将軍 - みる会図書館


検索対象: 長谷川伸全集〈第6巻〉
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1. 長谷川伸全集〈第6巻〉

十里、その東西五十里、その間にいた漁夫どもについて調 と、それまでに何度も命じた大将軍が、料理の皿の隣り べた結果、判然しました。その先はです、彼奴等の巣の一 に頭をころがし、鼾をかくのを見定めると、今夜の給仕人 ッたる、澎湖嶼です大将軍」 が、これ又いとも機敏に逃げ失せた。街から引ッばって来 とんでもないことをいう副将軍だ。そのころ、鄭芝童はられた逃げ遅れの年寄りの臨時給仕人や、店の番人、屋敷 銅陵襲撃の準備中であった。 の番人等は、調度や器物や酒や食料品を、それぞれ掻払っ て、日当に振りかえることを忘れなかった。 酔い倒れている六人を、陳副将だけが、一望のもとに睨 周と潘とが怨みと歎きとで、顔を曇らして間もなく、眼んでいる。 の下の湾の隅々までが夜に塗り潰されて暗かった。 人の駈ける足音がどこかに起っている。毅然たる陳副将 おど 兪啓皐大将軍と陳希范副将軍は、気に入りの幕僚と部将は足音が鼻の先に跳りこんでとまったのに、やはり毅然た 六人を呼び集め、今夜も大酒宴を催した。この六人と二人る姿勢をとって微動だにしない。 しび の将軍の頭が酔い麻痺れたら、命令の出所が人事不省に陥足音は総把の張選挙が立てたのである。張と洪応斗は副 るはずだが。 将に嫌われている、したがって大将軍も嫌っている、た 酒と器とを除いて、今夜の大宴会は、ゆうべとは格段のだ、この二人の総把は、三カ月も前に帰順した揚六揚七が 差があった。ここの屋敷の老主人が死体になったので、一すツかり服従している、今度の討伐では揚家の六男と七男 人残らず使用人がいとも機敏に逃げ失せた、それと知った に重要な役割を勤めさせなくてはならない、そのために、 あなぐら 二人の将軍はだれよりも不機嫌だったが窖に貯蔵されて好かない二人の総把を編成に入れただけだった。揚六は飛 ある佳い酒がゆうべと変りのない酔いをもたらすと、忽ち黄大船隊で最高幹部の一人であった男である。 乱脈になった。料理とはとても名づけられない間に合せ物「陳将軍、お起きになってください、敵の詭計に味方のも 爺をばりばり食い出した陳副将軍が、主客の位置をあべこべのが乗っています。お起きなさい」 姓にして、兪大将軍と六人の面々に、執念深くすすめて食わ 張選挙が激しくいって副将の括り枕のような肩を揺っ まんじともえ 国せるころには、八人の見境のない連中が、卍巴と入り乱 た、あまり効能がなさ過ぎるので顔をのそいた。副将は姿 れ、人間に化けているごとくなった。 勢だけ毅然たるごとく正体はぐっすり睡ていた。 「姫はどうしたね、連れてこい姫を」 張はあきらめて大将軍を揺り起しにかかったが、思い直

2. 長谷川伸全集〈第6巻〉

「陳将軍、あなた、殺したのですか」 「名将たる資格は智と仁と勇です、大将軍は名将です、わ 引「ここの老爺を」 が陣中の狼どもの粛正を願う」 あかがねいろ 銅色の驅が服からはみ出しそうに肥満している陳希范潘につづいて周も熱情の眼を光らせ、 は、二人の厄介な謀臣を尻目にかけ、 「わたくしもお願い申上げます、婦女が今日も無数また死 てつ・ヘん 「大将軍、ああいう老いばれは、鉄鞭で殴りつけたところぬでしよう。大将軍、憫れむべきものを憫れまぬのは不仁 で、効き目がないです、それよりは私のごとく果断です、 です」 すると二度と何もいいません」 兪大将軍はどこを風が吹いているかといった顔で、 潘が口を尖らせて陳副将に 「潘君、わしはね、智将でも仁将でもない、勇将だ。お判 「あなたは、なぜ、ここの老爺を故なく斬ったのですか」 りか、周君、わしはね、憫れむべきものを憫れむのは好き 「潘君、そう真面目になることがらではない。陣中まこと だ、けれど、憫れんでいるのと鄭一官を打破するのと、ど ゆえ に些細のことさ、しかし、故なくではない、軍の法をただちらをとるか、というと、勿論、鄭一官打破をとる」 したのです、だから斬ったのでない処刑したですな」 「大将軍、お言葉のうちですが、鄭打破と多くの婦女の惨 「どういう条項にあたる罪ですか」 と、ど、つい、つ関一連がありましよ、つか」 と、潘がつめかけるやさきを、兪啓皐大将軍が挫いた。 「大きにある、君達はそれすら知らんのか、これは驚い 「その話は後にするさ、陳将軍は海寇討伐の重用な用で来 た。よく聞くのだね、両公。当るべからざる英気をわしの た。さ、陳将軍、手配はどんなだね、形勢はどんなだね、部下はもっている、それはだ、何びとも制御いたし難い英 聞こうではないか」 気だぞ、その英気が鄭を討って砕くのだ。さあこれで判っ 周が思い入った顔を突き出すようにして、 たはずだ。陳将軍、あんたのお話を聞こう」 「極く短い時間を大好軍、いただかせてください」 「大将軍、やがて日が暮れます、この土地の女が今夜も悲 「不埒なここの老人の斬罪についてなら、話はもう充分尽、鳴をあげて死んで行きます」 くど 「周君、一ッ話題を三度もち出すのは冗い。両公の片言隻 されたのではないかね」 - 一うむ 「婦女の被る惨害を防いでやることです」 句も今から後は邪魔だ。陳将軍、話を承ろう」 「又か、話は閑なときに限ってむしかえすがいい、多忙の 「はあ、では、お話いたします。鄭一官の奴、大将軍の英 ときは一ッ話題は一度限りがいいね」 名を聞いてどこかへ逃げました、どこだろうかと、沖合五

3. 長谷川伸全集〈第6巻〉

て、 「あれです、帆柱の上に火がまだ燃えています。その無惨 さが眼にみえる」 と、 「乗っているのは死人ばかりだろう。人間は生きていない とお話ができないからねえ。中雲。船長を呼べ」 「どうしたのです童将軍」 と、蒋白道が一足前へ踏み出した。竜将軍は致遠公と同「はツ。船長船長、大将軍がお召しだ」 様に馬の異名で、青燐を仲間が呼ぶときの愛称である。 どうやら玩中雲が大軍師の椅子を掴んだらしいこの場の その白道の背中へうしろから玩中雲が、短剣を突きた変化だ。 ふなばた て、腕と驅とで、推して推して押しまくり、舷から江 一隻か二隻か、焼討ちに漏れた舟が、暗い江のなかにみ へ、一気に推し落した。 えたが、劉香はそれに、二度と注意を払わずにいる。 半時と絶たないうちに、十隻からなる船隊は、旋回し 「大将軍。こちらは終りました」 ふッと中雲が息をつき終らないうちに死体の水音が立って、水路を元来た方にとった。 「中雲、今夜は妙な晩だったねえ」 劉香は片手で鬢のみだれ毛を掻いて、血の滴る剣をさげ「牛馬を屠ったことですか。李玉爛は牛天王といいましょ て立っていた。足許にオランダの代人憑青燐ことオランダう。憑青燐は馬面子だから人呼んで竜将軍致遠公といいま まっ しよう。すなわち牛馬を屠って天を祀る。吉兆ですな」 名はラーンが、自分の血で赤く染まっている。 「ああ、そのことかい。馬の死体はどうしたの」 片眼の謀士は洪雲蒸にむかって喋りまくっていた時より ひとしお も、一入の力が、溢れている声を張りあげ、僚船全部にも「水神に捧げました」 聞えよとばかりに、 「それでよい」 「劉香大将軍の命令だ。各船長その他、承れ。この船隊は「大将軍。あいつらは片付きましたが、この後々のこと は、如何ですか」 旋回して直ちに外洋に出る。すぐにかかれえ」 「オランダとの交渉かい。心配はいらない。オランダのゼ 姓そこへ許千里がとばとばとやって来て、 ーランジャ城の城主はね、憑青燐や李玉爛が大切なのでは 国「味方の船が帰ってきました大将軍」 ない、オランダの金儲けが大切なのさ。青燐の代りにお前 と、影のごとく佇んだ。 でもいいのさ華国のことを少々知っている華人ならば、た 「どこに」

4. 長谷川伸全集〈第6巻〉

ことを知らないのだが」 「陳・副将軍はいくらかよいかも知れぬ」 「どうだかなあ」 歌「では話そう。はじめ鄭一官は戦いを佯って、わざと勝た ずこ いたそうだ。そうと気がっかず遁ぐるを追って海へ追 二人とも暗鬱に陥っていたが、洪応斗が苦笑いをして、 いこみ、許心素と陳文廉が、舟を駆って夜討ちに出掛けた 「張総把、今度こそ、生きては還れんと思う」 ら敵はどこへ隠れたか居なかったそうだ。気がついてみる「遺憾ながら暗将に誤られるだろう」 と陸に戦いが起っている。そのはずだよ。鄭一官はとッく 「お互いに、戦死だね」 「そうだ、戦死だ」 に上陸して、兵をわかちて山を越えさせ、洪先春将軍に加 勢の郷兵であるといって入りこみ背後から討たせ、自分は 今度の討伐軍の出発は、前の洪先春の隊の出発と違い 正面から討ってかかった。腹背から一度に攻められた上いとも派手だった。耳を聾にさせる気の楽隊が幾組も列中 に、海へ追撃の兵を出した後だから、手薄でもあれば汕断にいて、暑い日をさらに暑がらせて出発した。 もある、さんざんに討ち破られた。これが陸の敗戦だ。海それを見送った朱一憑は、暫くぶりに豪傑笑いを口から はというと、陸の敗戦が様子であらまし判ったので、士気絶たず、美しい女を漁ることも、前々のごとくはじめた。 が挫けたところへ、火の玉のような顔の奴が大将で、二百 ちょうかん 四 隻と思える水軍を率いて、一挙に肉薄してきて、長桿をふ るって将兵の嫌いなく滅多やたらにつき落した、溺るるも銅陵のタ迫る湾が眼の下にみえる宏壮な屋敷を徴発し、 の数を知らず。これが海の敗戦だ」 最上の部屋を占めている大将軍の兪啓皐は、今し方この屋 「すると、かねがね噂に聞いたとおり、鄭一官の戦法は、敷の主人を鉄鞭で三ツなぐって逐いやったばかりだった。 倭寇の流儀なのだな、ふうむ、そうか、敵にとってじつに 「大将軍、ここの老人を処罰なすったそうですが、そうい こ自身でなさらぬ方がよろしいでしよう」 怖るべき奴だ、その男を怖れるのではない、その巧を怖れうことは、。 しゅうし上うしんばん るのだ」 朱一憑の謀臣で、討伐軍について来ている周昌晋と潘 ・一う 「俺もそう思っている。鄭一官とくらべて、わが兪大将軍皇とが、厭な顔をしてはいって来た。 はどうだ、、い細いなあ」 「いよ、先生方、ご入来か。さあ、どうぞ、そこらへお掛 「お話にならん、用兵の初歩しか知らぬ大将軍だ、敵より もこの方が怖ろし、 周と潘とは顔を見合せた。 し顔がひどく痩せている潘 いつわ

5. 長谷川伸全集〈第6巻〉

と、副将の威光を六割ぐらい示して命じた。とその敗走 者の一人が、 「大将軍を起せ、こら、大将軍を起せ」 こっちが水を探してくれとよッば 「何をぬかすンじゃい、 と、叱ったすぐ次に狼狽して、 どいいてえやい」 「ああ。起してはいかん、何のこれしき」 と、外へ飛んで出た。この不出来を何とか取り返した上黄色い歯をみせて罵って行ってしまった。 でないと大将軍の前に起ちたくなかった。大将軍を怖れる街の通りへ出たが人の姿がやはりない。さまざまの物が つまず さえ のではなく、失敗の黒星は出世を遮る、それが身の毛のよ落ちていて蹶いて転びそうだ。とうとう副将は落ちていた 自分の旗に足をとられて四ン這いになった。 だつほど怖かった。 陳副将は外で又第二回目に大きくはツとした。銅陵の尻どこかから煙がひどく来る、いぶり臭い おか 悪い名物の戦さ泥棒が、早くも盗みをはじめていた。そ にあたる山地で合戦が起っている、銅陵の陵にも焼討ちが れでは、味方は敗れて逃亡ずみなのかと陳希范に漸くのこ はじまっている、その他にまだ敵の夜襲が諸所に起ってい るらしかった。 とで合点がいった。 鄭一官の隊は海戦で敵の眼を眩しておいて、主力を挙つ人が商家の外壁に倚りかかっていたので、近づいて声を て陸を攻撃しているらしい 攻撃は隊で、防禦は軍である、隊と軍とで、隊が各所と「俺は陳将軍だ、俺の供をしろ」 相手は黙っている。 も桁違いに優勢だ。 「こら返辞せんか」 揺ぶるとその男は、ばッたり倒れた。死んでいた。 街へ駈けくだった陳副将は、肥大過ぎる躯が汗でびしょ兪啓皐大将軍のことをちょいと考えたが、すぐ忘れた。 はす 自分のことが第一であると古い習慣で育った者の常であ 益濡れになった。呼吸が弾んでやりきれない、水が飲みたい る。後世の個人主義とおなじ脈の育ちだ。 姓が人の姿が往来にない。 国敗走してゆく部下の一群に出会った、海の火が顔を知ら漸くこの市街戦の跡には、泥棒の他は生きた人間がいな いと覚った副将は、必死に馬を捜した。出陣のとき連れて 四ない顔をはツきり判らせた。 きた妓女が幾人かあるが、それは他人だから、考えなどし 「おい、水を探して持ってこい」

6. 長谷川伸全集〈第6巻〉

う劉香の剛胆に、顔見合せた。 「大将軍は無燈を命じたのに梅小花が、それを忘れて燈火 さっき、今夜の当番の美少年を殺して、珠江に棄てさせをつけて、ここに来たのが怒りに触れたのです。わしはこ ふしど たので、花のごとき臥床にはいるまで、劉香は珍しく独りのことを、死体を江に棄てろといいっかった陳二から聞い たばかりです」 臥床のなかの劉香の顔は、女と見紛うばかりに、蘭燈が 「それでは本当だ」 ほのかに白く浮き出させているが、浅い睡りだにとれなか と、いい終らぬうちに許千里の小さい軆が、甲板に尻餅 った。寝返り又寝返りした。今までにこんなに焦躁が出たをついた。 戦いの前というものは一度もない。 「危い。どうしました爛々先生」 謀士の許千里が小柄な驅を、ちょこちょこと暗い甲板に 「何でもないよ中雲大人」 現わし、星を仰いで佇んだが、 「爛々先生、不吉を感じたのでしよう」 「そこにおるのは、ああ、玩中雲大人だね」 「ど、フして、挈フい , フことをい、つ」 片眼の謀士は星を仰がずに、河南の空を見つめていた。 「あまり先生の驚愕が甚だしいのでもしやと思ったのです 火の手がそろそろあがる時刻なのである。 力」 「これは爛々先生でしたか。どうかなさいましたか」 「烱眼だ、まことにそのとおり。意外に、大将軍の心のう 「どうもしない。戦の前だけに睡る隙はあっても夢が結べちに破綻ができておる」 ない。だれだとてそうだけれど」 「わしもそうではないかと思い、先程から河南に、火の手 「大将軍を除けば、そのとおりです」 があがるかと見ているのです」 「そう。大将軍を除けばね」 「星も不吉を、じつは語っておる」 まみ 「爛々先生、ご存じですか。先程大将軍が梅小花を扼殺し 「一敗、地に塗るか、今度は」 爺ました」 「いや、中雲大人喜び給え、お互いに助かった、という証 姓「そんなことはない」 拠はあの声だ。大将軍が唱をやっておられる」 国「そこに梅小花の沓が片方のこっています」 戦いを控えて笛の調べに心を澄ますとおなじ意味にとれ ばとれる、劉香の唱は「漢秋宮」の一齣、それは王昭君 拾 0 て差出したのは、美少年の遺物、刺繍のある小さい 沓オ が、黒竜江に死んだとする悲劇である。

7. 長谷川伸全集〈第6巻〉

が、年長のゆえで、 りたいのです」 「わたくしから、それでは申上げます。大将軍の兵がこれ大将軍はいよいよけろりとして、 へ到着して三日になります、僅々、この三日間に、この辺「細かいことをいうなよ両公。逆徒鄭一官を討滅するのが だけでも縊れて死んだ女と、水に投じて死んだ女が、すく目的なんだ、そのためには多少のことはかまわんのさ」 なからぬ数にのばっています」 周が驅をゆすぶっていった。 洪先春が敗れて逃げ去ったあとへ、帰ってきた難民が 「大将軍は八道の地で倭軍がどんなに我が明軍よりも号令 しんじゅっ 鄭一官から賑恤をうけて稼業にそれぞれ就いて幾何もたた が正しく行われたかご存じでしよう」 ぬうち兪大将軍が、無数の鬼畜を率いてきてオッ放した。 「外国のことは俺は知らんさ」 しゅう′一う しな この世の終りが即座に各所で演ぜられ、死よりも悪いこと「倭軍は秋毫も犯しませんでした、わが中華の軍は戦いご から免るる女の自殺が頗る多数だ。周も潘も、眼を掩うてとに古今を通じてこの態です、彼我の差は、美と醜とがあ ばかりはいられないと、義憤を感じて袂をつらね、ここへまりあり過ぎます」 今やって来たのである。 「こら周君、それ以上いうと承知せん。俺はいったではな 兪啓皐は野放図な顔つきをして、 いか、外国のことは要らんのだと」 「それが、どうかしたかね。両公」 潘が青ざめた顔をして、 けろりとして二人の顔を眺めた。周が顔を険しくして、 「大将軍、ここの者が申しております。一官の兵の善なる 「大将軍はこの酸鼻と悪虐をご存じでいながら、茶をすすこと仏のごとく、官兵の兇悪なること鬼のごとし、鬼、仏 るがごとく箸をとるがごとく、おいでなさるのですか」 を討たんとす、天を地にかえんとするものなりと」 「小さなことを言うなよ周君。潘君もそうだ、そのくらい 大将軍は不死身のごとく、けろりとして、 きゅうらい のことで、魂霊飛んで九雷の外にありではいかんぜ、そん「馬鹿なことをいう奴がいる土地だね」 爺な気の弱いことでは天下に大名を馳せること思いも寄らん そこへ副将軍の陳希范が剣の血を拭いてはいってきた。 姓ね」 「大将軍、ここの老人は悪口をもういいませんそ」 国潘が顔色を変えて、 五 「わたくしは暴虐をあり来りだとして平然としている人た うんとう るより、暴虐を怖れ悲しみて立ちどころに暈倒する人であ 周昌晋と潘皐がはツと腰をあげ、

8. 長谷川伸全集〈第6巻〉

じよかこう い匂いがした。 「しかし、大将軍、先鋒船隊には徐火光のような猛将もい そうちゅう ばんふっせん 劉香がびたりと立停まった。 ますぞ、万沸泉のような智略の将もいます、曹中のような さかいほう 「しかし、お聞き、今度の戦いは味方総敗けだね。今夜の 大胆者もいますそ、左海方もいます、呉花平もいますそ、 戦いとはいわない今度の戦いだ。察するにあたしは沓屋あ 名だたる者がその他に幾十人となくいます」 がりの鄭芝竜の罠に、うまうま引ツかかってしまった」 「そうかい、牛天王将軍はそれでは、今夜の河南夜討ちは と、又、笑った。その笑い声はいつもの女めいたものと 成功するというのかい」 「造船焼払いは仕損じたでしよう。大将軍の明察は勿論確は距離がひどくある、豪傑笑いではもとよりない、色でも かでしよう。さればとてすぐさま、今夜の戦が、敗北に終しいうならば青白く燃え立っている焔だ。憑青燐でさえそ の声には襟許に寒さを感じたほどである。 ると速断するのはどうかと思います」 ながしめ じろりと劉香が上目づかいをした。流眄の艶やかさがこ許千里がそのとき、節を抜いた竹筒のごとき声で、 れが男かと思わせることが時にある、今はそうでない。依「大将軍、河南の空に火の手が」 「おッ見える」 怙地な光が火花のごとく散っている。 と、憑青燐が活気づいた。 「そういってみたいのだろう、自分が安心したいのでね 造船焼払いが始まったのだろう、そ 時刻こそ遅れたが、 うでありたいと思う心が、謀士のだれにもある、大軍師に 「何を仰有る。私が安心したくていうのではありません、 先鋒船隊の勇将の面目のためにいったのです。徐火光の勇もあった。 はご存じのとおりです。曹中の戦上手もご存じでしよう。 万沸泉にいたせ左海方にしろ」 「沢山だ。人名録の読みあげを聞いたとて仕方があるもの河南の火の手を見つめている劉香が、愁眉をひらいたの みけん 爺か、自ら慰めたのでなければそれで結構。こういうとき一はほんのわずかの間で、眉間に立皺が二本にゆッと立っ た、みるみるその立皺が深くなって、 姓番いけないのは気休めだ、あたしは気休めをいったことが 「大軍師」 国従来ない。今もそう。これから先もそう」 と、叫んだ。憑青燐も火の手を見つめていた。顔が板に きらきら光る眼を並みいる者の顔に向け、劉香は往きっ 来っ足音を立てた。動くにつれて袂から裾から芬と香る高変ったごとく、たった今なったばかりである。

9. 長谷川伸全集〈第6巻〉

「事むずかしくお尋ねになるのでしたら、劉香大将軍に、 た方がよくご存じだ。どうです、恵州の府城からは賄を じかにお尋ねなさるといい」 贈ってきて私の方だけはどうそ攻めないでくださいと哀願 「それでは、いつお目にかからせていただけますか」 してきているのだからね。府城にしてそれだ、その他幾つ 「さあ、それは、百年の後でしよう」 かの県城のごときいずれも賄を贈ってわが攻撃を免れんと 「と、仰有るのは、お目にかからせぬということですか。泣訴し、哀憐を給えといってきている、それどころか、広 わたくしども両名は、熊文燦将軍の密使ですぞ」 東省城でも指を啣えているよ、はツはツよ 「はツはツは、鄭芝童と劉香大将軍とを同日に論ずるので 五 すか、それだからあなた方は放っておかれているのです よ。熊文燦という男は先ごろ鄭芝童を帰順させたので大得洪雲蒸が眼をひらいた。顔の色は死んだごとくだが眼に 意だ。閑飯養人の夢ですよ、そんなことはーーー芝童は帰順燃え立っ光がある。 を望んでいたから、前軍都督なぞという空名同様のものを「わたくしどもの従者は、ゆえなく、殺されたのですか」 拝して、得意でいますな、そのはずですよ、彼には実力が 「劉香大将軍がそれはご存じだね」 ない、帰順こそ身を安全に保つ、たツた一ツの途ですから康承祖が鋭く口をはさんだ。 ねえ。劉香はそれに反して非常に実力があります。一例を 「いや、あなたならご存じです、あなたは劉香大船主の謀 ちゅううん 申すならこの海豊です。ここはご存じでしよう、県の城士で、性は玩、名は良、宇は黄、号は中雲、そうでしょ で、何の某という明の劣将がいたところです、その劣将どう」 とんざん もはどうしましたかお聞きですか、遁しましたよ。金櫃名札が一枚、康の足許に落ちていた。それだからこそ云 ったのである。 を担いで、背中に足の裏を届かせてすたこら逃げたよ」 洪も康も眼を閉じた。何をいっても役に立たないのが判 「はツはツは、わしぐらいの人物になると、だれでも勘づ くとみえるね。いかにも、南海の人玩中雲だよ。わしは冗 儒生は片眼をいよいよ光らせて、 慢と青竹蛇は嫌いだから話は疾風のごとく、行うは迅雷の ごとしだよ。わしの唇から外へ出たことは落花におなじ、 「ご存じのとおり、ここは広東省城の指揮の下にある海豊 県の城ですよ。海豊県の上には恵州府の城があってそこか再び枝に戻らぬからその気で聞くがいい 。お前達の従者四 らじかに指揮命令がここの城へくる、ということは、あな名はここの配置を知ろうとして觀き歩いた。すなわち熊文 いそうろう きんき まいない

10. 長谷川伸全集〈第6巻〉

ね。われのみがもっオランダ大砲が聞える時を過ぎて聞え のだ。謀士ども、答えろ、答えないか」 ないのは射たないからだ、射たないのではない射てないの だ、それはなぜか、敗けたからではないか。劉香は命ず 驅をびりびりさせた憑青燐が、劉香の前に現れて、長いる、船を旋して、一先ず外洋に去り、徐ろに後図をはか れ。この外に何の策があるか。船を旋すのだ大軍師」 顔を烈しく振った。 がみがみと叱咤するその声は中性だ、気餽のみは逞しい 「この船隊は、今、ぐンぐンと進んでいます。行く先は白 男のだれにも劣らない。 鷺潭の方面です」 「何だって」 青燐は石のごとく突ッ立っている。 と、劉香が赤い唇を歪める前で、火のごとき眼を向けて「只今、申上げたとおり、この船隊は、広東の北から白鷺 おこな うずま いる青燐の顔に、命令を拒んで独断を行った激しさが渦巻潭までの間で決戦します」 ずさん 「だれがそんなことを許した、杜撰なことはさせない」 いている。 いや。大将軍こそお考え違いです。敵はわが 「大将軍のそのいでたちはご決心の華々しさを語るもので「いいや、 しよう、私はそのご決心を体し、先鋒船隊を死地から救う先鋒船隊を大いに撃破したでしよう、そうして彼奴らは、 ためにこの船隊をぐンと進めさせます。一ツには劉香大船驕慢しているに違いない。死地にはいって生をとる狙いは 隊の威武を永く天下に示すためです。私は決戦の所存を固そこです」 劉香は白い前歯で赤い唇を咬んでいる。青燐の脇で冷た めたのです」 つんば く嘲っているらしい李玉爛の顔をみると、 「耳をもたないのかい大軍師、聾にいっからおなりだ」 「大将軍、あなたはおそらくは明朝までに、昇る日となる「嘲っているね」 抜く手もみせず、刺し殺し、血ぶるいして青燐を屹とみ か、沈む日となるか、どちらかに確定するでしよう」 爺「迂濶だ、耳をどうしたかとあたしは聞いている。憑大軍た。 姓師、お前さん、いっオランダ大砲の音をお聞きだ、あたし「牛天王め、叛骨をむき出しに見せている。大軍師。あた 国同様に一発の音も今夜は聞いていないだろう。広東勢に一しは粗忽に牛天を成敗したのだろうかねえ」 門のオランダ大砲もないことは知 0 ているね。鄭芝竜の兵お前だとて刺すことを躊躇しないぞという、劉香の眼っ が一門のオランダ大砲も有っていないことも知っているきを迎えて青燐が、 きっ