「叱ッ叱ツ」 「靄が深いのう」 にが 当番に上がる田中某が、中間をつれて通りながら、苦「はい い顔を腰掛へ向けて行った。静まったのはその時だけ、す水之助はそれしか云わない。さッさッと歩いた。腰掛の ぐ又がやがやした。 前の方を通ったが、視線をちらとも向けない。 腰掛の中では伴右衛門の半蔵が、森平の源蔵と、外に背 退出した者はまだ一人もない。 源蔵は居睡りを扮いながら金平から眼を放さずにいる。 中を向けて、何か話している。それを水之助は見落した。 金平が出て行けば水之助の退出であるーーが、水之助の帰水之助は二の丸門を出て右に曲った。そこは昔、谿谷だ 途が、朋輩二、三人と一緒だったら、それだけ、敵に助太った処で、土木を起して高く二の丸石坂の道路を築いたの 刀があるものと思わねばならない。 で、濠の水は遙か下にある。が、今は靄のうちで見えな めいじよ あのた 神明、冥助をたれ給え、然らざれば兄弟ともに、亀山の 。濠の向うの横内や阿野田の稲田も畑も全くみえない。 露とさせ給え、砕くるも全きも、今日限りと源蔵は、心の源蔵と半蔵とは、覚られぬよう、水之助のうしろから跟 うちで叫んでいる。 いて行った。十二、三間離れ、十間離してである。 金平がひょいと出て行った。水之助がいよいよ退出する 二人とも、真青になっている。それとはすこしも知らぬ とみえる。 水之助は、何と思ったか又も佇んで、二の丸を振返り、西 赤堀水之助は中間金平が揃えた草履を穿いた。睡りが足丸を仰いだ。靄のうちに、石井兄弟の淡い姿がばっンと見 りたとみえて血色がいし えている、が、それに心づかずにいる。 亀山板倉家では、宿直の夜具が備えつけてあるので、葛水之助がいつになく、しげしげと眺めている亀山城は、 籠を受取ったり、蒲団を受取ったり、宿直明けでも、そん東西四丁十二間、南北三丁、ぐるツと廻ると十八丁ある。 な面倒がない。 矢倉七カ所、多門九カ所、門矢倉六カ所、門は十カ所、番 水之助は霧除の下で佇み、仰いで、矢倉を見た。靄に薄所は七カ所又は九カ所という。五万石の城としては堂々た められた城廓の一部分が、照る日の下で見るのと違って美るものである。 しい、それに、水之助が見惚れたのか、そうではないらし靄はすこし薄れたが、石坂から北の二の丸、西の三の丸 い、なんとなく、ただ、仰いで見ただけらしい。金平に まで、見通せるほどではない。 珍 - しくも話し掛けた。 源蔵は用意の草履を片手に持っている。只今、主人を送 なにがし もや
源蔵は突いてかかろうと腰をあげかけた。運を天に任せた。 る他はないと思ったのである。弟はとちらと見た。半蔵は見ると、連れは二、三歩追ったらしいが引返した。水之 助が、 じッとしている。 「打棄てておかれい」 水之助の一行三人が、半蔵のいる前を通った。弟はじっ と、 いったらしい。水之助は槍を肩に返して歩きかけ としている。一行三人が源蔵の前にさしかかった。脇差の 柄を握っている源蔵の掌が汗でねとねとした。 ばたばたと足音がした。弟半蔵である。水之助の前へ駈 一行の一人が源蔵を見つけ、 け寄った。さては遣る気か、それならばと源蔵は、脇差へ 「何者かツ」 と、咎めた。侍街だけに、通行に安心があるらしく、激手をかけ、起ちあがろうとすると、弟の声がした。 「下村一角が下郎伴右衛門にござります。怪しい者が出ま しい誰何ではない。 が、源蔵の腹にはずンと響いた。その途端に石井兄弟はしたか。数ならねどお手伝い仕ります」 闇の中を透して見ると、弟は、水之助を刺すのに不都合 ともども、〃あッ〃と驚いた。水之助の態度がそのとき、 な位置にいる。姿勢にも遣るつもりが見えない。水之助 実に、水際立っていた。 水之助は連れの者の誰何が終らぬうちに、担いでいた槍は、 けなげ 「おう伴か、その方は相変らず健気だな」 が僅かに一挙動で、ものの見事に、源蔵の方へ向けられ、 「恐れ入ります。只今の奴は何者でござりましよう」 突く気なら既にもう突いたであろう姿勢である。二十八カ 「あれか。あツはツよ 年前、石井宇右衛門を殺した当時の技倆とは雲泥である。 篇源蔵はさッと逃げて地に伏した。連れが、 と、水之助は笑うだけで答えない。 「待ていツ」 連れの一人が、暗い彼方を顧みて、 弟 兄と、 ー源蔵は、地を這って逃げ、又地に這い、そ「馬鹿な奴だ」 源れから、じりじりと水之助のいる方へ這い戻った、弟の安と、だけ、何だともはツきり云わない。半蔵が くせもの 「曲者でござりましたか」 石危を見届けなくてはならぬ、半蔵がもし斬合いを始めそう だったら、不成功だとは判っているが、兄弟ともに返り討笑いやんで水之助は歩いていたが、 「いたずら女を待ちあわせていた者よ。誰何に肝を消し、 ちに甘んじる他、この際、何の途があろうかと死を決し
水之助の顔が真青になり、眼はぎらぎら光り、右手がさ ッと脇差にかかッた。その左の首根に源蔵の二の太刀がは が、刀の鞘にあたった、音がした。 、切先だけに過ぎない。血が一条、ぶッと噴き水之助が倒れた。両眼はあいたまま、歯がすこし見えて 出した。 斬られたとき水之助は眼をぎよろりとさせ、右手の肘が 源蔵と半蔵が、乗しかかって、刀を擬したが、なんとい 動いて、袖の陰で刃が一、二寸光った。 うことなく、手が下せない。少刻、ばッねんとした。 源蔵が三の太刀を巻返して斬りつけた。水之助に脇差を「兄上」 抜かせたくないのである。水之助はうしろへ反って、源蔵「おツ」 の三の太刀を避けた。脇差はまだ抜ききれていない。 源蔵が身顫いして、かねて教わっていたとおり心臓を刺 濠の向うの阿野田のあたりで、靄を衝き破って日が太くした、が、じゃりッといって通らない。又刺したが矢張り 一筋映した、その余光で水之助の青い顔の小皺一ツの動き通らない。三度目をやったが矢張り刺せない。 あかあか かたず までが、明々と見える。 固唾を呑んで見ていた半蔵が、狼狽して、 半蔵がその時うしろから迫って、大音声で、 「兄上、下に着込みがあるのでしよう、切り裂きましょ 「親兄の仇、覚えたか」 と、水之助の頭へ斬付けた。水之助は源蔵の攻撃を避け水之助は敵持の武士としての心掛け怠りなく、往来のと んとうしろへ反ったばかりのところを斬りつけられ、ふらきは袴の股立ちをとっていたという、が、それは三之丞を ふらと斜うしろに倒れかけた。脇差がそのはずみに五寸ば返り討ちにしてから何年かの間で、源蔵も半蔵も、そんな くさりかたびら かり光った。 ところを一度も見たことがない。しかし、鎖帷巾を着用す 「一んいツやツ」 るぐらいのことはしているかも知れない。 しかし、上着を裂いていたのでは手間取る、といって、 前から拳をさげて源蔵が斬りつけた、刃は脇差の鞘に当 とどめ り、鞘が割れて、その一片が飛んだ。脇差の身がそッくり刺止をささねば武士の疵となる。 見える。 そうしているうちに番所の足軽が駈けて来た。 水之助はふらりとして、今にも倒れそうである。 源蔵が三度まで胸に刃をさしたのに、倒れたまま、水之 半蔵は二の太刀をふるった。 助はじッとしている。或は死を扮っているのではないか、 きつみ、き すじ
と、水之助は眉根に立皺を再び深く立て、半蔵の横顔を 鈴木岡右衛門の供で、源蔵は二の丸へ行き、引返して行く 眺めつつ歩いた。 石坂の濠の上で、赤堀水之助に出会った。 ちゅうげん 源蔵は中間のだれでもするように、水之助に頭を下げ半蔵は事もなげに、 た。と、水之助がぎよろりと睨んだ。見れば、眉根に立皺「左様でござりますか、あの男はいつもそうでござりま が二本深く寄っている。 源蔵はそこそこに去った。そのうしろ姿を見送っていた水之助は眼を光らせた。 かし 「それは又何故だ」 水之助が、小首傾げて歩き出した。 石坂から二の丸までは約一丁半ある。その間で、うしろ「はい、あの男は眼が悪うござります」 ちかめ から下村源左衛門が、在沢伴右衛門の半蔵と、草履取りを「眼が悪い。近眼か」 そう云えばそうだったかと、疑いが去ったとみえ、水之 供に出勤してきた。水之助はそれと見て、 助は立皺を眉根から消し、 「ご苦労さまにござります」 「ふふ。あいっ近眼か」 と、挨拶した。下村源左衛門はこの頃、旗奉行を仰せつ つ、 ) 0 と、 かっている。 その日が暮れた。 「ご同様に」 源蔵は講人の旅籠町九郎左衛門が、急病に罹ったと拵え と、源左衛門が答礼した。 事をして、明朝までの暇を願い、許されたので五ッ半 水之助はわざと一足遅れになって、半蔵に 夜九時に、江ケ室の鈴木岡右衛門方を出た。 「伴、ちょッと来い」 しかし、途中から引返した。九郎左衛門方で、名残りの 篇「その方が懇意の何とやらいう中間。森平だったかな、あ 一夜を過すことは、後日の迷惑になるに違いない、と思っ いつ、何処の生れだ」 たからである。それに又一ツには、お米もおなじ棟の下で 兄「上総の国にござります」 あやま 。しし力、もし、過ち 夜を明かして、何事もなくして済めま、 源「上総か」 を犯しでもしたら、心でこそ、お米を憎いなそとは思って 石「ご不礼を働きましたのでござりましようか」 体に、将来のない約東をしていいとは思えな はツとするのを隠して聞いた。水之助は、 一夜の過ちを、自分は防げても、自分の他のものがそ 「この方の顔を睨んだ、只今、石坂で」
得、それからそれと、だんだん深入りし、この頃では鍼治 ぐって来ぬということはなかろう。 それにしても、あの晩、水之助が、何故、不参したのだに関する知識も備わってきて、凡庸な医より少し上にな っていた。 ろうか。疑いを持ったからか、観破したからか、観破した のなら、あれから幾日も経つのに打棄ておく筈がない、の半蔵は座敷の廊下へ呼び出され、才右衛門の後家から、 みならず、才右衛門の後家と、才右衛門の一粒種、まだ少「水之助殿が療治してくださると仰有る、お礼を申上げ、 いちどうた 年の一同太だけの平井家へ、半蔵をそのままに置きはしま療治して頂くがよい」 「ま、 0 わたくし如きに勿体ないことにござります」 いん ! ん と、慇懃に礼はいったものの、心のうちではぎよッとし やがてそれも解けた。赤堀水之助はあの晩、十二カ年前 。水之助に正体を覚られているとは思わないが、どんな の古疵が痛んだ、そのために不参したので、源蔵、半蔵に これは、鍼療治に託し ことで覚っていないものでもない。 関係ないことだった。十二カ年前の古疵というと、石井三 之丞を返り討ちにし、犬飼清雲、大飼茂七郎を斬り、身に急所を刺して殺害するのではないか、疑えばそんな気が起 ってくる。 数カ所の重軽傷を負った、その疵である。 八月にはいると水之助が、平井屋敷へ、色の悪い顔をし「伴右衛門、その方は、才右衛門殿に二なく仕えた者故、 療治してつかわすのだそ」 て、久し振りで訪れてきた。 たむけ 「有難う存じます」 仏前に手向をしたり、才右衛門の後家を慰めなどしてか ら、 「わしは武夫で鍼医でないから、仕損じがないとは云え しい出した。 「伴右衛門がみえませぬが、どうしました」 篇伴右衛門の半蔵は、その日、朝から下腹がきりきり痛む「は ? 」 「精々、気をつけて療治してつかわすが、上手と雖も、時 ので、部屋へ引下がっていた。 に誤って命をおとすことがある。死んでも水之助を恨むな 兄と、聞いて水之助が 源「左様ですか、然らば拙者が療治してやりましよう」 石水之助は養父の遊閑の助手をさせられたことがあるの妙なことを水之助がいい出したので、半蔵は青くなっ しんじ で、鍼治の法をいくらか知 0 ていた。それが、その後の年た、と、水之助が 月の間に、屡々他人に試みて効をあらわしたので、自信を「笑談だ、笑談だ、気の小さい奴め。わしは名人赤堀遊閑
って帰り道と、だれが見ても思わせる手段である。水之助石坂門の番所にそのときも、二人の足軽が、棒を突いて さえぎ 知ってい 立っていたが、靄に遮られて知らなかったか、 の前を小腰を屈めて、急いで、通り抜けそうにした。 よそ 水之助はよくも見ず、すこし後にさがったので、源蔵て気にしなかったか、石井兄弟の動きを他所に立ってい は、再び小腰を屈め、通り抜け、すこし行って横に曲っる。 朝の出勤の足軽が五人、そのとき、靄の中から出てき そこは西丸十一軒、西丸江戸部屋、西丸御用屋敷のあるて、水之助に敬礼した。 一区廓で、水之助が佇んだ処は、石坂といって巨大な石の水之助が歩きながら軽く答礼している間に、前からは源 どて 板が敷いてある道路で、東側の濠の堤にずッと地固めに植蔵が近づき、うしろからは半蔵が近づいた。源蔵は三、四 込まれて年経た松の片側並木がある。西側は一方が明き屋間の近さ、半蔵は五、六間の近さになった。 五人の足軽の姿が靄の中に消えた。 敷、一方は家老板倉杢右衛門の屋敷である。板倉杢右衛門 源蔵が水之助に一間ほどの近さになって、手にしていた は亀山板倉家中で第一の名家であることは前々にいった。 草履を投げ放ち、ロ早にいった。眼が血走っている。 源蔵が隠れたのは板倉杢右衛門屋敷の地尻である。 ちちあに 半蔵は草履の鼻緒が切れたかの如く、立停まって、繕う「石井宇右衛門が倅どもなり、父兄の仇、覚えたるか」 と、いううちに早や、抜討ちの姿勢となった、かと見る 真似し、心づかれぬように水之助に眼をつけている。靄が まっこう 間に、水之助の真向から斬りつけた。それに驚いて松の梢 その姿をばかしている。 から二、三羽、鳥が騒いで立った。 水之助が歩き出した。 かっ と、横から道路へ、更めて出た源蔵が、靄の中から俯向水之助はロを刮とひらいた、赤い舌と白い歯がみえた。 篇き加減に、水之助の前に近づいた。それと見て半蔵が、水 " あ / といったらしい口の形である。体を早速に沈め、 つば 左手で大刀の鐔際つかんで源蔵の腮に突きあげた、が、届 之助のうしろへ、大胯にさッさッと近づいた。 かないで、源蔵の斬りつけた刃が真向に外れてその鐔に切 兄人気がその附近には全くない、通るものもだが、屋敷か 源ら出るものもである。 りつけ、火花を二つ三つ立てた。 「えいツ」 石石坂には石坂門というのがある。大手、青木、江ケ室、 石坂、市ケ坂、本丸下、京ロの七カ所に、石坂下と江戸口源蔵は二の太刀を巻きこみ、今度こそはと必死に斬りつ けた。心のうちで叫んでいる、〃父上、兄上〃と。 を加えて、九番所ともいったと云う。
さッさッと鈴木岡右衛門が去った。その入れ代りのよう 五ッ半ーー夜の九時に近いころ、暗いどこやらで笑う声 に、、つしろから、 が聞えた。その笑い声を半蔵が知っていた、正に、紛れも 「遅くなったか」 ない、赤堀水之助である。 と、源蔵が声をはずませ、遠くの岡右衛門のうしろ姿を水之助は五十一歳、大坂で石井宇右衛門を暗殺してから 睨んで、 今年で足掛け二十八カ年、宇右衛門の長男三之丞を返り討 「あれは彼奴か、彼奴なら追いかけん」 ちにしてからでも二十カ年になる。 「来ました」 「違います」 「似てるぞ」 低いが力強く、半蔵が兄に、拳を口に当てて告げた。 じっこん 「鈴木様と仰有って、親旦那さまとご昵懇のお方です」 と、一段と近く、又聞える笑い声。 「、つ亠めツはツはツよ 「そうか。して、彼奴は、まだか」 さか 「まだです」 五十一歳とは思われぬ、壮んな笑い声は尚つづいて聞え つくば 兄弟は牒合わせ、左右に別れて、地に蹲踞った。赤堀水 之助が通ったら、左右、どちらからでも、勝手のいい方の 間もなく、足音が聞えた。一人ではない。 者が名乗りかけて斬りつけ、残る一人は側面から斬りつけ兄弟二人は息を殺し、じッと地に蹲踞っている。 る、という申合せがかねてしてある。 水之助の錆のある声が、高々と聞える。 星が飛んだ。 「土俵をですなあ、毎朝三十俵ずつ槍で突きあげます。老 兄弟は棄置かれた石のように、じッとしている。 を知らぬ法とは、これでござるよ。うわツはツはツよ やがて、弟が起った。 右に一人、左に一人、赤堀水之助の連れは武士である。 兄がはツとして、何かは判らないが、中腰になると、半そのうしろの方にも、姿は定かでないが足音が聞える。 蔵は兄に顔を向け、何か小声でいって歩き出した。尿が出源蔵も、半蔵も、眼の前へ近づいてくる水之助の姿に、 たくなったのである。 充血した眼を食いっかせるように向けている。 元のごとく二人はじッと待った。医者が小刻みに急ぎ足水之助は槍を肩にかついでいた。夜話の席で、槍をつか ってでも見せたのか、それとも、だれかから借受けてでも で通った。それだけである。水之助は通らなかった。 今度は、源蔵が尿に起った。 来た槍なのか。
おって 撃を命令せぬ。 「石井源蔵、半蔵の追人か」 軸城から現場〈急ぐ三、四人の家中の士に出会 0 た。その 「はい。是非ともにお願い申上げます」 四人とも杢右衛門に敬礼し、答礼された後も尚立ってい 「ふ , フン」 た。この人々も亦〃汝参って石井兄弟を討ちとれ〃と命ぜ「是非」 られるかと待ったのである。 「ふ , フン」 杢右衛門はさッさッと歩いた。 「水之助の追善にも相成ります」 一人、二人、公用で行く家中の士があった。それらにも「成程」 杢右衛門は敬礼に答えたのみである。 「水之助の門弟二、三をも加えて参りたく存じます。この めこば 爪先のばりになっている石坂が尽きたところで、うしろ儀、お目滾し願いあげます」 から駈けてくる者があった。若党と中間は振返ったが、杢「こらこら、既に、追手を命ぜられた如くにいうな」 右衛門は振返らずにいる。 「は。これは、恐れ入りました。何卒お願いお許しくださ 足音が近くなってびたりと止んだ。はじめて杢右衛リ , 卩がれて、水之助の幽魂を慰めさせて頂きたく存じます」 せいかん 振返った。そこには三十二、三歳の精悍な面構えの武士「三五左衛門」 。、、片膝を地に突いている。荒滝三五左衛門という家士で「は、有難く存じ奉る」 ある。 「早合点するな、まだ命じておらぬ。こういう時には、水 「失礼ご免。赤堀水之助、討たれました」 之助の追善に相成るとか、門弟を差加えるとかは云わぬも 「それが」 のだ」 「よ 「拙者儀、赤堀と懇親にござります」 うって 「そうだったなあ」 雲行きがどうもよくない、杢右衛門は討人をこの男にも ふさわ 「赤堀水之助方には仇討ちに相応しい者がござりませぬ。許さぬ気らしい またいとこ 平井才右衛門の倅は又従兄弟に相成りますが、病身にて不「板倉の名折れに相成らぬよう、追いかけますと云うもの 向き、と、他に、一人もござりませぬ」 「ま 「それで」 「拙者にお命じを、偏に、願いあげます」 「水之助のためになぞとは未熟だぞ」 ひとえ
時は深夜もおなじである。 ら、間違いはない。 ねぎわ 源蔵は木の根際から包をとりあげ、 時経 0 たが、水之助は通らない。半蔵がたまりかねて、 み、と 「弟、ここに蝋燭五十本がある、これを買いに出た振りで 「兄上、覚られたのではござりますまいか」 立帰れ」 「お前、そんな気がするか」 「よくお心づきくだされました」 「いいえ」 「では、大丈夫だ。安心して暫く待て。まさか、繰上げ回「怪しまれても、もしもの時となったら、なるべく外へ近 く出てくれ。わしは半刻ほど平井屋敷の外を徘徊している 向をやめはすまい」 「それに、水之助は、あすは登城の日ですから、今夜、必から。万一、斬合いにでもなったら、必ず斬り込んで行く から、大声をあげてくれ。それを合図に兄弟二人、運を天 ずくると思います」 に任せるから」 「では、確かにくるだろう。落着いて待てーー落着けよ。 はや 源蔵は水之助が先手を打つのではないかと、先はどから 逸るな、逸るな」 疑心がこッてり起っている。 。、、時は経てど、水之助は通らなかった。 源蔵は弟が平井屋敷へはいってから、聞き耳を立てた、 「兄上、いよいよ覚られたのです」 「そうきめるには早い。彼も生身、急病が起るということが、これという物音もしなかった。 九ツの鐘が鳴りそめた頃。平井屋敷の中で提灯が一ツ、 もあるだろう。もう暫く待て」 ばッと、門内を明るくした。 遂に水之助は姿をみせなかった。 咳払いを聞いて源蔵は、ほッとした。咳払いは半蔵だっ 時の鐘が聞えてきた。 「四ツだな」 と、源蔵がいった。声が沈んでいて、カがない。半蔵は源蔵は老婆の宿へ帰った。 半蔵の在沢伴右衛門は、その後も平井屋敷にそのままい 絞るような声で、 いとま る。来年三月、期限がくれば永の暇となることは、判りき 「駄目だ」 っていた 「叱ツーーーなんという声をする。今夜は成らずとも、いっ しかし、今は七月、今年はまだ五カ月、来年の分を入れ かは成就する。迂濶に諦めるものがあるか」 み、るこく 夜の四ツは申の刻、午後十時である。そのころの午後十て八カ月ほどある。その間には如何に何でも、機会が、め 、 ) 0
源助は屋敷で風浪之助を相手にそのころ、語っていた。 「叔父上、お忘れなく願います」 矢張りおなじ題目についてである。 「何をな」 「なあ風浪之助、石井の輩だとすると、だれかな、十三郎 「それがし、改名いたしたこと、申上げました通りにござ はまだ十六歳、亀之助は確か十二歳か十三歳の筈だ。このる」 やおもて 両人の他に矢面に立つ者はおらぬ。まさか、宇右衛門の甥「そうそう、そうだったな」 みずのすけ 矢面には立てまいからな」 源助という名を改めて水之助とした。それは、既に届出 「そうだ。十三郎、亀之助が、出てくればくるのだ」 でて許可を得てある。 「と、すると、助太刀は甥の者どもだ」 赤堀水之助は、にこりとして、 「そうだ、宇右衛門の甥が助太刀だ」 「このたびの名は、多少、奇を衒うきらいがござります 「と、すると、表には年少者両人を討手に立て、実力は、 が、心あってのことでござる」 甥の者どもがふるうという計画だ」 「赤堀水之助か。苗字と名とつながりがあって妙だ。それ 「その通りだ。年少者の細腕で出来ることではないからに、 一味清風とでもいうところがある。おぬしは御当家で の名物。君にも諸侯方にお話のタネとなされ給うほどの男 源助は、黙って風浪之助の顔をみた。成程、この男は、故、姓名も尋常ならざるがいい。赤堀水之助、 しい姓名 おうむがえ すた けいちょう 最早、廃れ者だ。何をいっても鸚鵡返しをしているだけ だ。慶長以前、群雄割拠のころの勇士さながらの姓名だ」 で、以前のように、他人の言葉の先を潜って、奇抜な頭の 「そういう心算ではござりませぬ。いよいよ、石井の輩 良さを見せたり、温厚の長者のようなことをいったり、権 、敵と付け狙わるる時になったかに存じられますので、 謀家めいたことを云ったりした、それらはすべて、抜けた討っとも討たれるとも、姓名は良きこそ良けれと改めたの 髪の毛とともに、最早、戻ってこないものとなったらしです。源助では余り武が足りぬ故に」 「ますます以てよろしい。後世の語り草だ。時に源助、 源助は暗然とした。 や、水之助、今日まいったは他でもない。その方、妻につ 青木安右衛門が、或る日、源助を尋ねてきた。暑い六月いてだが」 中ごろである。 「又そのことでござりますか。いやはや、煩わしいこと 「さて、源助」