ところを知らなかった。と、ステッセル将軍が歩を返して車より背高き男女の下るや、レイス将軍はじめ敵味方将卒 来て、北清事変の勲功にてと代って答えた、ということもいずれも敬礼した、即ちステッセル将軍夫妻である。ステ あった。 ッセル将軍には鼠色の外套を穿ち黒毛の軍帽を戴き、夫人 津野田参謀は昨日、川上書記官と共にステッセル将軍をは肥太りで身体は健かにみえ、質素なる服を着けて居る、 その官邸に訪ねた人だったので、きようも将軍を送って旅後なる馬車にはステッセル夫妻の養育せる六人の孤児が来 た、内三人は六、七歳の男女にて、いずれも乳母の手にス 順の官邸に行った。 門いに答えて、乃木大将は初対面なるに全ャスヤと眠って居り、九歳ばかりの女児は藤紫の絹の頭巾 将軍は夫人のロ く今までの敵対関係を忘れ、竹馬の旧友に再会したるが如をかむりて、いとも愛らしく歩いて来た。我が第七師団長 しといった。レイス少将も乃木大将は白髪童顔、威厳のう大迫中将・第三軍参謀長伊地知少将は、川上外務書記官の ちに温容あり、心中深く敬虔すといった。それを聞いてス通訳にて出迎えたるに、ステッセルは一々握手した。彼の テッセル夫人は、乃木大将を午餐会なり晩餐会なりに招待将校にて出迎えたるに亦た一々握手した。かくて午後一時 したしと希望したが、とてもそれは実現できないことなの半となるや、列車は、前頭に俘虜の水兵数百名を載せ中央 なる三客車の一輛にステッセル将軍一行、一輛にゴル・ハト で、津野田は乃木大将にお取次は申すが御多忙とて実行は ウスキー将軍以下各将校、他の一輛に婦人を載せ、後方にセ 困難と、所謂お茶を濁すをやった。 ・ハストボル・ポルタバ二軍艦の水兵数百名を載せ、気笛両 津野田がステッセル将軍の官邸を辞するとき、玄関で、 マルチェンコ中尉は耳語の如くして、乃木大将の言行を詳三声静々と煙りを吹いて出発し初める。我が将士は一斉に しめ しく承知しないが、血あり涙ある良き長官で、或る点は我敬礼し、いと沈やかに別れる、彼の婦人は口々に別辞を叫 の んで行く」 がステッセル中将と酷似するらしく見受けたといった。 本乃木大将は津野田に「男らしい男だ」とステッセル将軍ステッセル将軍を見送った人々の中に、トルコの観戦武 官オスマン大佐があった、大佐は「旅順攻囲軍』の著者の 志のことをいった。 捕ステッセル将軍の旅順を去る日は一月十一日で、この日傍にいて、将軍が駅に来たとき、日本人の全部が心からな ダルニ 日も晴れていた。矧川の書いたその記述を引く。青泥窪線のる敬意を表するをみて、落涙した。大佐は通訳の太田騎兵 ・パッシャが露土戦争の 始発駅である長嶺子の駅前は、誓約すみて帰国の途につく少尉に語った、予の伯父オスマン ものと、日本へ送らるる捕虜とで混雑したその中で、「馬とき、プレブナ要塞を死守したれど、砲弾尺、き糧食を欠
を扶け、病者を慰め、人々は彼を呼ぶに親切将軍といつある開城をなしたるに比べて、ステッセル果して何の面目 た。責任を他に塗りつけて栄職についたり、責任を回避すかある」とやっ付け、更に、籠城者中に開城反対者があっ たとしし 、、、「某将軍の如きは大なる反対論者で、開城通知 るに巧みなる努力をしたり、醜怪な敗北将軍がいた中に、 独りステッセルは卓抜な人物であることを、その地位や世のその日まで、鶏冠山砲台の内に、大いに防禦策を講じた ということである、或は旅順要塞の今日まで維持し得たの 評がどうであろうとも、心あるものであったなら直ぐ判っ は、ステッセルでなくしてこの将官であったかも知れぬ」 た。大体、樋口石城の説くところは、こうであった。 とまで云っている。日本の国民感情は、当時の兵站部中尉 旅順開城後、日本人のステッセルに対する感情は良かっ た、だが、「この開鹹は果して全くカ屈しての開鹹であろの説が広く伝わったとしても、それよりは、ステッセル将 うか」と、非なりとするものもあった。「予が見たる日露軍とその部下とを、賞讃するのに熱心であったに違いなか 戦争』 ( 佐藤清勝中将、昭和六年刊、軍事普及会本 ) がそれであった。 る。佐藤はそのとき第十師団 ( 姫路 ) 兵站部付の中尉で、陣一要塞砲兵の手紙の中から、当時、ステッセル将軍をど 中で書いたものを二十五年後に刊行した。佐藤のいうのう観たかを採りあげてみる。一月十三日付、旅順よりの大 は、旅順には将兵がまだ多くいた、弾薬も糧食も多分にあ沢上等兵 ( 後に伍長 ) が父に宛てた手紙に、水師営を行軍 った、望台一帯の高地こそ占領されたが、老鉄山の一隅に中、はからずも、ステッセル将軍が会見に来りしに会い 、、、「此の人 立籠れたのだ、そうしてこの要塞の陥落が一日でも遅けれ行軍は中休みとなり、将軍の帰るをみたとしし が数カ月に亘り、我が猛烈なる攻撃に堪えたる勇者かと思 ば、それだけ日本の第三軍を引きつけておけるではないか と云うのである、だから「人はステッセルを称して最も勇えば、自ら尊敬の念起り候」とある、兵隊はこうみたとい の猛に且っ執拗なる将軍なりと評して居ったが、果して彼はう一例である。因にこの兵隊はそれとは別に、盤龍山砲台 本充分にその性能を発揮したであろうか、彼は長き月日の守を攻撃のときのこと、一敵兵の勇敢を言ったものがある、 志城に倦むと同時に、我が勇敢なるにその判断を過ったので「もう斃れたかと爆煙の隙よりじっと見守るに、彼は悲壮 捕はあるまいか、兎に角この開城には全然同意することが出にも、まだ腕に撚りをかけて奮闘している。今度はと見れ てんば ば彼は尚お砲の転把を握りつつあり、その剛胆、その男 来ない。ダンフェル大佐が寡弱の兵と防禦薄きベルフォー ル要塞を以って尚お、普仏戦争に、普軍の大兵を引受け敢、噫、われ何の怨みが彼にある、彼も祖国の為に身命を て、遂に降らなかったが、仏国政府の命令に依って、名誉抛っていると思うと、不測も涙は潸々として征衣を濡し
八十二歳の高齢をもってなお矍鑠として、最近ではエジン後の五月二十八日、鳳凰城で天幕劇場がつくられて、夜、 パラ大学の名誉校長に推挙されたという」と、『思い出の日本兵の芝居と中国人の奇術があった、それを見物してい 日露戦争』の訳者の序文にある。又、「武人というよりも たハミルトン将軍は、思いがけず露国士官の捕虜をみたこ 寧ろ詩人といった方が適切な」と親しく接した人々はいっ とを書いている。「芝居の最中に私に附添っていた特務曹 たともあり、「確かに卿は詩人である、現にその著書の中長がそっと退席したので、窓の外をのぞくと捕虜になって には詩集もあると聞いている」とも述べている。 いる露国の一将校が一人、しょんばりと食事をしているの 五月十九日、韓国の龍岩浦へ、大同江溯航の船から上陸が見えた。この青年将校は遙々故郷を出でて、五月一日に したハミルトン将軍は、その二十四日の ( 注この日付の四戦線へ到着したばかりであった。事情に通じない彼は、日 は誤植らしい 、というのは二十五日の次に二十四日の手記が出て本将校も露軍の捕虜になっているものと思い込み、その一 いるからだ、それだけでなくハミルトン将軍が第一軍司令官黒木人と交換して貰うのを待っているのであった」。前にある 為楨大将に会ったのは二十五日であるから、次に引く記事はどう コザック士官が、「一刻も早く日本将校の捕虜と交換して しても二十五日か、その以後でなくてはならない ) ところに、次貰いたい」と希っているのと、おなじ心状だった。将軍の のようなことを書いている。 手記はつづけて彼我の捕虜観について書いている、「日本 「黒木将軍に会ってコザッグ士官及び数人の露兵を捕虜には捕虜の恥辱をうけるくらいなら割腹して死んでしまうと した話を聞いた。その一団は上官が乗馬をうしなったため っている」と。そうして次のように手記は語りつづけて はぐ に、行動を共にした部下が自軍に紛れて、林中に露営して いる、「暫くして戻ってきた特務曹長は、彼は麦酒を二本 いたところを支那人に密告されたのであった。その密告をならべてなかなか贅沢をしておりますよといった。彼は捕 受けたのは軍用列車の係員で、唯一の武器は短刀だった虜になったとき、二十留を所持していたので、日軍から支 が、手近の樹木を切倒して六尺棒をつくり、手に手にそれ給される食物以外に、麦酒や煙草などを買うことを許され を提さげて森を包囲し、歩哨に立っていた二人の露兵に急ていた。余興が済んで後、私は二人の若い近衛兵に送られ を知らせる暇を与えす、一同を捕虜にしてしまった。そのて宿舎へ戻った、彼等は収容されている露軍の負傷兵達 なぶ 士官はまだうら若い好男子で、何を問われても口を緘じてが、日本人に嬲り殺しにされると信じ込んでいたのに、食 語らず、ただ一刻も早く日本将校の捕虜と交換して貰いた 物や酒などを与えられ驚いていたと語った」と。 いといっている _J という。それから鴨緑江の戦いがあった 将軍の手記の六月二十六日に移ると、こうしたことが書 かくしやく
142 当時、グルガンナャ砲台にあって闘ったカラムイシェフで、戦艦ポルタワから来ていた海兵中隊が逆襲をやり、砲 中尉の『旅順籠城回想録』 ( カラムイシ、フ元少将、西暦一九台のすぐ外で格闘戦となり、日本兵の生残りが悉く斃れ 二九年昭和四年刊 ) は、その夜のことを語っている。 クルガンナャ砲台には口径の違う二十七門の大砲があり 戦いは止んだ。敵軍は遠く退いた。空が明るくなったの 守備員百八十名があったが死傷続出し、補充員が送られ、 で見渡すと、視線の届く限りどこでも死体で一杯だった。 その時は、砲兵の生残りと海軍兵とシベリヤ狙撃隊の兵と味方も百八十名のうち六十名を失った、ことに海兵中隊は の混成で、将校も陸海の寄合いになっていた。その晩は二その半数を失ってしまノた。 十八名の死傷を出し、大砲三門を壊され、漸く日本兵を退四十二口径砲のところに一人の日本将校が死んでいた、 け得たので一息していると、又も日本兵が砲台の内に突入彼は先頭第一に砲台へ飛込んできた勇士中の勇士で、日本 してきた、彼等は四十二口径砲をやってしまう決心らしく刀をもった右手が長くのばされ、前へ前へと部下を指揮し 爆弾を投げこんで突入し来たり、四十二口径の砲手を斃しつつ死んだと確かに見られた、その後方に日本兵の一群が た、たった一人の軍曹だけが、日本兵とぶつかりながら逃死んでいた。彼等は銃をもたず爆薬の東を抱いていた。こ げ終せて助かった。カラムイシェフ中尉は兵を指揮して闘の一群の死者は疑いもなく、決死隊の先頭隊であったに違 、味方の第四砲台からの援助砲撃をカにやっているうちいなかった。地区守備隊長ムゼーウス大尉はスタンゲンウ に、クルガンナャ砲台の砲口からもやっと火を噴いた。こ ィッチ二等大尉に命じ、勇敢なりし敵の死体を、共同墓地 の戦闘中に中尉は頭に負傷して昏倒した。この二回とも日 に埋葬させた。 将校が集まって焼豚その他で、酒盃を手にしたのは正午 本兵は砲台の胸檣の外へ撃退され、ことに二回目はそこで 過ぎだ。シンドロウィッチ二等大尉が黙って盃に酒をつい 日本兵は砲火と銃丸とを浴び悉く斃れた。 翌日の昼も日本兵は攻撃してきたが砲台に寄りつけなかで廻った。この食卓で彼の日本将校の話が出て、彼のもっ った。夜に入っても戦闘がつづいた。と、第四砲台の放っていた日本刀が、カラムイシェフ中尉に記念品として贈ら 探照燈が、グルガンナャ砲台へ忍び寄る日本兵の姿を明るれた。 ゴンドラチェンコ将軍がーー将軍は籠鹹の将官中第一の く照らした。日本兵は這い寄って手榴弾を砲台の内に投付 け投付け胸檣の上に現われ、数人ずつで突入してきた、次人物で、将兵の尊敬と信頼の目標だった、開城の前にこの 次にそれはこちらの手榴弾と銃剣に斃された。そのすぐ後将軍は戦死したーー。電話口にカラムイシフ中尉を呼び、
挙げつ、貴国軍隊の今朝、旅順口に入るを見しに、部伍整きじいさんなりと。清水大尉日くその父子の情というに感 粛、兵仗鮮明、誠に欽羨に堪えざりしと呼ぶ。午餐の後、激して涙を眼一杯に溜めたる処などは、聞きしに相違せる 写真班長清水大尉 ( 潔 ) は彼我の将校を外庭に撮影した。た至誠の人なりと。渡辺砲兵少佐日く、彼も君子人なりと。 またまステッセル将軍には、我が将軍に謂って日く、われ川上外務書記官は、昨日乃木大将の言を持ってステッセル 馬を愛するあり、駿馬四頭を旅順口に飼えり、内二頭はを慰問し、且っ今日は専ら通訳の任に当りたる者である 純アラビア種にかかり、今日騎り来りしものその一なり、 が、日く昨日乃木大将の言を持ち、ステッセル夫人を見 今や老生故国に帰隠すべく復たと多頭の馬を要せじ、将車て、遠慮する処なくその私有荷物を携帯せられよ、我が軍 請う我が純アラビア種を笑受するを得ば、誠に望外の幸なは必ずよく処理せんというや、夫人は謝していうには、厚 りと、我が将軍答えて日く、厚情は感謝するに余りあり、 情は感謝に余りあり、然れどもこの際何ぞ私有荷物を携帯 而かも馬や閣下の私有にかかるもの、亦た武器の一種に属することを用いん、われ夫と共に本国に帰りたる後、二、 するものなり、即ち老生の心より申せば、この際むしろ閣三カ月間は田園の間に優遊し、詩を読み小説をさんとす 下の馬を受けて私有とせざらんことを欲す、ただ我が軍にるのみ、我が私有物の如きは貴軍にして保管されなば可な てこれを収めたる日には老生は殊にこれを愛護して監督すりと、かくて自ら首となりて籠鹹中なる将校の妻女と共に べし、希くば今にあたり閣下が馬上英風の颯爽たるを見れ各将士の衣服の裁縫洗濯に従事せり、亦た一女丈夫なり ば望外の賜なりと、ステッセル日く可なり、乗て逸物たると」 を将軍に示さんかなと、即ちその白蘆毛の純アラビャ馬に さるにても降将に、イエスかノーかと卓を叩いて睨みつ 乗り、葉巻煙草をくゆらしつつ悠然と外庭を騎すること、 けた降伏談判があったという、それもこれもおなじ日本人 往復二十余回の後、馬を下るや、我が将軍には掌もて馬の によってであったが、その違いは余りに大きかった。 しん いちもっ 顔を敲くこと五、六度、日く真に逸物なるかなと。この様再び『斜陽と銕血』その他から補足する。 子を遙かに眺め居し彼のコサッグ騎兵には、いずれも馳せ 二将軍の間にあって通訳したのは、遼東守備軍司令部の 来り、あれがジェネラルノギかジェネラルノギかと口々に事務官で、ロシャ事情に通じている川上俊彦だった。 くつわ して、乃木大将の進退を見詰めて居った。午後一時ステッ ステッセル将軍が騎乗するにあたり、馬の轡をとったロ セル等は辞し行くに当り、おのおの我が将軍以下の手を握シャ兵の胸に、・ ケォルギー勲章が輝いているのを乃木将軍 り、速歩にて騎し去った。松平副官目送して日く、人のよが見てその由来を聞いたが、ロシャ兵は茫然として答える しゅ
152 りきらん え、併せて勧降書を渡した。これに対する敵側の答えは、 隊本部に充てたる中国人李其蘭なる者の門前に至り ( 去る 天皇の思召は時日がこれを既に許さず、勧降書について二日、開城に関する日露両国委員の会見所も此処なり ) 一行はっ は、祖国の尊厳と名誉に背反すと拒絶して来た。こういうと馬より下り、会見所に入るや、仏蘭西仕込みの渡辺砲兵 しとや ことがあったのである。 少佐 ( 満太郎 ) は優かに出迎えてステッセル将軍の外套を脱 話を戻すーーー津野田参謀は一月三日の昼、乃木将軍の命 がせつつ控室に案内し、暫くして我が乃木大将、伊地知参 をうけて、騎兵二騎をつれて旅順に入り、官邸にステッセ謀長・安原参謀・松平副官も到着し、世界二大国の両雄は ル将軍を訪い、明治天皇の思召を仏蘭西語に意訳して伝え控室の前なる会見室に会合した」 た、将軍はそのとき完全なる軍装をし、起立し敬礼して聴 ここで志賀矧川はセダン降伏の際ナポレオン三世とウィ ルヘルム老帝との会見、リチモンド陥落の米国南軍のリー そこで再び、志賀重昻の書いた乃木ステッセル二将軍会将軍と北軍のグラント将軍との会見、ヨークタウンの敗戦 見のところを引く。 後、英国の将軍コーンウオリス卿と米国のウオシントン将 一月五日の晴れた午前十時四十分のこと、「我が津野田軍との会見を、汕画や石版画やに見たし、或いは歴史書の 参謀と二伝騎とに導かれ、滴るばかりの水色外套を穿てる挿画で見たが、それにつけても水師営の両雄会見を絵画に だく 露国の将校四騎が旅順ロよりの坂下道を速歩にて来る、第して、その建物を赤や青で塗ったり、乃木大将がいろいろ 二騎目には、背高く髯麗しき老夫子が白蘆毛のアラビャ馬の勲章で胸をきらきらさせたり、ステッセル将軍が剣を乃 に乗り、黒漆塗の光沢を放てる鞍にうち跨って居る、即ち木大将に手渡しするなど描いたりしたら、その虚妄も甚し 旅順ロ要塞司令官のステッセル将軍である、次に年齢五十いといし 、会見所の李其蘭の家屋はロシャの四十七ミリ砲 なら 許りのこれ亦た背高き一将軍が、ステッセルと殆んど相並丸の痕があり、乃木大将は黒の上衣に白のズボン、左肋に んで来る、即ち旅順ロ要塞参謀長レイス将軍である、二将一つの一等勲章を、胸の正面にかけた金鵄勲章は半ば蔽わ 軍の前後に騎し行けるその他の二将校は、一はステッセルれていた、ステッセル将軍は黒の上衣に黒ズボン、黄金色 将軍の副官ネべレスコイ、一はレイス参謀長の副官マルチの剣佩を斜めに肩に襷がけにし、一つの武功章と一つの勲 エンコにて、共に少壮なる中尉である、四将校に次でコサ章をかけたのみであったと力説している。 おもむ 乃木大将が徐ろに起って右手を出すと、ステッセル将軍 ッグ兵が七騎護衛して来た、例の如く長き騎銃をば銃床を 下にして肩にして居る。やがて水師営の南西隅、我が衛生が起って固く長く手を握った。「彼の将軍は先ず我が将軍
乃木将軍からステッセル将軍に書面で、グルオンナャ砲台写真は彼の婚約者を撮ったもので、彼は彼の一番貴重な物 強襲の夜、戦死した日本将校の軍刀を返して欲しいといつを贈ったのだと告げた。中尉は命のあらん限り、貴官の宝 て来た、その軍刀は噂に聞けば貴官の手許にあるとか、そ物を大切に保存すると礼をいった。 そして敵は、数日前、斥候に出たままのタブソシャール れにつきステッセル将軍は貴官の意向を知りたいといわれ ているとい「た。中尉は軍刀を返却するは、我が砲台内で中尉の凍結している死体を返還し、又、赤十字の手を経 見事な最期を遂げた日本将校に対する我が騎士道の義務でて、ロシャ本国の両親その他に通信する希望あらば、喜ん あり礼儀と思いますと答えた。将軍は有難う、私も全く同でその協力をするといい、麦酒、鶏を贈り、差押えてあっ た郵便物をわれわれに渡した。 感だといって喜んだ ( 注ゴンドラチ , ンコ将軍はそのとき、 さてそれから後で、日本軍寄贈の麦酒と鶏の処分が問題 その日本将校は身分高き人で、その日本刀は天皇の恩賜であると いったと云う、だが、それは誤りであること、後の話をみれば判となった、シンドロウィッチ二等大尉の説が可決された。 る ) 。 二等大尉は司令部の奴等は物質的不自由がない、その代り 露暦十一月十六日、その方面の戦闘を一時やめて、彼我武人的精神が欠之している、そんな彼等に、この品々を贈 っては有害にして無益で、その結果はいよいよ出鱈目を多 の死体収容と日本刀返還につき、敵の軍使と交渉せよと、 くするであろうから、第一線の士気作興のため麦酒と鶏は 要塞司令部からグルガンナャ砲台に命令がきた。 その日、敵の軍使の一群が白旗をかかげてや「て来たのこっちで貰い、郵便物は彼等を鼓舞激励する資料となるか で、こちらからはムゼーウス大尉が、白旗をかかげさせら送ってやろうというのだった。 ご馳走が愉快にしてくれて将校たちは、いろいろのこと て、砲台前の斜面へ降りて行った。要塞司令部から到着し のた将校と、砲台の将校達もおなじ斜面に行った。カラムイをいい出した。日本刀返還の話になると、だれもが真剣だ った。ウリオーニ少尉は、騎士道ここに行われるを見た 本シェフ中尉はオルロフ曹長に、彼の日本刀を持たせて行っ り、伝え聞く日本のサムライ道も、その本質において騎士 志た。 、ムゼーウス大尉もわれ騎士道精神の 捕死体収容について敵の大佐は司令部派遣の将校と何ごと道と一致するといい 又スグルラートフ中尉の 日かを語っていた、そうした後、日本刀が敵の大佐に中尉か権化を日本将校に見たりといし ことを聞いたか、彼は露暦六月十七日狼山の戦いに中隊の ら返還された。この時、カラムイシ = フ中尉は敵の砲兵科 の一将校と親しくなり、一葉の写真を貰「た、通訳はその指揮を執っておったが、退却命令が彼のところに届かなか
に謝して日く、昨日はわざわざ人を遣わされて、我が一身至っては代々サムライの家の事なれば、サムライの家に産 上に就き情け多き慰問を賜い、数限りなき親切の言葉を下れたる者が、天皇の為めに身を殺すは当然なり、二児の如 されしのみかは、、い尺、しの御賜物 ( 葡萄酒一ダース・三鞭酒きは少しだに意に介し居らずと答うるや、ステッセル将軍 けなげ 一ダース・鶏三十羽 ) さえ辱うせしは、返すがえすも老生敗には然りとは健気なり、国家のために家族的幸福と利益と 後の面目なり、さては貴国皇帝陛下よりの優渥なる御思召を悉く犠牲に致さるとは真に大人の道なり、ああ貴国の将 すら伺いて、この上もなき感激を催おせりと述ぶるや、我士の勇敢なる実に因る所あるを悟れりと云うや、乃木将軍 が将軍には、長々の籠鹹にて将軍の夫人・小児衆のさそやには勇敢なりとは貴国の将士の事なり、健気とは将軍の言 御困難なりしことを思い詑び、聊か心ばかりの慰問と贈物行なり、さてこの戦争中、将軍の最も感起されたるものは 、彼は直ちに言葉を発 とをこそ致したるなれ、さは言葉を尽して謝礼致されまそもそも如何なりしそとの問いに じ、却って隗しけれと答えられしに、彼は我が小児達とし、おう彼の二十八珊砲の初めて射ち来りし際よ、この際 な、一人だに旅順口には居らず、ただ父は戦に斃れ母は籠はど感起の極を尽したることはあらざりしと答えたれば、 城中に亡せ、身の頼りもなき憐れなる十一歳を頭に六歳ま我が将軍には貴国の将士が余りの勇敢なるより、遂にこの での孤児、女四人男二人養い居る外には家族とてもなし、如き砲すら用いざるを得ざるに至ったのである、然し貴国 尤も実子は近衛士官となりて本国に勤務し、先日旅順口に の砲台にて用いられ居る堅固のベトン ( 堅きセメント ) には 来りて父と共に戦いたしと書面を寄せ来りしも、まずまず如何に二十八珊砲とてよも破るを得ざりしならんと問う とて止め居けるに、昨日承れば、将軍の二児には共に戦死と、彼は否とよベトンしきが何んそ二十八珊砲に打ち破ら せられしとかや、老生が児を思う情より酌みて、親たる将れざることあらんや、実に怪物的なるかなと叫びたるよ の軍の情たる如何ばかりそと、両の眼に涙を溜めて語る。すり、我が将軍には否とよ海上の魚形水雷を陸上に爆発され 本ると我が将軍には、いと感に打たれけん、昨日貴邸に遣わたるなど貴軍の為す所も実に我々の胆を破れりと答えた。 志したる者より将軍が父母なき孤児を愛しみ、孤児も亦た将 かくて正午過ぎとなり、時刻なればとて午餐を共にせられ たるに、酒酣にしてステッセル将軍には意気漸く揚がり、 捕軍と夫人との傍に来り、腰に纒い椅子に倚りなどして恰か 日も真の父母の如くなし居れる趣を聞き、将軍の小児衆の旅日露両国将士の勇なる善戦を説き、乃木大将の武幹の比倫 ひそ 順口にあらざることを知ると共に、私かに将軍夫妻の慈悲なきことを激賞し、盃を挙げて大将の健康を祝せし際に、 きみとそうと 深きを我が心に忍び居りけり、さては老生の二児の如きに実に天下英雄君与操との観があった。レイス参謀長も盃を
8 た」というのである。惜しいかな、見事なるこの敵兵の生 た、四歳の児はその時も馬の前鞍に乗せられていた。剣山 死を知ることが出来ない。 の戦いに中佐は戦死した、戦死の直前、中佐は児を地上に これは『一兵卒の征露日記』 ( 大沢径、昭和十二年刊、大沢棄て、我が児を神に托すといし 、二度と顧みず戦闘に突入 本 ) にある。さるにてもこの兵隊は、敵兵に敵将に、涙をして行ったのだった。その晩からこの児もステッセル夫人一 流しつ尊敬を払いつ、サムライ心を寄せている。 の子になった。 前述のうち数カ所に、ヴェラー ・ステッセル夫人が孤児旅順のロシャ商人クダシモフは、開戦前、帰国を許され を養っていることがあった。『旅順籠城談』によると、そたが去らず、大尉として要塞司令部員となり、必要品の徴 . の孤児のうち、十歳と八歳と六歳の三人の女児は旅順の貿発・人夫徴用の任にあたった。九月、日本海軍の射撃に負 易商人アルチャンギリオスキーの子で、開戦となると父は傷し、入院中に日本海軍の間接射撃に即死した。彼の妻も 召集され、スミルノフ将軍の部下となり、地位は義勇軍出死亡した。大尉の女児は五人の孤児のうち年長なので、ス 身の二等大尉だった。南山の戦後、単身偵察に出て日本兵テッセル夫人を扶け、幼き四人の世話をやいて日を送っ に射殺された。その夫人はワカウロリナといい、夫の戦死た。 後、特志看護婦となり、或る日、旅順を出でて二十五哩以 二〇三高地に戦死した将校の女児アレグュは六歳だっ 上にわたる日本軍の戦線に潜入し、機密を探って帰った、 た、死せる父とフォーグ将軍がよく似ているので、フォー 彼の女は亡夫の意志を継いで、こうしたことをやったのだク将軍をみる毎に、父よ父よと絡みつき、父はいっ将官に ろう。再び彼の女は、日本軍の機密を探りに出でんことをなったのかと尋ねた。フォーグ将軍は俘虜として日本へ、 乞うたが、あなたは三人の子を愛育する義務があると、許ステッセル夫人等は帰国のとき、この児はフォーグ将軍の しを得ることが出来なかった。九月中旬の或る日、彼の女傍をはなれず、ためにフォーグ将軍はわが児よ共に来たれ は一書を残して再び敵の戦線に向った。やがて帰ったのと、伴って日本に去ったという、だが、日本におけるフォ は、中国服を着た彼の女の戦死体であった。 ーク将軍とこの児とのことを知ることが出来ない、だれか 五人の孤児のうちただ一人の男児は四歳で、父はアレキ引取る人あって、子供は日本に渡らなかったのであった、 サンドル・ウィッムウフ歩兵中佐だった。中佐の妻は戦争と思うべき点がある。 の一カ月ほど前に病歿した、中佐は四歳の児を乗馬の前鞍志賀重昻は六人の孤旧ノとしし コステンコ少将は四人の に乗せ旅順に入鹹した。中佐は南山の役に日本兵と戦っ少女と いい、「旅順籠城談』は五人の孤児しか挙げていな
その次に水色の外套を着けたる敵の将校が三名騎して来し、我が伝騎の肩に懸けようとは全く反対なるより、我々 る、そのうち背の三尺三寸もある咽太く肥大なる青馬に跨の眼には最も異様に感ぜらる、騎銃の肩に懸けようの相反 って鷹揚に構えたる者が、今日の敵委員長なる旅順ロ敵要対することにて思えば、敵の将士の剣の佩きようも亦た刃 塞の参謀長レイス将軍なり、その次に赤十字を袖に章したを外として居るより、その様子は古代の日本武者の太刀を る老将軍が騎し来りたるが、予の一人異りたる服装して小佩けると同様に見え、今日我が将士は、封建武士の刀の佩 、ちはや きようと同じく刃を内にして佩けるより、これを見慣れ居 高き処にありしを逸早く認め、帽に幾度か手を当てては莞 爾として、何か大声にて喚びたれば、たれ人なるかと見詰る我々よりは、敵の将士の佩剣は、ことに異って見える。 めると、去る十二月三日東鶏冠山北砲台にて屍体収容の際さて又九騎の乗り居たる馬の内には本国又はシベリヤ産の 彼我の将校と共に五時間同席したるパラショップ中将 ( 宮逸物もあるが、多くは中国馬にして髯逞しき荒れびたる大 中顧問官、赤十字社理事 ) である、予も亦た帽を振ると、老男が、背低く身体小さき痩せ馬に乗り居るより対比として ここのとき何と喚これ亦頗る異様に見える、然し彼等の馬を使うこと天才に 人は自分の帽をも脱する、後に河津通訳レ びたるにやと聞くと、我君を記憶す教授よといったのであ出でたる如く巧妙にして、ププと口を吹けば ( 日本及び英仏 るとのことである。その次に東鶏冠山砲台にて二〇三高地などにてはオーラオーラと呼ぶ ) 如何に荒びても馬は直に静ま 、又、天国に遊ばざる以上 ( 戦るのである。予はこの九騎の後に跟して水師営の彼我会見 はなかなか売らぬそといし 死を指す ) 、平和克服の後、日本に遊ばんかなと叫びたる要所まで騎し行った故、彼等の馬を御する方法をよく見、ま ことに嘆服した。会見所に着くと彼等は一斉に馬より飛び 塞参謀長フポストフ中佐が水色の外套を着けて騎し来り、 たずな ( ラショップが予に礼せるを見て、彼も思い出しけん、我下り、自分の馬の勒を腕にしながら、将校の馬より下ると のも亦た君を記憶するといえる顔色を表わし、満面に笑を帯みるや、直ちにその馬を始末する処などは、術の神速なる 本びつつ度々帽に手を当てて礼する、予も亦た帽を幾度か振こと曲馬をみるようである」 志 0 た。その次にこれ亦た水色の外套を着けたる将校が両一一一「午後一時後、敵の委員は会見所に入り、我が軍の委員長 たる伊地知少将参謀長等と会見し、我が提出せる開城条件 捕騎来り、次に彼の白旗を押し立てる一騎が来り、次に我が すなわ 日河津通訳が騎し来り、最後に彼の乗馬歩兵が九騎来た、乗の寛容なるを見て輙ちこれを承諾した。仄かに承る所に拠 馬歩兵はいずれも騎銃を肩にして居たるが、銃は日本の伝ればこの件に関し、我が天皇陛下より敵に対し武士たる名 騎のものよりも長く、ことに銃身を上にして銃床を下と誉を保たしむべしと、最も寛宏なる御思召ありたるより、 しる ほの