例えば小島源十郎という浪士である。小島は武州入間郡とがある。そのときの一人が、明治になって死亡したと信 黒須村小島恒次郎の子で、薩摩邸に投じた。黒須からは須ぜられ、そういう事を書いた物さえあったが、何ぞはから 田鎌太、福島均平、小西健次郎などが薩邸に投じた。黒須んその人は、深川だか本所だかで、大きな工場を経営して おうぎまちゃ は旧幕のころ、扇町屋といった日光街道の宿場に隣接した健全ごっこ、 オオこういう例もある。随ってこの以下、一聯の 村で、今は埼玉県入間郡豊岡町に併合されている。ここか記述に、そうした誤謬がないとはいえない。願わくば大方 らは幕末から明治初年にかけて黒須大五郎一味という多人の教示を得たい。 数の慓悍な強盗が出た。大五郎は博徒の頭で、暴威をふる った。若い小島源十郎その他が、土地柄で佐幕にゆきそう 相楽の父兵馬 なものを討幕に奔らしたのは、大五郎の勢威が反撥させた のではなかろうか。 小島源十郎の身の落着きについて「赤報記』は何とも註江戸赤坂に三分坂というのがある、その坂下に小島兵馬 記をしていない。「落合手記』には〃脱上野にて暗殺〃と ( 満茂 ) という下総北相馬出身の郷士が、広大な敷地に、 ある。〃脱〃とは脱走と落伍とを一ツにしたものであるこ幾棟もの家を建て豪快なくらしをしていた。富がどの程度 とは、他々のものの事で判定がつくが、〃上野にて暗殺〃 であったか今となっては判らない、が、想像の材料となる は風説の誤りだ。大正年間、相楽の孫木村亀太郎が、晩年唄が残っている、それは「小判小粒を桝ではかる家はある ぶげんみ の小島源十郎に会っているからである。 が小島分限は箕ではかる」というのである、これは、北目 完全無欠の辞典はないが辞典のあることは大きな仕合せ馬で代々の富豪で名望家であった小島家をうたったもの である。史家の資料も又それと同様で「赤報記』や「落合で、江戸へ引移ってからの小島家をうたったものではなか 手記』がなかったら、約三百人の報効の片鱗さえ、或は永ろう、という疑問が起らぬでもないが、小 島兵馬から直接 久に伝えられることがなかっただろう。 俗謡の話を聞いたものもあり、それを耳にして大きくなっ こういう風な誤りは明治戊辰前後に限らず、いつの時でた兵馬の長女はまの話を聞いたものもあり、その他の事実 もないとは云えない、殊に明治維新の前後にはありがちでもあるので、小島家は北相馬にいるときよりも江戸へ移っ オランダ ある、幕末に幕府が和蘭へ註文して竣工した軍艦開陽丸てからの方が、富を倍加したものらしい。明治と改元され を、和蘭留学の幕府派遣学生が、首尾よく回航してきたこて東京の山の手下町を問わず、屋敷跡が桑畑になり、江戸
の昔の俤が家康入国以前の田舎に引返すのではないか、そた。 う思われた時代、世間も人も落着きかね、東京が新たに興 旗本のうちで千石以上の酒井家というと、神田橋外に屋 隆して、古い江戸に倍々の大都会となる、激しい陣痛の時敷のある七千石の酒井が筆頭で、およそ十家ある、酒井錦 代だけに、世相は険悪、人情がとげとげしい、そういう折之助というのはその中の一ツで、溜池に屋敷のあった五千 柄に兵馬は、きようは歌の会、あすは遊山、あさっては芝五百石の酒井家のことだろうが確かではない。 居と、豪奢なくらしを続けた、それにはそれだけの原因が 小島兵馬の屋敷は今の赤坂区檜町十七番地で、そこを酒・ 小島家では酒井のことを御上屋敷様・ あり、豪奢の裏にひそむ悲劇があった、いずれそれは後段井家で下屋敷といし に説くが、その時分、兵馬は広大な庭にある大きな池の底といっていた。小島の屋敷に酒井の下屋敷が包含されてい から、時どき瓶や壺を人知れず引きあげて封を解いた、中たのか、それとも、地を接していただけであったのか、そ の辺の詳しいことを、今日では知ることが出来難くなって にはぎッしり小判小粒が詰っていた。こういう壺や瓶が、 どのくらい、池に沈めてあったか判らなかった。 それくらいの富をもっていた兵馬に四人の子があった。 小島家の三男はすくすくと成長し、元服して四郎左衛門・ 一番上は女ではまといい、蕃書取調所の頭取になった木村将満となった。後に四郎左衛門の左衛門を棄てて単に四郎・ 敬弘の夫人になった。二番目は男の子だったが池だか川だといった。四郎は武芸にも学問にも秀いで、得意中の得意 - かで溺死した、それが長男。二男は旗本だか御家人だかのは兵学と国学とであった、別して国学に自信があった。二 彦坂家へ、幼い時に貰われて行き、明治時代に彦坂良正と十歳で国学と兵学を講じて門人が百人からあった。四郎の いっていた、この人の娘でてい子というのがあったが、 大学問系統について書いたものなく伝承もないが、万葉集を 志正十二年九月一日の大震災で行衛不明となった。その次も崇拝していたことと、友人に平田学をうけた年長の人が多 いこと、それから推して、学問の根幹となっていたもの 男の児で天保十一年に赤坂の屋敷で生れた。これが三男で そ とはあるが、小島家の次代の主人となるべきものと、生れぬは、平田篤胤、平田銕胤、その方向にあったに違いない。 総先からきまっていた。 ◇ 相兵馬は三男を素晴しい人物に仕立てたいと念願し、幼年 小島四郎は文久元年、二十二歳、門人を振り棄てて、父 時代から金に飽かして教育に熱中した。兵馬は最も近しい 後楯の旗本の酒井錦之助に相談して、教育上の指示をうけ兵馬から金五千両ひき出して旅立った。行った先は奥羽だ まさみつ
が、西郷の旨を含んで、先頃からきている。留守居添役に 関太郎といって江戸に詳しい人がついている。監察は児玉 雄一郎といって、これ又、西郷が江戸で討幕の機運をつく り、皇政復古促進のため何を小島四郎にやらせんとしてい るのか、その大体を知っている人である。この他に関太郎 の同役で立花直記、柴山良助、西村喜作の三人がいた、ま だその他にもいた。その数は百人を遙かに超えていた。 島津修理太夫久光の家は七十七万八千石、薩摩・大隅・ 浪士屯集 日向の国主で琉球国を兼領している大藩で、江戸に持って いる屋敷は、三田一丁目の薩摩屋敷といった方が、芝新馬 慶応三年十月の上旬、江戸の芝新馬場にある薩州鹿児島場のというより、早わかりがする広大なる上屋敷の他に、 藩の上屋敷へ、益満休之助と伊牟田尚平と二人の薩摩人幸橋内に中屋敷、高輪、品川の二カ所に下屋敷をもってい が、江戸で生れて江戸で育った小島四郎 ( 将満 ) を伴って、る。藩主の家族を別として、家老用人その他多勢いたが、 到着した。京都からこの三人は、江戸へ、死ににやって来今はすべて引揚げていない、人がいないだけでなく、家宝 たのである。 はもとよりの一と、一れはとい、フ物は釆 5 く口川・沖へはこび 江戸へ出発する前の晩、薩藩の西郷吉之助が、京都三条出し、差し廻されてあった藩の船に積込み、鹿児島へも の旗亭へ小島四郎を招待して、贐の会をひらいた。列席って行く準備が出来ていて、後を殆どがらんどうにした、 者は小島四郎を西郷に紹介した益満・伊牟田の二人と、少それより先、同時に、江戸に在任させて置いては邪にな し遅れてやって来た薩藩の大久保一蔵と主客あわせて僅かったり、不適任であったり、或は他の方面に活用する方が 五人だけだった。華やかにやれない性質の送別会だった しい人物は、悉く、江戸引揚げに口を藉って転任させたそ のである。 のあとへ、勤王論者で有名だった篠崎彦十郎を赴任させ、 西郷の息がかかっている者だけで固めた。そこへ、益満と ◇ いう江戸隠密の名人で乱世向きの人物と、日本中を駈けめ 三田の薩摩屋敷には、留守居役として篠崎彦十郎 ( 仲苗 ) ぐった激烈精悍な伊牟田とが、小島四郎を伴って到着した 江戸の薩摩屋敷 はなむけ
ではとても駄目だと思い、残念ながら内玄関へ今度は廻っ球を動かして、「そんなことが当時あったのか、ふうむ俺 て面会を懇請した、が、前の三回と同様に断られた。 は今初めて聞いた、そうか、奥さんが自害したか、ふう 「それでは伯爵閣下に、相楽総三という者の孫が参り、おむ」といった。板垣伯は往年の相楽をおもい浮べているよ 目にかかりたいと今日で四回目で参っておりますとだけ申うな眼つきをした。 上げて下さい、それでも面会せぬと仰せがありましたら今 「一子河次郎を残したのは、小島家の血統をむなしくする 後必ず参りません」と、亀太郎は頑として退かなかった。 のに耐えられなかったのだと存じます。相楽には一人姉が 玄関子は遂に根負けして、「それでは一応そう申上げてみありまして木村敬弘の妻になっておりました。木村の家で きっと るが、会わんと仰有ったら今回限りで屹度来ないか」、「必河次郎は養育してくれる、そう思ったのに違いありませ ず参りません」、「それでは」といって引込んで行った。 ん。そのころ私の曾祖父の小島兵馬が赤坂に豊かにくらし 玄関子が再び出てきたときの態度は、前と非常に違い、 ておりましたので、養育に事を欠くことはございません 応接間へ慇懃に案内し、茶などもはこんでくれた。そのう が、悪名を着て刑された相楽の子ですから、世を憚って木 ちに板垣退助伯が和服で現れた。 村姓を名乗りましたので、河次郎の長男であります私も木 「君が総三さんの孫さんか」と板垣伯は不審そうに亀太村を名乗っております。閣下、私は祖父相楽がどういう事 郎を眺めた。「そうです、私は相楽総三の孫で木村亀太郎情で刑に処されたか、その原因を知りたいのでございま といいます。ご存じでしようが相楽は本姓を小島と申します。相楽は真に偽勤王家でしたろうか、相楽は真に強盗の す。孫の私は小島でなく、木村を名乗っております。それ張本人でしたろうか。私は真の原因が知りたいので、不礼 には事情があります」と語りかけると板垣伯は、「ちょっを冒して閣下に、しつこくご面会を願ったのでございま 待て待て」とす」亀太郎は死にもの狂いになって云った。 志と待ってくれ、俺は近ごろ耳が遠くなった。 , 同聴音器を耳にあてて、「さあ話してくれ」といった。 板垣伯は熱心に聞いていたが、後段の「原因を知りた そ 亀太郎は語った。「相楽が信州で殺されたとき一人の男 い」というあたりへ来ると、眼に困惑がちらりと出た。熱 総の子がありまして、四歳になっておりました。相楽の妻をいよいよ帯びた亀太郎の顔をじッと見つめていたが、 楽 私の祖母は名を照と申します。祖母は、と、申しまし「相楽は真に不忠不義なりしや」というあたりに来ると、 相 おもむろ てもまだ若かったと聞いております。祖父相楽が殺された困惑の色が顔に強く出た。やがてしてから徐にいい出し と聞いて一子河次郎を残して自害しました」板垣伯は眼のた。「そうかーーその頃の話をしろといっても、古いこと
かくま 帰り、須永某の邸内に隠匿われ、治療に手をつくしたが遂 芸練達の道場とし、又、三余堂を設けて大義の精神作興に 資し、権田直助が薩邸にはいってからは、邸外の同志としに死亡した。死に臨み、次の一詩を賦した、年二十三。 誤為一一僧徒一傷一一此身一不忠不孝耻 = 精神一 て、挙兵の場合、援助を約し、門人小島直次郎を薩邸には 無他今日復何説泉下唯須 = 王政春一 島直次郎は変名を館川衝平といい、武州男衾 いらせた。小 / 島二三の長男で大正元年十一月、贈従五位の恩典に浴し、栄光枯骨に及 の相上村 ( 現・埼玉県大里郡吉見村相上 ) 、ト ある。 んだ。この乱闘を埼玉県関係の文書は、すべて慶応三年七 根岸友山は竹内啓等が野州出流に拠ると聞くと、門人有月二十日としている。薩邸の浪士屯集の始りは十月下句か 志五十人を率い、表には幕府側の催促に応じて浪士討伐軍らであるから、十一月のことでなくてはならない。十一月 に従うと見せかけ、実は幕軍中から幕軍を斬って崩さんとと七月と伝写又は誤読の誤りが原因となっているのだろ う。小島の死亡も又十二月でなくては、瞑目に先立って賦 計画した。が怪しまれて排斥され、とうとう、この計画は したといわれている詩の〃泉下唯須王政春〃が意味を持た 実現しなかった。明治二十三年十二月三日、病みて死す、 年八十二。大正元年十一月、贈従五位の恩典に浴した。そなくなる。 の子武香 ( 伴七を襲名す ) は父を扶けて国事に尽、瘁、出流一 件のときは名主役を勤めていた。 甲州組相州組 小島直次郎は医を権田直助に学び、剣を千葉道場に錬 り、薩邸にはいってからは、幕府の事情を探偵する役を引 甲府城を乗取って、江戸を脅かそうという目的で、江戸 受けていた。 或る日、薩邸屯集の同志のうち、松田正雄 ( 上州小幡の士 ) の薩邸を出発した隊長上田修理の一行中に、甲府関係のも 垣一作 ( 信州諏訪の士 ) 、中山信之丞 ( 下総 ) の三人と、目のが数名いた。判っているのは次の四名だけだ、この他に 黒の祐天寺に遊び、幕吏と、幕吏が招集した附近の若者等も居たと考えられる。 神田湊 ( 二四歳・本名・浅井才二貞利・甲府勤番士の に包囲され、石垣一作は負傷して捕縛され、中山信之丞は 子 ) 負傷して自殺し、松田正雄は包囲を衝いて免がれ、小島直 植村平六郎 ( 甲府勤番士 ) 次郎は激しく闘って、刀の刃こばれて鋸の如く、数カ所の 牛田静之助 ( 本名・加藤隼人・甲府勤番士の弟 ) 負傷に屈せず囲を破り、変装して、夜に乗じ故郷相上村に かこみ まっ
のである。 薩邸に投じ、変名を竹内啓といった。啓をヒラグと読ませ 小島四郎は三田の薩邸の内部を見て廻り、ここがよいとる、荘内藩の執政松平権十郎が執筆させた文書には、誤っ いって一つの建物を選んだ、それは糾合所と称せられてい て竹内開などと記されてある。 がっこう た学黌のあとで、通用門からはいって正面に近い位置にあ越後の長谷川鉄之進 ( 世傑 ) もはいった。 のぶよ る。小島は多くの浪士を招集して、そこに寄宿させる心算信州上田の医者と称して斎藤養斎 ( 延世 ) が、同志を率 である。 いて投じて来た、斎藤は通称を謙助といい、国学に長じた しなの る商人である。薩邸へはいってからは、科野東一郎と変名 ◇ げき この他にもいろいろの人物が投じた、武州入間の漢学者 十月の十日から中旬にかけ、小島四郎の飛ばした檄に応 じて、四方から集まってきた人々がある。落合源一郎 ( 直で清河八郎の同志であった根岸友山は門人小島直次郎等を 亮 ) は門人峰尾小一郎、森田谷平、林幸之助を率いて来送り、下総の漢学者芳野金陵の門下からは竹内廉太郎 ( 変 た。落合は武州多摩郡駒木野の関の累代関守・落合家の長名は大原廉之助といい後には金原忠蔵という変名をつかい、信州 追分で戦死した。後の渋沢栄一子爵が、そのころ、薩邸へはいっ 男で国学者である。薩邸へはいってからは変名に水原二郎 をつかった。峰尾は藤井誠三郎と変名し、森田は木田谷平たと聞き羨望に耐えなかったというは、この竹内のことである ) 。 と称した。林幸之助 ( 行成 ) は越後黒川藩一万石の柳沢式渋谷謹三郎 ( 変名を渋谷総司、又は大谷総司といった ) も投じ 部少輔の家来で、武州駒木野に来て、落合源一郎の門人とた。野州足利の脱藩で医者の鈴木敬哉が島林敬一郎と称し なっているうち、剣客の森田や、同門の峰尾とともに、落て来り投じた。 元治元年、筑波山の義兵に参加した国芳房吉 ( 常陸の人で 志合について薩邸へはいったものである。 落合源一郎の水原一一郎と殆ど同時に、薩邸へはいったも変名を戸宮一郎といった ) も来た。上州の剣客で新徴組にい とのに、武州入間郡毛呂村の名医で国学者で歌人の権田直助たことがあり、清河八郎の同士で大橋渡と称した高橋亘、 新徴組にいたものでは山川竹蔵、横山明平など、それから 総 ( 玄常 ) がある。権田も門人の小川勝次郎 ( 小川香魚といし うめさきかおる 出生不明ではあるが下総の飯篠神刀流の達人で年わずかに 軽変名は梅咲香 ) 西宮諸助その他を率いて来た。 武州川越在竹内村の医者で国学者の小川嘉助 ( 重成 ) 、そ十九歳の醍醐新太郎 ( 変名を飯篠長江斎といった、長江とは香 きた の地方では小川節斎といって徳望のあったこの人も来って取鹿島両宮の間を流るる利根川をとって名としたものだろう ) と、
47 相楽総三とその同志 しらようかた 捉えて首を斬るという厳格さを示した、それでも悪い奴は この中で使番と監察を兼勤したものもあり、輜重方兼務 やはり悪いことをした。 もあり、又、漏れたものもあるだろう、確実な文献は慶応 十月から招集して十一月末までに、集ったものは約五百三年十二月二十五日流血の際に紛失し、又はその後に散逸 人、が玉石混淆を免がれなかった。 して反古と化したものか、辛くも残存しているものは、根 うっし 本は維新史料編纂局にあって「赤報記』の巻頭に写が出て ◇ いる「人名録」と、落合直亮が手記したという無題の「人 小島四郎はそのとき年二ャ八、権田直助は五十九歳、落名録」と、この二ッしかない。『赤報記』は薩摩屋敷を脱 合源一郎は四十一歳、長谷川鉄之進は四十六歳、斎藤謙助出した糾合所屯集の浪士隊が、組織を更めて赤報隊とな も小島より年上で三十七歳だった。これらの人々が協議し り、慶応四年 ( 明治元年 ) 三月三日、赤報隊壊滅の後に隊 て、糾合所屯集隊の組織をつくった。 中の何人かが書き残したもので、人名を一ツにならべ、薩 総裁相楽総三 ( 小島四郎 ) 邸屯集時代のときと、翌年の信州潰滅時代のものとを区別 副総裁水原二郎 ( 落合源一郎 ) し、それに△〇ロ◎など符号を説明に代用し、経歴を示し 大監察苅田積穂 ( 権田直助 ) たもので、一応これでも判るには判るが、乏しい資料に拠 ってこれをみても、訂正すべき点が尠からず目につく。落 大監察長谷川鉄之進 大監察科野東一郎 ( 斎藤謙助 ) 合直亮手記の人名録は、丹念に記入作製されていた原本が あったのを、落合が懐中して薩藩邸戦争のとき、三田から 監察会沢元輔 一口 山本鼎 ( 西村謹吾 ) 品川方面へ引揚げの途中、札の辻から東禅寺前ぐらいの間 一口 菊池斎 ( 栃内蔵四郎 ) で遺失してそれなりになった。そこで記憶を辿り他人の記 一口 大樹四郎 ( 大木匡 ) 憶を借り、ひそかに作製して残して置いたものである。落 一口 香魚 ( 小川勝次郎 ) 合直亮、落合直文、二代の間、この人名録を他人でみた者 輜重長桜国輔 ( 原三郎 ) はない、三代目の落合直幸のとき初めて相楽総三の孫木村 使番大谷総司 ( 渋谷謹三郎 ) 亀太郎が見て写しとった、と、こういう筋のものなのであ 金田源一郎 ( 宇佐美庄五郎 ) る、原本は今ないそうだ。この人名録だとて錯誤がないと 大原廉之助 ( 竹内廉太郎 ) いう訳にはゆかない。 一口 一口
信が持てたので、いよいよ雪寃連動に乗り出した。し か三人いる」と聞かされ、いよいよ驚き喜んだ。 し、亀太郎は貧しかったのみか、大官を背景としていな現存しているものとは、下谷にいる峰尾某、八王子方面 、全くの独力で、雪冤をやろうというのであるから、成にいる平井永吉、雑司ヶ谷の鬼子母神境内で雀焼料理の武 功のほど極めて覚束ない。 蔵屋の主人で小島某である。 先す亀太郎は信州下諏訪に相楽祭を再興して、相楽以下雑司ヶ谷鬼子母神の武蔵屋の主人は、小島源十郎といっ の志士の霊を慰め、年々これをつづけて、相楽以下の名をて、背の高くない、巌乗な、七十ぐらいの人だった。亀太 不朽のものたらしめんと欲し、信州岡谷の花岡太郎、花岡郎の訪問は思いがけないことだったのでびつくりした。そ 恭三の尺、カで、下諏訪の有志、中村秀吉、松沢庄吉、増沢の話はこうだった。 寅之助、小口竹次郎と会し、祭典の再興、御贈位の請願を「薩邸にいたころは、自分は極く末席たったから、相楽総 することに話が進んだ。 裁の顔は二、三度遠くの方からお見受けしただけで、余り 相楽塚のまわりに下諏訪の町が桜木を植えた、大正七記憶がございません。私はそうですが峰尾小一郎はだいぶ 年三月十八日である。翌四月三日には相楽祭復興の第一回上席で、絶えず総裁や副将の小姓のようなことをしていた 祭典が催されることに事がはこんだ。 から、いろいろのことを存じているでしよう。峰尾は下谷 その頃かその翌年か、宮内省詰の新聞記者団の旅行会が御徒町におります。まことに気の毒千万な逆境です。娘の あった。内閣書記官であった牛塚虎太郎が同行し、その下縁付き先だか姪の縁家だかに、世話になっております。も 役の一人に木村亀太郎が選まれた。行く先は武州飯能であう一人、八王子に森田谷平というのがおります」 る。 平井ではなく森田だった。小島源十郎は森田の身の上も 亀太郎は飯能で贈従五位小川香魚の墓があるのを知っ気の毒そうに語り出した。 香魚は相楽が薩摩屋敷時代の部下で、相楽の赤報「森田谷平は十年ばかり前までは、八王子で撃剣の道場を 隊結成の以前に北武蔵で斬死した、若い志士だった。 ひらいていましたが、時勢が変りまして、だんだんに落ち 先程から何くれとなく一行の世話をやいている飯能の紳ぶれ、きのうの道場の先生が今日では洋傘直しになってお 士で小川清という人がある、この人が小川香魚の遺族だとります。時折は私のところへも来ます、年はとっています 判ったとき、亀太郎は驚きっ喜びっした。それだけでな けれど元気な男で、酒さえ飲ませておけば喜んでいます。 く、小川清の口から、「薩摩屋敷にいた浪士で、生残りが相楽さんの孫がいると聞いたら、さそかし喜ぶでしよう。
いのにびッくりした。そういう中で第一番に、ト繙藩二万 川崎常陸の手で掲示された、碓氷の新関の法三則だった。 石松平摂津守忠恕は、家臣の小島弥市、浅井徹三を遣わ深井某は無念ながら丸腰で応接座敷にはい「た。」心接に し、勤王誓約書を提出した、″二百年来、徳川氏に従っては中山仲が出た。深井の云うことがどっち付かずと云った いたのは、、い服していたのでなく、カが足りないからであようなところがみえたので、中山仲が、「御藩には勤王の る。官軍の東下は喜びに耐えない、粉骨砕身勤王の実効を精神なく、隣藩の動向をみて、趨勢に随わんとする卑劣が 立てるみという意味が書いてあった。続いて吉井藩一万石ある、この上は藩主自ら来れ、然らずんば、汝の藩に限り とりはから 松平鉄丸は黒沢省吾、黒沢新吾を遣わして誓約し、七日市当隊に於ては取計わず」と、激しく叱りつけた。中山の意 藩一万余石前田丹後守利豁も用人任坂某を遣わして誓約さ気込みと弁舌に圧倒され、深井は顔色蒼白となり、陳謝し やわら せた。最も近い安中藩板倉家は関所問題があるので、誓約て、漸く中山の顔が和いだが、「軍資金の献納額は多額に 書を出さすところまで行っていなかった。 すべし」と釘を刺され、這う這うの態で去った。 ここに高崎藩八万一一千石松平右京亮輝照は深井某を遣わ ◇ した。高崎藩には深井虎之助という用人がいるが、その人 だとは断言できない。さて深井は来てみて官軍が至って小 赤報隊一番組は峠町にある東西二ツのロに、昼夜とも武 勢で、武器も揃っていないのを知ったからか、何のこのぐ装の兵を配置し、夜は篝火を焚いて警戒した。考えてみる らいの手合ではと思ったのではないか、そこへもって来までもなくこの隊は、本隊遠く離れて進出しているので、 て、応接座敷のあるところへ行く気で、玄関へかかり、上所謂孤立無援で、どの藩一ツでも攻撃してくれば皆滅され くら へあがった途端に隊士から、「両刀をお渡しなさい」と喰る惧れがある、しかし、そんなことをだれも考えてもみな 、つまり、度胸で碓氷峠を押え、関八州を睨みつけたの って、むッとした。武士に丸腰になれというのかと腹を立 てたが、隊士の指ざす外に掲示が出ていて、次の如く示しである。 ていた。 ◇ 一、当地ハ官軍陣中ニ付、京地同様、降参諸士ノ飛道 具携帯ヲ禁ズ。 そういうときに、水野中務、中島数馬、萩原主計、鯉登 一、降参ノ使者ハ玄関以内両刀ヲ帯スル事ヲ禁ズ。 求馬、中島右京、こういう五人が、関東神職取締所の役人 一、応接願出ノ向ハ何レモ礼服着用ノ事。 と名乗って、坂本の方面から来て、赤報隊の固めている見
さんのヘ 嘉兵衛 ( 小島喜七 ) は自筆で、「祖父宮城野錦之助は江一尸喜七は南部領三戸に女房があった、子はなかった。女房 朝鮮馬場で、将軍家の角カ上覧のとき、中入打どめの一番は南部女で二人は相思の仲だった。喜七の父親は先ごろ岩 で、鷲ケ浜と取組みて勝ち、将軍からそのとき手にしてい 谷堂で亡くなって、母親だけいる、年は五十八だった。だ た扇子を給わり、姫君から脇差をいただいた」と、文政六 が喜七は故郷を出て四年にもなるのに一度も帰ったことが かきあげ 年に津軽藩に提出した書上の中でいっている。原文はロ語ない、ことに南部女を女房にもち、三戸に世帯をもっていた 体ではない、候文である。年月を書いていないがこれは徳のだから、故郷を忘れたのかというとそうではなかった。 川十一代将軍家斉のときで、「続徳川実紀』には寛政三年母親のことは絶えず心にかけていた、だが、恩と愛と義 六月十一日のこととし、場所は吹上観場となっている。喜理にはさまれて望郷の念をもたずにいるらしくふるまって 七自筆の方では場所を朝咩馬場としている。竹橋内に朝鮮きたのである。 りしよう いわき 馬場という俚称のところがあったのである。 岩谷堂の伊達家は本姓を岩城という。東国戦乱のころ 宮城野錦之助の出生地の岩谷堂五千五百石の領主は、仙 佐竹岩城などと軍記戦記に書かれてある岩城氏の後裔 台藩では一番上位の一門という階級の伊達数馬 ( 村富 ) だ で、伊達政宗に随身したのが家祖である。嗣子がなか った。宮城野はそのひいきを受けた。伊達の宗家でも谷風 ったので伊達家の血統が家を嗣ぎ、その後もたびたび 梶之助につぐひいきは宮城野だった。 養子がはいっている。明治維新後この家は本姓の岩城 この宮城野の倅藤太郎は鍛冶を業とした。喜七 ( 嘉兵衛 ) に復した。宮城野錦之助が華やかだったころは伊達村 むらまさ は父の家業をつぐため鍛冶職になった。腕に自信がもてて 富とその次の伊達能登村将の時とにかかっていただろ くると、鍛工だけでは満足ができなくなって仙台城下へ出 う。小島喜七が注進したのは伊達能登の次の次の右近 母た。そこには相州伝・飛田大和守安定の門人でそのころ有 義隆のときである。岩谷堂は仙台藩松平陸奥守にとっ あまるめ やすとも 軽名な余目五左衛門、刀鍛冶の名を安倫という、今でも仙台 て、領内指折りの要害の地と考えられていたので、直 との刀匠といえば第一に指折られる人がいたので、喜七はそ 属の兵を常に派遣しておくのが例となっていた。 のぶかず 大の門下となって勉強し、鍛冶名を信一といい、相当な伎倆四月十四日の四つ過ぎから八つ半までの弘前蔵屋敷の調 柤になった。 べで、今まで狩場沢でも平内でもいわなかった事実を喜七 こういう素姓の嘉兵衛の小島喜七だから、仙台の嘉兵衛が述べた。それを聞いているうちに三奉行はもとより、三 という者と名乗ったのである。 奉行に従っていた者までが一時のあいだ血の気を顔から失