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検索対象: 長谷川伸全集〈第7巻〉
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1. 長谷川伸全集〈第7巻〉

訛りがある。それらの面々の大部分が、急に行く先を明ら ◇ かにせず鍋山を出立し、葛生方面に向った。極く僅かな人 数がそれらとは別に出流方面に向うらしい。葛生の方面に 出流山玉砕組は川田太郎隊長、鈴木長五郎、山常右衛 向った一隊の荷物を運搬のため、鍋山附近の者が雇われた 、町田吉太郎、古橋又左衛門、安中武助、三木柾之助、 が、賃銭は前払いで、その額が普通より多い。大体こんな加藤祐松、桑原作蔵、亀山広吉、大島馬之助その他数名か 風な報告だった。 数十名かが、鍋山村の会所 ( 大塚武右衛門方 ) で、総隊長竹内 渋谷は次の情報を受取った。それは、鍋山村から移動し啓等と生別死別の杯を交わし、竹内の率いる本隊は葛生方 た浪士隊の人足の中にまじっていた間諜からで、この報告面に向い , 日田太郎隊は出流峡谷に向った。不幸にも、幕 で浪士隊の行く先の見当がおおよそっいた。竹内啓等が目軍の痒いところに手の届くが如き間諜の働きで、せつかく ざすは唐沢山か大平山、岩船山かだ。その他の何処でもなの囮戦術が観破されてしまった。 幕軍の木村喜蔵隊は、宮内左右平、望月善一郎、馬場 いと判断して、すぐに行動を起した。 大体もう決定していたとおり、木村喜蔵、宮内左右平某、中村某等を幕僚又は小隊指揮者として、巡警隊の一 は、少数隊を率いて出流の山砦に籠るであろう浪士を討部、陣屋隊の一部で、急速力で川田太郎隊を追跡し、出流 ち、渋谷は多数隊を率いて浪士側の主力を討ち、双方で、峡谷の半ばで輜重隊に接近したので、鉄砲をあびせかけ 一挙に全滅させてしまう、こういう計画だ。両隊とも、全た。銃声が峡谷を震撼させた。 たすき 攻撃を受けた川田太郎隊には、銃声を聞いて早くも逃亡 員に、白木綿をわたして襷十字にかけさせて袖印に代え、 全員に、かねて配付してある鉢金をかぶらせ、戦闘の方法者が続出した。それより先に輜重隊の人足は一溜りもなく を、一にも鉄砲、二にも鉄砲とし、決して白刃でわたり合逃げ失せた。野州都賀の絈尾村出身の鈴木長五郎は、肉薄 うなかれと申渡し、木村喜蔵隊は勝手知ったる道を出流にしてくる幕軍にむかい抜刀して駈け向った。が、弾丸に左 きずつ 向い、渋谷和四郎隊は、これも知り抜いた道を選みに選ん足を傷けられた。それに屈せず敵の中に飛びこみ、数人を で、浪士隊の先廻りをして、大平山の占拠を妨げ、唐沢山斬りは斬ったが、足辷らして流れに落ちたところを、幕軍 にも岩船山にも拠らしめずと、出発したのが十二月十二日中の武士がふるう槍に貫かれて落命した。野州安蘇郡会沢 村出身の町田吉太郎は輜重隊についていたが、幕軍が銃火 の夜に入ってからだ。 をあびせるとすぐさま、川田太郎隊長の許に駈けつけ、防

2. 長谷川伸全集〈第7巻〉

る訳ではない。 これらの兵制のうちから、薩邸攻撃には士大砲隊が加わっていた。岩槻藩大岡家の出動させた兵数は 分七組のうちから一組も出さず新徴組と新整組とで約三百よく判らない、五十内外だったろう。、随って当日の激戦は 人、徒士の大砲隊三分隊、足軽組が六組、この一組は二十庄内、上の山の両藩が主で、鯖江藩は上の山藩の右翼とな 五人ずつの銃隊、これらが神田橋内と柳原の藩邸から、西って闘い、岩槻藩は殆ど血を流していない。 丸下の酒井左衛門尉預りの屋敷で俗に伊賀屋敷といったの幕府から朝倉藤十郎、長阪血槍九郎、水上藤太郎が検視 に、夜中に、どンどン繰りこんだ。飯田町に屋敷のある新で同行した。 徴組と新整組も繰りこんだ。指揮は家老石原倉右衛門。大庄内藩の「続藩翰譜後御事蹟』 ( 白井吉郎重高 ) には〃為 = 砲隊の指揮は中世古仲蔵と決定した。 加勢一陸軍方可ニ指遣一、松平大和守、松平伊豆守、松平和 このとき、案内役に立ったものは甘利源次郎というもの泉守よりも人数を可レ出旨被レ命〃とあるが、これは第一線 で、薩邸内の様子に詳しい、間諜ではいっていたという。 と第二線、つまり直接ぶつかるものと後詰とを一緒にして 〃八王子の変〃の間諜は原宗四郎、又は原惣十郎といい、 会津浪人で本名は甘利健次郎だとある、源と健である、同第二線以下には例えば、新庄藩主戸沢中務大輔が竹村直 一人だろう。 記を参謀に、兵を率いて芝増上寺に自ら出馬し、高取藩主 上の山藩松平家は藩主松平伊豆守信庸が自ら出馬し、直植村駿河守は牛込門、信州松代藩真田家は田安門、小諸藩 接の指揮は金子六左衛門 ( 清邦 ) である。金子は金子与三牧野家は大橋というように、諸家に命じて幕府は、大がか 郎といった方が有名である。人数は槍隊 ( 五十人 ) 、銃隊四りな配置をつけたのだった。 隊 ( 二百人 ) 、一一門の大砲を有する大砲隊 ( 三十人 ) 、輜重隊 ◇ ( 五十人 ) 、その他を合して三百余人、そのうち、戦闘員二 百五十人、その他に予備隊として、医師三名、他に下部五庄内藩では早くから薩邸に目をつけ、新徴組からは永矢 十人。 源蔵、中追多内という両人が浪士を扮い、間者にはいっ 鯖江藩間部家の兵力はイギリス式で八小隊三百二十人、た。永矢源蔵の方は観破されずにいたが中追多内の方は間 大砲六門を有する大砲隊、その他に卒隊がある。江戸には者と疑われ、捕えられて責められた。容貌も態度もウス馬 さして多数おらず、このとき出動させた兵数を、庄内側で鹿にみえるこの男は、それでいて強情我慢が人並外れて強 は五、六十人といっているが、尠くとも士隊卒隊で百人に し或るときなどはうしろ手ッこに縛られ、梁へつるされ

3. 長谷川伸全集〈第7巻〉

「隊の末輩にはひどい奴がいて、五里ばかり離れた或る豪ういう必要で、斥候をたびたび出し、形勢を探った。 家へ押込み、嚮導隊の者だから軍用金を出せと強盗をやっ 御影陣屋の事件を赤報隊が聞いたのは、下諏訪へはいる た。これが知れると、附近の無頼漢がその真似をして強盗前だった。すぐに、佐久出身の桜井常五郎、佐久の事情に をやった。それが為に赤報隊の名が悪い方に響いた」 通じている神道三郎を嚮導とし、金原忠蔵、西村謹吾、大 木四郎、竹内健介の六人が出発したのが二月五日、翌々七 ◇ 日に下諏訪から、丸山梅夫、丸尾清が、遊撃隊大砲隊を率 、、応援に出発した。その面々は次の如し。 強盗の出現だけでなく、何処から派遣されたか、密偵が 〔指図役〕丸山梅夫、丸尾清。〔指図役付〕清水定右 はいり込んだと噂が立つ、流言蜚語が乱れ飛ぶ、そういう 衛門 ( 沢東 ) 、松岡造酒允、山口金太郎 ( 常城藤太郎 ) 。 中で、赤報隊は下諏訪からは和田峠の向うの、所謂、信州 一くだいら みかげ 〔遊撃隊〕西野又太郎、佐々木次郎、西尾鎌次郎、本 の佐久平、その方面へ隊士を出した。それは御影代官所 戸孫六、糸魚川源次郎、小松繁、三村清十郎、斎藤源 ( 現・長野県北佐久郡南大井村御影 ) へ代官松木直一郎が、江 次郎。〔大砲隊〕市川金太郎、竹川吉五郎、小谷大五 戸から来ていたが、正月十日帰ったそのあとへ、新徴組の 郎、岡村弥兵衛、片岡慶三郎、三井八十三郎、佐藤竹 者だというのが来て、集っている税金を引渡せと来た。元 じめ ことわ 之助。 締の綿引庄之進が巧みにこれを断った。それらは新徴組の 者でなく別手組のもので、やって来た人数は二十人だとも越えて十一日、下諏訪に引返していた金原忠蔵が、人数 三十人だともいう。そのあとへ、今度は勘定奉行の家来だを率いて佐久へ出張した。この人員と氏名は判らない。か というのが主従四人でやって来て、代官所で保管しているくして、じりじり、北信濃に、人の眼につかぬ暗い雲が濃 志金を引渡せといった。今度は二度目なので村民が竹槍や脇くなって行った。 前いった赤報隊を、偽官軍といい切った総督府の回章 の差を持ち出し、四人とも生捕りにした。こんな事件もある し、岩村田藩、上田藩、小諸藩はじめ、幕府代官所、旗本が、どんな作用を起さぬものでもない、と、心配になった 総の知行地など、油断のならぬ向きが多く、殊に上田、小諸赤報隊では、相楽はいないが西村謹吾が、早駕籠で下諏訪 相などは、そのころの赤報隊の言葉でいう、〃不勤王藩〃を出発した。十五日のことである。これは佐久へ出張した 1 だ。それに碓氷峠を一時も早く押え、江戸と北越の諸藩と面々が、軽井沢辺まで先頭が行っている。それを和田峠か の連絡を断ち、佐幕派の機先を制しなくてはならない。そら此方へ引返させ、不慮の衝突を避けんとしたのであっ

4. 長谷川伸全集〈第7巻〉

に試みたが効力なく、農家の窮状いよいよ甚だしいので、 大芝、萩原、神山の他にも斥候が出た筈だが、逃亡した 罪を一身に引受け家を弟に譲り、村内の小宮山昌照寺に退のか、首尾よく任務を果したのか、その点、不明である。 隠した。その後、機をみて江一尸に出て、学問武芸に傾倒し ここまででも明らかに、幕軍の渋谷和四郎隊の方が有利 た。慶応三年竹内啓と相識り、薩邸内の相楽総三の下に投で、先手先手と出ている。竹内隊の方は残念ながら不利に じ、竹内を扶け野州入りをしたものである。 不利を重ねた。 萩原粂太郎は真影流内藤兵部の門人で、野州都賀の永野やがて、竹内啓は一隊を進めて、新里村近傍を押えて岩 村で農業をやっていた。出流で戦死した川田隊長や古橋又船山を兵站の地とするため、行動を起させた。これも、 左衛門、負傷して生擒された大島馬之助と同郷である。 又、渋谷隊の早く知るところとなり、戦闘準備を充分にし 岩船山にかかると萩原粂太郎は大芝宗十郎を後に、どんて待っていた。そこへ、竹内隊の過半とおばしき一隊がは どん登り、絶頂まで行って偵察し、引返して下る途中、出 いって来た。斥候の大芝等の消息が絶えたので、多少の不 会うはずの大芝に出会わなかった。大芝は麓で、その以前安心はあったが、怖れる心はだれも持っていない。 に、渋谷和四郎隊のものに、突然、包囲され、生捕られて 出流へ向った木村喜蔵、宮内左右平は間諜の報告と案内 いたのである。 とにより、出流方面のことは望月善一郎、中村某等に任 渋谷隊は間諜によって、大芝宗十郎等の動きを知り、山せ、兵を率いて間道を抜け、新里村に向って行くうち、岩 中に兵を伏せ、先ず大芝を虜にし、次に萩原粂太郎を発見船村の方に灯が点々として見える。さては、出流天狗は岩 して前後から挾んで生捕りにかかった。粂太郎は木立を背船村に着いたとみえると、間諜を放って探偵させたとこ にして闘ったが、数カ所に負傷して、カ竭き、遂に捕えらろ、岩船村の民家の戸を叩いて起し、炊出しをさせている れた。 と判った。十二日の夜明けにまだ間がある時分だった。 神山金次郎は法号を大仙といった寺の徒弟で、斥候に出 そのとき、渋谷和四郎隊も間諜によって、出流天狗が岩 たときも法衣を身につけていたのと、年わずかに十六なの船村で、早い朝飯をとらんとしていることを知った。その で、渋谷隊のものも、まさかと一度は通過させたが、念の目的地が岩船山であることは既に明白になっていたので、 ためにと再び取調べにかかると、逃れ難しと思い、隠して岩船山の下で全滅を計画していた。ところが、出流から反 いた武器を取り出したので、忽ち格闘となり、生捕りにさ 転に出た木村隊、宮内隊が、岩船村に入りこみ、村の前後 れた。 の出口と西の出口と三カ所に兵を配し、残る兵で、民家に

5. 長谷川伸全集〈第7巻〉

夜が明けきらぬ二十六日の朝、予定のとおり南部と原ここで転回の態度を充分にみせなくてはならず、又、小諸 と、それに赤報隊の伊達、藤井が佐久へ向って発った。伊藩は赤報隊を討ったのだから、赤報隊が官軍の先鋒という 達、藤井はこれッ切りで、相楽等と永久に会うことがない折紙付になっては大変な結果がくる、上田藩とても藩士を とは少しも知らなかった。それだから相楽等が殺されてか斬られている、そうすると総督本営に対し、暗躍しなかっ ら後の三日間というもの、熱、いに任務に就いていた。 たという推定は下せない。だれがそのときどうしたという 事実の発見が、今のところ出来ていないので、この件りは ことわ ◇ 猜疑を挾むと断って推定を下す他ない。 伊達、藤井が発ったその晩、相楽は宿役人に「あすは樋 ◇ 橋に陣を移すから、人足の手配をしてくれ」と命じた。樋 橋村は元治元年のむかし、武田耕雲斎などが、松本藩、高樋橋村は下諏訪から二里とはなく、餅屋峠の手前にあ 島藩と戦争した場所に極く近く、上田藩がこのごろ人数をる。下諏訪、下原、樋橋、餅屋、和田、こうなる。本陣を 繰り出している笠取峠は、そこから六、七里先だ。 小松屋嘉兵衛という、赤報隊はそこに宿陣した。初めの人 赤報隊は二月二十七日、陣を移した。明けて二十八日、数は百二十五人、間もなく減って五十七、八人、これはど 下諏訪へ岩倉総督がはいったかというと、総督はまだまだ うして減ったのか明確でないが、このごろ脱走者が相踵い 遠くにいた。それどころか、本営の幹部の一人だに来なか だ。この間からの様子で、行く先に暗影を認めたものは脱 った。その翌日も翌々日も、総督本営の下諏訪入りはなか走し、人数が減るのに駭いたものも又脱走した。 った。猜疑を挾んでこれを観ると、これは樋橋宿へ赤報隊 志を追出しの策だと観ることが出来る。下諏訪に赤報隊を置 赤報隊総捕縛 のいて処分となると、赤報隊の反抗があれば、下諏訪は灰に となるかも知れぬ、ところが樋橋へ追出しておいて、個々に 総指揮者を処分という手を打てば、乱闘らしい乱闘もなく、 西村謹吾等の釈放願いも放っておかれ、相楽の小諸藩討 相火を放たるる憂えなどない、だから、これを謀略だったと伐の請願も握り潰され、何ということなく、暗鬱をさすが 観れば観られる。 に感じて来た相楽は、一隊のものの前途を考え、執るべき それには高島藩は今までが、所謂〃不勤王藩〃だけに、 道を見つけるのに苦しんだ。「風邪をひいた」といってい

6. 長谷川伸全集〈第7巻〉

はいって朝飯中の出流天狗に遠方から鉄砲をあびせかけけ下り始めた。 どんす 竹内啓はそのとき、浅黄色の陣羽織をつけ、緞子の野袴 た。これが幕軍によって決定的な勝利の原因となった。 おどろ を穿き、岩の上に突ッ起ち、采配を納め、抜刀して敵に向 銃火を不意にあびせられた浪士隊は、駭く様子もなく、 民家を立ち出で、村の西口に出でんとした。西口に待伏せったが、弾丸に貫かれて戦死したという説が、当時、行わ た幕軍は、浪士隊を近づかせず、遠くから射撃を開始しれた。これは会沢元輔を誤伝したのである。竹内啓はその にわか こ。浪士側には銃砲がないので、俄に方向を一変し、村をとき、一隊のものと小野寺村にいた。 会沢元輔は岩船村で食事をとった一隊の隊長で、岩船山 横断して岩船山の下に集った。どこまでも幕軍は刀槍によ る白兵戦を避けているが、浪士側は白兵戦以外に途がな麓へ、一たびはあがったが、決戦せんと坂を下って敵に向 うその傍に、神山彦太郎 ( 一八歳 ) といって、川田太郎、 浪士側の動きを見て、木村隊、宮内隊は聯合してじりじ古橋又左衛門、大島馬之助、萩原粂太郎などと同郷のもの 浪士側は極力銃火が付添っていた。もう一人、同じ永野村出身で会沢に師事 り迫り、しきりに銃火をあびせかけた。 していた大森玉吉 ( 一六歳 ) も付添っていた。 を避け、岩船山の麓まで退いて、飽くまでも敵を近づけ、 会沢元輔 ( 三五歳 ) は渋谷和四郎隊に駈け入った。渋谷 武芸による戦闘をなさんものと鳴りを鎮め、専ら敵を引き つけんとした。が、幕軍側は遠巻きに銃火をあびせるのみが半月の馬印の脇に床几を据えさせ、腰かけて戦況を熟視 していた。そこへ斬って入った。会沢の背後に数名、わッ である。 浪士側は朝飯を食ったのもあり、半ばしか食わなかったわッと喚いて続いて斬りこんでくる浪士がある。渋谷和四 者もある。随って、次の食事の用意がないから、敵の遠き郎は手許の兵で防戦させたが、巡警隊のものはこうなると 志に対し安心していられない。そこで折角のばった麓だが、役に立たない。陣屋隊のもの若干が、浪士と斬結んでい の更めて下って、斬って出る他に途はないと、山下に向ってる。その真ッ只中で、会沢元輔が渋谷にみるみる近づき、 そ 動き出したときに、麓の西側に、突如、半月の馬印を押立斬りつけた。刀は渋谷の頭にあったが、冠「ていた兜頭巾 総て、鉄砲を乱射して優勢な一隊が現れた。渋谷和四郎隊での鉢金に疵をつけたのみである。渋谷は抜刀で渡り合わん としたが、側面から味方が狙撃したのがあたって、会沢は 相ある。 思わざる側面の脅威に浪士側は忽ち混乱したが、その中胸を貫かれ即死した。会沢の弟の会沢忠次 ( 二五歳 ) も戦 で、敵を目ざして斬りこみを急ぐものが、どっとばかり駈死した。

7. 長谷川伸全集〈第7巻〉

高木半左衛門 ( 同岩手・負傷 ) すべしと決した。相楽総三はその先鋒隊を志願して承諾を 清水勝弥 ( 同岩手 ) 得たので、正月二十二日岩手を出発、つづいて鈴木三樹三 長沢武八郎 ( 同岩手・負傷 ) 郎の二番隊が出立の筈だった。が、この方は遂に出立しな っこ 0 桐山沢治 ( 同府中 ) 藤沢弥左衛門 ( 同岩手 ) ここで相楽隊と綾小路のいる隊と、二ツになったのが、 高橋治左衛門 ( 同岩手 ) 後、永久に合する時がこなかった。 この中で北村与六郎は慶応二年六月、陸軍奉行にして藩 ◇ 主なる竹中丹後守の命を受け、同僚の柵橋新次郎と共に、 周防岩国藩吉川家に使いしたことがある。これは幕府の長綾小路侍従の隊は正月二十二日岩手を発って、垂井の宿 州再度目の攻撃のときで、北村等の談判は周防玖珂郡新湊に泊り、二十三日は加納に泊り、加納藩永井家に大砲を献 で行われ、吉川家と手切れの談判となった。こういう使者じさせた。 に立つはどの人が主家のため身を棄てて赤報隊に入り、後 ここで悪い噂が伝わってきた、それは江川松ノ尾村に滞 に脱走する者があったに拘らず、北村等数名は、最後まで在中の赤報隊士と称する強盗が、附近数里の間の豪家を襲 赤報隊に踏止まり、鴻業達成の一翼に働いて戦死し、却っ 、金を強奪したというのである。京都ではその噂を信じ て帯びるに賊の汚名を以てするに至った。 ているらしいので、参謀の山科能登ノ介はじめ仰天し、取 その一方で赤報隊は諸所に出張して、会津、桑名そのり敢えず阿部十郎を上京させ、事実無根の浮説であること 他、徳川家従軍の藩兵が、落ちてゆくのを訊問し、輜重をを陳弁させた。しかし、これは何の効力もなかった。そう 志没収し、一方では糧米などを窮民にあたえなどした。 いう浮説は、目的があって創られたらしい、それではいく の桑名藩主松平越中守定敬は、慶喜に従って去る十二日江ら弁明したところで効力が出てくるはずがない、そのこと と戸に入り、深川霊岸寺に蟄居謹慎しているので、藩士の間は後に書く。 総に、主戦非戦の両論が火花をちらしてはいるものの、桑名 ◇ 相城は総攻撃をかけないでも、官軍の手に入ることが明らか になっていた。そこで、赤報隊は東海道を進むを喜ばず、 それにしても棄てて置かれぬことなので、次の如き布達 信州へ先ず入り、甲州を鎮め、東征軍の江戸討入りに協力を出した。正月二十九日にはこの布達が江州辺の村々に殆

8. 長谷川伸全集〈第7巻〉

た。これは奇を弄んだのでなく、神道の探索のテだったの 〔探偵検査掛〕神道三郎、組下、土屋勝三郎、野瀬万 である。伝わっている二月十二日の応駲の和歌に、次のご ときがある。 〔応接掛〕中山仲 ( 造酒ノ助 ) 、小林六郎 ( 六兵衛 ) 三浦秀波 〔小荷駄司令金穀出納役〕川崎常陸、下士一一人、中間 みいくさ 桜花かざしにとりて官軍の 二人 御先仕へん時は来にけり 〔遊撃隊〕桜井常五郎、組下十四人 ( 信州附属扱い ) 〔小銃組清水隊〕清水定右衛門、組下五人 返歌 〔小銃組大藤隊〕大藤栄、組下五人 梓弓日月の御旗おし立てて 〔小銃組今大路隊〕今大路藤八郎、組下五人 進む、いに引きも返さじ ◇ 碓氷の神職は神道三郎を歓迎し、あす、到着する将兵の 宿割に応じ、その日のうちに準備をしてしまった。神道の碓氷峠に屯集はしたが、碓氷の嶮を赤報隊が扼したとい ことは後に書くが、国学者で、神道に詳しい人だった。 うことにはまだならない。そこで上州の各藩にむかい勤王 誓約を説く一方で、安中藩が持っている横川の関所を、官 ◇ 軍に引渡せという談判を開く、その下調べにかかオ っこ。横 翌日は二月十五日だ。赤報隊の分遣隊主力が軽井沢の方川の関所を取らなくては碓氷峠を扼したことにならないの からのばって来て、既に出来ている宿割のとおり分宿しである。 志た。人数は約七十人、小銃一一十梃、槍六本、馬を三頭曳い 隊中に中山仲という人の名がある、峠の下の坂本宿の人 のてきた。その編成は次のとおりである。 で、学和漢に通じ、腕力も胆力もあり、筑波山の挙兵に参 〔官軍先鋒嚮導隊本部〕大木四郎、西村謹吾、竹内健加したが病いを得て帰った、そういう経歴をもっていた。 総介、外組下十余人 上州寄りの一切のことがこの人がいるので明らかだった。 相 〔大砲組〕金原忠蔵、北村与六郎、外組下十余人 ◇ 〔監軍隊〕荒木直、小時三七郎、熊谷和吉、外組下十 余人 碓氷峠に官軍がはいったと聞くと、上州の各藩はその速 阪西高嶺

9. 長谷川伸全集〈第7巻〉

腹者を出さずに結末がつけられた。 向ったのは奥詰銃隊と、それに新徴組がついて行った。邸 俣野市郎右衛門も中村次郎兵衛も抗戦中よく戦闘した。外をぐるりと包囲し、「薩州藩のもので来ている者が三十 安部藤蔵は明治元年九月十六日、関川 ( 山形県西田川郡福人いるはず、それを引渡していただきたい」と交渉した。 栄村の山地 ) で薩軍と闘って戦死した。安部は庄内四番隊三田小山からでは、三田の薩邸の砲声銃声が手にとる如く の第一小隊長で、安部の隊と射ち合いをやったのは薩州の聞えるし、燃えている火も目と鼻の近さにみえるから、拒 高鍋隊の鈴木来助隊である。安部の戦死は庄内側にも記録絶すればどうなるか判っていた。そこで、薩藩の人々が相 があるが、高鍋隊長武藤東四郎の「北征記』にもある。安談して、斬合うても仕方がない捉まってやろうではない 部を斃した薩州の民兵隊の鈴木来助は詩をよくした。関川 か、と、一決して二十七人、そろぞろと出て捕縛された。 の戦いの前にあった鼠ヶ関の戦後、次の詩をつく「ているこれも前いった百六十二人の降参中に数えられている。但 ので人物の一端がわかる。 しこのとき一人だけ殺された。その人はロを極めて幕府を 雲外半峰見 = 羽州一懸軍使レ覚 = 路程悠一 罵ったので、奥詰銃隊のものが赫となって射殺した。この 昨日戦場人未レ返慟哭山中求 = 髑髏一 二十七人のうちに益満休之助がいたかどうか、想像は出来 るが、証拠的なものが、今のところ見当らない。 ◇ 庄内藩などが引揚げた後は、当分そのままにしておき、 薩摩火事 幕兵の一隊は佐土原藩に向い、一隊は高輪の薩邸に、一隊 は品川の薩邸に向った。二ッとも薩邸の方は人がひとりも 志いないので、そこへ押込んで行って打壊し、火を放った。 この焼討を一刷毛に書いた本は至って多い、その中で誤 のこれを間違えて、焼討のあった薩邸を高輪だと思うものが りを伝えるつもりでなく誤らしめらるるものが殆どだとい と今もある。古いところでは塚原渋柿園の「五十年前』など っていいだろう。たとえば、「近世事情』 ( 山田俊蔵・大角豊 総も、高輪の薩邸といっている。 次郎・明治七年版 ) などもそうだ。〃事、大坂に報ず、内府 わくみ、き すなわ 相佐土原藩というのは島津淡路守忠寛が、そのときの当主乃ち日、嚮に朝議の変ずる薩藩の主として事を謀るなれ そうし 翡で、上屋敷が芝三田小山にあった。居城は日向の那珂郡佐ば、浪士の関東を擾乱するも亦必ず薩人の之を嗾使するな 土原で高は二万七千余石、薩摩島津の支家である。ここへらんと、遂に追捕の命を江戸に下す、是に於て徳川家の僚 たお

10. 長谷川伸全集〈第7巻〉

ると、何ごとも棄てておき、いきなり赤報隊の本陣を訪れも手つかずにいたのである。 た。二人は相楽総三に是が非でもいわねばならぬことがあ ◇ る。だが、相楽はそのとき、美濃大垣の総督府へ行ってい て不在だった。それではと何もいわず外に出た二人は、顔きのうの快晴が嘘のように、翌十七日は朝から雪にな 見合せて太息をついた。 り、やがて積った。その雪の中を旅仕度の権田、落合と、 それから二人は高島へ行った。そうして岩波美篶 ( 万右これも旅仕度の岩波万右衛門が、赤報隊の本陣へ来て、相 衛門 ) を訪ねた。万右衛門は薩邸焼討のときの負傷が治楽を訪ねた。「まだ帰着しませぬ」と聞くと、落合も権田 り、すツかり元気になっていた。 も当惑して顔見合せていたが、それではと両人が、「相楽、 君に直接いうつもりで再び来たのだが、不在とは実に残念一 ◇ である。自分等二人は、大切な用があって、待合せている その翌日の二月十六日は、きのうと違い、からりと美し訳にゆかぬから、諸君にお話をして発つ」と居合せた隊士 く晴れた日だった。 の主立つ人々に向い、「当隊の評判が京都では甚だしく悪 赤報隊の本部へはいった情報に、高島藩が赤報隊討入り 、われわれは相楽君も、諸君もよく知っているから、普 を決行するというのがある。高島藩なら遣りそうだ。それ評を信じないが、それにしても実に悪い噂ばかりを聞く。 戦闘の準備をしろ、多寡の知れた小藩、粉砕しろと殺気立よって、諸君は、方々へ出ている隊士があるそうだが、そ ち、高山健彦が二、三人連れて先ず斥候に出た。ところれを引揚げさせ、全部をここに纒め、謹慎の意を深く表し が、高島藩には何の計画もなかった。それが確実になったて、総督府の御着を待つのが最上の方法だ、そうでないと - 志ので戦闘準備を解いた が、妙なことには、その日、下如何なる結果になるか判らぬ」と懇々と説いた。二人と の諏訪近辺の村々では、今にも戦争がはじまるものと思い避も、岩倉が幕僚のいうことを聞いて、赤報隊にどういう風、 難準備や恐怖やで、どこへ行っても人はみんなぶらぶらしに手を下すか、幾分の見当がこのときついていたので、元」 総ていた。それは何故かというと、何処から出た回章か明らの同志の運命を案じ、保身の策を授けたのである。赤報攀 相かでないが、〃赤報隊は賊徒につき、今明日中にお召捕りの幹部は大先輩の説だから、謹んで聴き、なるほどと合点 になるから家内取片付け、何時たりとも避難ができるよう にしておけ〃こ、つい、つ迂しがあった。さればこそ、何ごと それではと本陣亀屋を出た権田・落合と岩波万右衛門と