せいで、役に立つようになったと、ご親類がいうていた」 と、涙をこばさぬばかりにいってくれたので、わたしもこ 「何じゃ」と小戻りして来て顔をのぞき込んだ男は、伏見の上とも母を喜ばせたいと、何であれ気がっき次第、家の 紕屋町の飛脚問屋越前屋市右衛門の子分で、六千石の江戸中のことを手伝うていましたが、褒めてくれるのは母ただ どうちゅうし 一人、本家でも親類の木屋や八文字屋でも丁稚にゆけばお 定府水野六之助という大旗本の道中師為八というもので、 かっさら わたしが本家のことをいうと知っていて「それならば一緒店の銭を掻浚うわ、年上の女とひょんなことをやるわ、他 においでなさい」といってくれたので、この為八の世話に人の金ではないにしろ自分のでもない金を盗んで江戸まで なって無事に道中して伏見に帰り着き、親類の木屋治郎兵逐電するわで、手のつけられぬ小倅と前々のことばかり証 衛のところへ、為八に連れて行かれて渡され、木屋が詫び拠に押え、ふた言目には叱言です。借金でも利息が積もる をしてくれたので、叱られはしたが足尾の家の敷居を跨ぐと怖いものだが、叱言も絶えずあびせかけられると、わた ことを許されました。 しのような者は、ぐッと腹の中で疳の虫が頭をもたげて来 母が、わたしの顔をみて泣いて喜んでくれた、その時はます。中には皮肉をいう人もある、調戯う者さえある、そ の都度、胸先がむかむかとして来ます、叱るというャツも 気がっきませんでしたが、母の窶れのひどいのに気がつい たのが二日目、「済ンません」と母の足許に手を突き詫び芸のうちと明治になってから聞いたが、全くそうだーー・本 めうえ をいったのが、あまり出し抜けだったのか、母が、驚いて家や親類だけなら、尊属だから叱られても仕方がない諦め わたしをみていましたが、やっとわたしの心がわかったのがありますが、我慢のならないのは本家と親類の店の者達 でしよう、歯をくいしばって、「もうもう心配をかけてく が、主人がそういうからとその尻について、わたしの陰ロ ひなたぐち れるな」と、暫くしてからいいました。わたしは「へい」どころか、日向口を大ッびらにやりおる。 といって下を向いたきり、泣けて泣けて顔があげられませ或るとき木屋の店の者で二十二になる卯助めが、正覚寺 ん、母は柱にもたれて「泣かンとい、泣かンとい」といっ の門前で、「九はン、この次に駈落ちするのは矢張り江戸 て泣いていました。 かいな」とぬかしおった。わたしが二度とあんな苦しい目 そのとき先代九兵衛の容態が悪くなっていたので、家の にあう駈落ちはやるまいと後悔しているのに、ムダロ叩い 中は混雑していて、わたしも他人の飯を食ってきただけにて冷かしおると思うと辛抱が出来ず、いきなり武者振りつ たち 何や彼とすこしは気転がきくので、母は「お前も苦労した いていったところ、年は十四で、もともと痩せている質の ちくてん からか
て預けられたわたしが八ツの子供、預り人が病人であるだ にあうのはわたしだけでした。本家でも匙を投げて、八幡 おもかげ けでなく、今は美男の俤どこにもなくなり、青んぶくれの紺屋九兵衛方へ父のことをいってやりましたが返辞があ たち、 りません。 の顔といい、咽喉へ白い布を巻いているのといい、起凪が 操り人形のようなのといい、気味の悪いその上にもって来かれこれ五十日もしてからの或る日、母がわたしを迎え りようけん て、気違いとまでは行かないが、料簡がひどく歪んでい に来てくれました、あまり出し抜けだったので嬉しいと思 て、外歩きに出るとき家中の雨戸という雨戸を内から締う気がせず、ばンやり佇んでいると、母はわたしを抱きし め、表は鍵を外から掛けて行くので、独りばっちのわたしめて、「痩せた痩せた」といって頬ずりしてくれました、 は、細長い家の暗い中へ閉じこめられるのです、これがい わたしの頬が母の涙で濡れてくるとわたしも、わあッと泣 つも出し抜けにたびたびあるので、わたしは九兵衛が雨戸いてしまいました。 その日、わたしは母に連れられて足尾九兵衛の家を出る を閉めはじめると身ぶるいをし、九兵衛が出てゆくと泣い たものです、だれもいない暗い家の中で八ツの子供がたびとき、九兵衛はひねくれてでしよう、母に会いません、わ たび泣いて、泣き疲れて泣きゃんでも、また暫くすると泣たしにはもとよりのことです。後になって聞くと母は、本 あか きます。朝出て夜帰ってくるならまだしも、泣き明す夜も家はじめいろいろの人に、夫婦別れをして伏見へ帰ってく ちょいちょいありました。九兵衛は悪い体で女遊びをときるようにと、その日言葉をつくして意見されたそうです どきやるのでした。こういうことが、わたしの半生に影響が、母は頑固に断わりました、「それではこん後どんなこ があったのではなかろうかと思っては、ひがみでございまとがあってもかまってやらぬ、夫婦親子揃って乞食になり わきま ーよ、つか 0 下がるようだったら、先代への義理を弁え、京伏見に姿を 食物は本家の女中がはこんでくるのですが、表も裏も開見せるな」とまでいわれたそうです。 こんきゅう 父は八幡の紺九の家へ脇差をもって暴れ込んだそうで かない、窓は締っている、背丈が低いわたしでは開けられ せっちん ません、女中が雪隠の窓から入れてくれるので、漸く食べす、けれど、カわざをやったことのない人で気も小さいの で、初めは逆上してかかっても押えつけられてしまうと弱 物だけには有りつけていました。 そんな態たらくを本家で知って、それでは杵次郎が可哀くなる、そこのところで思い違いだということを、紺九夫 そうだと、九兵衛を呼んで意見すると、表面は、いたって婦が、よくよく話をしたので、父も気がついた、それから 素直だが、その日から却って外歩きが多くなる、ひどい目の話ですが、父は「二、三百両資本を貸してくれ、貸せな もとで
かぬように売り、底をついた売り食いの様子を見せまし た。家にいた五人の居候にはそれより先にいくらかずつ金 をくれて立去らせ、わたしが夜中に帰ったときは一人もお まず行ったのは、尼ヶ崎で、上宿の岩見屋という旅籠屋 いしどめ りませんでしたから、この方は手廻しよく始末がついてい へ泊り、石留という親分を訪ねて、「女達を連れ、このた ました。 び播州見物に出てきたからよろしく」と頼みました、少々 小づかいが欲しいから頼むなどといわないでも判ってくれ 近所の者におまつは、この有様ではやって行かれんの で、上町唐堀の実家へ帰るより仕方がないと行き先を充分ます。岩見屋へ戻って暫くすると、石留の若い者がきて、 「この頃は、よろしき慰みが出来ません悪しからず」と、 にうたっておいて、紙屑まで残らず売払い、難波新地を引 払ったのが、わたしがわが家へ忍んでいってから二十日目金一両一分置いて行きました。わたしは京・大阪二カ所 でした。 で、とにもかくにも親分といわれるものですから、訪ねて 行った先の親分とは、双方の貫禄によって、こちらも先方 幸町の宿屋でこッそり、おまっと倅と三人一緒になり、 女房が持ってきた金で、宿賃や何か払うと手に残 ? たのはも応待が違います。わたしは石留を訪ねても、お控えなさ 天保銭が二枚と小銭が二百三十文だけです、これでは伏見いとかお控え願いますとかいう、俗に仁義と人がいう、あ なら 行きの三十石船に乗れません。おまつが悲しげな顔をするれはやりません。わたし共の慣いで、ロのきき方が切口上 ので、「ええわい心配するに及ばん、こうなったのを幸ですが、世間様ご一同の挨拶とたいして変りません、石留 、播州めぐりをして名所古蹟見物をして歩こう、銭一文の若い者が宿へきたときでも、若い者はわたしに仁義を切 もたいでも道中が出来る俺じゃ」といって、おまつの気をりません、礼儀をつくした言葉づかいで用向きだけをいい ます、口調は切口上です。前に話したかも知れませんが、 引立たせ、翌日、大阪を首尾よく抜け出しました。 つむぎ 懺わたし達夫婦の着ているのは絹物、倅は紬の着物、羽織お控えなさいとやるあれは、仁義ではありません、辞儀を 衛は博多だから、見てくれはいい。ずッと昔わたしが子供の訛ってジンギとなった、本当はジギで挨拶ということだそ 九とき、両親につれられ丹後の宮津へ行ったあれと比べるうです。仁義というのは相見互い扶け合いのことで、挨拶 みだ と相見互い扶け合いとは違う、それが紊れて辞儀も仁義も 足と、折詰と竹の皮包ぐらい違います。 一つものとしてしまったのだと言います。 貰った一両一分のうち宿賃を払って、尼ヶ崎を発った翌
んでくれ」というと、小娘と入れ代りに仲居頭があがって 来よった。「おい十両ある、これで今夜は遊ばせてくれ」 と、小判で十枚、畳の上へ投げると女中頭がロもロクにき夜が明けかかるといつものことですが、ゆうべ家へ帰ら けず降りていった。 なかった後悔が出て、早う帰りとうてならぬが、春菊は息 春菊がきたので「これやるわ」と五両やり、あとから来こそしているが箱から出した人形みたい、美しいが人間と た芸子に二分ずつやり、松中の小娘を呼んで二両くれ、質申すには手が届いとらんもののように思え、過ぎたばかり 屋へ使いをやって着物襦袢帯から煙草道具その他を受出の一夜を、どう思い返しても物足りませぬ、そのくせ、き し、温袍と腹掛はぬいで、「欲しい者にくれてやれ」とやのう五条高倉では、おまつよりは春菊の方を思い出してい ってしまった。残った金は二百七十両二分、財布に押込んる、どういうものなのか我ながら気が知れぬ。 だら、三ッ折が二折半になりおった。 朝の飯を春菊に食わせて帰し、わたしは駕籠にわざわざ 松中でも、十両みんなっかわさせにゃならんから、酒も乗って家へ帰ると、おまつがびつくりして「大阪へ行った 食い物もあり余ったので、残ったのは芸子のやかたへ持っ思うていたに」と呆れて見ていましたが、忽ち厭な顔をち てゆかせた。その晩の遊びの中で、わたしが春菊の膝を枕らとみせただけであとは笑いながら、「宮川町に大阪がある に寝ころんで、片手で悪サしかけると、きやッきやッと春とは知らなんだ」というから、「どうして知っている」と尋 おしろい 菊がいう、すると他の芸子達が、「極楽参りじゃ」といつねると、「着る物についた白粉も払わんと家の敷居を跨ぐ ものやない、男さんのくせに知らへんのか」とやられた。 て、めいめいわたし等二人にお尻向けて手をつなぎ、「な んまいだ、まだかいな、なんまいだ」と、六斎念仏をもじ「おまっ文句いわんとけ、金二百両、些少ながら貰うてく ってぐるぐる廻って囃し立てた。こんなことがあって、夜れ」と出して渡し、きのうの朝、花園殿へゆき三朱借りて 仏光寺へゆき、これだけ使うてこれだけ残ったと話すと、 増が更けたらしいとて、みんな帰らせ、春菊がどこそへ行っ 衛たあと、独り廊下にたっていると、どこやらか唄三味線がおまつは喜んで金を手にとったが、「金がたやすう手には いるのが、あんたの身に大毒や」と、眼に涙を溜めていし 九聞えてきた、それが何という曲か、わたしは知らぬが、三 足味線の音色といし 、うたう女の声といい節といい、訳のわおった。「坊主は」と聞くと、「お師匠はンところへ行っ からぬわたしが聞き惚れていると眼の中に倅がみえる、そた」という。為次郎を舞の師匠へやらせておるのです。 の顔をみながら、ぞっこん聞き惚れた。 諸道具の不具を治しに道具屋呼んで金やると、簟笥も小
我を折るより仕方がないので、従妹の衣裳三十八枚を四月、伏見の八新のところへ行ってやろうと思いつつ、行く 十両で手放すことにすると、古手屋め、小判を四十枚並おりがなく延び延びになりました。江戸の将軍が大阪の方 から引返して伏見に泊るので前々から取締りがきびしい、 べ、「これはあんさんへ手前どもの店のおっとめで」と、 糸かいので三両つけてくれました。これでいよいよ負けもとなると、わたしみたいな者は行き難い、それやこれやで 八月になりました。 大負けです。 八月五日にわたしは、わたしぐらいの親分格の二人と、 その明けの日、伏見の八新へ手紙をやりました、あの品 品は四十三両にしかならず、受取り残りがまだまだ多分に伏見の船宿松源へ行きました。これは京の宮川町という色 つき、そのうち取りにゆく、金がなかったらお前とこの家街の松中という茶屋で、伏見の松源が引請けの客の遊びの 勘定が六十両溜っている、どう催促しても払わぬ、いざこ を貰うから、そのつもりでおれと書きました。 八新では、その手紙でいよいよ吃驚し、伏見の武芸の先ざが続いて埒があかぬので、松中の亭主が業を煮やし、ど うせ取れぬ勘定ならと、わたしら三人に取立てを頼んだ、 生に頼み、わたしが現れたら門人が二、三人、すぐ駈付け さぶなかがめ る手筈をつけ、用心していたそうです。木屋治郎兵衛さえ尤もわたしは頼まれぬしでない、火繩の三婦と中亀と二人 出てこなければ、わたしは怖いものがない、木治郎は子供が頼まれぬしだが、「近江屋の兄キも一緒にいってくれぬ か」というので、「心得た」と出掛けたのは、そのついで のときから苦手です。 ノ新へ行き、この三月の四十三両の残り分を取るつも 京の人気はあらあらしくなり、新撰組が人を斬った、浪に、 なまくび 士が人を斬った、生首の晒し物が三条河原にある、と来るり、三婦と中亀とには行くときになって、付合ってくれと ちなまぐさ 日来る日が、そのころ血腥いが、盛り場の人出は却って連れてゆけば、こちら三人の無法揃い、町道場の三門人な 盛んで、飲み食いの店は、もとより大繁昌、何の商売も上ど怖るるに足らぬと、こう心のうちで目論見が立っていま 懺景気です。 この日は残暑がきびしいので、わたしは照り降り傘をも 衛そういう間に政治のことで大小の事件がある、がそれは 九わたし共の知らぬこと、わたしどもは相変らず、賭場へ出って行った。 三婦と中亀は菅笠を買うて日除けにかぶり、慣れている 足入りし、仮名屋の親分のところへ行き人足用達の手伝いを やり、ときどき小さな喧嘩をやり、苦情の尻押し貸金の取ので、一向に面白うない道を伏見へ行った。 立てなどをやっていました。三・四・五・六・七と五カ 松源の亭主は三婦と中亀のカケ合いを受け、「お前さん
なまぐさ 余り急に嗅ぎつけた腥さに、思わずロ走った探偵は、 「木村さん、とんだ目にあってしまった。脱牢の志田のお 今し方まで灯が漏れていた窓の雨戸に、飛びつくばかり近やじ志田守明が、居間でこれだ」 づいて、雨戸の干割れ目に鼻を圧しつけた。 と割腹を手真似でしてみせ、 ぶつま 「血だ血だ」 「母親がさ、仏間でこれだ」 父親の志田守明がやって来た倅の明を斬って棄て、こと と乳の下を突く手真似をして、それから又いった。 によると自分も死んだかと、思うと同時に、窓の下を離れ「志田の屋敷の張り込みのご両人は、黒鍬谷で気を失って て声をかけた。 いたそうで、少警部殿のお宅で今寝ているそうだ」 「志田さん志田さん。どなたか起きておいでですか、志田木村は老夫婦の自殺には、。 ひくりと顔をさせただけで、 さん志田さん」 「そいつは今聞いたが、容態はどうなのだ」 窓の内はもとより、どこからも返辞がないので、石川は 「たいしたことはないそうだ」 声をかけながら、建物について廻った。 「そうかい。で、やった奴はわかっているのかい」 返辞がどこからもないのみか、起きた者があるとも思え 「志田明や大原影次郎とは、年ごろも背恰好も違う」 . な、かった ) 0 「すると、二大区でアゲた三宅帰りの、人違いで人命犯を 「志田さん志田さん、どなたか起きてくれ。屯のものですやらかし、ひどく悔んでいると聞いた男だ、脱牢の座頭役 がねーー志田さん志田さん」 をやった石川保助だぜ、なあ」 かわ 鉦の音がチーンと、屋敷内のどこかしらから聞えた、た だ一ツだけであった。 神田の紙幣 「志田さん志田さん」 そのころ、黒鍬谷の往来の片隅に、島崎、田畑の両巡査 が気を失っているのを、火の番人が見付けた。 木村探偵の方は追っても追っても得るところなく、三大 区出張所へ引揚げたのが、夜のしらしら明けだった。宿直南風がちょっと強く吹く三月二十八日の生温かい宵の 部屋までくると石川探偵が帰って来ていた。しかも顔の色ロ、浅草田町にある煙草屋の露地に、あたりを気にしなが が青白くなっていた。 ら姿を消した、堅気の小商人と見れば見られる、四十男は
なる奴で、わたしが「おい守山道へ行こう」といっても返を静かに狙っていたが、恰度いいところを見付けたのでし 辞せず、二、三間近づいてきたアパ吉達を睨んで大津で買よう、やッといって物干竿を突き出しますと伝次は肩を突 った道中差に手をかけました。いたらぬわたし共と違ってかれてよろよろとなる、その顔を横払いに物干竿で払いま すと伝次がたわいなく仰向けになって、手足を上に背中を 守山道も矢走道もア・ハ吉はこんなことに慣れているので、 忽ちのうちに人足達に塞がせたので、どちらへも行くに行地にどンとついて倒れました。これで伝次は二、三人に擱 まれて引き起され、するすると捕繩がかけられました。髓 かれぬわたし達五人は袋の鼠となった中で、お政が、ひい は歪む、頬に鬢の毛は汗でべとりと引きついている、鼻血 ッと泣き声を立てました。当人にしてみれば、自分ゆえに は出る、高頬をスリ剥いている、指の先からも血が出てい 他に男二人女二人がお召捕りになるのが身ごころを責め、 ばくれん 泣かずにいられなかったのでしよう。お秀は莫蓮な女でしる、体中に波打たせて息をついている、今にも死にそう っちけいろ たが、土気色の顔を疳持ちみたいにびくりびくりと顫わせに、ぐにやりとなっていました。 気がついてみるとお秀もお徳もお政も地に坐っていまし ている。お徳は、うろうろして一ッところを小刻みに動い 。起っているのはわたしだけです。伝次の独り合点の立 ている。わたしはというと、もう仕方がないから捉まろう と一ッ処にじッと起っていました。伝次は違います、ア・ハ廻りを道傍の松の木の下で眺めていたア・ハ吉が、わたしの 吉が、ぶらりぶらりと近づいてくるのを睨んでいました。傍へやって来て道中差をとって、うしろに付いて来た子分 あご アパ吉はわたしには眼をくれず、にやりにやり笑いながらに渡し腮を振ってみせると、子分は心得て三人の女を引ッ 九尺ぐらいの近さになると、伝次が道中差を引ッこ抜いて立てて行きました。見るとその先の方で伝次が吊しさげら 飛びかかった。「小僧なんしよる」といってアパ吉が横にれるようにして、人家のある方へ連れてゆかれました。 ひょいと躱すと、伝次は勢い余って前の方へとッとッと駈アパ吉がわたしに、「さすが大九はンの倅だけあって伝 け足で一間ばかり行く、その左右から六尺棒やら竹杖やら次と違うて抵いなさらぬ、あんさんには繩かけまへン代 り、神妙にしなはれ、おまはンは牢へはやらん、親御はン 持ったア・ハ吉の子分に人足が手伝って、殴るやら突ッつく はげまん やらです。兀万といって伏見の街でときどき顔をみたことに渡すで、神妙にしなはれ」と、伝次がつれて行かれる方 のある四十余りのアパ吉の子分は、物干竿を槍に構えて伝を見送って、「一緒に来なはれ」といって近くの茶屋へ連 次を狙っていたが容易に突きません、伝次が血眼になってれてゆきました。伝次と三人の女は、その茶店にいませ 右へ追いかけ左へ追いかけ、独りで大あれに暴れているのん、もッと先の方の人家にいるらしゅうございました。 かわ
てにでもしたら高丘従四位を何と心得おるというのでカケ方が、泊り代より十六文多いのです。 合いを開くのだが、そんなことは決してなく、必ずどこの 至れり尺、せりときまってい 宿場でもいとも鄭重に待受け、」 る、何故かといえば、近年になって公卿の位置が以前と比丸尾と辻が又いう。晩飯と朝飯がついて泊って八十文と やす べものにならぬほど出て来た、さればこそ早い話が、広島は馬鹿気た廉さです、値が廉いから粗末に扱われるかとい 四十二万石の芸州さん ( 浅野家 ) でも、長州三十六万石の毛うと左様でなく、何をいいつけても、うへえッとばかり、 利さんでも、筑前福岡五十二万石の黒田家であろうと、尊何から何まで奉りに奉った扱いで、食べ物でいってみれ ば、普通に扱われて三の膳付き、ところ次第で七汁三十五 敬こそすれ、指一本ようささぬ、こちらはニセ物ではない 正真正銘の高丘四位の御代参だから、到るところ恐るるも菜なそといって、見ただけで腹の虫が慌てるくらいご馳走 が出る。論無く一番いい座敷をつかう、寝道具も充分に吟 のはない、大手を振って道中できる。 味した物をつかう、万事万端その通りで、決して旅籠屋な 話を又ここまで聞いて、わかることは確かに判ったが、 ちゅうじき どには泊らぬ。それから中喰だが、これも旅籠屋などでは わたしのいった路用の金のことが皆目知れぬ。そのことは やらぬ、必ず本陣か脇本陣か、さなくばその案内で然るべ どうじゃと聞くと、それはこうだと二人は又いいます。 御代参のわれら一行の泊る先々は、本陣か脇本陣か、そき豪家とか名ある寺の客殿とかでないと箸をとらせぬ、こ の他のところへ案内したら無礼であろうと叱りつければ、 の代が一人前四十文だ、されば一日の泊り中喰で百二十 必ず本陣なり脇本陣なりへ泊める。本陣にもし諸侯方が泊文、それでいいのだというのです。 っていれば、諸侯の方に脇本陣へ移って貰い、われわれが話を又々ここまで聞いたが、泊り中喰で百二十文と聞い たまげ 本陣へ大手を振ってはいる、それほど公家の御代参には権て廉いのに魂消た。御代参の一行は上下八人だというか 懺威がある。そこで泊り銭だが道中宿泊は上下とも押しなべら、一日のかかりは多寡が知れていますが、「供侍二人と 衛て、一人につき、銭八十文ときまっているーー米が百文で用人とが、明けても暮れても、ばくばく歩くのでは耐らな 九四合買えた頃とはいえ廉いものです。江戸房という関東者い」というと、「それは馬方付きの馬を毎日出させて、歩 きたい時に歩く、乗りたい時だけ乗る、足の裏にまめをこ 足の子分の話ですと、江戸では天麸羅で茶づけ飯をくって、 四安いところは一人前二十四文、良いところのは四十八文ぐしらえさせぬ」という、そればかりか「途中で茶が飲みた らいだというから、名の通った店で二人前払ったら、そのくなった時のため、茶道具を人夫に担がせる。雨具のはい
る力し 石川保助であった。 さっき隣りへ貸したが、取ってこさせよう」 この茶は滅法いいなあ、あ 「今晩は—ーーおう源さん、そこにいてくれたか俺だよ。あ「いいや、見ねえでもい あとくち のな、済まねえが今夜だけ泊めてくれねえか、朝になったあ旨え、何という後ロのいいことだ」 くら ら昏いうちに必ずいなくなるから」 「タ飯はまだだろう」 もとから細身の保助だったが、げつそり痩せたそのせい 「いいンだいいンだ、屋台店の天丼を食べて来たから」 「保さん、ヘンな遠慮なんかしねえでくれ、俺あガキのと か、不釣合いに目ばかりが大きくみえた。 源さんは通称をホリ源といい、女房と娘に煙草店をやらきからお前を知っているのだから、お前が兇状持ちになっ - りト - うけん たにしろ、お前の料簡というものを知っているンだぜ。一 せ、自分は二階へ客を迎えて、針先が他人の体に画をかく ほ・・当の ト晩にや限らねえや、二タ晩でも三晩でも」 刺青師であった。 「だれかと思ったらお前だったのか。ししとも しいとも、 「有難え・ー・・・だが、源さん、幾ツになったい」 早く二階へゆきねえ」 「何をいっているンだ、お前もおない年で四十二じゃねえ 力」 二階はそのころ天井が低いのが通例、ホリ源の二階も、 中二階というそれであった。 「娘だよ」 「おでんか、十七さ。どうしたい、ひどく急に滅入ってし 「保さん、今更いっても追ッつかねえが、何だってあんな まったじゃねえか」 途徹もねえことをやったンだ、保さんにも似合わねえ」 と、この子供のときからの友達は、自分で茶を海れなが 「折角だったが、俺あどこか、安宿へでも行って泊ること にしよ、つ。どうも一まなかった」 ら、不機嫌ないい方をした。 「どうしてよ、ははあ判った、迷惑が後日にかかるてン 「知っているのか、俺が牢破りだッてことを」 で、それでか」 男「絵入り新聞に出ているもの」 総「そうか、そんなに早く世間に知れちゃったのか」 「実をいえばそうなンだ。源さん引きとめてくれるな、一 たむろ ねぐら と「まあ茶を呑みねえーーー新聞に出ているのは、司法省付属ト晩の塒に使わせたというだけで、お前が屯に引ッばられ した 江の未決監第六号を破って六人逃げた、というところまでるのも気の毒だが、階下から聞える娘の声を聞くと、俺も で、例の如く、あとは明日とな 0 ているが、保さんの名前四十を越したせいだろうな、あの子に泣きをみせるような が六人の中にあったから、知っているのさ、その新聞をみ真似がしたくねえからよ。源さん、さようなら」 とてつ かた
104 はありません、時に親分、お見掛け申して折入ってのお願「面目ないが酒の上が悪い、泥酔すると乱れる、そのため いがある、お耳を汚したい」とこう言うので、「何か存じ たびたび失敗したので、意見もされたし、自ら気をつけて ませんが、わたしを見込んでとあるからは承りましよう」 いたが、昨年の夏、童野の城下で角力と喧嘩して斬殺した、 ぶしつけ というと、「無躾ながら只今からお供いたしたい」と一言う。そのときは禁酒して廩しんでいたときだから酒乱の上のこ け↓っ′、み、 わキ - 早、かくら わきざかみつぎ 今夜は困る、明日にしてくれとは吝臭くていえぬから「一とではないが、家老の脇坂内蔵、年寄衆の脇坂貢などが相 緒においでなさい」と連れて帰り、「おまっ客人だ、酒の談して、酒狂の狼藉として国構えとなった、そうでないと すじあ 仕度じゃ」といった。恰度そのころは料理人になろうとし切腹ものの喧嘩の筋合いだった」という、こういう求女が て、この道へ迷いこんだ子分がいて、ちょッとした物を小昨年から諸方をうろついた、「次第に尾羽うち枯し進退き 器用につくりました。浪人は手を振って、「いやいや、ごわまったので、侠気の人とお見掛けして、かくはお願いす しゅ 酒は辞退する」というから、「下戸か」と聞くと、笑ってる」と、こういうので、「当分ここの客になったがいい」 「実はとんでもない上戸です」という。「とんでもない上戸というと喜んで、「何分とも頼む、だが一ツだけお聞き入 というと二升か三升か知らんが、飲ますから飲んだがよれくださし孑 、、出者を用心棒とやらにお使いくださるな」と い」というと、「いやいや今夜は頂戴せぬ、その代り一夜いう。「いいとも、 しいとも、そんなものに使うものか」と の泊りをお許しあれ」と来た。この浪人は、さっきの講釈言ったが、肚の中では用心棒に使う気でした。その翌日、 場で木戸銭を払ったのが持っている銭の最後で、今までい丸尾求女が「何もせずにいては申訳ない、用心棒は固く辞 た宿屋からけさ追い出されたという宿無しでした。 退いたすが、子分衆に剣術の一手二手を教えたい」という まるおもとめ 当人がいうところでは播州竜野の浪人丸尾求女といっ ので、それではと裏に空地があるのを幸い、そこを道場に わきざかなかっかさだゅうやすおり て、五万一千八十石の脇坂中務大輔安宅の家中二百五十石しました。雨降り休業の青空道場だ。稽古に入用の物を買 の丸尾隼人の養子で、実父はおなじ家中で五百石、年寄七つて、若い者に習わせてみると丸尾求女の腕は、どうして 人衆という家柄の脇坂文右衛門だそうです。この脇坂文右どうして確かなものらしい 衛門という名は、その頃の『武鑑』の脇坂家のところに出求女は酒乱を慎しむ気か、酒は二合でいつもやめまし ている重役中にあるそうだから、れッきとした武士でしょ た。「好きな物なら、もっと飲んだら」と勧めても、「有難 いが拙者とてもいまだ若い、浪人で埋れたくないから、自 そうした身の上の丸尾求女が何で浪人したかと聞くと、 ら戒めて深酒をやめました」という。「何か望みでもある はやと