て一緒に出て、夜遅く帰ってきてから一トしきり寄席の話で、わりあいに明るく、暑いときなので湯気も立たず、入 わらだな 4 と蕎麦の話をしていたから、藁店 ( 寄席 ) へでも行って帰り浴中の男の客が幻燈の画のように見えた。 に蕎麦屋へ寄ったらしい。二十一日は上野浅草へ行ったら 吉永という男の年ごろ人相を美濃田は、二人の女中から しく、夜になってから帰って来た。この二晩とも、蓮江は聞いておいたので、湯槽の中にひたり、首だけ出している 眼のふちを赤くしていたから酒を飲んで来たらしい、吉永三十六、七歳の撫でつけ刈のあたま、揉みあげを長く残し は酒の匂いがしていたが顔に出てはいなかった。きようはた丸顔で眼のでかいこの男が、吉永だとすぐ判った。見て 男が早く出て、二、三時間もしてから蓮江母子が外出し、 いると、吉永は湯槽の中で、何のこともないのにびくりと 午後二時ごろ帰ってきて、二人でひそひそ声で何か相談し して、うしろを振向いたその刹那の表情は、「こいっただ者 ているらしく、女中が茶をもってゆくと、蓮江は陽気な声じゃねえ」と美濃田の眼に映った。 で、日進月歩の世の中とはよくいったものだねえ、東京は湯槽から流し場へ出た吉永は、五尺三寸ぐらいの身長 さすがに大都会、ハマに比べるといろいろ変化が著しいねで、いい体をしている、肩と腰とが当り前と違った発達を えなそと、今までの話とは違うことをいい出したらしく、 しているのと、いかにも強そうな足とをみて、こいっ働い 母親がキョトキョトしていた、という女中のおつるの話だた体だと美濃田はみたが、体の発達だけで、どういう職の った。「何のひそひそ話だったか知らねえかい」と聞くと、 ものか見極める準備をもたなかった美濃田だが、吉永の体 「ジンメイ ( ンが何だとか申していました、何のことでしの二ツの刀疵にはすぐ気がついた。一ツは右の二の腕、一 ようか」とおつるはいう。美濃田は小首をひねり、「何のツは左の脛、どちらも古疵ではない、といって生疵でもな ことか判らねえ」とロではいったが、人命犯といったのじ 、生疵と古疵との間だった。美濃田は科学の影響をうけ ゃねらんかと心にひいンと冖いた ていない、何でも彼でもカンでゆく、吉永の二カ所の刀疵 吉永という男は「今さっき帰ってきて、先客が出るのをもカンで刀疵とみたのだ。このカンは、まさに的中した、 待っていますから、もうじき湯へはいるでしよう」と女中吉永の疵はサーベルに仕込んだ日本刀で斬られた疵だっ がいうので、美濃田は頃をはかって、女中にそッと案内さ た。一年半ぐらい経った疵とみた、これも後になって、は せ、風呂の中がのそける物置の脇へ行った。だいぶもう暗ばあたっていたのが判った。 くなっていた。 なおもよく見ていると吉永は、流し場で垢をすりながら 三坪ばかりの風呂場は五分芯のランプが吊ってあるのあたりに眼を配ることがある、そういう時のガン ( 眼 ) はま がり
「あの二人は夢に出てこないね、あの二人は体が土に戻っ「保身のためだからね、あの女に好意をもたせておくのは てしま 0 てない、形骸なしのものが出てくるはずはないか 利益だからね」 らね。君のは何だね」 「俺あ、早く飛騨の国へゆきてえ、飛騨の高山というとこ 「須那だよ、あの女が夢枕に立って招くのだ、俺に早くころは大層いいところだそうだ」 いといってさ、ところが俺はいやだから逃げるのさ、する「足音が、そうれ近くなった」 とあの女は俺のうしろへ、すうッと追いついて来て、手招晩飯の膳が、ばつりばつりはこばれ、酒が出たころは日 が暮れていた。 ぎするのだよ、俺あ、膝がガタガタいってきかねえから、 逃げきれねえのだ」 大原は女中二人の悪口を蔭でよ、つこ : 、 ししオカ面と向うと打 「君は目がさめていると恋い慕い、夢で会うと嫌って逃げ って変って、一人の女に機嫌とりをした。 るのだね、どちらが君の本性だろうかね」 志田は機嫌とりを一切やらず、女の一人に機嫌をとらせ 「いやなことをいうなよ。お前が、そういうところは、じて納まっている。 つに嫌いだなあ」 何本目かの銚子をとりに行った女中が、戻って来て、 「嫌いでも、君は、僕といつまでも一緒にいなくてはなら 「今夜、何があるのかね、松本の海野さんが、こッそり米 ないのだからね」 ているとさ」 「判っているよ、お前と差向いのときが一番いけねえ、他「ふうン、海野さん一人でか」 人が傍にいるか、往来の人がある道中のときが一番いい」 「三人か四人だとさ」 「しツーーー足音が遠くでしている、やがて女中が膳をはこ「何だろうね」 んでくるだろう。大原、ちと気をつけろ、酒に酔うと君は「何だかね」 寄席芸人の以前が出ていけないからね、君も僕も学校教員大原が、これを聞くと、手にした杯をとり落したが、ぬ のはずだからね」 からず鼻唄をうたいだした。志田は目を据えたが、すぐ平 「とンだ教員だ、行く先々で女を買わねえ晩はねえのだか常の目になって、 らな、それにしてもここのスペタどもには往生だ、悪女の 「その海野さんとは何だね、役者かね」 深情けとはこれだぜ、お前はよく辛抱して相手になってい 、違うですよ。松本の役者で綺麗なのは関三之 るなあ」 助、海野さんは松本の県庁に定勤の警部さんですよ」
おじけ ともの人間にはないものだ、兇状持ちといわれる逃亡中の武七郎の二カ所の刀疵と、きらりと光らす眼に怯気のある 博徒も、これに似た眼つきをするが、吉永のはそれと違っところ、何だろうあの野郎というのが胸一杯で、箸のはこ びがときどきとまった。 ている。盗ツ人臭い 「おさぎ、三両ばかりねえかい」 美濃田は風呂場のそきを切りあげ、おつる・おかね、二 「よ、けど、都ムロしてこようか」 人の女中に、その頃としては大奮発の五十銭ずつの心付け いわずと知れた探偵用の金と、おさぎは知っている。 をやり、三人の金づかいを聞き、今までに訪ねてきた者は 「そうしてくれ、質草は俺の物を持って行ってくれろ」 なくても、今夜にもだれか来るかも知れないから、来たら 「そうは行かない、あたしや外へ出ないでも済むのだか その客の住所氏名は無論のこと、人相年ごろと服装をよく 見ておいてくれ、次第によっては署へ届けてくれと、女将ら、あたしの物を持ってゆくよ」 おさぎが質屋から借りてきた三円五十銭を渡すと、「今 にも女中にも命じておいて外へ出た。 ランプ とッぶり暮れて、家々に洋燈の灯がとばっていた。 夜は神楽坂一の二の若宮館でお通夜 ( 張込み ) する」と、 いおいて出た。 美濃田が若宮館へ現れたのは午後八時前、蓮江母子と吉 神楽坂警察署へ美濃田勝造探偵が帰った。署長の一等警永がぶらぶら歩いてくると出て行ったあとだった。「そい し具合だ、 一ッ今夜は俺を客にして、母子のいる隣 察使・宇都純随は退出して、おらず、副使は管内巡祭に特つはい、 たなし りの部屋へ入れてくれ、でな、田無から歩いてきたので、 務巡査をつれて出ていて、これもいなかった。 探偵部屋へ行って暫くの後、通用門から出て二丁ばかり湯にへえって飯を食うと横になった、と思ったらぐうぐう めあて の津久土近くの我が家へ帰った。いっ帰ってくるか知れな寝込んだということにしてくれ、俺の今夜のお目当は、あ めし い代り、いっ何どきとなく帰って来て、さあ飯だとくる美の三人が帰ってきてからの話が聞きてえのだからね」と、 、、、ぜん′一しら 偵濃田のため、今夜も女房おさぎは膳拵えをしてあった。美女将と女中に筋を通しておき、女中のおつるがしいてくれ の濃田は「今夜はおきまりを抜きにする」と晩酌をやめにした蒲団の上へ美濃田はころがって、隣りへ帰ってくる三人 を待った。 町て小さい蒲団の中で睡っている男の子の顔をのぞき込み、 茶を淹れてくれた女房から留守中のことを聞いて、吊りラ九時半ごろ蓮江母子と吉永が帰ってきた。吉永が女中の ンプの下で膳に向った。だが、風呂場でのそいて見た吉永おかねに、隣りの部屋を指ざして、「これかい」と笑談ら
い物買うてくる」と外へ駈け出す足音を聞くともなく聞くや裾に付いた小判が音を立てる、その近所にいた虫がハタ と鳴かずなりました。 と、えらい元気な足のはこびです。 翌日、わたしは生え抜きの黒鍬の棟梁のような姿で現場金の高は、なんと、六百八十両ありました。 にゆきました。きのう新顔の人夫を三人以上っれてくれば 三百七十五文やるといったのが利いて、八人多くなってき 江戸大阪 ようは四十三人の人夫です。その次の日には五十一人とな り、六十人となりという風に、子が子を生んでゆくので、 帳場割を四カ所にして貰い、初日からの頭四人に五百文ず つやって、一カ所ずつ割当てました。仕事は照り降りおか わたしは十九、女房おまつは十八の安政四年の九月。鴨 まいなしですから、百人近い人夫を、わたしの手で動かし 月の川ざらいが終りになって、手に残った金が前にいうた ているので、毎日の算勘から、わが手に残る金が日毎に多 くなり、九月中旬、川ざらいが出来あがるまでに、手に残が六百八十両。 翌日の朝、眼がさめるなり朝飯も食わず飛び出し、引越 った金をおまっと二人で、夜更に戸という戸を閉めきっ て、畳の上へ並べ、「どうじゃ、これが六・七・八・九とす先の空家を探しました。この六月の炎天下の川浚い人夫 足かけ四カ月の儲けだわい」と、顔見合わせていると、虫に、昼飯抜きで働いて、三百文の銭をもらった翌日から、 人夫の頭となって坪割の請取り仕事をし、六・七・八・九 の亠日が、つるさくく。と、おまつが、「これとい , つもばく ち打たぬ故や」といったので、「朝早くから現場へ出て一と足掛け四カ月、満三カ月十三日で、六百八十両の大金持 日中動き、晩方に払いをすませ、先斗町の大棟梁のところとなったのだから、今までの家には縁起クソが悪うていら 難〈行くやら、肝煎手合とっきあうやら、人夫達に稀には飲れまへんわ。西横町で貸家を見付けて家主をたずね、一年 衛み食いさせるやら、体がえらいもの、賭場どころかい」と分の家賃を先払いするからいうて借受けようとすると、 兵 「おまハンやないか、川浚いで、若いのに千両儲けやはっ 九いうと、「この先々もそうであって欲しい」と、おまつが、 たというのは」と、顔をしげしげ見ているので、「滅相 じッと顔をみたので、わたしは投げ飛ばされた気がして、 「よしゃよしや、この金は今度生れる子のためにつこうわ」な、千両とはいかなんだが、儲けたによって今までの住居 といって、並べてある小判の上をごろごろと転がると、帯をやめにしたいのじゃ」というと家主が、「おまハンのよ
まで連れてゆかれた。草履はどこへ行ったか足袋はだしにれというのじゃ、よく覚えとけ職人というものは仕事場を なっていました。 大切にするもンじゃ、判ったら呼んでこい」とやらかす それから二人とも口もきかず、仕事場へ行くと安さんと、手伝いがびッくりして、「親方親方、用のある人が来 あらた が、「おやじから更めてカケ合わせるからいい」とか、「若てまンが」と、大きな声でいうと八平が、「だれじゃ」と い二人では八平の貫禄に歯が立たない」とかいうので、わ いって出てきましたので、「俺じゃ、けさの礼するンじゃ たしは安さんが気の毒でならなくなった。安さんはこうな い」とこれから大立廻りとなりました。わたしは元服して ると気が弱い、よしそれなら俺一人で始末してくれる、とそうそうの十七歳、先方は四十二歳、体は八平の方がよろ 肚はきまりましたが、安さんがいろいろ宥めるので、仕事しいが、無茶にかけてはわたしの方が上ですから、忽ちの にひとまずかかりはしこ ; 、 オカ今し方の大負けに負けたのが うちに先方は受身となり、とはいっても、わたしはときど 残念で耐らず、安さんのスキをうかがって仕事場から姿をき突き倒されたりコカされたりしたが、何が何でもただ茶 消して、上町唐堀の親方の家へゆくと、家中だれもいませ茶無茶に攻め手となり、亀源の軒下わずかのところで双方 ん。台所へいって出刃包丁を手にとり、目についた布きんとも血まぶれになった。そこへ手間取りが二人三人又二人 たばこ だか雑巾だかでくるみ、腰にさして外へ出ると、隣りの莨と飛び出して来て、ひと目見ると逃げてしまい、 漆喰を練 屋から親方の女房が色の白い顔をのぞかせ、「九コどうし っていた手伝いも、他にもいた人夫も、親方がやられてい たのンや、青い顔して」と声を立てたので、わたしは、ばるのを見て、薄情の腰抜けども揃いで、どこへ逃げたかお っと駈け出して辻を曲ってしまいました。安さんがそれか りません。亀源はもとよりのこと、近所の家でも奥へ逃げ ら間もなく、「九コ知らんか」と駈け込んで来たと、後々込んだのでしよう、どこにも人ッ子ひとりいません。往来 になって聞きました。 の西も東もどちらからも人が来ぬ、おおかた遠くの方に立 停まっていたのでしよう。 四 だれが捨てたのか水桶に残った氷ででもあろうか、砕け わたしは鰻谷の元結問屋へいって、上塗りの漆喰をふねて散った解け残りが、亀源の門口に光っていたのを、逃げ で練っていた左官手伝いに「八幡屋平兵衛親方を呼んでく身でばかりいた八平が踏みつけ辷って転んだ。わたしはコ れ」というと、手伝いが「いやや」というから、「訳のわ力されたばかりなので、刎ね起きると今度はわたしが氷を からン奴じゃ、普請場へ踏ン込んでは失礼だから呼んでく踏んで横倒しにのめりました。
に日にやけ、眼がくばみ、頬の肉が落ちた岡田が、検座にまでに分れ、それを纒めて一監といった、それだからで ある。一房は囚人十二名で、房長というものがその中から つき、棆木仙六と鴻田周三郎を呼び出した。 「山田新平こと棆木仙六、七条敬行こと鴻田周三郎、お前 一名撰ばれる、だから十一一房百四十四名が一監となる訳、 達の一代記を、こちらから云って聞かせるからよく聞いてだが、それは定員で、実際は、もッと詰めこむこともあ いろ」 り、少いこともあった。一監百四十四名の中から一名の監 と、二人の出生地から以前の渡世まで云い、仙六は不徳長が撰ばれる。実は、監長は撰ばれるのでなく、旧幕ご 義が十数件あって、香具師の仲間から逐われ、窃盗で二回ろの牢名主や役付とおなじく、そういうところで押えの利 検挙され、強盗で十年刑を岐阜県で申渡され、同地の監獄く者が、立てられてなるのだった。だから、房長十二人の に苦役中、同監の鴻田周三郎と共謀し、数人の囚人を語ら上に監長がいる訳だ、この監長を、囚人間では見張りとい い明治十四年三月二日、風雪の甚しい夜半、破獄して逃走った。 かか し、その節、凍傷に罹り、右足の指が現在の如くになっ 一監十一一房とはいうものの、一房ずつ隔離の設けがある うす・ヘり た、その治療は美濃加納在でやり、これを扶けたのは周一一一のではなく、十二房どこへでも往来出来た。板の間に薄縁 郎だと、びしびしあばいた。 をしいた、それで一房から六房、六房から十一一房などと、 それを聞いて、仙六も周三郎も、どこを風が吹くかとい大雑把に決めただけだから、徳川期に大都会にあった大牢 う態度だったが、胸のところをみると、どきどき脈が大きと実態は似ているから一監中で長年期のものほどえらが く打っとみえ、びくりびくり着物が動いていた。 り、悪どい罪犯のものが羽振りを利かせ、軽い罪囚のもの 武田警部は続いて、仙六・周三郎が、明治十五年十月一一は、はしたもの ( 端下者 ) といって、最劣等扱いを囚人間で つまびら 十五日夜明け前、名古屋監獄を破ったことを詳かにあばやった。時に衆望を担う人物が入獄し、監長になることも いて聞かせた。 あった。 偵当時の名古屋監獄は旧幕のころのものに改繕を加えただ扇子作業についていた詐欺囚の三浦靖之助と、強盗囚の のちのち のけで、後々の刑務所とは、その差が非常にあった。 鴻田周三郎とは、そういう中にいて、周三郎は犯罪が兇暴 なのと、態度の荒々しさで、はしたものを怖れさせ、靖之 丱岐阜脱獄の後、強盗傷人で十年刑となった仙六・周三郎 助は謂わば智識階級で〃学〃があるというので幅が利い 9 は、おなじ監房だった。 かす 一監十一一房という言葉がその頃あった。房は一から十一一た。この二人が看守の眼を掠めて猥談をやった、一度でな
ごろまいて金にしたこともありますが、そんなことは、こ きあい貰いが金十七両二分と、天保銭二把に銭千匹でした から、一晩泊りで亀山を立ったとき、夫婦二人で分けて持びたびあるものではなし、博奕で目と出たときだけ息をつ けます、といってもそれは砂浜にかいた画で、風か潮がや った金が十五両だったか十六両だったかありました。こう して先々で貰った金は、相手が変って、わたしの手から旅ってくると消えてしまう、それでも何とか月日を送ってい たびにん 先の親分や旅人に又出る、貰いッ放しではありません、相るその間に、おまつの方は、倅の為次郎に芸ごとを仕込む ので一所懸命です。大阪の芝居でデポ重を殴ったとき、金 見互いですから貰いもするが出しもするのです。 京都へはいったのは翌日の夕方で、草鞋を脱いだ先は、輪際もう子役に出さぬと女房にいい渡しましたが、小さい 、、物一だ 宮川町のデポ定という兄弟分の家です。びつくりしたり喜男の児の綺麗な着物を着せ、芸ごとを習わせているという んだりするデポ定夫婦のもてなしを受けました。足掛け一一ものは、家の中が華やかでいいから、いつの間にか、わた しも肩を入れるようになりました。大阪の芝居へ出したと 年で結ぶ京の夢だと、おまつが喜ぶまいことか。 、、さだ これから京都に腰を据えるのだと聞いて、デポ定が人をきと違い、おまつは痒いところへ手が届くようにしてくれ うろこや 腹を内々立てるような 使ったり自分でも歩いて、鱗屋という商人の持ち家で、五るので、倅孝行の亭主忘れだと、小 ことはなく、活計がうまくない時は多いが、家の中は、ま 条坂の八幡さんの隣りに、間ロ四間半の一軒建のいい家が あるというので、見にゆくと普請も、い、間どりもうまく出ず結構な毎日でした。 そのうちに立役も女形も出来る芸達者な、嵐実三郎が座 来ている、庭も見事なもので、値うち物らしい石燈籠が二 基もある、その上に上物の諸色一切っいていて一両二分だ頭の一座へ倅を出して貰えまいかと、今度も中山文七夫婦 から話がありました。おまっからそのことを聞いて、すぐ というのだから、法外に廉い、俺には過ぎた家だと、ロでは へりくだ ちょッと謙遜っていってみたが、どんな無理をしたとて、承知、大阪のときの芸名の尾上松次郎で倅を出したとこ 、わたしはただ好い気持になっていただけ ろ、評半がしし 懺この家に住んでみる気になって、すぐ借り受けました。 衛当座の諸道具をすこしばかり買い集め、女房子と自分のですが、おまつの方が懸命で、当の為次郎よりも、その役 についてはよくよく聞き合せて知っており、上達させるつ 九着換えを買い、知合いを訪ねる手土産やら人を呼んで飲ま ばくち 足せるやら、そのうちに仲間内の吉凶のつきあいやら、博奕もりで倅を煽てたり叱ったり褒美の品々で釣って、やって に負けるやらで、三日物足りて四日物足らず、くらしが楽いました。 次から次と倅は実三郎一座に出て、いよいよ評判がよく でありません、そこで悪どいことをした奴の尻尾を押え、 おだ
と知らぬで兄キを住わせ面目ない」と、頭を掻いて詫び言知りません、知ろうとする気がないから、よくそれまでに しました。こうなると鱗屋へ坐り込み、俺を幽霊に同居さもあった勤王佐幕の喧嘩だと思っただけでした。そのこと せおって、俺だから命を取りとめたが、これが女子供であもですが、朝廷から万機御一新の御達しが京都市中に出た ってみよ、死ぬか知れぬと、捻じこむことが出来なくなりのも、わたしが草鞋を穿く前のことで、後になってみる ました。一ツには無性におまつが恋しくなっていて、体がと、日本の国の様子ががらりと変る間際になっていたのだ 本復したらすぐに敦賀へゆく気ですから、鱗屋へ談じ込むが、自分の鼻の頭の蠅を払うことしか知らない者には、大 のはやめにし、おとなしく見舞い金の礼をいいました。 きく世の中が変る矢先が一向に苦になりません。引合いに 体は、もう確かだとなってから、「定よ俺は倅の迎えに出していっては悪いか知らないが、清水の次郎長だってそ 敦賀へ行ってくる」と、旅仕度に二日かかり、見舞い金のの頃は、わたしどもとたいして変りなく、繩張りだ喧嘩だ 一両とデポ定が出した一両と、あわせて二両もって出立しとやっていたそうです。そこへ行くと美濃の岐阜の弥太 たのが、慶応三年十一月の末のことで、何が京都に起って郎や、甲斐の黒駒の勝蔵、三河の黒雲の亀吉などは、お国 いて、世の中がどうなるか、病みあがりだったとはいえ、 の変動に一役買って出ています。岐阜の弥太郎などは新撰 一向に知りません。 組が仲間にひき入れようとすると、勤王派も味方にしたく て働きかけ、とどのつまりは勤王方になりましたが、賊と いわれて自殺したので、それッきり人に忘れられました。 たかうた ひらがたぐち 女形道中 黒駒の勝蔵は奥羽平潟ロの総督四条隆謌さんの親衛隊長 で明治元年十二月に東京に凱旋し、甲州へ帰ってから何の 疑いか入牢となり、牢内で毒死を遂げ、政治の争いに一役 」毋 買って出た、そのため、一服盛って殺さぬとならぬとなっ 衛話が後戻りになりますが、河原町の油屋という家の二階たのだと、黒駒の家に旅人で永くいた番場の久三が、後年 になってわたしに言ったことがあります。黒雲の亀吉は勤 九で、浪士が二人暗殺されたと、噂を、その朝すぐ聞きまし 足たが、それが坂本童馬と中岡慎太郎だということを、聞い 王の集義隊の隊長格で、明治元年に奥州の戦いに出て、凱 たやら聞かぬやら、聞いたにしろ、ほウそうかと言うぐら旋して三河へ帰ったところ、日本の内乱が漸く鎮まったと いう時だのに、明治の前々から、博徒が意地ッ張りでやっ いのもの、どういう人物で、どういう事件やらわたし共は
があいてある、早う行って借りてこい、請人にはおかをに が引越して四日目の朝、それまでのうち、外で物食うてす おかみ 内々でわしがなる」といってくれたので、行ってみると父ませたのが三日目の朝飯まで。昼と晩には隣りの女房さん にたき が下話をして手附を打ってあり賃借証文も入れてありましが深切者で煮焚をしてくれ、それを見ならって四日目の朝 からおまつが独りでやりました。 た。引返してわたしはおまつに、「六波羅に家を借りた故、 ここを今から出る、ここの婆や娘には父が挨拶するゆえ、 父は毎日一度は欠かさず寄ってくれ、小間物屋の店仕舞 お前は頭だけ、よい加減にさげておればよい」と、 いがあるからと、抽出し箱ゃならべ箱の中古を買ってはこ 聞かせるとおまつの顔に、生き返ったような色が出てきまび、仕入れ先へわたしとおまっとを連れてゆき、問屋の番 頭に引きあわせてくれました。わたしよりおまつが熱、し 、、、わる わたしはおかをに悪ッ丁寧にお辞儀をわざとして、「こで、店開きをしたのが二タ月目の十日、父は毎日のように の十日余りお世話さんになりました、いつまでもご厄介か来て手伝ってくれました。開業の日から三日間は、父にい けるでもないと、六波羅に小屋同然の家一ッ借りました、 わせると、思ったより売上げが多いそうで喜んでくれたの 只今までよう面倒みてくだされました」と、切口上でやっ が、四日目からは、さッばり売れなくなりました、という てやりますると、若僧のわたしからはじめて聞く調子のものが、店開きの二日間は景品つきだった、そのため売れた ド肝を抜かれたのか、「さよかさよか」とばかのでした。売れないといっても、遊んでいるよりはい、 ものび りです。わたしもおまつも荷物というのはない、身軽いもで、暫くやっているうちに、物日物日にわたしがホシミセ あき ( 露店 ) を張ることになりました、この方は出さえすれば出 のです。小さな風呂敷包が二ツ、それだけ持って惘れてい るおかをを放って置き、雨あがりのその日すぐ、建仁寺のただけの儲けがありましたが、こちらを若僧とみてならず あなど そこ 家を出ました。 者が侮る、侮られるとむかむかとするから、「おい、 小そうてもわが家、生れてはじめて女と二人だけの家だの横へきてくれ」とか何とかいって、喧嘩をやる、「俺の けに、、いはいそいそ何につけても楽しいが、所帯道具は一身状は仔細あってあかされんが、尋常でないと思うてかか ツもないので、箸茶碗から鍋釜など買い、米味噌醤汕も買って来い」とか何とか、ロも達者ですが、喧嘩のテも知っ ったが、米を研ごうとするとその桶がない、木炭と薪は買とりますので、負けたことがない、そうなるとその日の商 つけ おはち 売はワヤです。こうして露店の方で顔が売れたころには うたが附木がない、飯櫃は買ったが杓子を買いわすれた。 むこ ひと通りどうやら揃うて、膳に向うて二人で、飯くうたの商売に身がはいらず、家の方の売上げは知れたもの、ずる みじよう ひき
ずると元も子も食い減らし、じりじり気が苛「ているとこ売歩いたが一向に売れません、これはうまいのだと、なん あっかま ろへ、問屋の店の者がおまつに厚面しく笑談いうたと聞いばい 0 て聞かせても、値が高いから買わんという、「食い て、「品物の卸し売りはして貰うているが、他人の女房に物だからちとばかり高うてもうまい方がええはず」と、ロ を酢くしていって聞かせてもわからぬ、夜店でもおなじこ いらざる卸し売りを頼んだおばえはない」と怒鳴り込み、 みせうり 摺 0 た揉んだの末、顔役が、わたしの家へ二度も足をはこと、店売も同様、一ト塩だから日がたっと味が落ちる、仕 び、「不始末した手代はにした、これは気持を清める御方がないから、わたし達二人で食うたが、売るほどある塩 神酒の代り」とい 0 て、金を一両出しました、これでこと魚は二人では食べきれんので、隣りのおばさんや何かに残 りはくれてしまった。 が済んだと思ったら京の小間物屋が、そうとはいわぬが もうその頃になると、わたし等は貧乏がひどくなりか わたしには品物を卸してくれない、仲裁人のところへその け、拵えてあった着物をおまつが質に入れて米を買う始末 話をも「てゆくと、よく断わられ、小間物屋が出来なく です。父は小間物屋をやるとき、おかをに隠れて力を入れ なりました。 みつ てくれ貢いでもくれましたが、それと勘づいたおかをが、 そのころ知合いになった浅吉という者のすすめでセンパ 師をはじめました。センパ師というのは桃とか柿とかナッ姉娘に肘鉄砲をくれたわたしよりもおまつの方が憎いそう メとか梨とかを、農家へいって木になっているうちに、見で、むずかしい機嫌でいるので次第に足が遠くなり、わた 込み次第に値をきめて内金を渡し、モギ頃に残金を渡してしがセンパ師の真似ごとをやった頃は滅多に姿をみせず、 引取り、売捌くのですが、どれくらい落ちてどれくらい採塩魚売りとなった頃は全く疎遠になりました。 わたしもやつれた、おまつもやつれた、といったところ れるか、見込みで勝負するのですが、儲かる儲からぬは、 その後の天候によります、それを浅吉と五分五分のノリでで二人とも若い若い子供あがりですから、所帯の苦労はあ 悔やりましたが、外れに外れてこれがまた損、その次にやつるものの、そんなことは忘れて子供あがりらしい遊びに、 衛たのが塩魚を売ることです。家でも塩魚を並べておまつに貧乏は、だれがしているのか忘れてしまう晩ばかり続い 尾売らせ、わたしは天秤棒を肩に、昼のうちは市中を売り歩た。とはいうものの遊んで食えるものではないから、も一 度何をがなと目をつけたのがナツメで一儲けと、知合いを き、夜は四条五条の夜店に出ました。 わたしは値はちと ~ 〔回いが、 一ト塩ものがうまいので好き辿ってナツメ五斗を、無理算段して買って、今までも使う ですから、うまい物なら他人も好きな訳だと、一ト塩物をた鯨汕の灯道具をもって、四条寺町へ露店を出したとこ たど