三光 - みる会図書館


検索対象: 長谷川伸全集〈第8巻〉
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1. 長谷川伸全集〈第8巻〉

」にいった豪語を償って余りある、極めて正直な言葉と聞 り、グビにした役所の甲乙丙丁を罵った末、赤坂の親の家前 を抜け出させ、牛込藁店の自分の下宿へ同居させた。同居えたので、三光は相当に武芸ができるという風に思い込む よ , つになった。 させた方にも、同居した方にも、この先をどうするという 黒原三光はロでいうほどの腕力を、明にみせたことがな 考えはなかった。 やせみ い、だからといって明は、三光の腕力の強さをみない限り 黒原三光は明が痩身で色が白く、裸にしてみない限り、 弱々しくみえるのと違って、顔つきもいかっく、体つきも信じないといった気はない、それどころか、新宿の廓内を がツしりしていて、同じ年齢ながら、遙かに世事に通じて繩張りとする不良どもが、三光には一目も二目も置いてい るのを見て、三光の腕力の強さを見たと同然に思うように いるかの如くみえた。 ( 僕は正面から取ってかかって来る奴なら、八人までは確なって来た。このことだとて、後にわかったところによる と、三光は不良どもに喧嘩を売られたとき、拙者は彰義隊 かに引受けられる、正面と左右からと、三方から取ってか かる奴だったら、五人までは大丈夫だ、けれど、うしろかの十六番隊長で、上野の戦いの後、函館五稜郭にわたり、 ら不意にかかられたのでは、一人だってたまらん、僕は負敵を斬ること五十余人、今はこうして志を得ずにいるが、 そうした経歴のある者につまらぬことで喧嘩を売り、無益 ける ) と三光は明にいったことがある。明は、さすがにそれをの腕立てをさせてみたいのか、こう申し聞かせても喧嘩を 言葉通りにとらなかった。明だとて旧幕のころは武芸を学挑むとあれば、是非ないことだから、どこでもよいから人 び、戦いの直前に逃げ出したとはいえ、兎も角も上野の彰の往来がない処へ参ろう、その上でその方どもを悉く打殺 義隊に加わり、下谷、浅草の街の中で、官軍の兵を相手のし、残念至極のことながら、拙者も帰宅の上で切腹する、 喧嘩に二、三度は加わっているのと、隊士のうち官兵を斬とこう吹き捲ったのが効いて、不良どもが恐れ入り、それ 男って逃げ帰ったものが幾人もいて、その話も聞いているの以来、一目も二目も置かれるようになった。タネが割れて 、こみれば、三光のはツたりに不良どもがリツかかっただけの 総で、前からなら八人まで、三方からなら五人までは確カー と引受けるといったのは、黒原三光の覚悟の程をいったものことなのである。 三光は明の下宿代を毎月払っただけでなく、小遣い銭ま 江で、実際には、そう行くものではないと気がついていた、 で明に渡した。新宿の伊勢屋へ明を連れていったのも三光 しかしその後で三光が、うしろから不意にかかられては、 なら、その晩の遊興代を払ったのも三光だった、そればか それが一人であっても僕は負けるといったのが、明には、

2. 長谷川伸全集〈第8巻〉

伊勢屋の格子先で、二人の女に会った三光と明は、廓内四谷見付の濠にうしろを向け、右に曲って大横丁まで行 じようだんぐち の常店屋台のおでん屋で酒を飲み、勘定は例によって三光くと、三光がそれまでの冗談ロとはまるで口調が変って、 ( 関口の伯父から今夜、借用金をするつもりだから、君、 が払った。明は昨年十月以来、いつも三光が払っているの が癖になって、今夜も例によって支払いのことは気にとめしつかり頼む ) といった。何がしつかり頼むだか、明は気がっかず、何 ていなかった。 とい , っ一ともなく、 明と三光とが、二度目に伊勢屋の格子先へいったとき 、小かねも小藤も店を張っていなかった、客があがった ( ああ ) と返辞をすると、三光が再び、 のだ。 いいかね君 ) ( しつかり頼む、 その翌八日の晩、関口雲亭殺しがあった。 と念を押した。それからずッと行って、内藤新宿の手前 四 の横手の麹屋横丁までくると、角に空人力車が一台あっ 黒原三光は一月八日の昼のうちは、どこへも出てゆかて、車夫が提灯を股に挾み、膝掛けのプランケットを肩か ず、頭痛がするような顔つきで、明ともたいして口をきから引ツかぶって客待ちをしていた。三光がっかっかと近づ ずにいるかと思うと、急に伊勢屋の小藤のことを陽気な調いてゆき、白い封筒の一通を渡し、何かいって使い賃を渡 子で話し出し、何があの女では一番面白いのかというよう なことを、手真似までして語り興じた。どうもいつもの三明はすこし遠くにいたので、三光と車夫の話声は聞えた が、何といい何と答えたのか聞きとれなかった。明には聞 光とは違っていた。 下宿の惣菜で晩飯をすますと、三光がいつもの三光に返きとろうとする気がないのだから、聞きとれるものを聞き とらなかったのでもあったろう。 男って、明を誘って外へ出た。 はたもと 総四谷見付が近くなると、旗下屋敷が、旧幕のころとおな車夫が空車をひいて、使いにゆくのを見送った三光が、 ( 仲町の方へ行っていよう、伯父はじきやってくるから とじように建ち並んでいて、往来の人々に明治初期の風俗が 江なかったら、世はいまだに徳川幕府のままのように錯覚さね ) とだけで、その後は何もいわなくなった。 せた、と志田明が後にいっている。夜のせいであったろ 、つ こういうことで、偽せ物の宮内省の呼出し状が、関口雲

3. 長谷川伸全集〈第8巻〉

イ。しいさ、現に僕は君が盗賊をやっている ね。御一新になってから今までの間に、江戸ぐらいイヤ東何をやっても業よ、 のを知っていたが知らぬ振りでいたのだから ) 京だ、東京ぐらい盗賊の出没するところはない ) ( そうか、それでは話は早い。今いったことをやるね ) 三光は明治元年前後の世相をならべ立て、盗賊をするこ ( やるさ ) とがたいして悪いことではないと、雄弁をふるっているつ 話合ってみると、賊をやるとなると、明の方がどうやら もりなのだが、その中途で明が、 三光より烈しいらしい。 ( なるほど、そうか ) こうして二人は宮内省から出てきた関口雲亭の後をつ といったので、勢い込んだ口調が挫け、 ( いやだったら、ノウといってくれ、僕は君を刺して後け、麹屋横丁を北へ、大久保と市ヶ谷へ通する路へはいっ に、単身、関口に取りかかるからね。僕はかかる時勢にた処で、三光が雲亭のうしろから組みつくと、明が前から は、こういう生き方をするのも、実に全く已むを得ざるこ雲亭の被布と衣服を一緒に切り裂こうとした、その短刀 とと考えている、これ実に僕の罪ではない、罪は時勢にあが、三光が力を絞って組みついているためか、雲亭が抵抗 したためか、それとも明の手許が狂ったためか、死にいこ る ) こうむ る深い疵を雲亭に被らせてしまったことは、この前々のと 三光がなおも喋ろうとするのを、明は手をあげて制し、 ころでいった通り。 ( 判った ) 明と三光は二分金その他で百十両を、瀕死の雲亭から奪 ( えツーー承諾か、おい ) いとると、大通りを避けて、牛込の方角へ逃げ、濠端へ出 ( 世の中はすべてひッくり返った、今まで上にあったもの が下になり、下にあったものが上になり、古い物はみんなて息を休め、それから暫く手間取ってから、神楽坂の蕎 イケないが新しい物ならみんないい、、 そういう時勢だから麦屋へ現れ、天麩羅蕎麦のヌキで酒を一一合ずつ飲んで出 男ね、寺はプチこわす、仏像は燃して灰にする、面白い世のた。 総中になったのだからね、僕だって働くのがいやになったか とら働かないで済ます気だ。四百五十石の旗下の嫡男でいた伊勢屋の張り見世で、真田繁成と黒尾芳常の帰りを張っ 江のだったら、四百五十石の手前もあるから名誉を大切にすていた二人の探偵と、二人の諜者と、一人の街の探偵と 空がしらみかかった頃、風のごとくすッと外へ出た。 9 る僕だったろうがね、世の中が変って、零落するとともに やがて小かねと小藤に送られて、くぐり戸をくぐって外 僕には名誉などは縁無きものとなったのだからね、だれが

4. 長谷川伸全集〈第8巻〉

む、表は関口雲亭殿とそれだけでいい、裏は後妻の目を晦 たか、一向に気がついていなかった、したがって今も又、 何の疑念も抱かず、三光のいう通りを信じた、とい 0 てすだけのことだから、内務省勧農寮でも、宮内省でも、何 だっていいさ ) も、いわば聞きッ放しと同然だった。 とも、聿ロこ , フ ) ( 封書の上書きは、それだけか、いい 三光は低い声だが、カのはいった話しぶりで、 その足で二人は内藤新宿までゆき、伊勢屋の格子先まで ( 今の奥さまは後妻なのでね、以前には僕はよく出はいり したものだが、後妻が僕を嫌うのさ、雲亭先生は男の子が行ったが、明の女の小かねは客があって張り見世にいなか 藤と、格子の内と外から った。三光だけが客がまだない小 ないので、僕を養子にするのではないか、そう思ったのだ ね、僕を嫌うのだ。僕はこういう人間だろう、嫌う奴はい倚りあって喋りあった。 やだからね、僕の方でも何だこんな女と思 0 て、いっとな下宿へ帰ってから三光は、質のいい和紙の白封筒を一枚 だけ出し、明に筆をとらせ、関口雲亭殿と、楷書で丁寧に く足が遠くなったけれど、外では雲亭先生にときどき会っ ているので、伯父と甥の関係は今でもあるから、金を貸し書かせ、 ( それでいい 、君の手跡は見事だね ) てくださいというと貸してくれる、それは判っているが といって封筒の裏には何も書かさなかった。 家へゆけないのだ、房に後妻が目を光らして意地悪くへパ 中一日たった一月七日の夕方、三光は一人で出てゆき、 リついていては、伯父だって僕に金がくれられないのだ、 だから関口先生を外へ呼び出すのだね、そうすると伯父は三時間ばかりして、金をいくらか持って帰ってきたらし 出てくる、僕は往来で待っていて、伯父上まことに相済みく、明を散歩に誘って外へ出た。 ませんがと、頭を下げると、こら三光、あまり女遊びをす ( 志田君、僕の羽織と交換して着よう、襟巻もね ) るなとか何とかいって、金をくれるのだね。今までに二度 ( どうしてだ ) もやっているのだから、伯父は僕の手紙をみると、くれる ( 伊勢屋の格子先まで行ってみるのだからね、その方が変 っていて、小かねも小藤も喜ぶだろうからね ) 金を懐中にして出て来てくれる。志田君、どうだい、 ( そうかも知れないね ) 呼び出してくれないか ) 羽織と襟巻とを取換えたのが、三光の変装だとは、明は ( どうやって呼び出すのだい ) ( 手紙だよ、僕の手紙だと後妻が、伯父に渡さないに違い気がっかない、ましてタ方から三時間ばかりの外出が、盗 ないから、手紙は僕が書くけれど封筒の上書きは君に頼みをやるためだとは、田 5 い及ばな、。 しゅせき くらま

5. 長谷川伸全集〈第8巻〉

りか、二人連れ立って毎晩のように出て歩くが、時としてせばいいのさ、なぜといって、僕をグビにでもしたら、上 やえす 立寄る小料理屋の酒肴の代も、うどん蕎奏すしの立食い 司の奴等は、少くとも五、六人は八重洲町行きを免がれん カそれらの支払いがどうし からね。八重洲町行きというのを志田君は知っているだろ 何から何まで三光が払った。 : 、 て三光に出来るのかと明は一度も考えたことがない、払え う。あすこには司法省がある、司法省の裏手には未決囚の しようへい るから三光が払っているのだとさえ思ったことがない。明はいる監房がある、そんな処へご招聘にあすかるよりは、 治戊辰の関西、関東、東北、北越、北海道と、二カ年に跨僕を遊ばしておいて、月給をくれた方が安心だね、月給は がった各所の戦いと、政体の変革と共に社会制度の変革もあいっ等が出すのではないだろう。だからあいっ等はロ留 あった。その煽りをくってアプレとなった者のうち、何割めのために、政府の金を賄賂として僕に渡しているのだ ) ( そうか、それはい、 かが、元来は人並でありながら空虚が心のうちに出来て、 僕もそうすればグビにならず、 薄志と弱気が図々しさに変化して出る、そういう中の一人プラブラ勤めで、月給の遊びとりが出来たものを、残念し が志田明だ。 た ) 明は三光が、何もかも支払ってくれても礼をいったこと ( そうはゆかないね、明君は四百五十石の旗下の若さま育 がよい、ロでいわないだけでなく、、いに礼をいう気など起ち、僕は吹けば飛ぶような貧乏御家人の倅だものね、育ち ったことがない、それを三光の方でも一向に気にとめてい のいい者には判らないことが、育ちの悪い者にはよく判 ないのだから、黒原三光の方がアプレの受け方が強いのだる、だから明君では目の前で、上役の奴原が悪い取引をや ったかも知れない。 っているのを見ても気がっかないな、君では上司の弱い尻 十一月が過ぎて十二月、その中旬に、 を掴むなそとは、およそ不向きなことだろうな ) ( 黒原君は欠勤ばかりしているが、それでいいのか役所の ( そうは僕は思わないが ) 方は ) ( では明君、近いうちに、試みに、何か一ツやってみるか さすがの明も、三光が勤務につきにゆくことがほとんどね ) ないのを不審がると、三光はかすかにびくりとしたが、そ ( やっても良いけれど、何をやるのだね ) れに押し冠せるようににやにやして、 ( 何かやってみるのさ、ではそのうちに試みるとする、な ( 役所か、あんな所は君、僕みたいに上司の奴等の弱い尻あに、世間は実にいい加減なものだからね、何かやってみ を押えているものは、一カ月のうち一、二度ぐらい顔を出ることがあるに決っている ) かぶ しゅ・一う

6. 長谷川伸全集〈第8巻〉

238 亭のところへきたのである。封筒の裏に宮内省と印刷され君はこの短刀で、あいつの着ている物を切り裂いて、胴巻 ていたのは、これも後にわかったことだが、三光がつくつをとってくれ、 と三光が安物の短刀を、明の手に握らせたので、明がび た芋版だったのを雲亭が見落した、本物に似せてあっても ッノ、 . り : して、 芋版だから、気がっきそうなものを気がっかなかった、僅 かにそれだけのことで、欺かれて出仕のつもりで家を出 ( 黒原君、こ、これは君 ) ( 叱ッ叱ツ、名をいうなーー今となっては君、逃げても同 て、命を奪われた。 仲町の往来端で待っている三光と明のすぐ近くへ、関口罪を免がれんのだからね、なぜといえば、今まで君は僕の 雲亭が、羽織袴の礼装の上へ紬の被布を着て現れ、辻待ち金で衣食住をしてきたのだからね、その金の出所が何であ るか、君は知らなかったといっても、僕が知っていたので の人力車を雇って乗った。 すと申立てたら、君には到底どうにもならんだろうから ( 君、あれが伯父なのだがね ) といっただけで三光は、輓き出されて行く人力車の上ね。かの小かねのところへ通った、その金も僕の手から出 ている、君は、再三ならず登楼して愉快を満喫した、その の、雲亭のうしろ姿を見送るだけだったが、 ( 伯父はね、宮内省へ行ったに違いないから、君、青山ま金の出所はどこからだね、僕が盗賊をやった不浄金だ。そ で行ってくれ、伯父にしてみれば甥の僕のことよりも、宮うしてみると君は抜き差しが最早ならん、絶体絶命なのだ 内省の御用の方が大切だからね、僕の用は御用済みの後でからね ) ( そうか、そういう金だったのか ) となるのが、当然だからね ) ( 君、天下泰平の時だったら、僕だとて盗賊はやらん。僕 と先に立って青山へ向った。 二人は青山で宮内省の近くを、ぶらぶら歩いたり立話を等が十一、二歳のころから、公方様のお膝許の市中の様子 したり、雲亭が門外へ出てくるのを待ったが、案外に手間はどうだったね、坪内四郎左衛門をはじめ、旗下御家人浪 どった。そのうちに三光が人通りを避けて、宮内省の高塀士の中から盗賊が続出しただろうがね、文久三年だったか ね、僕達が十三歳くらいのとき、横浜に来ているオロシャ について曲り、明を小声で呼び、妙なことをいい出した。 の艦隊が、江戸に攻め寄せるというので、江戸の町人が総 ( 君、これを受取れ ) 逃げに逃げたことがあったね、あの時に江戸に居残って盗 ( これは短刀だね ) はがじ ( そうだ。僕がうしろから翼交い絞めにするのをみたら、賊をやった奴が、今では何人も金持になっているのだから いもばん

7. 長谷川伸全集〈第8巻〉

あかし た。それには赤坂丹後町士族志田明・当二十四歳、牛込神ったし、貧富の地位が逆さに変り、今でいう斜陽族なるも わらだな みってる 楽坂藁店士族黒原三光・当二十四歳とある。 のが、どこにも悲劇を演じていたという、どちらを見て 木村が、それを解説して、 も、政府が変革し社会制度が急角度に一変した影響が、横 せつけん 「この本姓名は黒尾芳常実は黒原三光が申立てたもので、 に縦に席巻している中で、気力を失い、鑑識が曇り、能力 志田にこの通りだろうと確かめると、野郎め、そちらで決を出し得ないものは、日ごとに惨落してゆくより外はなか めてくれと、顎を突き出して、天井を眺めやがる、実にそった、ことに年齢が若くして敗戦の惨を体験し、降伏して ふりよ の憎ッたらしいことといったらありませんが、こいっ本姓俘虜となり、または逃げ歩いてわずかに免がれた者の中か 名に違いありません、黒原の本姓名を志田に聞くと、蛇がらは、希望の光に背中を向けて我から堕落に身を投げ込 冬ごもりしているみたいな目をして、僕は交際をしただけみ、無気力の枝に小さな反逆のわくら葉の芽をのそかせ、 で身許調べはしなかったと、鼻の先で嗤やがるから、こっその果ては兇悪犯をやった者が二、三の例ではとどまらな ちが訊いているのはそうではねえ、一緒に人殺しをやるは 。それともう一ツは海外の新智識を取入れる政策が、一 どの仲の友達の本姓名だというと、天井をまたも眺めやが般の間で歪みをつくり、後に一英国人をして、「日本は欧 って、偽名であったらその者の責任で僕の関知せぬこと羅巴が五百年かかった文明を五十年で取入れることに成功 だ、本人が黒原三光が実姓名だというのなら、多分そうな し、驚異といわれ奇蹟といわれたが、しかし日本人は欧羅 んだろうという。あいつは当世流の見本みたいな代物です巴の長所と共にその弊害をも取入れた、百年後の日本はそ がん ね」 の癌に喘ぐであろう」と批評をさせるようなことにもなっ 申すまでもないがそのころは、戦後の影響が強く残ってた。木村探偵のいう、「当世流の見本」とは、そうした戦 らんり いて、東京は江戸の昔に遠く及ばない乱離の跡がまだまだ後に生じた「心の不具者」を多少の漠然さをもって指して 男著しかった。明治二年五月に蝦夷地 ( 千代ヶ崎、五稜郭、室 いったものだった。 さてその日の午後、木村、石川の両探偵が、志田明と黒 総蘭 ) の反軍が鎮定されて、日本全土に銃砲火が収まりはし たが、相踵ぐ政府転覆陰謀 ( 雲井童雄事件、愛宕通旭、外山光原三光を別々に、下吟味をやった。下吟味がそれから二日 戸 、、エレ J こよ 江輔を盟主とした事件その他 ) 、要人の殺傷 ( 大村益次郎、広沢真っづいて、身許調べも一ト先ず段落をつけてししー しらす 臣暗殺、岩倉具視襲撃 ) 、士族農民の暴動 ( 伊勢の長谷部一事った四日の後、大庭少警部が白洲をひらいた。白洲という 件、信州松代、伊予、讃岐その他にも少くない ) 、その余波もあ言葉に限らず、旧幕の司法警察の名称や慣用語がかなり多 ヨーロッ

8. 長谷川伸全集〈第8巻〉

四谷見付まで行ってみないか をどう思う ) ( 好きだね ) ( そうだろうとも、それは判っているが ) ( 小かねの方が好いているので、僕はどっちでもいいが ) 年が新たになって ( 明治八年 ) 一月五日の夜、黒原三光は ( ふうン、そんな処だったのか、では今度は別の家へあが 散歩と称して、志田明を誘って外へ出て、牛込見付近くの ろうか ) 濠端へゆき、 ししが、知っている処の方がいいね ) ( 寒い晩は凜然の気というやつを体へうち込んでくるから ( それも、 ( では、君の方でも好きなのだろう。まあいいさ、そんな 良い ) そびや ことは。それよりは金が欲しいね、どうだね、金を借りる と三光は肩を聳かして、名セリフをいいでもしたように 立ちどまり、 言。僕がするから、貸す相手を君が呼び出してくれないか ね ) ( 志田君、君は新宿へ連れてゆくのではないかと、心中に ( だれ、相手は ) 予期したのではないかね ) ( いっか、君が何とかいう会へ出席したとき聞いたろう、 と、明の顔を覗き込むようにして尋ねると、 ( そうは思わなかった、君の財布の中が乏しそうだもの宮内省御用医者の関口雲亭先生のことをね ) ( ああ、二分金などで莫大な額を、銀行預金にもせず、三 ね ) きんけん 井三菱の金券にも換えず、現金で肌身につけている人のこ ( 気がついていたのか明君 ) とか。君にいわれるまで僕は忘れていた、君は憶えがいし ( 去年の暮からこの三カ月間、気がっかずにいたが、ゆう 男べ気がついた。足掛け四カ月、僕の諸入費を払ってくれてなあ ) 総いたのだから、赤貧に陥ったのだろう ) ( 忘れるものか僕が、なぜって、あれは僕が知っているこ と ( そうか、では、僕のために、何とかしてくれるだろうとだもの、実は関口雲亭先生は、僕の伯母が妻だった、伯 江ね、君は ) 母は先年亡くなったがね ) ( それは初めて聞いた、そうか ) ( 何も出来ない僕は ) 明は雲亭のことを話したとき三光が、どんな表情をみせ ( ああそうかね、それでは僕が何とかするからいい。君、 うやむや こうした有耶無耶に類したことが、関口雲亭殺害のモト になったのである。 時に君は伊勢屋の小かね

9. 長谷川伸全集〈第8巻〉

くまだ用いられていた。 原が自白した窃盗横領詐欺二十八件を添加して、身柄を一一 白洲は屯所の内の調べ室で、卓を前に少警部が椅子に掛人とも、司法省検事局に引渡した。検事局は二人を司法省 けんざ け、その前に黒原三光を起たせ、検座という役で木村、石付属未決監に収容を命じた。そのころの司法省とその付属 川両探偵が左右に控える、大体のところこんな風で、検座の未決監は、東京府城内八重洲町にあった、八重洲ロの名 の役目は、少警部の訊問につれて容疑者に自白を促した は今も残っているが、八重洲町の名は廃された、丸の内三 り、叱りつけたり、威嚇もやる、これも旧幕のころの吟味丁目と後にいったのがそれで、司法省は鍛冶橋と馬場先門 のやり方がかなり残っていたからである。 の間にあった。旧大名屋敷をつかい、未決監は旧大名屋敷 「おいおい黒原、何をいやがる、それじゃ俺に申立てたのの中の長屋をつかった。 と大違いだ。野郎もう一ペん聞かせておくぞ、お上では痒 いところへ手を届かしたように、万事万端お調べ済みだか ら、うぬに訊くがものはねえが、万が一にも間違いがあっ未決監の六号室に入れられる志田明は、廊下にションボ てはならねえと、お慈悲で訊いてやっているンだと知らねリ起っている数日前までの相棒に、じろりと冷たい一瞥を えか、下手に強情を張りやがると、こっちには拷問という くれただけでなく、 テがあるンだ、海老責めでも算盤責めでも、お好みの責苦「貴様を生涯、怨む、忘れるな、僕をこんな目にあわせた にうぬは掛けて貰いてえのか」 のは貴様だ」 このぐらいのことま、、 。しったものだった。拷問だってや と噛みつくように罵った。 「こら、黙れ」 黒原三光は一回の白洲で、窃盗の数々と、関口雲亭一件監守はロでいっただけでなく、平手打ちを頬にくれて、 を自白したが、志田明はいかなる訊問にも、青ざめた顔の志田を黙らせて六号室へ押込んだ。志田は監房の中からも 色にこそなったが、冷笑をうかべるかと思うと、忽ち無表黒原を罵った。 つんばおし 情になって、否認をつづけ、その果ては聾と唖のようにな「卑怯者の黒原め、いっかは怨みを晴らすから忘れるな、 るのが毎度のことだった。 貴様が斬罪になったら、必ず墓を発いて大小便をかけてや 月が代って二月五日の午後、警視庁系統の調べは、志田る」 明を雲亭殺しの主犯と断じ、黒原三光はその従犯とし、黒「黙らんかこいつ」 かゆ

10. 長谷川伸全集〈第8巻〉

へ出た二人の客は、後を追ってくぐり戸から覗く小かねを偵が捕繩を明の両の手首へかけた。 「ご苦労さん、もういいぜ」 振返った。どこにも探偵達の姿はない。寒く星が一ッきら きらしていた。 とすし亀にいった石川探偵が、青くなっている明の顔 小かねが内から呼ばれて引ッ込むと、二人の客は並んでを、薄い光の中で透して見ていたが、 歩き出した、その横へ、いつの間にか、天水桶の陰から出「おやツ、お前は志田主水之助じゃねえか、そうだ志田に ちげ た石川当四郎探偵と木村喜之助探偵とが、すッと寄ってゆ違えねえ」 。冫カカったが、 駈明は旧幕のころの名をいわれ、ぎよッとして石川探偵を くと、黒尾芳常の三光が駈け出し、逃アこ、、 けたのは五、六間で、その前へ二人の諜者が現われ、木村みた。 「志田、久振りだな、しかも、捕るものと捕られるもの、 探偵もうしろから追いついて、 「お前が芳常だね、ちょッくら来て貰う。ジタ・ハタするなまことに奇縁だ」 そこへ木村探偵が、二人の諜者に三光を一時まかせてや ハタつくとすりむき疵ぐらいは出来るぜ」 って来て、 というより先に捕繩を三光の右手首へかけた。かと思う と、左手首へも掛けた。三光は体がしびれてでもいるよう「何が奇縁なのだ石川君」 「木村さん聞いてくれ、こいつだよ、いっか話をした上野 に、ぶるぶる顫え、自力では起っていられそうもない。 明の方は棒立ちになり、目を光らせて、近づいて来た石総攻めがあるという前の日に、逃げちまった奴というのは さ。おい志田主水之助、あのころも今も、姓名ともにおな 川当四郎探偵をみていたが、 「伝馬町の屯所のものだ、来て貰うぜ」 じ石川当四郎だ、一ッ隊にいて寝床が隣りだったもの、忘 あとず といわれると、さッと形相が変り、後退さりをして姿勢れるはずはねえ」 明はそのときぶるツと体を振って、唇を噛みしめた。 を整えた。暴れられるだけ暴れる気になったのである。 と、すし亀がうしろへ廻って、明の背中から組みつくっ もりだったが、それと気がついた明が位置を変えたので、 い亀は組みつきはしたが左脇の下だ「た、素人角力で亀 の山といった頃もあったすし亀だけに、頭を明の腋の下へ つけて、かッきと組みながら押し捲った。その間に石川探 ふる わき