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検索対象: 長谷川伸全集〈第6巻〉
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1. 長谷川伸全集〈第6巻〉

「洪大官もおいででしたか、じつは、只今、劉香の手下が は、康承祖と洪雲蒸とだけが、船に残った。 「陸の旅で道連れと袂をわかつは哀愁がほのかに伴いま戎克で乗りつけて来まして」 二人とも声を挙げて驚いた。船長が、 す、海の旅はそれより哀愁がずっと強い。そうお思いにな 「ですが、ご安心ください、彼奴らも熊文燦将軍のお旗に りませんか」 と、洪が下船する者のうしろ姿を眺めていった。康は薄気がついておりますから乱暴はいたしません、だからと申 して油断は禁物で」 く笑って、 「わたくしは老人ですから洪さんほど感情にうたれませ「で、その者達は、何だというのか」 と、康が落着きを取戻して尋ねた。洪は頬の肉までが戦 ん。それよりは今夜はよく眠りましよう。あすは海豊です から。どういうことになりますかしらーーだれにしろ耳をくのに気がっき、掌を自分であてて、溜息をそッと吐し 引ッばれば頬が動く、劉香だけは耳をひッばっても頬が動ている。船長が 「彼奴らは申します、御案内に来たと」 かない、そういう男が相手です」 せんけん 「わたし達の姓名を知って」 「熊文燦将軍が仰有いましたねえ、劉香という奴は嬋娟た 「左様です」 る奸雄だと。悪い相手です」 「どうして、それを知っているのだろう」 「そうでしたね。嬋娟たる奸雄といった後で、将軍噴笑し 「それを尋ねました、すると、小頭梁が笑って申しまし ていられた。嬋娟たる奸雄が相手ですから、わたくしども た、それは判るともさと。多分、陸豊で下船した五人の商 の任は重い」 人、あのなかに同類がいたのでしよう、ことによると五人 「重いだけでなく、危険です」 その晩の夜半に洪雲蒸は、ひとり、旅館の屋根に出て空とも同類だったかも知れません」 そのとき、劉香の手下が五、六人、足音高くはいって米 を仰いだ。街々はぐっすり眠りこんでいて物音一ツなかっ 釜た。 て、康と洪と二人の様子をつくづく見届ける間は無遠慮 姓洪は不吉な星を見たのだろう、真青な顔をして部屋へかで、そのあとはにわかに慇懃に変った。 「入らッしゃい、お待ちしていました」 国えった。臥床にはいってからも睡れずにいた。 と、前に進んだのは小頭梁で、のツベりした顔の骨細な 朝早く沖へ向った例の船が、碣石湾を出たかと思うこ 若い男である。 ろ、康承祖の部屋へ船長が、慌てて飛びこんで来 ( 、 ふきだ てのひら ほねぼそ おのの

2. 長谷川伸全集〈第6巻〉

奪られるものは自分の命だのにねえ」 剣を抜いて三たび額にあて、三返しいって、 と、劉香はだれにともなくいった。はたしてこの船に火 「劉香の旌旗を掲げる。堂々と、われ闘わん」 きんしゅうぐんだ 提灯を結びつけた金繍群蛇の旗が、帆柱の頂きに飜えるを放たない芝虎だった。が なわ と、士気がやや盛返した。 戎克から縦に飛ぶ索に、稜楯に護身させた人の鈴なり よろい ひとつぶて が、金山号の上で人礫となって降りるその先頭は黒革甲の 劉香は命じて鼓をうたせた。闘わんというのである。芝 芝虎、楯を棄てると日本刀を抜き放ち、草を薙ぐごとく敵 虎の船から太鼓で応じてきた。 両船、間近くなり、劉香に戎克の舟首の金色の眼玉がみを斬り伏せつつ、 えた。 「オランダの走狗、売国の賊、劉香、闘え。われは鄭芝虎 「おい、福州の帰順使お前は、芝虎が外洋の波濤に斬ってぞ」 落されるのを見るのだよ、それからお前の斬られる番がく 金成号もそのとき火に包まれた、その火の余映の下で、 る。判ったね」 金山号に人礫があとからあとから降りつづいている。 かんだか 疳高く笑う劉香の声が芝虎の舟に聞えただろう。 船長石壁延の指揮で攻撃が始まった、が、気圧されてい まおづえ て、手下どもは、平生の十から六を喪って戦いに就いてい 楼台の手摺に杖ついている劉香は、二番帆の柱の下 る。 で、日本刀に血ぶるいをくれている芝虎に声をかけた。 ごろっき おばっか 「おい、泉州の市虎や」 覚束なき攻撃が覚東なき防禦に変った時、中雲が片眼を ひきっ 返り血でところどころが緋牡丹のごとくなっている芝虎 痙攣らせ、 「あツ、火だ。火だ」 は、声を耳にしただけで振返らずにいた。芝虎はこの船の 金発号が火を噴いていた。芝虎の部将が〃宙乗りの放船長石壁延が火の中を駈けぬけた猪のごとく、左右の手に 爺火みをやったのである。それを見ても動じない劉香は、そ剣をひっさげ敵味方の闘いの間を切抜けつつ、驀然に近づ いてくるそれを、待ち受けていてやっている。 姓の甲冑が、氷のごとく月に照っていると同様、凍てたごと 劉香は眼の下のそれらを知っていた。白い咽喉をのばし 国き顔をして、 「あいつらはこの船に火攻の計は施さない、この船が華国て、ほッほッと哄笑いして又も呼びかけた。 「泉州の市虎、劉香がここにいるよ、お前、知っているの 第一と知っているからさ。阿呆めが船を欲しがってきて、 たかわら かくたて まっしぐら

3. 長谷川伸全集〈第6巻〉

「玩。お前にいっているのではない」 玩中雲が前屈みになって曹中に、 4 「そうです。大将軍がお聞きになっているのです」 「曹中。味方のなかでひときわ目に立つ日本衣裳四十九人 青燐が渋い口許をして後をいわずにいる。曹中が火ぶくの働きはどうだな」 れの皮がむくれた顔をあげて、 「日本だと、いたよ日本人が敵のなかにいやがったよ、幾 「呉花平の奴があんなに弱いと俺は知らなかった。左海方人だか知らねえが、そいつらが日本刀をふって、こっちの だってそうだ。おい俺の話を聞いているか、聞いているの日本衣裳いろは四十九人を薪を割るようにやった。一人の だろうな。呉花平の奴は、河南へ遮二無二あがってしまえ日本人の奴が俺の蛋民船へきやがって、うまい広東語でぬ というのだ、俺がまだ早かねえかといわせたのに奴さん肯かしやがった。命あって帰れたらだれにでもいえ、お前ら かねえ。それあがれと芳村の先の草の生えている洲へあがの拵えた日本人は、日本人に似ねえで日本の猿によッばど ると、草の中から敵の伏兵が出てきやがって、味方の斬ら似ているそと、畜生め、笑やがった時、俺の船から火が出 れること、まるで草を刈りとるごとくさ。呉花平の奴、眼た。奴ら、火放けがうめえや」 の珠を鏡のごとく光らせて、敵の大将目ざして向っていっ 劉香はひそかに剣の櫤に白い拳をかけている。玩中雲は しぐさ たと思ったら、首をずばりと敵の大将に刎ねられやがっ驅をそらし、歎息の科をしながら、短剣を抜いて袖の下に こ。呉花平の首はね、江の中へ飛んで落ちゃがった。左海隠している。青燐はそのとき天にむかって無言で詠歎し、 方の奴はもっとひでえ、肩から右手を切り放され、江の中白道は茫としていた。 へ芥みてえに棄てられちややがった。俺は造船場まで闘い 歌うたいの女のような声で劉香が、 ながら進んだが、十足歩くと伏兵が出やがる、二十足ゆく「憑青燐さん、これでもやつばり白鷺潭へ出て行くの、決 と又伏兵だ。俺の手勢はみんなやられて俺を入れて五人に戦しに」 たんみんせん なったんで、仕方がねえから、蛋民船めがけて引返し、や「無論、決戦」 と、 ッと船へ泳ぎつくと、目の前のところで、味方の奴等が、 しいも終らぬうち、どンと劉香が身を青燐に叩きっ 百匹の猫に追いかけられた十匹の鼠みてえに、たわいなく やられてやがる」 囈語のごとく喋る曹中の脇で、憑青燐は天を仰いで息を 内へ引いている。 憑青燐の姿勢がくずれて、足音を三ッ四ツ、踏み違え

4. 長谷川伸全集〈第6巻〉

194 もんどり 「本当に、うぬ、許さぬぞ」 避けただけで芝竜は、再びひッ捉えて筋斗うたせた。 息を太くはいて揚八が 「ああ許すな、いい とも、許すな。俺も手前をどうしたっ 思わず知らず揚八は、ひッ繰り返って鼻の上に月を見か て許すもんか、今夜又負けても、決して手前を許さねえか けた時、唸っこ。 オ今度は悪態を吐く勇気がない。 らそ、つ思え」 「こら、負けたとい、つことがよく半ったか」 再び揚八が華国にある拳法で攻撃してかかった。正則な芝童が月の下で覗いて引き起してくれる、その手の放れ 修行の技でなく自己流だが打物とってより此の方が実際はるのを待ちかねて、びしりッと頬を叩いて逃げんとする、 得手だ。しかし、当人は打物とっての戦いの方が遙かに優その左手を搬まれ、紐付きの亀の子のように引き戻され れていると思いこんでいる。 突き出す拳と蹴る足の雨あられを、躱しているうちに、 「何をしやがる、俺を殺すのか、俺は大船主のお気に入り あご 浅いながら一本、拳が芝竜の腮をかすめた。 の勇士だ、手前は新参のくせに古参の俺を殺すのか」 それまでは芝竜に抑制があったが、そのとたんから憤激「殺しはしないが、殺すも同様にしてやる」 で、心も体も火のようになった。 「半殺しか、面白え、やってみろ」 忽ちのうちに揚八が体の一部をひッ掴まれ、薪を投げた 「やらずにおくか」 ように抛られた。 鍋を伏せたかのごとく足許に叩き伏せた。 「さあ殺せ、殺すなら殺してみろ」 「もうそれッきりか、一官」 みよし 破れ鯨の船首の前で仰向けの揚八が痙攣を起したような と、刎ね起きるを捉えて、板を倒すごとく倒した。 さら 顔を月に晒して喚いた。 「くそ、負けた方が強えか、勝った方が強えか、根限りの 芝童はその近くで息を安めながら眺めている。 勝負だ。さあ、やれ」 めすみみ フン反り返っていた揚八が、盗視をしていたが、河原の起きあがるをひと息させず打ち倒した。むッくり起きあ 石を両手で掬い、花火のごとく刎ねあげて、其の機に乗じ がると取って投げた。投げられてもむッくり起きあがる、 飛ひ起きたが、石は逆戻りして揚八の頭から雨と降りそそそれを又独楽のごとく鞠のごとく、投げた。終いにはくた っちしぶき いとくす うつ いだ。芝童は土飛沫をすこし被っただけである。 くたになりつつ、まだ這い起きる揚八を、糸屑のごとく打 ちゃ 猛然と攻撃してくる揚八のテは単純だった。二、三度、棄り紙屑のごとく蹴飛ばした。

5. 長谷川伸全集〈第6巻〉

「火を消せとよ。李四、火を消せ」 照らさぬところにいるかも知れぬとは考えない。沖ロ それが聞えたと見えて李四哥が、 かなところでは火焔船が漂流している。 「何をいやがるのだ。夜、敵を討つは、夜、魚をとるとお「何だ、海には何もおらねえだぞ」 なじだ。知らねえだな。馬鹿な奴等どもだ」 と、李四哥がポャいた。火焔船が鄭芝竜の船と僚船とを 出鼻をさして進む李四哥の戎克は篝火をどしどし焚いて金色に照らしたのは先程まで、今は茫大な海洋の一部分だ けしか照らしていない。 いる、夜空にうつるあかりで、李四哥の登場を、敵にわか らせようという、撈るべき魚をあつめる気の火だったので李四哥の戎克は、 ある。 「もッと沖へ出てみろ」 この無鉄砲の豪傑の舟で、 と、いわれるままに沖へ出た。 「李四の塞長」 「おらねえだぞ、やいやい、もッと沖へ出ろ」 と、水卒の一人が呼んだ。 又しても沖へ沖へと出たので、うしろに続く、大爺、上 「何だ」 一鬼、縁木魚、人臉樹の戎克に、何事が起ったか、この舟 「あとから続いてきますぜ、一番手は大爺塞長らしい、そのものは気がっかない。 の次は判らねえ、三番目は縁木魚の塞長ですぜ」 「やい野郎ども、俺の尻についてきた奴等は、俺と違って 勇気がねえだ、だから戎克の火を消してやがるだ。敵に向 「奴等。俺の真似してやがる」 「李四の塞長。だんだん判った。一が大爺の塞長。二が上って出やがって敵に隠れるとは、何のことだ、大笑いでね 一んか」 一鬼の塞長、三が縁木魚の塞長。四が人瞼樹の塞長」 と、李四哥が罵倒する戎克は、火をまるまる滅している 「手前ばかり判ったのでねえ、俺の方がもッとよく判って いるだ」 のではない。 釜李四哥の戎克は出鼻の外へ進んだ。そこには芝虎の舟が 「李四の塞長。あの小さな火が味方らしいですぜ」 姓暗いなかにじっと待ち設けている。 「知っているだ、そんなことを手前にいわれねえでも。あ 国 れえ、一ッ消えたぞ、なあ消えただろう。うむ、確かに消 十二 えた」 李四哥の戎克は出鼻の外へずンずン出た。敵がいない。 消えたはずだ、五番船が芝虎に襲われたのだ。

6. 長谷川伸全集〈第6巻〉

倉崎清吾は呼吸をすこし荒くして、 られぬ。ご愛馬拝借」 と、文四郎の妻がまだ返辞をしないうちに、清吾は厩へ 「馬鹿、居るかツ」 と、大きな声で訪れた。〃馬鹿〃というのは佐藤文四郎飛んで行き、曳き出した駄馬に、ばろばろの鞍を置き、足 の愛称である、とんでもない愛称ではあるが、〃馬鹿、ど許に落ちていた廃物の編笠をひろいとり、ばたばたと膝で うした〃といえば、文四郎はにやりと笑って、快く返辞すはたき、 るのである。 「ご免」 馬に跨がり乗り出した。 文四郎の妻が又、倉崎清吾の用うる、夫の愛称に慣れて いるので、厭な顔などしない。 文四郎の妻は驚きもせず惧れもせず、微笑して清吾を見 ひょり 「倉崎様でござりますか。今日はよきお日和にてお芽出た送った。清吾は文四郎だけでなく、その妻にも信頼されて く存じます」 と、ひどく粗末な着物帯だが、すること云うことは、き倉崎清吾は駄馬に跨がり、城下街を出て、赤湯にむかっ ちンとしている。 た。赤湯は米沢城の北四里にある温泉で、このころは〃鍋″ さすがに清吾もこの女性に、面とむかっては、愛称を遠又は〃おなべ〃或いは〃赤湯鍋〃と俗にいわれる湯女がい 慮して、 「文四郎はおりますか」 赤湯街道中田村の不動尊の門前に、粗末ながら垢を洗っ 「今朝、未明、握り飯を背負い、何れへか出て参りました衣服で、古袴を穿いた若い武士が、ちと長過ぎると思わ れる刀を横たえ、石に腰かけ、ばかンとしている。ばかン 「昼飯だけ持ってですか」 としているとは、外からの見掛けで、決してばかンとして 「いえ、二日分ほど背負って参りました」 いるのではない、今そこへ来かかっている馬と人とが、我 が愛育の馬と親友倉崎清吾であることを、一目して知っ 己「二日分 ? で、腰の物は」 ひでちか た。これが佐藤文四郎秀周である。 太「秘蔵を帯して参りました」 ふんどし 杉 「馬鹿、そこに、こ、 と、馬上の倉崎清吾が嬉しそうに叫んだ。 「新しきを致し参りました」 わか 「うあツ。馬鹿め、行きおった行きおった。こうしてはお「おぬしは馬が判らぬのに俺の馬に乗ってきたのか」 っ ) 0 おそ

7. 長谷川伸全集〈第6巻〉

「私はわざと生捕られたんでさ、その野郎は違いまさあ。 私はあんた方を官兵と間違えたんでさあ。その野郎はこの 「馬鹿だなお前は。俺がだれだか知らないのか」 眼でみていたから知っている、生捕られたら殺されると思 「みんなが、尾君子といっている、ここの親分かしらと思 って、さんざん暴れやがった。私は一つも殴られないうちうんだが」 ろう に縛って貰ったんでさあ」 「俺は鄭飛黄だ、老一官だよ」 「では、そいつはお前にとっては女房子と、船の敵だ」 老一官の名が相当拡まっているのを芝童は知っている。 「だから、今までに、三十たびも殴ってやったんでさあ、上海の船頭は相手にせず、 プチ殺してはあんた方を怒らすから、殴るだけにしたので「ここは南渓だそうだ、老一官という人はもッと南の笨港 さあ」 にいるんでさあ」 「どうしてそれを知っているのだ、お前は」 「その話が真実なら可哀そうな男だ。お前、行く先がある 力」 十四 「ある。上海は古巣だ、あすこには知っている者がいるは ずだからねえ」 「私は聞いたんでさあ、或るお方が、私に聞かせる気でい 「では、上海へ行け、ここから便船はないが、気永に待つったのではねえけどさ」 ていたら帰れるかも知れない」 芝童は見失った道が見付かったように摺り寄って、 「一んツ」 「それは何という男だ」 「知らねえんでさあ」 「何だそんな顔して」 びつくり 「喫驚したんでさあ、海賊ぐらい無慈悲なものはねえと知「笨港に老一官がいるとは、それではどうして知ってい っていたから、あんまり喫驚して腿の中が、かちかち、今る」 爺でもいっていまさあ、息の根がびくンとしてとまりかけた 「そのお方がいったから知っているのでさあ」 「だからその男は何という姓で何という名だ」 姓んでさ」 「知らねえんでさあ」 国「馬鹿め、俺は海賊ではない」 と、上海の船頭が切なそうにいらのを、芝童はじりじり 「だって、牢にへえっている生捕りのものが、二十三人も いるその一人残らずが、ここを海賊の巣だといっているもして、 さる

8. 長谷川伸全集〈第6巻〉

しないかと危み、 五 「鄭氏でございます」 きをもむ 「なにーーー鄭氏だって」 「千方万計なよ。ふふふ」 劉香の眼が獲物を見つけた豹のごとくなり、頬に血がさ と、劉香が手の甲を口にあてた。 ッとさした。 「ご存じかどうか知りませんが、あの人は幼名を一官とい ったそうです。年が私より上ですからそれは聞いた話で 芝虎はぎくりとなったが、落着いて、嘘をいった。 す。あの人は十六か十七の時、海外に去って故郷に帰りま 「排行は第五でございます」 「五男か。して、名は」 せん。私はあの人の字を日甲といい号を飛黄というぐらい 「宇欽といいます、字は三伯、号は立三」 のことは聞いて知っておりますが、どんな人か一向に」 嘘は嘘だが、まるまるの嘘ではなく、血の近い親戚のを「お黙り」 そっくり使った。 白い眉間に立皺を二本、薄墨で書いたごとく立てた劉香 劉香の眼に嘲りが出たかと思うと、突然消えて明るい顔が、 「お前はあたしのこの眼が死んだ魚の眼だと思うのか。お 「お前は鄭芝童を知っているかい」 前の顔を剥ぎとって、芝童の面の皮に重ねてみたら寸分ち 「人を見たことはありません、名は聞いております」 がわないところが、四カ所も五カ所も出てくる、と、あた わら しのこの眼がそういって嗤っているのを知らないのか」 「嘘つき」 「鄭氏は石井とその近郷に十六家もありますと今も申上げ 怒号した。芝虎はびくりともしない。 「どうしてですか」 ました。そのなかには鄭飛黄の家と別派のものもありま す。私は別派の家の別れの子でございます」 「おなじ鄭氏ではないか、斬るぞ、この嘘つきめ」 はらうち 釜オランダ出来の指揮刀が、着ている衣のひだのなかか 「お黙り、お前はあたしのこの肚の裡が、猫と鱶から借り 姓ら、びかりと引き出された。 た物で出来ていると思っているのだね。よくお聞き、そう びつくり お前達はね、鄭氏の男六人の兄弟 して喫驚しないがいい。、」 国「石井には鄭氏が十六家もあります」 じじゃく 3 自若として答える芝虎の顔を眺めて暫くすると劉香が笑なのだよ、第一は芝童さ、第二を芝鵬という、一ッ飛んで 第四は支鵠、第五を芝鳳といい、第六を芝豹という。今度

9. 長谷川伸全集〈第6巻〉

「なるほどと仰せあるか田中殿」 じあげませぬが、綱勝の卒しましたるは病気でござらぬ」 「肥後守家老田中三郎兵衛では、なるほどとはなかなか申 「それを云われてはなるまい」 されぬが、一個の田中三郎兵衛としては一応のところ、な 「いやお聞き下さい。主人綱勝は、ある人のために毒害さ れたのでござります。その証拠はご遺骸をご覧くださればるはどと申しましような」 しはん 明白でござる、御身体はもとより、手足へかけて紫斑のあ伊右衛門が一膝乗り出し、 せいし 「まずお聞き下され田中殿。綱勝卒して世子がござらぬ、 らわれましたることが第一、それは病死といえど、さるこ よっ芋 とありと、あるいは説を為すことも出来ましようが、医師肥後守様御申聞けの三郎殿をお世嗣とするは、上杉名跡 ひるがえ がた のものが毒害といいきりおります。これ動かし難きことにを立てまするには此上なき儀にござりますが、飜って考 ござります。しかし、無念なるは毒害が何者の所為か相知うるに、それにては上野介殿の術中にはまりこむと申すも のでござる。江戸家老ども以下はそれにて納得仕るとも、 れませぬ、とは申せ、いかなる人が、お指図なされたか、 あまた 国侍数多は必ずそれにては納得仕りませぬ、おそらくは、 その辺はほば判然いたしおります」 「よろしい。そこまで申さるるなら、田中三郎兵衛、いっ徒党をくんで江戸へのばり、機を見て上野介殿お屋敷へ乱 みしるし 入し御首級をいただくか、又は下城を待って道路において さいを承りおきましょ , フ」 「そう願えればこの上なし。綱勝毒害と知るや、江戸はも刺し殺し、綱勝の怨みをはらすか、この二ッより出でまい とより国表の家来、一同に、容易ならぬ計画を立ててござと存じます。これを防ぐには御家安泰とだけでは覚東なき ことにござります。よって、それがし一己の考えにて、上 席たる千坂兵部を差置き、主人綱勝、昨日卒したりと御公 「それは」 儀へ届書を差し出しましたるところ、先刻、御老中よりの 「毒害指図の人にお恨み申上ぐるということでござる」 みよ 御使者みえられ、届書をわざとお取棄てになされ、お立帰 「首尾よく参りますかな、只今の御代に」 りにござりました。かようの訳合いにござりますれば、巴・ 「さ、それは何とも申されませぬ」 記 後守様に対し奉りては申訳の言葉とてなきことながら、上 平「して、その相手の人とは」 杉家ももはやこれまで、吉良上野介のために断絶と、ご承・ ) 「吉良上野介殿」 知おき願わしくござる」 「なるほどな」 あらた うなず 兵部も田中に向き更め、 と、田中が首肯いた、と、見て兵部が

10. 長谷川伸全集〈第6巻〉

って、あツはツはと空笑いをして、人あしらいの上手な美て、 ひりッと感ずるもの 「ご存じなら承りましよう、木村丈八の発狂の真の原因、 作とは雲泥の差で、指先をふれれば、。 さ、一承りましよ、フ」 のある、至誠、鬼神も動かす美作である。 清吾は親友佐藤文四郎を " 馬鹿と罵るがごとく呼ん 清吾はひどく仏頂面で黙っている。美作が 「不機嫌だのう」 で、じつは敬服している男である。権勢飛ぶ鳥をも落すこ と、 ろの森平右衛門に喧嘩を吹きかけ、喧嘩両成敗を策した男 いって事もなげに笑った。清吾は、 「不機嫌です、不機嫌でいたしかたがないので、ついに参である。感ずれば泣き、怒れば泣き、名誉を好まず栄達を 上いたしました。大夫、いやさ、美作殿」 欲せず、命すら惜しがらざる男である。そういう男が喧嘩 かわ 「ほう、厳しい。何じゃな」 腰でかかって来たので、美作は忽ちひらりと躱した。 「そういうことは追究せぬものだ清吾。それよりは清吾、 「江戸にいる馬丈子の近況をご存じか」 馬丈子は木村丈八の俳名である。丈八は藁科松伯の菁莪御家の御改革もさまざま苦労の甲斐あって、今一息という 館社中のひとりで、平右衛門誅殺のときの美作の同志で、 ところへきた。御領内で出来るは明和のころに比べると ほとんど倍になった。織物の国外売出しはばつばつ目鼻が 莅戸孫惣、今の九郎兵衛を、美作と提携させた人である。 ついてきた。 一にも堅忍、二にも堅忍、そうすれば」 木村丈八といわれて美作は、豊かな頬に暗い陰をささ せ、 「お黙ンなさい大夫。清吾が承ろうとするところを、なに 「執政たるものが、それを知らずにいるか。清吾、妙な尋ゆえお避けになる。清吾はお尋ねいたしております、馬丈 ね方はよせ」 子の発狂は何の故かと」 「いやご存じないはずです」 「それを云うな」 「知っておる」 「それを承りに来たのです」 とかく 記「心が狂うたと知ってはござろう、が、その原因にお、い付「清吾、癈人に対し兎角いうな」 ′ ) うまっ 太きが毫末もありますまい」 「それではお逃げなさるというものです、大夫は清吾の詰 上美作はますます暗い顔をして、 問が怖ろしいのでしよう」 ここだけの話として聞いてお 「知っておる」 「困った男だ。仕方がない、 と、叱りつけた。清吾は叱られて、かえってむッとしけ。木村丈八は安永五年以来、世子の傅の大任に就いて