野州 - みる会図書館


検索対象: 長谷川伸全集〈第7巻〉
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1. 長谷川伸全集〈第7巻〉

野州挙兵の隊長竹内啓 し、権田直助に医術を学んでいよいよ勤王論が身につい た。大正三年七月三日、年七十六で他界した。 甲府城攻略隊長上田修理 相州襲撃隊長鯉淵四郎 ◇ 十一月二十四、五日ごろ、野州挙兵隊と甲府攻略隊と、 相楽は浪士中の幹部と、益満休之助、伊牟田尚平、篠崎二手のものが、相前後して江戸を出発した。出発の前日、 彦十郎等と協議の上いよいよ積極的に動き出すことになり相楽総三が盛んなる生別死別の会をひらき、慷慨淋漓の激 方略を樹てた。それは江戸を中心に三方から徳川幕府を脅励の辞を述べ、一死報国の実現を望んだ。 かそうというので、一つは野州で討幕の兵を挙げて江戸か野州挙兵隊で、三田の藩邸から出発したものが何人であ オカこれを養父落合直亮の談を骨子にした『白雪物語』 ら東北へ行く口許を押え、一つは甲州の甲府城を攻略してつこ : ばか 甲信方面のロ許を押え、一つは相州方面を騒がせ東海道筋 ( 落合直文 ) でみると、「一群六十人許り、そを野州に遣わ の側面を押え、江戸に居残りの面々は日夜とも幕府に挑発す、是を率いたるものは竹内啓、従うものには会沢元助、 を仕向けて居たたまらないようにする、この四つが実行さ西山謙之助などあり」とあるが、『薩邸略記』でみると、 れれば、西郷、大久保の目論見である、討幕の軍事行動を「野州方面の隊長は竹内啓と衆議一決し、同志西山謙之助、 起す機会が促進され、皇政復古の実現が一日も早くなるだ奥田元その他数人行をともにし」といっている。両方とも ろう、それには火急に実行しなくてはならぬというので、薩邸浪士から出た記述だが、事によると、「白雪物語』に それそれに向けて下準備にかかり、上州、野州の浪士のうは文飾があるかも知れない、とすると「薩邸略記』の「そ ちから選定して集会を開き、協議を急速に進める一方、甲の他数人」といっている程度が真にちかいかとも思う。別 州方面のことも、相州方面のことも、調査を重ね、連絡のの方面からこれをみると、『野州岩船山浪人追討聞取書』 密使を出し、その一方では江一尸市中の大商人の中で、どこ ( 館林藩士藤野近昌 ) は「慶応三卯八月の末頃より、諸浪人 きた 野州鍋山村に集り来りて、一民家を借り受けて、此処に毎 を押せば幕府が痛いか、その調査内偵もやらせた。 薩邸内糾合所で幹部と幹部どころの総会がひらかれるこ日密々評議に日を送り居たりしが、共内追々人数相加わ と数回、野州の挙兵、甲府鹹攻略、相州荻野山中の大久保り、大将分として知名の人々は、竹内啓、会沢元輔、不破 氏の陣屋襲撃と、この三つも出動者が決定し、その隊長を歓一郎、安達孝太郎、西山謙之助、山本必衛等なりと、里 人之を云えり」といっている。だが、竹内啓が、川越在小 次の如く決定した。

2. 長谷川伸全集〈第7巻〉

行の一隊は、千住の関門を何とか無事に通過しなくてはな らない、そこで関門突破の手段が考えられた。それは、か ずる 出流天狗 ねて薩藩主の夫人が野州流山の千手観世音に祈願をこめ ておられたところ、先般お引揚げになる際、願ほどきの代 水原二郎 ( 落合直亮 ) の遺した談話では、「一方に野川、 参を立てる隙がなかったので、汝ら機をみて代参に立てと 一方に甲州、又その一方に相州と、各所に事を起し、徳川 ご命じになられた、只今、その代参に罷るのである、こう にやれば怪しみもしないだろうというのである。なるはど、 幕府の力を分散させ、江戸が薄弱になるのを待ち、一挙 江戸を襲う、こういう方策でした」とある。そういう主力それだったら成功疑いなしと、だれもが確信した。 の分散に働く一つである野州行が、どうして野州を選んだ そうなると、仮想ながら目的地が極まったので、勢い挙 かというと、江戸界隈では、幕府が号令して各藩を動かす兵の地も、野州都賀郡鍋山村の出流山方面と決定した。出 だろうし、歩兵隊などもあるので、鎮圧されるのが目にみ流山は鞍懸山、岩船山と連亙し、大平山、晃石山が西につ えている、それらの力が成るべく及び難いところ、というらなる。出流山下は峡谷で、白兵戦だけならそこは要害の 地形オ ので、上州野州方面いずれかでということになった。 上川でならば赤城山に拠るべしという説がかなり有力だ ◇ った。赤城山だと沼田城を奪って根拠地とし、三国峠、清 水峠を押えて、諸藩の攻撃に耐えるには、越後方面と連絡関東で勤王の挙兵をやり、又はやろうとしたものが、文 がないといけない。ところが、薩邸浪士の面々は越後との久以来、大体、四ッある。文久三年十一月を期して破れた 交渉がない、長谷川鉄之進でもいればだが、長谷川はいな慷慨組の赤城山挙兵と、天朝組の横浜異人街の襲撃計画 。それに桃井可堂とその一党が失敗した前例もあるのと、元治元年正月十六日、攻撃をうけて潰滅した南下総の で、これは不採用となり、野州挙兵が可決された。が、大楠音次郎の挙兵計画、それに同年の四月から起って秋深く 平山に拠るか岩船山に拠るかは、隊長竹内啓その他の採決なって破綻を生じた筑波山挙兵である。このうち慷慨組の に任せられた。 ことは「可堂先生事蹟』 ( 塚越停春楼篇 ) 、『川股茂七郎』 ( 斎 江戸からの諸街道は、品川、内藤新宿、下板橋、千住、藤馨篇 ) などが伝わっており、天朝組のことは「藍香翁』 岩淵、どこの関門も厳しく人あらためをやっている。野州 ( 須藤光暉篇 ) 、「渋沢栄一伝」 ( 幸田露伴篇 ) などが伝わって ′よ ) 0

3. 長谷川伸全集〈第7巻〉

57 相楽総三とその同志 月村から来って薩邸に投じたのは、十一月十日ごろで、十 一月十日以前に来り投じた者はだれもないのであるから、 八月の末から鍋山村に集ったというのは誤伝である。 要するに、江戸出立の浪人の数は判らないということに なりそうである。が、『落合手記』の「人名録」、『赤報記』 の「人名録」、「殉難録稿』『佐野天明所刑連名」などに拠 ると、それそれ判ってくるものがある。 「落合手記しに拠ってみると次のとおりである。 隊長 節斎 ( 四〇歳・武州川越在・竹内啓 ) 使番西山謙之助 ( 二三歳・濃州久々利 ) 同奥田元 ( 信州上田 ) 監軍会沢元輔 ( 水戸浪人という ) 小宮山蘇十郎 醍醐新太郎 ( 一九歳・下総香取・飯篠長江斎 ) 国次郎 ( 伊井家 ) 小林勝之進 ( 一九歳・下総牧野村・小林進之助 ) 安達孝太郎 ( 四七歳・越後新発田・野州石塚居住 ) 丸尾雄蔵 ( 武州忍藩・丸尾清 ) 岡甚之助 ( 野州栃木・津田四郎 ) 平井五郎 ( 二九歳・武州多摩郡平井村 ) 沢 束 ( 三九歳・伊賀上野・清水定右衛門 ) 西阪直之助 ( 二九歳 ) 吉田定次郎 ( 野州佐野 ) 鈴木謙三郎 関浪之助 ( 薩藩系統・土佐原出身 ) Ⅱ原平次 ( 三四歳・野州佐野 ) 島一郎 ( 二六歳 ) 奥沢勇 不破貫一郎 ( 信州高遠 ) 高橋亘 ( 三五歳・上州佐位郡木島村 ) 河野橘蔵 荒川藤造 ( 或は荒川藤馬 ) 山田謙三 ( 紀州出身という ) 小沢友之進 ( 二五歳・江戸生という ) 林秀之介 横越籌作 原金之助 ( 裁縫師 ) 計二九人 ( 津田四郎ト岡甚之助ト別人説アリ 然ラバ計三〇人トナル ) この他に次の面々も隊士であったことが、「赤報記しの 「人名録」に記載してある。 林幸之助 ( 越後、武州駒木野居住 ) 高田国次郎 植村仙太郎 ( 江戸・三浦弥太郎 ) 信沢武馬 ( 駿州田中・清水正紀 ) 大増司 ( 増谷備 ) 望月長一一一 ( 高山健彦 ) 川村藤太郎 ( 武州駒木野・白神晋 )

4. 長谷川伸全集〈第7巻〉

藤田新 ( 野州宇都宮・大藤栄 ) ◇ 渡辺主馬 ( 一九歳・駿州田中・近藤俊助 ) 荒木又之進 川節斎の竹内啓は通称を嘉助といった。家は源氏の末 むらおさ 松田万兵衛 流で、武州入間郡竹内村で代々の里正であった。朝川善庵 に漢学を学び、国学を平田銕胤に学び、医学医術は辻元崧 水野内蔵助 ( 信州佐久の神官水野丹波 ) 高橋新太郎 ( 仙台、又は下総の人 ) 庵に学んだ。朝川善庵は医者で漢学者の朝川黙翁に養われ て長じ、実父は片山兼山である、十返舎一九の「東海道中 尾崎忠兵衛 ( 川崎常陸 ) すつばん 膝栗毛』の中にある鼈が夜中に旅籠屋で泊り客を驚かす 山口金太郎 ( 常代藤三郎 ) あれは、善庵が九州に遊んだとき、太宰府の宿屋で実演し 計一五人 その他に次の八名が加わっていた。この他にもあるだろたことだ。善庵が一九にそれを話したので、「膝栗毛』に 取り入れられたのである。平田銕胤は平田篤胤のあとを享 け、日本国内に平田学を普及した国学者で、平田学が明治 大芝宗十郎 ( 五五歳・甲州巨摩出身 ) 維新に学問として、どのくらい強力に働いたかは、更めて 市川平吉 ( 三四歳・野州足利郡迫間田村 ) いわすとも、 しいだろう。薩邸浪士の中には、野州挙兵隊の 丸山梅夫 ( 信州上田・丸山徳五郎 ) 使番西山謙之助のごとく、銕胤に学んだ人が尠くない、或 日吉邦助 ( 野州・赤尾清三郎 ) は銕胤以外の人から平田学をうけた人が多い。 山本鼎 ( 野州 ) 薩邸浪士の間には、それだから国学が主潮をつくってい 吉沢富蔵 ( 上州 ) た。従って漢学一点張りの人とは思想的に衝突が起り易 会沢忠一一 ( 会沢元輔の弟 ) 、その代表的なものは、大監察だった越後の長谷川鉄之 飯篠忠次郎 ( 飯篠長江斎の弟 ) 右の三つを併せると総人数四十人乃至五十人を越える。進である。顔が鉄のように黒かったこの人は、朝川善庵に 但し或はこの中に変名が重複しているかも知れず、遺漏が学んだ。国学の方は殆どなかったといってよい、そのため ないとも云えす、誤入があるやも計り難い、しかし、大か衝突がたびたび起った、一つには酒癖が悪かったともい う。あるとき例のごとく衝突し、短気で腕力のすばらしい 体、右の如くである。 大樹四郎が飛びかかって殴った、これが直接の原因となっ

5. 長谷川伸全集〈第7巻〉

冷遇したとて大いに怒り、雄弁をふるって論難した。その久保田弥吉は実父を島田七左衛門といって名主である。 為かして、前にいった赤尾清三郎、飯篠長江斎についで、久保田家の養子となり、竹内啓の隊に投じ、敗戦後、敗残 の同志をあつむべく、奔走中捕えられた。 その他の同志よりも二日早く斬殺された。 島定右衛門は野州安蘇の堀込村の島家の養子で、本姓は ◇ 高柳である。出流天狗に投じて変名に吉田定五郎をつかっ た。岩船惨敗の後、堀込村にひそかに帰り、両親に訣別し 戦場を一先ず引揚げはしたものの、その後、生擒された て、立出でたところを多数の捕吏に囲まれ、力闘久しい後 人々は、大体、次の如くである。 に捕われた。 安達石斎 ( 四三歳 ) 上州田沼にて縛 市川平吉は前にいった荒川藤吉の友人で、荒川の手引き 久保田弥吉 ( 二六歳 ) 江戸への途中縛 で加盟したものである。惨敗の後、一時、佐野で巧みに潜 島定右衛門 ( 三二歳 ) 野州堀米にて縛 伏していたが捕われた。 市川平吉 ( 三四歳 ) 野州佐野にて縛 高実子縫之助 ( 二一歳 ) 江戸への途中縛 ◇ このうち安達石斎 ( 幸太郎 ) と高実子縫之助は師弟で、石 場所はわからないが、その他に生擒された人は次の如 斎は野州安蘇の石塚村に住み、赤尾鷺州 ( 赤尾清三郎の父 ) に学んだ。幕府の失政を憤り、勤王の志に燃え、野州の鈴し。 岩松播磨正 ( 五三歳 ) 、永井斎宮 ( 五九歳 ) 、川島一郎 ( 二 木千里、江戸の村上四郎等と画策したが成功しなかった。 六歳 ) 、井上十郎 ( 一一一歳 ) 、小沢友之進 ( 二五歳 ) 、毛塚 鈴木千里のことは栃木陣屋に関する足利藩の件りでいっ 清吉 ( 一一三歳 ) 、阿部久次郎 ( 二四歳 ) 、平井五郎 ( 二九歳 ) 、 た。村上四郎は相楽総三の変名である。石斎は岩船山下に 立花佐吉 ( 一一六歳 ) 、富岡五郎 ( 三六歳 ) 、中川直江 ( 二八歳 ) 惨敗したが落胆せず、後図をはかるべしと竹内啓等に極諫 深町金之助 ( 三八歳 ) 、川原平次 ( 三四歳 ) 、市川平吉 ( 三 し、一先ず、上州田沼に潜伏したが、発見ぎれて捕われ 四歳 ) 、里見武右衛門 ( 四三歳 ) 、西阪直之丞 ( 二九歳 ) 、 た。門人の高実子縫之助は銃丸に右の腿をやられ、夜に入 白沢佐蔵 ( 三三歳 ) 、柾吉 ( 二〇歳 ) 、仁三郎 ( 二一歳 ) 、下 るを待って江戸に走らんとし、その途中、幕吏に捕われ、 船喜太郎 ( 五一歳 ) 、大久保俊斎 ( 二八歳 ) 、高橋亘 ( 三五歳 ) 、 他の同志とは別に、ただ一人、上州岩鼻陣屋に護送され、 大谷千乗 ( 二四歳 ) 。 そこで殺された。

6. 長谷川伸全集〈第7巻〉

- 一とわ 流しつ、断るでもなく出金するでもなく、巧みに釣っておることとなった。応援の指揮者は、正が西山謙之助、副が いた。釣られていると知らずに五士は、なおも根強く談判田中光次郎、この二人とも監察兼使番である。その他は、 を試みたが、牧民をやっている善野の方が、純情家の五士河野橘蔵、荒川清之丞、渡辺勇次郎、大竹市太郎、富永甚 よりは世故の才が遙かに長けていた。五士は、まんまと釣太郎、大谷千乗坊、併せて八人。前に五人行っているの られた。 で、全部で十三人が合体して陣屋に当り、その様子次第で 出流天狗の出金談判が栃木宿はもとより近郷近在にすぐ次々に、応援が行く手筈となった。 拡まった。いや、拡められた。沼和田、片柳、園部その更めてもう一度、先発と応援と、十三人の氏名を列記す 他、近郊の村々ではそれとばかり非常手配にかかった。中る。 〔先発〕高橋亘 ( 三五歳・上州 ) にも沼和田の如きは、栃木から敗走の田中愿蔵に放火され 斎藤泰蔵 ( 二八歳・野州 ) て、農家十三戸、貸家十二棟が灰になっただけでなく、男 女数人が殺傷された四年前のことがあるので、何処よりも 山本鼎 ( 二三歳・野州 ) 吉沢富蔵 ( 三一歳・上州 ) 殺気立っていて、村内の川に架っている大橋の上に花火筒 高田国次郎 ( 二七歳・野州 ) を三本据え、火薬と小石を充填し、もしも浪士がやって来 たら、偽り敗けて思う壺に引きつけ、ブッ放して一人残さ 〔応援〕西山謙之助 ( 二三歳・美濃 ) 田中光次郎 ( 年不明・上州 ) ず殺そう、逃ぐる浪士があったら槍薙刀脇差など、武器を 明 ) 荒川清之丞 ( 不 手にした村の男という男が総がかりで遣っつけよう、と、 明 ) 河野橘蔵 ( 不 手具脛ひいて待っていた。 五士の運命というものは、実に、風の前の灯というべき 渡辺勇次郎 ( 二八歳・会津 ) 明 ) である。 大竹市太郎 ( 不 明 ) 富永甚太郎 ( 不 ◇ 大谷千乗坊 ( 二四歳・野州 ) 鍋山の本部では、出流山に籠るつもりで、いろいろの設 国定忠治の子の千乗坊は、髪の毛がまだのびていないが 備こ をかかりかけていた。その中で、竹内啓が高橋等五士の還俗したのだから、最早、千乗坊ではなく、自分で選んだ こころもと 身の上を心許ながり、緊急幹事会をひらいて応援を急派す大谷刑部 ( 国次 ) である。栃木行は最初の行動だったの

7. 長谷川伸全集〈第7巻〉

敗戦の後 国定忠治の女房は名をおつるといい、妾は二人あって名 おまち ( 或はおまき ) といった。と、いうの をお徳といい、 が通説で、おていという妾は登場しないようである。 上州の国定地方の故老で、忠治に子はなかったという説 を固く執るものもあった。野州辺で女を孕ませたそうだと いう説をとる者もあった。地方専門の俳優で太夫元兼の高 浜喜久義は忠治の弟の孫である。その高浜の話に、忠治に 子はありませんでした、何処とかで子を生ませたともいう 話がありますが嘘か本当かわかりません、先年、忠治の落 胤と名乗るものが現れましたが、私ども、忠治の血縁の間 では本物だと思いませんでした、野州に落胤があるという しばしば ことを、屡々、耳にしますが何かの間違いでしよう、と、 こう言っている。しかし、大谷千乗が忠治の子であること は確からしい 八王子・相州荻野山中の変 千乗は弘化元年に生れたのだから、そのとき忠治は赤城 の山籠りを解散し、行衛を晦ました折柄にあたる。忠治が 上州へ引返したのは弘化三年だから、千乗は数え年三ッ で、寅次といっていたときにあたる。 寅次が七歳の嘉永三年十二月、年四十一の忠治が半身不 はりつけ 随の躯を、大戸の関所の刑場で磔にかけられて死んだ。 忠治の刑死した後の二、三年間というものは、血縁のも のは四散し、又は四散のかたちを取って遠慮の実を挙げ た。そういうときだったから寅次の母おていは、野州都賀 郡大久保村に引ッこんでくらしていた。忠治がその一代 さわ に、直接間接に、人を殺し人を斬り、世間を擾がせた罪障 消滅をはかるため、おてい父子が、寅次を出流山千手院の 徒弟としたということは、合点のゆく話である。 くにつぐ げんぞく 大谷千乗が還俗して、大谷国次といったことは前にいっ た。栃木駅の戦闘を脱し、鍋山会所に報告にかえってから 後、何処で幕軍の捕虜となったか、「野州岩船山浪人追討 聞書』 ( 藤野近昌 ) には、〃竹内に始終付添いいたる大谷千 乗坊と名乗る入道、これを看るや殊勝にも長刀を水車の如 く振廻し、敵に当らんとせしが、飛弾の烈しさに辟易した るか、長刀を捨てて浄楽寺の方を指して落ち行きぬ〃とあ る。この記述に随えば、落ちて行って間もなく生擒された ことになる。「殉難録稿』にその件りは簡単で、「岩船山に 赴き又々烈しく合戦したり、されどっいに利無くして生捕 られ」と記している。

8. 長谷川伸全集〈第7巻〉

会沢の傍を放れずにいた神山彦太郎は、師匠の戦死を見 ◇ 届けると、その場を去った。江戸に赴き薩邸にはいる心で あった。その途中、野州藤岡宿で幕吏に発見され、数人を岩船山下、新里村八繙山等にわたり戦死したもののう ち、常田与一郎 ( 五二歳 ) は川田太郎や神山彦太郎等と同 相手に格闘したが遂に生擒された。 大森玉吉も又その場を去り、潜伏して十二月十五日、江郷の野州安蘇の永野村で医師をしていた人で、出身は肥前 戸に向う途中、栃木で幕吏に捕縛された。行李のうちに会佐賀、江戸に遊学して経書と医を学び、佐賀藩に帰って吟 味役を勤めたことがある。思うところあって浪人となり、 沢の遺物をもっていた。 渋谷の陣中に斬って入り、斃された数名の氏名が判然し親友池沢浅右衛門 ( 六九歳 ) の縁故で永野に落着き、医者 幡山に退き敵と ないが、出身地も経歴も不明な井上十郎と称する浪士の傍ら、子弟を集めて指導をしていた。八 ( 井上重郎・二一歳・長州萩の人ともいう ) があわやもう少し戦闘中、弾に横腹を射ぬかれたときこの人は、大声に「一 で、渋谷和四郎を討取るところまで行った。ほンの瞬間死もとよりその分なり、愉快」と叫んで絶命した。長男与 八郎三八歳 ) も一ッ所で戦死した。池沢浅右衛門も老人な に失敗し、群がる敵の中を斬り抜け、何処ともなく去った ということがその当時評判だった。それは浪士側が惨敗がら常田与一郎とともに、竹内啓の隊に投じ、常田ととも に闘っこま、戦後、生擒され、癈人となった。 し、幕府側が安心してほッと一息ついている、というとき で、渋谷隊の中に紛れこんでいた井上が近づいて急に刺そ野州足利の鈴木兼三郎 ( 二七歳 ) 、生国不明の牛田右膳、 うとした。渋谷は素早く引ッばずし、抜討をかけんとす生国不明の坂本豊三郎 ( 二九歳 ) 、野州尾の萩原兼三郎 くらま る、と、井上は陣中の味方多勢のなかに姿を晦した。多勢三四歳 ) 、飯篠長江斎の弟だという飯篠忠次郎も戦死した。 の中のたツた一人の敵は、存外、探し当てることが難かし野州安蘇小野寺村出身の島田重吉 ( 五三歳 ) 、麦倉伊三郎 ( 四四歳 ) 、江田熊太郎 ( 三六歳 ) 、この三人はおなじ処で戦死 、遂に姿を見失ったという。「殉難録』には年二十一、 戦死と記してある。十二月十八日の処刑日に、井上は死のした。 座について世を去っている、この方が本当である。 戦場で生擒された者の中で赤尾清三郎 ( 四七歳 ) と、飯篠 この戦いは十二日から十三日早朝までだったということ長江斎 ( 一九歳 ) の両人は、戦闘のすぐ後で、野州安蘇の吉 が、小中村の郡造の石井家文書』にある。これが一番確水村 ( 現栃木県安蘇郡田沼町の内 ) 川原新田で斬殺された。 赤尾清三郎 ( 秀行 ) は備後の国福山藩阿部家の浪人で、 かだと思われる。

9. 長谷川伸全集〈第7巻〉

後裔岩松満次郎を擁立して討幕の兵を挙げんとする藤屋五 郎 ( 金井之恭 ) 、本島自柳、昌木晴雄、松本敬堂その他が出 きた たす 出流玉砕組 入りし、敬哉も忍んで来り会合した、これを極力扶けたも のが敬哉の母俊子である。俊子がそういうことを進んでや ったのは亡夫千里の遺志を嗣いだのである。が、この計画栃木戦争の前の日の十二月十日、幕府は下野の国に屯集 は実現しなかった。岩松満次郎が上州から江戸に去り、江の賊徒召捕りを、次の三家に命じた。 戸地方で白河藩保管の砲台付陣地に滞在中と幕府に届出た 鳥居丹波守 ( 野州壬生・三万石 ) のはこのときのことだろう。母俊子が五十三歳で病歿した 秋元但馬守 ( 上州館林・六万石 ) 慶応二年の秋でもあろうか、敬哉は脱藩して江戸に出で、 戸田長門守 ( 野州足利・一万千石 ) 大坂に奔り、「薩長浪士の間に伍し、幾多の艱苦を嘗め、 その命令には、「若し手に余らば打捨・切捨等致し不レ 飽くまで勤王の素志を貫徹せんと努めたり、然るに王政維苦」とある。打捨は射殺である。 新の代となり、敬哉の志亦自ら達せられたり」と、これは真岡代官所の警衛は、戸田土佐守 ( 野州宇都宮・七万八千 「足利市史』にある。鈴木敬哉は前にもいったとおり、島石余 ) に命じた。真岡代官は前にいったとおり山内源七郎 林敬一郎と変名し薩邸に投じていたのだが、足利脱藩だけである。 に慶応三年師走の野州挙兵には加わらず、薩邸に留まって ◇ いた。変名の島林とは母俊子の生家の姓、敬一郎の敬は敬 哉の敬、一郎は長男だからそう名乗ったのだろう。「落合館林藩秋元家では幕命に応じて出流山攻撃に藩兵二小隊 志手記』の「人名録」には本名・長沼良之助とある。長沼とと大砲隊とを出した。六万石の秋元家がその程度だから、 は父千里の生家の姓で、明治にな 0 てから敬載は長沼良之三万石の壬生藩鳥居家と、一万千石の足利藩戸田長門守の 」輔を名乗った。 家中からも、出来る限りの出兵なぞはしない。それで構わ 総 ない理由は、幕府の命令に「在所有合せの人数差出し召捕 楽 相 候様」とあるので、藩の運命をこれに掛けるなそはしな 。宇都宮藩戸田土佐守の家中もそれと同じである。 そういう情勢を真岡代官の山内源七郎は知っていて、出

10. 長谷川伸全集〈第7巻〉

来るし、岩船が戦ううちに唐沢山から迂廻して敵の虚を衝 大島馬之助三八歳・野州安蘇郡上永野村 ) くことも出来る、こう考えた。しかしそれは、全部、白兵隊長川田吉太郎は酒造家の息子で、出流浪士に加わって 戦に限ってのことで、大砲小銃戦が計算されていない。 からは、本名のうち吉の字を除き川田太郎といった。川田 その頃の義兵の挙が悉く失敗したのよ、、 。しろいろの事情は残留玉砕を志願し、隊長竹内の承諾を得ると喜んで、 と理由からであるが、その一ツの因は火器に無関心だった 「いざとくと死出の高嶺の雪を見ん」と辞世の句をものし ためである。いい換えてみると、国学は興隆したが、攘夷た、号を家業に因み酒泉といった。 論の行き過ぎが、近代武器に関し盲目であらせた。興隆の 国学に伴って、発達すべきものが不足した実例を最もよく 語る一ツが、この出流挙兵の結果である。 ◇ 出流山に残って、全員玉砕する犠牲隊がつくられた。隊 長と隊士とで判明している氏名は、次の十一名に過ぎな もっといたに違いない。 隊長 田太郎 ( 二五歳・野州安蘇郡永野村 ) 野上村 ) 亀山常右衛門 ( 五五歳・同 旧多田宿 ) 町田吉太郎 ( 二六歳・同 安中 ) 安中武助 ( 二三歳・上州 三木柾之助 ( 一八歳・野州都賀郡皆川村 ) 加藤祐松 ( 一三歳・同 桑原作蔵 ( 三一歳・同奈良部村 ) 鈴木長五郎三四歳・同都賀郡粕尾村 ) 亀山広吉 ( 二三歳・同 古橋又左衛門 ( 四五歳・同安蘇郡永野村 )