明治 - みる会図書館


検索対象: 長谷川伸全集〈第5巻〉
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1. 長谷川伸全集〈第5巻〉

に勝てるものはない。 高田の獄中記を『幽囚漫録』という、その中にある詩の 一つを記してみる。 高田義甫 夢中有レ夢幾春秋栄枯去来不レ足レ愁 憶レ国思レ家渾失レ策夢中夢覚近江州 明治十年九月、高田は在獄一年二カ月、特赦されて出獄 した。その年の冬、大津今堀町に速成義塾をつくって子弟 を教え、夜は揚子町の監獄に通って、獄内の学校をつづけ た、この送り迎えは塾生が交代で提灯をかかげて勤めた。 糸は明治十年の内国勧業博覧会に、懲役人として、巾 着、よだれかけその他の手芸を出品し、褒賞をうけた。 満期出獄は明治十二年八月である。 「近世毒婦伝』 ( 横瀬夜雨 ) にある布施いとは、郵便報知新 だけに、型にはめた毒婦になってい 聞に出た続き物が材料 るために、明治のころ世に知られた筑波根詩人の著者で も、「人を殺して懲役三年は軽すぎる」といっている、が いまときわふせものがたり 相『今常盤布施譚』 ( 二代目松林伯円 ) では、題名の示すよう かば ちな悲劇の貞女になっている。常盤とは、子供の命を庇うた め清盛の妾となったという頼朝たち三兄弟の母である。伯 日円は講談師で、河内山、直侍などが登場する「天保 六佳撰』は彼の作である。 高田義甫は人材づくりの私塾の経営に、結局は失敗し たが、実業界にはいって遂に水産の専門家で成功し、 明治二十六年の秋、病んで世を去った。五十歳にもな らなかった。 布施糸は大森のちかくにある小学校 ( 高等科という中学 の前身にあたるものがあった ) で、裁縫の教師となった ことがある。明治四十年の春、病歿した。八十二歳だ ったとも、七十二歳だったともいう。

2. 長谷川伸全集〈第5巻〉

カカった。 六郎は来あわせた人力車を呼んだ。五十歳にちかい車夫 かなわ は恐れる色もなく客にして、いわれたとおりの方角へ金輪 の人力車を輓き出した。幕末までは大小二刀を腰にした人 であったかも知れない。道路は凍っている。 人力車は第二方面第一分署 ( 幸橋外警察分署 ) に横着けに された。自首したのである。しかし、所轄が違うので、分 署の手で、第一方面第三分署 ( 京橋警察署 ) へ護送され、そ れから警視庁第三局へ送られた。 明治十四年一月、検事起訴で刑事局に廻され、同年九月 一一十二日終身禁獄の宣告をうけた。罪は謀殺、士族である ので、そのときあった「改正閏刑律』というものに拠っ て、死刑から一等を減じたのだという。 その翌年 ( 明治十五年 ) の五月十八日、一ノ瀬直久の父直 温が自殺した、縊死である。 黒田家では、残虐に対する残虐で、意趣返しの場所につ かわれた屋敷を、間もなく売ってしまった。 六郎は初め石川島の懲役場で服役し、後は小菅集治監で 服役し、明治二十三年出獄した。禁獄九カ年の実刑であっ 臼井六郎出獄すと新聞が書くと、発狂したものがある、 六郎の母を無残に斬った往年の萩原伝之進である。萩原は おのの 怖れ戦いて死んでいった。

3. 長谷川伸全集〈第5巻〉

西欧人のいい方と科がハデなのと、二、三発の空弾を放つないか、又は、奥羽の戦闘隊へ補充されて行っているので た拳銃に怯えて、逃げるものばかりの中に、ひとり七之允はないかと、七之允兄弟は気に病んでいるが、調べもでき がそのフランス人の向けた銃口にすうと近づいたので、フず聞きあわせる方法もない。大塚慶蔵もこれにカ瘤を入れ ランス人は拳銃をすてて、あなたヤワラいけないある、とたがどうにもならぬ。熊栄があの手この手で聞き出そうと 両手を横に振り違えて何度もいった。柔術はやめてくれでしたが、ダメであった。 わずら ある。結局、これはフランス人の誤解とわかって、却って 七之允は明治二年二月の下旬から病いっき、悪くなる一 井組はこのため仕事がふえた。もう一つは、井組と備州藩方であったが、真夏を越すとめきめきよくなり、八月には の火消しで荷役のものとが大喧嘩をやりかけたとき、七之かなり元気をとり戻し、九月には前におなじ強壮さとなっ つひら 允が備州へ談じ込んだ・その詰め開き ( 交渉 ) がよかったのた。 てんと で、和解がすぐ成り立った。 その間に東京が日本の首都に確定して、京都から奠都と 七之允は役付きになり井組の政コといわれ、売り出しのなり、北方の戦いは抵抗諸隊の帰順降伏でおわりを告げ、 男になりかかったとき、突然に姿を消した。慶応四年九月諸事一新の実行が、失敗はやり直し成功は拡大してゆくや 八日だというから、年号が明治と改められた日である。 り方で、日に月に進んでいた。 それまでに江戸城明渡し、上野の戦争、江戸が東京と改京都の五条下ル東高瀬に、野口庄三郎という山林師が別 められ、明治天皇即位の大礼が行われ、明治新政府は多難宅をもっていた。本店は信州松本にあり、必要ができると を事ともせず、或は失敗し或は成功し、着々として進展の支店を日本のどこにでも設け、必要がなくなるとどこの支 途を歩みつづけている。がしかし、奥羽の戦乱 ( 会津・庄店でも廃止する、番頭手代そのほか、腕のいいのが揃って 内 ) は平定の一歩前に近づきよしこま、 。オカもっと北の ~ 力に いて、仕事次第でどこへでも行き、どこからでも引きあげ ( 北海道 ) 、抵抗の諸隊が大同団結しそうな形勢にある。 てくる、という類のない、諸藩を相手に払い下げ山林引受 ゆみち あした きのう 七之允、忠次郎の往く途は、日本の明日にも昨日にも関け業者である。明治の大変革期にあたって、どの藩でも金 係なしである。 。、よい、そこを狙ってする野口庄三郎の大儲けつづきの仕 事である。 東高瀬の別宅には、熊栄の姉分の芸子であったやえが納 山本旗郎が東京鍛冶橋内の土州藩邸にいっているのではまっている。十月はじめのころ、熊栄はやえから土州藩の みち

4. 長谷川伸全集〈第5巻〉

等裁判所に於いて審理す、どなった。 糸は屋根瓦の破片をひろって硯をつくり、木炭の粉を水高田義甫のことは、糸の事件から生じた波濤である。そ ちりがみ にといて墨とし、紙を撚って筆にし、ひそかに歌を塵紙にれにしても明治戊辰とその前に、全国の諸所にあった勤 書いていたのを、監守に見つけられ、詠草を没収された。 王・佐幕の暗殺事件が、殺人罪に問われ、十年刑となった 歌は「子を思ふ心の闇にふみ迷ひ道をたがヘし身こそ恥かのは、まことに稀れなることである。或はこれ一つだけか し」、「世の中に憂きもつらきもある中にわが身にまさる憂も知れない。 ( 村上六郎等の高野山一件も処罰されてはいるがこ の場合とは筋合いが全くちがう ) きはあらじな」である。 この二首の歌は後に、裁判所長の手にわたった。 明治八年の四月に近くなっても、糸の審理はおわらな 糸は大津の監獄内の女監で、許しを得て、ほかの女囚た ちに心の故郷をつくって与えた、廃物をつかって作った人 形、残飯でつくった碁石そのほか、獄外に買ってくれる人 がある実用手芸品のいろいろ、それから文字の読み書き、 しそく 明治八年 ( 一八七五年 ) 四月、東京の高田義甫は、近日の実用文章の綴り方、四則の算数、等々、目的と形式とは世 うちに滋賀県から逮捕にくる、ということを知った。宮田の中のそれとは違うが、実質では疑うべくもない女子教育 忠左衛門殺害の犯人として、処分されるのである。 の監獄内の学校である。糸は女囚たちに敬愛された。 そむ 高田は東京の花に背いて故郷の近江八幡に帰り、訣別の 小宴をひらいて、大津にいって自首した。その日すぐ、揚高田義甫は小川町の監獄の近くに、柴屋町という遊廓が 子町にある徳川時代の牢屋がそのまま、大津監獄となってあって、絃歌が聞えてきて囚徒の心を掻きむしる、と知る いる、その中の未決監に入れられた。 とすぐ、『監獄移転論』をつくり、司獄の手を経て県の長 明治九年七月、高田義市は他人のことは全く口に出さ官に提出を乞うた。 ず、一言の反論もせず、懲役十年の判決をうけ、直ちに下高田は許可を得、獄内に、事実上の学校をつくり、読み 獄し、大津小川町の既決囚のみの監獄に移された。 書きを教え、実用算数を習わせ、人間の践むべき道を説い その翌月 ( 明治九年八月 ) 東京上等裁判所で、糸は情状をた。強盗もペテン師も無頼漢も親泣かせも、高田のおとな 酌量し罪二等を減じ、懲役三年、という判決をうけた。 しい生徒にみンななった。もっとも腕ずくになって、高田 ふるさと

5. 長谷川伸全集〈第5巻〉

少者をあつめた。その一方で、「続・王代一覧』の著述に 最上家主従の態度は、宮田が暗殺されたのを機会にしてとりかかった。 一致し、西軍に属して、少くはあるが兵も出した、警備に 大森には最上家のもので、きのうに変る俄か百姓になっ もついた、軍資金も多額に出した。 たものもあり、初期の警察官に採用され、捕り手、見廻 しかし、小さい家のあわれさである、扱いが軽い。 じゅんがい ほぼうがた り、巡街、捕亡方と、名称が変るたびに、多少の進歩と行 き過ぎとが同時にある治安担当の任に就いたものもあれ しやりき 江戸が東京となり、慶応四年が明治元年となり、どこのば、馬追い牛追いとなり、車力となったものもある。零落 藩も版籍を奉還し、公卿も大名もなくなった代り、公・侯して失踪したものも何人かある。鳥越準左衛門ですら田舎 ・伯・子・男と五つ階級がある爵位が、それぞれに振り当のお百姓さんであるより致し方がなかった。 そういう中で丹野与惣左衛門は、勤め口を求める気がな てられた。華族というものである。大森五千石は、それに く、日に日に呑ンだくれて、新しい政府と、赴任してきた 当て嵌まる家格でないから、最上義連に爵位はなく、現米 百五十石の永世禄を下さる、というだけになった。百五十地方官とを、何の材料もないのに悪口のタネにつかうか、 石では立ち行きがたく、大森に居たくても居られないのさもなければ、愚痴を悪態につつんで放言するかで、一日 で、明治三年 ( 一八七〇年 ) の秋、二百余年の久しい父祖のずつを送っている。その間に、独りひそかに有頂天になっ ているときもあった。宮田暗殺という嘘をタネに糸の白い 地をあとに、京都に去って、侘しい生活には、った。 高田喜太郎は大森家がそうなる前の年 ( 明治二年 ) の二体に有りついて以来の有頂天である。 月、最上家を辞して、東京に出て高田義甫といった。通称明治三年の秋にはいってから、与惣左衛門は糸から疎ま ふう なのり 相の喜太郎をすてて、名乗の義甫を採った。その時代の風でれているのに気がついた、それを口汚なく責めたときから ちある。 糸は、二つ枕の夜を拒みつづけたが、拒みきれないときも 高田義甫は二十三歳だが、時の学者と識者とに啓発をうあった。与惣左衛門の腕がそうさせる。 日がたつにつれて、この押し込み婿みたいに今はなって 日け、新しい日本の誕生を経験してきているので、これから わこうど いる男が、家付きの内縁の妻に、目を白くして搦むだけで は諸国から若人があつまるに違いない東京で、人材つくり うな をやろうとして、私塾協力舎をつくって経営し、江州の年なく、三度に一度は刀をひねくり廻して唸り立てる。

6. 長谷川伸全集〈第5巻〉

に届いてからきめるべきで、今はただ密告があったと記憶勉学する気があるか、と出し抜けのように尋ねた。六郎は するだけでいい、 といったのに六郎は素直に、、 ノイといっ喜んだ。東京游学をいい出そうとしていた時であったので た。しかし、日がたつにしたがい、六郎の顔の色も食慾もある。 「東京へ上りたいと存じます」 ロのきき方も、病人らしくなった。 「游学するか、それでは東京の兄に郵便で相談をかけてみ 「六郎、お前、敵討ちをしたいと、思っているね」 たれもいないとき、慕が尋ねると、頬に血の気がさッとる」 東京の兄とは幕末から明治の初めまで、京都に出張して さした六郎は、隠さなかった。 むすぶ あけ いた上野四郎兵衛で、今は上野月下と改名し、芝西ノ窪明 「そうです、六郎は成人するのを待って、父と母の敵討ち ふねちょう 舟丁に住み、文部卿に勤める官員である。 をいたそうと思います」 六郎の東京游学は、東京の叔父から大賛成といってき 「それで、そのあとに何かいうことがあるかね」 た。それから九州秋月と東京芝とで、日数のかかる郵便 「何もありませぬ、敵討ちをいたしたいのです」 くだ ふれい 「六郎、いっか話したね、復讐を禁ずという布令 ( 明治六と、秋月下り東京上りの人に、手紙を託し伝言を頼み、次 年二月 ) が出たことを。敵討ちは国家が禁止したのだから第に相談が熟し、六郎の東京上りがきまったのが夏になっ やらぬ方がいいのだが、圧制してやめさせはしないが、とてからである。 いって十三歳のお前で、判断ができることではないから、 慕は十四歳の少年を一人、三百余里の旅に出してやるの それは後々のことにして、勉学しろ、充分に勉学してかを危ぶみ、同行の人を探し、木村篤という旧藩士が東京へ したが ら、国の禁令に遵うか、国禁を破るか、更めて熟慮してきゅくので、連れていってもらうことにし、八月二十三日出 めるべきだ。軽挙妄動はいかんよ」 立ときまった。 言葉がもっと多かったに違いない。六郎はこのとき、叔六郎は出立の前に叔父に隠して、一トロの短刀を、持っ 父の説諭に服した。一両日のうちに顔色も食慾もロのききてゆく行李の中に隠した。その短刀はあの晩 ( 慶応四年五月 二十三日 ) 、父の亘理が手をかけたと思われる、敷き蒲団の 方も、みンな元のようになり、活さがやや加わった。 下に入れてあったものである。 五 十四歳のこの少年は、敵討ち以外のことを考えていなか 明治九年の春を迎えた十四歳の六郎に慕が、東京へ出てった。東京游学などは目的のための方便でしかない。それ のば ふり

7. 長谷川伸全集〈第5巻〉

きなので、大森などの病死者のことなどは、気にかけもし胸を突いた、そのためである、というのである、が、その 致命の疵の有無を証明するものは何もない、死体は埋葬し 与惣左衛門の死は、衆目のみるところ、頓死、というこて満一年を越えている、検視したところでそのころの能力 とになり、理葬がすんだ。頓死とは脳溢血とか心臓麻痺とではわかる訳がない。 かのことだとい、つ。 そうなると密告と自白が一致するか、しょ / し、刀 / ・刀 この呑ンだくれの武芸者あがりの無職の男には親類縁者拷問を用いつつの糺問は、密告に口を合せた自白をさせが がない。糸が喪主になった。 ちである。糸の場合、そのどっちであったか、わからな 明治五年 ( 一八七二年 ) 十一月二十六日、 八日市警察署が 先ごろ設けられ、大森はその管轄なので、大津裁判所から県庁所在地の大津に送られた糸は、揚子町にある囚獄所 らゆうとうぞく たかあき 中等属宇津木孚明が出しぬけに出張してきて、布施糸の逮に入れられた。未決の女囚としての収監である。 捕を命令した。 まつだ 八日市警察署へ着くまでの糸は、後の世でいう容疑者扱近江十二郡がすべて滋賀県に統一され、県令として松田 みちゅき をうけた。警察署にはいってからは、・ カラリと変って罪道之が赴任していた。松田は糸の断罪に疑いをもっていた 人扱いで、宇津木中等属の糺問は峻烈を極め、それのみのであろうか、未決のままにしておいた。糸の詳しい自白 か、大津から連れてきたものが、元はどこかで検索逮捕をはある。与惣左衛門には殺されそうな条件が揃っている、 やっていた者らしく、物なれたやり方で糸を小ッびどく拷 だが松田道之は断罪を許さない。 問にかけた。その日のうちに自白させる予定とみえて、遮女監にいる糸は体がよくなると、女囚たちに、手芸と文 二無二、責め問いして、その日の夜半に、半死半生になっ 字の読み方と書き方とを教えたいと、願い出て許された。 つま 相た糸が、あるかなきかの声で、殺しました、というのを聞糸はいきなり読み書きを学ばせず、摘み人形、袋物などか ちくとロ供書をつくり、手をとって既に書いてある名の下ら、花かんざし、紙細工などを教えながら、読み方も書き に、爪印を捺させた。 方も、必要が生じるのを待って教えた。 日糸は朝になっても、このまま死んでゆくのではないか、 松田県令が断罪させなかったのは明治六年一杯つづい うめ と思うくらい、き苦しんでいた。 この逮捕は密告に拠った。与惣左衛門の死は糸が短刀で 明治七年一月、糸は東京市ヶ谷の女監に移され、東京上 とんし

8. 長谷川伸全集〈第5巻〉

で、暴徒に虐殺された話や、隣りの小倉県の高橋正清とい同級生に告げた。受けもちの教師もきていて、行く先が違 1 う役人が、洋服を着ていたばかりに、箱崎松原で暴徒に酷う二人に励ましの言葉をおくった。 しき い殺され方をした話を大人たちがしていると、六郎は切り その夕方ちかく、相田と伊藤の二少年が六郎を訪ね、話 に聞き入ったのみか、子供らしくない眼つきになったり、 したいことがあるといって、椎の実を、これまで年々とり 顔の色が変ることすらあった。 にのばった大木のある原へ、六郎にきてもらった。二少年 大人たちはそれを知っても気にしない、怖い話を子供がは椎の木の下で顔を見あわせ、暫く何もいわずに佇んでい 怖がって聞いた、それだけのことと思っている。明治の万 たが、何ごとかねと六郎に促されて、君の両親を斬った人 事創業時代にはいっている今は、旧藩時代のことなど、一 の名を僕たち二人は知っているのだ、といった。それはた 切が時効にかかっているものと、この秋月地方でも、人々れかと六郎が飛びつくように聞くと、山本道之助の兄だと は何となく思いこんでいた。随って臼井亘理夫婦の死のこ二人して答えた。 となど、旧藩時代に藩が決済を付けているのだから、あと道之助の兄は旧藩のころの山本克己である。今は一ノ瀬 なおひさ に尾を引く何ものもないと思われていた。 直久といって、二年ぐらい前に東京へ出て、司法卿の判事 六郎は冬にはいってからの或る晩、叔父に父母はどうし になっているのだが、そこまでは六郎も知らず、二少年も て殺されたのですかと尋ねた。臼井慕は長い呼吸を何度も知っていない。 やってから、こう答えた。 二少年が語るところを纒めると、こういうことになる。 なおはる 「お前が成人したら話す、それまでは忘れていろ。それか この一月の末に、道之助は父の一ノ瀬直温につれられ東京 らね、世は今、明治という大切な新しい時節にはいってい游学にいったが、その前に ( 或は昨年かも知れない ) 、白山神 るのだ、これを忘れまいぞ」 社の二の鳥居下で、道之助と相田、伊藤の三少年が遊んで いるとき、祖父の自慢から父、兄の自慢くらべとなり、三 四 人とも負けず劣らず自慢しているうちに道之助が、わが兄 明治七年の春の半ばごろ、杉ノ馬場の小学校でその日のは臼井亘理夫婦を斬った、これほどの勇者が旧五万石の家 授業がすんでから、十二歳になっている六郎とおなじ級中に又と一人あったか、嘘ではないぞ、そのとき兄がっか の、旧藩士の子の相田銕之丞と伊藤豊三郎とが、あした故った刀には刃こばれがあると、つこ。 しオ二少年は初めて聞い 郷をあとにして、永く他郷のものになるといって、別れをたことなので、びつくりして顔をみていると、道之助が

9. 長谷川伸全集〈第5巻〉

らいって来たので、用務の一ト区切りをつけて、海路と陸あとは何ごともなく、日がたち月がたち年がたった。 路とで秋月に帰り着いたのカ前し : 、リこ、ってある五月二十三 暗殺にいった二つの組の約五十人は、謹慎という軽い罰 日で、その晩、暗殺されたことも又、前にいった通りであですみ、やがて干城隊を必要としない時がきたので解散に くだ る。 なり、たれとたれが暗殺の手を下したか、保たれた秘密の 亘理の四十九日が過ぎ、盂蘭盆がちかくなったころ、藩中にその一切が隠れてしまった。 は亘理の弟の臼井助太夫を呼び、「旧家ニテ御用達ヲモ致 ス家筋ニ付、格別寛大ノ思召ヲ以テ、跡式異議ナグ仰セッ ケラレ候」と申渡し、家督相続を許した。但しこの申渡し陰暦が太陽暦に改められたのが明治五年 ( 一八七二年 ) 十 書の前文は、亘理には殺されても仕方がない非があった したう と、こんなふうに書いてある、「亘理儀、己レノ才カニ慢明治六年、臼井六郎は十一歳になり、野鳥村の臼井慕に ジ我意ニ募リ、他ノ存意ヲ妨ゲ、衆人ノ憎シミヲ受ケ、人養育され、杉の馬場の小学校に通っていた。臼井慕は前名 望ニ相ヒ戻リ」であった上に、帰藩を命じたのに、すぐにを助太夫といった亘理の弟である。六郎の妹は母の実家に は帰らず、「罪ヲ遁レン為メ奸智ヲ廻ラシ、国情ヲ他ニ漏引きとられ、故郷に今はいない。 ラシ」、「身ヲ思フニ厚グ、国 ( 註・秋月藩のこと ) ヲ田 5 フニ 二年前 ( 明治四年七月 ) に、藩が廃され県が置かれ、本藩 薄キ訳ニ相ヒ当リ、終ニ此ノ節、非命ニ死ヲ遂ゲ候段、自の福岡藩に代って福岡県が置かれ、支藩の秋月藩に代って ラ招グノ禍ニテ、是非ナキ事ニ思召シ候」というのであ秋月県が置かれたが、秋月の方は足掛け三カ月で、福岡県 る。遺族たちは〃御受け〃するほかない。相手は権勢をふに編入されたので、そのころのいい方では、六郎のいると やすごおり るう執政そのほかと、多勢のその支持者たちであるからでころを、福岡県夜須郡 ( 今は朝倉郡の内 ) 野鳥村という。今 ある。 もまだ城下といい慣れているところは、野鳥とは隣り合わ その後、本藩の福岡藩黒田家は、秋月の吉田悟助そのほせの下秋月村である。 かの要路のもの数人と、亘理の弟で、京都へいっていた上六郎は父母が殺された晩のことを、覚束ない夢の記憶ぐ しかし、血まみれになった妹 野四郎兵衛、中島衡平の門人吉村宇吉 ( 干石 ) そのほか数人らいにしか知っていない。 よだれ を喚んだが、調べるというには程遠い、その当時の話を聞が、その翌日の朝、咳をすると腮に、赤い涎が糸をひいた いたのみで、追って又呼ぶといい渡しはしたものの、そののを忘れてはいなかった。ハ 乂母の血が小さな顔に噴きつけ

10. 長谷川伸全集〈第5巻〉

ば、東京にいる旧藩士に会うことが出来る。敵討ちなど宿屋には風呂がないので、街の銭湯へゆく。或る日、 そそ ざくろぐち くらゆぶね で、亡父の汚名が雪げると思うか」 石榴ロというものの中の昏い湯槽で、土地の人同士の話の これを六郎が無視しているのである。 うちに、裁判所の隊長が東京へ行くことになった、という のがあった。六郎のカンは、それぞ一ノ瀬のことと直覚し 明治十一年、六郎は十六歳、その四月中旬に、武術の稽その翌日から裁判所の門前で、出勤と退出の時間に見張 古で胸を痛めたと称し、書生弟子を辞退して、芝の叔父のりをつづけたが、 一ノ瀬の姿を見かけない。さては既に東 京へいったかと思うと、じッとしておられず、五月十日に ところへ帰った。 東京へ引返した。しかし、東京で裁判所前に張り込みを続 叔父の家中のものが心配して、よく世話をしてくれた。 おごうちとうじ けたが、一ノ瀬の姿を見ない。職員録に似たものはあって 六郎は武州の奥多摩にある小河内の湯治がよろしいと、 も、六郎はそれを借りて見ることを知らない。受付けで尋 先生のところの人に教わりましたので、行ってみたいと思 いますといった。叔父は賛成した。叔父は鉄舟先生の影響ねても怪しまれるだけである。任地も住所もそのころは部 で、六郎が敵討ちなどはもう考えていないと思っている。外には秘密にしたものらしい、少くとも六郎にはそうとし か思えない。 ところが六郎は、一ノ瀬直久が名古屋から静岡裁判所に 六郎は甲府へ引返したが、裁判所の張りこみも、人出の 転勤となり、甲府詰めとなったのを、道場へきている人か ら聞いているので、行く先は武州の小河内でなく、甲府である街でも、一ノ瀬の姿を見ない、そのうちに旅費が乏し ある。 くなったので、東京へ戻ったが、芝の上野月下方へは音信 まかな を絶っているので行けない。と山岡家で知りあった某に行 旅費は山岡邸にいる間に貯えた金で賄うつもりである。 相 き会い、就職を頼むと、中仙道熊谷の裁判所の雇いに世話 異 ち甲府へはいった六郎は、安い宿屋に泊り、裁判所の近くしてくれた。その年十月中旬のことである。 敵を徘徊したり、盛り場を歩いたりしたが、 一ノ瀬を見掛け翌年 ( 明治十二年 ) の夏、十七歳になった六郎は辞職して 日ない。裁判所に出入りの弁当屋を見かけ、話しかけたが 相東京へ出た。熊谷の裁判所で働いているうちは、敵討ちは 手にされなかった。筑前言葉と甲州言葉が、どちらにも具人命犯であると知ったので、怪しまれて捕えられるのを怖 れ、一ノ瀬のことを全く口にしなかった。 合が悪かったらしい