喧嘩 - みる会図書館


検索対象: 長谷川伸全集〈第8巻〉
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1. 長谷川伸全集〈第8巻〉

追放破りの大罪人、俺は十手捕り繩お預りの者だ」と、正 しが出牢する前まで、ざッと一年ばかり続いた訳でした。 それを知らないので『先陣館』の小四郎が倅の初舞台だと面から毒吐いて脅しました。福はいよいよ腹を立て、「お目 滾しを頂いているのは、うぬみたいな連中からではない」、 ばかり思い、他人もそう言ったのです。 そんなことよりも実のところ、倅を芝居へ出すとおまっとやり返した一言葉尻を権次郎が捉まえて、「うぬみたいな は倅にかかりッきりで、独り放り出された亭主の気がして連中というたな、それでは俺一人のことじゃない、大阪の 淋しくって耐りません、と言って倅に夢中になって俺にか両御奉行所の御用を勤めるお手先一同のことをいうたのじ たばこばん りんき まってくれんと、女房に文句をいうては、倅を相手に悋気や」と言い、莨盆を蹴ってひとまず出てゆき、近く ・一り 1 一り のようでいえませんから、「金が夥しゅうかかって懲々じ同類をあつめ、福を召捕るというて七、八人で押しかける や」というて、「この後は金輪際子役に出さぬ」と、おまと、来合せてそれを見て知った会津銕が、近いところで手 つに怖い顔していい渡しました。そのときおまつは素直に慰みして遊んでいた坊主銕に知らせ、そこに来合せた兵庫 承知しましたが、心のうちは、どうでもこうでも為次郎を銕と諸共に駈けつける。わたしは女遊びをしていた家の二 一人前以上の役者にして、父親のような道を歩かせまい階から、駈けつける坊主銕と兵庫銕と二銕の姿を見掛け、 と、固く決っているので、いっかは所存を遂げる気だった声をかけてそれと知り、ともども福の処へ飛んでいってみ ると、手先の連中が福に呼出しをかけているところでし のでした。 年がかわってわたしは二十七歳、その春の末に、北の新た。福は裏からはいって合体した会津銕と二人で内から出 地で騒動を惹き起した張本人は難波の福です。福が大阪にる。わたし達三人は手先連中のうしろからかかる。福が めこぼ おられるのはお目滾しで、おたきの一件で摂津・河内二カ「喧嘩じゃ喧嘩じゃ」といってやり出したから、わたし達 国追放という刑は消えていませんが、消えたもおなじ役向も「喧嘩じゃ喧嘩じゃ」と、前後二ッ手になって喧嘩をや てんまよりき 懺きの取扱いでした、ところが天満与力の下についている手り出しました。その中で手先の者共は、ときどき「御用じ ごんじろう あばたづら 衛先の権次郎という菊石面の男が、それまでにたびたび福かや御用じゃ」とぬかす。此方はそれを耳にすると、だれか 九ら金を貰っていたが、その貰い方が貸した物を取立てるよしらが「喧嘩じゃ喧嘩じゃ」とやり返しました。軒並の家 足うなので、いくら賄賂でもそれではやる方が面白くないのという家が戸を閉める、人通りがとまる。 で、福がとうとう刎ねつけて金をやらなかった、と、権次この騒ぎの結局のところは、手先達は、わずかずつ怪我 良が北の新地で遊んでいる福の処へやって来て、「うぬはをして逃げてゆき、こちらは無疵でした。時の勢いで喧嘩

2. 長谷川伸全集〈第8巻〉

だが、このときはそんな気がすこしも起りませぬ。「お話がバカ弱い、勝負にも何にもならぬのに、強い奴がド根性 はようわかりました、何分ともお願い申す」と、おとなし悪く殴「ているのが見ていられん。弱い方が見トモない泣 く言ったので、おまつが涙で濡れた眼をわたしに向けて、 き声立てて、「どなたさんか助けてえな」としししし 「九ハン嬉しい」というて下を向きました。 れています。私は、それでなくても面白くないところで それではと万兵衛におまっと赤児をつれさせ、大阪へ、 す、むかむかして飛んでゆき、「俺が助けてやる」といい その翌日発たせました。あとはわたしひとり、煮焚きをすながら、強い方の奴の面を殴りつけますと、そいつが「新 る、おばあンはいますが、独りばつねんとしているのがつ手が来よって面白うなったわい、わいがだれや知ってけっ まらんので、初めの一日昼だけ外を出歩いて、夜は西横町かるんやな」と、内ぶところへ右の手を入れましたので、 のわが家へ帰りましたが、放れ小島に置去りくったも同然こいっ刃物もっていると思ったので、近くに寄って行き膝 の気がして、夜が更けるほどいよいよっまらん。つまらんがしらで蹴上げたのが胯の真中にぶつかり、相手はぎやッ こら と思うたら怺え性がない、二日目から家へ寄りつきませとい「てその場へ海老こごみになりました。「こら喧嘩に あいくち ん。面白うない気が勝負事にも出て、ばくちをすれば取ら一服ちゅうことがあるか」と、手から匕首を奪いとったと れてばかりいる。真赤になって家へ帰り、仕舞うてある金ころ、転げるように逃げますので、抛り投げたのが、相手 を持ち出して行くと又負けてとられる。たび重なって昨年の片頬を掠めて右の腿へ落ちて傷をつけました。喧嘩はこ 九月の六百八十両、とうとう一文残らずになった、そうなれでお終い。松の屋という家へあがって、酒を飲んでいる るともうャケです、家の物を手当り次第売払って賭場通ところへ、捕り方衆が来ました。仕方がない、お繩をうけ 、さもなければ酒をくらい女遊び、喧嘩口論の小さいのました。大阪の鰻谷一件がありますので、くらい処へ入れ は行く先々で毎日のことです。おまつが大阪の親の家の居られるのはこれで二度目です。 心地がようなるにつれ、こちらは着る物が減る、道具が消 えるです。 あられ 宵のうちに霰が降った晩です、五条の橋下というて男の大阪と京と土地は変っても、ご牢内の作法にたいした相 ′一じようがき 遊び場所があります、そこへぶらりと、負けつづけで機嫌違はない。新入りの初日にはキメ板といって、御定書をベ しゃべ の悪いわたしが足を入れると、喧嘩らしい人の騒ぎです。 らべら喋りながら殴られる、これがお定まりですが、わた 行ってみると一人と一人の喧嘩ですが、一方が強うて一方しはそいつを食わされませんでした、というのがそのとき

3. 長谷川伸全集〈第8巻〉

170 ている喧嘩が、尾をまだひいていたので、どうすれば喧嘩す。 が根切れになるのだと訊くと、詫びをしろという、では詫福は桜井の宿から和泉の堺へゆき、そこに暫くいるう び言をとなり、次郎長に頭を下げたので、永らく続いた啀ち、世の中がゴテついていたのと、天満与力のお手先で、 かんべ いめくそ みあいが片付きました、と、これも後年になって神戸の長北の新地の喧嘩の本人だった、権次郎が頓死して、狗の糞 吉の大黒柱だった久居の才次郎から聞きましたが、世間一 の敵討の当人が、この世から消えたので、初めは、こッそ 般の人はこんなことは知りませんようです。わたしの兄弟り大阪へ戻ったが、間もなく大手を振って市中を歩いても、 あし 分では会津銕だけが、よかれ悪かれ、会津屋敷の小銕とう何のこともなくなったので、九郎右衛門町のおたきの家 たわれるだけのことをしましたが、わたしは何一ツやらなで、おおッびらで寝起きをして、諸方の賭場へ出はいりし かった、明治天皇の御東下のとき、わたしも京都にいたらていました。福もわたしと同様で、活計がいつも足らぬ勝 この道の親分達と同様、どこから頼まれたではないが、堅ちでした。前にいった播州めぐりの時、つきあいで金をく 気の姿をして、市中から近江境まで御警衛に一枚加入してれた親分達だとておなじこと、ふところが楽な親分は、 ) いたでしようが、お愛想幽霊におどされて、女房恋しさもく稀でした。 くめきち 手伝い、草鞋を穿いてしまったので、前後二度の御東下の名護町の南部の粂吉という目明しの賭場へ、福が出はい なん 御警衛に出ることにも漏れました。 りしているうちに、賭場の借金が十八両になったので、南 ぶくめ 会津銕のことをいったので、三銕の中の他の二人、坊主部粂の子分が手酷く催促しました。そうなると福は凹んで 銕と兵庫銕、それに難波の福のことを思い出しましたか いられない男ですから、素晴しく口返答してやり返す、こ ら、聞いた話でおばえているだけを言ってみましよう。 れがもう少し続くと、福は本物の喧嘩にしかねないので、 かわ 兵庫銕は、どうなったか知りませんが、坊主銕は何をや南部粂の方で躱して喧嘩にしなかった、ところが、粂の女 ったのか、大阪のご牢内にいて幅を利かしている処へ、難房のおくまが、かねがね福の女房のおたきを憎がってい 波の福が人殺しをして、西町奉行所へ自訴し、入牢となっ た。確かな話かどうか知りませぬが、粂はおたきに感、いし りんき て顔を合せたそうです。坊主銕は他の二人の銕と、桜井のて口に出して褒める、それを聞いておくまが悋気を起し、 ーゆく 宿で、わたしや福と別れ、三河へ行った筈ですが、どこで いっかはおたきに恥を掻かせ、褒めてばかりいる亭主のロ 会津銕と兵庫銕とは別れたのだか、聞いたことがないのでを封じ、溜飲をさげたがっていたということです、だから ちょうど 知りませぬ。福のことは小耳に挾んだ人の噂で知っていま恰度いいとなったのでしよう、九郎右衛門町の竹屋の裏の

4. 長谷川伸全集〈第8巻〉

」にいった豪語を償って余りある、極めて正直な言葉と聞 り、グビにした役所の甲乙丙丁を罵った末、赤坂の親の家前 を抜け出させ、牛込藁店の自分の下宿へ同居させた。同居えたので、三光は相当に武芸ができるという風に思い込む よ , つになった。 させた方にも、同居した方にも、この先をどうするという 黒原三光はロでいうほどの腕力を、明にみせたことがな 考えはなかった。 やせみ い、だからといって明は、三光の腕力の強さをみない限り 黒原三光は明が痩身で色が白く、裸にしてみない限り、 弱々しくみえるのと違って、顔つきもいかっく、体つきも信じないといった気はない、それどころか、新宿の廓内を がツしりしていて、同じ年齢ながら、遙かに世事に通じて繩張りとする不良どもが、三光には一目も二目も置いてい るのを見て、三光の腕力の強さを見たと同然に思うように いるかの如くみえた。 ( 僕は正面から取ってかかって来る奴なら、八人までは確なって来た。このことだとて、後にわかったところによる と、三光は不良どもに喧嘩を売られたとき、拙者は彰義隊 かに引受けられる、正面と左右からと、三方から取ってか かる奴だったら、五人までは大丈夫だ、けれど、うしろかの十六番隊長で、上野の戦いの後、函館五稜郭にわたり、 ら不意にかかられたのでは、一人だってたまらん、僕は負敵を斬ること五十余人、今はこうして志を得ずにいるが、 そうした経歴のある者につまらぬことで喧嘩を売り、無益 ける ) と三光は明にいったことがある。明は、さすがにそれをの腕立てをさせてみたいのか、こう申し聞かせても喧嘩を 言葉通りにとらなかった。明だとて旧幕のころは武芸を学挑むとあれば、是非ないことだから、どこでもよいから人 び、戦いの直前に逃げ出したとはいえ、兎も角も上野の彰の往来がない処へ参ろう、その上でその方どもを悉く打殺 義隊に加わり、下谷、浅草の街の中で、官軍の兵を相手のし、残念至極のことながら、拙者も帰宅の上で切腹する、 喧嘩に二、三度は加わっているのと、隊士のうち官兵を斬とこう吹き捲ったのが効いて、不良どもが恐れ入り、それ 男って逃げ帰ったものが幾人もいて、その話も聞いているの以来、一目も二目も置かれるようになった。タネが割れて 、こみれば、三光のはツたりに不良どもがリツかかっただけの 総で、前からなら八人まで、三方からなら五人までは確カー と引受けるといったのは、黒原三光の覚悟の程をいったものことなのである。 三光は明の下宿代を毎月払っただけでなく、小遣い銭ま 江で、実際には、そう行くものではないと気がついていた、 で明に渡した。新宿の伊勢屋へ明を連れていったのも三光 しかしその後で三光が、うしろから不意にかかられては、 なら、その晩の遊興代を払ったのも三光だった、そればか それが一人であっても僕は負けるといったのが、明には、

5. 長谷川伸全集〈第8巻〉

が眼目ですから、時光寺の客殿で念入りに直徳の滝ロ直記の女が、廊下で小用に行った金に出会い、あんたを見立て Ⅱが衣裳を更めて、求女とわたしと加賀屋とが、あとに付いればよかったと、どういう気だったか金の肩を抱いて頬を て参拝に行くと、郷村の衆が集っていて、幔幕を張り警固寄せ、お友達のことをいって悪いけれど、あの人とてもだ の者が出ている、そんな処はどこも同様で、わたし達にはと耳のそばでいって行ってしまったそうな。そのことをく らい酔った勢いで、金の奴がいい出したので、これも酔っ もう珍しゅうない。 直徳の参拝は慣れて来たのと、もともとが人を喰ったヤている作次が聞き咎め、根もないことを拵えごとして、他 ツですから、芝居がかりで、同類から見るとイヤに気取っ国の者のいる中で、俺に赤ッ恥をかかせたからは殺さにや て鼻持ちがならないが、時光寺の坊さん、郷村の人達にならぬと猛り立っと、金も負けておらず、本当のことをい ったが悪いか、日ごろから気にいらなんだ餓鬼やと、喧嘩 は、水際立ったものに見えたのでしよう、興行物でいうジ ワが来た、喝采は失礼だからだれもしないが、喝采以上にを買い、組打ちになったが、喧嘩より徳利茶碗が落ちこわ 大ウケにウケ、それがために思わず口から出た声々がジワれる音がまざったので、大喧嘩らしく聞えた。直徳が、お 節介で、「こらよ惣十郎、物騒がしい叱ってやれ」といっ となった訳です。 寺の客殿へ帰るとさまざまの馳走が出た、名主以下からた。直徳は加賀屋が気に入らないので、用をいいつける時 の奉納物はまだ出ぬが、お寺さんは金三両包んで、卑下やはいつも「こらよ惣十郎」と来ます。尤も、わたしゃ求女 ら言い訳をさんざんいって出したのを直徳が眼もくれず、では気がねがある。 侍姿を人目に晒したい病いの惣十郎用人が、柄にない喧 「こらよ惣十郎」と、加賀屋を呼び、「当寺の志じゃと、申 し受けておけ」と、鷹揚にいいつけたところなかなかうま嘩の捌きに出てゆきおって、「喧嘩はならん、申付けに背 くと手は見せん」と威張った。人が多勢いたので、加賀屋 酒肴がはこばれたが、泊るのではないから、われわれ は赤くなるほどは飲まない、そこへ行くと役が軽いし、性め、見得を切った、ところが四人の子分はわたしが加賀屋 は困り物だ、今に尻尾をみせるのはあいつだと一一一口うている 根も軽いから、子分四人の奴は、飲まなんだら損やとばか のを聞いているので、内心で馬鹿にしていた、それを酔っ り、たらふく飲んだそうです。橋下の金と波切り作次が、 ゅうべの泊りで女遊びをやらかし、二人で一人の女を争うているのを幸いムキ出しにして、「何をぬかしさらすのじ て女の方から波切り作に出たいと言うたとやらで、橋下のやい、宿屋の亭主めが」とやった。加賀屋がそれを聞いて 金は、ぶりぶりしながら他の女を相手にした、ところが作腹を立て、「何をぬかすわしは金沢惣十郎じゃ」とやり返

6. 長谷川伸全集〈第8巻〉

おびただ い腕でいってみる、こういう者が多い。 せて一人五足ずつが百八、九十人分ですから夥しい数で 五月十四日の昼、平仮名さんから急触れで、身内残らずす、濡れ紙というて体の急所急所へ巻く半紙だけでも、身 に集れと来た。さてはと駈けつけると、「上ノ屋敷組からの丈の高さにして五ッ山ぐらいは入用です、血止めの布 さらしもめん 喧嘩状が届いた、場所は松原河原で時刻は夜の四ツだ」と 、腹へ巻く晒木綿だと、いろいろの物を揃える。外科の いう。夜の四ツだというと今の午後十時です。そう聞くとお医者も内々頼んでおく、死んだ者があったら納める早桶 倅のことを胴忘れして、「心得た」とすぐ仕度にかかりまも葬い屋にこッそり買っておき、不用になったら引取らず した。この渡世はこんなとき、倅のことを思うても思わん葬い屋にくれてしまう。こんなことの入費がたいしたかか でも、引くに引かれぬから、忘れても思い出してもおなじ りになります。 ことです。 渡世人の喧嘩は、いきなりやるということもあるが、い よいよとなっても仲裁人が何とかして和談にしたいという ので、骨を折る、この時も山城一カ国の親分が駈付けて仲 敵方の上ノ屋敷組は三百八十人ばかりで押出してくると人にはいる、丹波近江その他からも駈付けて仲人に立ち、 いう勘定です、こちらは百八、九十人ぐらいのもの、先方双方の間を往来して和解に持 0 てゆこうとする、と知れわ が二百はど数が多いので喧嘩の前に、「こりや、あかんわ」た 0 ていたので、「出るな出るな、仲人衆の顔を潰したら と気落ちした奴があったので、わたしが数の多少でではな いかん」と、一人も出てゆきません、上ノ組でもおなじこ とでしたろう。 いと、講釈で聞きおばえの、木下藤吉郎の長短槍試合のは はたち なしを聞かせた。聞かせるヤツが二十歳を、ちょッと出た 明けの星がしらむ空に消されて、さほど、ぎらぎらしな 若僧、聞くャツはみんな年上でしたが、この話でみんなに くなって来たと思うころ、「手切れや手切れや、腕でゆく 元気が出ました。 のや」と触れが出た。そらこそいよいよじゃと、松原河原 場所も時刻もきまっているが、四ツの鐘は鳴ったが松原さして押出してゆく。現場へ近くなると先方も押出して来 河原に双方から一人も出て行っていません、というのが、 た、こちらからも見えるのだから、先方からも見えたでし どす 先方のことは知らす、こちらは長脇差が足らん、その算段よう。 です、食糧の手順にズレが出来た、それもあります、喧嘩河原へ下りて双方が南と北とに分れ、睨み合っているう 用の草鞋だけかて、穿いて一足腰に一足、備え三足で、併ちに、どちらが先か知れません、一ッ二ッ小石が飛んでき

7. 長谷川伸全集〈第8巻〉

仲人の来たのを見た訳ではありません。 煮餅が食われんなと思うておると、十二月二十八日お呼出 きうャもう これは京角力の頭取で御幸町錦ノ小路上るに住居のあるしがあって、放免になりました。申さば六カ月ほどの禁錮 わかつわこまあらしくさかぜおとこいし 草綴が、自分の部屋の力士で、若の常、駒嵐、草風、男石刑をくうた、とまあいったようなものです。 わずら こ牢内で新太が病って死んだことでござい などという、そのころ人に知られた連中をつれ、近国の親惜しいのは、・ ます、わたしよりはモノが良いので、親分になれたこと必 分衆のうしろ楯で、仲人に飛びこんで来たのです。 口々に、「喧嘩は預りじゃ喧嘩は預りじゃ」という声が、定、ああいう男ですから見事な親分振りをみせてくれたこ とと思うと、残念で、今になっても、あの男の顔が眼の中 河原一杯に聞え、わたしと新太との傍へは九尺梯子をもっ た若の常が駈け寄ってきた、こうなれば気骨の折れる八百へ浮いて出てきます。新太の女房は祇園に出ていた芸子 長の闘いがやめられる。「九五郎、刀を引け」、「新太、刀で、夫婦の間に女の子が一人あった、そのとき七ツでした にかけて相ろう。三年ほどはときどき訪ねてゆきましたが、それから を引け」、ひのふの三イと二人一緒に声を派手 , 引きをやり、見合ったままあとへ三足さがり、抜刀を返しは無沙汰になり、のちのちどうなったか知りません、思い て持ち、軽く会釈して「ご苦労さん」「ご苦労さん」と互出すと気になるので、聞きあわせをやったこともあります きびす ばかん 、にいって、踵を返して引揚げました。この時に身につけが知れません。嘘か本当か馬関で名を売った芸子で何とや た物は汗と膏とで臭うなっていました。この相引きが評判らいう美人が、新太の忘れがたみと違うかと、いわれたこ ともありましたが。 のよい因になったのでしよう。 草綴その他の仲裁で話がっき、手打式があって間もな く、「時節柄を弁えず妄りに多人数を催し穏当ならざる者 ながいもんどのしよう 共」というので町奉行永井主水正という方の指図で手入れ牢から出ると、西横町の伏見の九五郎は十七のとき大阪 聞です、上ノ組下ノ組双方でお召捕りをくらったのが七十余で親方のために人殺しをやり、それから二十二歳の今ま むきず 衛人、その中にわたしの名もある、新太もある。六角の牢屋で、数知れぬ喧嘩の返り血を浴びて、いつも無疵で来た男 九へ入れられました。これで、今でいえば前科五犯になったや、ああいうのを不死身というのやろと、人が勝手に立て 足訳です。 る噂がひろまり、わたし等の仲間のものも立ててくれ、 今までのわたしの喧嘩沙汰と違って大きいので、お調べ っしかに、不死身の九五郎といわれていました。世間の人 が永びいて、その年の師走まで牢内です。今度の正月は雑は不死身の九コを怖れて避ける、それをわたしは勘違いし もと

8. 長谷川伸全集〈第8巻〉

わたしは尻端折りして質屋へ急ぎました。その後、わた金のある処を見付けにかかったのを、木治郎のおッさんが うしろから眺めていて声をかけたので、わたしは、ぐッと しは大手を振って家へ帰りましたが、いつも長兵衛のいな い時を狙った、顔を合せたら喧嘩になる、そうすると母がもいえない破目になっていたのでした。 泣く、長兵衛とロ喧嘩しているとき母が泣き出すとそれ見 いという気がするが、だれもおらぬとき母の泣いた姿を思 い出すと悲しくなって泣き出す、時には何で急に泣き出伏見の本宅から下へ三、四丁のところに親類があって、 すやら知らぬ悪い友達どもを仰天させることもありましそこから大阪の松屋源之助に嫁にいっているのが、わたし た。それでは家へ帰って母の顔をみると、ちッとは優しくの母とは従姉妹です、源之助が、わたしの実父の弟ですか するかというと、却って厭がらせがいってみたくなりまら、このおッさん夫婦は、わたしと血のつづきがありま す、大事な大事な母を、どこの馬の骨か知らぬ奴に取られす。木屋治郎兵衛が大阪で、連れて行った先がそこです。 たのが口惜しいのです。それでも長兵衛と顔を合わさずに大阪にはそのほかに父の親類がありましたが、母と別れて いまでは、他人となった父ですから、わたしにとっても皆 いると、母を泣かせるわたしの方も泣いているので、終い にはどうにか仲よくなれて、笑い顔を互いにみせ、母からさんが他人で、松屋源之助夫婦だけが親類です、明治以 頼まれて長兵衛とはもう喧嘩せぬと約束するのですが、顔後、親類と他人の区別がとれましたが、そいつは他人を親 を合わすとそうは行きません、忽ち長兵衛と嚼み合いで類同然におもうという方へ行ったのでなくって、親類も他 す。 人と同然にするという方へ行ってしまった、昔はそうでは 或る晩、木屋治郎兵衛がふいにや 0 てきて、「九吉一緒ない、は泣き寄りとい 0 て、わるいことのあ 0 たときカ になってくれるのは親類でした。親身の情というのも親類 こい」とい , フ、「何処へ」と聞くと「大阪じゃ」とい みだ の情をいったものですが、こいつがすっかり紊れたので、 う、大阪へ何しに行くのかいなと聞こうとすると、「お前 のために、わざわざ大阪まで行くのじゃ、何もいわんと一人情は糊のはがれた紙風船みたい、膨らみもしない、上げ 兵緒にこい」といわれ、苦手の人ゆえ致し方なく、その尻にてやってもじき落ちて来る、下に置いたのでは役に立たな 尾 、。昔はそういう親類だけに、他人になるとはっきり他人 足ついて手ぶらで家を出ました。その日は妙なことに母は本 になって、何があってもかまいつけません、ですから父の 家へ呼ばれて行って留守、長兵衛は泉屋へ出勤中で家の中 はわたしだけ、あとは奉公人だけだったので、家探しして親類残らず、わたしが母について伏見にゆき、足尾の名跡

9. 長谷川伸全集〈第8巻〉

良屋との話が片づき、雷伝次は入牢中、となるとどうやらを引ッ搬んで往来へ引ッばり出し、ぐるぐると二、三度引 外へ出ることが出来るようになりました。大地を踏ませず廻して足をとって引倒し、「へゲタレめが、本マの勝負し おぐら においたら体が悪うなると親類のだれやらがいったと聞いたかったら、これから巨椋の池へゅこか」というと、ペコ ) ペコリ頭を下げるので、二朱くれてやったら地面に坐っ て、わたしは病人の真似を始めた、これが効いてちと外歩 きしてみいといわれたので、やッとこさと歩ける振りをして兄キ兄キと頭をさげるので、「ええわい、ええわい」 て、すこしそこらを歩いて家へ引返し、畳の上へ寝転んでと行かせました。もう一度は店へ土足であがり、「九コの だれが来ても起きようとしない、 これを五、六ペんやると命を、きよう貰いにきた」と吼え立てて帰ったと聞き、 二、三日後にそいつを探して本家の店へつれて帰り、詫び 本家の夫婦はじめみんなが外歩きせいせいと励ますので、 仕方なしの振りして、歩き廻ると見せかけて実は、手慰みをいわせて店の雑巾がけをさせて容赦してやりました、こ いつには二朱金を二つくれてやりました。 やっている場所へもぐり込み、頃をはかって疲れた振りで この二ツのことが本家の人達を、すツかり怖がらせてし 本家へ帰る、きようは遠くまで歩いてみるなぞと聞えよが しにいっておいて賭場へはいって勝負を争いなどしましまいました、子供のすることではないどころか、大の男も・ た。博奕のことは伝次から教わっていたのと好きなので玄やりかねることをやる、これではいよいよ行く末が案じら 人も同然になっていました、賭場というところは喧嘩が景れるということになり、あれよこれよと相談があったそう・ 品についているようなところで、本家へは内密で賭場へ出で、その中でだれでもがいうのは、嫁をもたせて商売でも・ 入りが重なると、「チビ小僧めが狼の九五郎などとぬかしさせたら、何とか料簡が変るかということでしたそうで て生意気だ」と眼をつけられ、喧嘩を売られるとすぐ買うす。これは親類だけの相談でなく、町内の人達が親身にな こ集ってくれた談合の末です。 わたしなので、立廻りも三度や五度ではありません。柄はって相談し 悔小さく痩せてはいるが和田与三兵衛先生に習った柔術と無女房と商売という話は出たが、わたしは十五だ、いくら 法なのが相手を驚かし、喧嘩はいつも此方が勝でした。な徳川十三代の家定の時代でも、十四や十五の小倅に女房も たせて商売をやらせるとは話にならぬとなった。そうなる 兵、にはわたしに負けた意趣ばらしに、わたしのいないとき 本家の店へきて大声で喚き散らす奴がありました。一度とこれというのも女親一人で甘やかしたからだ、と責めら は、わたしが帰ってきたらその野郎がいい気になって店をれるのは母ばかりです。わたしも後々になって或る人に廻 ・一と 怖がらせていたので、そいつのうしろから飛びついて、髷らぬ筆で「何ぶん母ひとりゆえあまき事あまき事、マ事に

10. 長谷川伸全集〈第8巻〉

れ、祇園の会所へ曳ッ立てられ、溜りへ入れられ、牢送り「そちが吉蔵を斬 0 たのであろう」というのです。「いし の仕度中、見ず知らずの男が会いにきて、御牢内には近江え、わたくしは行き合い出あいで、仲裁にはい 0 ていると ころを縛られました」というと、「偽り者め、その方が吉 屋九五郎親分がいるから、伝言をしてくれと、くれぐれ頼 まれた、という筋道で、この巾着切がも 0 て来た小銕と一一蔵を斬 0 たというものがある、それでも偽るか」と叱りつ 人の伝言は、「このたびは不時のことで気の毒だ 0 た、どけた。「わたくしは斬りませぬ、斬らぬものを斬 0 たと、 うか三人の名前をいわないで、あの騒ぎの訳を知らず、行う奴と対決させていただいてもよろしゅうございます」と き合い喧嘩と思 0 て、仲裁にはい 0 たつもりでよろしく頼いうと、「黙れ、白状いたさぬとそちの不為めだ」と脅かし む、貴公の申開きが立 0 て出牢になるまで、われわれ三人ましたが、「知りませぬ」と突ッ張ると、今度は調子が和く とも遠国する、その代り留守宅のことは引受ける」、とこな 0 て、「吉蔵を斬 0 たものは、その方見知りの者に相違 よい、何というものか白状せい」と来ました。「前に申上 ういうのでした。 げました通り、行き合い喧嘩に出あいましただけで、何者 あすにも調べがあったら、わが身を抜こうと思っていた こうなっと何者の喧嘩か一向に存じませぬ」というと、「それは偽 のだが、頼むといわれたのでは白状が出来ない、 たら致し方がない、わが身はどうな 0 ても白状しまいと決り、人を斬 0 た曲者を、そちは庇うのであろう、真ッすぐ 心が付きました。この決心の裏には、俺が今度この一件でにいえ」と叱られたが、こちらは頼まれているのだから何 責めを怺えて口を割らず、無事に娑婆へ帰れたら、あの三でいいましよう、全く存じませぬと突ッ張ると、「痛い目 をせぬうち申上げい」と同心の吉武がいうが、痛め問いは 人に負けない顔になれ、いよいよ以て男を売れるという、 もともと勘定のうちにはいっているから、「どうあっても 差引勘定の答えが出るのを忘れておらぬ、その代り拷問に 怺えねばならんが、気は強くても、体が怺えられぬで死ぬ存じませぬ」とや 0 たので、同心が、それッというと、そ 懺かわからぬ、それだ 0 たらそれは因縁ごとなり、さんざんこにいた小者が二、三人で、わたしの着物を引ッばいで素 むしろ 衛やらかして来た身の年貢の納めどきなり、と生きる死ぬる裸にし、蓆の上へ腹這いにさせて、手足を四人で押え、一 人の奴が、しもとを持って来て背中を二、三十叩いてやめ 九の両立てで覚悟をきめました。 足その翌日、呼出しがあり、西の奉行所の白洲へひき出さました、「どうだ白状するか」と同心がいうから、「知らぬ よしたけき かんざわろうざえもん ことを申上げては、お上を偽ることになるから、いくら叩 れ、神沢五郎左衛門という吟味与力が座について、吉武喜 かれても知らぬというより仕方がない」というと、「憎い 八郎という同心がその下にいます。神沢さんの調べは、