掘っている、何をするのかと思っていると、袖に包んだ首遇が非常によくなり、やがて間もなく、めいめいに旅費を 級らしいものを埋めた。追分戦争のあったことを既に知っ与え、思うままに立去らせた。ここまでは判っているが ていただけに、これだけのことをみて、嚮導隊が敗れたとその先、この四人がどうなったか判らない。途中、命を失 察した。首級はここに二晩三日とどまっていた人々の中のったのか、遂に下総小金の笹屋竹内家へ、金原忠蔵の最期 だれかのだろう、こう思って黙って見ていた。四人は振返の様子を知らせたものなく、遺物の刀も届かなかった。 りながら坂本さして行った。 熊谷和吉その他と、丸尾清、北村与六郎、松井藤七郎、 彳日譚だが、曾根出羽は、もう大丈夫と思えるときまでその他と、追分、碓氷峠の戦死者が世間から忘れられて七 待ち、そッと掘り出して見たら、それが金原忠蔵の首級だ十四年、賊名の寃雪がれず、今日になっているが、竹内廉 ったので、非常に哀惜し、ひそかに地を相して埋葬した、 之助だけは、千葉県東葛飾郡小金井町の東漸寺境内に、大 きんばらやぶ その場所を〃金原林〃又は〃金原藪〃と今もいっている。 正二年四月三日、記念の碑が建った。篆額は旧友なる渋沢 金原忠蔵の姓をとって曾根出羽が名づけたのだろう。場所栄一子爵、撰文と書はこれも旧友の芳野世経、除幕の日、 は熊野権現の社人所有の茶屋がある、その目の下に藪とも綾小路俊実の子の大原重朝伯爵が参列した。因に、金原忠 林ともっかぬ処で、上州、信州の境目、そこだ。曾根出羽蔵が薩邸浪士の時代に名乗った大原廉之助というのは、綾 は信州の地に坐して上州の地に穴を掘り、首級を埋めた。 小路が特に実家の姓の大原を与えたのだという説がある。 綿貫の手のものが嗅ぎつけても、カの及ばぬ、支配違いのそれは違う、綾小路に遠慮して大原廉之助の方で金原忠蔵 地下に葬ったのだ。 に改めたのである、金原とは故郷の小金ヶ原からとったの である。 ◇ ◇ 彼の四人は八坂長坂を下り、ばらむき平、まごめ坂、座 頭殺し、はんね石、松の木坂と経て、坂本宿へはいると安昭和十八年の六月から約五十年の昔、曾根出羽方に或る 中の山本唯之進が待っていて、不意に組み伏せられ縛りあ日ひとりの紳士が来て、出羽と何やら語っていたが、前に げられ、安中へ引ッ立てられ牢へ入れられた。 いった上信国境にある金原の首塚に詣で、その頃としては 安中藩の取調べを受けたこの四人は、何の包むところも多額の金五円を祭典費に納めて去った、数日後その紳士は なく、有りのままをいった。急に安中藩の態度が変り、待美しき夫人を伴って再び来り、金原の首塚に詣で、東京製
相楽総三とその同志 江戸から来た一人で不破貫一郎 ( 二四歳 ) は信州高遠の出 身、敗戦の十三日、下総の結城で、幕吏と斬合い討死を遂 長谷入道 ( 二三歳 ) といって、野州の上永野出身の人は、 皆川村で捕えられんとして斬死した。小林進之助もおなじ ところで同時に斬死した。敗戦直後の十二月十三日であ る。 ◇ 幕府側について出陣した小中村の郡造の倅を石井郡三郎 という。その親友織田尚種が竹内啓の軍に投じていたが捕 われ、郡三郎が救解に奔走し事なく釈放された。小中村の 青年で生擒され、郡三郎の救出をうけたものがその他にも あった。これは石井関係の文書にも記されている。
下諏訪へはいり、翌七日残りの隊がはいった。そうではな いかと思える節がある。それはとにかく、二月八日、東海 道総督の橋本実梁から相楽に呼出しがあった。相楽はその 東山道諸国 翌九日、金輪五郎をつれて出発し、十九日に大垣の本営へ 宿々村々役人中 出頭した。下諏訪を九日に出て大垣着が十九日というのは ◇ 日取りが妙である。相楽はいきなり京都へ行き、岩倉とか 相楽が旅の途中にある時、東山道総督府の名で、触れ頭 薩藩とかへ、それぞれ釈明などをした。或はしようとし た。それから大垣へ行ったのではないかと思える。相楽がの松代藩をして、更に又、次の如き布告が、諸藩に回章さ れた。 大垣から下諏訪へ帰り着いたのは二十三日、その留守中、 大小幾多の騒動が起った。中で最も大きいのは、北信州の 回章 追分軽井沢へかけての戦争だ。 高松殿京師御脱走ニテ人数召連レ、東国へ御下向之 けっし 趣、右ハ決テ勅命ヲ以テ御差向ニ相成候義ニテハ無レ ◇ 之、全グ無頼ノ奸徒、幼稚之公達ヲ欺キ奪出シ奉リ候 これより先、東山道鎮撫総督は、次の如き布告を江州そ 義ト察シ候、右無頼ノ者共、当総督様ノ先鋒ト偽リ の他、赤報隊の通過した後々に発した。 通行ノ道々、金穀ヲ貪リ、共他如何様ノ狼藉可レ有レ之 など 哉モ難レ計候ニ付、諸藩イヅレモ此旨篤ト相心得右等 近日滋野井殿、綾小路殿家来抔ト唱へ、市在ニ徘徊イ タシ米金押借リ、人馬賃銭不払者モ不少候趣、全グ無 ノ徒ニ欺レ不レ申様可レ仕候、尤右公達ニ於テハ卒忽之 義無レ之様可レ仕候得共、人数ノ義ハ夫々取押へ置キ、 頼賊徒ノ所業ニテ決而許容不相成候、向後右様之者於 志 総督御下向之上、御所置相伺ヒ候様可レ仕旨御沙汰候 有之者捕へ置、早速本陣ヱ可訴出候、若シ手向等致シ そ 事 候モノハ討取候トモ不苦段、被仰出候事。 附、先達テ綾小路殿御手ニ属シ居候人数、綾小路殿 但シ此後岩倉殿家来抔ト偽リ、右等之所業ニ及候 総 楽 既ニ御帰京ニ相成候後モ、右ノ者共無頼ノ徒ヲ相ヒ モノ可有之哉モ難計、聊ノ用捨ナク同様之取計可 相 かたら 語ヒ、官軍ノ名ヲ偽リ、嚮導隊抔ト唱へ、虚喝ヲ以 致旨、御沙汰ニ候事 おびやか テ農商ヲ劫シ、追々東下致候趣ニ相聞工候、右等 戊辰正月 東山道鎮撫総督 執事
た者がある、よはど、墨をすってもってきたとみえて相当のものがすこしは出入りする、それをあてこんで通り道に に雄偉なやつをたつぶりとモノした。墨があまったとみえ繩を引いてつまずかせ、落し穴をこしらえて足を踏みこま しらき て側方の出窓が素木づくりの格子だったそれをべたべたぶせ、どこかの物陰か暗闇の中ではやしたてたり悪態をつい たりする者が続出した。 ギ、まに塗った。 またこういう笑話をつくって流布させもした。 これが評判になって見物に人出があったので、家中のも のが急いで洗い消した、墨はとれたがそのために白ばい線「津軽様にご用召があったので親類の岩城伊予守様がご用 でおなじ物を書いたと同様な結果になり、かえって大川を番さまお役宅へまかり出て、お咎めの申し渡しをうけて急 へ * 、き いで津軽様へ行き、これこれだと申して帰ろうとすると、 船でゆく者が見物に舳をわざわざ向けたり、その辺まで用 足しにきた者が廻り道をして見物してゆく、その果は山の時分どきだからご飯をあがって行ってというと、固く断 手から見物にくる者さえあった。 り、ど , っしても帰るとおっしやるから、ど、フしてですかと ながえ 悪戯がきは隠邸だけでなく本所二つ目の上屋敷の表門に聞きますと、伊予守様がそうおっしやった、榱 ( 長居 ) は もやった。ここは仮門づくりで柱も扉も黒渋塗りだったのおそれあり、とね」 にかわ で、胡粉に膠でも入れたのだろうか片扉には雄偉なやつが 「津軽の家老、殿様の御前へ出で、さてこのたびの儀しも 勢いよく水をじよろんじよろんと吐いているところを書じもにてもいろいろ取沙汰しますれば、ご前にもお覚悟遊 ばされてしかるべしと申しあげれま、、、 き、片扉には女文字で何か書いた、何とあったか家中のも 。しカように覚悟致し のが消したので伝わっていない。水吐きの方もさっそくにてよろしきや、役人共一同評議の上、申し聞くべしと仰せ られける故、役人中評議の後、またまた御前に出で、いろ いろ評議致しましたところお家のためとござりますればぜ 母それですんだかと思いきや上屋敷の門に斜めに貼り札が う・いえ ひぜひ御切腹しかるべしと申しあげれば、しばらく考えら 怪あった、文句は「領分付売家」。 流行性感冒が猖獗した。だれいうとなく「津軽風邪」とれ、切腹いたしたならばまたも輿に乗らずばなるまい」 粗忽をすると「津軽なことをするな」と叱り、他人を悪 大いって試った。 くい、フときは「あいつは・洋軽さ」とい、つ。こ、つい、つことに 柤その以前に流行した津軽笛が売買禁止になった。 本所の上屋敷、向う柳原の中屋敷、柳島と大川端の下屋かけては才気のある江戸人だけに果しもなく応用した。 敷、これだけの通用門から夜になってから遠慮がちに家中「お月様いくつ」という童謡の作りかえが流布された。
◇ 小諸藩の方ではゆうべ非常召集をやり、牧野八郎右衛 、笠原此右衛門の名で、〃先ごろの官軍と称する者は偽 者で、彼等は徒党を企て、領民を騙らい、連判状をつく り、諸所に暴行し、軽井沢沓掛追分の三宿にて女に戯れ酒 下山の折柄、隊にいなかった人がある、竹内健介と神道にひたり、農商を劫かし人民を苦しめ、碓氷峠にては旅人 三郎は用があって外出していた。丸尾清と北村与六郎、こを悩ます、かくの如き奴をこのままにしておいては何を仕 志の両人は横川の関を受取りに行っていた。それに北村の従出かすか判らず、庶民難渋の趣きにつき、我が藩は断然こ の者で美濃から付いてきた者が二人、いつでも影の形に添うれを撃破するに決定した , と訓示し、主将副将の姓名を発 とごとく北村から放れずにいた。きようも従いて行った。そ表し、加勢は御影陣屋の二百人、その他、岩村田藩も来 総こで丸尾、北村を迎えに、十七歳の美少年で旗本の子である、上田藩も童岡藩もくる、安中藩も加勢を出すと、士気 相る松井藤七郎 ( 服義 ) が行った。竹内、神道のためには神を鼓舞し、即夜三ッ谷に集結させた。御影陣屋の人数は細 職に伝言を頼んでおいて下山した。 貫庄之進が大将で、予定の時刻に到着した。岩村田はまだ 大木、西村、川崎、清水、大藤、今大路と、桜井常五かまだかと待ちかねているところへ使者が帰って、「仕度 一番いい」こう思「たので雪路を突破し、のばり下りの足郎、中山仲等と二隊に分れ、その一ツは源ノ千代丸を守護 許の悪いのを踏み越え、碓氷の同志のところへ帰り着いたして下山した。夜更けの軽井沢宿へはいって佐藤織衛他一 のが十七日の午後だった。 軒を起して泊った。 ところが、碓氷下山に反対なものがある、その一番強硬と、その夜明けに、宿の者がひどく騒いでいるので、全 なのが桜井常五郎で、ここから西村との間に感情のひらき員が眼をさました、何だと聞くと、追分に戦争があるとい が出来た。 う。追分ならば金原忠蔵隊がゆうべ泊っている、相手はわ 反対はあったが、 ー払いに決したので、その日のうちに からないが、此方は確かに金原隊だ、それッというので、 下山した。十五、十六と二晩いて十七日引払い、碓氷占拠飯を急きたて、食事の終ったものから先に、隊を組んで出 は足掛け三日間に過ぎなかった。峠町界隈で一番組は評判発した。えらい雪の朝だった。 がよかった、それというのが買物の支払いが正確で綺麗だ し、人づかいがよい、女に手を出さない、それらのためだ ろう。今はその当時を実際に知っていたものが死んでしま ったが、そういう人の存在中、語るところはそうだった。 ◇
後裔岩松満次郎を擁立して討幕の兵を挙げんとする藤屋五 郎 ( 金井之恭 ) 、本島自柳、昌木晴雄、松本敬堂その他が出 きた たす 出流玉砕組 入りし、敬哉も忍んで来り会合した、これを極力扶けたも のが敬哉の母俊子である。俊子がそういうことを進んでや ったのは亡夫千里の遺志を嗣いだのである。が、この計画栃木戦争の前の日の十二月十日、幕府は下野の国に屯集 は実現しなかった。岩松満次郎が上州から江戸に去り、江の賊徒召捕りを、次の三家に命じた。 戸地方で白河藩保管の砲台付陣地に滞在中と幕府に届出た 鳥居丹波守 ( 野州壬生・三万石 ) のはこのときのことだろう。母俊子が五十三歳で病歿した 秋元但馬守 ( 上州館林・六万石 ) 慶応二年の秋でもあろうか、敬哉は脱藩して江戸に出で、 戸田長門守 ( 野州足利・一万千石 ) 大坂に奔り、「薩長浪士の間に伍し、幾多の艱苦を嘗め、 その命令には、「若し手に余らば打捨・切捨等致し不レ 飽くまで勤王の素志を貫徹せんと努めたり、然るに王政維苦」とある。打捨は射殺である。 新の代となり、敬哉の志亦自ら達せられたり」と、これは真岡代官所の警衛は、戸田土佐守 ( 野州宇都宮・七万八千 「足利市史』にある。鈴木敬哉は前にもいったとおり、島石余 ) に命じた。真岡代官は前にいったとおり山内源七郎 林敬一郎と変名し薩邸に投じていたのだが、足利脱藩だけである。 に慶応三年師走の野州挙兵には加わらず、薩邸に留まって ◇ いた。変名の島林とは母俊子の生家の姓、敬一郎の敬は敬 哉の敬、一郎は長男だからそう名乗ったのだろう。「落合館林藩秋元家では幕命に応じて出流山攻撃に藩兵二小隊 志手記』の「人名録」には本名・長沼良之助とある。長沼とと大砲隊とを出した。六万石の秋元家がその程度だから、 は父千里の生家の姓で、明治にな 0 てから敬載は長沼良之三万石の壬生藩鳥居家と、一万千石の足利藩戸田長門守の 」輔を名乗った。 家中からも、出来る限りの出兵なぞはしない。それで構わ 総 ない理由は、幕府の命令に「在所有合せの人数差出し召捕 楽 相 候様」とあるので、藩の運命をこれに掛けるなそはしな 。宇都宮藩戸田土佐守の家中もそれと同じである。 そういう情勢を真岡代官の山内源七郎は知っていて、出
の家人なので、その手で、予め交渉が届いていたので、両 卿を迎える準備が学頭妙寿院に出来ているし、将兵の宿 泊する設備も出来ていた。 翌日、編成を整え、次の如く職分を明らかにして布告し 〔軍裁〕鈴木三樹三郎、油川錬三郎、相楽総三。〔軍 監〕科野東一郎、篠原泰之進。〔君側〕山科能登介、 荒木尚一、山本太宰、川喜多真彦、巣内式部、森城 介。〔小荷駄奉行〕山本太宰。〔小荷駄方〕森城介、 箕田宇八郎。〔仕令〕竹井大学、西川亙。 この編成が甚だまずいとて、相楽等は不満だった。戦闘 の場合これでは進退駈引が出来ず、早くいえば、両卿の周 囲だけに、人間が鈴なりの観がある。が、不満を色に出さ ず、相楽は両卿の許しを得て、〃両朝臣の御用〃という肩 書で、金輪五郎をつれて京都へ向った。この頃、旧幕軍の レ弓ツかぶさっていた。 惨敗が決定し、暗雲が大坂城こ 相楽総三は京都で、太政官に、次の如き建白書一通、歎 願書一通を奉った。 建白書 誠恐誠惶謹言 艸莽卑賎ノ身ヲ以テ建言仕リ候ハ甚ダ恐入ル次第ニ候 得共、此度、綾小路殿滋野井殿両卿ノ御勢ニ加リ先登 仕リ候ニ付、愚存ノ義、万死ヲ犯建白仕リ候、当時賊 ニ浪花ヲ去リ候趣 必ズ関東 割拠ノ所存ニテ唯 こ 0 今ノ処ニテハ賊ノ余燼コレ無キ様ニ候得共、関東ハ固 ョリ彼ノ巣窟ニ候間、弥ョ東下仕リ候ハバ是則チ虎ヲ 山ニ放チ候患ヒト存奉リ候、東海道ハ小田原ノ城ニ拠 リ兵ヲ函嶺ニ出シ、中仙道ハ高崎ニ拠リ、兵ヲ臼嶺 ( 註・碓氷峠 ) ニ出シ、要地ヲ塞ギ防禦致サレ候テハ甚 ダ踏破リ難グ実ニ斧ヲ用ュル悔イコレ有ル可ク候間、 賊ノ不意ニ出デ、双葉ノ内ニ速カニ御征伐在ラセラレ かっ 度存奉リ候、加之、今、黠夷ノ輩 ( 註・イギリス等ヲ指 きゅ いつぼう ス ) 我ガ隙ヲ覬覦致シ居リ候義故、此鷸蚌ノ弊ニ乗ズ 可キモ計リ難グ是又一大事ノ義ニテ、兎角急ニ御東征 在ラセラレ度グ存奉リ候、最モ右御東征ノ義ニ付定テ 御廟算ノ数々コレ有ル可ク候得共、当時ノ処、是マデ 幕府ニ於テ関東筋ハ甚ダ暴斂ヲ極メ民心皆奸吏ノ肉ヲ 啖ハント存ジ居リ候義故、幕領ノ分ハ暫時ノ間賦税ヲ 軽グ致シ候ハバ天威ノ有難サニ帰嚮シ奉リ、例令、賊 ニ金湯ノ固メコレ有リ候トモ、倒戈ノ者、賊ノ蕭墻ニ 起リ、必ズ以テ御東征ノ御一助ニモ相成ル可グト存奉 リ候、恐ナガラ右ノ条々ハ卑賤ノ者ノ建一一一一口仕リ候マデ モコレ無ク定メテ 廟議モコレ有ル義ト存奉リ候得共、滋野井綾小路両卿 ノ思召ニ於テモ此義深グ御心痛遊パサレ候義故、憚ラ ズ申上候 歎願書 方今御東征ノ義ニ付、滋野井侍従殿、綾小路侍従殿江 たと もと
てあった ) キ旨、右等ノ儀ハ私共ノ知ル処ニコレ無ク御座候得共、少 - 一とわ 砲殺の手段については足弟子の佐々木大吉から聞いたと将 = 為ラセラレズ御逝去 = ッキ、右之儀秀之進、何ト承 断って、 、如何相ヒ含ミ候ヤ」 ( ロは難読又は欠字 ) ( 大館と碇が関の間で、山野に隠れ忍んでいて最初はムダ とにかくこれで原因がわかった。南部対津軽ではこれだ 鉄砲を放つ、そうすれば家来のうち臆病者はわれ先にと逃け聞いただけで、さてはそのことからかとわかる。 げ去るだろう。心ある者もいるだろうから十人か二十人か喜七はこういうこともい 0 た。 は駕籠脇に引き添 0 て護るだろうし、向ってもくるだろう ( 大館と津軽領との間に限 0 た道筋のものでもないから、 が、それらには本鉄砲をあびせかけ、及ぶだけ射ちと 0 た旅中はなんにつけても堅固にせねば危険ではないかと思 その上で太刀打ちにし本意を遂げ、さっと立退き、すぐに う。さりながら大館からは津軽領が近いので、ここまでく はなしあ 江戸へ上る、こういう予定だと咄合いにな 0 ているそうでればもはやお国も同然とゆるみが出る、そこを狙うつもり ある ) と推察する ) 越中守討ちとりにどのくらいの人数が用意されている その次に資金のことにい、 し及んだ。 か、それについても答えている。今から百二十余年以前の ( 秀之進は当時難渋のところ、昨年江戸表から帰りの旅費 調書のおもかげを伝えかたがた、その日作成された「小島などにさしつかえがなかった、それのみならず、このたび 喜七申ロ』の一節をそのまま次に引いてみる。 の諸入用少からぬところ、それもさしつかえなくやってい 「右之儀 ( 格別ノ人数 = モコレ無グ、五六人ニモコレ有ルるのは、御上から金が出ているからではないかと疑われ べク御座候ヤ、頭役秀之進良助ノ儀ハ必定罷リ出デ、ソノる ) 母外ハ数多ノ弟子ノウチ誰レ出デ候ャ存ジ奉ラズ候」 御上というのは代官のことである。 軽それでは何の趣意あって秀之進がかかる計画をたてたか この陳述で三奉行はもとより、居合せた全部のものの胸 とについては、次のごとく述べている、これも「申ロ』からにびんとひびくものがあった。 大の引用である。 津軽の側から考えれば、この砲殺計画のうしろで糸を引 相「去年、御逝去ノ南部様御遺言ニハ、此度ノ病気快ク候テ いているものは南部藩だと断じたくなる、すくなくとも嫌 少将 = モ相成ルべグヤ、津軽家ニテモ侍従 = 相成ルペグ、疑をかけたいーー南部の側ではそのず 0 と前から津軽侯が 専ラ風説ニ ( 侍従ノロ ( 四品少将ロロ ( 侍従ニ成リ申スペ南部領を通らずに、秋田領を通って参覲するのは、南部領
の地を踏んだ。 同時に両家の出兵のうち二百五十人は現地で越年させそ の他は引揚げてよろし、「参覲時節も御容捨被遊、一一月御 その年十二月十八日、南部利敬は二十万石に加増、侍従暇、翌年十月中参府之心得」たるべしと命ぜられたのであ しほん に任ぜられた。四品には満四年前の文化元年十二月叙される。 利敬は好ましからぬ男をようやく突っ放すことができ ているので丹羽加賀守長祥とはこれで位階でも食封でも念 願のごときヒラキが出来た。しかも、田名部五千石はもとた、その代り旧怨の家の者がうしろから追いついてくる気 がして、この方では薄ぐらい気がした。 のとおり南部領たることに変りなかった。 ではあるが、利敬にとって快からぬことが同年同月同日 の同時刻に出来た、それは津軽越中守寧親のことだった。 そのころ下斗米秀之進は平山門下で頭角をぐいぐいあら 越中守寧親は利敬とおなじように北海警備に尽瘁したるわし、益友良友を幾人も得ていた。だれにも好感をもたれ ことを賞せられ、いよいよ心を入れて努むべしと七万石かる秀之進はとくに興に乗じてわりにい、 し声で郷土の唄をう たって友達に腹を抱えさせた。唄はこうである。 ら十万石に加増となり従四位下に叙せられた。 幕府が与えた文書は次のごときもので、南部といえば津 おやじ、ナコなって、何する、ナコでえ。正がズ、シ ャガナコ買る、ナッコがあ。 、、ヒ辺のことに両家は車の 軽といい津軽といえば南部としし」、 「おやじが繩なう、何にする繩か、正月に肴買うそのため 双輪のごときものという意が含められ、かっ又両家の反目 の繩なうのか」こういう意味だ。 を何となく氷解に導かんとする趣きが底にあった。 議論とくれば勝っても負けても胸をそらして論じ抜く秀 南部大膳大夫 東西蝦夷地一円警固、共方井津軽越中守へ永々被仰付之進は、腕力とくれば門下中指折りの猛者であった。 候、領分高一一十万石ニ被直下且又侍従被仰付、弥入精 相励可申旨、被仰出候 津軽越中守 徳川八代将軍吉宗の元文年間に帝政ロシャの軍艦がわが 東西蝦夷地一円警固、共方井南部大膳大夫へ永々被仰沿岸に出没したのが、ピーター王の南下政策がわが日本に 付候、領分高十万石ニ被直下且又四品被仰付、弥入精触れた最初である。十代将軍家治の安永七年に蝦夷地 ( 北 相励可申旨、被仰出候 海道 ) へ帝政ロシャ船が通商の要求を口にして乗入れたが
で、人一倍、勇み立っていた。 渋谷和四郎という確りとした人物である。和四郎を鷲郎と 高橋亘、山本鼎、吉沢富蔵、高田国次郎、斎藤泰蔵、こ書いたものもある。時の勝者たる板垣退助がいっ乾の姓を の五人は栃木宿の押田屋にいる、それに合せんとして、西旧姓の板垣にかえたかは判る、時の敗北者たる渋谷ではそ れが判りかねる、しかし、これは推測に過ぎないが渋谷鷲 山謙之助、田中光次郎等八人が、栃木宿の入り口へ近づい たのが、十二月十一日の日の暮れ近くだった。 郎と名乗ったのは、幕軍の衝鋒隊といって、函館郊外で戦 死した、古屋作左衛門を隊長に、坂本童馬暗殺に加わった ◇ 今井信郎等が幹部だった隊がある、それに投じてからでは オし力と田 5 、フ。 栃木陣屋の善野司は、かねて放してある密偵の報告で、 出流天狗の応援隊が近づいたのを早くも知り、陣屋その他渋谷和四郎は八州の旦那のうちでも、当時、羽振りのい に待機させてあった戦闘員全部に合戦準備を命じ、宿の入 、切れ味のいい人だったので、渋谷の命令一ツで生死の り口に篝火を焚かせ、木戸の門をびたりと閉め、兵は残ら間に飛びこむ博徒の数が多かった。それと、農家出身のも ず内側に配置し、宿々の四方にもそれそれ配置し、人家ののとを併せ、鉄砲を買って与えて調練をやり、曲りなりに 表戸の全部を閉じさせ、別に消防隊を各所に配置した。こも新式の戦闘法を会得させていた。身分は前にいったとお れは、四年前の天狗火事の苦い経験に基く、放火防ぎの準り関八州取締出役で、その定員は二十一人、勘定奉行支配 備である。 で、おなじ勘定奉行支配の代官とは別種のものであった 栃木陣屋側の戦闘員は、陣屋詰の収納役人、行政役人をが、実務の関係で代官に属した如くにあった、しかし、今 はじめ、使い走りの男までが、武器をとって起った。陣屋はその点が非常に変化し、渋谷の如きはそのうちでも権限 志出入りの御用聞きも子分を率いてきて、武器を手にして加が最も拡がり、殆ど手兵をもっているが如くなっていた。 わった。 天下無事の時代には、関東八カ国の幕府領と諸侯領の嫌い の 隣藩の吹上藩有馬家の援兵は数が少いので、陣屋のものなく、非違の検察に巡廻した〃八州の旦那〃が、当今の仕 事はといえば反幕府の者を弾圧し検挙する、その方が主な 総に合流して、部署についた。 相それらの他に最も有力な、割合に多人数な、一隊があっ仕事になっていた。 た、農兵隊である。この指揮を執るものは〃八州の旦那〃と 渋谷の率いる農兵は、何梃だったか小銃をもっていた。 俗にいわれた関八州取締出役の一人で、戦術に長じている竹内党の先発・応援十三人の中で、一梃の小銃をもったも しつか