か、少なくとも日本商船の乗組員は、船客のために、積荷船艙のハッチの上に置いた。この機はウォルフ , ン ( 小狼 ) の関係者のために、船会社のために、乗組員の父母・妻号といい、飛行距離一一百五十浬である。ウォルフェン号の 子・同胞のために、当然のこととして遭難位置の打電をや右にも六吋砲と水雷発射管とを据え、ウォルフン号の真 うしろにも小口径砲を据え、四番船艙の右には水雷発射管 ります」 と六吋砲とを据え、左にもおなじく水雷発射管と六吋砲と 艦長はロ許を少し綻ばせて、この船長をつれて行けと、 を据え、船尾には六吋砲が一門、海に砲口を向けて据えら 片手をあげて、傍らに起立している捕獲士官に合図した。 富永船長は促がされて船橋を去るにあたり、艦長の脇にれてある。そのほかに機関銃があり、小銃のごときも勿論 少なからずもっているようであった。 いる舵手の胸間にも、勲章の略緩があるのに気がついた。 彼のドイツ士官の胸間にも、勲章の略緩があるのを、今に ウォルフ号の艦長はナーゲル・コル・ヘッテンカフチェ なって気がついた。 ン・ウント・コンマンデントといって、海軍少佐である。 四 商船乗りの経験が豊かだろうと思われる節があった、たと 一九〇七えば後部の四番船艙にいる、撃沈船の乗客と乗組員とで約 ドイツのこの仮装巡洋艦はウォルフ号といし 四百名中の老人と子供と婦人に対するちょっとした態度 ンザ汽船のワハ 年 ( 明治四十年 ) に進水したプレーメル・ハ トフェル号というドイツ商船を改造したもので、船齢はこや、ふとして出た言葉に優秀な商船乗りであることと、善 のとき、十歳とちょっとである。五千六百トン・速カ一三意にみちた人柄とが出ることたびたびであったという。 半浬で、主なる武装は、五十口径六吋砲二門・短口径六吋ウォルフ号は一九一六年 ( 大正五年 ) 十一月二十九日、ド ーヘンを出て、翌年一月下旬に喜望 口径四門・二十口径水雷発射管四でイツのウイルヘルムハ ないし五吋砲四門・小 あるという。ただしこれは遭難から半カ年の後に、ストッ峰にあらわれ、二月下旬には印度洋に出没して、コロンポ とポンべイの沖に多数の水雷布設をやり、アラピア海を巧 グホルムから東京へはいった報告によったものである。も う一つこれを的確にいうと、司令船橋の眼下に一番・二番みに巡航しつつ、印度以東からスエズ、又はアフリカ経由 の船艙がある、その右舷に六吋砲・水雷発射管・六吋砲との航路についている汽船を狙いまわった。 イギリス汽船トルテラ号が、一九一七年 ( 大正六年 ) 二月 この三つを据え、左舷もおなじく、六吋砲二門のあいだに 水雷発射管を据え、船の後部には水上飛行機一台を、三番二十九日、ウォルフ号の最初の餌食にされた。トルテラ号
いよいよここにおいて、即死者十三名の死体を本船にのこ定槌公使の報告では、即死及び負傷後死亡十二名 ( 運転士 一名水夫六名オイルマン一名料理人二名食卓係給仕一名 芻し、常陸丸を敵手に渡す。感慨無量なり」 右の文中に「本船に残りしもの五名」だけが、船長と一洗濯夫一名 ) となっている。内田瑞典公使の報告より遅れる ト汽艇こと十二日、日本郵船ロンドン支店が東京の本社へ報告し 緒に敵艦につれてゆかれたように書かれているが、 ( のほかにポート一隻の曳き船があり、その方に負傷者の木た中に、「乗組員十四名・乗客二名が殺された」という意 村無電局長外三名、或いは四名が乗っていたのである。木味のことがある。この三つはいずれも、常陸丸遭難の翌年 村局長は常陸丸の甲板で、暑熱を避けた洋傘をもってきて二月、ドイツ海軍の捕虜から解放された七十二名の船客 と、常陸丸乗組の一名とから出たものであるが、それぞれ いて、日除けにここでも使用した。負傷者だけにこれで、 違った数字になっている。約二十年後のドイツ本『七つの 苦痛をいくらか和らげ得たらしかった。 末次内蔵一はこのポートに乗っていた。先刻、常陸丸で海にての戦闘』 9 ッシ = 海軍少佐等 ) は「砲撃に斃れたるも 拾った嘉屋末二等機関士の制服の血染の片袖を、今もパンの十六人」といっている。 ドに挾んで保管している。強烈な日光の下だけあって、血宮崎匡三等機関士の手記では、「敵弾により死したるも なまぐ がかわいて異様に腥さいが 、しかし、幸いに嘉屋が命をとの十三名・負傷十数名、忘れられぬ日となる」となってい りとめれば、これはこの上なき遭難記念物になると思ったる。富永船長の書いたものは、前にある如く、「即死十三 名の死体を本船にのこし」である。 から、あれからずうッと持っていたのである。 敵の小汽艇が、常陸丸から離れたのは午後五時三十八分右の短い記述は二つのことを含んでいる、一つは、消息 である。船長が最初の非常命令を発したときから三時間ばを二年越し絶っている常陸丸に関し、ストックホルムその 他から次々に、かなり事実を明らかにったえた報告が、東 かりたっている。 京入電となるまでに、六カ月という日子がたっていたこ 常陸丸に残された即死者は、デンマルグ在勤のイギリスと、もう一つは、遭難目撃者と遭難者とで七十数名のう 武官が聞きこんだところでは即死十名・重軽傷数名というち、何人かのものが語ると、めいめい似ているようで違っ たことを語っていることである。 ことである。これがイギリス側から日本側へ知らされて、 ドイツ仮装巡洋艦による砲撃で、即死したものは次の如 ストックホルム発で大正七年 ( 一九一八年 ) 三月九日、わが 外務省の入電となった。それより七日後の瑞典にいる内田く、船客二名・乗組員十一名、併せて十三名である。さす
常陸丸をはなれた。四隻のポートの人たちは、敵に捕えら洋だとて必ず助かる、と確信をもち、気力をふるい起し れたくない、どこかの島へ漕ぎつけたいのである。 て、鼻からはいる海水と苦闘した。 敵艦はランチを飛ばし、ポートを漕ぎ、常陸丸と四隻の 豊島には又こういうこともある。満期のとき再役をすす だほ められたが、除隊をもとめて日本郵船の海員となり、アメ ポートとにむかっている。彼等が常陸丸を拿捕する気か、 撃沈する気か、判断の付けようがないが、乗客と船のもの リカ航路の船にのせてもらった。彼はアメリカに船が着い を捕虜にするつもりである、その現れは、四隻のポートをたら逃亡し、アメリカで身を立てるという野心をもってい 急追しながら、何やら命令をあたえている様子に出てい た。彼が乗ったのは常盤丸で、サンフランシスコに入港し る。 たところ、そのときは排日熱に眼のいろを変えているアメ しかし、それとは別に、波のうねりに見えっ隠れつの豊 リカとアメリカ人とであったので、日本と日本人は目の敵 島清三は、味方の眼にはもとより見えず、敵方の知るとご にされて、常盤丸の高等海員 ( 役員 ) のうち、ごく少数だけ ろともなっていない。 しか上陸を許されず、そのほかの乗組員は、武器携帯の七 豊島は疲労しきって、海水が鼻の穴へはいって来た。こ人の警察官でスキ間なき監視の下におかれた。 うなれば溺死はやがてほどなくである。こうした経験は二 七人の警官のスキを狙って豊島は、夜、ひそかに海には 度目の豊島である。 いったが、たちまち発見されて引きあげられ捕えられた 彼は明治四十五年 ( 大正元年 ) 度の主計科の水兵で、欧州 が、豊島は誤って海に落ちたといい張って挺子でも動かな 戦争が世界大戦に変ってから、乗っていた軍艦香取からサかオ っこ。彼にしてみれば、明朝早くここを出港する常盤丸 イバン島攻略の陸戦隊に編入されて、攻略戦闘の第一陣では、機関に火がはいり、スクリューも動かせば動くよう 率先して海にはいり、島へ向って泳ぐうち、大きな波のう に、出港準備ができていたときだけに、この夜をのがした 丸ねりに巻きこまれ、何としても鼻の穴から海水がはいり、 らアメリカ潜入の機会はないと思って、海へはいったのだ 常これで溺死するのかと思ったとき、巻き返しのうねりに助っこ、、、、 オカ今いった如く失敗におわった。豊島は誤って海中 洋けられて陸についた。そこがもし珊瑚礁であったら、死かに落ちたものとして、不問に附されたので、往航とおなじ 印重傷かであったろうに運のつよいことであった。このこと く常盤丸で働いて、横浜へ帰港すると、欧州航路船の常陸 引があるので彼は波のうねりの上から沈没せずにいる常陸丸丸が出港の準備中だと聞いて、常陸丸乗組を希望し、横浜 をみると、サイバン島ですら助かったのだもの、この印度で乗ることが出来た。 かたき
トムスクから七露里の尼寺に収容されている百三十二名いたところ、蒙古人に捕えられ清国政府の官吏に引渡され た。清国官吏は森田を拘束しておく形ちで保護を加えた。 のところへ、日本人四十三名 ( 男八名、女三十五名 ) が送り これをロシャ側が知って、初めはコサック兵が来て日本人 つけられた。この人々は黒龍江の支流ゼーヤ河の上流、日 本里数で百五十里のところに日本の男が十六名女が五十一を引渡せと迫ったが、清国官吏が巧みに拒絶して帰らせ た。再びコサック兵が来て役所を取巻き、武力に訴えても 名いた、これらの人々は五月十三日立退きを命ぜられ、乗 れと命ぜられて汽船に乗ったのは四十五名だけで、二十一一日本人を受取るとなったので、清国官吏は折れて出た。森 名は乗らなかった。乗船した四十五名の中からも、二名の田はコサック兵に捕縛され、軍事探偵として厳しく尋問さ 女は朝鮮人の妻だという理由で残留が許され、結局のとこれ、嫌疑は晴れたらしいが捕虜として送り廻され、つい シベリヤにまで曳いて来られたのだった。 ろ四十三名になり、尼寺収容所へ送られて来たのだった。 これら五十五名の人々は船で二十二日ベルミ市を過ぎ、 では、乗船命令に応じなかった二十二名はどうしたかと云 うと、十五名は中国人と朝鮮人のところに変装して隠慝わ二十四日カウトラスに着き、十五名はラーリスグ市に、四 十名はウスチューグに今後ずうっとおれと命令された。 れ、七名は既に出発していたのだった。 尼寺収容所から新旧ごちやごちゃに、四十八名が急にト ◇ ム河の岸に連れてゆかれた、そこには七名の日本人がつれ 北海道函館の小熊幸一郎所有の風帆船第三加悦丸 ( 百十 て来られていて一緒にされたので五十五名となった。 七名の中に金子りきという女がいた、満洲にいたのだ九噸 ) は、船長以下六十三名の乗組員と船主代理の結城新 、戦争になったので単身帰国の決意をし、中国人に変装助が乗り、函館を出て六日」目から風波に流され、四月二十 のし、営口か大連か、どちらへでもその時の状況次第で出る一日、樺太西海岸のウシュロでロシャ人に捕えられ抑留と ゆるや なった。五月十七日までは扱いが寛かだったが、十八日に 本つもりで旅行中に、或る中国人が体を貸すことを条件とし 志て助力しようと申出でた、それを拒絶したところ、その中人間は捕虜としてロシャ本国へ送る、船と積荷は没収する 捕国人は仕返しのため密告したので、捕われてハルビン監獄となった。没収すると指定されたのは第三加悦丸と積荷だ にしん ほしかす に入れられた。もう一名の女も金子りきと似たような身のけでなく、ウシュロに近い漁場にある乾粕六百石と鰊四百 上だった。 石もそうだった。 北京在留の商人森田兼蔵は、商用のため、蒙古に行って結城新助等六十四名は送られて六月一日、樺太の首府ア かくま
は開戦後、イギリス海軍が拿捕したドイツ汽船で、奇しくの人物である。ラッグ老船長の下に水夫長を永らくやって もウォルフ号とは姉妹関係にある、プレーメル・ハンザ汽いた日本人がある、姓を村上という、名は不明。日本のど 船のグーテンヘルス号であった。そこでウォルフ号の艦長この出身だかそれも不明。村上はラッグ老船長とともにウ は、この奮還を大いに喜び、同船をドイツへ廻航させるこ ォルフ号の捕虜となり、四番船艙に収容された。そこには とにし、乗組員のイギリス人を、捕虜としてウォルフ号に トルテラ号・ジャムナ号・ウォーズウォース号で捕虜とさ 収容し、臨時雇いで乗組んでいたシナ人はそのままとし、 れた人々がいた。その多くは白人である。 廻航指揮官としてウォルフ号のプランデス大尉が、練達の ウォルフ号は豪州の南方から、その東岸に出て、五月か 下士官と兵を何名だかつれて乗組み、無線電信装置をし、 ら七月へかけて、この方面で行動し、ワイルナ号・ウイン 五サンチ砲一門を据え、機雷二十五を積み、補助巡洋艦イスロー号・パルガ号・エンウール号などという商船を拿捕 リデス号と命名して出発したが、その中途でーーー南亜のアして、前例のごとくに処置し、それからガポ島・フェアウ デン沖らしい イギリスの巡洋艦に発見され、交戦しな エル岬に、機械水雷を沈置し、今度は北上して八月にはい がら遁逃したが被害が過大であったのだろう、自爆して人ると、商船マツンガ号を捉えてこれも又、前例のように処 もろとも、海底に沈んだに違いないとされている。 置した、その次に捉えられたのが常陸丸で、ウォルフ号に トルテラ号奪還の翌日、イギリスの汽船ジャムナ号が捕とって十隻目の獲物であった。但し以上のはかに、一隻の 獲され、人はウォルフ号に拉致されて捕虜となり、積荷の漁撈船が捕獲され処置されている。 石炭・食料そのほかはウォルフ号に移され、そのあとで撃あと二カ月で航続満一年になるウォルフ号は、その間た 沈された。 だの一度も港にはいらず、随って船渠にはいっていないの これより後、ウォルフ号はイギリス〕れ船ウォーズウォー で、速力は四浬半も落ち、今は九浬ぐらいしか出なくなっ ス号を捕えて、捕虜を収容し、必要物資を積換え、船を撃ていた。 この仮装巡洋艦の艦長は前にいった少佐である。副長は 次で印度洋を南下して、アメリカ帆船ジー号を捉え、必ゲルマン人の代表みたいな容貌と体驅の大尉で、もう一人 要な物資は積換え、船は海底へ沈めた。乗組員は前の三つの副長は眼に鋭い光がある二十七歳ぐらいの大尉で、参謀 の汽船とおなじく、捕虜としてウォルフ号に収容した。こ役を勤めている。士官は全部で十五名らしく、下士官兵は の帆船の船長はラッグ老人といって卓抜にして無名なる海四百名ぐらいらしい
命令が出た。白石研吉機関少佐と小長井潔はその中にはい し、常陸丸を招いて、舷側に付けさせた。 日本人たちに配られた午食は、グリンピース入りの日本っていない。 米の飯であった。この炊事は常陸丸のパントリーマン ( 後 それと同時に、日本人のうち次のものは、常陸丸に乗り に司厨手といった ) がつくった。常陸丸の船客のうち、白人移れという命令も出た。指名されたものは木村庄平一等運 などには、ウォルフ号の司厨でつくったものが出されたよ転士・楠川正敬事務長と甲板員の全部、それに船客係賄部 うである。 員である。その中に常陸丸乗組のただ一人の女性で、看護 ウォルフ号の士官たちが兵をつれて、舷と舷とを接して方という職名の鯨岡かめの ( 五十歳横浜市 ) がある。看護 いる常陸丸にゆくもの、十組二十組ではない。彼等は常陸方は船内で婦人や子供の船客の世話をするもので、後のス チュワーデスである。 丸のストレージプラン ( 積荷目録 ) が手にはいらないので、 品質とその使途、それから数量を、人の労力で調べあげに このとき乗り移れといわれた船客係賄部員は三十数名 取りかかったのである。仕向け地や荷の送り人・受け人なで、甲板部の一隅にあつめられ、ドイツ士官からいい渡さ どに彼等は用はない。 れた。 船艙の第二夜がきた。晩食はパン二切れに罐詰の油漬け「常陸丸に移乗してからの汝等には、ドイツ海軍が労銀を 鰯であった。 支払う」 という付け加えがあった。 九月二十八日午前六時ごろ、ウォルフ号搭載の水上飛行 二十数名はその足で富永清蔵船長のところへゆき、移乗 機小狼号が飛び立った、操縦者と偵察者と二人乗りであのこと、労銀のことを告げた。この人々はドイツの命令に る。一時間ばかり海上を飛びめぐり戻ってきた。彼等にと抵抗したいのである。 丸っての敵国の艦艇が、来襲可能の距離内には、目下いない 「船長。私たちは只今、労銀を支払ってやるから働けとい 常ことを見極めてきたらしかった。 われました。捕虜として使役につけというなら、已むを得 洋 ず働きます、しかし、ドイツ海軍が雇用するのだから労銀 度 印 をやる、働けとあっては、私たちは働くのがイヤです。船 「常陸丸の一等船客たりしものは常陸丸に乗り移れ、二、長、ドイツは敵国です。敵国に雇用されたくありません」 三等船客たりしものは本艦にそのまま居るべし」、という 富永船長は瞑目して聞いていたが、やがて、一同の顔を
した。午後一時ごろ欝陵島近くまでくると二隻の日本駆逐信大佐 ) とが海防艦ゥーシャコフを追いかけた。司令官島 艦が現れた、それまでも提督は意識をときどき失いっ恢復村速雄少将は磐手に座乗していた。 はしたものの昏睡に又も陥っていた。 二十八日午後五時三十分、戦いとなって二十八分間でウ 午後三時二十五分、日本駆逐艦はペドウイとグローズヌ ーシャコフが沈黙し、八分間もすると沈没しかけ、三分間 イを追って射程にはいるとすぐ、第一回の射撃をやった。 で沈没し去った このことをウーシャコフ乗組の従軍僧 グローズヌイはグングン去って行き、ペドウイは進行を停の談話 ( 『水交社記事』、明治三十八年十二月刊 ) では、ウーシャ 止し、コロン参謀長の命令で「我は重傷者を有す」と信号コフの艦長は、降伏を勧告されたがその返答を砲火でし を掲げ、それと共に軍艦旗を引き卸して白旗と赤十字旗とた、交戦の結果、艦は大破し最早どうにもならなくなった さざなみ を掲げた。日本の二隻の駆逐艦とは、漣 ( 艦長相羽恒三少佐 ) ので、乗員をすべて海へ逃がれさせ、艦長自らキングスト かげろう と陽炎 ( 艦長吉川安平大尉 ) である。 ンを開き、艦を海底へ送った。乗員四百名のうち、日本人 陽炎はグローズヌイを追った。彼は北をさして、ついに に救われたるもの約三百二十名、死せるは八十名ーーー磐手 すがたを消し去った。 と八雲はすぐにライフポートを出し、約二時間かかって三 漣はペドウイの降伏を受け、伊藤伊右衛門中尉等が行百三十九名を救助したという記録がある、今いった従軍僧 き、意外にもロジェントウスキー中将が重傷で乗っているはその中の一人である。 のを知った。相羽艦長はペドウイの武器兵器に当座の処置そのときの挿話にこういうのがある。海から引きあげた をくだし、将校四名を漣に移乗させただけで、ペドウイをロシャ兵を、二人の日本水兵が中に挾んで、舷梯から介添 つれて蔚山に向った、ペドウイには中将と幕僚七名と艦えしてあがらせ、後甲板に達すると、そのロシャ兵が嬉し 長、それに下士官兵七十七名がそのまま残されたのだっ かったのだろう、片手を放し、両手を一人の日本兵の首に ンス た。と、途中で明石 ( 艦長宇敷甲子郎大佐 ) に会ったので、べ巻いた、接吻する気だった。前にいったドミトリート ドウイの曳航を託し、漣は護衛に任じ、一路、佐世保に向コイの副長プローヒン中佐が、重傷のレベノフ艦長に代っ っ・ ) 0 て日本艦隊へゆくとき、中佐は艦長に接吻したので、これ を見ていた日本の中尉が、ロシャでは男同士でも接吻する のだと初めて知ったということがある、だから喜びきわま ◇ いわて
ーキンモア 『手記』の原文を、ワームペック収容所とパ も来た。砂糖気のあるものは久しく口にしなかっただ ・キャンプと、つまり役員側と属員側と二つ対照して紹 けに一層有難く、感謝に耐えぬ。 介することが出来ない。 十月二十七日。兄上 ( 注長兄の宮崎広のこと ) より五 月十六日付英文手紙受取る。日本から来た手紙はこれ 「宮崎匡 ( 三等機関士 ) 手記』 ( 抜萃 ) がはじめてだ。然しこの手紙が百六十日もかかってい 十月一日。プルガリヤ、聯合軍と単独講和す。独乙 るのには驚く、小生の手紙は一本も受取っていない 首相・外相辞職す。独乙政府もどうやら内乱が起きて が、入れ違いに届くだろうか。 いるらしい。戦線では毎日聯合軍が優勢で、独乙は窮「手記』紹介の中途だが、手紙についての挿話を、ここで 境に陥っているらしく、平和到来も遠くはないだろう入れておく。 との観測しきり。日本内閣は原敬氏首相になった由。 話はぐうっと後戻りして、常陸丸が印度洋でウォルフ号 十月七日。プルガリヤ・トルコ・オーストリヤ諸国の餌食になったとき、外国船乗組であった外国人捕虜が多 が、聯合軍側と単独講和するを知り、いよいよ独乙も勢いた、その中に、日本のジャン拳を面白がるものがあっ 米国ウイルソン大統領に依頼し講和を申込んだそう たので、末次そのほかが、希望者にやり方をおしえた。ノ だ。今度こそは独乙も食糧攻めにあって、どうにも耐ルウェー人であったかデンマルク人であったか、カンの悪 ストーン えられなくなったものと思われる。我々の運命もどうい水夫がいて、末次が教える、こう手の指を握ると石、こ やら光明を見られそう。 う二本だけ出すと鋏、こう指を五本ともひらくと紙、石は 十月十二日。米国は独乙の申込みたる講和に就い鋏では切られないから勝だが紙には包まれるから負、鋏は て、三カ条の質問書を独乙に発送した由。平野丸、ア紙では切れるから勝だが石では切れないから負、紙は石で イルランド沖でドイツ潜水艦に撃沈され、乗客と乗組は包めるから勝だが鋏では切られるから負、とこの三つを 員とで百二十名ばかり死んだとのことだが、もし事実組みあわせてするジャン拳の勝敗と、カケ声とをおしえた だとすれば気の毒に耐えぬ、小生の知友が数名いただ が、容易なことでは呑みこまない、だがこの男、一ペん呑 ろう。ロンドンより服一着、靴一足、送って来た。 みこむと、たちまちのうちに上手になり、外国人たちに教 十月二十五日。リ パプールの静岡丸の同窓諸兄が送えてやるくらいになった。 ったチョコレート二ポンド本日受取る。小生外六名に この男は、そのほかの中立国のものと共にキール軍港で シザース
で連れてゆかれウチコで抑留された、そこは人家が三十戸点をくれた。善六の話だとこれまでに五郎次は、紙幣で三 ばかりのところだった。七月三日にロシャ人スタロスナが貫目をコウスグで渡されている筈だというのだが、五郎次 五郎次をつれて、馬と徒歩との護送の旅路についた。このの手に渡っていなかった。何処かでだれかが横取りしたと 旅は九月十日まで続きコウスグというところへ着いた。ス思う他なかった。それはコウスクだけのことでなく、後日 タロスナは深切な男で、足掛け三カ月の道中で、いつも五のことになるが、オホーッグでも紙幣が与えられると善六 郎次に食事をわけてくれた。コウスグの役人は五郎次に一一が教えてくれたが、これも五郎次の手に渡らなかった。イ ルコスカでは善六がいる故か、出立のとき紙幣十貫八百四 カ月ここにいるのだといったが、はたして二カ月余りそこ に抑留の日がつづき、十一月十九日になって、イルコスカ十文が渡された。 五郎次はイルコスカから又も護送されて、オホーックへ というところから五郎次に来いという命令がきた、それと 一緒にイルコスカに住む善六という人から手紙で、イルコ着いたのは翌年 ( 文化九年、西暦一八一二年 ) 四月朔日だっ スカへ来るようにといって来た。善六というのは仙台船のた。ここで五郎次はロシャ本国へつれて行かれるのではな く、日本へ送り還されるのだと知って喜び極まった。月が 若宮丸の乗組員だったもので、海難にあって漂流し、露領 かわって五月二十九日、与茂吉その他七名のものが、カム に着いて収容されたものの中の生残りで、ロシャに帰化し ろと て、かっては露都の日本語学校でロシャ人に日本語を教えチャッカから送られて来て、五郎次と一緒に置かれた。与 ていたことがあり、妻はロシャ女で、目下はロシャ政府の茂吉等は摂津の加納屋十兵衛の持ち船の乗組員で、海難に 命令で、イルコスカに住んでいるのだった。五郎次はそのやられてカムチャッカへ漂流し、助けられた中の生残りの ものだった。 ときはまだ善六の身の上を知らなかったが、今まで人々か 六年振りで日本へ還される五郎次と、水夫の与茂吉等と ら聞いた話によると、そういって呼寄せ、ロシャの本国へ 連れてゆくそうで、そうなっては日本へ帰れないだろう合計八名が、ロシャ軍艦デアーナ号に乗せられた。その年 八月八日デアーナ号は、千島列島の最南端の国後島の螻向 のつえと 志から、五郎次はイルコスカへ行きたくなか 0 たが、拒んで 虜 もその効なく、護送役人が付いて十一月二十七日から十一一岬の沖に到り、翌四日、乗戸岬に近いペコタン沖に投錨 捕 本 月十六日まで旅を続けた。イルコスカへ着くと善六が待っし、漂流者だ 0 た与茂吉が、まず島にゆき、やがて日本人 ノ名ともロシャから日本側へ引渡しが終った。 ていて引取ってくれ、一日に百文ずつ銭をくれ、その他に こういうことをロシャ側がやったのには事情が伏在して 六枚の襦袢と六足の下股引と、羅沙股引に手袋、その他数
掲げているのを発見した。この帆船はメルボルンからダッを祝った。鯨岡も手から指が飛びはしないかと思うばか カーへ向っていたフランス船である。十三番目にウォルフり、うち振りうち振りしていた。 号の餌食にこの船がなった位置は、十九度と二十五度だと イゴッメンジ号がウォルフ号から、次第に距離をひろ いう。乗組員は二十九名で、その中に十四、五歳の白人種げ、鯨岡の姿があるかなきかに小さくなったのは午後二時 の少年が一人いた。積荷のうちウォルフ号が必要とする物ごろである。 を積みとり、三吋口径の大砲二門と弾丸、それから無線電 この日の晩食は〃日本料理〃の日にあたる。和食担当で 信機をも搬びとった。それらの積みとりが終ると帆船の二あった柏谷安次郎と早水松彦などがウォルフ号のコックか 十九名はウォルフ号の船艙の中に多くの先客とおなじようら材料をもらい、足りないだらけではあるが、五目ずしを な席をあたえられた。 つくった。日本人たちが喜んだことは申すまでもない。 この帆船は、正午過ぎに、爆薬二個が装置されて、午後 ウォルフ号のものが幾人も、釣り道具をこしらえて とこかの 一時に爆破され、七分間で海中に沈み、マストの端すら見る、問うまでもなく近日中にこの仮装巡洋艦は、。 えなくなった。 島へ着くらしいのである、そこで第三船艙の日本人たち 爆破の音がしてから十分間もたった頃、少年の号泣が日 も、第四船艙のイギリス人その他も、魚釣り道具の手入れ 本人捕虜たちの耳にはいった。あの帆船に乗っていた少年をしたり作ったりしはじめた。 が、どこかで泣き悲しんでいるのだろう。 相変らず、暑熱がつよい 十二月二十日。久しく見なかったイゴッメンジ号が、正十二月二十二日。ウォルフ号は針路を南にとっている。 午をよッばど廻ったころ、視界にはいって来た。彼はウォ イゴッメンジ号が視界にはいって来た、多分、ウォルフ 丸ルフ号に向って距離をツメている、ウォルフ号も彼を近づ号が無電で呼び寄せたのだろう。彼はやがて近くなると、 常けさせようとしている。やがての後にこの二つの船は信号ポートを卸し、ウォルフ号に向って漕ぎ出した、・【 洋を交互になし得る近さになったが、その信号の方法を了解は鼠色に塗り替えたスペイン船へ、艦長として分遣された 印し訳読することは元常陸丸のだれにも出来なかった。 眼が鋭く光るドイツ海軍の中尉が乗っていた。 日本人たちはイゴッメンジ号の甲板に、職務のために一捕虜たちは、殊に日本人捕虜の間では、何のためにイゴ 人だけで行っている鯨岡かめのを見出し、手を振って無事ツメンジ号の艦長がやって来たのかと、話がいろいろ出た