は私だ、といって与惣左衛門をやり込めるものはない、暗 過ぎまでは、もう一人の主人の方へいっているので、与惣殺組にとっても、極秘のことである。 左衛門ひとりの朝である。 しかし、糸は宮田忠左衛門が暗殺されたと聞くと、暗黙 きとく 「あ、糸どの、イヤ何。布施の後家どの」 のうちに、亡き夫の怨みをはらしてくれた奇特な人、と与 「お早うござります」 惣左衛門を思うようになっていった。 くら
叔父である。 滝寺は四の筋の人たちに礼もそこそこ、家族には、何ご うろた とが起っても狼狽えまいぞといい棄てにして、おなじ町に あたらしりんざえもん いる姉婿の新林左衛門方へせゆき、手短く訳をいい置 きにして、四の筋さして走った。そのうしろの方から林左 , 卩か、これも走ってくる。 鈴木忠左衛門方へ滝寺が駈けつけたとき、附近のものは すいか 鈴木方の前後を見張り、出てくる者があったら誰何するこ とにしていたが、出てきたものはなかったという。新林左 , 卩が間もなく駈けつけた。 十月八日の夜。 滝寺と林左衛門とが、附近の人たちに導かれて、書院ら 宇都宮城の西、といっても、城のすぐ傍らの代官町とい しい座敷に倒れている血まみれの死体をみた、紛れもなく たきでらよしじろう う、藩士の住宅地にある滝寺芳次郎方へ、夜更けに慌しく本多国太夫である。 しすじ 門をたたき、われらは四の筋の鈴木忠左衛門方の附近のも附近の人たちはそれまでに、家の内を隈なく探したが、 のと名乗る二、三人づれがあった。滝寺芳次郎がただなら全くの無人である。いつどこから兇行者が脱出したもの ぬ様子を察し、おッ取り刀で立ち出てみると、外で待ちか か、殺したものは何者か、それもこれもわからない。 ねていた明かずの門四の筋のものがいった。 本多国太夫の姪の夫の林左衛門と、甥の滝寺とは、附近 「鈴木忠左衛門方にて今しがた、踏ンごみ討っ足音に、つの人たちの助力を得て、鈴木忠左衛門を追跡して、日光街 かめま づいて人の倒れる音がおこり、家のうち残らずの灯が消さ道、鹿沼街道そのほか城下からの出口を調べた。忠左衛門 れ、あとは物音一つありませぬ。近隣のわれらそれを怪しの生れは宇都宮から南へ四里半ばかりの壬生三万石鳥居家 み、数名にて鈴木方にたびたび声をかけましたが答えなの領地なので、その方向の出口は、特に調べたが、 足取り し、仍って手燭、提灯をもって、屋内にはいりしところ、 はつかめなかった。忠左衛門の妻のことも召使いの者のこ ほんだくにだゅう 血に染まれる本多国太夫どのの死体がありました」 とも、矢張りわからなかった。 何者かに斬り殺されているという本多国太夫は、滝寺の その一方で、代官町の本多方へは、次女せきの夫の落合 第七話古寺にいる女
あたらしのうすけ 新之助が駈けつけ、林左衛門の兄の新農助も駈けつけ、女房だが、この女も国太夫が玄関へかかったときは、敷台 いん学ん にすわって慇懃に出迎えた、それを四の筋のもので、ちら 国太夫の妻なみに力をつけ、現場へいそがせた。七歳にな る長男の良之助は、義兄にあたる落合新之助が背負って連りとだが見たものがある。だがこの女も、前にいった召使 、いなくなった。いなくなったのはそれ いの男とおなじく れていった。七つでも武士の家の長男だから、父の最期の ちゅうげん だけでなく、飯炊き女も使い走りの子供あがりの中間も同 ありさまを見せておくというのである。 国太夫を斬り殺したものは疑うべくもなく、鈴木忠左衛様である。 そればかりか数代っづいてきたこの鈴木家の家具そのほ 門で、と思うほかなかった。国太夫は親しい仲でもない忠 左衛門から、来る八日の〃夜ばなしみのあつまりに、一席か、目ばしい物がなくなっている、元のままであったの ねんご こうわ の高話をと、頼まれたが断った、がしかし忠左衛門は懇ろは、国太夫が斬り殺された座敷だけであった。 この晩の客は国太夫だけであったから、〃夜ばなし〃な に、しかも執拗に繰りかえして頼み、国太夫はそれを扱い かね、当日に至りこちらの都合にて、出欠いずれとも勝手ぞとはウソであった、とすると、国太夫を殺害するため に、策を組み立て手筈をととのえたと判断するほかない、 のことという条件つきならば、ということで、話が一応っ しかし、忠左衛門と国太夫の間柄は、極めて淡いもので、 といっても、国太夫 当日の夕方ちかくなると、忠左衛門の召使いという男殺人事件がおこるような原因はない、 が殺されているのだから、加害者の方には何かがあったの が、出席を懇望する忠左衛門の手紙をもって迎えにきた。 轗につつ、フ 国太夫は甚だ気がすすまないらしかったが、それでは致し このときは七歳であった良之助が、明治になってから 方がない行ってくると、迎えの男に供をさせて代官町の家 を出て、四の筋の鈴木忠左衛門方へいった。このとき国太『宇水記』というものを書いた、そのなかに、鈴木忠左衛 相夫が迎えの男に案内され、忠左衛門の出迎えをうけたとこ門の兇行の原因を、次のようにいっている。 異 「藩の規則にて、年に一度ずつ武分という事あり ろを見掛けたものが、四の筋に住む藩士の家族だけでも ち ばんがしら て、家老用人番頭等一同列席にてこれ有る事なり。殿在 羇四、五人あ 0 た。 そのときの迎えの男は、それッ切りで、姿がみえなくな国なれば殿も出座これ有る。その折、本多 ( 国太夫 ) 鈴木 ( 忠左衛門 ) 、撃剣立合いありしが、鈴木大きに敗を取り たる事あり、多分、その遺恨ならん」 忠左衛門の妻は先代の鈴木孫太夫の娘で、つまり家付き いえっ
らきて一年にもならぬお仁には、聞かせてならぬことはロ日を待ち、めいめいに仕度し、まちまちに人目を避けて、 1 に出されない」 大森を出た。中には八幡へゆくと見せかけ、廻り道をワザ 六蔵じいは出された銭は無遠慮にもらうが、話はこれ以として、釜谷ちかくで同志と落ちあったものもある。 上もっていないらしい。 その日は雪がふり散って、空も地も、目のあたりの物の 六蔵じいが知らないといった布施内蔵太自殺の事情は、 ほかは、ただただ乳色に塗り消されるときもあるが、降り おちこち こうである。 ゃんで、遠近の山々までも、眼前の雪景色にとり入れられ かみおおもり 内蔵太が上大森の代官所で、税務を扱って五、六年になて見えるときもある。 しんらっ った今年の二月、宮田忠左衛門が辛辣な調子で、内蔵太に おなじその日の午後、明道館では与惣左衛門が、十四歳 不正多し、罪を明らかにし極刑に処せよ、と告発した。内の春を迎えたばかりの布施初太郎に、特別な武芸教授をや 蔵太は免職になり蟄居を命ぜられ、苛烈な調べをうけた、 っていた。与惣左衛門は二、三日前から、布施は手筋がよ むじっ その結果、寃とわかったが、内蔵太を虐めた宮田には何のろしいので格別 ( 特別 ) 指南をしてつかわす、ということ こともなく、却って重用されてすらいる。これを内蔵太がで、今日もその格別指南をやりながら、左程でもないこと てんい 悲憤して、決闘によって、どちらが天意の罰をうけて敗者に力を入れて叱った。 になるか、やってみよう、と決心したとき喀血した。内蔵「そんなことで、宮忠が討てるか」 太は再起できないことをさとり、それは悲しまないが、宮初太郎が棒立ちになった。顔が透きとおるような蒼白さ 田を決闘で処罰できないことを歎き、憂悶の果に自殺し になっている。 だんが、じよう た。であるから、含み状は宮田忠左衛門弾状であった、 「心配するな。そのことは与惣左衛門、存じているので しかしそれは没収され、遺書もなかったということにさ な、教え方が荒くもなろうて、な」 れ、その代りの如くに、少年の初太郎が三十五石の家督を「先生はご存じでござりましたか」 とどこお 滞りなく継いだ、とこうなったのである。 「気にかけるな。さあ、もう一本、それで終りとする」 宮田忠左衛門が一月十七日の午後、大森を出て、八日市「はい の知辺のところへ行き、帰るのは夜になる、という予定その日のタぐれ時、与惣左衛門はこっそり大森を出た、 を、高田喜太郎等が聞き出した。それではその夜、釜谷あ行く先は八日市、目ざすは初太郎のロウラを引いて確かめ たりに待ちうけ、暗殺しようとなって、十七日というそのたばかりの宮田忠左衛門。途中から手づくりの雪草履を腰 ちつきょ ひと
さなかった。しかし、使いのものに、旅立ちの餞別は届けりであった。 させてきた。 その次の日、馬頭から三里余りの常陸久慈ノ郡大子へは 良之助の後見役は、姉せきの夫の落合新之助が江一尸詰め になっているので、従姉の夫の新林左衛門が、やることに久慈川がちかい大子の宿には、旅籠屋もあり、休み茶屋 くしかんざし なった。従兄の滝寺芳次郎は勤役の都合で旅へ出られなか もあり、俗によろず屋という衣類から櫛簪、笠のいろい かつば ましうお ろ合羽類、酒味噌醤油から海のモ魚そのほか、何でもある とい、フ店がここにもあった。しかも大きい。 四 すると、小生瀬に鈴木忠左衛門が住んでいるとすれば、 ちゅうげん 本多良之助と新林左衛門に、新家の中間が供をして、宇必ずや、このよろず屋に買い物にきている筈である。 都宮を出立した。林左衛門は上司の黙許を得ているので、 林左衛門は良之助をつれて、よろず屋の店の内へはい り、買い物をすこしばかりして、鈴木忠左衛門の人相年ご 五日間又は七日間の今でいう休暇をとってある。良之助は やす 藩の子弟ではないので、そのころの身分証明書と旅券とをろを話した。中間は軒下で憩みながら待っている。 よろず屋の亭主は、、 しくら尋ねられても、記憶にないと 意味するものは、日光山の安居院がつくり、輪王寺が据え 判をしたものを持っている。 答えたが、その答えぶりの中に、あの人のことではないか 大塩平八郎の乱が大坂にあったのは昨年で、ここうち続と思ったらしい一瞬が、二度も三度もあった。 よな あれこ いての凶荒に、そのころの言葉でいう〃世並みの悪さ〃容林左衛門は煙管と煙草入れをみせてくれといし 易ならぬものがあったときではあるが、旅行に危険が特にれと手にとって良之助に見せた。 「元服したからは煙草のすい方ぐらいは存じていたがよろ 加わったようなことはなかったので、主従三人づれのこの きつれがわ 一行は、宇都宮から七里足らずの喜連川へ出て泊り、次のしいと、道中に出てから心づき、買ってとらそうと存じて もと はやどま 日は縣頭で早泊りした、あすは大子で、大子はその辺でのな。では、これとこれを購める」 なたまめ、せる 集散の地だというし、小生瀬村とは二里余りしかないとい 鉈豆煙管と油紙づくりの煙草入れと煙草、それから腰下 うから、鈴木忠左衛門の様子のあら方を聞き出せるだろうげの火打ち道具を買った。 から、その上で、小生瀬へ乗り込もうという林左衛門の計亭主もここまでくると、好意のようなものが出てきて、 、に答えた。 策であったから、あすの大子着の時間を計算に入れた早泊先はどのし しゆく
文の傘を送っていったときが初めで、その後も一度見かけ いっただけで、事実を語ることを控えた。 た。こちらは顔を見知っているが、忠左衛門の方は知らな いので、よろず屋の店の前にいても、目もくれなかったと 良之助と林左衛門たちの小生瀬探索は一応これで打ちき いうのである。 りになった、林左衛門に藩士としての勤めがあるからであ る。 そうすると忠左衛門 小生瀬から逃亡する前のことな といって良之助だけを、探索と討果しと、双方を兼ねたので、探索済みのことなのだが、政五郎がその後、もし敵 旅へ出すことは、母も姉も、従兄そのほかも不同意で、も討ちというのでしたら私を道中の案内人につかってくださ すばや 、、私は武芸はダメだが、喧嘩には素早いところがありま う少し成人して、大人らしくなるまで、修業させるがよろ すから、探索の手伝いの外に、いよいよのときは助太刀の しいとなった。 良之助は再び日光山にのばり、安居院の僧正の指導をう真似事ぐらいは必ずやりますと、林左衛門と滝寺に相談を もちかけた。つまり政五郎は気が腐って仕方がないので、 け、内藤唯七郎について〃武〃の練り直しにかかった。 目ざましいことをやったら、自分の仕立て直しが出来ると 良之助が十七歳の春を迎えた。 思ったのだという。 五 政五郎について聞き合わせ調べあげた結果、いい意味で かたぎ 水戸の方へながらく行っていた傘職人の政五郎が、出稼いう職人気質の男とわかったので、良之助を日光山から呼 ぎ先でもらった恋女房に死なれ、所帯をもっていた水戸をび、政五郎を付けて敵討ちの旅に出そうとなった。前とち あとにし、生れ故郷の宇都宮へ帰ってきて、伝馬町の伯父がって今の良之助は、体もワザも出来てきたし、煙草など ういざん の家に、一応のところ落着いたが、初産がコジれて、母ももス。ハスパすう、大人ッばさになっていた。 子もともに死んだのが骨身にこたえて、忘れかねる悲しみ滝寺芳次郎が日光山へのばり、安居院の僧正に暇乞いさ せて良之助を、宇都宮へつれて帰った。 に明け暮れしていた。 その政五郎が水戸領の内で、鈴木忠左衛門を二度も見か けたと、何気なく話したのが廻り廻って新林左衛門と滝寺良之助は日光の安居院にもどると見せて、敵討ちの旅に 芳次郎の耳にはいった。そこで政五郎を林左衛門方に招い 一人で出立した。政五郎の方は水戸に置いてある物を始木 たが で、詳しく聞いてみると、久慈郡の大子のよろず屋へ、註しにゆくと称し、日はおなじだが時刻を違えて出立した。 うちはた
ある日、滝寺芳次郎が新林左衛門とつれ立って、国太夫の 後家を訪ねた。 とがみむら 翌日 ( 十月九日 ) の早朝、滝寺芳次郎が親族を代表して、 「只今、忠左衛門めが砥上村に隠れているのを見たという 本多国太夫の死亡を藩庁に届け出た。やがて正副両名の目知らせを、或る人から受けました。よってわれわれ両人、 付と、その下役人とが、死体と現場の検証に出張ってき これより砥上村へまいり、確かめます、幸いに居りました た。この役人たちが引きあげたあとで、検証調書と食いちら、迎えのものを寄越しますから、良之助をつれておいで ー、のない届書をつくって藩へさ し、前に出した届書下さい。良之助が着到いたすまでは、何とでもして忠左め は返してもらった。 を引きつけおきます」 こうなってはじめて、死体を引きとることが許され、そ われら両人が助太刀して、良之助に敵討ちをさせるとい の夜は通夜、次の日は何か障りがあって葬儀をのばし、足うのである。だが、この敵討ちの討人は、藩士の籍をけす 掛け四日の十月十一日、城下の西原町にある松嶺山報恩寺られた本多国太夫の遺族なので、藩が関係しない。 あいしゆく の墓地に埋葬した。国太夫は四十五歳であった。 砥上村は鹿沼街道の宿駅の一つ、といっても〃間の宿〃 どこの藩でもそうである如く、殺害されたことによっ とそのころいった、旅行く人の多くが素通りするところ て、本多の家名は断絶になり、三十九歳の妻なみは、七つで、宇都宮から西へ二里ばかりある。ここは幕府の直轄地 うら・一うじ かちゅう ただよし の良之助と三つのすえをつれて、城下街の裏小路に小さな なので、宇都宮戸田日向守 ( 忠温 ) の家中などといっても、 家を借り、母子三人だけの細々としたくらしにはいった。余り効き目のない土地である。 すてぶち じゃく 藩からは捨扶持が給されるものの僅かなものなので、滝寺新林左衛門と滝寺芳次郎は、砥上村へはいってまず地役 にん 芳次郎や新林左衛門や、次女せきの縁づいている同家中の人を訪ね、事情をうちあけ、われわれの叔父を殺害したこ もとかくま 落合新之助や、長女いわが縁づいている鹿沼の松野藤吉な ういう人物がこの村に逃げ込み、何びとかの許に隠匿われ どからの仕送りで、ともかくも、日陰もののくらしをするている筈と、探索に助力をもとめると、先方では既に知っ 」とになった。 ていて、鈴木忠左衛門とかいう人物のことですかと云っ ぶんせ↓ 文政十三年 ( 一八三〇年 ) というその年は、十二月十日に あらた 年号が更まって天保元年となった。 「その忠左衛門とかいう人のことは、日数がだいぶたちま 、とうやそうじ 国太夫の百カ日の繰りあげ法要があった天保二年一月のしたが、当村の佐藤弥惣次方へまいったのが、昨年十月九 つけ っ ) 0
からはずして穿いた。この男、辷るのがうまい。イヤ早まり宮田は単独で雪の夜道を来つつあるという。この報告 をした援助者は、馬をつかった。 高田喜太郎は援助者を立去らせてから、同志にいった。 五 「更めて再びいうが、今晩これからやることを諸君は、見 与惣左衛門は八日市のはずれにある、腰かけ酒屋で、一なかった夢と思ってくれ、一切の責めは私が負う、諸君 杯の酒と一ト皿の焼き干魚とを買い、宮田忠左衛門の通るは、私が捕えられ死を命ぜられても、今夜のことは知ら ぬ、という態度を、くずさぬように、よろしいな、念に念 のを待った。宮田が通ったら、暫くの間やり過しておき、 あとから雪草履を穿いて辷って追い越しざま、向き直ってを押しておく」 とどめ それから喜太郎等は街道に、一の手二の手三の手と、三 袈裟がけにやり、止殺を加えたら、再び雪草履で疾走して 大森へ戻る。辷った跡は降る雪と吹く風が消すから、殺害段構えになって、佐幕の音頭取り要撃の配置をおわった。 というのが与惣左衛門 者がたれか、わかる筈が全くない、 腰かけ酒屋にいる与惣左衛門は、耳を傾けていたのだろ の計算である。 そと 彼は高田喜太郎等の暗殺組が、既に動いているとは知らう、戸外をゆく人と馬との気配を察し、小窓からのそいた やみ ない、又、暗殺組とは目的を異にしている。彼は宮田を暗そうである。そのときが宮田忠左衛門が、馬上で胸を張っ 討ちにして、布施初太郎の母、美しい後家の糸に、恩を売て、帰途についたときであったらしい 与惣左衛門はそれから何杯目だかの酒を買い、飲みおわ りつけたいのである。 って出ていった。 高田喜太郎等の組は、降り散る雪と、吹く風とを、街道 相沿いの雑木林の陰で避けながら、最後のうちあわせをし高田喜太郎等が宮田の乗った馬のロをとって歩かせず、 鉄鞭を押えて手にとらせず、刀の鐺をとって上げて抜かせ 八日市に出しておいた高田の援助者の報告で、宮田忠左ず、となったとき、雪は降りやみ、風は長く短く、しばし 衛門は馬に乗って出た。持ち慣れて久しいといわれる鉄鞭ば息をついていた。 は、すぐ手にとれるように鞍につけている、供のものは来喜太郎が暗誦している佐幕論の反駁につづいて、かかる さっちゅう たときもなく、今もない、八日市からの道づれもない、つ時勢には殺誅も又已むを得ず、故にかくの如し、と朗々た
ようにん 「ございませんか。それを伺って安心しました。私は剣をた。役は用人という、有力な席をもつ一人である。 五千石の当主の駿河守は、乱世の武将には向かない、治 ひッさげて起てば、人の何倍か役に立つものです、奸佞の えて とい、フよりは、お殿さま ものがあって、一刀両断いたさねばならぬというときは、世の政治経済もそう得手でない、 じようしき の定式に随っているお殿さまで、目下のところ、宮田忠左 与惣左衛門、御家のため、奮い起ちます」 「丹野どの、左様なことはロにされない方がよいでしょ 衛門の佐幕論にかなり引きずられている。そうなると執政 う、話相手にされたものにとって、迷惑至極です」 ( 楯岡小十郎 ) そのほか、年をとったものほど、宮田の佐幕 「いやこれはどうも、以来、廩みます」 論に付いてゆきそうである。 田中としては珍しい不機嫌さで、退出してゆくのを、見家老の鳥越準左衛門を中心とする人々は、態度をポカし 送るでもなく与惣左衛門は、酒徳利の隠してあるところへている。そのほかには二十二歳になった高田喜太郎を主唱 ゆき、ロからロへゴボゴボとやったとき、廊下を通った高者の一人とする、勤王論実行派がある。 田喜太郎の色の白い顔が、ちらりと見返っていった。 つまり佐幕派が家中総員のうち一割、勤王派がこれも一 割、あとの八割は、形勢を観望するものと、命令があれば どっちにでも行動するものと、何も考えないでいられるも のと、大体この三つの集りで、一トロにこれを、浮動者と 年が新たになって、慶応四年 ( 九月に明治元年となる ) の一 月三日、鳥羽と伏見とで、東西両軍の激突がおこり、西軍数えること、昔も今もおなじらしい は錦旗をかかげて、幕府側の東軍を敗走させて、緒戦で しもおおもり 高田喜太郎は家中の若いもの二名と、陣屋のある下大森 は、優勝を遂げた。 カそれから先はど、つい、つことになり、 決定的の勝ちは東か西か、だれにもわからない、というのの農家と町家の若もの二名とで、荒れ狂う風雪の昼、学問 相が、その時の実相である。 の集りに擬装して、宮田忠左衛門暗殺の謀議をした。 ち大森陣屋では、鳥羽・伏見の戦況が注進されてきたとき このとき諸藩にあった暗殺事件は多い。暗殺は藩論を一 すくな から、佐幕派の説得力が強くなり、その説に服するものと新させる近路だ、と思うものが、少くなかったのである。 本 傾くものとが、多くなってゆくらしい。 これが明道館が正月休みになっているその月の六日のこ この派の中心人物 は七十石の宮田忠左衛門といって、五十歳を越えたが、肩と。 おなじ日のおなじ昼間、丹野与惣左衛門は借り家で、最 が厚く、腰も太く、外出のときは鉄鞭をいつも手にしてい じっそう
「では、糸どの、これに答えていただきたい、内蔵太どのってござったのは、宮田さまのことであったとねえ。江戸 からきて日の浅い人には、たれしも黙っているから、旦那 を憎んだのは何者でしたか」 「丹野さま、そういうお尋ねは、まことに迷惑にござりま には布施の内蔵太どのが遺言状を啣えて腹切ったことが知 れない筈ですわえ」 たか 糸がひどく神経を昻ぶらせているのが、与惣左衛門に 「よく話してくれた、銭をやるぞ」 は、この上なしの美しさであったらしく、風雪の狂う昼だ「急にいい出したようで悪いが、旦那どの、倅夫婦がこい というのに、体中に脈を高くうたせ、睡りこけたような眼こい申すので、わし明日の朝、伊勢の白子の方へゆきま をした。 す。お世話になりました、有難うさんで、へえ」 「何だ、急にそんなことをいって困るではないか、後のこ 四 とはどうするのだ」 高田喜太郎とその同志は、それから十日ばかりの間に、 「あすの朝、太十という男が、わしの代りにまいります、 時勢の検討を再びやり、最上五千石の主従の往くべき道と太十もわしの今までとおなじ、最合中間です」 して、江戸攻撃軍に参加すべきであると、最終決定を出「困るな、この辺のものは得手勝手でな。それはそれとし し、そのためには佐幕派の宮田忠左衛門を、この数日中のて、今の話だがーーー大きな声では申されぬが、宮田忠左衛 夜、彼の外出先に待ちうけて、斬奸の趣旨をいい聞かせて 門と布施内蔵太とは、どういう訳で仲が悪かったのか知っ 殺害する、と決定し、実際に手を下すものは高田喜太郎そているだろう」 のほか二名、偵察と見張りとで同志数名が行動をともにす「そういうことは知らぬです」 るとなった。 「知らぬことはあるまい、聞かせろ、宮田が内蔵太の妻に 相それとおなじころ与惣左衛門は最合中間の六蔵じいがい 手を出したのか」 「いやあ、飛ンでもない、あの後家さまそんなお方でな ちうことに、息をのんで聞き入っていた。 靃「赤川仙造どのは江戸へけさ急にゆかれましたが、手前 「では、どういう訳だ」 日に、これ六蔵よ、宮田忠左衛門さまのことを与惣左衛門ど 「わしは存じておりませぬが、赤川仙造どのならご存じの のにいうなよ、江戸からきた人に用のないことだからと、 こう申されました。それでわかりました、旦那が知りたが筈ながら、あの人も、ほかの方々とおなじように、江戸か