くらべると小さい。わしは小さい方を後廻しにして、大助は五条為栄に付いていた。 直助のこれから先は、落合とおなじく、相楽と全く別の きい病いの治療にかかるのだ」、と、いう人物に達してい 道をとった。 京都では公卿の錦小路頼徳、五条為栄と親しかった。殊 に五条とは師弟の関係のごとくであったので、慶応三年十 下諏訪入り 二月、江戸の薩摩屋敷から京へのばったときも、草鞋をぬ いだのは五条の屋敷だった。 直助は五十六歳の元治元年に京から故郷へ帰った。慶応相楽総三は滋野井、綾小路の両卿が、京へ召しかえされ 三年の冬五十九歳で、苅田積穂の変名でかねての同志落合たので、頭首を失ったが、そんなことでは、屈しなかっ 源一郎と僅かな前後で、三田の薩邸に投じた。それから後た。東山道を進んで信州にはいり、知合いの多い南信州で のことは既にいった。 有志を招き、信州十藩を説いて徳川氏から離れさせ、碓氷 直助は小兵で、顔色が赤かった。眼鼻だちが割合いにち峠を扼し、さらに進んで中仙道をくだり、江戸を側面から いさいので童顔だった。それでいて頭髪は四十ぐらいから衝き、徳川慶喜といえども、捕虜とするという計画をもっ ふる 白くなり、薩邸入りのころは見事な銀髪で、却って美しかていた。だから、この一隊の士気は甚だ振った。それに太 政官からくだされた御書付は、滋野井、綾小路にくだされ った。自分で戯れに白髪童子と号した。 そうもう 門下の中に、直助が興立した皇朝医道 ( 古医道 ) の三出色たものでなく、相楽等にくだされた、特に草莽の士とある というのがある。井上正香、斎藤多須久、井上肥後であのが、何よりその事実を御示しくだされた、と、確信しき 志る。井上肥後が後の井上頼圀文学博士である。国学の方でった。 二月六日、下諏訪へ向って進軍中の赤報隊に、京都から のは阪正臣をはじめ門人が多い。門人中の変り種ともいうべ 帰ってきた金輪五郎が、早駕籠を飛ばせ追いついた。金輪 どきは、足利三代の木像を切って梟首にかけた浪士のうち、 , 越在では伊牟田尚平の手紙を持っていた。〃朝廷に於かせられて 総青柳建之助、長沢文敬、それに薩邸事件の後に、日 は大軍議をなされ、それにつき滋野井、綾小路の両卿をお 相斬り死にを遂げた小川香魚も門人であった。 直助は落合と五条為栄について姫路まで行き、引返し召しかえしになった。その事でいろいろ疑惑も起ったの て、大坂から京都に戻ると、落合が五条家を去ったが、直で、桑名から昼夜兼行で京へのばり、伺ったところ案外の
210 田は岩下を訪ね、催促をしようとすると岩下が、「討幕のただこれだけの踏み出しの差が、相楽総三等とは、全く異 なった道を進めた。 いとぐちが開けた、貴君等の丹精が然らしめたのである、 五条為栄が四条侍従隆謌と、四国中国の鎮撫使になった 深謝するに言葉がない」と、低声でいって、去る二十五日 江戸の薩邸が焼討されたと告げ、「我が藩の間諜にて、在ので、落合も権田も随行し、播州姫路まで行った、もうそ 江戸のものから密報があった」と重ねていった。それからの先は、鎮撫使がゆかずともよくなったので、姫路城で、 権田は大西郷に会った。大西郷は「旧幕のものが近く必ず讃州高松藩の小夫兵庫、小河又右衛門という、佐幕派の引 動きます、大業の成る端緒いよいよ開けます」と喜び、相責者の首実検があり、その席に列したことなどあって、大 楽、権田、落合、その他、浪士連中の功を褒め、深く礼を坂へ引返した。 いった。こういうことを権田が話すと、落合は焼討当時の落合は大坂引返しと聞き、そのころの言葉でいう関東討 入りに行けるものと思いこんだ、ところが、関東へ行か 状況、同志の生死その他、難航のこと、京都入りのこと、 大西郷との会見などを語り、時の経つのを二人とも忘れず、京都へ引揚げると聞いて失望し、遂に五条家を辞し た。これから落合は、関東討入りに加わらんといろいろ奔 そのとき、落合がものした次の和歌が一首、伝わってい走したが、その機を得ずにいるうち、岩倉具視の密命を受 る。 浪の上炎の中をのがれ来て ◇ 都の春に逢ひにけるかな 五条為栄はその晩、御所から退出せず、翌五日錦の御旗源一郎の弟に落合一平直澄がある。明治元年に兄の源一 奉行を仰付けられ東寺の本陣に出張した。権田はその日早郎は四十三歳、弟の一平は三十歳だった。官軍の参謀河田 朝、伺いの使いを東寺の五条為栄に出した、ゆうべ泊った佐久馬 ( 後の河田景興子爵 ) の許にあって、下野に戦った。 落合のことも申添えた。折返しての返事に、「東寺に出で国学者で、皇典講究所の職員、神道では大教正、明治二十 来れ」とあった。そこで、権田、落合は、東寺の五条為栄四年一月六日歿した、年五十二。『古事記後伝』、『古代文 の陣に駈けつけた。これで、苅田積穂でも水原一一郎でもな字考』その他、多くの著がある。 なおこと かえ く、権田直助と落合源一郎の本名に復り、征討大将軍仁和源一郎、一平の弟に落合五十馬直言がある、明治元年に 寺宮様の御旗奉行五条為栄附属の士ということになった。 二十二歳だった。落合兄弟中、第一の熱情家で、短い生涯
題化した。そこで万右衛門を他に託し、飯田、大山、二人『寺院封事』 ( 文久三年執筆 ) をつくり、学習院に提出した。 ともに脱藩し、京都にのばって働いた。 寺院を学校に、僧侶を教師に活用すべし、こういう論旨だ 飯田はその後、京にとどまって岩倉具視のもとに働き、 った。このころ清河八郎等と深く交わった、そのうち藤本 大山は翌年の二月、高島藩へ帰参、間もなく、赤報隊の大鉄石と識った。或る日、藤本から討幕促進のため兵を挙げ 犠牲、相楽総三等の死刑が東山道総督の命令で行われたのる計画中だと打明けられ、それでは関東にも志をおなじく に憤激し、一書を遺して何処へか去り、そのまま終った処する者が尠からずいるから、これから下って勧説し、相共 が判らずにいる。 に上京すると約東し、関東に立ちかえり、同志を説いてい 岩波美篶は明治初年、落合源一郎、権田直助が、岩倉具るうちに、藤本鉄石等は中山忠光をいただいて、挙兵して 視の密命で関東探偵に下ったとき助力した、「東下日記』 しまったので、間にあわなかった。第二は、元治元年、 ( 落合源一郎・権田直助 ) に万右衛門という名がたびたび出筑波の挙兵に呼応すべく、桑原梧楼等の上州人に、相楽総 ているのがそれだ。晩年はキリスト教を深く信じ、その伝三等と参画した、これは不発に終った。次は薩邸へはいっ 道に従い、東京で歿した。 てから、金輪五郎などと上州へ行き、竹内啓の挙兵に呼応 すべき計画が失敗した。これで三ツだ。 落合は前にいった二篇の論文のあとで、『正名断』 ( 元治 落合と権田 元年執筆 ) 、「本末論』 ( 慶応元年執筆 ) 、『国体論』 ( 慶応一一年執 筆 ) の三篇を書いている。 落合源一郎直亮は文政十年の生れ、武州多摩郡駒木野の薩邸へ落合がはいるために、故郷の駒木野を出たのは慶 志累代関守の家、落合俊雄の子で、母をたきといった。駒木応三年十月十日で、家出の形式をとった、これは落合家に の野は小仏峠の東ロのことで、現は南多摩郡浅川町のうち後難をかからせまいためだった。その前年までは祖母が八 あざ 、駒木野という字を遺すのみである。 十を越えていて、落合の身の危険を仕切りに憂えるので、 総落合は幕末に、三度、挙兵に関係して三ッとも不成功に 思い切ったことが出来ずにいた。ところが、その年、死去 相終った。妙といえば妙な廻りあわせである。その第一は、 したので、今は憚るところなしと、薩邸へ投じたのであ 大和十津川の天誅組である。時事を慨した落合は「明道論』る。門人五人が従って行った。 ( 文久二年執筆 ) を著わし、游学の名に隠れて京へのばり、 落合が薩邸へはいってからの事は、今まで述べた諸所に
実相院の里坊、そこに滞在しろといわれ、そのとおりに滝善三郎が切腹したのは二月九日である。これが近因で、 訂した。翌日、来いというので行くと、金百円、「蕨の代り極端な攘夷論を落合等が抱いた、こういう風に解されるの が「岩倉公実紀』の書きぶりだ。 の米だ」といって与えられたので、落合は歌を咏んだ。 しかし、そうではない、攘夷思想の問題なら、″諸藩の 世の限り冬さざらめや賜はれる しろ 力を仮るが故に諸藩の人を入る、諸藩の人の入るが故に心 蕨の代を命にはして こ拠ったものだ、が、『岩倉公実紀』ではに適わざることが多い、その不平を忍べ〃とい ' うのは妙 これは落合談話。 だ、単に攘夷論説破なら、もッと堂々と、他にいうべきこ 落合等の趣意を、攘夷思想から出たものとなっている。攘 とがある時代に、最早なっていたのだ。当時、落合の出し 夷思想が激発した近い原因というのはこうである。 た書付には、薩邸浪士のことが書いてあった、相楽総三の その年正月、備前の兵が西の宮警備の交代にゆく途中、 兵庫 ( 神戸 ) で、白人に行列を横切られたのが始りで衝突名を挙げてある、だが、それについて「岩倉公実紀』は何 した、備前の日置帯刀が指揮して、戦争にさせないよう味の説くところもない。 方を引揚げさせたが、フランス、イギリスその他が承知し ◇ ない。結局、備前の士で滝善三郎が責任者の役を引受け、 白人の眼前で腹を切った。この騒ぎの間に土州藩士が、或落合は岩倉の声がかりで、設けられたばかりの刑法官監 る大切なものをフランス人に奪われた、幸い奪い返した察司に判事試補ではいり、その十月伊那県へ判事で赴任し が、この一事が、後に起った堺の妙国寺事件となった、こた。伊那県は相楽等流血の地である、そこへ落合が役人で れはフランスに向けられた現れである。イギリスにも現れ赴任したというところに、岩倉が暗黙のうちにもっ有情が あったのではなかろうか。明治三年一月、落合は大参事に があった、公使パーグスが外交団主席のフランス公使ロッ シ = を凌ぎ、彼一流の辛辣で、我が外交の役にあった人を進み、不在の知事北小路俊昌と、病気引退の白井参事等の ーグスの参分まで一手で取仕切った。このとき、落合が丸山梅夫の丸 苦しめたことは人の知るところだ、すると、 しげる 内という事があったとき、三枝蓊 ( 大和 ) 、朱雀操 ( 山城 ) 等山久成に、相楽等八人と、金原、熊谷と丸尾、北村を加え かげ ーグスは我が武士が力闘のお庇で墓地十二人の〃魁塚〃建立の請願を兵部省に出させた、これが が、途上で襲い へ逃げこみ助かった。土州の藩士がフランス人を銃殺した許可になって、その六月、現にある下諏訪の魁塚が出米 た。岩倉が根こそぎ、相楽等を憎んだのではないというこ ーグスが襲われたのは二月三十日、 のは、二月十五日、
で、これに落ちているものがある。この他、殺害されて屍 ◇ も氏名もともに湮滅したものもあるだろう。或は奔ったツ 竹内啓は戦場から引揚げ、江戸に向うのに、ちりぢりば 切りになった者もあったろう。 「白雪物語』 ( 落合源一郎の伝 ) には「同行せしものの内らばらに行かせた。単独、又は二、三人での道中は、捕縛 いって、集団 ( 註、江戸の薩邸より野州へなり ) 、五人帰り来て復命せしとこせんとする幕府側にとって有利である、と、 その ろなり。共五人のものいうよう、吾々の生のびて帰りきたで引揚げるのには人数が不足である。ちりぢりの引揚げ以 力なたの事情の分明ならざるを恐れてなり、復命外、方法がない。方法を別に求めれば潜伏だが、それも密 かくま したる上は又やくなき命なり、腹かき切りて死者にまみえ告と探索とがある限り、余程、有力の下に隠匿われ、周到 んといい終るや、かに刀を抜きはなす。水原 ( 註・落合源な方法を尽さぬ限り危い くらま 竹内啓は下総の中田宿まで、幕吏の眼を晦して来たが、 一郎なり ) それを押止め、君たちにも似合ぬ振舞いかな、 君たち、今死にたりとて何事かあらん、永らえて死者の志遂に木村喜蔵配下の者に観破され、包囲強襲をうけた。竹 ほとん を果さんの心あらざるやといいしに、容易に肯かざりし内は勤王の実行動で、家産をために殆ど傾けた人で、故郷 なかんずく が、百方諫められて遂に思いとどまりぬ。死者に対する情にあっては医師で、教育家で、学者で、就中平田学の熱心 な国学者で、重厚な人だけに、そうとは知らずに群がる捕 誼の程、実に嘉すべきにあらずや」とある。この五人とい うのはだれだれか不明だが、最も早く薩邸へ帰り着いたも吏が、血の気を失いつつ包囲するその中で従容として縛に ついた。竹内啓なら出流天狗の総大将と聞き知っているの ののことで、その一人は奥田元であること確かである。 『薩邸事件略記』には「奥田元還り報じて日く、此の行大で、捕縛した者の方が却ってびつくりした。 敗、数十の浪士全き者なし、是我輩の失策、諸君に対する木村喜蔵はこの方面の追捕隊の隊長だったので、竹内啓 の面なし、我唯この事を報ぜんが為め生還せるのみ、今用が縛に就いたと聞いて躍りあがって喜んだ。木村の名は喜 なし、割腹せんと、直亮日く ( 註・落合源一郎なり ) 、勝敗は蔵とも機蔵ともある。機を誤って越蔵とした写本すらあ いわん 兵家の常なり、何そ耻ずるに足らむ、況や事未だ定まらる。竹内が捕えられた中田は、茨城県猿島郡新郷村大字中 ず、一死国に報ゆるの時、甚だ多きをやと、遂に止む」と田で、そのころは下総に属し、奥州街道の宿場で、そこに ほうかわ ある。 は房川番所があって、下総古河藩土井家の持場、利根川沿 いで、栗橋とは川を挾んで近い
とが、これによって知られる・ へ御預けとなった、これも申開きが立って再び天日を仰ぐ らなみ 因に、魁塚建立の委員は落合の末弟で、後に西南の役に ことが出来た。落合は権田のことを〃多難先生〃と呼ん 戦死した落合五十馬 ( 直をはじめ、渡辺鍋八郎、青島だ、災厄相踵いで起ること権田のごときは稀だという意味 貞賢、松尾真琴、北原稲雄、北原東五郎、市岡謙市郎、藤オ ・こ。しかし、落合こそ〃多難先生〃というべきだった。落 沢中務で、全部が平田門人で、落合直言の他は信濃の勤王合はそれ以来、官途に望みを断ち、屡々いった如く陸前志 家である。 波彦塩釜浅間神社の宮司となった。明治九年、東北御巡幸 落合が地方官になったとき、権田は、大学校ができてそに際し、途上、謁を賜わる。無量の感慨を一首の和歌に託 の教授となり、大学中博士というのに任ぜられた。しかした。 し、二人ともそれで済みはしなかった・ 海山に晒さん屍ながらへて けふの行幸にあひにけるかな ◇ 明治二十七年十二月十二日、世を去った。年六十七朝 権田直助が明治五年の冬、赤坂台町に家をもっていた小 斎藤貞之丞 ( 科野東一郎 ) は落合とおなじく、監察司には 山進を訪ねたーー下諏訪脱出の小山忠太郎である。小中村いり、北海道開拓使の役人で赴任したときは斎藤謙助でも 清矩、田中頼庸などと文学を語っていると、警察官が踏込貞之丞でもなく、水野義郎と名乗った。この水野という姓 んできた、小山が拘引された、前にいった広沢参議暗殺のは、謙助が三十二歳のとき、というから文久元年、弟に上 嫌疑がかかったときのことである。権田も一時は疑われ、野屋の家督を譲ったころ、上州館林藩士から水野の家の株 家の中へ軟禁の憂目にあった。学界が権田のうしろから遠を手に入れていた、それで名乗ったのである。北海道開拓 志くなったのは、この時からである。 使では、一等属から御用係となり、晩年は野にあって呉服 の権田は明治六年の夏、六十四歳、相州大山の阿夫利神社商をやった。明治十三年四月二十四日、東京で世を去り、 との祠官で赴任し、神道の興隆に冬し、多くの著作をし、明妻奈類子 ( 丸山梅夫の姉 ) は、明治一一十九年、東京で世を去 総治二十年六月八日大山町で世を去った、年七十九。 相落合は伊那県在任中、部下のしたことに坐して、十三条斎藤謙助夫妻の間には大晦日という娘があって、信州の の嫌疑を蒙った、一々それは弁明が立ち青天白日の身とは神官の子で佐久間象山の門人だった三浦省吾の妻となり、 なったが、又も国事犯の嫌疑で捕縛され、阿波の蜂須賀家その間にできた子が、昭和五年のロンドン会議に行ってい っ ) 0
落合が明治二十六年に語ったものに、岩倉邸に行った月て大義名分の如何なるかをも疑わしむるに至れる結果とな 日がない、落合直文が養父の語ったことを書いた「白雪物ったため、東征軍の統轄上已むを得ぬ処置であったわけで 語』にも月日がない。「権田直助翁詳伝』 ( 井上頼圀校閲 ) にある」といっている。 どういう誤りが伝わったにしろ、相楽の同志の伝記編纂 も月日がない。「岩倉右大臣と薩藩』 ( 中村徳五郎 ) にもその 記事があり明治元年四月となっているが、これは岩倉系の者にまで及んでいるからこそ、相楽とその同志のために雪 材料に拠ったものだからそうなる。信州の難を脱して水野寃の仕事が必要になるはずであろうではないか。引用した 丹波が京都へはいったのが三月十六日だから、三月か四月中に「甲府城代を屠り」とあるが、これが間違いであるこ というまでもない。因にこの本は薩摩屋敷の同志の一人を か、どちらとも判断がっかない。 落合談話冫。 こよ、「そのとき、岩倉公は補相という職で、伝記したものなのに、その同志を反徒の如き印象をあたえ 私と外一人を召された」といっている、太政官議定兼補相る記述をしている。出流山挙兵に続けて、「その外糾合隊 の人々は各所に出没横行し全く底止する所なく、或る時は である。外一人とは信州上田海野町の上野屋斎藤謙助で、 丸山梅夫の義兄の斎藤貞之丞だ。『権田直助翁詳伝』では相模国戸塚宿を擾掠して幕兵と衝突し、或は又甲州を擾乱 せんとして八王子に至り捕えられる者あり、又下野に至っ 権田、落合、斎藤の三人が呼ばれて行ったとなっている。 落合、斎藤だけで、権田は、そのとき行かなかったかに思て天明河原で幕兵に撃殺される者もあった」という如き、 又は相楽を鳥羽伏見の戦いに参加させたり、板垣退助に相 える・ 楽救命を唱えさせたりしている如き、薩邸浪士と赤報隊に ◇ 関してこの本は事情の誤りと歪みとに富んでいる。この本 にも矢張り岩倉に会った月日がなく、岩倉に喚ばれて行っ 「惟神道の窮行者・権田直助翁』 ( 神崎四郎・昭和十二年相州 大山阿夫利神社刊 ) ですら相楽総三について、「少数の一味たのは権田と落合だとしてある。 と共に進軍して甲府の城代を屠り、果ては暴行掠奪を ほしいまま ◇ 恣にして人民を苦しめた」「これは将満の部下に対する 取締が届かず、浮浪人を集合した結果、軍規が乱れ勝ちで落合と斎藤は広間へ通された、二、三人、岩倉について 、 , ミ、「この人々に少々話があるから下っておれ」と、 あったため、事実些細のことから死を早めたものであっ た」「将満一味の行動は軍規を紊したばかりか、人民をし所謂人払いをやり、主客三人差向いとなった。岩倉は白無
自在胸中百万兵合縦不就更連衡 休言詭弁弄孫子諸葛一生惟一誠 紙の記念碑 書剣瓢零甘謗嗤帰東空接故山姿 相楽総三等が梟首されたことが、京都で、薩邸浪士隊だ 乢童蟄伏盆地底期待風雲変化時 った人々をひどく悲憤させた。 権田直助と落合源一郎、岩倉に知られているこの二人す 星一ッ二ッ流れて涼しさも かくま河原 ( 地名 ) の夏の夕暮 ら悲憤した。京都には金輪五郎のような多血多感の人がい る、金輪は二月九日、大垣の総督府へ行くはずの相楽に随 御すず苅る信濃路ならで塵ひぢに 染まぬ桜のあらじとぞ思ふ 行して出発、同月二十三日、相楽が下諏訪へ帰り着いたと き一緒でなかった、京都にとどまったのだ。 手綱して引きまほしけれ立科の 京都には科野東一郎の斎藤謙助もいた、その他数名が、 深山に残る駒形の雪 そのころ来ていた。それらの人々のうち幾人かが、岩倉具 視を憎んだ。権田、落合の岩倉公暗殺計画といわれるの 朝寒やすっと抜きたる日本刀 が、その現れである。 さまざまの声に響くや除夜の鐘 弁慶がただ鉢巻やさくら狩 ◇ ◇ 志 岩倉のいう盟士の一人で山中静逸が、「落合源一郎が五、 同 の これより後の東山道総督府と薩藩その他のことは、ここ六人のものと、公を途に邀撃せんとしておりますから、護 とに説くまでもなく、奥羽の鎮定の戦いに向った、それは別衛を充分に致させましよう」と岩倉に告げた。すると、岩 きた 総にいくらも、詳しく書いた本がある。 倉は坂本健をやって、落合源一郎に、「今夕、来れ」とい 相 ってやった。夜に入ると落合が斎藤貞之丞 ( 科野東一郎・斎 藤謙助 ) と二人でやって来た、四月二十二日のことだと『岩 倉公実紀』にある。
◇ 終身禁獄囚のおなじ身だった、高田修 ( 三五歳 ) 、矢田穏 落合源一郎の門人多き中に後の愚庵和尚がある。愚庵は 清斎 ( 六九歳 ) が、薩軍に投じなかった事情は知らない。 この他にも禁獄囚で、仲端雲斎、妹尾三郎平の二人があっ磐城平藩の甘田平遊の子で久五郎といった。明治戊辰の平 城の落城戦争のとき、父母と妹とが行衛不明になった。永 たが、この方の事情も知らない。 直言は故郷の家を出るとき、自画自賛を遺書の代りにしい間、探し求めて諸国を遍歴し、遂に邂逅できず、出家し た。画は菰の上に生首と柄杓と水桶で、それに〃落合直言て鉄眼といった。哀傷の事実は、「血写経』一巻に詳らか の首〃と題した。この事は「藤岡好古伝』にもある。「西である。愚庵が甘田久五郎といったころの明治四年、十八 南紀伝』 ( 黒童会編 ) にもある。特に『西南紀伝』は、″そ歳、東京にのばり、駿河台のニコライ神学校にはいった せま の画カ蒼勁、鬼気人に逼るが如し〃といっている。 がその教旨に服しかね、間もなく飛び出し、明治五年、 直言は画がうまかった。同志の中村恕助が鹿児島禁獄十九歳、国学を落合直亮 ( 源一郎 ) に就て学び、禅を山岡 中、秋田にある父中村又左衛門に送った手紙に、〃同輩落鉄太郎に問うた。その翌六年、落合が政治面から叩き落さ 一しあ 合に絵図をかかせ指上げたく〃といっている。又、直言がれ、復活の途を神道に得て、陸前の志波彦神社の宮司に赴 ごんねぎ 宝船を描き権田直助が、〃四方八方ゅ棹梶はさすよする、任したとき、甘田も随って行き権禰宜を勤めた。と、間も なく、先輩から用事を命ぜられて帰京した。こういう関係 船の貢そ国の栄なる〃と題したこともある。 直言の人物に就ては、中村恕助の最期をその父に知らせがあった。甘田はその後、久の字を除いて甘田五郎とい た鹿児島の奥宗一の手紙の一節に、こういう文句がある。 い、清水の次郎長の養子となって山本五郎と称え、次郎長 志〃予、素以勤王之志深し、故に落合が如き義士と談話し、 の許に出っ入りつする多くのものから、行衛不明の両親 の大望を起し、事成らんと欲する際、その義結之中に一員のと妹のたよりを、或は得られるかも知れぬと思ったが、矢 と姦人あって〃と、直言を高しとしている。又、大山綱良が張り得るところがなかったので、哀傷の極、遁世した。 蕊初めて禁獄囚の代表を呼んだとき、出頭したものは直言と次郎長の養子時代に書いたものが「東海游侠伝』で次郎長 おばろげ 相恕助とである。これらに拠って、朧気ながら直言の人物の最初の伝記でもあり、次郎長を有名にする原因ともなっ 一半は推し測ることが出来る。 もう一ッこれも落合の傍系のことだが、「薩邸事件略記』 もと ) 0
垢を着ていて、腰に短刀すらない、落合等の方は脇差をも った、今日、幕府を朝敵として征討の軍をおこしたが、朝 っている、そうして次第によっては今夜刺殺すつもりでい廷には一人の兵なく、兵器弾薬糧食なく、軍資の金がな る、それだのに岩倉は、手ぶらで単独で、家士を遠く退け い、この中で大業の完成をはかるのだから勤王諸藩の力を た、肝の太いこと非常だ・ 仮らねばならぬ、勤王諸藩の力を仮れば諸藩の人を入れね 岩倉は、「朝廷を思い国家をおもうこと何人にも一歩たばならぬ、諸藩の人を入れると日々の処分上にも我等の心 りと譲らぬ、寝ても覚めてもその他は聊かもない、その方に適わぬことが沢山ある、今日はそれを小事と観ねばなら どもも心はそれに劣るまい、そういう赤心のものが、為さぬ、この大業を達成した上、それはそれで処理すべきで、 んとする事があるなら、只兮、ここでやれ」といった。落それまでは勤王諸藩の人の手に任せねばならぬ、これをそ 合等は黙って岩倉の顔を見つめている。 の方どもから観れば、不平もあろうが、今は忍ばねばなら 又いった、「その方どもは岩倉を暗殺するといっているぬ時だから忍べ、これから先、改革の時がくる、死ぬべき と聞く、それならその趣意を聞こう、全く、国家の不為でことはその時に起る。大業成るそれまでは岩倉も忍ぶ、お あったら速かに斬れ、そういう赤心のものの手に罹ること前達も忍ばねばならぬぞ」 は本望だ」と。 岩倉がこう説くうちに落合等は、頭を垂れて涙を流し 暫く、だれも云わずにいた、と、落合が懐中から一通のた。岩倉が「それまでの間、その方どもも生延びていてく 書付を取り、「公を刺そうと決心した趣意はこれに書いてれ、蕨の代りに米をやる」といって、家士を呼び、酒を出 あります」と前へ出した。岩倉はそれを読んで「趣意は判し、「たんと飲め」といって自身で酌をしてやった。杯は った、日本にもこういう人があってこそ維持が出来る、そ銀だった。 志の方どもは国の柱というべきだ。此方はその方どもの五人落合等は暗殺を断念した。岩倉の一一一一口葉の中から、今は国 たやす の六人を処分することは容易いが、そういう人を失ってはな家のために、我慢しなくてはならない時だと深く覚ったの とらぬので呼んだのである。これより先、その方どもが尽すである。落合はそのとき歌を咏んだ。 総べきことはいくらもある」といった。 なきものと思ひすてたる露の身の 命となりぬ君が言の葉 相それから又つづけた、「その方どもは内輪の事情を知ら 蔭たかく緑いろ濃き言の葉そ ぬ、それを打明けるから聞け。朝廷は、その方どもも知る 今宵の露の命なりける とおり、鎌倉時代以来、申すも憚りある年月の経過が永か