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検索対象: 長谷川伸全集〈第5巻〉
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1. 長谷川伸全集〈第5巻〉

石井三之丞は広島へ供して足掛け五年目の元和九年九彦太夫は石井宇右衛門正春と改めた。浪人したその年の うちのことである。 月、病んで死亡した、年六十一である。その子の宇右衛門 が大坂で横死したときの年が矢張り六十一歳だった。 戸田左門氏鉄の島原追討軍は総人員三千余、寛永十四年 さて、三之丞正友には三人の男子、三人の女子があっ十二月、大垣を発し、翌十五年正月島原着五月大垣へ凱旋 たなかでんえもんまさよし た。長男は母方の姓をおかして田中伝右衛門正吉といし した。その陣中には九十何歳の家老戸田治部右衛門を始 たづきりゅうかじゅっ 浅野家で二百石を食み、次男が父の病死後、家督を嗣いでめ、田付流火術の田付左右太夫などという、異彩あるもの むねのぶ 石井三之丞宗信とし 、い、父は千石だったが、五百石を給せが加わっていた。石井宇右衛門が、これに加わっていたか られた。浅野家では、親の家督は家老以上はそのままで、否かは不明である。 家老以下は半減の掟であった。 このとき大垣城留守居の城代戸田四郎左衛門以下、連名 こおりぶようあしがるがしらたかおかもざえもん ひこだゅうむねかっ 三男は幼名を長吉と、 、麦こ石井彦太夫宗勝と改め、 のうちに、郡奉行足軽頭高岡茂左衛門という名がある、こ うんしゅうまっえ かたき き上うごくわかさのかみたかつぐ 若いときに雲州松江の城主京極若狭守高次に召され、二百の人は石井兄弟にもその敵にも所縁がある。 五十石を給わって仕えた。これが後の石井宇右衛門であ 〔註記〕戸田左門氏鉄は左門一西の子で、父は早く ながしのがっせんとびのすざん る。 から家康に近仕し、長篠合戦の鳶巣山の戦功をはじ あまた 寛永十四年六月、京極高次が卒したので、石井彦太夫は め、大小数多の殊勲を樹て、六十二歳江州膳所で卒し 暇をとって江戸に出た、二十五歳だった。 た。その家督を嫡男氏鉄が嗣いだ。島原の乱は氏鉄が あまくさ またが めいれき 彦太夫が江戸で浪人ぐらしをしているうちに、天草の乱 六十一歳から六十二歳に跨ってのことである。明暦元 が起った。諸家で、良い武士を欲しがった。彦太夫もその 年二月、七十九歳の長寿を保って、大垣で卒した。世 つのり 募に応じて、待遇を聞きあわせてみると、大抵のところ、 に戸田左門覚書』が伝わっていて有名である。氏鉄 みな悪かった。彦太夫は袂をはらって去り、何処にも奉公 の二十四歳のとき執筆した、関ヶ原合戦前後の模様を しなかった。 言したものである。 と、播州尼ヶ崎五千石から、美濃大垣十五万石に栄転し とださもんうじかわ しまきじよけん ていた戸田左門氏鉄が、良き武士を求めていた。石井彦太石井宇右衛門は、おなじ家中の先輩で、島本如犬という 夫は戸田家で〃二百五十石給わらば奉公せん〃と申込み、 ものの長女を娶って妻とした。島木如大の前身は大坂浪人 するすると話が進んで抱えられた。 で、大坂夏の陣に、豊臣方としてさんざん闘った勇士で、 いとま めと

2. 長谷川伸全集〈第5巻〉

てんい 「只今からその方は刀さす身になった」 孫助の衰弱はなかなか去らなかった。浅野家の典医の診 察をうけ、投薬してもらったが、やはり捗々しくない。 「孫右衛門とも致すべきところ、源左衛門としたは、心あ「人参をつづけて永く服用いたさば、よろしからんと存じ ってだーーー孫助、その方のことは、定めし亀山の赤堀水之ます」 助が既に心づいているかも相知れぬ。たとえ、心づかずと と、典医がいったと聞いて、丹羽三太夫の妻は、髪道具 も、この地には赤堀の一類がご奉公罷りあるにつき、それを売払い、高価な人参を買い、孫助に与える決心をして、 らの耳にその方このたび帰りしこと知れては、源蔵、半蔵夫にその許しを乞うた。 の不利となる。よって、孫の字を避け、源蔵の源をとつ「孫助の病気は、亡き兄宇右衛門横死のことより起りまし かんなん て、源左衛門とつけた」 こ。十数年の艱難が、あの体にいたしましたことゆえ、宇 「有難いことにござります」 右衛門の妹たるわたくしの身を詰めてなり、以前の体にい 「申すまでもないが、広島には敵の間者がおって、油断な たしてやりたく存じます」 らずと思いくれよ」 九太夫は徴笑して、 「心得ております」 「尤も千万、家来は主に尽し、主は家来をよく顧みてや 石井一門は孫助の土屋源左衛門に、手のつくせるだけ尽る、まことにいことだ。早速そうなさい」 した。 ; 、 ; カ衰カ甚だしく、わずかのことでひどく疲労し「有難く存じます」 「念のため、聞くが、孫助の体では一、二カ月の人参服用 げん 或る日、石井弥五兵衛が、 では験なしと聞いたが。その用意がありますか」 篇「孫助。お前、知っているだろうな、源蔵、半蔵が本望遂「ござります」 「どう、あるな」 ぐるは、早くとも一、二年、遅くば三、四年はかかろう。 弟 兄それまで必ず生きておらねば相成らぬ身だということを「ご覧を願います。この品々をすぐさま売払います。次に 源な。でないと、源蔵、半蔵が力を失うぞ、われら一門のも はこの品々、次にはこれを売払います。これにて三カ年は 石のも落胆するぞ。よいか、心を張れよ、病に負けるなよ。人参を服用させられましようかと存じます」 ここ四、五年は、死ぬにも、死ねぬ身と思えよ」 娘のころからの物を残らず保存してあった、その品々で ある。 しかし、孫助の病状は捗々しくない。

3. 長谷川伸全集〈第5巻〉

衰えるかと、その話も今までたびたび出たが、その後も健「はい 「どうも力がないな。気を張れ、うむ」 康が、どうも思わしくない。 元禄八年になった。 源蔵兄弟の悪評が、世間からいっとなく消えている。世「今日はその方に、古今の妙薬をもってきてやった。病気 こだわ 間はいつまでも源蔵兄弟に拘泥っていない。次から次へ、全快、疑いなしという妙薬だ」 新奇な問題に移って行くので忙しい。 「どうも力がないな。源左衛門、よく聞け」 が、その反対に、石井一門の間で、源蔵兄弟の不評判が たか 昻まった。 「余りと申せば不甲斐ない兄弟でござる。三之丞、彦七兄何をいっても源左衛門は、どろんとした眼で、カなく答 弟のことは別として、源蔵兄弟、再度の仇討出立以来、既えるだけである。 「江戸に下っている半蔵がな、板倉様御家中平井才右衛門 に十四カ年でござる。この様子にては見込みが相立たぬに はぶ 方へ、奉公に有りついたぞ」 よって、拙者の、源蔵兄弟への合力、お除き願う」 「げッ そういう人も出た。 きやつら 「拙者もお除きください、彼奴等、一生、合力を受ける気「それみろ、なんと妙薬だろうが。喜べ喜べ、平井才右衛 卩が赤堀水之助の親族であることは、その方がよく知って かも知れぬ。不甲斐ないより憎い奴でござる」 いるとおりだ」 一日一升すつの合力が、その年限りに減った。その足ら ぬ分は石井九太夫、弥五兵衛、丹羽家などで補った。 「平井才右衛門は只今、江戸詰でござりますか」 しきたり そういうことを知って源左衛門は、悲しげに顰めた眉「そうだ。板倉家では、どういう慣例になっているか知ら が、とうとう、眼の上に近づいたままになった。血色が悪ぬが、やがては国許へ帰るだろう。そのとき供は半蔵だ くなるばかりである。 万一、供ができぬとあれば、如何ようにもして供せずばな 又年経って元禄九年の春がきた。源蔵は二十九歳、半蔵るまい。そう相成れば、水之助をいよいよ討取る日が近く は二十六歳。 なったというもの。源左衛門、どうだこの妙薬は」 或る日、石井弥五兵衛が、 「どうした、又、悄れたではないか」 「源左衛門、おい、源左衛門」 しお

4. 長谷川伸全集〈第5巻〉

「ま 松の下道で、立停まった。前方から伊東規矩平といって、 四十二、三歳の丸顔で細い眼、どこかばやッとした中肉中 「板倉の家中の士を討たれて闇々と討手を取り逃がした。 敵討ち故、わざと、見逃してやったでもなく、手廻りかね背の家士が、やって来たのを見たのである。 たるが石井源蔵、半蔵の勿怪の仕合せと、世に評判されて伊東規矩平はゆッたりと歩いている。今の荒滝三五左衛 は、御家名の疵に相成るとでも申すならまだしも、水之助門とは恰度あべこべだ。 杢右衛門は待合わせている。その近くへ来て規矩平が、 の幽魂を慰めるなそと、あからさまに云うてはのう、わし はうンうンと聞き流すが、事むずかしい家老だと睨まれる慇懃にゆッたり一礼した。 杢右衛門は答礼しておいて、 ぞ」 「よ 「何処へ行く」 いよいよこれは脈がない、討人の役は杢右衛門の胸中「はい。後学のため、赤堀水之助の刀疵を見にまいりま に、既にきまっているものと三五左衛門は田 5 った、と、杢す」 「ご用を申付けるぞ」 右衛門 「はツ 「それでは、荒滝三五左衛門、その方に石井源蔵、半蔵と おって 申す者の追人を申付くる、三番足軽十五人を率いて早速追規矩平が地に片膝を突き、頭を下げた。杢右衛門はじろ りと一瞥をくれ、 え」 「家中赤堀水之助を討ちたる両人の者、追人を只今、荒滝 「はツ 三五左衛門に申付く、伊東規矩平儀はその目付たるべし」 三五左衛門は喜び余って見る見る赤くなった。 篇颯爽として行きかける三五左衛門を呼びとめて、杢右衛「はツ」 「三五左衛門の率いて行く足軽は三番十五人だ」 いレにつ・強一くへ 「三番の十五人、はい」 兄「こらこら。目付は伊東規矩平に申付くるによって、その 「水之助を討って立退き中のものは石井源蔵おなじく半蔵 源心算でおれ」 と申し、兄弟だ」 石「ははツ 「石井源蔵、おなじく半蔵」 三五左衛門は飛んで行った。 「そうではない、石井源蔵、石井半蔵の両人だ」 杢右衛門はそれを振向きもせず、二の丸門さして行く。 いんん

5. 長谷川伸全集〈第5巻〉

がっき、 「そのとおりでござる」 「弥五兵衛」 「さてこそ、推察のとおりだった」 「よ と、座中が微笑で一杯になった。 「おぬしだな、源内を備前へやったは。どうも先はど、独源内の弟亀之助も下河平太夫の門人ではあるが、年はま り弥五兵衛だけが、多第を括 0 た面がまえ、合点ゆかずとだ十一一。 思っていた」 それはさて 「いやいや、拙者はご存じの如く、十五歳の細腕で赤堀ほ 岡山城下の武者小路に住む田上弥左衛門は、広島の浅野 こんにやくとうふ たがみちょうざえもん どの者を討っとは、蒟蒻と豆腐の闘いだと申しているくらの家士田上長左衛門の親族で、石井一門とは縁戚関係にあ る。 いでござる」 かくま 「しかし、源内一人の料簡で、海陸四十里もある備前岡山弥左衛門は天野源内を懇切に世話した、いや、隠匿っ へ、赴く決心はっきかねる筈だが」 た、というは、広島の浅野家中よりも、ここ、岡山池田家 「拙者もそのことを考えて、さては彼の人が、指図したか中の方が赤堀の味方がずっと多い。二百石の馬廻り役今哲 はんない と、思い当っております」 半内という士が、赤堀源五右衛門の従兄弟で、 どなた 「と、それは何方だな」 「我が従兄弟ながら赤堀源五右衛門は、世が世ならば、一 しもかわへいだゅうどの 「下河平太夫殿でござる」 国一城の主になりかねぬ生れつきでござる」 はばか と、弥左衛門が石井と関係のあるを知らず、憚るところ 下河平太夫とは剣客で、久しく城下にとどまり、道場を ひらき、指南をしている。源内は平太夫の門人だった。 なく、他人に語っていたことが二、三度ではない。 かせかざえもん 篇そこへ、家中の士で加瀬嘉左衛門が訪れてきた。嘉左衛半内の説では、 門は石井一門の縁者で、源内の教育に深く関係のある人で「赤堀源五右衛門は二十二歳で、遺恨ある石井宇右衛門と 弟 兄ある。 いって槍術の名人を、名乗りかけて斬伏せ、群がりかかる 源「拙者、只今、下河平太夫よりの帰途にござる」 家来数人に傷を負わせ、三十一一歳にて宇右衛門の倅石井三 石と、 いった。弥五兵衛が、 之丞を美濃の国にて、数多の助太刀も一ツにして返り討ち 「嘉左衛門殿。下河殿には源内が備前へ赴きしことご承知にいたし、次には三之丞弟彦七という者を追いつめ降参さ でござったか」 せたのでござる。かかる武勇のものは、当代まことに稀と

6. 長谷川伸全集〈第5巻〉

い出したので、二人で追いかけるのさ。追いつければい、 「どこへ行くのだ今頃、二人揃って」 守、よ カナ」 4 と、話しかけられそうである。 と、いい棄てて坂をのばった。小姓廻しが、 この小姓廻しは赤堀の味方というではないから、構わぬ うって 「ああそうか」 ようなものの、今はそうでない、討人が追いつくまでに、 是が非でも、旅の者の往来する街道へ出てしまわぬと、兄と、得心のいった返辞を、うしろに聞いて半蔵は、京ロ 弟ともに討たれたとき、あとに成就の噂を立ててくれる者門の番人に , 刀 / し 「下村源左衛門若党、在沢伴右衛門にござります、主人用 事にて通ります、お通し願います」 源蔵が急に息せき切って、荒々しく、 番人はちらと見ただけで、 「御門の外で乗掛け馬を見なかったか」 「通れ」 小姓廻しは思わず釣りこまれ、 「いやあ、見なかった」 いった。半蔵も首尾よく城下から外へ出ることが出 来た。 「そうか、さては早や、余程行ったとみえる、伴右衛門 うンと駈けぬと追いつけぬぞ」 田畑と農家を左右にみて、蝉の声、舞う蝶の街道で、兄 と、いい棄てにして源蔵は坂をのばり、京ロ門へはいっ弟は肩を並べて歩きつつ、 じようじゅ 「兄上、芽出たく成就いたしました」 て行き、顔見知りの番人に、 と、半蔵はばろばろ涙をこばした。源蔵が、 「お早うございます、ご苦労さま」 「気をゆるめる奴があるか、まだまだ針の山の道中と心得 と、頭を下げてすッと通った。番人は何の気もっかず、 「いやあ、早いのう」 「思い残すことがありません、わたくしは即座に息絶えて と、機嫌がいし も残念はござりません」 坂の中途では小姓廻しが、 「馬鹿な、これからが大切だ。弟、亀山へ行く人が近づ 「伴右衛門伴右衛門、何だねそんなに眼の色を変えて」 く、覚られるな」 と、さすがに少し怪しんだ。半蔵はロ早に、 し」 「なあにね、江一尸赤坂のものが乗掛けで通ったので、立話 をすることはしたのだが、別れてから失念していた用を思野村を過ぎてのそき茶屋まで、二人は、駈けては歩み、

7. 長谷川伸全集〈第5巻〉

だんがい 弾劾したのが、重役衆のところまで行き、〃長者に対し過 とが 四 言せし科〃というので、永の暇となった。 浅野安左衛門はその後、船尾村の兄のところにいて、身船尾村の兄のところで日を送るうち安左衛門は、先年、 の振り方を考えていた。軽い身分でも武士のくらしが身に琢源寺の無洒が、今からでも遅くない学問で身を立てろ、 ついているので、農業にはもう向かなくなっている。琢源といってくれたのに随わなかったのが、今更ながら悔まれ 寺の無洒からきた手紙は、今からでも遅くないから学問でてきた。 身を立てろ、と勧告している。 安左衛門はまだ独身である。 ふたみこんどう 江戸にはいった安左衛門は、本所竪川筋の二見昆堂とい って、先ごろの江戸勤務のとき入門したことのある学者に 上成屋吉右衛門方では与市の初七日に、先祖の供養とい めいもく う名目で仏事をおこなった。三七日にも先祖のたれとかのついて、修業のやり直しをやることになり、おなじ本所の ちょうか 法要という名で、与市の供養がおこなわれた。 町家に同居して根気よく通学した。安左衛門には物一ト筋 そのころ岡山の旧主から、安左衛門に、出奔一件は忘れのところがある。物一ト筋とは一辺倒のことである。師や てつかわすから帰参せよといってきたので感激して、すぐ学友からそのため好意をもたれた。 岡山城下に出て、池田丹波守の徒士に復職した。 安左衛門はやがて師の邸内にある小さな別棟の家に住 備中の兄からの便りで、与市の供養が忌日のたびに、営み、師の代講もやるが、執事用人といった役目も勤め、無 まれているのも知ったし、たれとも知れぬものが、与市の事で安心な日を迎えっ送りつした。今度の江戸下りでは本 ときじようえもん 名を出さず、土岐丈右衛門と名乗っている。師には母方の 隠し墓をつくったのも知った。 年があらたまり月がかわり、与市のことを忘れたも同然家名を嗣いだのですと云ってある。 相になったころ、上役の随行で、同僚二名とともに江戸へ下 本所にくらして数年たったある日、浅野安左衛門なら第 驃った。安左衛門にとって江戸は初めてである。 足かけ三年の江戸勤務がおわって安左衛門は、岡山へも土岐丈右衛門が、備中の無洒法師からの手紙をうけとっ どり、池田丹波守の本邸に勤務していたが、新任の上役とた。それには先年、玉島陣屋で死罪におこなわれた、あれ ソリが合わず、議論となると往々にして、安左衛門の言葉は換え玉で、与市は生きている、と書いてあった。手紙は のなかに激越なものが出てくる。これを上役が取りあげて又こう付け加えている。与市の隠れ場所はおおよそわかっ

8. 長谷川伸全集〈第5巻〉

ている。 「茂七殿か。瀬兵衛様に申上げ下され、来客は待たせてあ 泊りあわせていた茂七郎は、独り槍を小脇に庭へ出て、 るによって、すぐさま、お出掛けなされませと、秋山武左 門の内側左の方、木立の陰にぬッと突っ起っている。退路衛門様が申されました」 を絶っ心算だ。 玄関では三之丞を中心に、瀬兵衛父子が、我を忘れ、手 意外に外の声は穏やかだった。 紙を読んでいる。茂七郎は使いに、 「代官所から参りました」 「来客とは、だれだ、武士か」 夜中といし 「は、、、人体にござります」 、四里もある代官所から用事があれば昼くる 筈、さてこそ源五右衛門の一党に極まったと、三之丞が体「名は」 を乗り出すを、瀬兵衛は制し、声高に、 「赤堀源五右衛門と申されました」 「代官所からとは不審な、今ごろ、何んのご用かな」 「ああ、あいっか、そうか、ふうン」 あきやまぶざえもん 「はい、秋山武左衛門様の使いでござります」 と、茂七郎は事もなげにいい、 玄関へ取って返し、 さぶろうえもん 代官は野田三郎右衛門で、秋山武左衛門は首席の手代、 「三之丞殿、さ、出掛けよう。敵め、現れたそうな」 代官次席の役人である。 瀬兵衛は新五兵衛に命じて、使いの者をねぎらわせ、一 「秋山様のお使いか、只今門を開きますぞ」 方では三之丞に、 「もしもし御門をお開けなさるには及びませぬ、それより 「三之丞、馬で行け。茂七、われも行け。又八郎、われも も此のお手紙、片時も早くお読みなされて下され」 行け。これこれ、馬に鞍置け」 「おツ、お手紙があるか、それは、それは」 犬飼の屋敷の中は、鐙よ、鞭よ、草鞋穿かせよと、俄か 瀬兵衛が出て行って、門の廊下から差入れる手紙を受取に騒がしくなった。 たき 赤堀源五右衛門が、今、多芸の高田の代官所へ現れてい あかり 「燈火燈火」 るというーーそれはその日の夕暮れのこと、何処から来た と、いいながら玄関へ引返す。それと入れ代って茂七郎か赤堀源五右衛門が代官所の門番人に ( 折入って、お願いがござり、参りました ) が扉の内に立った。槍は立木のうしろに置いてきた。 「ご苦労だった」 と、一通の書状を出した。 と、門の外へ声をかけた。 代官野田三郎右衛門は、折柄、江戸へ出ていなかった。 きわ てだい あぶみ

9. 長谷川伸全集〈第5巻〉

題にしているのは、殺された殺したという、事の結果だけ兄の平右衛門は急に陣屋へ呼ばれて、その日の朝、玉島 わらじ かたき であった。それから後々の世でもそのころでも、敵は悪人へ出ていって留守であった。安左衛門は一ペん解いた草鞋 うって で討人は善人、討たれたものは憎まれて討ったものは褒めの紐を結び直し、玉島へ向った。 られる、となっている。 松川三郎兵衛は前にいったような内容のことを、眼の前茂七郎殺しの与市は、その日の未明、玉島陣屋の構内 に頭をさげてきき入っている平右衛門に " 申し聞ける。とで、死罪におこなわれ、その死体が裏手の奥にある物置小 むしろ いういい方で、すらすら云って、終ると、平右衛門が一礼屋のなかに、古い蓆を敷いて置かれ、上に荒菰がかぶせて あった。蓆にも荒菰にも鮮血がべッとり付いている。殊に しているうちに、杉一尸の向うへ行ってしまった。 平右衛門は何ということなく、物足らぬ気がして、調べ蓆には血がつくった滝縞が大小三つもある。 与市の首はポロ布の大きいのに包んで、荒菰の下から出 処から出た。 ている与市の両足のあいだにある。血がにじみ出している 村へ帰った平右衛門は弟の安左衛門と、きようのことをポロ布の結び目から、与市の絡みあった頭髪がすこし見え 語りあった。兄はどうも不快でならぬというが、弟は、別ていた。 これを平右衛門は見せられた。呼出しはそのためであっ なことをいい出した。 「兄よ、その話は打ち切ろう。兄よ、与市の処刑は死罪だ ろうから、哀訴状を陣屋へ出そうではないか。与市の首切与市の死体はその場から、死んだ牛馬の棄て場所へはこ り役を、われわれ兄弟に仰せつけくだされなば、亡弟の追ばれてゆく、その途中で、上成屋吉右衛門の番頭が二人で きて、搬んでゆく人足に銭をやり、死に首の髪の毛を持参 善にこの上もないことに就き、と書いてな」 しいことを云い出してくれたわ。歎願状の文案の鋏できってもらい、逃げるように引返していった。これ 「成程、 ものかげ を平右衛門と一つになった安左衛門とが、やや遠くの物陰 は、二人別々に、まず作ってみるとしよう」 この願書がなかなか思うように書けない、そこで安左衛から見た。 ぶキ、い たくげんじ 門が、師事したことのある、琢源寺の住僧無洒を旅先まで与市の死体は棄てどむらいになった。牛馬の骨が散乱し 追いかけて行き、文章にしてもらい、喜び勇んで船尾村にている大きな穴の片隅に土葬されるのが、ここでは棄てど むちいである。 帰り着いたのが、昼飯時をすこし過ぎたころであった。

10. 長谷川伸全集〈第5巻〉

「源左衛門を哀れと思召し、気を引立ててやろうと、なさ 元禄九年五月はじめ、暑くなった江戸の街を、見る影も れるのではござりませぬか」 ない田舎の行商人が、うろうろと歩き廻っている。 「弥五兵衛がそんな小細工するか」 その行商人が、疲れた顔で、板倉家上屋敷前の立木の下 「は。左様でござりますな、すると、真事でござりますで憩んだ。 力」 屋敷街の通行人は、路端の石もおなじように、田舎行商 ごくひ 「疑う奴があるか。しかし、これは極秘だ。いうなよ」 人に眼もくれない。 かたじけな 「あ、忝い忝い」 そのうちに、どこぞへ行った帰りの平井才右衛門が、半 と、源左衛門は気が狂ったように叫んで、色の悪い頬に蔵の在沢伴右衛門をつれ、汗ばんだ顔をして通った。 めざと 涙をはらはら走らせた。 源蔵は目敏く、弟の姿を、遠いうちから発見していた 半蔵は、事実、板倉侯の家中へ住込んで復讐の機会に近 、半蔵は間近くなって漸く気がついた。兄が余り窶れて ついたに違いはない、が いたためである。 今の平井才右衛門は先代才右衛門の甥で、先代才右衛兄弟は眼を見合わせただけだった。半蔵は主人の供をし 門、重態のとき急いで養子縁組をして、越前から迎えたもて藩邸の門をくぐった。 のである。前名は明白でない。 暫く経っと、半蔵が裏の方から、平気な顔で出てきて、 平井才右衛門は江戸桜田の板倉家上屋敷に小屋をあたえ「兄上」 あんど られ、妻子は亀山にのこしてある。食禄百五十石、平凡な「弟、無事の態をみて安堵した」 がら実直な男である。役目は使番。 「わたくしも安心しました。いっ江戸へ」 篇足軽奉公に住込んだ半蔵が、実直に働くので、才右衛門 「きのう来た」 ありさわばんえもんへんみよう の気に入った。半蔵は在沢伴右衛門と変名している。 「左様でしたかーー兄上、わたくし奉公は、来年三月まで 弟 のり にござります」 兄この知らせが伊勢と京都を股にかけ、ロを糊しながら、 源亀山の赤堀水之助を、それとなく監視して怠らぬ元源蔵の「帰国の話はないか」 石手に届いた。 「それが、ござります」 源蔵はすぐさま江戸へ下った。といっても、旅費があっ 「あるか、して」 ての旅ではない、行商しつつの捗どらぬ道中である。 「この六月、主人才右衛門殿、お国へお供にござります」