二人 - みる会図書館


検索対象: 長谷川伸全集〈第9巻〉
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1. 長谷川伸全集〈第9巻〉

した。午後一時ごろ欝陵島近くまでくると二隻の日本駆逐信大佐 ) とが海防艦ゥーシャコフを追いかけた。司令官島 艦が現れた、それまでも提督は意識をときどき失いっ恢復村速雄少将は磐手に座乗していた。 はしたものの昏睡に又も陥っていた。 二十八日午後五時三十分、戦いとなって二十八分間でウ 午後三時二十五分、日本駆逐艦はペドウイとグローズヌ ーシャコフが沈黙し、八分間もすると沈没しかけ、三分間 イを追って射程にはいるとすぐ、第一回の射撃をやった。 で沈没し去った このことをウーシャコフ乗組の従軍僧 グローズヌイはグングン去って行き、ペドウイは進行を停の談話 ( 『水交社記事』、明治三十八年十二月刊 ) では、ウーシャ 止し、コロン参謀長の命令で「我は重傷者を有す」と信号コフの艦長は、降伏を勧告されたがその返答を砲火でし を掲げ、それと共に軍艦旗を引き卸して白旗と赤十字旗とた、交戦の結果、艦は大破し最早どうにもならなくなった さざなみ を掲げた。日本の二隻の駆逐艦とは、漣 ( 艦長相羽恒三少佐 ) ので、乗員をすべて海へ逃がれさせ、艦長自らキングスト かげろう と陽炎 ( 艦長吉川安平大尉 ) である。 ンを開き、艦を海底へ送った。乗員四百名のうち、日本人 陽炎はグローズヌイを追った。彼は北をさして、ついに に救われたるもの約三百二十名、死せるは八十名ーーー磐手 すがたを消し去った。 と八雲はすぐにライフポートを出し、約二時間かかって三 漣はペドウイの降伏を受け、伊藤伊右衛門中尉等が行百三十九名を救助したという記録がある、今いった従軍僧 き、意外にもロジェントウスキー中将が重傷で乗っているはその中の一人である。 のを知った。相羽艦長はペドウイの武器兵器に当座の処置そのときの挿話にこういうのがある。海から引きあげた をくだし、将校四名を漣に移乗させただけで、ペドウイをロシャ兵を、二人の日本水兵が中に挾んで、舷梯から介添 つれて蔚山に向った、ペドウイには中将と幕僚七名と艦えしてあがらせ、後甲板に達すると、そのロシャ兵が嬉し 長、それに下士官兵七十七名がそのまま残されたのだっ かったのだろう、片手を放し、両手を一人の日本兵の首に ンス た。と、途中で明石 ( 艦長宇敷甲子郎大佐 ) に会ったので、べ巻いた、接吻する気だった。前にいったドミトリート ドウイの曳航を託し、漣は護衛に任じ、一路、佐世保に向コイの副長プローヒン中佐が、重傷のレベノフ艦長に代っ っ・ ) 0 て日本艦隊へゆくとき、中佐は艦長に接吻したので、これ を見ていた日本の中尉が、ロシャでは男同士でも接吻する のだと初めて知ったということがある、だから喜びきわま ◇ いわて

2. 長谷川伸全集〈第9巻〉

178 六日 ( 明治三十八年 ) 、旅順口外テースタフキ島付近で繁栄正木大尉からこの時のことをいうと、秋山参謀が説く要 丸を敵艦に撃沈され海の中を泳ぎ廻っているところを敵艦点は、今度の閉塞は逸らずにやれ、捕虜にされる決心でや に救われて、セパストボーリ監獄に収容され、四月十九日れである、云うところはそうだが、言葉の陰にあるものは いけどり はじめて訊問をうけた、それまで独居房であったが、訊問捕虜になれである、敵の手に生擒されるくらいでなくては がすむと他の日本人捕虜と一つところに入れられたとあ成功は難しいというのである。斎藤七五郎大尉はああいう る。 人物だから、国のためなら自分の不名誉などは敢然として 忍ぶだろうと思ったので正木大尉は、「捕虜になりましょ ◇ う」と返答した、すると秋山参謀が、「斎藤は捕虜になる 旅順港ロ閉塞のこの事件の最後に、一つの話を加えておといった、君も承知してくれたので、安心した」といった 、大正十五年 ( 昭和元年 ) の夏、斎藤七五郎海軍中将が歿 が、「広瀬も」とはいわなかった。広瀬武夫少佐は一死報 なら した、その葬儀場で、正木義夫海軍中将が霊に弔辞を捧げ国の手本をみせれば、これに倣うものが続々と必ず出てく た、その弔辞から得た材料である。旅順閉塞のときこの二ると考えている人だったから、捕虜にはならぬと答えたの 人とも大尉で、第一回のとき暗夜の海上で敵の砲火をあびだろう、いや確かにそういって頑張ったのだ。この秋山・ たものである。 広瀬の問答は、広瀬少佐の乗った報国丸の栗田富太郎大機 閉塞第一回が失敗したので第二回をやることに決し、い 関士 ( 後に少将 ) が知っている筈だ、という。 この正木義夫提督の弔辞は『斎藤七五郎伝』 ( 寺岡平吉、 よいよ明夜決行という日、東郷平八郎司令長官についてい た参謀秋山真之中佐が、今度又ゆく閉塞船の指揮者を訪ね昭和三年刊、斎藤七五郎伝記刊行会本 ) にある。 て廻ったことがある。天津丸の有馬良橘中佐は閉塞作業の だが、栗田富太郎少将は閉塞決行の追憶を語っても、そ こまでは云わなかった、たとえば当年の島崎中尉といっ 主唱者で、前にも行ったし今度も行くが、秋山参謀が何と いったか有馬中佐が何と答えたか、知るべくもないから別て、このことに関与した人に語ったところもやはりそう のこととし、報国丸に乗ってゆく広瀬武夫少佐・弥彦丸ので、第二回閉塞のとき、秋山参謀が広瀬少佐を訪ね、この 斎藤七五郎大尉・米山丸の正木義夫大尉、この三人をそれ前のように敵の砲火が激しくては容易であるまいから、今 ぞれの船に訪ねた。広瀬少佐・斎藤大尉それから正木大度もそうだったら、むしろ退いて、再挙をはかる方が万全 尉、こ、フい , フ順だった。 の策かも知れぬといったところ、広瀬少佐はこれを否定 はや

3. 長谷川伸全集〈第9巻〉

撃なるか本船 ( 注常陸丸のことをいう ) の発砲なるか、 の木村平三郎無電局長もろとも撃破した。この二発を末次 安全弁のド声と、汽機運転の音響のため、その判断には一発であったかの如くに聞いた。とはひとり末次だけで なく、そのとき近くにいたものの大抵がそうである。 苦しむ。 折柄、一発の砲弾わが煙筒に命中す。全速カ後退の命船長の「ポート卸せ」の命令は、とっくに下っていた。 令 ( 午後二時三十七分 ) 来たる。次で汽機停止の命令 ( 午後二時四十一分 ) 来たる。想うに英国仮装警備艦の本船尾の洗濯室を粉砕されたとき、不在であったので助か 船を臨検せんとするに当りて、信号の誤解か、或いは った洗濯係の藤村喜之助は、ポート甲板の中央にある喫煙 不通のため、数発の威嚇砲撃後、已むなく一発の命中室の脇で白い服を血に濡らして、両手と両足を拐ぎとら 弾を送りしに非ざるか。 れ、首と胴体だけになって生きていた。その近くに三、四 然れども、三等運転士の甲板部秘密書類を持参するに人の即死体がある中に、苦痛をうったえながらも、「残念 及び、初めて敵艦なるを知り、事態の容易ならざるをだぞ」と連呼し、自ら勇気づけているものがある、今し 方、機関室から制服の上衣を胸先に抱いてあがってきたば 知る。同書類は完全に艫中に焼棄す。 かりの二等機関士 ( 次席 ) の嘉屋末といって、二十八歳の山 煙筒に砲弾命中するや、安全弁排気管に損傷を受け、 その噴声に異状を来たせしも、罐内気圧に、煙筒下部口県のこの人も、両手と両足を撈ぎとられたも同様になっ に於ける下水水漕管に損所を生じたるものの如し、水てはいたが生きていた。 は熱湯と化して雨下するを見る。 横浜を出港するとき、賄方倉庫のあたりで、日露戦争の 末次内蔵一は船尾甲板が血と死体と火と煙りの修羅場に ときロシャの浦塩艦隊に撃沈された常陸丸 ( 一世 ) の琵琶歌 - なったので、そこに吊ってある四隻のポートを卸すことがを口にしたものがあるのを聞きつけ、船出にあたって不吉 丸出来ないので、中央のポート甲板へ駈けていった、船長がなと腹を立て、おれは四十一で前厄だから気にするといっ 常「ポート用意」を命令したのを知っていたからである。ポたポーイの大野寅一が、煙筒の左舷側の大破口の下で、頭 洋ート甲板へもう少しであがるというとき、敵の砲弾が一を砕かれて死んでいた。 印発、その通り道に近くいた人と物とをフッ飛ばし、煙筒を そのときは負傷者の介抱や死体の処置など、だれにもま 右舷から左舷へ貫通し、蒸気と熱湯とを噴き出させた。続だ出来ずにいる。 いて又一発が、やや角度を異にして無線電信室を、執務中

4. 長谷川伸全集〈第9巻〉

あった。この詩人僧の話で、小型帆船にいた島民の話が整と商標のある福神漬の空箱と、水に浸っていたらしい西洋 理されて、おおよそ次のような事実に間違いないと思われ食料品の空箱と「鳳凰印煉乳」「発売元明治屋」と文字の ある空箱とが、発見された。三箇のこの空箱はこの島のも てきた。 ハラジュ島の島司 のが拾った漂流物でなく、カンジュ・ 「三カ月前ですから昨年十月下旬です、このガン島と、ニ ランジュウ島・ダンジュウ島の海峡に、国籍不明の汽船一一が、この島のものにくれたのだという。 ところが、水びたしになっていた空箱が、日に照りつけ 隻が前後してはいって来て、ダンジュウ島附近に碇泊しま した。一隻は砲撃のアトを修理していましたが、修理にかられて水気がかわくと、その裏側に白い塗料で、「ヒタチ かっている人たちは西欧人で東洋人の姿は全くありませんマルサンゴトウ」と書いてあるのが見えてきた。「常陸丸 でした、二隻の船のどちらかが飛行機をもっていて日毎に珊瑚島」と判読すべき片仮名の文字である。 飛ばせていました。遠方まで飛んで帰ってくるらしく、そ それから六十海里南下してダンジュウ島へゆき、島司と 島の医師とに会い、その助力で、自動艇をつかって近くの の飛ぶ方向も日毎にちがいました。二汽船の碇泊は十日間 ぐらいで、一隻がまず去り、それから二、三日してあとの海辺を探索したが得るところはなかった。 島の医師はわりに要領を得た返辞をするので、これから 一隻も去りました。どちらの汽船も、西口から出ていった ので、マダヴィリ島北側の海峡を通っていったのです」 先の搜索に同行してくれないかと頼んだが、厭だと、刎ね このガン島には常陸丸の漂流物らしいものが拾われてい つけはしたが、モルジュープ語で書いた次のような紹介状 た。三枚の鎧戸の扉、その扉からとり出した三個の大砲のをくれた。その文句は「この人達は善い人達であるから、 弾片、日本の下駄片足。一枚の板、これには黒褐色のもの安心して会うがよろしい。 この人達は善い人達であるか が付いている、血かも知れない。一個の日本の炭俵。一冊ら、問われたら本当のことを語らなくてはならない」とい 丸の法政大学講義録。真鍮の扉用の錠前と螺旋釘などであうようなものであった。 常る。 この島のものは、例の二隻の汽船のことを知っていた。 の 洋その翌日は、もっと南のカンジュ・ ハラジ = 島で、木製或る者は東からここの海峡へはいってきた二隻を見たとい 印の腰掛を島民から見せられた。漂着物だったその板には、 う。或る者はデワジュウ島にいた一隻は十日ばかりでいな 横浜三ッ鱗印」と「松茸四打入」という日本字があった。 くなり、もう一隻は十四、五日いて見えなくなったと聞い 南へ又いってマワル島 ( パール島 ) で、「東京池の端酒悦」 たという。又、或る者は空を怪物が飛んだのは三日間だと

5. 長谷川伸全集〈第9巻〉

それを手にとって食べるものもあるが、それよりは指も動 五 かさねば眼もひらかないものが多くいる。そういう患者の 黒。ハンはそのまま、暫くのうちは残っているが、しかし日 ここへ来て十日ばかりしてから、ウォルフ号以来の外国 本人捕虜が、向うの端まで掃いてゆき、引返して来たとき人捕虜が、十名か二十名ぐらいずつどこかへ連れ去られ は、残っていた黒パンが悉く消え失せていた。だれかが、 た。知らないうちにいなくなることもあり、別れの挨拶代 こっそり盗んで食べるからである。常にこれが繰返されてりに遠くから手を振って見送ったこともある。 いるのだから、重症者となると例外なしに餓死へ足早にな 二週間あまりたった日のこと、呼出された数名の日本人 って ~ 打ってしま、つとい、つ。 捕虜が、広場に集められ、その場からすぐ出発を命ぜら 極端な前線第一主義を断行しているドイツなので、死者れ、あたふたと我が荷物をとりに行くのがやっとこさで、 の扱いにも物資と労力を節約していた、たとえば死者の埋グストローの戦争罪人収容所をあとにした。護送してゆく 葬にあたって火葬はやらず、棺箱かその代用品は勿論のこのは三名のドイツ人で、一名は下士官、二名は兵卒であ と、カンパスにも茣蓙にも包まず、病棟からトロッコで搬る。 んできたそのまま、深さ五尺ぐらいに掘った穴へ並べて土 グストロー駅から列車に乗せられた、この一行は次の人 たちであった。 をかぶせ墓標を建てる、その墓標は粗末な木の十字架で、 それに死亡した年月日と、国籍と、師団と聯隊名と、それ杉浦淳一一 ( 四十歳事務 ) 佐々木謙一 ( 三十二歳事務 ) から姓名と年齢とがペンキ類似のもので記される。 鈴木松太郎 ( 三十四歳事務 ) 上田元助 ( 三十歳甲板 ) 日本人捕虜がここにいた約二週間のうちに見た、ドイツ海津金作 ( 三十歳事務 ) 末次内蔵一三十九歳甲板 ) 側がいう戦争罪人墓地の十字架は、管理するものがないか山下仙太郎 ( 二十九歳甲板 ) 角谷信一 ( 二十九歳事務 ) 丸らだろう、風雪に痛めつけられっ放しになっているので、豊島清三 ( 二十八歳事務 ) 堤円三 ( 二十八歳事務 ) 常風に飛ばされてなくなったのもあり、倒れて入り乱れてし小沢正二 ( 二十七歳事務 ) 吉田善太郎 ( 二十六歳事務 ) 洋まったものもあり、文字が消えて判読すら出来なくなって野中慶一 ( 二十二歳事務 ) 髭源次郎 ( 三十九歳事務 ) 印いるのもあった。ここでの理葬は一日に七体ないし八体で このうち、佐々木・上田・髭の三人はおらず、氏井兵一 あるから、日本人が移動を命ぜられた後でも、この墓地は郎 ( 二十九歳山形県 ) がいた、という記憶をもつものがい 日毎に墓標を建て、日毎に墓標を失っていたことだろう。 る。前の説だと十四名、後の説だと十二名、となる。

6. 長谷川伸全集〈第9巻〉

し清正が不承知であったら、嫡子は秀吉公のところへ差しと、日本離脱の事情を記してはいる、その通りだとすると いだし、女は豊後臼杵のわが城に呼びとって女とするとい妻子を祖国に残し、単身で海外に奔ったものとなる、或い なかだ うのだった。越後守は、「昼夜の戦いの媒ちとなりて、妻はそうでなくて前の文禄の役に捕虜となり、明軍の起用す うるさん 子の行末まで承わりしことよ」と喜び、「もしもこの事漏るところとなったものかも知れない。正月三日に蔚山城近 くに来た三人も、又それとおなじ運命だった人だったろう れ聞え、車裂きの大難といえども本望なり、向後お目にか かるまじ」と別れを告げて去った。岡本越後のことは『再か。 造藩邦志』に、「舌官朴大根及び降和越後をして城下に招 ◇ 諭せしむ、敵答えて日く戦わんと欲せば戦え和せんと欲せ ば和せよ、一面を開いて我が城を出ずるを容れよ」という森鵐外の『佐橋甚五郎』という史伝小説は、慶長十二年 もと 記事がある。同書は申麗華隠という朝鮮の人の編著で、源 ( 西暦一六〇七年 ) 五月二十日、家康が駿府の城に招いで会 せいわし を『征倭志』に発し『懲毖録』を取り入れたもので我が慶った朝鮓使節は、呂祐吉・慶暹・丁好寛と、上々官という 地位の金僉知・朴僉知・喬僉知の六名で、随従のものを入 安二年 ( 西暦一六四九年 ) 十二月の著である。 さて翌三日になるとこれも日本人らしいのが明軍の使者れると二百六十九名の一行だった ( 林春斉は一行を四百六人と 数え、幕府と家康が一行に贈物したのは三百三十一人分である ) 。 で来た、会見に出られる日本軍主将を迎えにきましたとい う。茂左衛門等三人が例の如く会い、会見の約東をした一一一そのうち首席の呂祐吉から喬僉知まで六名に家康が会った ことを書いたものだが、六名が退出すると家康は、広縁に 人の主将のうち二人が病臥してしまい、一人だけではどう いた三人目の男をだれぞ憶えているかと左右のものに尋ね かと思う、それに軍兵悉くが停戦で気を抜かし、風邪をひ いたものも多いので今日の約東を延ばしたいと答えた。軍たが、だれも知らなかった。すると家康が、あの男は天正 使が帰ると間もなく明軍の攻撃が猛烈に起った。これから十一年 ( 西暦一五八三年 ) に浜松を逐電した佐橋甚五郎だ、 逐電のとき二十三歳だったから今年は四十七になっている 後は蔚山城外に明軍が敗れ囲みが解けた、と記事が続く。 因に大河内茂左衛門はその年三月、小早川秀秋が日本に召といった。それは喬僉知のことだった。この朝鮮の一行は 六月十一日大阪から乗船帰国した。佐橋甚五郎のことは家 還されたとき随って帰った。 さるにてもこの「朝鮮物語』の岡本越後守は、「われ一康の意志で不問に付された。鵐外の付記にもあるがこの材 度御不審を蒙むり遠国にかく奔れる身なりといえども」料は『続武家閑話』から出ている、同書は木村弥十郎 ( 高

7. 長谷川伸全集〈第9巻〉

ていて間もなく死んだ。貞任の子は千代童といって十三寛治元年 ( 西暦一 0 八七年 ) 十一月十四日、陸奥守として あわれ 歳、頼義は憫んで助命したかったが味方の有力者清原武則赴任していた義家は、反逆の首魁の一人である清原武衡を おうさっ の反対にあって、ついに斬らせた。貞任の弟の宗任が降伏攻め鏖殺戦になった、後三年の役のこれはクライマッグス し八幡太郎義家の家来になり、後に筑紫にいったことは人である。ときに武衡は味方のほとんどが斃されると、池の に知られている。義家が宗任を信じきっていて、女に通う中へ逃げ、枯れ草をかぶって潜んでいたが、見付けられて えびら 夜の警戒をすっかり任せたとか、鏑矢をうしろから箙にさ捕虜となった。義家が命じて武衡を斬らそうとすると、義 させたとかいう逸話は、頼義に供をして京にはいった宗任家の弟新羅三郎義光が命を助けてやったらといった、義家 えびす を、夷なりと軽侮した宮廷人が梅の枝を手折って、これは は「逃げ廻って探し出されて捕えられたのは降人でない擒 何かとからかったところ、宗任は「我が国の梅の花とはみである、斬るべきだ」といって斬らせた。降伏と逃げ隠れ つれども大宮人は如何いうらむ」とロ吟して鼻あかせたとて捕虜となったのと、そんな風に義家は差をつけていた。 いう伝説と共に有名である。宗任はそんな風であったがそ ◇ の義理の兄弟で、おなじく捕虜であったが、形勢につれる 便乗主義で、節度のない藤原経清は鈍刀で首を斬られた。 保元の乱 ( 西暦一一五六年 ) のことは、『保元物語』など 捕虜は宗任だけでなく、安部正任・家任等五人で、家族やでその経緯を知ってもらうとして、父なる源為義と子なる 従者がそれぞれ一緒で全部では・三十七人、その内六人は女義朝とは敵味方にわかれて戦った。義朝と同志の平清盛も だったようである。 また叔父の平忠正と敵味方にわかれて戦った。戦後、横川 空をゆく雁の列がみだれたので伏兵があると知った話のあたりに潜んでいた為義は、子の義朝を頼みにして自首 は、八幡太郎義家の有名な逸話の一つである。それは後一一一して出でた、と知って忠正も甥の清盛を頼みに自首して出 年の役のことで、その有名さは前九年の役のとき衣川の柵でた。だが、清盛は宮廷からの命令を幸い叔父を六条河原 に敗れて落ちてゆく貞任を追いかけた義家が「衣のたてはに曳き出して斬った、このために義朝は二度まで父為義の 綻びにけり」と呼びかけたら、貞任が振返って「年をへし命乞いをしたが赦免なく、大きに苦しんだが、ついに父を 糸のみだれの苦しさに」と付けた、義家はもう追わなかっ斬らせた。その他に生捕りになって斬られ、自首して出て たという伝説とおなじくらいだ。義家の執った捕虜始末は斬られたものが少くない。義朝はおのが心を疑われまいた 秋の霜と春の風と二面であった。 めか、兄弟を幾人も斬らせ、七歳の幼い弟までも斬らせ

8. 長谷川伸全集〈第9巻〉

門が一名を組伏せ、お見届けくださいオロシャの大将を生 た「魯西亜人七名・ラショウ人一名」のうち、「衣服紺羅 紗、襟に碇を金糸にて縫いつけたるを着し、剣を帯せり、捕ったりと呼わったので、奈佐が見届けたと答えた、しか 碇をつけざるもの二名あり、碇をつけたるはオロシャ海軍しロシャの大将でなく水兵だった、この南部武士にはそん の総官のしるしなり、左ばかりに付けたるは裨将なり、下な見分けはつかなかったのだ。同、いの桜井啓助が渚に追 しな ってゆくと、一人が剣をぬいて向って来たので、桜井も刀 官は服の品かわりたり。此の方にては蝦夷人を通詞とし、 彼はラショウ人を通詞とす」と『辺警紀聞』 ( 嘉永六年伝写本 ) を抜いた、すると相手が片手で拝んだので斬らずに捕え の著者はいうのである。ゴロウニンのいうところと一番違た。逃ぐるを追ったのは南部の藤井孫左衛門・大矢八藤 うのはこれから先だ、で奈佐瀬左衛門は「唐太・択捉・利改め役村上定治・岩間甚助・下村忠之進、足軽では久井久 尻に乱妨し、米酒等を奪い番屋に火をかけ、さまざまの無助・川村久左衛門・松岡新之丞・佐々木政之丞・中村万兵 礼をなす、今日残らず帰しやり、直ちに出帆なすことあら衛・権太 ( 藤井孫左衛門の小者 ) 、会所の同心では松井カ太・ ば、わが職掌の落度なり、されば相談の間にも一人止まり名鏡儀右衛門・原川次三郎に菊池九八郎 ( 奈佐の家来 ) 、蝦 、、、「奈佐問うて日く、 夷通詞利右衛門・番人与左衛門・与右衛門などであった、 て偽りなき意を顕わすべし」としし けらない 番屋の米を奪うは如何」と、こは螻向岬の番屋からデアー南部の足軽の多くは、あまり役にたたなかったという。こ ナ号の乗組員が持ち去ったものを指していったのだ。「答の一時的混雑のうちロシャ側の射った弾丸一発が、蝦夷人 えて日く、奪うに非ず借りしなり。奈佐日く、吾が邦にはの群れているところへ飛んできた。これがゴロウニン少 人に諮りて後に借る、諮らずして取るを奪うという。彼の佐等の捕えられたときの日本側からいうところの有様であ ふさ る。こういうことの常で双方のいうところに相違がある。 語塞がる」とある。これからロシャ人等の顔の色が変り、 奈佐瀬左衛門はゴロウニン少佐等八名を、泊から四里の 卓の上の酒をこばし、魚を食うことをせず、あちらこちら 篇 見廻しなどしていたが、急にわッといって一同で逃げだしオペトカの番屋に送り、役所の文書や金銭は二十里先の山 前 志たので、奈佐は上官とみえる一人の肩を、つかんで引寄中へ隠し、デアーナ号の攻撃に備えた。デアーナ号はそれ 、いはいかしら 虜 せ、手にした采弊で頭をうった、とその人がきッと振向と知ったのだろう。海上十四、五丁に来たり発砲し交戦と 捕 本 き、剣を抜きかけたので、その手をとって引伏せると、同なったが、やがて後退した。それからは交戦がなく、睨み あうばかりで二日過ぎた。三日目の朝は深い霧で海上がみ 心がそのロシャ人に折重なって搦めとったといっている。 もや 多分ムール少尉のことだろう。門際で南部藩の藤井孫左衛えなかった。靄がはれた海上にデアーナ号がみえなくなっ

9. 長谷川伸全集〈第9巻〉

への脱走を敢行する気になっていたからである。 兵の監視がゆるやかになり、ときには監視を略すことすら 輸送の途中、よくよく見定めながら行くと、北半島の付ある。 け根のところで、キール軍港から北海のウイルヘルムスパ ーヘン軍港までのキール運河の上に、高い銕橋が架けられ 地主の屋敷は最もいい場所に、最も美しく建築されてい ていて、輸送列車は、そこを渡って北半島へはいっていって、屋敷の右側には使用人の住宅が並び、左側には家畜小 たので、末次は喜んだ。まずこれで運河警備の兵に射殺さ屋と倉庫と、使用人の住宅がある。 れる危険と、運河をわたる冐険と、二つながら不用のこと 日本人は銕道の方の仕事のほかに、農家の手伝いがあ になったからである。 り、地主屋敷の近くで働いたものもあるが、地主やその家 族を見かけたことなく、寝起きしているという話も耳にし おなじ現場に働いていても、日本人は午後になると、大 たことがない。多分、屋敷だけあって、生活はどこかな 型のハンマーが持ちあがらなくなるのに、イギリス人は平地方でやっているらしい 気である、体格の相違もあるだろうが、彼等には少なくと 土地の広大なことは次の一例でもわかるだろう。ある も一カ月に三回の小包郵便が届いて、営養の補給ができる日、農事手伝いを命ぜられて、地主代理人のところへ行っ が、日本人にはそれがなく、ドイツ支給の少量の黒パンとた一と組の日本人が、砂糖大根の収穫地へ歩いてゆき、行 水みたいなスープ少々とだけであるから、現場附近のドンき着いて少しすると正午になった。午後は収穫を地主屋敷 グリの木の実を拾って食べ、野草を食べたが、食べる方がへはこび、取穫地へ引返したら日没になっていた。 激しいので、たちまちなくなったので、野午旁を見付けた ときなそは、喜び余って、歓声をあげてドイツ人たちを驚末次は土木工事の方にいては、脱走の機会を捉え難い 丸かしたくらいである。 が、農事手伝いか水はこびなら、何とか機会をつかめるか も知れないと思っていると、水はこびの番がまわって来た 洋飲料水のないところなので、約四キロある村落にいい水ので、仲間の数名と一緒にやった。イギリス兵は往復八キ 印が湧く井戸があるので、そこへ約一トン半入りの水槽を取ロの水はこびを一日一回しかやらない、あとの時間は途中 1 りつけた車を輓いてゆく水はこび、これをイギリス兵が二で遊んでしまうのである、今まで日本人もそれと同様であ 日間やり日本人が一日だけやる、この水はこびにはドイツ ったが、これを午前一回午後一回の一日二回に改めたら、

10. 長谷川伸全集〈第9巻〉

になった、こは不田 5 議なれと後にて聞くと、我が騎は自分 敵の委員も我が皇室の優渥なるに感佩したりしとぞ、さて 1 この談判の間に開鹹と聞きて、白銀山砲台を守り居りし敵に随い行かざれば、日本の前哨線より狙撃さるる危険あり 兵は、砲台の頂上に登り小踊りに踊って喜んだ、これを見と喚びたるより、彼は頓に我が騎に跟して駆けゆくことと たる東鶏冠山砲台の我が兵も踊りに踊った。各方面の敵はなりしとぞ、さては佐々木梶原宇治川先陣の昔物語を思い 降服と伝へ聞き、めいめいにて我が軍に投降すべきものな出したるかと、聞く者いずれも打笑う」 かん この夜、干大山の麓に高梁の篝火が焚かれ、万歳の声が りと心得、或は一人、或は三人、或は五、六十人、俄かづ くりの白旗を手に、又はハンケチを棒の先に翻へし我勝ち起ると、各隊とも申しあわせた如く篝火を焚き万歳の声が にと我が各隊に投降した、然るに我が各隊にては、名誉あつづけざまに起り、周家屯の攻城工兵廠では大阪から寄贈 る開城をなし、汝等が名誉を保全しつつ退却し得る機会はの花火をうちあげ、万歳の声、天地も崩るるばかりだっ 目前に迫って居るのだから、決して無残に降服すべからずた。鳩湾地方の最右翼軍の兵は、十日ブッ続けに苦闘した とて、何れも礼を厚くして返し去らしめた、何んと武士のものとて、万歳の声を聞きて開城を知り、いずれもわッと 泣いて喜んだという。だが、敵の中にはすばらしい意気の 情を解したる消息ならずや」 「さて又た会見所の外にありたる我が兵士は、彼の九騎をものもいて、「我が前哨線に来て、我が軍 ( 露西亜 ) は降服 見て相互に好々 ( お前は好きだ ) とか、不穀本 ( 嫌い ) とかするとのことなるが、われわれ等はフォーク将軍 ( 旅順ロ いえる片言の中国語を使用しては、ウォッカ酒を注ぎ与え要塞防禦委員長 ) の部下なるにより、決して降服は致さぬ、 たるに、彼等は喜びて呼吸もっかずに一呑みに呑み乾し、 予めこの儀を御届け申しあげ置くという者もありたるが、 思い思いにうち興じ居ける折しも、彼方より一人の通弁人その無邪気なると健気なるとは如何にも可愛し」と、志賀 出で来り、日本語もてくさぐさの事を物語りたれば、我が はここでも敵の心事を快しとしている。 敵味方解けて先きだっ涙かな 兵には敵の二騎の対話せるを見、彼等は何をいい居るかと 志賀矧川 そのときの句である。 問うと、通弁は笑って、おれはまだ二カ月分月給を貰わぬ とコボシ居るなりと答える。たまたま我が一伝騎が敵の一一当時参謀長伊地知幸介少将の許にあった津野田参謀大尉 伝騎を送り行ける中途にて、この三騎が竸馬を始め我れ先の「斜陽と銕血』から、補足を追記してみる。 になり彼れ先になり又先になり後になったりしける内、俄一月一日の午後三時半頃から四時までの間に、第一師団 かに敵の二騎ともに我が騎の後に随って襲足して行くよう司令部から、水師営の南方わが堡塁前に敵の軍使来れり