せる」と、初めて行動の目的を明らかにした。庄内兵は躍め、大砲は位置を選定して装填し、「談判手切れ、打ちか 1 りあがって喜んだ。さて出発となり、桜田門にくると、幕かれ」の使者の来るを今か今かと固唾を呑んだ。日が出て 兵が堀端に整列していた。門には胄武者が詰めていた。桜明々となり、空も澄んでいたが、寒い、雪かと思うばかり 田門から真っすぐ赤羽橋へ出た。赤羽橋へ着いたころ、夜恐ろしく霜の降った朝である。 がほのばのと明け初めかけた。 驚いたのは松本町、三田の町家である、あすは納めの天 上の山藩は麻布から来り、岩槻、鯖江の両藩とも丸の内神の日だ愛宕の年の市だ、といっていたのに、夜明けごろ 方面から来った。主なるものは庄内藩だから戦闘配置は庄から妙に人通りがあると怪しんで起きてみると、戦争開始 内藩から出た。上の山藩は薩州邸の南隣りなる徳島藩 ( 蜂の直前の光景だ。開けかけた戸を再び閉めた。中には戸を 須賀阿波守茂昭 ) 中屋敷、高松藩 ( 松本讃岐守頼聡 ) 中屋敷を 叩かれ、水を汲んで出すことを命ぜられた家もある。その 根拠とし、「戦機を待ち、戦闘に移ってからは万事適宜に うちに避難がはじまった。 せよ。鯖江藩は上の山藩と協力せよ。岩槻藩は薩邸の南門 ◇ を固めよ」言葉は違うが内容はこのとおりの部署配置が忽 ち示された。 庄内藩の大将石原倉右衛門は、白糸縅の鎧に兜をいただ 勢揃いを解くと四藩ともすぐ行動に移った。庄内藩の持き、陣羽織を着け、手に采配を執り、馬に乗っていた。大 場は、三田通り薩邸の西門を一方の終りとして北に延び、将はそういう武装だが、部下は各隊ともそれぞれ違ってい 三田通りへ小山通りから出てきて交流する処にある。薩邸た。或るものは羽織袴で腹巻を着けている。或る者は市中 の物見から正門通りを東へかけて南に曲って用心門、それ巡邏のときと同じ服装でいる。新徴組、新整組のものは多 から薩摩屋敷の七曲りといわれた裏手一帯にかけてで、そく 、稽古用の革胴を着け、籠手だけは本物を着けた。新整 の端は岩槻藩の持場と結びついている。岩槻藩の隣接した組の頭である俣野市郎右衛門は羽織袴で宗十郎頭巾という いでたち ところを鯖江藩が受持ち、その続きを上の山藩が受持ち、異風だった。俣野などにいわせると、石原の扮装は仰々し 上の山藩の続きを庄内藩が三田通り薩邸西門で受け継ぐ、 過ぎるという。石原などにいわせると、多寡を括ったる扮 こういう陣形で、朝六ッ ( 午前六時 ) ごろ、完全な包囲線装のあれらは油断者だと俣野を批評したという。 がつくられた。 薩邸では正門をはじめ全部の門を閉鎖した。正門は芝山 四藩の将兵は全部、槍は鞘をはらい、小銃は実弾をこ内の五重塔と松本町の町家と桜川を挾んで相対した位置に きた きた
退致すべき旨、御沙汰候也、東山道総督府参謀〃という書係のあるのは薩藩で、だから赤報隊のものは薩藩のことを 2 付が相楽と附属の藤井誠三郎とに渡された。二月十日付で常に本藩といっていた。 総督府が発した相楽等を捕えよという命令は、翌十九日取土州藩とは前に関係があったが今はない、あとの三藩、 消された。日付はないが今いった御沙汰書とおなじ意味の長州、因州、大垣は無関係である。そうして五ツの藩の中 ものがもう一ッある。 で、どこが一番有力かといえば、薩藩だ、薩藩の欲するま 共方並ニ同志人数之儀、今般薩州藩工委任致シ候間、 まになるといっていい状勢のときだ。有力な薩藩は、それ 万事、右藩之約東ヲ受ケ、屹度謹直ニ進退致シ候様、から幾らも経たぬうちに相楽等を遮二無二殺した。こうい う他ない。 可相心得候事 総督府参謀 戊辰二月 ◇ そのとき相楽は、総督府から関東探索の命を受けて下諏 訪へ帰った。帰った晩に上田藩士の斬込み未遂があり、翌ここに又一ッ妙な事がある。相楽等の運命が悪い方にぐ 日になると事も意外や、総督府は参集している五藩に向ッと傾いたのを知っている薩藩は、その翌日ーー総督府か 、相楽総三等の草莽の士を、時宜によって断然厳重処置ら、断然厳重処分の権を与えられた日がきのうとなった二 すべしと、次の如き命令を発した。どうしても、相楽等を月二十五日、相楽に三カ条から成る約定書を渡した。第一 殺すのだとしかみられない。そうと知らぬ相楽は、名実と条は天朝の御失態に相成らざるようにというのである、第 もに今度こそ、官軍先鋒たり得たと喜んでいた。 二条は粉骨砕身し死を以て御奉公すべしというのである。 第三条はこれから後は金穀を総督府から下さるから安堵す 薩州長州因州土州大垣 相楽総三之手ニ属シ居リ候草莽之士、従来勤王之趣総べしというのである。殺す前に舐めさせた飴の感がある。 三ョリ申立テ候ニ付採用ニ及ビ候処命令ヲ不レ待、猥相楽等の評判が悪いという表面の事は二ッある。一ツは あまっさ リニ官軍ノ名ヲ仮リ、致 = 進退一、剰へ小諸藩ト戦争総督府の命令をきかず勝手に行動したということだ。これ ニ及ビ候風聞有レ之、仍テ難 = 捨置一共藩へ取調・ヘ申付については後年になって桂太郎公爵が、芳野世経にいった 候間、時宜ニョリ断然厳重処置可レ致候事 ( 戌辰二月一一言葉が記録されている。「相楽総三が軍令違反をやったか 十四日達シ ) らとて死に処されるということはあるまじきだ。長州藩の 取調べと処置とを命ぜられた五ツの藩の中で、相楽が関半隊長で、秋田方面へ出て戦った明治戊辰に、私なども軍
門外では「やッた」というどよめきが颯と起った。門内が、薩邸裏手の七曲りの内、西の方角の一の曲りと二の曲 では「篠崎氏が」という、電波の伝わるが如きものがばッ りの間の七軒町通用門を中心にして取りついた。攻撃主力 と起った。篠崎彦十郎の流血のその刹那から戦争に変ったる庄内藩はというと、左翼隊は将監橋方面に待機させて た。庄内側にいわせると、どちらが先に射ち出したか判らあった。右翼隊は三田通り久留米藩有馬邸 ( 現・恩賜記念済 ぬ、双方同時だったろう、あのときはそういう状態だった生会 ) の前から、薩邸物見櫓から約六間手前を前線にして と後にいっている。薩邸側の浪士からいえば、篠崎が突き待機していた。主将石原倉右衛門は幕僚に相当するもの 殺された途端に、鯨波の声が門外に起り、攻撃が同時にはと、護衛兵をつれて、右翼隊の一番前の方に控えていた。 じめられたと、後にいっている。 談判不調、篠崎の流血、安部藤蔵の報告に次いで、攻撃開 このとき、午前七時であった。 始を命じ、藩兵は左右両隊とも予定のとおりの部署につこ うとした。左翼隊は迅速に予定のごとく正門に向って取付 ◇ き終っ , : 、、 オカ右翼はそう行かない。談判が永引いている間 薩邸の正門から、東は、将監橋へ合する道路の手前、薩 、薩邸浪士が物見の二階に据えたであろう大砲を射ち出 邸の東の地尻を廻って裏手七曲りの内二の曲りから七の曲すだろう、それでは幕府の軍事顧問であるフランス砲兵士 りまでと、正門から西は、三田通り角の薩邸物見櫓から南官プリューネが、最も不利なりと注意したものに該当する に折れて薩邸の三田通用門まで、これが庄内の受持ちだ から、物見を焼いて、敵の大砲を失効させなくてはならな が、初めから近々と寄せていたのでなく、遠巻きであった 、そこで物見焼払いにかかった。 が、このとき、一斉に行動を起した。その一方、使番が、 焼払いは庄内藩の大砲隊が命ぜられた。敵の大砲を失効 上の山藩、岩槻藩、鯖江藩に飛んだ。「談判手切れ、打ちさせるのだから大砲隊の受持ちだという考えである。明治 かかれ」である。各藩とも行動に移った。 の日露戦役のとき、ロシアのカサッグ騎兵団の一支隊が、 談判が行われている間に、上の山藩は兵を薩邸の南隣り歩兵の任務について大敗北をとったことがある。庄内藩の なる阿波徳島藩の中屋敷の内へ繰りこませた。鯖江藩もそ大砲隊もそれに似寄りの結果でしかなかった。打込んだの れに倣って、三田聖坂下に控えていた藩兵の約三分の一をは焼玉であるが薩張り効果がない。「何をしとるか」と催 徳島藩中屋敷へ、約三分の二を隣接している高松藩邸へ繰促は急だが、そうして熱心に焼玉を打込んでいるが、全く りこませた。岩槻藩は薩邸後方の七軒町に待機していた役に立たない。 これを見ていた庄内の隊長中村次郎兵衛が さっ
254 脱走逃亡落伍が多く出た ) 雪に紛れて、そこやかしこで姿 ( 不明 ) 、笹田宇十郎正芳 ( 甲府 ) 、佐々木次郎綱信 ( 信濃 を隠し、小田井宿の近く鵜繩沢 ( 現・長野県北佐久郡御代田 善光寺 ) 村小田井字鵜繩沢 ) に来たときは、二十人足らずに減った・ このうち、西野又太郎、永井次郎、佐々木次郎の三人を 追分から小田井までは一里半だ。 除いて十五人は、薩邸以来の同志である。 と、前の方に一隊の人馬がいる、雪が折よくやんだので ◇ よくみえる、正しくその一隊は武装している、さては岩村 田藩の出兵だ、いざや一戦と色めき立ったとき、一騎、隊ゅ 0 くり追いかけてきた小諸藩兵の、なにがしという人 をはなれて乗り出したものがある、軍使らしいぞと、見つ が、岩村田藩へ使者にきて「貴藩に於てお引取りの浮浪の めていると、その一騎は数十歩のところへ来ると、下馬徒を弊藩にお引渡しくだされたい」と交渉した。田中禎助 し、徒歩にな 0 て近づいて来た、それは岩村田藩の家老田は牧野林平を応接に出し、物和かに拒絶した。すると使者 中禎助だ 0 た。西村、大木等は案外におもい、味方を制しが再びやって来た、今度はなかなか腰が強く「追分宿に於 て暴行をやった偽官軍ども、当方へお引渡しが然るべし」 田中は、「警衛のために参った、時分どきなれば、弊藩と開き直った談判だ。そこで岩村田藩は「追分宿のことは において食事をされよ」とい「た。大木、西村等は喜ん弊藩の知るところに非す、弊藩に於ては、総督府の御回章 で、「お世話に相成る」といい 、田中を囲んで語りつ笑いつに拠って取押えたのみ、されば貴藩から何等の儀を申され 歩いた。このときまで居残「たものは、つぎの人々だけでても存ずるところに非ず」と突ッ撥ねた。小諸藩は遂に手 ある。 西村謹吾則孝 ( 伊勢亀山 ) 、大木四郎秀美 ( 秋田 ) 、川崎常岩村田の家老代理牧野林平は西村、大木等十八人にむか 陸秀老 ( 水戸 ) 、西野又太郎美温 ( 美濃岩手 ) 、清水定右衛 「ご存じのことと存ずるが、二月十日付にて総督府より 門盛直 ( 伊賀上野 ) 、今大路藤八郎光明 ( 大垣 ) 、大藤栄実貴君等の取押えを命ぜられおるに依り、干戈を動かさずし 吉 ( 宇都宮 ) 、山口金太郎忠正 ( 不明 ) 、信沢正記孝則 ( 駿て貴君等をかく取押えたのである、干戈を動かしては、後 河 ) 、赤松六郎正行 ( 美濃関ヶ原 ) 、三浦弥太郎国重 ( 江戸 ) 、日に至り双方の不為と有じたる故、手段を設けて期くの仕 永井次郎正里 ( 不明 ) 、矢口一郎常元 ( 不明 ) 、真柴備吉誼、よろしく賢察を乞う。小諸藩より貴君等の引渡しを迫 平 ( 不明 ) 、近藤俊輔照明 ( 駿河田中 ) 、松岡造酒允致義ること再三、弊藩はこれを拒絶いたしたるが、もし、貴君
張所へかかった。眼につくのは一行の水野中務という美少真田家から来たのをみて、牧野八郎右衛門のやり方に不満 年で、だれが見ても尋常でなかった。 をもっていた政敵加藤六郎兵衛は、重臣の牧野隼之進を説 熊野権現の社人はこの五人を大切にし、取りわけ水野中き、用人に吹きこみ、家中の目星しいものに吹きこみ、充 務を尊敬した、これは一行中の中島数馬が思うところあっ分なる工作をやってから、 " 金穀献納は失敗なり , と攻撃 て、水野中務とは仮りの名、実は白川神祇伯資訓の公子なを始めた。総督府が " 相楽等は偽官軍である , といったか る千代丸である事実を漏らした。白川家は京都の神祇伯世ら、牧野は何とも反駁が出来ず、 " 取押えて処分だけは伺 襲の家で、そのころまでは破格の特例をもっていた、後の い出ろ〃とまであっては議論の余地がない。しかし、牧野 白川子爵の家である。この事が知れたので、一番組では川 八郎右衛門は下諏訪で相楽に会っているだけに、食わせも 崎常陸が御機嫌伺いに出て、問わるるままに実際の状況をのだと思うに思えないものがあるが如何ともならない。藩 話した。川崎はもとより普通の御機嫌伺いでなく、「このの輿論はそれに頓着なく、嚮導隊討つべしと発展した。そ 碓氷の嶮に拠る、我が軍の盟首となって、御大業にお力をこへ、御影陣屋の元締綿貫庄之進が働きかけて来て、遂に お添えあっては如何ですか」と、そこまで踏込んだ。座に 小諸藩、御影陣屋の聯合が出来あがった。それだけでな 岩村田藩を誘い、上田藩を誘い、竜岡藩を誘い、安中 いた中島数馬がときどき口を挾むのが千代丸の決心を促しく、 たとみえ、川崎が引きさがってから、主従五人で評議を凝藩を誘うことにし、それそれに密使を送った。岩村田藩だ らし、更めて一番組の幹部が喚ばれ、頭首となって冬忠のけが承諾とみていい返辞を寄越した。ひと口にいうと〃そ 誠を致すと、千代丸の決心が明らかにされた。そこで、即の準備にこれからかかる〃というのである。上田、童岡の 時に、白川千代丸を源ノ千代丸と改め、一番組から直属の両藩と安中藩は答えてこないが、同意することは明らかだ 志兵を選抜し、それに神祇隊と命名した。隊長には桜井常五ときめてかかった。 のに - 、、、よっこ 0 白ハ・・刀ナ . / 討伐を十七日の深夜と決定した小諸藩は、当日、百人出 そ と 兵し、御影陣屋は農兵二百人を出すことに相談が出来た、 総 併せて三百人である。相手の一番組の人数はその四分の一 楽 相 ぐらいの寡兵だ。 攻撃隊の大将が決められた。主将は物頭の村井藤右衛 門、副将は高栗省吾、大橋某。集結の地点は三ッ谷村 ( 現 藩兵農兵集結 小諸藩牧野家では二月十日付の総督府の回章が、松代藩
眼の前にあるがその一方で、上の山藩、鯖江藩が激戦しては ( 例えば俣野時中の『薩邸打払いの事実』の如き ) 表門の方 いるのが、銃砲火の音と叫喚とで判った。主将石原の考えへ、 " 敵二、三十人が切って出たので上の山藩兵は余程の は、浪士を袋の鼠にして一人残らす殺すのでなく、追払う苦戦をした , という風にいってあるが、上の山側では、 ( 例 にあるから、いくら激戦でも援兵をそっちへ出さない。さえば旧藩士堤和保の「上山藩江戸鹿児島藩邸浪士討伐始末』の如 ればとて、同藩ではないので、 " 強いて戦うに及ばず、逃き ) " 浪士は槍、長巻、大太刀を武器に一百余人、我が隊 ぐる敵は逃がせ〃と命することは差控えた。上の山藩の方に向い、又五、六十人の浪士が鯖江藩に向った。といって では、武門の面目、敵を悉く滅ばそうという決心でかかっ いる。これは二、三十人といったのは誤りで、百余人と ているから激戦、しかも、苦戦であるのに、一方は午前の五、六十人の二手というのが真に近い、それに上の山藩と 日をあびて閑だ。 鯖江藩が激戦した場所は前にいってある如く三田通り通用 閑なればこそ、鳶が何羽となく、今し方、砲弾で斃れた 門で、庄内藩が向った場所の方に島津の黒門 ( 正門 ) があ 男の酸鼻なる死体に集った。安部藤蔵がそれを見て、いか に何でも悪食の鳶どもが憎くなり、連発銃で先す一羽落し辞世の和歌を着衣に縫いつけた水原二郎の指揮で、浪士 た、驚いてその余の鳶は飛び立ったが、再び死体に集りか側は薩邸の庭の築山に据えた大砲を射った。この大砲は相 けたので、射って又一羽落した。暫くすると三たび鳶が舞州荻野山中の大久保家の陣屋から奪って来た物である。砲 い戻って来て、死体に集りかけたので、三羽目の鳶を射ち手が熟練していないので効力がない。ト ′銃の方は充分に射 落した。それで懲りたとみえて、鳶はもうこなくなった。 てるので、先ず小銃で射撃し機をみて突出、白兵戦で囲を この死体とおなじ男かどうか判らないが、首のない武士態破ろうという策戦で、浪士の殆ど全部が築山を中心に、徳 の死体があったが、その体には、刺青があったという見た島藩邸の上の山藩兵と、高松藩邸の鯖江藩兵に、小銃短銃 人の話が伝わっている。 をあびせかけた。その背中の方では、島津家の御殿と長屋 とが激しく燃えている。 そのころ、幕府の奥詰銃隊とか、撒兵頭大平備中守と 浪士脱出 か、別手組とか、その他にも幕兵が、それとなく加勢に繰 り出して来て、地形の関係でもあったか、上の山、鯖江の 三田通用門から脱出をもくろんだ浪士の数を、庄内側で激戦している方角には姿をみせす、庄内と岩槻の両藩兵の っこ 0 かこみ
やることになった。 土州藩でこの事に当ったのは後の板垣退助で、この計画 に加わって奔走、いざというとき、陣頭に立つ一人は相楽 総三であった。相楽と板垣とはこのときの関係で、市中で 幕吏に追いかけられた相楽が、土州邸に飛びこみ、板垣に 隠匿われ、又、板垣が幕吏に追いかけられたとき、相楽は 赤坂三分坂の実家に隠匿い、互いに助けあった。そういう ことがあるのでその後、相楽が捕縛され死刑になったと聞 強盗偽強盗 き、板垣はその非を鳴らし、相楽を惜しんで涕泣した。 ういうこともあったのである。 江戸にどこからともなく拡まった噂があった。それは十幕府は薩土両藩陰謀の風聞に驚き、在江戸の諸侯を召集 一月朔日の夜 ( 慶応三年 ) 、薩州藩と土州藩が浪士と謀ってし出兵させた。その当日と噂された十一月朔日は何ごとも 八千余人で、江戸城の近くに放火し、勢いに乗じ西丸に乱なかった。が、油断ならずと、江戸城の諸門を固め、幕兵 入、和宮様と天璋院とに御立退きを乞い甲府に御供した上を諸所に配置の計画をした。 謡言百出、さまざまのことが市中に拡まるその一方、十 で、京都に攘夷即行を請願する企てがある、こういうので ある。米沢藩の記録によると、そういう陰謀が発覚し形勢一月から十二月へかけ江戸市中に事故が次から次と起っ 頗る迫っているので、江戸にある米沢藩の世子上杉茂憲はた。幕府はそこで次に列記した諸家にむかい、「市中強盗 志万一の場合登営して和宮様を御守護申上げることと評議が暴行致し候に付、銘々屋敷最寄七、八町を持場に相立、昼 の決し、米沢から江一尸に藩士を急行させたとある。ひとり米夜巡邏候様可レ被レ致候」と命令した。 松平中務大輔親良 ( 三万二千石・豊後杵築 ) と沢藩上杉家だけでなく、このとき佐幕の藩はおよそ同様で 総あった。 有馬遠江守道純 ( 五万石・越前丸岡 ) 戸沢中務大輔正実 ( 六万七百石・出羽新庄 ) 相薩州、土州両藩士の間で、それに似通った計画があった 真田信濃守幸民 ( 十万石・信州松代 ) のではあるが、土州藩は藩の大勢が変化して、そういうこ 松平伊賀守忠礼 ( 五万三千石・信州上田 ) とが出来なくなり、後は薩州藩が独立で別の方法をとって 薩邸焼討の朝
四日 ) の昼、庄内藩の執政松平権十郎親懐が喚ばれて江戸に同志の者多分にこれあるという、且っ二十三日の夜暴発 城にのばると、老中若年寄列座の前へよばれた。このときしたる者も残らず薩邸へ立ち入りたる由、右様にては御取 の老中と若年寄とは次の人々だが、この全部が列席したか締相立たず、御取締のことは専ら御家 ( 註・庄内藩をいう ) 過半だけか、それとも少数だったか不明である。先任順で御引請のこと故、人数を差向け犯人共引渡しを交渉の上、 列記しておく、 先方の挨拶次第にて討入り然るべし」と、こういう。これ 老中板倉伊賀守勝静 はそれまでに再三の下交渉があっての上であった。 一口 松平周防守康直 松平権十郎は命令をすぐ承服しなかった。「御命令のと 同 稲葉美濃守正邦 おり、薩州屋敷の然るべきものに、これまで市中を暴行 小笠原壱岐守長行 し、屯所に発砲した犯人の引渡しを求めますが、到底引渡 老中格松平縫殿頭乗謨 すことはないと存ぜられます、そうなると武力でやること 一口 稲葉兵部正巳 に相成りますが、庄内藩一手でそれをやっては、屯所に発 老中松平伊予守定昭 砲された私怨を含んだものと、後世のものからも観られま 若年寄大関肥後守増裕 す、これは決して私怨でなく、市中御取締も命ぜられた庄 一口 石川若狭守総管 内藩の責任上、やることですから、他家と聯合の上でなく 同 永井肥前守尚服 ては、面目上、致しかねます」と述べた。幕府側はそれを 一口 松平左衛門尉近説 承知した。 一口 戸田大和守忠至 その晩、松平伊豆守信庸 ( 羽州上の山藩三万石 ) 、大岡主膳 志 一口 堀内内蔵頭直虎 正忠貫 ( 武州岩槻藩二万三千石 ) 、間部安房守詮道 ( 越前鯖江 同 の 永井玄蕃頭尚志 藩四万石 ) 、この三家に切紙による重役召集状が飛んだ。 そ と庄内藩側の文献等に拠ると、この日、松平権十郎と接触上の山藩松平家からは先ごろ江戸へのばったばかりの家 総したのは水野和泉守忠精 ( 羽州山形藩 ) だという。が、水野老山村縫殿ノ助 ( 弘穀 ) に、留守居役仁科大之進が付添っ 相はそのとき老中ではないから、申渡しをしたのだろうか。 て登営した。岩槻藩大岡家、鯖江藩間部家からも、家老が % 幕府側では「薩州屋敷の浪人共の儀、市中を暴行し、且留守居役付添いで登営し、大目附木下大内記 ( 利義 ) 、目附 っ野州出流山にて召捕りたる竹内啓等の申口にも、薩州邸松浦越中守、長井筑前守の列座で、木下大内記から、「三
げ失せた。それでも極く少数ながら逃げ遅れの者がいた。 上の山藩と連絡を保っている鯖江藩は、見取り図を写しこうした連中は突撃して血路をひらく気は毛頭ない、そこ て、これ又激戦を予期し、士気の鼓舞に努めた。 で逃げ出した。そういう中の一人に、四十歳ぐらいの袴を 岩槻藩が受持った七軒町の通用門、そこから浪士が突出着け、刀を帯びた男が、正門から出て群がる庄内兵の間 すればそこも又激戦だ、しかし、岩槻藩は小人数である。 を、両手合わせて拝みつつ、「どうぞ射たないで下さい」 その代り三の曲りから七の曲りまでに、庄内兵が薩邸の土と泣き声で頼みながら歩いた。射たないで下さいといった 塀に取りつき始めたから優勢であること勿論だ。 のは、庄内兵が小銃を持っているからで、そうでなかった ら「斬らないで下さい」というところだ。 ◇ 先程、談判をやった安部藤蔵が、苦々しげにその男の顔 攻撃側の庄内藩と上の山藩と、どちらが先に大砲を射ちを見ていたが、卑屈極まる態度に腹を立て、うしろ姿を睨 出したか、これはこの後も永く判りかねるだろう、どっちみつけ、「そいっ射て」といって持っていた連発銃を構え が先だったということは重大ではない。庄内藩は大砲隊長るより先に、砲手が砲口をその恥知らずの男に向けて射っ 中世古仲蔵が、「射てツ」と号令したのが第一発、上の山た。砲弾はその男の左の頬に命中し、顔半分と頭とが飛び 藩は大砲隊長松平八百太郎が、「射てツ」と命じたのが第散った。霰弾射だろうか。 一発。それからどンどン射ちつづけ、各藩兵とも小銃を射間もなくこれも表門から、二十歳ぐらいの浪士が二人、 庄内兵の群がる中を平気で駈け抜け、三田通りに向った。 どの藩の射った砲弾だったか、薩邸内の練武場に命中し眼の前を駈け抜けられてから、「そいつを遣れ」と二、三 志た、そこは、この間中から火薬貯蔵場になっていた、忽ち人叫ぶものがあった。彼の二人はそれでも平気で、忽ち三 の火薬が爆発し、その頃の人が聞いたことのない爆音が起っ田通りへ出て、左に曲ろうとした。こうして脱出、品川方 とた。このために火は四方に飛び、放火による火勢と一ツに 面へゆく心算だったらしい。庄内の新整組のものが追ッと 総なって、盛んに燃えひろがった。 り囲んだ。忽ちに斬りあいになったが二人と多勢だ、結末 相前にもいった如く浪士の中にはニセ者が混っている。一 がすぐっいた。この二人の首級は石原倉右衛門が陣中の型 時の食いつなぎとか、事故があって潜伏するためとか、そどおり首実検をやった。士としての扱いをしたのである。 ういう連中の大抵は、生命の危険を感じ、この数日中に逃表門の一帯はそのくらいの出来事があっただけ、 火事は ) 0
ろう。 上田藩の高村新次郎は間者とわかって赤報隊に捕えら れ、脇本陣丸屋に拘禁されたが、番人の隙を狙い逃げ出し ざま、追わんとする人々に有りあう火鉢をとって投げつけ 灰神楽の煙幕に隠れ首尾よく外へ出たが、到底、下諏訪か ら一歩も出られまいと観念し、それならば敵将を刺殺し、 一命を乱刃の下に落そうと決心し、本陣屋へはいろうと したが門が閉じていた。乗越すつもりでいるところを見つ 相楽の苦悩 けられ、姿を一時隠し、機をみて相楽を刺そうと雪の道に 凍えながら、そこここに隠れているうち、亀屋のすぐ前の 相楽総三が東山道総督府から、下諏訪へ帰り着いたのは表通りである綿の湯の前で、追跡してきた赤報隊士に見つ 二月二十三日の午後四時頃だった。留守中に起った追分戦けられ、闘ってはみたが勝敗はすぐっいて高村は斃れた、 争と碓氷峠撤退、深く望みをかけていた金原忠蔵の戦死、夜中の零時ごろのことだった。 等々に痛憤した。その一方で、高島藩の様子が怪しいから厳冬の信濃の未明は殊に寒い、高村の死体は二月二十四 日の朝、血も死体も凍っていた。 これを抑制し、和田峠の向うに出兵している上田藩に対 し、次第によっては一戦と決心し、又一方では小諸藩と御おなじ二十三日の晩、中村安兵衛も捕えられ旅館江戸屋 影陣屋に目にもの見せんと、それに必要な手続きを総督府に拘禁されていた。この人はじッとしていたので斬られす にいた。それを高島藩でいろいろ交渉して預かった、その 志にとり、それから又別に、岩村田藩内藤家に拘禁されてい のる西村謹吾、大木四郎、川崎常陸等十八名の放還を総督府ために一命無事だった。 とに願い出でるなど、幾つとなき事柄に膏汗を流した。 ◇ 総そういう折柄、笠取峠まで繰り出してきている上田藩が 相間者を放った。それは中村安兵衛、高村新次郎と、その他相楽が美濃大垣の総督府で、二月十八日、大いに論じ、 7 にもあっただろうが、人数にしてどのくらい、姓名は何と釈明し、陳情し、且っ頑張ったとみえ、その日、 " 共方並 に同志の人数薩藩へ委任致し候条、右藩の約東を受けて進 しったか、恐らく、この後と雖も、判明することはないだ 相楽総三の刑死