かくま 帰り、須永某の邸内に隠匿われ、治療に手をつくしたが遂 芸練達の道場とし、又、三余堂を設けて大義の精神作興に 資し、権田直助が薩邸にはいってからは、邸外の同志としに死亡した。死に臨み、次の一詩を賦した、年二十三。 誤為一一僧徒一傷一一此身一不忠不孝耻 = 精神一 て、挙兵の場合、援助を約し、門人小島直次郎を薩邸には 無他今日復何説泉下唯須 = 王政春一 島直次郎は変名を館川衝平といい、武州男衾 いらせた。小 / 島二三の長男で大正元年十一月、贈従五位の恩典に浴し、栄光枯骨に及 の相上村 ( 現・埼玉県大里郡吉見村相上 ) 、ト ある。 んだ。この乱闘を埼玉県関係の文書は、すべて慶応三年七 根岸友山は竹内啓等が野州出流に拠ると聞くと、門人有月二十日としている。薩邸の浪士屯集の始りは十月下句か 志五十人を率い、表には幕府側の催促に応じて浪士討伐軍らであるから、十一月のことでなくてはならない。十一月 に従うと見せかけ、実は幕軍中から幕軍を斬って崩さんとと七月と伝写又は誤読の誤りが原因となっているのだろ う。小島の死亡も又十二月でなくては、瞑目に先立って賦 計画した。が怪しまれて排斥され、とうとう、この計画は したといわれている詩の〃泉下唯須王政春〃が意味を持た 実現しなかった。明治二十三年十二月三日、病みて死す、 年八十二。大正元年十一月、贈従五位の恩典に浴した。そなくなる。 の子武香 ( 伴七を襲名す ) は父を扶けて国事に尽、瘁、出流一 件のときは名主役を勤めていた。 甲州組相州組 小島直次郎は医を権田直助に学び、剣を千葉道場に錬 り、薩邸にはいってからは、幕府の事情を探偵する役を引 甲府城を乗取って、江戸を脅かそうという目的で、江戸 受けていた。 或る日、薩邸屯集の同志のうち、松田正雄 ( 上州小幡の士 ) の薩邸を出発した隊長上田修理の一行中に、甲府関係のも 垣一作 ( 信州諏訪の士 ) 、中山信之丞 ( 下総 ) の三人と、目のが数名いた。判っているのは次の四名だけだ、この他に 黒の祐天寺に遊び、幕吏と、幕吏が招集した附近の若者等も居たと考えられる。 神田湊 ( 二四歳・本名・浅井才二貞利・甲府勤番士の に包囲され、石垣一作は負傷して捕縛され、中山信之丞は 子 ) 負傷して自殺し、松田正雄は包囲を衝いて免がれ、小島直 植村平六郎 ( 甲府勤番士 ) 次郎は激しく闘って、刀の刃こばれて鋸の如く、数カ所の 牛田静之助 ( 本名・加藤隼人・甲府勤番士の弟 ) 負傷に屈せず囲を破り、変装して、夜に乗じ故郷相上村に かこみ まっ
やることになった。 土州藩でこの事に当ったのは後の板垣退助で、この計画 に加わって奔走、いざというとき、陣頭に立つ一人は相楽 総三であった。相楽と板垣とはこのときの関係で、市中で 幕吏に追いかけられた相楽が、土州邸に飛びこみ、板垣に 隠匿われ、又、板垣が幕吏に追いかけられたとき、相楽は 赤坂三分坂の実家に隠匿い、互いに助けあった。そういう ことがあるのでその後、相楽が捕縛され死刑になったと聞 強盗偽強盗 き、板垣はその非を鳴らし、相楽を惜しんで涕泣した。 ういうこともあったのである。 江戸にどこからともなく拡まった噂があった。それは十幕府は薩土両藩陰謀の風聞に驚き、在江戸の諸侯を召集 一月朔日の夜 ( 慶応三年 ) 、薩州藩と土州藩が浪士と謀ってし出兵させた。その当日と噂された十一月朔日は何ごとも 八千余人で、江戸城の近くに放火し、勢いに乗じ西丸に乱なかった。が、油断ならずと、江戸城の諸門を固め、幕兵 入、和宮様と天璋院とに御立退きを乞い甲府に御供した上を諸所に配置の計画をした。 謡言百出、さまざまのことが市中に拡まるその一方、十 で、京都に攘夷即行を請願する企てがある、こういうので ある。米沢藩の記録によると、そういう陰謀が発覚し形勢一月から十二月へかけ江戸市中に事故が次から次と起っ 頗る迫っているので、江戸にある米沢藩の世子上杉茂憲はた。幕府はそこで次に列記した諸家にむかい、「市中強盗 志万一の場合登営して和宮様を御守護申上げることと評議が暴行致し候に付、銘々屋敷最寄七、八町を持場に相立、昼 の決し、米沢から江一尸に藩士を急行させたとある。ひとり米夜巡邏候様可レ被レ致候」と命令した。 松平中務大輔親良 ( 三万二千石・豊後杵築 ) と沢藩上杉家だけでなく、このとき佐幕の藩はおよそ同様で 総あった。 有馬遠江守道純 ( 五万石・越前丸岡 ) 戸沢中務大輔正実 ( 六万七百石・出羽新庄 ) 相薩州、土州両藩士の間で、それに似通った計画があった 真田信濃守幸民 ( 十万石・信州松代 ) のではあるが、土州藩は藩の大勢が変化して、そういうこ 松平伊賀守忠礼 ( 五万三千石・信州上田 ) とが出来なくなり、後は薩州藩が独立で別の方法をとって 薩邸焼討の朝
476 ぜてから訪問したのがその日の夕刻だった 9 て、そこもとが何とも仰せられぬうちに、こちらにて取り 森川東兵衛は笠原を待ちかねていたという態であった。 はこんでは恐れ入る、右の訳にて役人共一同、甚だ心痛の 笠原が差し出したこの度の一件の大要を記した一冊を受け折からでした」 取り、その概略を通読してから、さてさて驚き入ったるこ東兵衛のいうことは内容をばかしているが、弘前藩がど とでと挨拶して、 ういうふうに幕府に対するのか聞いた上で、それに準じた 「実は、貴様にお越しくだされたくとも申しあげかね、家届け出でを秋田藩でも幕府に出すという意味である。好意 老共と申し談じて、拙者がお国もとへ罷り出ましようかのあるところが溢れているので笠原は深く感謝して、 と、困却のところへ見えられ、まずは重畳でござる」 「能代通りご通行はまったく海岸検分です。もっとも先般 と、心から喜んだ。それはまたいかなる訳あってと笠原お話し申しあげました極内の儀は、貴殿限りのことにござ が尋ねると、 ります、もちろんただいまのところ弊藩より公辺へのお届 「せんだって能代通りご通行は、海岸の警備御覧と承りまけは差し出しておりませぬ」 した。もっともその節の極内のお話は私限り承り、内々に 「お届け遊ばされぬのでしたか」 ては家老共へ申し聞けてありますが、まず承らぬというつ「仕りませんでした」 おもくだいさま もりになっております故、御目代様へは何とも申しあげて「それではさように家老共に申し聞けます」 ござりませぬ、しかるところ追々にその一件の風説高く相 その晩、森川東兵衛が八郎兵衛を旅館に訪ねた、答礼で なり、江戸表にも知れわたりし様子でござる。御目代様にある。そのときに、 はただいま御下向中にござりますが、何ともごそんじなき「御目代様には十月ごろご出府、その節、疋田斉がお送り 1 一こうぎ かかわ ままお届けも仕らずでは、御幕府に対してお勤めにも拘り申しあげ出府いたします。このたびの件については、江戸 ます儀にござる」 表にて疋田斉にご面会の上仰せ談ぜられたい」 と、 東兵衛のいう目代とは、久保田二十五万五千八百余石の いった。いずれ評判が高くなっていることだから幕 よしひろ 佐竹の当主義厚が家督相続は足かけ六年前にしているが十府へ届けねばなるまい、そのときは秋田藩は弘前藩との振 よしとも 歳、そこで佐竹の支藩で秋田新田二万石の佐竹壱岐守義知合いの範囲で届け出でをするつもりだということである。 が名代を命ぜられていた、それをいったのである。 森川はその晩、 「かつはまた家老共の勤めむきにも拘りますが、さればと「事件は四月下旬なりしに、五・六・七・八と四カ月を跨 き、ま
野州挙兵の隊長竹内啓 し、権田直助に医術を学んでいよいよ勤王論が身につい た。大正三年七月三日、年七十六で他界した。 甲府城攻略隊長上田修理 相州襲撃隊長鯉淵四郎 ◇ 十一月二十四、五日ごろ、野州挙兵隊と甲府攻略隊と、 相楽は浪士中の幹部と、益満休之助、伊牟田尚平、篠崎二手のものが、相前後して江戸を出発した。出発の前日、 彦十郎等と協議の上いよいよ積極的に動き出すことになり相楽総三が盛んなる生別死別の会をひらき、慷慨淋漓の激 方略を樹てた。それは江戸を中心に三方から徳川幕府を脅励の辞を述べ、一死報国の実現を望んだ。 かそうというので、一つは野州で討幕の兵を挙げて江戸か野州挙兵隊で、三田の藩邸から出発したものが何人であ オカこれを養父落合直亮の談を骨子にした『白雪物語』 ら東北へ行く口許を押え、一つは甲州の甲府城を攻略してつこ : ばか 甲信方面のロ許を押え、一つは相州方面を騒がせ東海道筋 ( 落合直文 ) でみると、「一群六十人許り、そを野州に遣わ の側面を押え、江戸に居残りの面々は日夜とも幕府に挑発す、是を率いたるものは竹内啓、従うものには会沢元助、 を仕向けて居たたまらないようにする、この四つが実行さ西山謙之助などあり」とあるが、『薩邸略記』でみると、 れれば、西郷、大久保の目論見である、討幕の軍事行動を「野州方面の隊長は竹内啓と衆議一決し、同志西山謙之助、 起す機会が促進され、皇政復古の実現が一日も早くなるだ奥田元その他数人行をともにし」といっている。両方とも ろう、それには火急に実行しなくてはならぬというので、薩邸浪士から出た記述だが、事によると、「白雪物語』に それそれに向けて下準備にかかり、上州、野州の浪士のうは文飾があるかも知れない、とすると「薩邸略記』の「そ ちから選定して集会を開き、協議を急速に進める一方、甲の他数人」といっている程度が真にちかいかとも思う。別 州方面のことも、相州方面のことも、調査を重ね、連絡のの方面からこれをみると、『野州岩船山浪人追討聞取書』 密使を出し、その一方では江一尸市中の大商人の中で、どこ ( 館林藩士藤野近昌 ) は「慶応三卯八月の末頃より、諸浪人 きた 野州鍋山村に集り来りて、一民家を借り受けて、此処に毎 を押せば幕府が痛いか、その調査内偵もやらせた。 薩邸内糾合所で幹部と幹部どころの総会がひらかれるこ日密々評議に日を送り居たりしが、共内追々人数相加わ と数回、野州の挙兵、甲府鹹攻略、相州荻野山中の大久保り、大将分として知名の人々は、竹内啓、会沢元輔、不破 氏の陣屋襲撃と、この三つも出動者が決定し、その隊長を歓一郎、安達孝太郎、西山謙之助、山本必衛等なりと、里 人之を云えり」といっている。だが、竹内啓が、川越在小 次の如く決定した。
に違いないと覚ったのである。 浪士達の船はまだ見えなかった朝 海戦 その日、江戸湾にいた幕府の軍艦二隻とは、砲艦の回天 丸と一段砲装の三等艦の咸臨丸とである。咸臨丸は品川台 鮫洲で、相楽総三、水原二郎、科野東一郎はじめ、幹部場沖に碇泊し、故障修理のため汽罐を取りはずしたばかり が漁船三隻を雇い入れ、それに浪士全部を乗せ、沖に碇泊であるから、開戦となっても進退不自由、辛うじて砲撃が している薩藩の武装汽船翔鳳丸 ( 四六一噸 ) に向い漕ぎ出出来るだけである。薩艦翔鳳丸は咸臨丸より約一丁の沖、 させた。翔鳳丸は元治元年四月、薩藩が長崎で買入れたイ回天丸は更に沖へ三、四丁のところにいた。 ギリス船ロチウス号の後身だ。 回天丸は四百馬力三本マストの木造で、幕府が長崎でア 翔鳳丸は僚船平運丸 ( 七五〇噸 ) と、去る二十二日に出帆メリカ商人から買った進水後十五年目のもので砲十一門を もつ。明治二年五月十一日の函館海戦で、幕府の脱走方の のはずだったが、平運丸だけ予定通りその日に出帆させ、 翔鳳丸は残って陸上の形勢に随って出帆の手筈でいた。翔海軍として闘い、損傷して浅洲に乗りあげ、乗組員が火を 鳳丸船長白石弥左衛門は形勢視察に、きのう上陸し、けさ放って焼いたのが艦歴の終りである。 は三田の薩邸で幕府側の捕虜となった。が、そういうこと咸臨丸はオランダ政府が幕府に製艦して売ったもので、 進水後十一年目、百馬力の木造スクーナア・コルヴェット は翔鳳丸に知れていない。 伊牟田尚平は江戸城二の丸に放火した直後から、翔鳳丸で百馬力、砲十二門をもっていた。この船が駿州清水港へ の乗組員に化け、澄ましていたが、この日の朝、三田の薩難航して避難中、官軍の襲撃するところとなり、乗組員三 邸方面に砲声を聞きつけ、銃声がそれに続いて起り、やが十六名が殺され、死体が海に棄ててあったのを、清水の次 て火災を見つけた。と、副船長伊地知八郎が決意して、出郎長が葬ったという有名な話がある。晩年、北海道で使っ 帆用意を命じ、引揚げてくる薩邸の人々浪士の人々を待ちていたが、忘れられたと同様に廃船になった。 受けた。そのうちに幕府の海軍所の方から太鼓の音らしい ◇ ものを聞いた。それは多分人寄せだろう、つまり、〃上陸 中のものは至急に艦船に乗れ〃だ。伊地知副船長と伊牟田幕艦咸臨丸は進退不自由なので、砲ロだけ翔鳳丸に向け 等は戦闘準備を命じた。近くに二隻いる幕艦が火蓋を切るた。回天丸は煙筒からどんどん煙を吐かせていた。だれに しなの
ちょうど つきとしし = 一口 と、い、殺気を帯びていて、取次を断り衛の任に就いて、その年八月、恰度、帰郷しているとき中 山忠光を盟主に戴きたる天誅組が、大和五条の代官鈴木源 でもしたら、刀をすぐ引ッこ抜きそうな気配がある。 そのときの宇和島藩邸には、藩主は居らず夫人も既に国内等を血祭りにあげ、八月二十一日、天の川辻に本陣を布 許へ引揚げ、江戸定府の主なる人々も引揚げ、至って無人き、十津川郷士を召募した。郷士は野崎主計をはじめ、 で、監察の檜垣弥三郎その他数人がいるのみだった。檜垣月二十五日までに来り投じたるもの総数九百六十人、その は幕末の宇和島藩の名臣吉見長左衛門の甥である。取次の中に子供子供した前田正人があった。天誅組が大和の国高・ ものの話を聞いて、「よろしい、どんな奴か会ってやる」取藩 ( 二万五千石・植村駿河守家保 ) の違約を憤り、攻撃した が勝てなかった。そのうちに京都から、「中山侍従などと と、若い浪士を門内へ入れて会った。 若い浪士は、「自分は考えるところあって、有志のもの申し候人、差下され候儀一切これなく」と十津川へ沙汰あ と、三田の薩州邸へはいっていて、昨日の事に立ち至ったるに至った。これは筑前の平野次郎 ( 国臣 ) が、その始め に学習院の命で、天誅組挙兵を差止めにきたとき、松本謙 ものです」といった。檜垣は驚く気色もなく、「それで、 どうなすった」と、聞くと浪人は、「品川沖の薩艦へ乗り三郎 ( 圭堂・三州刈谷 ) が、「義を執りて賊名を避けず」と こむため沖へ出ましたが、幕府の軍艦との間に海戦となっ答えて応じなかった。その賊名を被むるときがきたのであ て、われわれの艀舟は遂に乗り遅れ、羽田へ一同が上陸しる。相楽総三等の最期が又それに似たところがある。 て、一先ず分散し、今後の機会を待っことになり、昨日か十津川郷士中に賊名を厭うものが尠くなかった、遂に郷 ら自分ひとりとなり、幕吏側の眼をのがれ逃れて只今これ士の主なる野崎主計が脱退して、責を一身に負って自殺し かくま まで参りました。願わくば両三日の間お隠匿いくだされまた。それによって郷士の脱退続出し、天誅組一千余人とい いか、お願いします」といった。檜垣はすぐさま、「承知われたのが、僅々百余人に減じた。天誅組残りの人々の、 しました、武士は相見互いです、拙者の一命に換えても必悲壮な最期が諸所に起ったのは、これから後、間もなくで ずお隠匿いするからご安心なさい」と央諾した。この若いある。 前田正人は高取藩攻撃をはじめ、実戦を経験した。が、 浪人は、そのとき本名を打明けた、大和十津川郷の風屋の たかのり 出身で、前田正人、二十歳。後の前田隆礼陸軍中将であ郷党の殆どが天誅組を脱して帰郷したので、九月二十五日 る。 の未明、おなじく脱退して、風屋の父前田利一の許に帰っ 前田正人は文久三年、十六歳のとき京都に出て、禁闕守た。翌年の元治元年の二月から十一月まで、伊勢の津に行
水村吉三郎 ( 本名・笹田宇十郎・甲府 ) の宮司で、天正年間から畑一町山林一町八反を徳川家から その他同行者で、氏名がわかっているのは、次の人々だ給されているので、屋敷を俗に八反屋敷といった。藤太の けである。 父は外記で、嘉永五年に初めて振鷺堂という私塾を開き、 隊長上田修理 ( 四七歳・本名・長尾真太郎・武州 ) 子弟の教育にあたった。この外記の息のかかった者の一人 に黒駒の勝蔵といって、後に四条権少将隆謌の親兵隊長小 今大路藤八郎 ( 本名・安田丈八郎・美濃大垣 ) 堀秀太郎 ( 相馬中村藩脱走 ) 宮山勝蔵がある。講談小説の黒駒の勝蔵と実際の勝蔵とで はひどい違いである。外記が志士だったのでその子の藤太 重助 ( 僕 ) 原宗四郎 ( 本名・甘利建次郎・会津浪人 ) が、祝詞をあげているだけの宮司ではなかった。その頃、 これに柴生健司 ( 音清・十九歳 ) がいただろうと推定され藤太が甲州城を脅かす反幕府の同志とは、支配の幕府代官 し、が、この後に説く赤報隊 る。柴生健司は小倉藩の高尾友七の二男で、江戸で斎藤弥所でも気がっかなかったらし、 九郎の道場で剣を学んでいて、薩邸へはいったもので、上の悲劇の直後に、檜岺神社 ( 神座山権現ともいう ) の社用と 田修理の組にいた。 称し、京都へ行っているところでみると、相楽と関係がそ 甲府乗取り組が薩邸を出発したのは、野州出発組のあとのときもあったのではないかと思われるが確かでない。振 で十二月十五日だ。 鷺堂は明治元年師走に閉鎖した。「家塾及寺小屋調査』に 隊長の上田修理は野州挙兵隊の竹内啓の謹厳と違い、豪は藤太の人物に就き、「教育の余暇、農、蚕、植林、勧業 放磊落で、酒も女も好きだったので、横山十五宿といったを好み、多くの標準となれり」と記載している。 八王子に着くと、宿を妓楼の千代住と壺伊勢というのに選当時、甲府城は相州小田原の大久保加賀守 ( 忠礼 ) が、 志んだ。甲州黒駒の神職武藤藤太が同志と謀って、上田修理城代を命ぜられて足掛け四カ月目であった。甲府へ人数が のの隊をひき入れ、兵を挙げて甲府城を脅かそうというので行ってもいるし、大久保加賀守自身は大坂にいた。随って とあるから、成功か不成功か予想すれば、十中の七、八は不小田原の方は手薄である。それを狙って、別に、相州行の 総成功だろうから、命はないもの、そういう気があるので、 一隊があった、その方は坂田三四郎が隊長で、おなじ頃に 相往く道中だけは浩然の気を養うという、やり方をしたもの薩邸を出た。この相州行の一隊は、あわよくば手薄な小田 らし、 原城を乗取ろうというのである。 ひみね 武藤藤太とは甲州八代郡上黒駒村の神座山檜岺神社世襲 八王子の妓楼千代住、壺伊勢に泊った上田修理の一行
相楽総三とその同志 江戸から来た一人で不破貫一郎 ( 二四歳 ) は信州高遠の出 身、敗戦の十三日、下総の結城で、幕吏と斬合い討死を遂 長谷入道 ( 二三歳 ) といって、野州の上永野出身の人は、 皆川村で捕えられんとして斬死した。小林進之助もおなじ ところで同時に斬死した。敗戦直後の十二月十三日であ る。 ◇ 幕府側について出陣した小中村の郡造の倅を石井郡三郎 という。その親友織田尚種が竹内啓の軍に投じていたが捕 われ、郡三郎が救解に奔走し事なく釈放された。小中村の 青年で生擒され、郡三郎の救出をうけたものがその他にも あった。これは石井関係の文書にも記されている。
214 に落合は、〃原田七郎、同志ヲ募リ兵ヲ豊後ニ挙ゲ、日田の人柱事件が起った。原田七郎は時に年六十一、高橋清臣 陣屋ニ屠ラントシテ失敗シ、七郎縛ニ就キ、大坂ニ護送セは五十八歳だった。 ラル、船中、幕吏七郎ヲ汽罐ノ傍ニ繋ギ、焼キ殺スト云世間の多くは早合点で、明治維新は青年によって成れり フ、七郎ハ小倉藩士原田重枝 ( 本居門人、『かへしの風』の作という言葉を鵜呑みにしている嫌いが尠くない。薩邸事件 者 ) ノ弟ナリ。長グ関東ニアリ、直亮等同志ナリ〃と、書にみても、六十歳の権田直助、四十三歳の落合源一郎と三 いてある。この原田七郎 ( 重種 ) は関東で、相楽とも識り十歳の相楽総三が最高幹部だった。又、原田七郎といい高 あい、落合や後の金井之恭とも識りあして前 、 : リにいった新橋清臣といい老人だった。人生諸般のこと、年齢のごとき 田満次郎を擁して義兵を挙ぐるに呼応するという計画を持はそもそも末、人にある、人である、心ある人による。 ち、九州へ引返し挙兵を計った人で、原田の同志は漢学者権田直助 ( 玄常 ) は武州入間郡毛呂 ( 現・埼玉県入間郡毛呂 の奥並継、下村御鍬、南省吾、国学者の佐田内記兵衛、高村本郷 ) の医師、権田直教 ( 嘉十郎 ) の子で、文化六年十一一 橋清臣、柳田清雄、神道学者の時枝重明、石坂重代、重松月十七日に生れた。権田家は代々医師だった。父直教が歿 義胤等で、木子岳に兵を挙げんとして失敗した。そこで原したとき、直助は八歳だったので、さしも続いた権田家の 田は高橋清臣と一一人で、京へのばり、花山院左中将家理を医業が絶えた。直助は漸く長じると、幕府の医家間宮広春 説いて頭首レ こいこだけば、招募に応する有志が多かろうと院に医を学び、二十五歳のとき、医業の門を、父の歿後十 考え、豊後から海路をとって大坂まで来たところ、同船し数年で、受け嗣いだ。 ていた武士の密告で、幕吏に襲われ、格闘の末、縛され 直助は親友の安藤直道という医家の勧めで、江戸にのば た。両人とも大坂町奉行所で拷問にかけられること十五日 って平田篤胤の門にはいった。これで、直助は医師として 間、次に、豊後日田に護送された。日田は幕府の代官が居は古医道を研究し、志士としては日本の国体を研究し、遂 るところである。護送半ばの伊予沖で原田も高橋も死んに、慨世の志を三十一文字に託するようになった。 だ。初めから殺すつもりで蒸汽船の汽罐の傍へ繋ぎ、つま くすり師の神習ふ身のかひなくも り蒸し殺して死体を海へ棄てたといい、死体は日田代官所 国の病ひを見つつ過ぎてき へ持って行き棄置きにしたとしし月 、、、合中で惨殺して海へ投母が寿を終ると、矢の弦をはなれた如く京にのばった。 げこんだともいう。この事件の後をうけて、幕末壮挙の一その前にも京へのばってはいるが、そのときは医術研究た ッ〃御許山の義兵〃という悲壮極まりなき維新達成のためつこ。 オ今度の上京は違う。直助は「人の病いは国の病い もろ
142 僅に数名のみ〃とある。これは浪士のことで薩藩の人のこり」と、再び記している。柴山良助は薩邸で死し、南部は とでない。伊東武彦は河内市郎といった薩州出身浪士隊の前記の通りである。 ひとりで、杉山三郎、柏武彦とも、 、麦こ伊東祐忠とい ◇ った。伊東は幕臣山岡鉄太郎が奔走して助命し、引取って おいて後に薩州へ帰らせたという説がある。 浪士の戦死は武内光次郎 ( 美濃 ) 、奥田元 ( 信州 ) と、山田 「続藩翰譜後御事蹟』には " 降人に出ずる者四十二人、討兼三郎である。山田は前にいった内藤縫之助に情けをかけ 取る所の首二級みとある。 た有情の人だ。 幕府の撒兵頭大平備中守は、この日、兵を率いて岩槻藩奥田元は糾合方浪人隊では使番、その素性は詳かでな の持場である、七廻り通用門にいた。撒兵隊差図役長堀勇 い、例の「人名録」二ッとも〃信州上田藩〃とあるのみで 一郎 ( 後に佐藤正興と改名、明治三十一年七月まで六年二カ月間 ある。「上田市史』 ( 昭和十五年版 ) は〃奥田元、上田藩 小石川区長であり、又、明治三十九年五月まで一年九カ月間、再士、焼討のとき流丸に中り死す , という程度である。焼討 び小石川区長であり、市政に活躍した ) は七軒町通用門で、薩の直後、現場へ行った井上頼圀の手記には、 . " 隣りの徳島 州の南部弥八郎、肥後七左衛門を降伏させ、姓名不詳のも藩邸の中で、奥田元が死体となっていた、首は持って行か の一人を銃殺し首級を挙げたと、後に人に語っている。 れたとみえて無かった、鉢巻が落ちていてそれに奥田元と 幕末から明治へかけ日本在勤だった英国の外交官アーネ書いてあったので判った〃という風にある。察するに上の スト・サトウは、日本文字で佐藤愛之助と姓名を自分で撰山藩の陣地へ斬込んで戦死したものだろう。「上田市史』 んだほどの日本と日本人とに理解と興味をもった人だ、こ には " 井上元・上田藩士、焼討のとき上の山の兵に捕わ の人の「回想の日本』 に、「予は三田薩邸の柴山、南部とる〃とある。「人名録」二ッともに、井上元というのがな 交友あり、政局に関する情報を受けた、両人は一八六七年 い。「志士人名録』 ( 史談会編・明治四十年版 ) には〃奥田 十二月、幕府によって薩邸が焼討され捕虜となり、柴山は元、一書に井上とあり〃とある。 拳銃にて頭を射ちたりと聞く、予は良き人物なりし両人と「越奥戦争見聞録』 ( 松代藩士・片岡伊左衛門 ) にある、同 冒険旅行をたびたびなしたり」と記し、翌年二月のところ藩士八木源八の手紙に拠ると、二十六日に薩邸焼跡へ行っ では、「南部、柴山は磔刑と打首とによる死刑に処されたてみたら、七、八人死んでいる中の一人は甲冑を着け小銃 りと報告を聞けり、予はその復讐をやりたき衝動を感じたでやられたらしかった、死体六人は裸にされ、首は首、胴