二人 - みる会図書館


検索対象: 長谷川伸全集〈第9巻〉
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1. 長谷川伸全集〈第9巻〉

イタリー兵が集合したので、日本人たちは二階からおり銕の扉のある小さい倉庫の中に拘禁された。そこは俄づく て行き、殴りあいが、たちまちはじまった、穿いていたサりの暗室で、十二時間後の翌朝、拘禁を免除されたが、二 ボ ( 和蘭下駄 ) を手にして相手を殴り歩くやら、角力の手や人をつれに来た監督ウンプは、暗室の中がどうなっていた かに気がっかず、二人をそれそれの持ち場にゆかせた。 ら柔道の手やらで、引ッくり返したり、投げつけたりし 暗室の中では備え付けの木製寝台が木ッ葉徴塵になり、 て、暴れまわった。イタリー組が、部屋の中へひきあげた あとには、帽子や上着や片ッ方の靴やらが、散乱して残さ銕製の便器は用足しに間に合う程度に、形ちが一変し、凸 れた。 凹だらけになっていた。やったのは末次で、杉浦も少しは これも又前いった一種のリクレーション この喧嘩のすぐ後で、監督ウンプがイタリー兵の代表者手伝ったらしい。 をつれて、日本人室にやって来て、和解となった。そのとであったのだろう。 プランデンプルグ在にいる日本人が、角力をやり柔道を きの条件は、ジャップという一一一口葉を口にせざることを誓う 見せ五人抜きをやるのと、ここの日本人が外国人と喧嘩を であったという。 やり、ドイツ下士官に抵抗したり、暗室の備品をブッこわ 五 したりするのと、原因はおなじものである。 ある日、日本人部屋のある二階からみえる八百屋の店前にも出ているし、この回にも名が出ている、髭源次郎 ト沢正二といって、メス・ルームの食卓係で 胡瓜がならべられているのに気がついたのが、末次とと、それから / 、 杉浦である。昨年九月一日、門司を出港して上海に向ってあったものと二人が、日本人のだれにも知らせず、中立国 から、十カ月ぶりに見かけた胡瓜である、二人とも食いたへ潜入することを目的に、脱走を計画し、ひそかに準備を くて食いたくて耐らない。二人はひそかに裏門にちかづすすめた。メス・ルームというのは、一等機関士・二等以 丸き、門番の不在を見届けると、矢の如くに八百屋へ飛んで下の機関士と、二等運転士・三等以下の運転士・事務次 常ゆき、一マーク半で胡瓜二本を買い、又矢の如く飛んで帰長・無電次長などの食堂付き食卓係のことである。髭が賄 方庫番であることは前々でいってある。 洋って胡瓜を食って、そのうまいのに酔った。 ト沢正二の二人は、脱出に成功して方向を南 印夕方になると監督ウンプが二人を呼びに来た、行ってみ髭源次郎・ ( 、 昭ると雷曹長がいて、「お前たちは重大な違犯をやったからへ南へとった、そうすれば和蘭に近づけるからである。ニ 入牢を命ずる」と宣告して、工場の奥深いところにある、人とも或る程度の変装はしていたらしい

2. 長谷川伸全集〈第9巻〉

集めたものだろうが、その日本人は単に「あるイギリス人として、木の樽に一ばい入れたのを収容所の炊事場でわた たちの贈り物」とだけしかいわなかった。時が時なので十す。その樽は直径三尺・深さ三尺ぐらいのもので、珈琲は 二名は贈り物というよりも、恵与されたという感銘で受けひどくまずい代用品だが、代るべきものとてないので、捕 とった。これから後もこの人は、十二名の日本人に実によ虜の大部分は喜んでのんだ。イギリス人とアメリカ人は、 く冬してくれたが、その姓名がわかっていない。その人の本国から届いた紅茶をのみ珈琲をのみ、よくよくの場合の 、こ、イギリス人として今も続外は、そんなものには振り向こうともしなかった。 子孫が、イギリス領のどこ力 珈琲の配給が早朝であるのは、課されている労働に出て いているだろうと、何となく思われるという。 イギリス人捕虜のキャンプの中に、イギリス赤十字組合ゆくものがあるためである。 室がある、そこへ彼の日本人がいって、事務担当者を説い キャンプ生活の第二日に、十二名で六組の炊事当番をこ て、米・パン・ビスケットの寄贈をうけ、十二名のところ へ搬び入れてくれた。続いてイギリスの商船学校実習生たしらえた。前にいった早朝の珈琲かつぎーー木の樽にロー ちからも 、パンと煙草の寄贈があり、又アメリカ人キャンプをかけ、二人で差し担いをする。これは国籍別で二人す つ出るのだから出る日もあれば出ない日もあるーー昼食と プのアメリカ赤十字室からも、米そのほかの寄贈があっ た。十二名はほっとした、これで差し当って食べる方の心夕食とにはそれそれ国籍別で毎回、食事当番が出る、十二 名の日本人からも二人一組がそのたびに出た。 配だけはなくなった。 ドイツが支給する捕虜の食事は、一日にパンが二切れ、 さていよいよキャンプ生活にはいってみると、炊事道具 などの必要が絶対なので、彼の日本人の大奔走と助言と勧時には三切れである。朝は珈琲だけのときとパン一切れが 説とで、物々交換で、必要品のあらましを手に入れることっくときとある、昼は大根入りスープ、タもまた大根入り スープである。余談だがーー第二次世界大戦が終ってから 丸が出来た。 常 シベリヤに留置され、ウォロシロフに近い山の中で重労働 の 洋 ドイツが支給の毛布は二枚とも古くもあり薄くもなってを課せられた日本の元兵隊たちがソ連陸軍のある伍長から 印いて、形ちだけの毛布である。それにめいめいが持参の毛聞いた言葉がある、そのソ聯の伍長は第二次世界大戦中に ドイツ軍の捕虜となり、終戦によって解放され帰国して復 布一枚をかけ、外套を着て寝て、まだ寒い。 トイツが捕虜に与えた食事を罵倒して次 珈琲は毎日午前四時半ごろ、八十二キャンプの全員の分役したものだが、・

3. 長谷川伸全集〈第9巻〉

た朝鮮農家の人々が憫んで食い物をくれたからだった、し ニコライフスグにいた日本人達も、やはり慘苦を舐めさ かし、毎日そうした慈悲心のある朝鮮人の家はなかった。 せられること、今までに出ている人と同様だった。開戦と 三日に一度ぐらいだった。ラズドリノエの獄では三日いるなった二月のことだった、浦塩引揚げの汽船が出る、しか 間に、一杯の水すら飲ませてくれなかった。ニコライフスしそれが最後の船だと在留日本人が知ったのは、出港の一 グへ曳かれて行くとき初めてパン二斤をくれた。 - = 諫山乙二週間前だった。浦塩へゆくにはハ・、 ノロフスグへ出なくては がニコライフスグから又も曳かれて行くとき、一人の日本ならない、 ニコライフスグからでは日本里数で二百三十里 そり 人と一緒になった、前にいった浦塩で捕えられた独逸船のある、二月のことだったから橇で雪の中をゆかねばならな ポーイ佐々木丈太郎だった。二人はハ・、 / ロフスクへ送られ いが、橇は一日三回しか出ない、二人乗りを三人乗りにし て、監獄に入れられ、六月三十日にロシャ人の囚人四名とても、二百七十余名いるから三十余日かからないと運びき 共に、黒龍江をゆく船に乗せられた、船に男二名と女一名れない、その他に手段がない、しかも人の多くは薪を伐り の日本人がいた 出しに山深くはいっているか、金山へ働きに行っているか だった、そういう人々を呼び集めることだって、出来るか 二名の男とは樺太に住んでいた菊地勝太郎と円士春松だ ハロフスク った。一人は引揚げを望まなかった、一人は遠い旅に出てどうか判らなかった。何とか方法がついて、 いて引揚げを知らなかった、どちらも隠れ忍ぶ身となったまで出られるのだったら、後は浦塩までわずかに汽車で五 が、捕われたのである。一名の女は、ニコライフスグの金時間の行程なのだ、しかし、どうにも方法がなかった。 ニコライフスグにはその地方で有名な島田商店があって 山に働く朝鮮人の妻だったが、日本人だからというので、 夫の嘆願も肯かれず捕われとなったのである。この三人と堺城太郎という人が責任者だった。堺は日本人の保護を警 も拘留所や監獄を転々と送り廻されている間に、金も物も察に頼んだ、島田商店の名声と堺の信用がモノをいって、 署長は充分に保護するから安心して営業せよといったが、 ロシャ官吏に捲きあげられ、無一文になった。 これらの人々は又も惨苦の道中をして、漸くにして八月それはその場限りの気安めで、たちまち日本人の家という 十五日ウラル山中のベルミ市に着いた。抑留生活にこの地家の家宅捜索をやり出した、三日間それが続いたのみか、 ではいらせるらしかった。 日本人は三人以上一緒に歩くことを禁ず、三人以上の集合 を禁す、夜間の外出を禁ずと、打って変って圧力を急に加 ◇ えた。

4. 長谷川伸全集〈第9巻〉

ていた。中山直熊は北京の振華学堂に教師であったつつ日本人は、最も大胆に歩を運びぬ、郊外に行くこと一 が、天津に赴いて新聞社員となっていた。脇光三は冲露里、立木の傍に到りて露国士官は止まれを命じぬ。日本 とおなじく北京に教師をし、天津に去って新聞記者と士官は自ら進みて死の位置に行きて起てり、目隠しの布を なり、松崎保一とは同僚だった。田村一三も北京の東見るや彼等は手真似にてこれを拒みぬ、彼等は小さき驅幹 を延ばして正しく起立し、頭をあげて法廷に於けるとおな 文学堂の教師であった。 かす いう可からざる幽かなる笑みを湛えつつ、執行小隊 横川・冲を捕えたのはシワネ・ハッグ中尉と、その部下じく、 の射てる十二銃弾をおのおのその胸の真中に受けて畢り 五名のコサック兵である。 「被告大佐は正しく前方を見て、一に裁判長に視線を注ぎぬ。ああ哀れなる人々よ、遠き彼方の東京には、二人の士 たれども聊も尊大の風なく、大尉は俯向きて臆せる如く足官の残せる夫なき妻と父なき児のあるものを」 死刑は宣告の翌日である四月二十一日に行われた。執 許を眺め居たり。二人とも一般の同情を惹き、一瞬間の後 行の以前、二人は所持の露貨一千留の銀行手形をロシ 軍法会議に列せる士官等は、クロバトキン大将に特赦を願 ャ赤十字社に寄附した。この金はその後、在ロシャの い出ずるまでに至れり、検察官は語を絶ちて最早いわず、弁 米国公使の手を通じて、ロシャ政府から横川・冲の遺 護の任に当れる士官は法廷の仁慈に訴えて、二人を戦争の 族に返還された。 捕虜として取扱わんことを乞えり。裁判長は語をつぎ、申 松崎保一・中山直熊・田村一三・脇光三の四名は、一 開きの為め更にいう処なきやと。二人は別になしと答えた たびは危きを脱し得たが、橋ロ勇馬少佐班と津久井平 り。法廷は合議の為め休憩に入り、五分後、再び開廷せら 吉大尉班の根拠地、小庫倫さして行く途中、馬賊群に れ予期の如く二人共に死刑を宣告せられたり。二人の日本 襲われて、松崎・中山・脇の三名が負傷し、田村は馬・ の人は少しも戦慄することなく、この宣告を領し、しかも唇 を射たれて落ちた。馬賊は包囲して四名を饑餓に陥ら 本に些か微笑の浮かぶを見たり。軍服に着換えんと欲するか せんとし、そのため、ついに松崎保一が負傷の悪化と 1 、こ、その要なしと二人は答えたり。この 志との裁判長のしレ 疲労とで絶命し、ついで二名絶命、生残ったのは一人 捕崇厳なる数分間は余の全身を氷の如く寒からしめぬ。宣告 となった、それは中山直熊だといい田村一三だと、 文及び被告の特赦を乞いたる電報は、遼陽なるグロバトキ う。馬賊は負傷と疲労とで、起ちもならぬ一名の生残 ン大将に発せられぬ、一時間を経て返電来れり、日く宣告 者を、引きずって河を渡らせ、射殺した。 文の如く処刑すべしと。二十四人の歩兵の間に取り囲まれ

5. 長谷川伸全集〈第9巻〉

124 の机を前にして、椅子とは名ばかりの台に腰掛けたる三人 の露国士官、これそ露国の裁判官にして、尚お右と左に控 えたる士官二人、一人は検察官、又他の一人は被告の弁護 人なり、見渡す限りの法廷に傍聴せるものはただ二人、独 乙新聞記者一人と我のみ。ああ恐ろしき活劇、如何なれば 社会はかくまで残忍なるか、裁判の結果は必ず死刑を宣告 せられ、如何にしても処刑せらるるを覚悟せざるを得ざる この二人を、何故にかくも更に責め苦しむるぞ。カ弱くし て自身進んで戦争の根を絶っを得ざる小国を喜ばしむる為 めなりとか。さても彼等の万国公法を遵守し、凡て罪を定 むるには必ず法廷を要すべしとの結果、既に定まる自己の 運命につき聊か疑なき是等の捕虜が、如何ばかり苦痛を感 ずるやを顧みざるなり。「被告を呼び出すべし』穏かなる 少し嗄れたる声は裁判長なる大佐の命令なり、見る間に現 われたる二人の日本士官は、いまだ中国人に扮装したるま ま、本名を更に名乗らず、ただその階級を告げ、続いて事 実の審問に答えたり。彼等は隠すことなく凡ての事実を自 白せり、彼等は熊本より来れる四人の教師と共に、北京を 立出でたるその目的は、ダイナマイトにて鉄道線路を破壊 するにありし、徒歩にて蒙古の野を横ぎり、漸くにしてチ チハルに達しぬ、されどその企てを実行する能わざりし。 何となればコサックの為めに取押えられたればなり、四人 の教師はそのとき逃げ延びたり。二人の小柄なる黄色人は 彼等の勇気を誇ることもなく、語り終りぬ」 二人の捕われたる日本人とは、横川省三と冲禎介で、 大佐といっているのは横川、大尉とい ) ているのは冲 のことである。熊本から来た教師とは、松崎保一・中 山直熊・脇光三・田村一三を指したものである。横 ・冲等六名の特別任務班は北京を出でて、明治三十 七年二月二十一日、敵地に入り、一カ月を経て東蒙古 から、敵の後方チチハル附近に現われ、ヤールホ ( 雅児河 ) の銕橋を破壊せんとして、四月十一日、巡羅 のコサック隊に発見され、横川・冲は捕縛され、松崎・ 中山・脇・田村はその場は免かれた。横川省三は明治 の政治騒乱加波山事件に連座し入獄したことがある。 東京朝日新聞記者時代には、郡司成忠海軍大尉 ( 退役 ) 等の千島探険に特派員となり、『単艇遠征記』を書い た。明治二十七・八年の役には従軍して、『黄海戦記』 を、台湾鎮定戦にも従軍して『南洋戦記』を書いた 後、米国に游び、中国に游び、蒙古旅行に出でては、 ハイラル駅で、同行者二名と共にロシャ側の疑うとこ ろとなって、ハルピンの獄に投ぜられること三週間、 漸く疑い解けて放たれたということもある、変化と波 瀾の経歴に富んだ人物だった。 冲禎介は楠本碩水・根本通明の門人で、漢学者だっ た。北京の東文学堂の教師となり、清国人の子弟を教 えていた。松崎保一は一年志願兵出の予備少尉で、芝 罘の商社に入り、北京に出でて冲を扶けて教師となっ

6. 長谷川伸全集〈第9巻〉

310 が、船長命令が追いかけるように聞えてきた、「機関を 入港する予定は来月 ( 十月 ) の七日である。 一時間、それから過ぎた午後一時に常陸丸は海峡にはい停止せよ全速にて後退せよ」である。これは機関部のもの った、日はあらゆる物にギラギラ反射を起させている、しの肝をプルッとふるわせた。 宮崎三機はすぐ時計を見た、水谷二機も時計をみた。午 かも無風である。船員は日本人だからわりあいに暑熱につ よいが、船客中の西欧人はわりあいによわく、甲板や舷側後二時三十二分である。 だれも彼も一瞬のうちに判断した、・ トイツの潜航艇が襲 のどこかしらに日陰をもとめ、昼寝の夢をむすびたがって 努力する人たちが多かった。さすがにこの方面に育った人いつつあると。 人は、暑熱も無風もうまく凌いだ、たとえば印度人で二等河合三作機関長が辷べるような足音をさせて機関部へ降 りてきた、四十四歳で、平常は年齢よりも老けてみえるの 船客のレワチマンドと、その道づれで同室で同国人のチャ 、今は四十歳前のように若々しくみえた、変事にブツか ンジラムの二人などは、生卵を出しっ放しにしたらウデ卵 になりそうな甲板で、暑くるしそうな顔どころか、愉快らったので、自ずから勇気が掻き立てられたからだろう。そ のあとから非直の嘉屋末二等 ( 次席 ) 機関士、早川正義三等 しく甲板散歩をやったり、立ち話に耽ったりしていた。 ( 首席 ) 機関士の二名と、機関士生徒といわれている商船学 船は速カ十二浬を出して、南西に航走をつづけた。 宮崎匡三等 ( 次席 ) 機関士はこのとき当直であった、宮崎校からの実習生の小西熊太郎と田窪勇一の両名が前後し の上級当直は二等 ( 首席 ) 機関士の水谷芳雄といって三十六て、いずれも猿以上の素早さで降りてきた。 歳。神戸の平野矢部町に家族を住まわしていた。 水谷芳雄二機も宮崎三機も、出しぬけに轟音を聞いた。 富永清蔵船長の方は当直中の午後二時ちょっと過ぎ、常 勤務中の機関部員のうちで聞きつけて驚きの声を口にした ものもあった、聞きつけながら気にしないものもいた。轟陸丸の左舷船首一点半のところに、一隻の汽船が、反対方 から進航してくるのを見た。二本マストのスクナー型で、 音はもう一度わずかな時間の差で、前とは少し方向のちが うところで起こった。しかし、火夫・石炭夫などの人々は船体も煙突そのほか、外にあらわれているほとんどのもの 気にかけるものと、軽やかに気にしているものと、全く気を、黒灰色に塗った五千噸級のもので、疑うべくもなくイ にかけていないものと、この三つに分かれた。仕事の手はギリスの商船であるから、気にかけるというほどのことも なく近づいて、その間が約一浬半になったとき、彼の黒船 だれしも動かしつづけた。

7. 長谷川伸全集〈第9巻〉

又、こういう答えもした。 を数えて五人だとする、出鱈目がうまくいって、上陸でき た。しかし、東西三十二海里、南北で最も長いところ六十「二隻の汽船が十日余り碇泊していた昨年のあの頃は、海 数海里のこのマダヴィリ島では、何一つ聞き出すことが出流が南東に流れていたから、漂着する物があったとした ら、ここの南東部でしよう」 来なかった。 この日、午前と午後と二回にわかれて、阪元宗隆中尉と 更に南進して翌日、デワジ = ウ島に着き、島司と僧侶か ら話を聞いた。二人とも前の島のものと違って、わりあい大西中尉とが、アトール諸島の全周偵察をやったが、わず に知識があるので、その語る要点がはっきりしていた。こかにアトールの東外礁マネッ島に、難破汽船の形跡があっ たのを見つけた。しかしこれは常陸丸とは些かの関係もな れを要約すると、こうなる。 い、小型の老朽汽船の残骸とわかった。 「二隻の汽船を私たちは直接に見たのではありませんが、 そのほかに発見は何もなかった。 この島の老人で、二隻の汽船に近づいて見たものが私たち 冫語ったところによると、二隻のうち一隻は、外から見た 五 だけでも破損の箇所が幾カ所もあるのを、多勢の顔の色の 一月三日の早朝、デワジュウ島をあとにして、南してム 赤い大男たちが修繕していたそうです。船内には米が包の まま夥しく積んであったと、これも老人の話です。一隻のラグ島、アズ・アトール島方面にむかい、ガン海峡にはい 方には飛行機があって、この辺の上空を飛んだこともあるり、ガン島 ( ガーツル島 ) の北海岸で、水深四十尋のところ ので、私たちもその機を仰いで見たことがあります。二隻に投錨した。前に投錨したマダヴィリ島の東海岸の水深は ひろ の船の長だという人が上陸して来て、島のものにハンカチ二十七尋であったから、それより十三尋もここは深い。 ーフをくれたことがあります、そのとき子供には赤い襟巻そこには小型の帆船数隻が碇泊していて、ガン島のもの をくれました、今そこにいる女の児が首にかけているのも数人きていたので、聞いてみると、デワジ = ウ島で聞い た二隻の汽船のことと、大体おなじことをこの島民たちも も、その船長がそのときくれた襟巻です。あなた方のよう な日本人らしい人を、私どもはこの島で見かけたことがあ語った、が、ここの話の方が、前の話より少しばかり具体 りません。老人の話では、二隻の船のどちらにも顔の色の的であった。 山脇そのほかは上陸して、知識人らしい眼をした、黒い 赤い大男の外にはいなかったといいますから、日本人はい なかったのでしよう」 顔の僧侶に行き会った、話を交してみるとこの僧は詩人で ひろ ひろ

8. 長谷川伸全集〈第9巻〉

128 れた、だが、刑の執行間際になって、主犯の一人は罰 ャ兵が見付けて捕えかかったとき、植村は刀を抜いて闘 金八千元、共犯の一人の方は罰金二千元と、処刑を振 . 、傷を負って捕縛され、孤山子に送られた。植村は必要 りかえて命を助けた。思わざる助命に二人の間諜は喜 があって陣地を離れ、或る地点へゅこうとした、その途中 ぶよりも驚いた。助命の原因は主犯の間諜の娘二人に でのことである。 あった。二人の娘は父が謀計をやったのは、ロシャ軍 孤山子では一つの天幕の中に、植村は入れられ、士官一 の強圧が甚しく、その命を拒めば殺されること明らか 名と兵三名が監視につき、美食を与えられたのだったが、 だったので已むを得ずしてやったという、証拠を集め 何一つ口にせず、訊問があっても何一つ答えず、絶えず微 て義軍に向って愁訴もし、論弁もやり、泣いて親子の 笑していた、こうして彼は絶食死を遂げたのだった。 情をも告げ父の命乞いに全力を傾けた。これを知って 植村は東大出の文学士で鎌倉円覚寺の釈宗演の弟子で、 花田隊長もその他の面々も泣涕し、死刑を罰金刑に変 一年志願兵出の応召将校であった。捕虜たることを、最も 更したのである。 嫌ったそのころの日本の国振りが、植村にも出ている。 八千元と二千元の罰金をすぐ納めて来た、花田はその 花田仲之助には多くの話がある、その一つは敵の間諜 金を先ごろロシャ軍が彼等の戦略上の必要で焼払った一 の生命を助けたことだ。二人の中国人が義軍を欺い 東昌台と旧門附近と、二カ所の罹災者にわかち与え、 て、新兵堡というところへ誘びき寄せようとした、そ 復興の資金にさせた。 れに引っかかって行ったら最後、全滅させられるのだ った。間一髪というところで、その謀計が発覚し、二 ◇ 名の間諜は捕えられ、訊問の結果、死刑が宣告され、 執行は三月三十日 ( 明治三十八年 ) と決した。奉天大会遼陽の戦いで敗れたロシャ軍は、鉄嶺附近に下がって冬・ 戦が終りを告げ、大勢ほば決していた時のことであ営の仕度をしているという、であるのに日本軍は、勝ちは る、しかし、奉天から遠い地域なので、大会戦の結果したが鉄砲の弾薬を射ちつくし、追撃すべきであるのに、 それが出来ない空手も同然たったから、是非に及ばす、遼 は知っていたが大局の動向は知らなかった、だから、 義軍は大決戦をもう一度やらねばなるまい、そう思い陽の北に停止しているより他なかった、こうした時に騎兵 こんでいる時だった。 第三聯隊 ( 名古屋 ) の古賀伝太郎少尉が、遠距離斥候を命ザ 三月三十日の執行日に、二人の間諜は刑場に曳き出さられた。

9. 長谷川伸全集〈第9巻〉

422 水はこびは日本人だけの仕事になるかも知れないといい出ら外へ出るとき、ちょいとした坂道を利用して急速力で車 すと、だれしもこの仕事が好きなので、それはい、 しと云うをひき、途端に末次と山下とが姿を木立ちの下に隠した。 ことになり、やってみると、はたしてドイツ側の評判よろ ドイツ兵は気がっかない。 この車が収容所の門をはいると しく、明日も続いてやれとなった。 き、急速力で車をひき入れたので、歩哨の兵は二名の不足 そこで末次は常陸丸以来ずうっと今まで、何があってもに気がっかない。監視の兵は水を貯水槽に入れて車を片付 手をつけなかった鰹節二本と この鰹節は第四号救命ポけた後、やっとこさで捕虜が二人おらぬと騒ぎ出した。 ートに備え付けてあったものである・ーーさきごろ農家の収末次と山下とは、第一日は夜から夜明けまで歩き、真ッ 穫を手伝いにいったとき、物置の古壁に貼りつけてあった昼間は山林や地形をつかって隠れ、第二日からは黄昏から 新聞紙に、ここの半島の略図が出ていたのを剥ぎとって隠歩き出し夜明けまで歩いた。しかし、そうばかりしていら しもっているのと、そのほか捕虜の身で出来るだけの必用れないので、昼のうちも歩い 品を、ひそかに身につけた。又、遺書を二重封じにして末次は東洋から出稼ぎにきていた労働者に化け、山下は 「私が居なくなっても開封しないでくれ、死亡したとなっ拾った窓掛けの古布をまとい、頭を風呂敷で包み、東洋の たらそのときは開封してくれ」と、髭源次郎に頼んだ。髭女に化けた、幸い山下は頭髪を刈っていなかったので、額 は何かするなと思ったらしいが、反問一つせず、「引受けや耳の脇へわざと髪の毛を引っぱり出しておくと、女に見 ました」といった。 えないこともない。・ トイツの田舎の人たちは東洋人の若い いよいよ決行のその日、午前の水はこびの途中で、末次男と女だといえば珍しがったり驚いたりはするが、疑ぐっ が「今日午後の水はこび中に脱走するが、だれにも迷惑が たり怪んだりはしなかったのが、両人にとって仕合せであ 及ばないようにしたいから」と、仲間のものの執るべき態った。言葉は片言のドイツ語と手真似とで間にあった。 昼は太陽、夜は星、、、 度について相談した。ところが、山下仙太郎が、「私は一 とちらにも周到な注意をはらい、ヒ 緒にゆく」といい出した。結局、末次と山下と二人だけがヘ北へと向った。農家の人たちは食べ物をくれた、物置の 脱走し、ほかのものは二人の脱走に気がっかなかった、と軒下に寝ることも許した。 いうことに打ちあわせが出来た。 脱走を続けて七日目、エレンスプルグの西寄りと思われ 午後の水はこびには、一人のドイツ兵が監視について来るところで、末次と山下は、互いに姿を見失い、どちらも たので、水汲みがおわり、水はこびの車が地主屋敷の門か 探し探し脱走を続けた。そこは、第一次世界大戦の勝敗が

10. 長谷川伸全集〈第9巻〉

用にして越年ときめた。そうなると食料を充実しなくては だ。前に引返したロシャ人は佐兵衛の死ぬ前の日の二十一 ならないので、五郎次も佐兵衛もロシャ人も、鹿をとろう 日に追いついて来ていたので、佐兵衛の埋葬を手伝ってく と探し廻ったが結局のところ徒労だった。雪の十一月ごろれと五郎次がいうと、ロシャ人は腰を痛めているからと断 までに持っていた食料も食い尽したので、アテとてはない った。いたしかたなく五郎次ひとりで死体を雪車にのせて : 船から出て、ともかくも歩いて七日目、小屋に十三人で曳いた、悲しみも架、 、冫しが栄養が体から失われているのでカ くらしている満州人を見付け、頼みこんで置いて貰った が出ず、涙と苦しさと疲れとで捗どらず、漸くのことで埋 が、しきりに迷惑がるので、三日間だけでそこを出て、又葬を終った。五郎次はもう日本人は俺ひとりだと泣き泣き 見付けた小屋に一両日置いて貰った、そこで厭がられるの覚悟を据えた。 で出るよりいたしかたなく、朝早く二人の土人と、五尺ば その後も五郎次とロシャ人とは行くところがないので狐 かりの板で出来ているカンジキを足に穿き、出掛けて暫く捕りの小屋 , にいた。ロシャ人は食べ物がひどいので辛抱で ゆくとロシャ人がカンジキが損じたからと、一人の土人きず、前に泊めてくれた小屋の方がいくらかいいからと引 と、引返した、あとは五郎次と佐兵衛と土人の三人になっ返そうといい出した。五郎次は今は冬だから正月中旬にで ーカ た。二名の日本人は馴れないカンジキなので歩くのが捗どもなったらと宥めたが、ロシャ人はとても辛抱できないと らないが、 土人はすういすういと二人を置去りにして行っ 、い張り、五郎次が今ゆくと途中で凍えて死ぬと諫めたが てしまった。幸い雪にその滑走の跡があるので、それを頼肯き容れず、十二月六日、ロシャ人は五郎次のもっていた みに辿り辿り行くうちに夜になり、土人の雪跡がわからな鉄砲・火薬を持ち出して行ってしまった。五郎次がいった いってん くなったので、困りきっていると遙かに一点の灯がみえ通りだった。彼のロシャ人は途中で凍死し、死体は翌年の た。行ってみると狐捕りを業とする二人の土人の小屋だっ雪解のときになって土人に発見された、彼もまた体力が落 た。頼んで泊めて貰い、食べ物をくれと頼むと、鯨の肉のちていたのだった。 古いのを煮たのをくれた。五郎次は腐っていると気がっき ほとんど無一物になった五郎次は、どうやらこうやら翌 食べずにいると、佐兵衛が食べかけたのでとめると、今こ年 ( 文化八年、西暦一八一一年 ) 五月九日まで、狐捕りの小屋 れを食わないとあした歩くことが出来ないといって食べに置いて貰ったが、この日人がやって来て、ウチコという た。両名とも腹がひどくへっていたのだった。佐兵衛はそところに出張しているロシャ人の命令であると、五郎次を れに中毒して病いっき苦しみぬいてその月二十二日に死ん捕えた。だれかが密告したためらしい。五郎次は小さい船