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検索対象: 長谷川伸全集〈第8巻〉
147件見つかりました。

1. 長谷川伸全集〈第8巻〉

力」 「僕が棄てなかったとみえるね、君を救う道具に使ったか 河尻川を越えると北朝夷、平らな道路である。やがて一一一らね」 「そうか。巡査といえばお前あのときの名が、一一等巡査木 里塚手前の瀬戸川が近くなった。 志田も影次郎も買った木箱に砂を少し入れ、これも買っ村智栄だったな」 「そうだね、木村は第三大区付きの探偵で、僕を内藤新宿 た古い風呂敷に包み、首掛け背中にして背に負っている。 「うまいものだね、君は寄席芸人の飯を食べただけに、僕で召捕った木村喜之助、あいつの姓をとったのだね、名の ほうはやはり第三大区の大庭智栄、あれの名をとったのだ よりは世事に通じているね」 ね」 右は海。沖が荒れているのか打ちつける波が荒かった。 「ああそうか、このことだね、嘘にも根があるとは」 「そうだよ、だから俺と別れると君は、忽ち困るぜ」 「君は気がっかなかったのだね、僕は石川保助の名もっか 「そうだね、その代り君も僕ぐらいの人間がついていない った、二等巡査石川保助が応援のものとともに、同類一名 と、たちまち牢内へ引返すだろうね」 「だから俺あ、お前とは別れたくねえ。時に、あの偽せ役を鵯川の方へ追跡中といってね」 みやぶ 「あッそうか、どうも聞いたような名だと思ったら、あの 人はうまかった、恩田にさえ観破られないのだから、たい 人違いで人殺しをやりやがった左官のゴロッキ野郎が、な した物だ」 「あれは東京の第三大区と、鍛冶橋内の檻とで見おばえるはど、石川保助だ」 「今度は何かのとき、もッと面白い姓名を用いてやろうと た、役人達の真似だね」 「神田でやった警視庁探偵掛りの偽せ役人よりも、今度の思うね、上野の彰義隊で大々名以上の権威をふるった天野 ノ良と」 方が万事につけて上手だったなあ」 「うン、隠れ家が本所の方の金魚屋で、大立廻りをやって 「二度目だからね」 捉まった人か」 「あんな捕繩をいつの間に手に入れたのだ」 ちくりんばう おやま 「あれはね、君が未決監にいるとき、衣類を解いて糸に戻「大立廻りかどうかは知らないね。上野の御山では竹林坊 という坊主が権威があった。それを天野八郎とを一ツにし したね」 「うン、あれか、あれなら、しかし棄てたのではねえのて、竹林八郎とやってみるね、そうだ今夜の泊りで僕は竹 かん

2. 長谷川伸全集〈第8巻〉

きやっ 恰好かておのずと廿うならんと話がはずまぬ。それを彼奴つが、むやみと思い出されます。それはそうか知れん、お は真面目くさって正面から尋ねたものです。後にそのことまつは天が下に男いうたら、わたし一人だけなのだから、 ただただ一図です、旅先の女は、この男は好きといったと をいうと求女がいうには、「態度を崩さぬと女遊びの話が ころで、ただただ一図ということはありませぬもの、本気 出来ませぬか、不自由ですな」と言ったものです。 求女の話だと、諸侯の道中に随っている供の面々の、みと遊びの違いが、何としても男の体にひびいて来ます。そ んながみんなではないが、血の気があり余って、我が体をれではそれッきりで女遊びしないかというと、道中での皮 持てあます手合いは、朋輩に頼んでおいて、然るべく女遊切りがすんだ故か、又ということになる。今夜の女は前の しいかも知れん、と思っ びに行くこと珍しくないそうで、中には女に起されたら夜晩より美い、これならおまつより、 たのが朝にならぬうちに、矢張りおまつの方がぐッといい が明けていた、南無三宝と急いで出てみると、行列は行っ と思い出し、別れ際に何や彼という女に、ろくろく口もき てしまっていない、そういう時には申訳に腹を切るとでも かんと外へ出ると、あじきなくて、何であんな女と遊んだ 思うだろうが、そんなことをする時節は、とッくの昔にな っておるから、あと追いかけて行き、行列の中へ辷り込んのじゃと、体のどこかにシミがついた気がしてならぬ。 そんなことは道中の間のこと、旅はいつも無事とはい、 でしまう、それで済むのが当今で、昔はお咎めをうけたと いうことです。してみると求女は道中このテの女遊びを心ぬ。 彳ていたのでしよう。 播州加古川から二里ばかりに魚橋という処があります一 あくた 女遊びを今の今したのが、どうも心に芥が挾まったようそこに時光寺といって、土地の名を阿弥陀堂といって、日 の古い阿弥陀堂がある、寺内に阿弥陀天神いうて道真公 で面白うない、初めは女も美しゅうみえたし、話も面白く し、侍の化の皮をわれから剥いでの遊び、心も体もはずみを祀ってあるのを、求女が播州の者だけに知っていて、そ 。しよいよ面白うな こへ参拝ということになりました。今度の道中でわたし共 懺が出て、女と二人ぎりになってからま、、 衛って、他人にわからぬ汗の中で、女が、どうわたしというの一行は、天満宮があるか、道真公にちょッとでもゆかり がある処へは立寄ります、そうせんと道中が捗り過ぎて、 九男を扱うているか、合点がいった、そのすぐあとで矢張り 足おまつの方がぐッとええなと思い出しております。江一尸へ御菓子料を集める場所がすくなくなるからです。 ものだそうなが、わたしには何 行ったときも京にいる時も、女遊びして、その時すぐ、女阿弥陀堂はなかなかいい 房を思い出しなどしたことがないのに今度は妙です、おまともない。曾根天神が眼目だ、まことは天神より御菓子料 うおのはし

3. 長谷川伸全集〈第8巻〉

かって、千両箱が馬でくるといっていた買取った古手物のりカを入れたのでしよう母がよろめいて、膝を畳についた 荷だ「たのです。酒むくれで頬の赤い宰領馬方が先頭に立とき、父はもう附木に火をつけていました。その火も神棚 ち、幾人もの馬方が門ロで父に礼をいって帰ってゆくと近くまでの寿命で、急に衰えて消えました。「ゲン ( 験 ) の 悪い」と父がひと言いって、附木を三、四枚一緒に火鉢の き、時雨に又なったのを憶えています。 とうみよう 父が「おきし神棚にお燈明をあげて」と、上乗の機嫌で火で付けたので、硫黄臭い火が前よりはずッと幅広くなっ きび ひうち、し いいつけましたので、母が火打石をカマにあて、切り火をて燃えました。その火が妙なことに神棚の燈明に移すと、 つけ 神棚に打ってから、附木に火鉢から火を移し、神棚の燈明しばらく点っていてじき又消えました。汕がないのかと父 とうしん ひざら につけると、ばちりといって附木の火まで一ペんに消えまが灯皿をのぞくと油は充分あったそうです、燈芯はと見る と、これにも変ったところがなかったと、後に母がよくい したので、また附木に火をつけて神棚へゆくまでのうち、 ゅびもと 、しました。 ばばッと音を立てて附木が指許まで一時に燃えましたのでししし あおまゆ そのときの父の顔は血の気が去ってしまい、生きながら 熱やッと母が青眉をしかめ、火鉢の灰に棄てました。それ しぐれぐも を見ていた父の顔に、時雨雲がかかるときのような、薄ぐ死んだのではないかと、母は胸をどきりとして、父の名を 呼んだと後に話したことがございます、よッばどの顔つき らさが急に出てきまして、「も一ペん早う」と叱るように いいました。人さし指の腹を舐めていた母が、附木に火をに父はなったのでしよう。 父は燈明あげることをやめて台所へ駈け込み、庖丁をも 移して立っと、又もその火が細くなって消えました。その って座敷に引返してきて、山と積んである荷にかかってい ときの父は怖い顔をして「どこそから風が吹き入るのや、 ましる繩をばらりばらりと切りました。母が仰天し気が狂った 火が消えたかて不思議はない」と、強い調子でいい とばかり思い込み、引きとめると父は「気が狂うたのでは た。母は黙って附木を火鉢の灰にさし付けていましたが、 ない、もしやと今この胸に浮かんだ不吉がある、万が一そ 悔真顔になり過ぎている故か、母がそのときのような顔をし ふるてやきすけ れだったら古手屋喜助は丸潰れになる」といって、菰を引 のたのを、その後の永い間に一度もみたことがありません。 尾母の手の附木の火が今度は事なく燈明に移ったので、父き剥ぎ引き剥ぎ、箱型の枠木をこわし、中から一枚の古着 尾の顔から薄ぐらいものが無くなった、そのとき、どういうを引ッ攫んで出したのが、今に忘れぬ黄八丈の柄のあらい ものか燈明がばちりといって又しても火が消えました。顔女物で、紅絹裏が美しい物にみえました。それを父はさッ すか くら が前よりも昏くなった父が母の肩を掻き退けました、あまと広げ、袖のところを透して見ていましたが、みるみる真 ゆえ - 一も

4. 長谷川伸全集〈第8巻〉

ます」、まあこれが申立ての骨組でございました。「その方牢を出されると高津新地の家へ帰りました。独りで帰っ の渡世は何だ」とお尋ねなので、「左官職一ト通りの修行たのではございません、出迎えに来てくれたおまつに連れ をいたしておりますが、近々のうち金物店を出す手筈になて行って貰った。牢内にいるとき引移ったことは知ってい たし、出牢のおおよその日どりも聞き込んで知らせたし、 っております」と答え、平仮名さんの身内だなんてことは おくび いよいよ出牢の日が本極りになったと聞き込むと、それも 曖気にも出しません。 わたしには鰻谷の刃傷一件があるから謂わば傷害の前科知らせてあります。それだから当日おまつが子供を背負っ 一犯があります。京の橋下の傷害一件もあるが、これは大て、わたしに着せる着物を抱えて迎えに来てくれました。 阪へ知れて来ている筈がないから、今度の罪状に関係がな三カ月別れていて子供に会うと、大きくなっているのと、 ですが鰻谷の八平斬りは今度のお捌きに得にはならな可愛らしく余計なっているので、驚いたり嬉しがったりで いと思っていたところ案外にも、入牢三カ月で出牢となりす。鰻谷一件のときのは堅気の方の出迎え、京の橋下一件 ました。小判屋我蔵の悪評が奉行所の耳にはいったのと、 のときのは渡世人の出牢迎えですから、上から下まで新し く身につける物を揃えて迎えた、今度は洗濯迎えです。洗 八平斬りの前科はあるが、その原因は親方思いから出てい るので、追放でも叩きでもない、申さば免訴でございま濯して仕立直した物をもって行って着せるのを洗濯迎えと す。 いいます。 つまらぬことをと、お笑いになるか知れませんが、ここ高津新地の家へ帰ったわたしは牢疲れが出て、すぐ飛び までのわたしの入牢を振返ってみますと、最初が十七歳で廻れる体でなく、ごろごろして日を送りました。留守中は 入牢八十日間、二度目が二十歳で入牢二タ月、三度目も一一米や味噌塩から家賃その他を、二代目の播為 ( 定吉 ) が仕送 十歳で入牢三カ月、前後三回だから前科三犯、どれも傷害ってくれたが、わたしが出牢になると、これが止まり、訪 です、そうして又不思議に三度が三度とも刑罪は牢に入れねてくる者もなし訪ねてゆく先もない、それに困ったのは られただけで、科料にさえ処されておりませんから、言い近所の人達です、牢から出た者の顔の色は普通ではない、 それに牢ビッという疥癬が手足にあるので、すぐ人の噂が 方によれば前科は一ツもない、未決囚で三回とも免訴と、 こうはなりますが、それは書付けの上ではそうでしよう立ちます。 体がすこし良くなるのを待ちかねて、貸家探しにおまっ が、全くのところは処罰の刑があっても無くても三ツの前 科を背負って、大阪の街の中へ又も出た訳になるのです。 と一緒に出て、長町三丁目に手ごろなのを見付け、右から かいせん

5. 長谷川伸全集〈第8巻〉

142 ・卩、やら草の葉を揉んで貼ってくれたが、元の通りになってお ことをいう奴だ、それツ」というと又背中をしもとてロし 皮がやぶれ、肉が裂け、血が滲み、そのあとから血がらぬ、それを目ざしおって叩く、歯をなんば食いしばって 噴き、体の凹んだところへ溜るそうだが、自分の背中のこも我慢ならぬ、そこを我慢せぬとならぬので、辛いを越え とだから、痛いのは知っているが様子は知りません。百ばて死にそうだ、と思うたら息が絶えた。気がついたのは牢 かり叩いて同心が、「九五郎、もう白状するか」というか内へ搬ばれてからです。 それから二カ月ほどというもの吟味なし、疵は、その間 ら「知らない人の名をいえといって言えますか」とやる と、それッといって又も叩かせた。叩きが重なるにつれてに治りました。 痛さが加わる、歯を食いしばって、二百ばかり叩かれる娑婆からのたよりで、イウエンの吉蔵が養生かなわず死 間、とうとう我慢しました。この痛め問いのあとで、水をんだと知れた。彼奴が死んだからには吟味に引っぱられ責 背中へかけて洗うだけで疵の手当は何もしない。引き起さめにかけられる。今度のは前の二度より重いからその気で いると、案の定、三度目のお呼出しです。今度も前と同じ れたとき横目でみたら与力さんの姿はありません、責めに ことを聞かれ、わたしの方もおなじ返答です。吉武喜八郎 なったとき座を起ったのでしようか。 牢内へ戻ると、「きようは痛め問いにかけられたが音をが「しぶとい奴じゃ、それツ」というと、又しても裸にさ あげなんだ、さすがじゃ」と、当人より詳しゅう、相い牢れて背中を百叩かれた。与力の神沢五郎左衛門がきようは ・、ようまう の者が、きようの様子を知 0 ております。責める方の小者前と違 0 て座を起たずにいて、「これ九五郎、そちは女房 にわたりがついていて、吟味中の様子が牢内へ知れてくる子のある身で、どういう訳で、他人のことで命にかかわる ことをするか、そちは女房子にこれから先々の永らく、苦 のだから、本人より確かで詳しいはずです。 三日目にお呼出し。曳き出されて行くと、前とおなじこ労させる気か、それは不人情ではないか、春来て冬去る渡 とで、「その方が吉蔵を斬ったのだろう、白状せい」が始り鳥でさえ、夫婦親子の情合はこまやかなのに、人間のそ なにゆえ りで、「吉蔵を斬った者の名をいえ」です。こちらは「知ちが女房子のことを思わぬのは何故だ、他人の名を、わが りません」とやる。「身の不為めだぞ」と叱りつけ、その命にかかわると知りつつ、何故あって隠すのだ、責めにか けて問うは、問われるそちよりも問うている此方が辛いと 果ては二度目の責めです。前とおなじことで背中をしも とで叩く。前と今度としもとが違うのか、痛いの痛くない知らぬのか」、と言われたときは倅の顔が眼に溜った涙の きも のでない、尤も前の疵は牢内で早治りの薬じゃいうて、何中にみえました、肝にこたえるとはこれだと思った。です

6. 長谷川伸全集〈第8巻〉

くれまいか。いつもいうようだが、畑中民蔵という奴は、 吉永は、女の色気を逃がさない。 だいそれた奴で、人命犯をやっている男だからいくら腕が「全くのところあたしは惚れている、だから民蔵を向うに よくっても、いざとなると蓮江さんもおツかさんもーーー危廻し、蓮江さんを何とか安心の出来るようにしたい、 みかね ねえね命がさ、だから俺は見兼てこんな役を買って出たのつは惚れた男が女につくす一念というものでね、へへへ」 「吉永さんお志は嬉しし 、、けれど、云っておきます、あた 「君はよく畑中民蔵は人命犯だ人命犯だというが、事実な しは畑中民蔵を怖れていませんよ、民蔵があたしを却って ら何年何月何日、どこで何者を殺したか聞かせ給え」 怖れています」 「そこまでは俺も知らねえ、けれど彼奴が人命犯の大罪人「そんなことをいっても、相手が相手だ」 かせ だってことは確かだ、だからそれを枷につかって、あいっ 「あたしは、あの男の秘中の秘を握っていますの、計わば くびね から蓮江さんが放れられるようにしてあげてえのが、俺が首根ッこを押えているのよ」 今度このことに一枚加わって、何でも、 しいからハマを離れ「どうして、それは何のことだ。え、何のことだ、それ なさいといったそもそもだ。見ちゃいられねえよ、今に蓮は」 江さんがどうされるか、おおよそ見当がついているからね「説明は不要だわよ、民蔵自身が最もこのことを知悉して え」 いるわ」 「というと、畑中民蔵は人命犯の大罪人で、それを知って「奥歯へモノが挾まっているいい方だねえ。それはこうな いる吉永君、君はどういう人物なりや。おツかさん心配しのだろう、蓮江さんは、畑中民蔵を脱獄者だといいたいの うそ ないでいいのよ。この人だって嘘にもあたしの一身上を憂だろう」 慮してくれているのだもの。あたしの一身上を憂慮してく 「あらツ、あの人は脱獄者、まあ怖いわねえ」 れているというのはおツかさん、仮名で書くとね、この人「怖いといったって、お前さんの旦那だ」 つきぎ 偵物はあたしに惚れているということなの。そうだわねえ吉 「そう、月極めのね」 の永さん」 「その月極めの旦那に、俺を乗換えねえか」 明急に客商売の女の、しかも色気をしたたか出した調子「駄目、吉永君があたしに有要なのは体だけだもの、君は が、隣りで聞いているだけの美濃田にもはツきり判った。羽衣町の銘酒屋を根よく廻って歩いていたわね、あれは当 「この女いよいよ妙だ」と探偵はいよいよあぶらが乗った。 り前じゃないわ、だれかに似ている女を探しているのに違 こん

7. 長谷川伸全集〈第8巻〉

影次郎は頭を垂れて答えなかった。後悔に似たものが 玄関に人の気配がそのとき又もやした。今度は一人では さすがに出て来たのであった。 ひょういん ぎようがく このときは恩田豹隠と称ないらしかった。 恩田老人は号を仰嶽といい、 かんせき し、畑つくりと漢籍の教授をや 0 て、余生を質素に送って老人の妻が起って行 0 た。雨垂れの音はさっきから止ん でした 「さればな、わしはな、主君の請願が東京政府の許容する影次郎は老人の話で、後悔めいたものが出てきたその一 ところと相成り、北条へ移らるるときお供を辞してこの地切を、忽ち棄てたようににやにや笑った。今度こそ志田明 にとどまった、その方の父もこの地にとどまった、安斎もが来てくれたのに違いないと思ったのであった。 な、安斎は普請方ではなかったのだが、一徹の気性が家中老妻が間もなく引返してきて、老人に 「役場の権が警察のお方をお一人お連れ申したと、かよ のもの多くに忌まれ、誹謗の的にされた一人であったな」 う申します」 よっりばつりと往時を思い出した、女色を追う 影次郎は ~ て遊び呆け、不行跡の発覚をあれこれと未然に防ぐのに忙「それで」 ほばうつうちょう しかったそのころ、家中にそんなイキサツがあったとは知「ご当家に、東京の警視庁より捕亡通牒の者がまいってい ともひで らなかったのであった。そういえば母の笑った顔をそのこると承知して参上と、県の警察役人木村智栄と名乗るお方 がかよ , つに・甲します」 ろ見たことがなかった。 老人は取り出した捕り繩をしごいているだけで、影次郎影次郎は身ぶるいして青くなった、志田が来たと思いき や、本物の警察官吏がやってきたらしい。 に本繩をかける様子もなく、 「昔話はこれで終いである。がその方は良き父と母をもち「これへと申せ」 と老人がいい終らぬうちに、木村智栄が書斎へはいって 男ながら、心のうちにその良さを承け継ぐことをしなかった 総な、それは時勢や周囲のせいではない、その方のせいだ、来た。 「役儀なればご免」 とその方に承け継ごうとする心がなかったのは何故だったか と若い警察官吏は、一気に影次郎に近づき、素早くつづ 江な、わしには判らぬ、その方はおのれのこと知っているだ けて平手打ちを頬に二ッくれた。 ろうな、何がそうさせたやら」 女の体漁りであると、影次郎は答えをすぐ心のうちでし

8. 長谷川伸全集〈第8巻〉

ってみてや」と出てゆき、暫くすると十三人拵えて来たと 力とで、本当の檜舞台に立てるようになりましたところ、 いう。やれ嬉しやと、それから三カ所飛び廻って、宵に河 どこにもある根性のねじけた奴が、芸も矢張りねじけてい ねじ るとしいたいが、捻けるはどの力さえないャツが、あいっ四郎の帳場で広言吐いた通り、併せて三十五人の人夫の約 は辻芝居あがりじゃと、おのれの料簡とカの足らぬを知ら東が出来た。 かたきやく ず、陰ばかりか日向でもめくさったが、そういう敵役の家へ帰ったのが九ツ、夜中の十二時です。おまつは、わ たしがどこそで又喧嘩したのではないかと心配し、門口に 奴原がやがてのうちに置去りくらって、金三郎はぐいぐい 出世し、大正のはじめ頃でしたか、石川五右衛門の芝居ションポリ立っていました。わたしの顔をみて安心して飯 で、藤の森の場というて五右衛門が召捕られるところ、その仕度するおまつに、かいつまんで話すると、この頃やっ れを東京でやって評判をとったことがあります、お年寄れがひどうなった顔が、娘のころのような笑顔になり、幾 べにくまや は、おばえておられるか知れん、この役者は屋号を紅隈屋月振りかで笑いあって飯食いました。それから沸かしてく いちかわらんよく 芸名を市川七十良としし彳冫 に、、、麦こ市川蘭玉というれた湯を汲んで体を洗い、あすからは貧乏神と縁切りじゃ と床へはいり、腰や腕の痛さを忘れ、手足をのばしまし た、ええ役者です。 話が岐みちにはいった。わたしは南無地蔵というところた。すぐ高鼾になったそうです。 夜明けの雀の声を聞いて飛び起き、「おまっ辛抱させる へ行き、顔利きの乞食さんにあって「川ざらいに出て貰い も、いよいよきよう一日だけ、今夜からは貧乏神めを必ず たい」と話すと、「出た者も今までにあるが、体がえらい というて出たがらぬ」というから、「それはいかん、鴨川追い出すよって」と、朝の飯くうなり外へ出ようとする の水が暴れて諸人が迷惑することは知っているだろう、そと、おまつが拵えてあった弁当をわたしたので、「お前の の水のあばれをやめさせようと今度の川ざらいが始った、 昼飯はあるのか」と聞くと、「そんなこと聞かんでもええ」 悔京の街が助かる仕事にえらいというても多寡の知れたこというから、「済まんな」と弁当貰うて、鴨川の仕事場さ の と、出なんだら、お前さん方は京という処をどうなっても して行くと、潮のさすように川ざらいの人夫が行く、その 中に混って急ぎました。 九かまわぬということになる、よそでは一日三百文じゃが、 跳わしは三百二十四文出す、頭分にな「てくれるものには三 五 百七十五文出す」というと、「そう聞けば知らん振りの出 来る訳のものではない、京には、わしらも義理がある、待四条の上に集ってくれと、ゆうべ四カ所三十五人の人夫 わき かみ

9. 長谷川伸全集〈第8巻〉

この期に及んで、あの家には、「筏師よ待て言問わむ」の十両とり、九十両を広吉に渡して借金払いをさせると二十 歌三味線で、お愛想幽霊が出るとはいわれず、「先に俺が両残ったので、九両を広吉の手に残し、十一両をこッそり 京都に戻っているから、ええわい」と、気味の悪い話は黙一身田の役者一同に届けさせました。それから広吉は名古 っていました。さて、おまつがあすは倅をつれて松阪へと屋へ引揚げてゆく、わたしは津に残りました。別段残「て いる用は何もない。一身田へ行った連中は、十日の芝居が いう前の晩、泣き顔をして、「別れが辛うなった」といい ますので、「今となっては約定の変替えがならぬから行くすめば散り散りばらばら、何とかめいめいで身の振り方を がよい、その代り敦賀で久振りで夫婦一ツになった時のよっけるでしようし、尾上松次郎という子役が一座にいなく うに、熊野から戻ったら、いつも顔見ているのと違「て楽なれば、縁がなくな 0 たので用はない。それだのに残「た しみが又深うできるわ」というと、顔を上気させておまつのは、おまつが遠く行ってしまうと、二、三度見掛けただ あけばの けの曙の女でおぎんというのが、おまつに何処かしら似 ま、「ほんとにそうじゃ、そして又今夜が当分の名残りか と思うと、睡るのが惜しゅうてなあ」と、倅の外に世の中ていたのが、急に思い出されて心が惹かれ、その女と一晩 、、、刀めよ はないようなこの日頃のおまっと打って変り、舞台の女形遊んだ上で、京都へぶらぶら帰ってみようと思し 一夜妻だけのつもりで、残ったのです。 にもない艶々としたところ、眼がさめるばかりでした。 おぎんと遊んでみると、随分これまでに女の数は知って おまつが又いうには、「あんたも子供のとき、親につれ られて流浪の辛さを何度もしてきた、その子に生れたからきたが、このおぎんはそれとは違い、今までにたツた一人 だけの女で、一夜限りのつもりが三度の遊びとなり、その か、まだ十の為次郎が、四十六里余りの熊野へ女親だけが ついて行くとは、親子二代おなじようなことが続くもの、都度にわが女房にも知らなかった、科の違う面白い目にあ この上はあの子を立派な役者に必ずして、決してあんたのわせてくれ、街を歩いていてもそのことが、稲妻みたいに 懺ような道は歩かせぬ」といいますから、「そうじゃな、俺思い出されます。 四たび目の遊びの晩におぎんが「何処でもいいから連れ 衛も今度の旅へ出て、人間がちょッと変ったようだ」と言っ て逃げてくれ、二人でくらそう」と、相談を持ちかけまし 九て笑い合いました。 ふかま た。わずか三度の遊びで、深間になった気は此方だけでな 足翌日、おまっと倅との旅立ちを見送ったのが、一身田か 女も慾目でなく、客をとっているのでなく男に会って ら最初に荷をとりに来た朝でした。前にいったように、そく、 らち いるとしか思えませぬ。そのころ手にあった十両も残りす の方は埒が明いたので、受取った百両の中から、わたしは しぐさ

10. 長谷川伸全集〈第8巻〉

いうことをやったか、知っているのかね」 しのころのこの男が、島役人ですら、時には制御ができな い放縦さだ 0 たのを思い出し、ことによったらこいつに「外のことは知らねえが、鍛冶橋の一件なら、さっき新聞 密告されて、間もなく俺はお召捕りになるのではないかを読んだ奴から聞きました」 「そうか、では隠すまい。俺は俺と一緒に逃げた二人の男 と、危惧、が出てきた。 林蔵はだれに聞かれてもいい世間話を、それからそれとを見つけ、そいっ等を引ッばって三人連れで、自首して出 せっちん つづけただけだったが、保助が雪隠に行こうとすると、うる気に、けさからなっているのさ」 しろから追いついて来て、裏へ案内して出て、有り合わせ「二人、というと。ああそうか、判った、まだ捉まらずに いる志田何とかと、もう一人、士族くずれの二人ですね」 の下駄を突ツかけさせ、 「今夜は南ッ風で、頭痛持ちにはたまらねえいやな晩です「妙ないい方かも知れねえが、俺が指図役で破牢をやり、 から、狭ッ苦しい雪隠にはいるよりは、壁も仕切りもねえ二人を逃げさせてやったのだが、今度は俺がその二人を連 れて、未決監へ引返そうという気になっているのさ」 、と思って、案内に立ちました」 広いところでやるがいし 「そうですか、保助さんがそういうのだから、訳は聞かず と自分が先に、目の前の墓地の生垣に放水してみせた。 こ一栞りましょ 保助が用を足しおわると林蔵が、ちッとお話がありますとも、それがいいだろう、では一ッご相談冫 う。二人の奴は東京にウロついているのでしよう」 と、生垣つづきの角まで連れて行き、 うぞうむぞう 「ここなら有象無象が聞いていませんから安心ですー・・ー保「いずれは上総へゆくだろう、大原影次郎の実家が上総な 助さん、お役に立ちますから、今お前さんにはどういう仕のでね、だが、今のところまだ東京にいると思う。おとと いの晩は、二人とも赤坂にウロついていた、高飛びの路用 事をするのが一番いいのかいってください。島にいるとき かば お前さんには、銭も物も貰ったし、随分いろいろ庇って貰の金が手にはいらねえからだねえ」 男 「それではどうでしよう保助さん、人力車と車夫の仕事着 いました、その恩返しをするのは今この時だと思っていま から鑑札まで揃って、一人分だけあるのですが、夜ナシの しいから飛びた 総す、東京にいたいのでしようか、どこでも、 いと思っておいでなのでしようか、打割って聞かせてくだ車屋になって、そいつらを探してみませんか。その人力車 江さい。出来るか出来ないかわからねえが、林蔵は体を張っや何や彼やがあるのは、本人が焼酎の呑みッくらをやりや 。ししカその晩のうち がって、二升八合までくらッたのよ、 : : 新ても、お前さんのために働きます」 に苦しみ出し、翌日の四ツ、西洋時間の朝の十時に死んだ 「そういってくれるのは有難いが、林蔵さんは、俺がどう