の義という大いなるものがある、すなわちそれは日本と日咬みつかれて命とらるる結果がくる、日本守護の鬼神とな 本の士農工商のつながりだ。日本と申し奉るは、上ご一るべき時、蝮に咬まれて死んで申訳が立つか。われ人とも 人、その他はすべて大中小とりまぜて士農工商。わが藩のに何事も一期と心得て忘るべからず。一期とは一世一代と 山鹿八郎左衛門があれほどに叫んだを知らぬ筈がない津軽いうことだ。何事も一世一代、今度のことも一世一代 もののふ の武夫ではないか、しからば、日本の義の前に主従の義の他藩の例はどうあろうとも、日本の北を鎮護し奉る弘前藩 ごときは藁屑のごとしではないか、さればこそ、下斗米某において、児戯のごときはなすべからず。日本の大名は何 は、日本の危機が北より切迫し日本守護のため一人の力ものためにあるぞ、大名の家来は何のためにあるぞ、そこを 大切至極の時に、私憤を誤って義なりとして起っ、憫むべ深く覚れ」 し、彼奴は何のための学問をしたのだったか。右、断じて と、説得して抑えつけた。 誤りなき論である。さてそれでは彼を何としたらよいかと ところが、津軽頼母はああいっても、南部藩との衝突が いうことになる。何ともせぬがよいのである。下斗米某はないものでもないという考えが藩の主なる人の間にある。 しかるべき学者の門人で、東西南北を一応は知った者、た笠原八郎兵衛はこの説に大賛成で人に知らさず八方に手配 だ眼が開いておらぬだけのことだ、打ちすてておけばやが した、その熱心さの底にあるものは頼母の人物に服してお て眼が開く、彼に師があり友があり、それらが人がましきらぬということである。当時、それに心づいた者はなかっ 者であればあるほど眼がひらく、眼が開けば日本の御為にた。頼母ですら知らずにいた。 カ相応のことはするだろう。それでは相ならぬ彼を斬るべ しかし、事件の調査と南部浪人の計画を確実に証拠だて し突くべし、そうせねば怨みが晴れぬというのだったら、 る手配を津軽頼母は抑えなどしない、それはそれで出来る 母愚昧の同類に自ら進んで落ち、日本の大事を忘れたあほう かぎり完全な証拠固めをやらせた。頼母のは弘前藩主が俯 軽になる。刺客を放つなぞとは下策だのう。ましてや、遺恨仰天地に恥じざる証拠を固めるための事件の調査吟味であ どばらしにいたっては下々の下ではないか。刺客を放って返る。八郎兵衛のは南部浪人一派とその背後のもの、はっき 大り討ちになってみよ、津軽はあほうの大揃いじゃと自分でりいえば南部藩を敵としての証拠集めである。一つ事なが 柤触れ歩くも同然だ。首尾よく行ったとてどうなる、遺恨ばら本末の相違に甚だしいものがある。 3 らしが出来ただけではないか、そのあとに何が残る、あち何といっても今のところ弘前藩の手にあるのは小島喜七 まむし らに遺恨がのこる、そうするとな、逃げる蝮を追いかけてただ一人の生証拠人のみである。その喜七がいう砲殺計画
まり、それだけ新らしい資料が付け加えられたのです。しかの姿勢を思いおこさせます。ほんものだな、と思わせるので も改修本の自序の中で、著者はこう言づています。 す。 「 : : : といってこれが決定版だというのではない」 さらにもうひとつ、著者は常に日本という国を正確にみつ これでは増補版ではないですか。改修なんて謙遜にすぎまめようとしたのではないでしようか。それも手垢のついた従 す。初版本自序で著者は「 ( 私と雖 ) その時における可能の知来の史書によらず、在野の書を利用したことに痛烈な皮肉が 悉を永久不変と傲信するはど不遜ではない」 ( 括弧の中は改修あります。草莽の人を草莽の書によって掘りおこすのです。 原本に書きこまれたもの ) と書かれていますが、これでは遠慮著者は明確にそれを意識しています。本書に引用されている がすぎると思うのです。使い古しの封筒と言い、書き加えのので、必要から私も読んだ「百話もの」と呼ばれる篠田鉱造 姿勢と言い、明治の、それも前半の明治人の骨ぶとい体格との無名の庶民の記録に、著者は序文を贈ってこう言っていま 体臭を私は感じました。昭和うまれの私の歯がゆがりを、著す。 者は苦々しく思われていることでしようが、自己主張の多い「翁の『幕末百話』は、私の愛読おかざるもので、 まだ 今では、謙遜がもったいないと思われるのです。 まだ『百話物』は豊富に持ち合わせていられると伝聞する。 一カ所を除いて、という部分もこうです。「薩邸焼討の朝」続々刊行されて、父の国、母の国、日本を再顧する資料を、 の中で、初版本では「 : : : 鹿島万兵衛という人の『江戸のタ世につかわされることを希う」 栄』にあると何かで見た。そういう本をまだ見ていないの ( たけだやすみ・作家 ) で、孫引しておくに止める」と未確認であることをためらい なく告げ、改修版では、著者はその本を探しだしたのでしょ 一月十五日発売 う、はっきり『江戸のタ映』を紹介し、確実な資料として書次回配本 き改めているのです。 孫引きはおろか、他人の著作の無断借用などが多い今の世第十一巻股旅の跡 の中で、この姿勢はさわやかをとおりこして、毅然たる不動
たとおっしやっこゝ、 オカ色の白い眼の大きいご家中の方がお 「それは理窟はそうかしれないが、わしには怖い」 前たちのしたことを心なき者はとかくに評判するかもしれ 喜七がたまりかねて口を出した。 くら 「兄貴がそんなことをいうなら信一もいう。もともとこのなしが、よくよく弁えていろ、今の日本には北から啖いっ こうとする国がある、その他にも目をつけている外国があ ことに信一は何のかかわりあいもなかった、それを兄貴が 涙を流してたのむから、恩のある三戸のとっさん、義理のって、中でもイギリスという国は、日本を取ろうという企 深い女房にまで打明けず、狩場沢へ出訴してきようまでこみをしたことすらある、こうおっしやる」 イギリスが日本を併呑しようとしたということは有名な うしている。これを見てくれ、きのう受取った女房がよこ した手紙だ。女房は、男には男の義理があるからそのため大航海家キャプテン・グッグに関係のあることで、イギリ にお前さんが死んでも悔まない、どうかくれぐれも義理にスはそのお先棒に帝政ロシャを使わんとした秘密がゆくり なくもヨーロッパで暴露した。これが日本ではハン・ヘンゴ つくしてくれ、世間ではあたしなどのこともよくいわない が、亭主が義理をたてるのに代えられないから、こっちのロウと呼ぶハンガリーの陸軍大佐・ヘニオフスキがポーラン トのためにロシャと戦って捕虜となりサガレン ( 樺太 ) に ことは心配無用、と、わが女房ながら健気なことをいって きた。兄貴、その手紙をみたら嘘にもしつかりしてくれ。流刑に処され、破獄してロシャ船を奪ってわが日本に漂流 いくら門人でも徳さんにもすむまい、徳さんは兄貴、お前してきて、日本人の好意に感じて伝えた、そのことをいう さんのために来ずにいてもいい南部へきて、師匠をかばうのである。 「だから日本は前とうしろに虎と狼がのそいている場合 一心から、下斗米の一味にさえ加わったのではないか」 だ、そういう時に、二十万石の大名と十万石の大名が喧嘩 「嘉兵衛さん、もうどうそーー師匠が泣いてしまってい から戦争にでもなったら、それこそ日本の不祥事だ。お前 母る」 軽「兄貴、いつもそうしてしまいには泣く、それではあんま方はそこまで気がっかなかったろうが、大名と大名の一大 とりだ」 事を食いとめてくれたのだ、それを思え、お前方のやった ことは立派なご奉公だ」 大「嘉兵衛さん、もう何もいわないで頂きます」 「それを、わしも聞かせていただいた、兄貴と一緒だっ 榧「ああ、いうま、 しいうまい、だが徳さん、お前にはいっ 行もいうことだが、苦労ばかりかけてすまない」 「へえ。師匠には私も申したのですが」 「いいのですよ嘉兵衛さん。そういえば嘉兵衛さん、どな わきま
ざりませぬ」 人との戦にて、天子様は御一統におわします、ただ、その と、じろりと八郎兵衛に射るがごとき一瞥をくれた。 下の大将のみ相替るばかり、しかれば上御一人より下々共 文化二年五月七万石に高直りとなり、同五年十二月十万にいたるまで、皆これ天照大神宮の御末、しかるに前申す 石に高直しと同時に、四品に叙せられた。「これは蝦夷地ごとく、赤夷共に取られ候て相済み申すべき事か」 の功に依る」であるが、昨年十二月十六日「その方儀、数越中守は粛然として聞き入った。視線をどこへやってい けたい 年、松前お固め解怠なく相勤め、ことに年配にもいたり候 いかという風に、うろうろする時もあった。 につき」とあって、「侍従、これを仰せつく」と、江戸城頼母は平談の調子に戻って、 中の白書院で土井大炊頭 ( 老中 ) から仰せわたされた。だ 「以上、数々申しあげましたるは、ご当家と南部家とは、 ほくへんまもり が、その裏に笠原八郎兵衛の暗躍が効を奏したことはたし大日本の北辺の戍を勤め、外国の窺覦を防ぎ退け、国土安 かである。それを頼母がびしりと叱りつけたのである。 穏の責に任ずる大名、日本に三人とはなきお身にござるこ 頼母は襟を正していい出した。 と、とくとご合点を願いませいでは、これより頼母の申し 「山鹿八郎左衛門、海防論の節、諸代官に申し渡しましたあげますることをお聞き届けなく、日本不幸の手伝いする る箇条の筆記より二、三、ひきだして申しあげます。お聞暗愚の将と後世に永く恥かきます、後世永き恥などは論す き遊ばされませ」 るに及びませぬ、天子様に何と申しわけ遊ばされますそ。 朗々と読みあげた中に、次のごときことがある。 弘前といい南部といい、たれといい彼というとも、たれ 「御国 ( 津軽 ) 、南部のところは、、 」口にて ( 日本の北よりのか、日本の国の御為に命奉らぬものでござりましようや、 かなめ 入口の意味である ) 、扇にてたとえて申さば要のところ」 奉るべきに命奉らず、南部に生えたる人間蠅と命を争い給 たからくに ろう 「かよう宝国をオロシャ人に取られて、我どもは山陰などうのですか。お目前に繰りひろげたる大日本絵図をご覧じ に隠れおり、その後、女どもはなんといたすべきか、生きませ、何のための大名、何のための武門の雄、何のため、 てはおられまじく、ことにわが国は神国武国にて、神代よ士農工商の上につき給う御身には生れ給いしか」 りこれまで外国より少しも破れ犯され候事これなき儀、し越中守は汗をさきほどから掻いていて、時々ほっと息を あか かるに赤夷共に奪われ候ては生きていておらるべきや、尤ついていたが、 も古え源平の戦より足利、それより信長・太閤・権現様「誤った」 ( 家康 ) まで数年の戦これあり候えども、皆、日本の人と 「おう、ご合点がゆきましたか」 いちべっ かみ
174 僅かにあるのは水原一一郎 ( 落合直亮 ) の「難航図録」 一葉のみ、それによると、二十六日暴風雨に遭ったのは伊 豆と遠江の海上で、駿河湾を真北にしたところから、東南 へ吹き流された。翔鳳丸は速カ七ノット、横波に脆い船な ので、伊地知八郎以下、その弱点を庇って風浪を凌ぐのに 手一杯だから、ぐいぐい流され、八丈島沖を更に又東南へ 吹き流された。翌二十七日になって、苦心惨憺して針路を 元の位置にとり、辛くも再び駿河沖に引返し、遠州灘にか 元旦の砲撃 かると、又もや暴風に翻弄され、ぐるぐる一ッ処を旋廻し、 二十七日の夜が過ぎ、二十八日の朝になって、風がやっと 十二月二十六日の未明、伊豆の子浦を出た翔鳳丸は、南凪いだ。大体、こうである。 伊豆をうしろにして進み、駿河湾を遙か北にして遠江灘に 翔鳳丸は損傷を伊豆の子浦で、土屋伝次郎が主任で仮修 さしかかった。天候、このころから急変し、ひどい暴風雨理をして出帆したのだから、暴風雨中にひどく横波で叩か となり、四百六十一噸の翔鳳丸は、さんざんに翻弄され、 れたのではひと溜りもない。 今度は転覆するか、今度は沈没するかと、危険にぶつかる船中にひとりの若い薩人がいた。後の日本海軍の燦爛た こと数知れず、船長のない船だったが、Ⅱ、 鬲船長伊地知八郎る大立物、伊東祐亨元帥である。伊東元帥の勲功は沢山あ と、準士官土屋伝次郎が指揮をとり、一人として絶望せる。明治の日清戦役にあたり、黄海の大海戦で、イギリス ず、一人として死を怖れず、二十六日の午後から二十八日仕込みの清国の名将丁汝昌の艦隊を粉砕し、絶対の勝利を の朝まで悪戦苦闘した。相楽総三以下の浪士は、陸では猛確把したことは知らぬものはない筈である。敵将丁汝昌が 士だが海上では弱卒だった。悉く船の底にぶッ倒れ、半死劉皇島に毒を仰いで自決したのに対し、伊東元帥がとた 半生の態でいた。伊牟田尚平はさすがに、全日本を、海航日本精神の現れは、千古の美談である、これも知らぬもの 陸行で飛び歩いたたけに、船員を激励しつづけた。 はない。その伊東元帥の談とおばしきものに、当時、回天 この難航の日誌が翔鳳丸にあったかも知れないが、後に丸の砲撃を食った翔鳳丸の損傷は十六カ所あったと遺って 自焚したとき灰になったか、波に持ってゆかれたか、無いる。 赤報隊の進軍
二人は大吉が背中を丸くして泣いている姿を見ると眼を いんと響くものがある、そこまででよい、それ以上はいら そむけてその先をいわなかった。 ぬ、無益だ。小才にまかせて意趣返しの愚挙は固く禁ずべ し。万一、あちらさんの間者が、こちらで証拠を固め終っ 江戸の津軽屋敷へ国もとから指令があったので、留守居たと、まだ嗅ぎつけておらぬようであったら、それとな 役が命ぜられて仙台伊達家の留守居役へ交渉がひらかれた く、かくのごとく証拠が揃うたので、事実が掌のすじを見 のがその時分のことだった、交渉は大吉の身柄についてでるがごとく明かになったと教えてやることだ」 ・一ら ある。 「それでは悪を懲さぬことになります、悪を罰せざるは善 「貴藩の領民、岩谷堂の鍛冶職人大吉儀、お預り中のとこを彰わさぬより結果がよろしくござりますまい」 ろ、九月中には相違なくお返し申しあぐべく」 というものがあった。頼母はからからと笑って、 と、いうのがそれだった。下斗米大作らと南部藩に対し「他人が尋ねたら津軽の者はこういえ。下斗米某は易世革 どういう手を打つかが決せず妙に紛糾しているものの、九命の国でならあつばれの士だが、わが日本ではそういうの とうどじたて 月までには一決するだろう、こういう弘前の重役の見込みを唐土仕立の士というて出来が悪いとする、日本には日本 しどう で九月中と月を限って交渉させた。仙台藩ではそれを快く古来独特の士道がある、津軽には日本の士道のみあって唐 承知した。 土仕立の士道がない、南部にはおありとみえる、もっとも 下斗米某のやり口は俗受けがするからその必要があるとな とこのくらいのことはいって ら今後も随分と狙うがいし 大作一件に対して津軽頼母の意見は、放胆とも洪量ともやるがよい。わしは下斗米某の性質を調べさせてみて、い 手ぬるいとも警抜とも観る人の器量次第でどんなにも判断やそれではと大きに安心していることがある。かくいうは かんこう されるものだった。 二の者の申しあげます 机の上で拵えた勘考ではない、一、 わんや独り合点 「わが君公に危害を加えんとしたという証拠が、残りなくをおいそれと丸呑みにしたのでもない、い てまえかん 揃ったらもはやそれ以上は何もせぬことだ。あちらさんとか手前勘とかいうものではない、熟慮判断の結果だ」 それでは南部盛岡藩を何といたしますかと尋ねると、 ( 南部 ) でも生きている人がござる、如才なく間者をこちら へ入れて、お家に大疵がっきはせぬかと心を配っているだ「叱言をいわねば効かぬ時がある、おなじく叱言をいうに ろうから、証拠固めがことごとく出来揃うたとわかるとびしても、最初まずびしりと撲っておいて叱言をいうのがよ
るのでなく、数多の諸士のことごとくの顔だ。南部浪人の向けられた。 跳梁にいささかも屈したのでは津軽武士道がすたれますぞ頼母はいつの間に手にしていたものか、扇で袴の膝をは という顔である。 たはたはたと激しく続け打ちして、 頼母は何の苦もない様子で、節くれだって太い手の指を「あほう」 あげて西の方向をさした。 と、怒号した。色めきたっ代表を、はったと睨んで頼母 は再び、 「道路は、きわめて安心、いささかの懸念もない」 っこ 0 と、 「あほ、つ」 西を指さしたのは年々久しきにわたる例を、このたびに と、今度は匙を投げたように扇をすてていった。 まなこ 限って破って、秋田から森岡 ( 秋田領 ) まで従来通りの道「おぬしらは眼をどこで失ったか、耳をどこで失ったか、 路をとり、森岡から能代へはいり、それから八森・岩館を性根をどこへ忘れてきたか。あほうな人々ではないか。お 経て領分境を津軽へはいって弘前着、とこうなると説明しぬしらはここをいずくと心得ている、津軽じゃよ、日本の たも同然である。 北のはても同様の津軽じゃそよーーー南部だとて日本の北の 代表者の間に火の玉が転げ廻ったごとき、激しい険悪が国じゃが、あちらのことはあちら様まかせ。津軽はさよう 起った。 には参らぬ。おぬしらは日本の絵図をなんど見たら忘れぬ 「南部浪人にお供先のご一同がうしろをお見せに相なるのようになれるのか。日本の北のはてをみろ、あほうな、忘 しり ですか。いやいやお供先のご一同が南部浪人に臀を叩かれれる奴があるかーーご先代様の寛政元年七月、一千七百五 たごとく逃げる、それを大夫は、家中一統の安堵となされ十九人を三隊にわかち、当地からどこへ繰り出したか、う ひがしえぞち ますのですか。大夫、津軽のお家は、ーー何たる、何たるうむーー東蝦夷地の国後じゃぞよ。かの地に騒擾あり、松 不甲斐ないーー」 前志摩守様の人数にては心もとなしとあってご加勢仰せつ と、代表の中のわりに若い一人が、激越にいい出すうちけられ大道寺隼人・津軽外記・棟方十左衛門が率いて渡 に突然のごとく、ひどい鳴咽がからんできて言葉が綴れな海、そのときの面々の子孫ではないかおぬしらは。いオ くなってわっと立いこ。 、何年相たったと思う、足かけ勘定にしてもまだ三十三 その他の代表者のどの顔にも奮激と不満とが出ている。年じゃそ。ご当代様と相なって、寛政四年十一月、山田剛 涙を湛えあるいは流し、唇を咬んだ顔という顔が、頼母に太郎・都谷森甚之丞二百四十二人を率い、江戸よりの公命 くなしり
142 僅に数名のみ〃とある。これは浪士のことで薩藩の人のこり」と、再び記している。柴山良助は薩邸で死し、南部は とでない。伊東武彦は河内市郎といった薩州出身浪士隊の前記の通りである。 ひとりで、杉山三郎、柏武彦とも、 、麦こ伊東祐忠とい ◇ った。伊東は幕臣山岡鉄太郎が奔走して助命し、引取って おいて後に薩州へ帰らせたという説がある。 浪士の戦死は武内光次郎 ( 美濃 ) 、奥田元 ( 信州 ) と、山田 「続藩翰譜後御事蹟』には " 降人に出ずる者四十二人、討兼三郎である。山田は前にいった内藤縫之助に情けをかけ 取る所の首二級みとある。 た有情の人だ。 幕府の撒兵頭大平備中守は、この日、兵を率いて岩槻藩奥田元は糾合方浪人隊では使番、その素性は詳かでな の持場である、七廻り通用門にいた。撒兵隊差図役長堀勇 い、例の「人名録」二ッとも〃信州上田藩〃とあるのみで 一郎 ( 後に佐藤正興と改名、明治三十一年七月まで六年二カ月間 ある。「上田市史』 ( 昭和十五年版 ) は〃奥田元、上田藩 小石川区長であり、又、明治三十九年五月まで一年九カ月間、再士、焼討のとき流丸に中り死す , という程度である。焼討 び小石川区長であり、市政に活躍した ) は七軒町通用門で、薩の直後、現場へ行った井上頼圀の手記には、 . " 隣りの徳島 州の南部弥八郎、肥後七左衛門を降伏させ、姓名不詳のも藩邸の中で、奥田元が死体となっていた、首は持って行か の一人を銃殺し首級を挙げたと、後に人に語っている。 れたとみえて無かった、鉢巻が落ちていてそれに奥田元と 幕末から明治へかけ日本在勤だった英国の外交官アーネ書いてあったので判った〃という風にある。察するに上の スト・サトウは、日本文字で佐藤愛之助と姓名を自分で撰山藩の陣地へ斬込んで戦死したものだろう。「上田市史』 んだほどの日本と日本人とに理解と興味をもった人だ、こ には " 井上元・上田藩士、焼討のとき上の山の兵に捕わ の人の「回想の日本』 に、「予は三田薩邸の柴山、南部とる〃とある。「人名録」二ッともに、井上元というのがな 交友あり、政局に関する情報を受けた、両人は一八六七年 い。「志士人名録』 ( 史談会編・明治四十年版 ) には〃奥田 十二月、幕府によって薩邸が焼討され捕虜となり、柴山は元、一書に井上とあり〃とある。 拳銃にて頭を射ちたりと聞く、予は良き人物なりし両人と「越奥戦争見聞録』 ( 松代藩士・片岡伊左衛門 ) にある、同 冒険旅行をたびたびなしたり」と記し、翌年二月のところ藩士八木源八の手紙に拠ると、二十六日に薩邸焼跡へ行っ では、「南部、柴山は磔刑と打首とによる死刑に処されたてみたら、七、八人死んでいる中の一人は甲冑を着け小銃 りと報告を聞けり、予はその復讐をやりたき衝動を感じたでやられたらしかった、死体六人は裸にされ、首は首、胴
ろしいのと、叱言のあとでびしりと撲つのとある、相手との中で蝦夷関係の人物が多い、ここだな、彼奴を天下に放 様子と、この二つを睨み合せてやり方がきまる。叱言はい置するがいいというのは。蝦夷へ渡海したわが藩士の中で う者のための叱言では下々の下だ、叱言はいわれる者のた貴田 ( 十郎左衛門 ) などが懇親にしている間宮林蔵という めの叱言でなくてはならぬ、されば、相手と様子とこの二て、目下は松前調役下役というお役の人がある。この人が つを睨み合せて、いわぬ叱言がいうにまさる。今度の一件下斗米の朋友だ。夏目左近将監殿・間宮林蔵、そして、蝦 はいわぬ叱言のききめを必要とする」 夷へ文化十何年かに渡っている下斗米と、こう並べて彼奴 「下斗米大作らをどう処分なされますか」 の学問、経歴、性質と目下の事情と、こう併せてじっと睨 と尋ねると無雑作にいっこ。 むと出てくる答えは、彼奴は北へ海を渡ると出る。これは 「放っておく」 たしかだ。どうだな、わかったかな。彼奴を捕えて縛り首 「それでは世の批評がありましよう、弘前藩は怖れて不問 にしたところで日本の得にはいっこうならぬ、彼奴が北へ に附したというでしよう。家中の者も不甲斐ないことと残渡海して、それ相応に働けば日本のおためになる」 入に田 5 いましよ、つ」 「しかしながら、万一、下斗米大作が再挙をはかりました というと、鼻のあたまを手の先で撫でおろし、 ら、悔いても及びますまい」 「津軽にもいつのまにやら唐土の学問が上座につき、日本というと、 の学問が下座についた、これはいかぬ、それではいかぬ。 「そんなことはない」 そこなおそ そんなふうでは聞き損う惧れがある、臍の下に力をこめて と、頼母が相手にしなかった。 よく聞いてくれ。下斗米某、彼奴をな、天下にすてておく 「下斗米が北へ海を渡ると考えていなかったらどうなりま 母のがこちらにとって百年の安心なのだ。その訳か、それはす」 軽こうだ、 , 又は熱情のある男だが、熱情が沸きかえってい と尋ねると、につこりと笑って、 どる時は反省が不足だ、そういう欠点があるから、刀鍛冶大「ある人が彼奴に再生の道を教えてやるまでだ」 大吉が心服するはどになっておらぬのに心服しているものと 「そのある人とは、津軽頼母ということですか」 榧判断を誤ったのだ。なれど、尋常な男でないからおそらく と聞くとひょいと睨んで、 今ごろは再生の道をひらきにかかっているだろう。彼奴は「重箱の隅をのぞきたがるものではない、台所の話とこれ 夏目左近将監殿の門人で、平山子童先生の門人、友人知己は違う」 かみざ
おこな 聞いたことと、それだけしか知らない、祖父一代のことを て年々三月三日に相楽祭というのを行って来ましたが、 だんだん、人もかわり時代も変化し、近年は相楽祭も打絶語るには余りにも何も知らなかった。 このときから亀太郎は、相楽総三の雪寃に、一代を傾倒 えてしまい、相楽家も今では絶えたとばかり思っていた」 といった。亀太郎は岩波老人のいう「相楽の姉という婦人」して悔いずと固く実行を誓った。 をよく知っている、知っているどころか、その人こそ、相 ◇ 楽が殺され、相楽の妻がそれを聞いて自害し、残された当 太郎はそれから後引きつづいて、永い間、祖父の雪寃 時四歳の父河次郎を引取って、母代りになって、育ててく れたと聞いている″怖いおばあ様みと記憶にある、新潟奉にかかったが、なかなか出来ればこそであった。 行所大弁士木村敬弘の未亡人はまである。それのみならず太郎のそれに助力した母栄子の記憶に、甦ってきたこ 相楽が死刑にあってから後は本姓の小島を憚り、はまの嫁とが一つあった。それは明治時代の国文学者だった落合直 文が、養父落合直亮は相楽の同志で副将であった関係上、 ぎ先の木村を名乗って今に至っているのである。 岩波老人はこうも云った。「相楽家は断絶したとばかり相楽の名を世に出したいと希望していたが、既に物故した 思っていたが、お孫さんが居るからはこのままにして置くので、養父の望みを自分が果したいからと、家にあった関 そそ べきではありませんぞ。あなたは祖父様の寃罪を雪がねば係文書の全部を、仙台へ持って行ったように思うというの いけません。孫のあなたがそれをしないで世のだれがやつである。太郎はそれを聞くと喜んだ。落合家に行ってい 宮内省におるその書類さえあれば、判明することが多いだろうと思っ てくれますか。努力なさい、必ず努力なさい。 勤めとあれば手続きにも何彼と好都合でしよう。是非とたからだった。 落合直文は日本の文法が顧みられざる時代に熱狂して研 も、祖父様の寃を雪ぎなさるがいい」老人は熱烈だった。 志 同 亀太郎は初めて祖父相楽総三の生涯のうち、終りの部分究にあたり、「日本文典』を先ず著わし、後に「日本大文 の とだけが、照明をあびた人間のように、よく判ってきた気が典』を著わした。『ことばの泉』のごとき大編纂も敢行し、 和歌革新の発端をひらきなどした国文学者である。 ←した。宿へかえってみると土地の新聞記者が待っていた、 「相楽さんのお孫さんだそうですな、一つ、相楽さんの事落合直文の「白雪物語』といって " 豊島の里に一人の翁 蹟を聞かせて下さい、新聞に書くのですから」といった。住みけり、人その名を呼ばず、ただその年老いたると徳高 亀太郎は今し方、岩波老人に聞いたことと、以前に母からきとにより、翁々とそ呼びけり〃という書出しで養父直亮