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検索対象: 長谷川伸全集〈第9巻〉
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1. 長谷川伸全集〈第9巻〉

兵第二十七聯隊 ( 旭川 ) の中尉であった人で、旅順・奉天の 話を入れる。 鳳凰城に集合した川村景明中将の第十師団の先鋒が、二歴戦者である。 月十九日 ( 明治三十八年 ) 域城を発し、二十四日清河城を抜 ◇ いた、そのとき一人の日本兵が敵の捕虜になった。その兵 は第十師団のものではなく、旅順攻囲戦の方に行っていた奉天会戦は三月一日を期して、日本の全軍が攻勢に出で たに始まり、三月十日の奉天突入を経て、追撃に移り、鉄 第十一師団のものだった、たまたま第十師団の或る隊へ付 占領 ( 三月十六日 ) 三月十七日の中固占領までをいうので いていたのである。 グロバトキン将軍はそうした日本兵一名を獲たので、旅ある。ときに日本軍の総員は二十四万九千八百、ロシャ軍 順の乃木軍が北進していて、この方面に来ているものと判は約三十二万だという。日本の死傷七万二十八、ロシャの 断した、成程、乃木軍は北進中だった。『乃木』 ( 米国新聞損害は約九万と思われる。日本軍の獲たる捕虜は二万一千 コ心亠須スタンレイ・ウォッシュ・ハー、 一九一三年米国刊行、目黒真七百九十二名である。とこれは『日露陸戦新史』のいうと 澄訳、大正十三年刊、東京文興院本 ) はこの頃のことを、「乃木ころである。書いてはないが、奉天会戦の序曲にあたる二 大将とその部下は、二月中旬を以て大山聯合軍の背面に到月中とーー前にある第十一師団の兵が捕えられたのはその 着した、そして殆んど同時に奉天戦争が開始された」、「乃ころーーこの会戦の勝敗決定までに、日本兵の捕虜となっ 木大将の名は露軍の翼端から翼端まで、恐怖の響を伝えたものがある筈だが「日露陸戦新史』も、他の多くの戦記 た、兎に角、乃木軍が大山軍に合体したことだけは、凡てとおなじく、味方の捕虜の数は挙げないでいる。捕虜観が の露兵の知るところであった、しかし何処に撃って出るか東西では大きな幅の相違があった故だった。 のを知った者は一人も無い」といっている、こういう時だっ ◇ 本たので、一名の日本人捕虜が乃木軍の一員であるというこ 内地の補充隊から戦地に渡った四百八十余名の補充員 志とが、ロシャ軍をしてこの方面に彼等は来ていると判断さ が、満洲の土を踏んで六日目に、戦闘中の本隊に着いて早 捕せ、主力を右翼に集中させたい奉天会戦の敗因の一つはこ 早、その中の一青年将校が聯隊旗手を命ぜられた、七人目 日れであったと、『血けむり』 ( 安川隆治、明治四十四年稿、昭 和六年刊、戦記名著刊行会本 ) はいっている。ただしこれは単である。それまでに六人の旗手が戦死し負傷した。 に兵隊の茶話か、それ以上のものかを知らない。著者は歩奉天会戦がはじまって、勝敗の見透しが立たない三月四 てつ

2. 長谷川伸全集〈第9巻〉

るほど出る。 ら、出来るだけ頑張って戦うことである」と、諧謔をここ 著者はこの本の必要上で、帝政ロシャ軍の捕虜のことので将軍はつかっている。だが、これより年久しくして、こ みを引いてきたが、「思い出の日露戦争』から興味ある露れを読んで背に冷たい汗をかかせることが、われらの間に 兵のことを次に又も引いてみる。ハミルトン将軍が九月一一二度とないことを望む。「敵の鮮かな応戦振りをみている 十二日、遼陽に第四軍司令官野津道貫大将を訪い、その参と、たれかが ( 注日軍の参謀官のたれかである ) 、なかなか 謀から聞いた話レ こ、「日軍が突貫したとき、二十人ばかり味をやるわいと呟いた」という記事もある。敵が鮓かな応 の兵が誤って敵の塹壕に墜落し、戦友と孤立してしまっ戦振りをみせたので悪態を吐くものとは、雲泥の差だ。こ た、ところが塹壕内の露兵は、日兵の負傷部に繃帯などしう抜萃をしてくるといくらでも材料は引出されるが、これ て、そっくり帰して寄越した」というのがある。こうした はこれで打切りにして、この本の題目から逸れはするが、翌 露兵が特異のことだということは出来ない、当時の敵は騎年 ( 西暦一九〇五年、明治三十八年 ) 二月六日、将軍が戦雲いま 士道精神を失っていなかったので、敵と味方との間に花もだ濃くただよう満州に、サヨナラする日の逸話を引きたい。 満州軍の最高司令官だった大山巌元帥は、明治前後に相 ときどき咲き、結実をさえ見た。 将軍の『手帖』から別なことに移るにあたって、引いて当ャンチャな鹿児島武士大山弥助で、のっそりしているか 以って日本人の眼から心へ送りたいものが少からずある。 と思うと俊敏で、牛かとおもえば獅子でもありだったとい 摩天嶺の惨戦の一隅の闘いで、不利の形勢となったのをう。謂うところの封建武士の教育に訓練されて成人とな 観て堂々と退き去った露軍は、日本軍の戦線近くに五十四り、明治以後の新風潮をいつの間にか身につけ、封建と文 の露兵の戦死者をのこしていた、これらの死体の胸に英語明開化の総合を、黙々として体一杯から滲みださせていた で、「勇敢なる日兵よ、どうか吾が遺骸を葬ってくれ給え」人物だった。満州軍の総帥たるとき、一切を児玉源太郎大 と書いた紙片を、ピンで留めて置いてあった。「日軍はこ将に任せ、大兵肥満の体を屈め紙屑から紙片を選んで、折 . の勇士を手厚く葬ったばかりでなく心づくしの花束を手向鶴をつくるに毎日余念がなかった、出来あがった折鶴は他 志 掫けた」と将軍は書いている。そうして「日兵ほど勇敢を讃人にも与え、自室にも糸につらぬいて天井に蜘蛛手に張り 畔美する兵はない、彼等は相手が手強ければ手強いはど好感めぐらしていた、という俗説ながらあの人ならそうかも知 をもつのである、この激戦に参加した勇士は、その後いつれないと思わせる逸話もあった。その大山元帥が、「日軍 とともにある日が夢のよ、つに過ぎてしまった」ノ までも露軍を褒めていた。日軍の信用を得ようと思ったな

3. 長谷川伸全集〈第9巻〉

132 装させ、錦州の青本宣教少将のところへやり、厚く礼を述日本軍はただの一発も射たず、沈黙の前進を活にやり、 べさせ、古荘通訳の功績を告げ、満人兵の勇敢と忠実とをそのうちに機をみて駈足に変り、敵の集中射撃の間を衝き 報告させたーー井一尸川辰三は晩年、一書を著わした、そのぬけ、突撃に移った、突撃に次ぐに突撃し、又突撃した、 ときに右翼の日本軍は敵に遭遇せず、相手なきところを、 中には古荘のことも逸見のことも書いている。 十月十三日の晩から古賀少尉等は、以前の騎兵斥候に戻敵の左翼に大廻りし、三槐石山部落に拠る敵と合戦し、た り、十四日の夜西仏牛彖に戻り、井戸川少佐と張作霖に古ちまちのうちに突撃を敢行した、そのころ、日本軍は正面 荘通訳を返し、以前の満人兵を犒い、古荘と別れを惜みても左翼も突撃を行なった。戦線のいたるところ日本軍の突 出発し、十七日に、李大人屯にある騎兵第三聯隊へ戻った。撃だった。突撃は射たれても射たれても続き、やがてのう 前に二回出した報告は、首尾よく、第四軍の軍司令官のちに全線にわたって格闘となり、突きつくらとなった。 独乙の少佐はこの時のことを手記して、次のような奇聞 手にはいっていた。 を書いた。「三槐石山の村落に於ては、最も勇敢なる生残 、こ、「敵中潜伏十余日」 これは当年の古賀少尉が書しオ ( 古賀伝太郎大佐、昭和六年三月十日稿、『戦争秘話』収録、昭和り部隊のみ、一時間以上、燃えさかる家屋に拠り、頑強に 抵抗した。全く皮肉な現象は、重傷の聯隊長は、最後の手 十年刊、偕行社本 ) にもある。 兵三百と共に日本軍の手に落ちたが、その日本の隊長は、 ◇ 曾て永らくべーテスプルグにて、彼と親交ありし大佐であ ったことだ」と。 十月十二日 ( 明治三十七年 ) から十三日にかけて、沙河会 この事実を語るものに次の信書がある。 戦第二期の戦いである、三槐石山の大夜襲戦があった。 「ーー御承知の通り第一・第二軍の中間へ、後に第四軍と 三槐石山は広大な平地に、花崗岩から成る山で、東側に 三槐石部落がある。グロバトキン将軍はここの陣地の死守なった川村将軍の指揮を、第十師団は最初から受けていま を命じたということである。山は遠くからみると南北にのした。三槐石山大夜襲決行の結果を知る為め、川村将軍の び、頂上から二つに高く別れ、日本の伊勢二見ヶ浦の女夫幕僚町田経宇参謀が特に派遣されて、前線で捕虜の一将校 に会うと、それは露都に於て町田参謀や田中義一中佐 ( 注 岩の形状をしている。 後に大将となり首相にもなった ) と、親交があった人だった 暗夜に乗じて日本軍は、黙々として前進し、三槐石山の ので町田参謀は、満洲軍総司令部に田中中佐がいるから、君 包囲にかかったかくと知った敵は盛んに射撃を加えた、

4. 長谷川伸全集〈第9巻〉

それと知るべきようもなく、追憶の詩を風に和して吟じてにも及ぶまい 弔うのが、せめてものことであった。これは同地の古老な薩州藩島津家に禄七千石だった伊勢隼之助の私領から、 る国井崇経などの語れるところである。 明治戊辰に出兵した、その記録集成の『私領五番隊戊辰従 軍史』 ( 鹿児島県岩川町教育会、昭和七年刊、同会本 ) に『大津 はたち ◇ 十七 ( 良実 ) 談話筆記』 ( 大津廿 ) がある。私領五番隊長大津 荘内藩酒井家が敗れて西軍に降ったとき、西軍の処置に十七は、西郷総参謀から荘内城受取りの大役を命ぜられ 情け深きものがあった、それはそのことに直接あたった黒た、その前に関川の戦いに、私領五番隊が善戦した、その 田了介 ( 清隆 ) のやったものの如く見えた。荘内の菅善太左功によって言わず語らず、この大役が命ぜられたものらし 衛門 ( 実秀 ) の伝を、旧藩士の編んだ『臥牛先生行状』 ( 著 かった。そのときの西郷の命令は、きわめて周到なもの 者不明、旧荘内藩士家蔵毛筆本 ) に、そのことがある。「我がで、敗者に対して優越の感を抱く余地がすこしもないもの 藩の降伏は南洲翁・黒田氏の処分に係り、その規模恢宏にだった、その一例を挙ぐれば、私領五番隊に無武装で高足 して正大公明なる、世に見ゆるところ稀なりしよりその年駄を穿かせ城地受取りをさせた。敵が降れば、こちらの足 の春、夫子、東京に登り給いし時、先ず南洲翁へ心を寄せ許も、靴ならず草鞋ならず、歯が二枚ある高足駄である、 られしも、翁は東京におわせざりしかば、黒田に依りて謀その他のことも推して知らるる。『臥牛先生行状』に「斯く られけり。初めて黒田に会い、降伏処分の寛大なるを厚くて参謀は城を受取り兵器弾薬を収むるのみ、公は ( 藩主忠 しきだい 感謝せられしに、黒田、色代してそは一々西郷の指図をう篤のこと ) 軍門に降るの名のみにて、面縛の恥辱を受け給 けて致せしなり、身共がなせるにあらずと、答うるを聞きわず、家臣をも余所に移さず、自宅に謹慎せしむ事々物 給い、さても真率なる人かなと深く感じ」である。「二年物、皆寛裕にして」とある所以である。 後の春」とあるは明治二年の春のこと、「夫子」とあるはい ◇ 志うまでもなく臥牛・菅善太左衛門のことである。又このと 捕き、西軍の捕虜として待遇する藩主酒井左衛門尉 ( 忠篤 ) 主奥羽戦争によって西軍の捕虜となったもので、諸藩に預 従が、城下の外なる禅龍寺に退くときの如き、西軍の総参けられたものの待遇を知ることの出来るものに、雲州松江 謀西郷吉之助は命じて、西軍の将兵をして見るを許さなか藩の記録がある。それによると、幕臣で東軍にあって戦い った、敗者に辱めを与えない要意であったこと注を加える捕虜となった高阪登以下十八名ーー高阪登は変名とみられ

5. 長谷川伸全集〈第9巻〉

た、女性と気がついているにかからず、将校も兵も、全くている頃の露暦九月二十五日 ( 明治三十七年十月八日 ) 、 の少尉とおなじに扱った。黒木将軍の第一軍司令部へ行っで発行されていたロシャ軍の機関紙『関東報』に掲げられ たる第三十六号命令に、次のような意味のものがあった。 てから、この女少尉は別に一室を与えられた。 それはマカラが眼でみたことだが、聞いた話も二つばかわれわれは血の最後の一滴まで防戦す、敵に降り捕虜とな り書いている。或るとき一人の年少なロシャ兵が捕虜となるが如きは思いも寄らぬことなり、日本兵が戦死を捕虜た り、日本へ送られて上陸のとき、検疫の入浴場へはいりたるより勝れりとするは、彼等が勝利を得たるとき、相手国 がらないので、日本兵がジレて強制的に入浴させようとすのものは赤十字の者たると、老幼男女たるとを問わず、鏖 さっ ると、その少年兵が、「あたし女なのよ」と初めて打明け殺する悪癖をもっ故に、彼等は相手国も同様ならんと独断 こ。又、或るロシャの貴婦人は、愛人が捕虜となり日本のし、捕虜となりて殺さるるを恐怖するのあまり、その以前 松山にいると知って、わざわざ、冬営中の日本軍に投降しに戦死を欲するに過ぎず、彼等が行なえる慘虐の実例は、 た。後の方のことは前にある、毛皮の女性のことかも知れ一八九五年旅順占領の時に顕著なり、又かくの如き彼等な れば常にわが衛生部員すら射撃し我が負傷者を殺せり、そ れらの実例は九月二十二日シグナリヤ山を一時彼等が占領 マカラは次のようなことも云っている。 「露軍では特志看護婦などの、戦線近くに出入するを許ししたる時にもありたり、というのである。一八九五年の例 た、それらの中には、愛人の後を追わんが為め、特志看護といっているのは、明治二十七、八年戦争に山路元治将軍 の兵が旅順を占領したときのことで、前にもいったが、敗 婦となって、戦地に来たものが大多数だった」 「露軍中には女性にして男装し、良人又は愛人と共に、戦兵の潜むを掃蕩したのである。だが、第三十六号命令のい うことを否とするものがロシャにもあった、イム・イ・コ の場を駆け廻わるものもあった」 ステンコ陸軍少将という旅順籠城の一勇将もその一人だ、 本 ◇ 志 後に旅順戦争の回顧記を著わし、その邦訳を『屍山血河』 捕ここでしばらく又、旅順開城を中心に、その前後に生じ ( 樋口石城陸軍教授訳、明治四十四年刊、東京海文社本 ) という。 日た、日本軍と帝政ロシャ軍との捕虜とそれに関連することコステンコ少将は十年前の旅順の流血について、「その虐 殺は清国兵が自ら招きたるものなること、人々の明らかに を語ろうとする。 たけなわ 旅順攻防の戦い酣で、日本軍の攻撃が失敗をくり返し知るところなり、彼等は旅順に退却する途中に於て、日本 おう

6. 長谷川伸全集〈第9巻〉

たくしどもの全く耳にしないことについて尋ねました。 子に邂逅して後、間もなくこの地のイギリス軍の司令部に たのんで、広い地域にわたって残存している日本軍に、通「ジュロンの収容所にいる日本人諸君が、あるイギリス人 に不満をもっているそうですね、そういう話を聞いていま 訳二木忠亮の生死を問い合してもらいました。 それにはアメリカ軍の力を借り、豪州軍や和蘭軍の助力すか」 も求めました。がしかし、一向にわかりません。既に日本「聞いていません」 へ帰還した隊の中にいたのではないかと更めてまた、帰還「私も確実には知らないのですから、今の話は取消します 者名簿を調査してもらいましたが、二木忠亮の名はどこにす」 もないのです。ここまで行くのに長い時日がかかり、愉快重雨季は十一月末ごろから翌年の一月、または二月まで じゅううき けいかんき な気候の軽乾季が去り、荒風と雨とに悩まされる重雨季がなので、わたくしどもは一九四六年の一月を、有難くない やってきてしまいました。この季節のうちは帰還船がはい季節に迎えました。 ってきません。 二木忠亮の消息はカンニング博士と夫人とが、あの日以 そのころ、グリーン博士は任務の一切が解かれて、民間来ずうっと引き続いて熱心に、諸外国に駐屯の国連軍のそ 人となっていました。かって皆さんの前途を見届けてかられぞれに、探し求めて貰っていますが、知れざるままに二 月には、りました。 ロンドンへ帰りますといった、その実行のためシンガポー に滞在しているので、キング・エドワード七世医科大学凄じい雨が過ぎて行った後で、そうしたことのないカン ニング所長が広い回廊へ飛んで出て、大声で人を呼んでい に、わたくしどもを訪ねてくれること度々でした。 あるとき、わたくしどもに、帰還の時期を教えにきてくました。二月中旬であったと思います。 れました。 「カナコ、だれかカナコを呼んできてくれ」 ューラシアン ( 欧亜混血 ) の給仕が、二木可南子を呼びに 「この好ましくない季節が去ると、皆さんの帰還に、私が 志祝福の手を振る時がきますよ」 駈けて行きました。 捕「この雨季が終ったらといいますと」 可南子が回廊の彼方に姿をみせると、カンニング博士は 日「そう、一九四六年の三月でしようか。あなた方がいう、急げと身振りで命じました。 「カナコ、お父さまは生きていたよ。妻から電話で知らせ 桜の花咲くころあなた方はお国へ着くでしようね」 言が刎のものに移って、暫くするとグリーン博士は、わてきた。グリーン博士も電話で知らせてくれた。妻もグリ

7. 長谷川伸全集〈第9巻〉

ゅうべの雪が漸くやんだ朝、二龍山砲台から砲台直前の となっている。 その封筒の中の一通のロシャ文には、「わが母に次の電日本軍のつくっている外壕へ、何やら投げこんだものがあ めのきれ 報の発送方を包囲軍将校に懇願す、その費用として金貨十る、日本の五円紙幣二枚を小石と共に、赤い布片に包んで 留を添えたり」とあった、電報文は「予 ( 壮健ナリ、露暦あった。どういう意味か解しかねるので、杉山工九大隊長 は命じて、二龍山の敵中に、問合せの手紙に小石を付けて 十一月二十六日、ペートル発、露西亜クリミャ・ケルチェ ンナ・プルガコウオイ宛」というのであった。これを見て投げこませた。ほどなく敵から返書が外壕へ投げこまれ た、その文意は、「過日は電報発送に尺、カせられ、厚意を 中央縦隊司令官はじめ、居合せた人々は感歎し、母を思う こと深きロシャ人の志を遂げさせたいと、副官をすぐ軍司深く感謝す、故国の母は、日本人の有情を喜びしならん、 令部にやって、電報発信の許可と手続とを乞うた。軍司令投げ返したる日本紙幣は、過日、わが砲台に突入をはかり 部は二言といわず許可し、命じて発信手続を直ちにさせて戦死したる、貴軍の一兵士の衣嚢の裡にありしもの、我 にありては必要なし、故に返送せり」だった 戦後、陸軍の教育総監部が「忠勇美談』を編むとき、エ 中央縦隊は ( 工兵第九大隊がであるだろう ) 、一一龍山砲台に ロシャ文の返書を投げこませた、「君の電報は、本日特に兵第九大隊は大体おなじこのことを文書にして提出した、 ートルは二等大尉にして、当時二龍山砲台長な 使いを営口に遣わし打電させた、電報は営口から上海を経それにはペ りきとある。 て、君の母君の手にやがて達するならん、料金は不足なり しかど、我等は君の母を想う至情に打たれ、個人として喜 ◇ んで不足分を補い置きたり、君よ心を安ぜよ。十二月十日 攻囲軍将校」という、その日のうちの返辞だった。この電年更って一月二日 ( 明治三十八年 ) の晴れわたった午後零 ートルが投げて寄越したのは十時四十分ごろ、馬乗の志賀重昻は、水師営南方十二、三町 報料は二十七円だった、ペ 留で、換算すると十円五十銭に当る、彼に対しては姓名をの処で、馬を坂上の右側の小高いところに立てた。人々が 名乗らず、ただ単に攻囲軍将校という人々が支払った電報敵の軍使がくるというので、それならばよく見たいと思っ てそうしたのだった。志賀はそのことを『旅順攻囲軍』に 料金の補足は、十六円五十銭だった。 神保祖竹の戦場通信は中三日たった、十四日の後日談を書いている、「先ず我が一伝騎が長さ三尺ばかりの白旗を 押し立て、その後に山岡参謀 ( 注山岡熊治中佐 ) が騎し、 語っている。 なか のう

8. 長谷川伸全集〈第9巻〉

戦病院にいた。ここまで来るうちに、付添いのロシャ兵が本へ行くことが当然であるように主張し、参謀を手固摺ら 1 日本兵に狙撃され、困っているところへ中国人が来て、そした。結局、この女性は第四軍司令部に送られ、更に満州 の案内でここを知って来たのだといい、次の如き投降の事軍総司令部に送られ、そのどこでも日本へ送ってやる余地 ニュウチャン チウアウ はないといって、総司令部の手で牛荘に送り芝罘に送ら 情を語った。私は赤十字女性であるから、敵とか味方とか いう考え方をもたない、希望するところは日本軍の中にあれ、仏蘭西領事に託してロシャへ帰らした。 英国人の新聞記者で、日本に来て『アドバタイザー』紙 って、ロシャ人の負傷者の看護をしたいのだ、ロシャ人の にあったフランシス・マカラは、後に旅順に行き、ロシャ 言語と習慣とを知らぬ日本人の中に、一人のロシャ女性が いることは、彼等を安心させるであろうから、熟考のうえの機関紙『関東報』の英文欄主任となり、旅順を脱出して ミスチェンコ将軍のコサック隊に従軍し、奉天の役の直 この挙に出たのであるというのである。なかなか雄弁だ 後、多くのロシャ将兵と共に日本軍に収容された。この人 がアメリカの新聞に通信した物を一本に纒め『 w 享】 e 日本の中隊長は彼の女に、非戦闘員を日本軍は捕虜にし コザック ない、まして女性では尚更で、とても出来ない相談だからといった、それを邦訳して『胡朔隊従軍記』 ( 明 、又、別な邦訳 病院へ早く戻った方がいいと勧めた。彼の女は承知せず、治四十五年刊、陸軍大学将校集会所本 ) とい 私の兄はモイセイ・ベトロウィッチ・カロリといって騎兵を『コサック奮闘録』 ( 土岐松也中尉訳、大正五年初刊、昭和四 少尉で、従兄はルべーツといって歩兵中尉、二人とも六月年再刊、戦記名著刊行会本 ) という、これにもロシャの女性が の戦いで捕虜となりーー六月の戦いとは得利寺の役のこと捕虜になったことが出ている、無論、毛皮の外套のロシャ 日本へ送られたと聞く、願わくば私を日本へ送り、女性とは別なことである。奉天会戦の後だから、毛皮の女 兄と従兄の看護をさせて欲しいといい出した。たぶんこの性のことがあった翌年の春、ロシャ側に従軍のマカラ記者 が、ロシャの多数の捕虜将校と一緒に送られて行く、その 女性は日本へ渡ることを、初めから希望して投降したのだ ろうが、日本という国は、そういう申出でには頑固なとこ中に二十五、六歳の女性があった、彼の女は頭髪をロシャ 将校らしく短く苅り、完全にロシャ少尉の服装を着け、態 ろがある、とても相談が成立つべき余地はない。 この女性はやがてして師団司令部に送られた、そこでも度も本物の少尉の如く、何物かを日本軍に求めるとき、明 白に命令の形式を必ずとった、その声だけはすっかり女性 師団参謀を相手に、日本へ行きたいと力説した、参謀はい だった。日本軍のものは男装の女少尉を見世物にしなかっ ろいろ云って宥めたが、彼の女は断じて応じない、果は日

9. 長谷川伸全集〈第9巻〉

108 の死体を検して彼我を区分し、めいめいその姓名を審かを手招きした、と見てロシャの一等大尉以下二十四、五名 かたこと に記し、又めいめい死屍の頭髪及び遺品を収め、それぞれがやって来て、こっちは日本酒、先方はウォッカで、片言 その姓名を書し、各人毎に明確なる区分を定め、以って遺の中国語と日本語の他は手真似身振りで、地上に胡座の宴 族に対する後送の手続を講ぜり、而して整理を終われる各会を開いた。その光景を大竹の著わした、『剣と筆』 ( 大竹 遺骸は悉く火葬に附し、これ亦その遺骨を蒐収して、毛髪末吉、明治四十五年刊、東京正文堂本 ) から引こう。 と共に郷里に還送するに努めたり、独り、我が軍の戦死者「わずか二、三瓶の酒を献酬して居る間に、十年の知己の かくの如き鄭重なる処置を採れるのみならず、我ように親しくなった、どうしても昨日まで睨合いをして、 が戦場掃除隊は敵軍の戦死者に対しても、ほば同様の方法弾丸の交換をしたものとは思えぬ、一見旧知の如しとはこ を講ぜり、ただ宗教上の関係を顧慮し、露軍の死屍はこれの事であろう。予がこの露兵との握手は、右翼軍中に於け を、所在の畑地に埋没して、火葬を避けしを異なりとす。 るイの一番でもあった」 かくの如くしてその忠魂を慰め、且っ戦場に於ける野大の 富山市の従軍記者は、きのうまでの敵の善き人間振りを 跳梁に備え、衛生上の危険を予防せり」 「称するに余りあり」といった、志賀重昻は「旅順ロの今 これは首山堡で戦った歩兵第三十四聯隊 ( 静岡 ) の第八中日は、人も我も総て想像以外である」と、彼等が善き人間 隊の中尉が、後に著述した『日露戦争の回顧』 ( 広瀬毅中であることを云った、応召の少尉は「顔の赤らむ思いし 将、昭和九年刊、偕行社本 ) から引いた。新戦場の死体始末て」と、彼等の心意気を見上げたものと云った。そしてこ にあたり、日本軍がどう敵の死体を扱かったかが、これでこでも又、応召の歩兵曹長が、きのうの敵を十年の知己の 判る。 如くといっているのである。だが、大竹曹長はこれより 後、旅順から艱苦のひどい、有名な北進行軍の乃木軍に加 ◇ わり、奉天の大会戦に駈けつけ、奉天の北にある田義屯 七カ月の惨烈な旅順攻囲戦に生残り、開城となって敵対で、敵の退路を衝こうとして待っ後備第一旅団の中にあ 行為が禁止されたのが一月二日 ( 明治三十八年 ) 、その翌三り、大敵こ、 ) ーカえって衝き伏せられ、惨敗して傷つき敵手 日の朝のことである。後備歩兵第十六聯隊 ( 新発田 ) の大竹に落ちるという、悲境に陥ったのだった。 末吉曹長は、三人の兵隊と日本酒三壜をもって、自分たち それは三月九日のこと、六、七倍の敵が潰走して来たの のいる壕の前方三百米に出てゆき、きのうの敵のロシャ兵と大竹等の隊とが合戦となった。敵は潰走中といえ秩序を つまびら

10. 長谷川伸全集〈第9巻〉

の捕虜を虐殺したる為め、日本兵も老若男女を問わず、虐療のため収容中の敵に、汝は異郷にありて捕虜となり、不 1 殺を以って酬いたるなり」と、その本に書き日本軍の報復幸はわれらに倍している、故にかくは遇するのであると、 であったといっている、しかし、コステンコ少将がこ、フい 砂糖、牛乳、紙巻煙草を与え、深切をつくして慰めたと引 ったのは、その時の敵軍を弁護するためではなくて、云わ例し、旅順籠城軍の最高幹部等が出す命令に、虚妄や臆断 んとするところが別にあるからだった。次に又、日本軍が があるという自説を強める役に立てている。断わるまでも ロシャの衛生部員を射撃したことにも及んで、このことであるまいが、以上は少将の回顧記の中では、枝葉末節的の は、一砲台の指揮官ウィリヤミノフ大尉の説。 こ同意せざるものに過ぎない、その主題は軍事経済から人事に及び、用 を得ない。同大尉の説では、日本の衛生部員は全身白衣を兵も策戦も、多くのことが失敗だらけだった、その追究を 着用し、遠くより明らかなるに反し、ロシャの衛生部員はやったものである。ここでは捕虜に関することが必要だっ 腕章をつけただけで、遠くからは判りかねる、そうして日 た、だからコステンコ少将の主眼とするところを第二義以 本兵は赤十字旗を認めれば射撃を直ちにやめる、負傷者収下にせざるを得ない。 容のときでも、終って後、ロシャ側から射撃をしないと、 ◇ 日本兵は自分達の射撃を回復しないという、この説を少将 は支持し、第三十六号命令は、誤謬か虚偽かだという風な旅順籠城のロシャ軍に捕われた、弁髪の清国人らしい一 しい方をしている、つまり反対意見を抱いているのだっ 青年があった、彼はロシャ兵の目の前で、隠し持っていた た。少将はいっている。戦場でロシャ兵の負傷者は、日拳銃をとり落し、ために捕えられたのである。その青年は 本軍によって丁寧に繃帯されるのを実見した者がある、こ所持品の中に、軍事探偵である証拠となる物をもってい れ日本人が負傷者に対し慈愛の心をもっている証拠であるた。日本陸軍の通訳吉崎と名乗った彼は、一夜の後に銃殺 といい、続いて更に、負傷して捕虜となった日本人が、銃されることに決定した。 殺されるのではなく傷の治療がされるのだと聞くと、今ま吉崎通訳を捕えた兵は、アリポリホウィッチ中尉の部下 での態度が一変し、絶食によって饑餓死をはかった者までだった。中尉は彼が死に処せられる前、獄中に訪うたとこ が快活な話好きとなっている、現在の事実がある、ロシャろ、彼は仏蘭西語でいった、中尉よ、もし好意が予に寄せ 兵が傷つき倒れている敵に、水を飲ませパンを与えたとい られるのであったら、埋葬される我が上に、失敗したる日 う感動すべき事実も聞いた、われわれの病院では、負傷治本軍人の墓と銘記したる墓標をたてられたし、と。