しかるに面白いではないか、森家 家中に陰言一ッいうものなく、大炊勝政が二の丸から本丸でも微禄であるとな は昔、有名な人を出していたことが、近ごろ判然いたし へ移ったとき、平右衛門は妻にそッといった。 た。いっぞや、大いに笑っていたことがある。覚えがあろ 「平右衛門、近日、立身いたす」 う。あの時、計らずも判明した」 「それはそれは、おめでとう存じあげます」 たと 「それはそれは、何に喩えんものなき、お芽出度さにござ 「家来として、これはその方の他には申されぬことだが ひと 宗房君が卒し給い、勝政君の御代と相成ること、偏えります。してして、そのお方様は、いつの代の人にて、ど のようなるお方にござりましようや」 に天明のお指図、上杉家万々歳のことである」 「さればさ。当家はな、越後蒲原の森から出たゆえに森と 「左様にござりましようとも、お家ご繁昌、弥ますこと、 めでと 名乗るといい伝えてきたが、それは世を忍んだ祖先の方便 お芽出度う存じます」 「森家も数代の久しき間、英物が生れなかったので、微禄で、森家は織田右大臣の家来森蘭丸から出ている」 「森蘭丸にござりますか」 であった、しかし、それがしが生れたのでな」 こ蘭丸という名は美しく響く、本能寺の変に、叛将明智光 意味あり気に、にやりと笑った。こんなことをいし んな笑い方をする平右衛門ではなかったが、この二、三日、秀の部下、安田作兵衛と闘って死んだ蘭丸は、美男で、強 勇で、節義の士で、人気のある、永遠の美少年である。平 ともするとにやりと笑った。 右衛門の妻は、家祖が、その蘭丸だと聞くと、嬉しそうに 平右衛門は笑った顔を急に厳粛にしていった。 「その方に申し聞けておくことがあった。森家由緒のこと笑みこばれた。 すぐ だがーーそれがしは、およそ、人の家にして、祖先に傑れ平右衛門は厳粛な顔をして続けた。 「その方も弁えておれ。森家の系図は概略こうである。 たものがない限り、子孫に傑れたものは出来てこぬと思っ ていた。森家代々、と、申しても、あまり古きに溯って幡太郎義家公の六男に森六郎義隆というがある、その末葉 やすいえ はっ「り が美濃の国の住人にして森左衛門尉泰家で、森泰家から十 は判然せぬところがある。父母叔伯より伝承し、又は家に よしたか よしま * 、 かんが 伝わる二、三の文書、それらによって勘うるに、残念なが代目が森三左衛門尉可政だ、可政の嫡男は可隆とい「て江 かずよし てづつやま 州坂本の合戦に手筒山で討死し、次男は森武蔵守一可とい ら当家には、有名なものは一人も出ていない、数代にわた ようゆうむそう へいへいぼんばん る一々平々凡々である、そこで考えた、それがしは家の太って、驍勇無雙、鬼武蔵と名をとった。この鬼武蔵の弟 祖とならねばならぬ、中興の祖とならねば、当家はいつまで、森の宗家を嗣いだのが森左中将忠政公、これが只今播 さかのぼ
ていた肥後守が て家断絶の条件を備えていたのである。 「兵部」 上杉家は黄門景勝の雄図やぶれて徳川家康に屈伏し、会 「ま 津仙道百二十万石を羽州米沢三十万石に削されて今日に ちつろく 「伊右衛門」 及んでも大小の諸士およそ六千人である。この人々が秩禄 「ま を失うだろうことを考える前に、もう一ツのことがある。 「談することがある。参れ」 それは吉良上野介義央が実子三郎をして上杉家を嗣がせん 「よ と企んでいるという疑いである。 こと - 一とはず 客間に再びはいった肥後守は四方の戸を悉く外させ、 ( 御屋形には毒害にあわれ給うたのである ) と、 話声の聞きとれぬ遠方に人を立たせた。 いう声が国で拡がった。信じもしている。肥後守 やわら しらじらと明け初めた。蝿、よしきりが何処かで鳴いては、それらの一々を悉く知っている、が、言葉を和げて、 「両人。家への忠義専一であるぞ、家への忠節である。播 「兵部。国許の様子はどうかな」 磨殿へのみの忠義では足らぬ、上杉の家への忠義」 「人心きわめて動揺いたしおります」 「何と、仰せにござります」 「もっとものこと」 「よく聞けよ。正之、今日、お城へのばり、御老中へご相 こぞ 「家中挙って憤激いたしております」 談を仕ろう。それは、他ならぬ、上杉家名跡永続のこと 「云うな、それは。して、江戸はどうかな」 六千の将士の身の上も案じられる」 「同様にござります」 名跡を立てるにしても綱勝には実子がなく養子もない、 「もっとものことーーーが、それではならぬと存じているでそれではだれを世嗣に立てようと考えているのか、千坂兵 あろうな、両人」 部にも沢根伊右衛門にも推定ができない。 肥後守は二人の顔を見詰めていった。 綱勝に実子がない、二十七歳の若さで壮健な日頃だった 「上杉名跡は三郎殿ぞ」 よっ芋 ので、いずれ世嗣が生れることと家中のものは安心してい 愕然として兵部と伊右衛門は顔見合せた。 た。もとより養子をしていない、仮養子のテも用いてなか 三郎は二歳、幼いのはこの場合すこしも問題でないが、 った。幕府は〃嗣ナキハ絶ッ〃である。上杉家は不幸にし上野介の長男であることが問題である。人もあろうに十野
上野介の夫人で、万治元年十二月輿入れして足掛け六年目 に男子を生んだ。幼名を三郎という。三郎という名を吉良 家では尚んでいる。 しようぜんいん 綱勝の生母の生善院が斎藤という自分の家を興させるた めに吉良家から三郎を養子にもらい、今年一一歳になったの を米沢で育てている。そういう二重の縁が結ばれている吉芝新橋五丁目海手の保科肥後守正之の屋敷の正門が、夜 良家であったが、二番三番という使いが飛んで行ったので明けにはまだ浅い頃、さッと開いて、一群の乗馬の士を吐 はなく、順番はもっと奥であった。それというのが上杉家き出した。約二十人の騎士の半ばは並び九曜星の馬乗り提 よしふゅ 中に、上野介義央よりも上野介の父若狭守義冬という老い灯をもって前方と側方とにある、無燈の騎士は列の真ン中 てますます面白からざる人に、反感をもつものが尠くなかで駿馬に跨がっている年五十四、五ぐらい、気品の高い武 ったからである。 士の護衛についている。 綱勝は奇蹟の恵みに浴しえなかった。五月朔日の発病か 夏の朝の爽かな風がそよそよと吹いている、沿道の街の まれ 家は、ごく稀にしかまだ起き出でていない。 ら六日目の夜中に手足が冷たくなり、脈が不整になった。 この一群は桜田さして急いだ。桜田が近くなると一騎が 来るべきものは死の他にない。 (l) 保科肥後守正之は徳川 ( 二代 ) 秀忠の第三子で三代駈抜けて外桜田濠通り上杉播磨守綱勝の屋敷へ向った。上 ものみ み、きぶ 将軍家光の弟である。秀忠は江州浅井家からきた夫人杉邸では門を開いて物見を出し先触れを待っていた。 おそ を懼れて子とせず、ゆえに正之は母お静の父神尾の家「お着きお着き」 に生れ、一時、武田見性院尼に養われて武田を名乗っ 上杉家の表玄関に燭台が幾つも持出され、江戸家老千坂 むすめ た。見性院尼は家康の妾で甲州穴山氏の女おつまの方兵部、沢根伊右衛門が出迎えた。肥後守正之が、ほどなく まさみつ である。後に正之は信州高遠城主保科肥後守正光に養玄関におり立った。良き政治家でもあったが学者でもあっ 平 われて三万石の高遠城主となり、羽州山形二十万石のた ) 正之は威徳がおのずとあった。 杉城主となり、転じて会津二十三万石の城主となり、兄客間に案内された肥後守はやがて病室を見舞った。綱勝 家光の他界後、四代将軍家綱を輔佐したること十年、は意識がなくなっている。 寛文九年致仕し、同十二年十二月十八日卒す。年六十暗涙をのんで、じッと綱勝の死相の出ている顔を見詰め たっと 二。会津松平家の祖にして名君であった。水戸の義公 ( 光圀 ) 、備前の芳烈公 ( 新太郎少将光正 ) と併せて天下の 三公という。
に怖れ、唾さえのみこめずにいる、そのとき、佐藤文四郎あると見せて、示威の効果が出るからである。 が飛んで出て、縫殿の手首を、びしりッと殴って放させ、 九 驅を、治憲と縫殿との間に押込んで、 のびのび 翌二十八日、治憲は重定の近習下条牧太を借り、和衷を 「御膳の時刻が延々となっております」 はからせたが失敗した。 と、平伏した。まさに身を挺して楯となったのである。 縫殿は文四郎に殴られた手首が、そのあとで赤く腫れ治憲はゆうべもきようも、藩祖謙信の霊に、君臣融合の 祈りをあげた。 重定は怒って、 文四郎は旋風のごとく走り、本丸のうちにある南山館の 「七家のものども、一々、斬に処せ」 隠居重定の許に行き、事態を報告した。 と、昻奮したが、治憲はそれに服せず、 重定は赫となり、 「衆議に、曲直を決す」 「予がまいる。弾正殿にも出座されいと伝えよ」 と、決心した。 重定は七家にむかい、 二十九日、大目附、仲ノ門年寄、使番などの監察職のも 「若年の弾正殿に。汝等、無礼である。不届きの者ども のを招集し、重定が出席、治憲から七家の提出した弾劾書 め、ここさがれ」 と、叱った。七家はそれだけでは退席しない。時間は九を読ませ答えを求めた。一人として、その弾劾を、正しと ッ ( 正午 ) になっている。重定は三度まで叱った。七家は漸いうものがない。 く退席し、下城するとすぐ病気を申立てた。一人ずつ、重定「かくのごときこと、実に候えば、監察の職にある私ど も、今日まで手を東ねおりましようや」 に召喚されれば、結果は、切崩しにあうと知ってである。 と、さえ答えた。松木伊賀といって末席にいた者であ それともう一ツ、七家には七十の組が配属されている、そ 記れらの組下を合すると、夥しい人数となる。病気引籠り中る。 平 に、その組々をひそかに集合させ、指令を与えれば、恐ろ治憲は三手配、采配頭、三十人頭、物頭、番頭を招集 太 上しい行動ができる。これは七家のものも知 0 ているし、重し、おなじく答えを求めた。その答えも前におなじであ る。 定にも治憲にも判っている。家中のたれかれ皆が知ってい はら 治憲の心は決した。ではあるが、七家の動かし得る武力 る、そこに、この病気の申立ては風を孕み雲を呼ぶものが ) 0 かっ つか じっ
飛ばして去ったので、その他の使番も我劣らずと、平左衛れなく 、踊り子が花笠をかぶりたると同様の儀と存じま す、さて、吹上御殿にて公方様御上覧の御こと、恐れなが 門の難問から、馬を躍らせて逃げた。 ら臨時の御遊覧にて、改めて御厳達ありたることござな 寛政の末の年の山王祭を、将軍家斉が上覧なので、例に よって上杉家からも槍をもった卒を出し警衛にあたらせく、必ずしも笠をかぶらせまじとの覚悟もそのゆえに仕ら た。六月十六日のことで晴天だから、日中の暑さがひどずおりました、ただし、何年何月何日、どなた様の御時、 。その暑さに気をとられ、将軍上覧の席の前の方を通る吹上前はかぶり物相成らざる旨、御定めこれありしゃ伺い とき、卒が一人残らず、笠をかむったまま通行した。それ奉る」 を見た毛利家 ( 長州 ) 、浅野家 ( 芸州 ) 、黒田家 ( 筑州 ) 、三家と、やった。これには目附がぐッと詰った、それをみて の歩卒がやはり笠をとらずにおなじ処を通行した、これ他の三家も、めいめいの家の古格で、出陣の心で、行列の が、老中その他の間で、すぐ問題にとりあげられ、翌十六法師武者同様で、踊り子の花笠同然で、日笠雨笠でなくし て塗笠で、と、ロ真似を述べ立てた。 日、今いった四家の留守居役が、目附に召喚された。 目附は眉間に皺を寄せていたが、前の使番のように、馬 「きのう、諸家より差出しの人数、御場所をも憚らず、笠 をかむりての通行、誠に以て不届千万なり。吹上御殿はかに乗っていないので、自分の方から行ってしまえない、そ ねて上様御上覧の御場所たること承知のところなり、すでこで、 おめざわ に御目障りにも相成り、容易ならざる儀、如何の心得にて「追って又申聞けるであろう、今日はこれまで」 と、平左衛門達を立去らせた。その後、この問題は立消 冠り物をとらざりしか」 と、詰問した、この調子だと、少くとも一人は腹を切らえた。 せなくては納まらない問題にとれた。 平左衛門を除く三家の留守居は、恐れ入って、お辞儀を 記するだけで、何もいわない。平左衛門がそのとき、 ″寛政の大倹〃と上杉家でいう、粛正のとき、江戸家老毛 をひらいた、と、立岩善右 太「存じも寄らざる御尋ねに存じ奉ります。そもそも弾正大利上総が座長で、〃省略評議 , 上弼より差出しの槍卒三十人は、御祭礼の行列に法師武者の衛門が、 おついえ おはさみばこむらさきお 行列相加わりたると同様、出陣の心にて塗笠をいただかせ「御挾箱の紫緒は無用の物にて、御費も多し、ゆえに御廃 ました。こは古格にござります。全く雨笠日笠の類にはこ止、しかるべし」
ばぬ」 のは金で、その金のない上杉家だから、家老総出で勘定頭 貶「しかし、茂右衛門、何とも心がかりだ」 と相談の上、手分けをさせて領民から借金をする、その借 「くどいぞ源右衛門」 り出してきた金額が、その日だけの入費にやっとであるか 翌日、茂右衛門は帯刀二本のうち大の方を売却し、小 刀ら、夜になると又相談して、八方に借金をしに歩かせる。 ばかりになり、金を、源右衛門の旅費にあてた。衣服は、 その日ぐらし以上のことである。 出入りの呉服屋を拝み倒して拵えさせた。 これが十五万石とはいえ、とにかく、 二国政治〃とい これで大石源右衛門は名古屋へ、弔問の使者として行くって、半独立の政治を布いていた上杉家の腐れている時代 ことが出来た、が、役目を果して引返し、品川まで来たのやり方なのだった。 ら、残っているところ、銭わずかに四百文に過ぎなかっ 三年黙る男 上杉家の格式という体裁第一主義とめいめいの自由を尚 ぶことは、飛べない航空機や潜らぬ潜水艦を御家の重宝と 確信するものとおなじだった。上杉家の執政以下、性根が そんな風だから、大石源右衛門を弔問使として遣わしたそ の答礼に、尾張家から羽鳥伊右衛門が、米沢にきた時なぞ弾正大弼治憲は鷹山公の名で広く知られている名君であ は、米沢城本丸の大橋が腐朽していて歩くとがたがたい る。名君が出れば名臣が出るのでもないし、名臣が出たか う、それをそのまま見せては上杉家の赤恥になると、急にら名君が出たのでもない、この二つの異なっているものが 材木をはこばせ、前々から架代えの工事にかかっているご 一ツになって、始めて真の名君が名君となり、名臣が名臣 とく見せかけた。こうなると、何かあると、一時をごまかとなるのである。治憲の下には莅戸九郎兵衛、大石左膳、 す小智恵ばかり磨く結果となるから、いっとなし、偽りま木村丈八、神保容助、丸山平六、黒井半四郎、島田多門 やかしに長じるものが役に立つ者と思われやすくなった。 高橋平左衛門、藁科松伯、佐藤文四郎、その他、良臣と忠 羽鳥伊右衛門は尾張家の代表だから、鄭重に待遇しなく臣と義臣がいたのである。 てはならない、が、 人数を夥しく出して送り迎えするだけ名君と名臣が出たから、それでは治憲一代で上杉家は豊 は、金がかからないから出来るが、饗応となると先立つも かになったかというと、そう行くものではない、長期建設 こ 0 ようざん
「上杉家の作法によりご接待仕る」 兵部、伊右衛門の惨敗が決定した。ひそかに見合せた一「 「おう、さようか、上杉家の作法な、それもよかろう、人の顔は落胆で細ってみえた。 、御客様は御老中様であることを忘れられまいぞ」 越えて六月五日、米沢から到着した家老中条越前、安田 針でちくりと刺すようないい方である。 兵庫と江戸の千坂兵部、沢根伊右衛門と四人が酒井雅楽頭 うろた 伊右衛門は兵部がすこし狼狽えかけたその袖をそッと曳に召喚され、 そうし き、「御家の安泰をはかるわれわれではない。上杉家お取 ( 御作法に任せ、宗嗣これ無きに付、半知召上げられ、十 ( ニ ) 潰しを欲しているわれわれだ、かまわんかまわん」と眼に五万石、上杉三郎に下さる ) いわせた。 と、仰せわたしがあった。兵部、伊右衛門ではもう歯が やがて老中阿部豊後守豊秋が威厳を張った行列で上杉家立たなくなった。 へ着いた。 三郎は上杉世襲の名の喜平次に改めたが二歳の幼児であ 上野介は父親をつれて出迎えた。豊後守は -1-2 野介父子をるので、家老達の輔佐だけでは足りぬ、で、保科肥後守が 熟知しているので、自然、初見の上杉家中のものより会釈陰に陽に上杉家を擁護した、そのためか、家中に上野介を が親しい。そうなるとその機会を捉えずにいない上野介悪口するものがほとんどなくなった。兵部、伊右衛門は、 ゅうゆう 、正式に接伴係にするすると乗り出した。 暫くのちは悒々としていたが、考え直して藩の執務に熱心 ) よっこ 0 兵部と伊右衛門は、何ごとも上野介を通してでなくては しっとなく又目立たずに 豊後守にものが云えない位置に、、 上杉喜平次が十歳のとき、肥後守正之が世を去った。 置かれてしまった。上杉家取潰しの機会をつくろうにも作後守は致仕して隠居中も上杉家の指導を忘れなかった。 れない。上野介がそういうことはさせないように、典麗な 肥後守が世を去るとそれを待っていたように、上杉家へ ロのきき方をして間に挾まっている。 食いこんできたものは吉良上野介である。 阿部豊後守は千坂兵部、沢根伊右衛門に、 延宝三年十一月二十二日、上杉喜平次は十三歳、元服し つなのり ふびん 「上杉播磨守綱勝相果て不便に存ずる、家来どもの迷惑憫て四代将軍家綱の綱をあたえられ、上杉弾正大弼綱憲とい しおき れなり。領内の統治につきては上使を以て保科肥後守殿にった。上野介が後見役に乗り出した。 仰せわたしたり、心得よ」 元禄十三年二月、米沢領は凶作で苦しんだ。その翌十四 こうでん ながのり と、香奠として銀三百枚を給わった。 年三月十四日、江戸城中で浅野内匠頭長矩が吉良上野介を
118 て、旅費自弁にて供せよと命令が出たので、いまさらなが かったが、三人は六尺棒で小突かれようが軽くはあるが叩 ら狼狽えて、刀剣、衣類、家具、什器なぞ、売払うものが かれようが、いっかな立去らず、二人が突き飛ばされれば 続出した。およそ、そうなるだろうと観ていた悪い商人達残る一人が、 「お願いでござります」 が、足許をみて何品に限らず、二東三文に踏みたおして買 しが わめ い入れた。武士の方は、切迫っまった入用だけに、商人の と、門の扉に獅咬みついて泣き喚く、それを引きずり放 薄情を罵りながら、あれもこれもと、持物を手放し、辛くすと後の二人が入れ代って扉にへばり付いて泣き喚く。 二人の門番が扱いかねているところへ、伊藤某という家 も旅費相当の金を手にしない訳にゆかなかった。 困窮は上杉家の米沢だけではない、江戸に三ツの屋敷を臣が何ごとかと急いで出てきて、 もつ上杉家は、江戸町人からの借金で、八方塞がりであ「何だその方達は」 と、 いったものの、顔をみて、これは悪いところへ出た る。大口はそのころ有名な江戸の金融業者三谷三九郎。そ と、悔んだ、が、いまさら、逃げられもしないので、 の他、借りだらけである。 「その方たちだったか、いやいや何もいうな、用向きは相 借主が大名で貸人が町人でも、金銭貸借である限り泣き 寝入りをする町人はなく、江戸町奉行に訴えて、上杉家に判っている、今しばらく猶予いたせ。さ、引取れ、早く引 こうした訴訟は町取れ」 返済を迫るものが一人や二人ではない。 奉行から評定所へ廻り、評定所では上杉家の江戸家老を喚「いえ、今日は尋常ではなかなか引取りませぬ。御大家様 んで事実を聞き糺し、結局は、年賦返済で落着した、が、 の御門へ駈けこみましたからは、命はないものと、主人方 その年賦がとても、履行されないと判っていながら、上杉を出ます時から、三人とも覚悟いたしております」 家の重臣は、一寸のがれをしないではいられなかった。 「金子の御下げわたしは、近日中に相違なく、その方ども 或る年の十二月大晦日の夜、三人の番頭手代らしい男を呼び出して」 さかやきひげ 汚ならしくのびた月代、髯だらけの顔で、上杉家へ泣「それは毎度うかがいました。ご覧くださいまし、私ども きこんできて、 三人は御当家様の係のものにござりますがお下げ金がござ み、かやき ひげ 「お願いでござります。お助けをいただきとうござりまいませぬので、店の掟といたしまして、月代をのばさせ髯 をのばさせ、一目で、この男は商い不首尾のものと相判り と、正門の前で泣き声をあげた。門番人が追い払いにかますよう、かくのごとくにござります。これにては入牢仰 うろた たた
あったのだから、米沢城下に、謡曲と小鼓と乱舞が氾濫し その翌年十一一月、幕府は上杉家に、江戸上野東叡山の中 ただなお 堂の修理と仁王門の再建を、老中西尾隠岐守忠尚、松平右 しきみ まさよし たけちか まさすけ 立町を通れば、「愛宕山、樒が原に雪積り、花摘む人の近将監武元、本田伯耆守正珍、堀田相模守正亮の連署で命 くるまぞう 跡だにもなし」と『車僧』のごとき禅味のある謡曲をやっ 令した。 ているのが聞える、かと思えば、名高い『羽衣』の「待て上杉家の他にも手伝いを命ぜられた諸侯があったが、憎 しばし春ならば吹くも長閑けき朝風の、松は常盤の声ぞかまれていたものか、上杉家の受けた命令は、少くとも金五 あらまち かいじん し」が聞える。粗町を通っても又、「浦には海人さまざま万両を要する工事であった。、窮乏のどん詰りにいる上杉家 の、漁夫の船影数みえて、く火もかげろふや」と「箙』は、一カ年間の収入と支出とを、どう巧みに弥して行 0 くまち だい が聞える。大工町に行けば、ここでも又、「般若の船のおても、最少限に計算して、二万五、六千両不足だった、そ ともづな のり ひね のづから、その纜をとく法の、心をしづめ、声をあげ、 ういうなかから、五万両以上の金を捻り出す方法は、全然 ふじと なかった。 一切有情殺害三界不堕悪趣」と『藤戸』が聞える。 城下の町家にしてそれである。表町あたりの武士の街を 行くと、数多の家中の家々はそれにも増して、『竹生島』 『八島』『松虫』『三井寺』『田村』、声、鼓、笛、太鼓、足拍森平右衛門の生活は、以前と違って、極度に膨脹し、豪 子、さながら幾百の能楽教授所を集めたようである。 華を極めはじめた。 じようもん 重定が家督をもって以来、三カ年目、寛延二年の秋、上そのころ、平右衛門は定紋を鶴の丸に改めた。譜代の老 杉家は幕府に、今年の収穫が、四万七千二百七十石の損耗人の祖先が、佐久間玄蕃盛政の子孫であると称し、旧姓を であると届け出た、それから足掛け五カ年目、宝暦三年九廃させ、佐久間を名乗らせた。 月、上杉家の財政はいよいよ行詰った。江戸へ下って金策「家中に人材がおらぬ、これでは、それがしの骨が折れて に狂奔したが、〃御借受いろいろ手配相尺、し候え共、何分ならぬ」 よんどころな と、時どき妻に述懐した。外に出てそんなことは云わな にも相弁ぜず、無拠き御時節に相至り候に付。家中の士 上から百石について金一両ずつ徴収した。謡と能は、それでかったが。 すた も廃れず、かえって生活の悪さを、それによって紛らすか 平右衛門は如才なく他人に恩を売った。彼が眼をつけた に見え、ますます盛んとなった。 のは、身分の低いものに限っている。平右衛門によって立 、 ) 0 たつまち あまた じよさい
ては三略の巻だ、どこにもあるという本ではないからな」平左衛門は知らぬ振りして、 「人間は今日までのものではない、明日から死ぬまでのも 上杉家にもゆうべからその虎の巻が備付けられたとは、 のだ。今日まで良くて明日から先がつまらなかったら、そ この顔役さッばり気がついていない。 の人間は帰するところ、つまらない人間だ、こういうこと が判る奴は俺と同等の人間だが、世上多くは判らぬ奴ばか りだから、いよいよ以て俺は思うがままに勉強せねばなら 「手前の家は大倹で」 と、平左衛門は上杉家の更生実施を、巧みに話し、いつない、それでないと他日御家のお役に立たぬ俺になる」 と、妻にだけはいい聞かせた。 となく、〃米沢様は格別だ〃と顔役連中に得心させること に成功したので、留守居仲間のことで、必要な費用は出す平左衛門が乱舞に巧みなことが知れて、選ばれてシテ方 むだ を命ぜられた。重定の時代で豪華ばやりだったので、乱舞 が、つまらぬ集会や冗な派手遊びは切抜けた。その代り、 幕府の範例や典故で、判り難いことがあると、いつでも平が盛んだった。 左衛門が親切に説明したり教授したりした。彼の本の持主そのころ、竹ノ股美作が平左衛門を異色ある男とみて、 なども、たびたび平左衛門に教わった後で、帰ってから確ことさらに叱ったり詰ったりしてみた。ところが、その一 かめるために、虎の巻をひらいてみると、平左衛門がいう 一が慇懃を極めたり、意表に出たり、とても尋常な男でな とおりのことが書いてあった。 いのが、いよいよ判った。美作はそうした試験をそれとな くやりもやったり、じつに十九回に及んだ。 「はてな、あいっ何処でいつの間に勉強したのだろう」 美作が執政になると、間もなく、平左衛門を馬廻りに登 と、怪しんだり、敬服したりした。 平左衛門を推挙したのは竹ノ股美作だった。親が貧乏で用した。安永八年四月、江戸御留守居役を命じた、相役は 登坂利兵衛だった。 亡くなったので、間もなく平左衛門は居る家がなくなっ 彳になって美作が、 記た。人は〃家宅をもたざる男〃と冷笑したが、当人はけろ 太りとして、学問をやり、乱舞をならい、俳諧の奥を探った「在役中、これそというご奉公はなかった、独り高橋平左 衛門を挙げたのは、誇るとも恥かしからぬことだ」 上りした。 と、誇った。 そのうちに山伏の千勝院の娘と想い想われ、夫婦になっ 天明三年三月、上杉家では大倹約を行うにあたり、相役 て、山伏の家に置いて貰った。人はいよいよ軽蔑したが、